推薦図書
- アリュージョニスト以外のネタバレに注意
- サイバーカラテを実践しよう (知ってる作品があったら、説明を追記しよう)
- 最下部のコメントボックスで作品紹介を書き込むと、誰かが追加してくれるかもしれません
- 多分図書じゃなくてもいいと思うよ
- 参照と類似は呪力です。高めよう。
- ほんの少しでも推薦図書に見えたのならそれが推薦図書です(邪視)。追加しましょう。五十音順に並んでいます。
- 編集カラテ入門
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*** タイトル
-説明1
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- 推薦図書
- 思想
- ロボット/人工知能/サイボーグ関連
- 生まれながらのサイボーグ アンディ・クラーク
- 心とからだの倫理学 エンハンスメントから考える 佐藤岳詩
- 人工知能時代を〈善く生きる〉技術 堀内進之介
- 知の創発 ロボットは智恵を獲得できるか 伊藤宏司
- 東大教授が挑むAIに「善悪の判断」を教える方法 「人を殺してはいけない」は”いつも正しい”か? 鄭 雄一
- 人間は「心が折れる」からこそ価値がある 人工知能時代に成功する人の考え方 苫米地英人
- ヒトと機械のあいだ 廣瀬通孝
- 人と機械の共生のデザイン 稲垣敏之
- 複合科学的身体論 ニ一世紀の新たなヒューマン・インターフェイスを求めて 石塚正英
- 未来技術の倫理 人工知能・ロボット・サイボーグ 河島茂生
- 未来のモノのデザイン ドナルド・A・ノーマン
- <弱いロボット>の思考 岡田美智男
- ロボットが家にやってきたら… 人間とAIの未来 遠藤薫
- ロボットとの付き合い方、おしえます。 瀬名秀明
- 狭義の呪術関連
- あ行
- アイロニカルな共感 前田雅之
- 悪という希望 宮台真司:監修 現代位相研究所:編
- 遊びと人間 ロジェ・カイヨワ
- アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 吉田徹
- 網野善彦著作集第十二巻(岩波書店)
- あらゆる小説は模倣である 清水良典
- 怒りの時代 世界を覆い続ける憤怒の近現代史 パンカジ・ミシュラ
- 怒りの人類史 ブッダからツイッターまで バーバラ・H・ローゼンワイン
- 怒りの哲学 正しい「怒り」は存在するか 著:アグネス・カラードほか
- 生きることの意味を問う哲学 森岡正博対談集
- 生きることを考えるための24問 小浜逸郎
- 生きるための経済学 安富歩
- 生き延びるための思想 新板 上野千鶴子
- 「生きるに値しない命」とは誰のことか カール=ビンディング アルフレート=ホッヘ
- 意識する心―脳と精神の根本理論を求めて デイヴィッド・チャーマーズ
- 依存的な理性的動物 ヒトにはなぜ徳が必要か アラスデア・マッキンタイア
- 異端の時代 森本あんり
- いのちはなぜ大切なのか 小沢竹俊
- 衣服は肉体に何を与えたか 北山晴一
- いまを生きるための教室シリーズ 角川文庫編集部
- 意味と他者性 大澤真幸
- イメージの記憶(かげ) 危機のしるし 田中純
- 医療倫理 よりよい決定のための事例分析 グレゴリー・E・ペンス
- 陰謀論の正体 田中聡
- 映画を見る歴史の天使 あるいはベンヤミンのメディアと神学 山口裕之
- 映像文化の社会学 長谷正人
- 越境者が読んだ近代日本文学 鶴田欣也
- 美味しい料理の哲学 廣瀬純
- 老いと踊り 編著:中島那奈子 外山紀久子
- お金より名誉のモチベーション論 太田肇
- オタ文化からサブカルへ ナラティヴへ誘うキャラクター アライ=ヒロユキ
- ロボット/人工知能/サイボーグ関連
- コメント
思想
ロボット/人工知能/サイボーグ関連
生まれながらのサイボーグ アンディ・クラーク
- 肉体を改造するまでもなく、わたしたち人間は、既にサイボーグと呼べる存在だと主張する本
- 脳の【杖】的な側面、身体性認知科学の話。
- 脳は、その高い可塑性によって、テクノロジーや文化を自己の身体や自己の一部として取り込んでいく性質を持っている。
- 著者は、問いかける
- 「どうして、パソコンや携帯電話が壊れると、人はこれほど痛みを感じるのだろうか?」
- 人間の思考は、物質的な脳、物質的な身体、そして複雑な文化的・技術的環境の間のループする相互作用から生じているのだ
- テクノロジーを媒介とした世界との関係は「脱身体化」というより「変容・拡張した身体化」である
→第四章の包摂(サブサンプション)アーキテクチャ - 身体性は人間にとって不可欠だが、融通が利くのである
- ルンバのようなロボットなどについて書かれた『現れる存在』も、著者の「脳の捉え方」を把握するのに役立つ
電子化×
心とからだの倫理学 エンハンスメントから考える 佐藤岳詩
- メタ倫理学の専門家が、科学による心身への介入(侵襲的技術)の是非について考えている新書(2021年)
- それぞれ技術史をまとめて細かく論点と対立意見を並べ、最後に著者がまとめる形式
- その丁寧な構成が良い
- 題材も、美容手術から道徳的能力の向上(モラルエンハンスメント)まで、身近な観点から問題を考えられるようになっているのも、また良い
- サイボーグから感情制御、遺伝子操作や不老不死とア関連の話も多い
→ルッキズム、『脳髄洗い』(道徳的・社会的洗脳)、サイバーカラテ、ヴァージルの王権『健康』 - ただ、3つほど問題点もある
- まず、「倫理学の重要的な考え方」が時折挟み込まれるのは良いのだが、
- それが1つにまとまっていないため、一覧性がない
- また、著者によるまとめは基本的に穏当で思索の継続を推奨するものではあるが、
- 当然、彼の思想への誘導がある
- 特に、性別変更の話はもはや完全に、著者のトランスジェンダー擁護論となっていたりする
- 読者に対し、トランスジェンダーについてきちんと理解を深めさせることで擁護したいというのは、分からなくもない
- だが、トランスジェンダー問題で最大にして(女性間ではほぼ唯一の)論点である「女性スペース(トイレ・入浴)」の話を、
- 最後にまわしてあまり紙幅を割かないうえに、批判側を非難するような論に持ち込むのは、いただけない
- しかも、「なりすまし」や逮捕された性犯罪者、「思い込みで手術をしたことの悪影響」などの事例については一切触れていないのも、また意図的なものを感じさせる
- これでは「ひいきの引き倒し」であり、批判意見を持つ読者に対し悪印象を与えるおそれすらあるだろう
- そしてそもそも、著者は倫理学の原則としてカントの定言命法のような「倫理は普遍的なルールであるべき」という考えを提示しているのだが、
- これが、左派的な「マジョリティがマイノリティや個々人の多様性に配慮すべきだ」というイデオロギーと、衝突して一貫性がなくなっているのがまた問題だ
- 多様な個々人に合わせるというのは、結局は、その場しのぎの行き当たりばったりでしかない
- それは、実際の対応が末端の対応する人間しだいになってしまう、危険かつ負担が大きい方針だ
- 「高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に」などというのは、普遍的なルールではあり得ない
- ただの、思考放棄の無責任である
- 他にも、マジョリティ(多数派)へのマイノリティ(少数派)の受け入れを求めるあまり、
- マイノリティ自身を「マイノリティを受け入れるマジョリティ集団」の中に含めていない(マイノリティ側がこれからどう共生していくか/そのために何ができるか考えない)傾向があるのも、いただけない
- 「マジョリティ」が自分たち(マイノリティ)以外の「顔のない民衆」でしかなく、
- マイノリティの要求に(無限の善意で)応えられる余裕があるものと定義するのは、非現実的な想定でしかない
- マイノリティを「道徳をかかげてひたすら庇護を求めるだけの哀れな被害者」とするような論法は、分断と対立を深め、
- マイノリティを「お客様(ゲスト)」の位置に固定するだけになってしまう悪しき思考パターンであろう
- それは、問題を強化・再生産するだけに終わってしまう可能性がある
- アイデンティティ政治を、そのまま少数派の「プロ市民(政治活動家)」の確立・問題構造の固定をするだけの「政治産業」につなげてしまうような思想は、否定すべきである
- まず、「倫理学の重要的な考え方」が時折挟み込まれるのは良いのだが、
- とはいえ、これが読みやすく分かりやすい本であるのもまた確かであり、
- (問題点にだけ注意すれば)基本的には、おすすめ出来る内容であると言って良いだろう
- 抜粋・一部要約
- 個人の選択は社会の選択を支えており、社会の選択に個人の選択は影響されます
- その意味で両者を完全に切り離すことができません
→選択の全責任を個人に帰することの問題、サイバーカラテ道場の課題?
- その意味で両者を完全に切り離すことができません
- 改造は社会変革をあきらめさせる方向へ働く可能性も
- また、改造自体が目的になったら、それなしでは生きられなくなってしまう
- 効率を求める市場の原理と自己責任論は、際限ないエンハンスメントの泥沼を生み出し、新たな優生思想となってしまうかもしれない
- 美容整形などの心身のコントロール欲が暴走すれば、どこまでいっても満足できなくなってしまい、結局は不満に満ちた人生しか残らないかも
→サイバーカラテやトリシューラのガロアンディアンが、優生思想行き着いてしまう危険性?
- 美容整形などの心身のコントロール欲が暴走すれば、どこまでいっても満足できなくなってしまい、結局は不満に満ちた人生しか残らないかも
- 人々がおおらかな気持ちで効率に縛られずのびのびと暮らし、お互いの失敗を補い合い、
- 自他のコントロールできないものを受け入れられるような、そういう社会であれば、
- より良い方向でのエンハンスメントを期待できるかも
→『地下』的な福祉価値観?
- 逆に、競争や現状に満足しない向上心が、社会を改善させてきたという意見も
- 向上は、個人の幸福にもつながっている
→『地上』的な価値観
- 向上は、個人の幸福にもつながっている
- 両極を避けたバランスが、必要なのではないでしょうか?
- 機械化の前後、心と体の変化を一本の線で繋げられたら、それを私と言えるのでは?
- 選択が不可避的に持ってしまう、「比較」の特性
- 選択することで、されなかったものをもつ者は自己を否定されたように、した者は選択しなかったものを見下すように感じてしまう
→分断と対立の原因のひとつ?その根源?
- 選択することで、されなかったものをもつ者は自己を否定されたように、した者は選択しなかったものを見下すように感じてしまう
- 第三の視点、多様性の肯定と承認が、その対立の発生を解消する
- みんなちがってみんな幸せなら、比較して自分を貶めたり、見下したりはしないはず
- 無関心な寛容ではなく、ともに幸福を目指せるようにお互いを認め合うこと
- それをスタート地点においた社会を目指すことを諦めないでほしい
- どうか、一緒に考えてみてもらえればと思います
電子化◯
- 個人の選択は社会の選択を支えており、社会の選択に個人の選択は影響されます
人工知能時代を〈善く生きる〉技術 堀内進之介
- 「あたらしい技術」が進化するほど私たちが疲弊させられるのは、「つながりっぱなし」のあり方と「人的資本」としての価値を高めるために「絶え間ないアップデート」をすべしという強迫観念のため
- 進化する技術に乗り遅れることは個人の努力不足と見なされ、それは自己責任なのだから競争社会から脱落しても仕方がない、と片付けられてしまう
- 人間中心の技術観をやめ、技術のあり方を、身体拡張(常時接続による複数タスクの同時的な処理技術)から環境拡張(タスクを時空間的に適切に再配分)へと転換するべし
- 「amazon go」のような環境に出たり入ったりすることで、自分が好きなときにオンオフを選べるようにすれば、強い意志の力がなくても、技術への依存状態から抜け出すことができる
- ビッグデータによる「欲しいもの」の予測は、マターナリズム経由の共依存関係「私の言うことを聞けばいいのよ」という善意による支配になりやすい
→ルウテト?トリシューラの「私はアキラくんのママじゃないよ」? - 共依存の問題は、自分と他人の境界線が消えてしまうこと
→トライデント? - つまるところ「技術をどのように利用/活用するか」という問いの答えは、「いかに生きたいのか」という問いにも答えるものでなければならない
- 私たちには技術との関係の中で、技術とうまく付き合っていける「主体」を発明することが必要なのだ
- 「人間とは、人間であることをやめたがっている存在だ」
→シナモリアキラ - 「技術による解放論」私たちをより怠惰にする技術ではなく、もう少しだけ利口にする技術を求めるべきだという論
- 現代では全知全能の神という「外側」ではなく、人間にできてロボットやAIができないことは何か、と対比することを通して、私たちは人間を理解しようとしているのだ
- 「もっと人間性を大事にしよう」と、人間の価値を強調すればするほど、人間性を獲得しようとするAIの価値もまた高められ、人間とAIの区別がつけられなくなるということだ
→トリシューラとアキラくんの関係?
電子化◯
知の創発 ロボットは智恵を獲得できるか 伊藤宏司
- 発刊が2000年と古いが、ボトムアップで統一した機能を発揮するシステムについて色々載っていて、分かりやすい本
- 小型のロボットが寄り集まって知性的な振る舞いをする「群知能」や、それらが環境の変化への柔軟な対応が出来るようなるための研究もある
- 化学の重合反応を模擬した「重合型創発」
- それが発生するためには(これから結びつく)それぞれの物に、最低二本以上の他と結びつくための「手」が必要
- (王子にシンデレラのための手しか存在せず)王子とシンデレラだけしか結びつかないのでは、単なるハッピーエンドで終わってしまう
- だが、そこに不倫相手(と結びつくための余った手)が加われば、新しい物語が始まる
→魔女二人と手をつなぐ使い魔、シナモリ・アキラ
→まあ、不倫相手を見つけるのは、王子ではなくシンデレラの方かもしれない。
→というか、トリシューラとコルセスカには、もう既に、他の人のために使える手がたくさんあるし
東大教授が挑むAIに「善悪の判断」を教える方法 「人を殺してはいけない」は”いつも正しい”か? 鄭 雄一
- 共通の掟を持つものを仲間とみなすようにすることで、ロボットと人が共生できる社会が来るとしている本
- 「仲間らしくせよ」=「共通の掟」を持つ者だけは殺してはならないというルールで「仲間」概念を拡張することによって、来たるべき多様性社会成立の基盤を作ることが出来るとしている
- そうしたルールだけでは、「共通の掟」が絶対視されることによる弊害やそれを共有しない者の排除・個別の掟での対立については対処できないが、それらの欠陥についての言及は無い
- と言うのも、著者は道徳=欲の最高段階を「多様性社会を作りオープンイノベーションをおこすこと」だとしているので、その欲を持ってしても折り合えない他者というものは、排除すべき「絶対悪」でしかないと判断しているためだと思われる
- それでも、道徳思想の整理など論理はとても分かりやすくて、思考を発展させていく「たたき台」としてはとても良い本なので、読んで損はしないと思う
- また「言葉は文化=(共通の思考・行動様式)を伝達し、バーチャルな仲間を成立させる」としているあたり、アとかなり親和性がある本でもある
人間は「心が折れる」からこそ価値がある 人工知能時代に成功する人の考え方 苫米地英人
- 人間が持つ「情動」を称賛し、それは人工知能に搭載すべき優れた能力であるとしている本
- それ以上でも以下でもないが、嬉しさや楽しさがもたらす高付加価値、論理を超えたショート・サーキットとしての恐怖、あいまいな情報でも瞬時に結論を出せる情動の優秀さなどは、確かに忘れてはならない重要な点だと思われる
- 人工知能が非合理の判断ができなければ、人間世界とは乖離した結論しか出せなくなる
- 「疲れる」という論理や、人間の「疲れ」に共感できるミラーニューロン的な機能も、人工知能には必要
- 機械が自分で書き換えることが出来ないプログラム「プリンシプル」(原則)も必要
- 機械の暴走を恐れる人もいるが、プリンシプルを平和的な専守防衛にしておけば大丈夫
ヒトと機械のあいだ 廣瀬通孝
- 機械化は、人間のなすべきことを減ずるために実施するのではなく、より高いレベルの活動を行うためになされなければならない
- その哲学無しの導入は、我々を幸せにしないであろう
- 我々が機械に歩み寄るということと、我々の行動パターンが機械的になるということも混同してはならない
- 逆に「ヒューマン」も単に「良い価値」と断することは出来ない
- ヒトの不得意な部分を機械が肩代わりする「能力拡張型」の機械には、ヒトと機械の違いを翻訳する技術=ヒューマンインターフェースが必要
- 機械による感覚へのアシストは、人体が持つ適応能力・ブリコラージュな補完能力に、機械が適応する必要がある(意訳)
- 特に、ノイマン型コンピューターは、人間の脳とアーキテクチャが全く違うため、より馴染むコンピューターを開発する必要がある
- (リアルタイム描画の立体)映像とロボットは、実は連続的な存在であり、ディスプレイという意味においては全く一緒
- パラレル・リアリティ論:リアルとバーチャルの距離が縮まり、リアルが多数の世界の中のひとつに
人と機械の共生のデザイン 稲垣敏之
- 人と高度技術システムのミスマッチを解決するため、人間中心の自動化を提案する本
- 人と機械が、互いの長所を伸ばしながら能力不足を補いあうことによって1+1=3を実現するシステムを模索している
- 航空機の自動操縦など、取り上げられている自動化の例は、豊富で具体的
- 機械へ依存すること自体は、間違っていない
- 機械の機能以上の事を要求する「過度の依存」が間違っている
複合科学的身体論 ニ一世紀の新たなヒューマン・インターフェイスを求めて 石塚正英
- 西洋における身体論の歴史を振り返りながら、人間と機械のヒューマン・インターフェイスについて考えるエッセイ
- 革新的な結論などは無いが、死者や相手を想定できないコミュニケーションやミームにも触れているところは、評価できる
- 最終的に、機械や建築物を上手く機能させるために必要な「あそび/ゆとり」(冗長性)に話を持ってきているのも面白い
- 相手を想定できないコミュニケーションとは(アルキメデスの「ユーリカ」のように)自己の存在の確定とか確証にかかわる言葉である
- 相手を想定も特定もしない、身体外にほとばしりでた自己の魂なのである
- 会話ではなく沈黙によって人に何かを伝えるということ
- かつて人々は、手紙を通じて黙読のみで他者に真意を伝えていた
- 言葉を発したのでは、むしろ消え去ってしまいそうな、失われてしまいそうなもの、それを相手に伝えるという形式を、手紙は持っていた
- あるいはまた手紙は、何かしら相手を想定できないものを表現しうる言葉を持っていたとも言える
- そうした手紙に相当する身近なものが、身体である
- その際、手紙における「黙読」に当たる事態は、身体では実存」ということであり、自己を生きるとともに他者を生きるという内実を持つ
- 人間身体が遺伝子や原子のレベルで考察されるようになった現状は、身体の格下げではなく、魂と身体の二元論の根本的な止揚である
- テクノスジャパン、脳波や生体信号を利用したスイッチMCTOS、
- 以心伝心は解消されるのでなく、ここにAI化される
- フォイエルバッハ:信仰するということは、神を人間にし同時に人間を神にすることを意味する。
- 信仰の対象は、単に誘因・手段・形象・記号・寓話にすぎない。
- 教説・生み・事象であるのは私自身である
- 神は人間の食べ物である「ルターの意味での信仰の本質」稲村出版・船山信一役「フォイエルバッハ全集」15巻
電子化×
未来技術の倫理 人工知能・ロボット・サイボーグ 河島茂生
- 最先端技術が組み込まれた社会における、倫理の本質を考察している本
- 新聞記事数による社会的関心から、AIやサイボーグの思想史、そしてオートポイエーシスを絡めた自律・他律の問題と
- 歴史的な経緯を追いながら、技術に関連する倫理を論じている
- 学術書系の本だが、説明が丁寧なうえにまとめの章もあるため、比較的読みやすい
- 著者は、大学院で西垣通ゼミに所属していただけあって、ネオ・サイバネティックスなどに一家言あるタイプ
- そのため、オートポイエーシス(自己制作するシステム=自分で自分を創造し続ける)やその真逆である、外部から操作される「アロポイエーシス」の概念の扱いについて危機感を抱いている
- 端的に言って(現時点の)AIに人権を付与することや、サイボーグの運用については否定的である
- 著者が特に問題視するのは、人間と機械を同じ線分上で連続的に位置づける議論
- オートポイエーシス・システムである人間が、アロポイエーシスとして扱われてしまうことで、その尊厳や命を毀損されてまうことを恐れているようだ
- つまり、人間が機械と同一視されて使い捨てられることや、侵襲機器を組み込まれたサイボーグが、営利企業によってその性質を悪用されること、
- ノージックの「経験機械」を思わせるような、機械を媒介した感覚の欺瞞によって心理を操作・支配されてしまう可能性があることこそが、問題なのである
- すでにレコメンド広告などによって、営利企業が人々に干渉をしていることを思えば、その危惧は看過出来ないものであろう
- サイボーグの維持管理は、確実にその整備や販売を行う営利企業の手によって、握られることになる
- ゆえに、そこには確実にその企業の利害が絡んでくるであろうから
→シナモリアキラ『鬼』など
- 同時に筆者は、サイボーグ化が人間身体を計算可能・制御可能なものとして扱うことで、いわばその「唯一無二」性を零落させてしまうと考えており、
- そうした技術発展の方向性を、強く否定してもいる
→『鮮血呪』など『杖』
- そうした技術発展の方向性を、強く否定してもいる
- また筆者は、人間の自由意志は、人体を制御する無数の生物学的自律性の一つでしかないとしており、
- ネットの「炎上」にも〈社会-技術〉システムの一部として言及しているところが興味深い
- わたしたちは集合的にいえば多元的現実すなわち複数の現実に生きているのであって、一人ひとり固有の現実に生きている
- したがって、人間を「役立つ/役立たない」の尺度だけでみるべきではないし、たとえ役立たなくても社会から排除すべきではない
→それぞれの視座、『邪視』と人間の価値の話
電子化×
- したがって、人間を「役立つ/役立たない」の尺度だけでみるべきではないし、たとえ役立たなくても社会から排除すべきではない
未来のモノのデザイン ドナルド・A・ノーマン
- 賢い機械と、人間の共生する方法について書かれた本
- 文章は少し冗長だが、自動化の例や必要性が分かりやすい
- 自動化された機械と人間の間には、対話や相互理解が無い
- 機械は、人間に「今なにが起きているのか」をもっと伝えるようにしなければならないのだ
- 人間の立場だけでなく、機械の立場に立った「人間とのインタラクションの改善ルール」も書かれている
<弱いロボット>の思考 岡田美智男
- ロボット研究本『弱いロボット』の続編的なエッセイであり、こちらでは、ロボットを通したコミュニケーションの研究をしている
- 掃除ロボットには、いきあたりばったりな行動を続けることで、人間や周囲の環境の手助けを引き出す力がある。
- ロボットが声高に助けを乞うようでは、気持ち良く助力してくれる人は現れない
- むしろ、ロボットが「一生懸命に頑張っているのに、上手くいかない」その姿が、人間の共感を招いて、その手助けを引き出すのだ
- ロボットの歩行(動歩行)も、人間との対話も、自己完結しようとするとぎこちなくなってしまう
- 自らの内なる視点から発話や行為を繰り出す際に、その意味や役割を完結することは出来ない
- 人間の場合、そうした〈不完結さ〉や〈弱さ〉を内包した身体は、ドキドキしつつも、他に委ねつつ、一緒に行為を産み出していくという方略を選びとっていた
- 人と人は、孤立した個体同士が対峙し合うだけでなく、むしろ同一の身体的基盤を有する〈オープンなシステム〉同士が相互に支えつつ、支えられるようなカップリングを作り上げている
- それは、ビーチボールバレーのように、土台も継続可能性も不安定な〈賭け〉と〈受け〉の相互カップリングなのだ
- 〈並ぶ関係〉でのコミュニケーション:親子で読む絵本やテニスの乱打練習のボールなど、人と人の間にあるもの=「媒介物」を通じて相互に調整を図り合う、人間同士の関わり
→シナモリ・アキラ - 相手の思考を推測する「社会的参照」と、自分の身体が感じていることを基準にして相手の気持ちを探る「自己参照」
ロボットが家にやってきたら… 人間とAIの未来 遠藤薫
- 小中学生向けではあるが、東西のロボット思想比較や文化の共進化から、サイボーグとネットワーク世界の危険と希望まで広く深く扱っており、大人が読んでも面白い新書
- 異なるものが、お互いに影響しあいつつ、それぞれに発展(進化)していくプロセスを「共進化」という
- 文化も共進化するのである
- 人が駆動させることが前提だった日本の「からくり」文化と、IAの関連性を見出しているところも面白い
- 日本でロボットがあまり反乱しない理由の仮説
- 欧米と日本の世界観の違い
- 日本では全てが「モノ」:神・人間・人工物の全てが同じ扱いであり、共存・共生している
- 三者が対抗していないために安定的な関係だが、現状を越えようとするインセンティブも存在しない
- 西欧では、神>人間>人工物の序列だが、人工物はその能力において人間をしのぐ可能性を持っている
- 人間はつねに自らの優越を示す必要があるが、人間の優越を何より担保するのは人間を超える人工物をつくり出すことだからである
- こうした不安定な関係こそが、技術を不断に進歩させていくインセンティブとなる(一方で、人工物に対する恐怖も生成する)
- ベンヤミンの第二の技術、何度でも繰り返し改変を許すシミュレーションの技術
- 自然との共演(共同遊戯)を目指す
- 〈初音ミク〉は、第二の技術を代表するロボットかも
- 〈初音ミク〉は実体を持たないため、何度でもリセット可能である
- それゆえにむしろ、〈初音ミク〉は死ぬことができ、また生まれ変わることができるのである
- 遊ぶ者たちは、死んでしまった〈初音ミク〉を哀しみ、しかしまた〈初音ミク〉の誕生を喜ぶことができるのだ
- 最高のおもちゃは、それ自体何も意味せず、しかしそこに何でも顕現させ得る媒体(メディア)=「天使」でなければならない
- 「遊び続ける」かぎりにおいて、「おもちゃ」は完成することなく「修正」され続ける
- 「修正」とは、限りなく破壊され、また限りなく創造されることである
- 〈初音ミク〉とは、私たちの時代の最終的な希望のあり方なのかもしれない
- ロボットと人間の共生には、動物との関係が参考になる:ダナ・ハラウェイの「伴侶種」(『猿と女とサイボーグ』
- 人間とペット動物はあくまで〈他者性〉の壁に阻まれていが、この〈他者性〉が重要である
- たとえ最終的にわかりあえない者同士、もしかしたらある瞬間敵に変貌するかもしれないもの同士が、それでも相互に必要とし共生の関係を進化させていくこと
- それこそが、まさにわたしたちの社会を豊かなものにしていくのではないだろうか
→相互参照姉妹のペット(使い魔)なアキラくん?
- ウェルズの〈世界脳〉:現代のネットワーク社会を思わせる技術の理想像
- 創出すべき構成体としてではなくではなく、観察・分析の対象とすればいい(フーコーのアルシーヴ/アーカイブ『知の考古学』)
- 人間たちの社会が向かおうとする方向をチェックし、反省する鏡として〈世界脳〉を考える必要がある
- (世界脳〉あるいはIoTやIoEは、そのアーキテクチャによって見えない牢獄ともなれば、また自由への扉ともなる
- 〈世界脳〉は、〈邪悪〉への可能性を潜在させているが故に、〈邪悪〉を食い止める方法についてもヒントを与えてくれる
- むろん、反対に言えば〈善〉への可能性を持っているが故に、より強い〈邪悪〉を実現してしまうおそれがある、とも言える
- ローレンス・レッシグ:「現状主義」の誤謬。なにかの現状を、そのあるべき姿と混同してしまうこと(『CODE』
- (世界脳〉言い換えればIoTやIoEによって、世界全体が人工知能のように結ばれる未来が、いつかやってくるかもしれない
- IoTやIoEは、私たちをモニタリングし、方向付けする性格を持っている
- しかしそのモニタリングや管理の方向性を決定するのは、私たち自身である
- そのことをいつも心に留めておく必要がある
→トライデントに組み込まれる可能性がある『サイバーカラテ』(『シナモリアキラ』)? - 来たるべきロボットとの共生の未来のために、もっともっと考えよう
電子化○
ロボットとの付き合い方、おしえます。 瀬名秀明
- 子供向けだが、読んでいて楽しい本
- ロボットについて考えることは、同時に多くのことについて考えることでもある。(人間とは何か。コミュニケーションとは、生命とは、未来とは、そしてこの世界とは一体何であるのか?)
- ロボットは、現実と空想が、螺旋階段を作って共に発展してきた非常に珍しい分野
- ロボットとの協力関係は大切:得意な事苦手な事を補い合うこと、適材適所であり、仕事を奪われるかどうかではなく「本当に役に立つとは何か」を考えることが必要。
- 人間とロボット、それぞれにしか出来ないこととは?
- ロボットを作る三目的:役立つ、楽しませる、人間を理解する
- ドラえもんは、社会性があるから、複数の関係性を持つから「飽きられないロボット」なのではないか?
- サイボーグへの違和感・モヤモヤする気持ちを大事にしよう
- ロボットは「つくる」と「つかう」両方の考え方が揃ってこそ、想像力大切、未来を考える
- 看護師の仕事は、調和(ハーモニー):なすべきことや意見をまとめ上げ、調整することであり、それは不可逆な加工・限定的破壊なのかも
→サイバーカラテ?
狭義の呪術関連
現代世界の呪術 文化人類学的探究 編集:川田牧人 白川千尋 飯田卓
- 国立民族博物館における共同研究の成果が結実した本であり、『呪術の人類学』の続巻にあたる本
- 人間にとって呪術がいかなるものであり、社会においてどんな効果・役割を持っているのかを考察している論文集である
- 呪術が、人間が世界を見る枠組みの欠かせない一部であることや、呪物(マテリアリティ)が感覚に与える影響が呪術的な世界観/リアリティを構築する重要なものであることなどが語られており、
- 呪術的思考が、私たち人類にとって不即不離で身近なものであることを教えてくれる
→陰謀論?『杖』と『邪視』そして『使い魔』の表裏一体な関係性
- 呪術的思考が、私たち人類にとって不即不離で身近なものであることを教えてくれる
- 分厚い専門書であり専門用語や特殊な概念も出てくるが、読みやすく(最初の序論以外は)分かりやすい。でも分厚い。
- ちなみに、表紙の「両面宿儺の指」っぽいモノの説明は本の中のどこにも書いてない
- バチカン公認のエクソシスト講座では、携帯電話を通じた悪魔祓いの方法も教えている
- 女性を含む一般のカトリック信者は、「補助悪魔祓い」として儀式に参加することが可能で、悪魔祓いを行う司祭に祈りや精神的支援を提供することが出来る
- サッカーと呪術的実践も複雑に絡み合っており、メディア消費には不可欠な要因であると共に、ときにデリケートな「国際問題」ともなる
- 寄稿している研究者たちの中にも、不思議な夢を見たり怪しげな獣の気配を感じるなど、呪術的世界観の影響を体感した者もいる
- 呪術は本来、理性の範疇で論ずべき問題ではない?
- スピリチュアル指向が、確固とした制度化を伴った領域にまで浸透し、かならずしも合理性のみで説明し尽くせる世界ではなくなってきているという認識を出発点とする
- 物質性と感覚経験で、言葉と行為を架橋しているのでは?
→『黒の色号』未分化な原始呪術?
- 偶然と必然を結ぶ妖術
- 呪術を信じる人びとも、別に呪術を持ち出さずに現実を理解できないわけではない
- 彼らが呪術に求めるのは「なぜよりによってこの私(特定個人)が不幸にあわねばならないのか」
- 穀物貯蔵庫が倒壊したのはシロアリのせいだと理屈では分かっていても、なぜその時貯蔵庫に潰されたのが、他人でなくこの私であったことの必然性までは、受け入れられない
- ありえないような事態だからこそ、かえって何かに引き起こされていると感じるのではないだろうか
- つまり、妖術は不可解な現実を必然化するように思われるのである
- また、なぜ家族の中で一人だけ不幸なのか、逆に異例の成功を収めているのかなども、その原因を妖術に求められる
- 制御不能で強烈な情緒である嫉妬の他者性が、妖術使いに結びついているのでは?
→陰謀論や疑似科学と同根の理由?
- 遊び(からかい)による妖術の抑制
- しかし同時に、遊びは本気の喧嘩へ移行してしまう両義性をも秘めている
- 少女を含む二人の女性霊媒に神や悪魔を降ろし、治療や妖術師退治をするバナメー教会
- 「情動の撹乱」によって進む治癒のプロセス
- 「少女」という社会的劣位に置かれるものが「神」とされていることも、人びとの情動を動揺させる
- 夫が僚妻(二番目の妻)をめとって以来、不調を抱えていた女性が、妖術師祓いによってその不調が僚妻の呪いのせいであると理解、夫と別れてからはだんだんと快方へ向かったという
- 科学的に必然化された現実と、妖術的現実では、前者のほうが良いに決まっている
- しかしながら、仮に唯一科学的必然性ないしは蓋然性をもとに現実を理解し、行動を取るものがいたとしたら?
- 人生の選択をすべて科学的に行い、不可解さも驚きもない人生とは、自由な人生だろうか?
→サイバーカラテの問題点?『ノーペイン』的な正答しか無い人生の限界?
- 人生の選択をすべて科学的に行い、不可解さも驚きもない人生とは、自由な人生だろうか?
- しかしながら、仮に唯一科学的必然性ないしは蓋然性をもとに現実を理解し、行動を取るものがいたとしたら?
- 身体・もの・環境の相互的な応答
- 物質性と感覚の絡まり合いの中に呪術のリアリティは現れる
- 呪物などのマテリアリティと感覚経験はコインの表裏のよう
- 感覚経験を誘発させるマテリアリティ、またマテリアリティによって具体化される感覚経験という相互規定性
- 感覚とマテリアリティを主体と客体のように二分法的にとらえるより「物質としての体に具わった感覚を介しての物質世界の物質との関わり」
- といった入れ子状になった視点に立つことも重要であると言える
- また、社会的身体という概念を設定する際に感情の側面が重要であること、
- すなわち、生物学的実態としての個体と、意識をもち経験・行動・解釈する社会的実態とを統合的に捉えうるのは、感情を通してであるといった指摘もある
- 「○○と分かっている」という言語的理解と、それに相反する行為としての「でもやはり××」のあいだに、「▲▲の感じだったので」といった連結部分を構成するのが情動であると指摘する
- このような情動は、宗教的な場面においても、人びとから尊敬と信頼を集める高僧の用いる聖水や呪文が、身体感覚やマテリアリティを伴ったものとして受容される回路を開くものになる
→『杖』と『邪視』の幻想・相互参照姉妹?『杖』/『邪視』/『使い魔』そして『呪文』の表裏一体性?人間という「三叉の槍」の多面性?感情を遮断・他者への委託を行うサイバーカラテと呪術の根本的な相性の悪さ?
- 妖術的現実の真っただ中にいる者にとっては、妖術的現実は明らかにリアリティーがある
- つまり、そうあることに必然性が感じられる
- しかしそれもつかの間、本人も気づかぬうちに新たな現実に取って代わられやすい
- 言い換えれば、妖術的現実はオルタナティブに開かれ、偶然との出会いを通し新たに生き直される
- この出来事としての生は、人間にとって本質的なもののように思われてならない
→内世界な異世界?偶然によって常に現れる可能性がある、全く新しい選択肢?
電子化◯
呪術の人類学 白川千尋/川田牧人・編
- 呪術のリアリティについて研究している本
- 「言葉と行為」のズレから「呪術と日常」のリアリティへ
- 「信じて」いなくても「効果がある」から、病院に呪術師を呼ぶ例など
- 中世魔女狩りの時代では視覚に基づく「リアリティ」ではなく「トゥルース」が審判の基準だった
- 呪術以前に、日常そのものも虚実皮膜の間にあるのかもしれない
盗まれた稲妻 呪術の社会学 ダニエル・ローレンス・オキーフ
- 広汎な資料にあたって呪術全般を分析した本であり、上下巻
- 呪術とは、宗教から盗まれた稲妻である
- 呪術は、社会に対して自己を守る
- 宗教がグループの圧倒的勢力の投影なら、そして呪術が宗教に由来し、しかし個人を助けるという独立した基礎から発生するならば(そして宗教としばしば対立するならば)答えは明らか
- 呪術は、個人あるいは小グループのために行われる集団的な宗教表現の借用であり、自我が精神的消滅に抵抗し、あるいはサブグループが認識的崩壊に抵抗するためのものである
→アリスの〈失明稲妻〉? - 宗教は、社会のために呪術をモデル化する制度
- そもそも供犠は、イニシエーションの一部であり、成人前の若い男女の「死と再生」が原型だった
→トリシューラの鮮血呪?
呪いの時代(文庫版) 内田樹
- 現代日本は、相手を否定する批判の言説=呪いばかりだが、それではいけないというエッセイ
- 他の本で、呪いに詳しくないと語っていた筆者だが、ここでは呪いの専門家を自負している
- 「強い根拠は無くてもとりあえず仮説を決めつけて、おかしいと思ったら仮説を変更する」のが良いというのが著者のスタンスなので、まあそういうことなのだろう
- 呪いが機能するのは、それが記号的(一般的・反復的)に媒介された抽象物だからである
- 具体的、個別的、一回的な「身体による限界づけ」を失ったとき、記号は過剰に氾濫し、抑制の利かない呪いが機能し始める
→トリシューラとアキラくんは? - 祝福は、呪いの真逆の概念であり、終わりなき具体的な語りである
- 白川静『詩経』の「賦」こそが祝福の原型、ただ荒々しい自然の風景を列挙して、エネルギーを励活し、自分の中に取り込むもの
- =日本の「国誉め」の価値判断抜きでのエンドレスな列挙や、複式夢幻能『山姥』ただ良く分からない怪物が山巡りをするだけの話なども「語りきられない」語りである。
- 写生的列挙の美点は、詳細に記述すればするほど「人間の行う記述によっては「生」を汲み尽くすことは出来ない」という不能を覚知出来るということ
- それは「語り尽くすことができない」ということを語ること、限界を、把握しきれないほどの豊かさを把握すること
→四章・断章編? - 他者との共生の基礎は、我が内なる他者との共生の経験
自分を細かく「割り」他者との共有が増える人、それらを統合できる人がオープンマインドを持っている
→分裂を続けるシナモリ・アキラ? - 解説:人間の論理は、身体という混沌とした自然過程の上に立ちあがる二次的なパターンに過ぎないが、コンピュータの論理は純粋な論理であり、それを支える(抑制する)下位の言語を持たない
- 同じ著者の『現代人の祈り 呪いと祝い』では、祝福の一種である「予祝」を生態学的心理学の「アフォーダンス」や相撲の股割り、門付け芸、バイクのコーナーリングテクニックなどの具体的なものに例えていて、より詳しくなっている
魔女論 大和岩雄
- 写真やイラスト多く、論というより引用のまとめ
- 著者の『魔女はなぜ空を飛ぶか』と『魔女はなぜ人を食うか』という二つの本を合本にしたもの
- 魔女は零落した女神であり、生と死の両方をもたらす存在だった。
- 彼女たちは、女性上位のセックスで箒(男根)を手にいれて完全な存在となって飛翔し、産んだ赤子をまた食らって再生させたのだ。
- 魔女は「垣を飛び越える女」善悪内外を超える者であり、それゆえ両性具有でもあった
- 箒と男根、飛ぶ男根、女性上位のセックスや、女性が男を性的に襲う祭り、血の神を飲み干す女神カーリー、ディオニソス祭、メディア、子どもを食してまた産み直す、すなわち転生させる女神、神を八つ裂きにして共食する祭り、歯の生えた膣、とすごくアリュージョニスト
- うつぼ舟など箱舟漂着譚も棺や母胎と関連あるし、リールエルバかも?
あ行
アイロニカルな共感 前田雅之
- 日本文学専攻の教授による、日韓の歴史問題へのスタンスなども含まれた批評集
- 石原千秋:カルスタ(カルチュラル=スタディーズ)はアナロジーの論理によって事実をつないでいく
- 「あれとこれは一見まったく異なったレベルの出来事だが、構造が似ている」と指摘することで、あそこにもここにも同じ権力を働かせているような見えない権力構造に思わぬ見晴らしを与えてくれることがあることがある
- カルスタとは、学問というよりも学問を名目にした政治的「運動」
- その思想傾向も、マイナー的存在をもってメジャー的存在の文化を相対化した面は高く評価できるものの
- ややもすれば、相対化を超えて反転させ、「貧しい人はよい人だ」的な認識レベルに堕するばかりか、反転に胚胎するある種の原理主義的姿勢を特化させるケースがままある
- 古典文学や古典知もまた、和歌など要約出来ない非ストーリー要素を不可欠の構成要素とする、アナロジーで出来ている
- 近代を越えるものは近代しか無いというさらなる泥沼にはまるよりも、近代以前の思考・認識にもう一度立ち戻るべき
- 近代的学問としての国文学を正しく脱構築=「偉大な敗北」をするためにも、古典知に回帰して出直すべきではなかろうか
- その時、カルスタ=アナロジー論も今よりは生産性のあるものとして立ち上がるかもしれない
- 「共感」の多くは(ヘイトスピーチに限りなく近くない一体化感情の露呈や、上から目線な同情・憐れみを除いて)全面的な肯定感の下で行おうとしても行えない、ある種のほろ苦さを伴っている感情ではないだろうか
- なぜなら、人間とはそう簡単に自己以外の他者と共感などもてるほど高尚でも立派でもなく、その反対にはなはだ賤しくずる賢く、自分のことばかり考えている度し難い存在であるからだ
- 「いまそこ」だけに代表される現在性が世界を覆う現代において
- 私は、過去の自国・外国を含めた他者なるものに対して、愛情や同情、他方憎悪・軽蔑・無関心という態度ではなく、なんとかして開かれ、個別の他者とは共感をもてる関係を構築したい
- 自己を問うために他者と向き合う、アタリマエのことである
- アイロニカルな共感という中途半端な宙吊り状態に自己をおく構えが、理解できそうで出来ない過去の日本などの他者と付き合っていくための、私の立場
- 「自虐」の優越性
- 「自由主義史観」と、その陣営が蔑称する「自虐史観」との関係は、そう単純なものではなさそうである
- 桂秀「癒やしの二つの型」によれば、本来、日本を断罪してやまない「インターナショナリズム」に基づいているはずの「自虐史観」派が、今や「ヒロイックナショナリスト」となり、「ファンダメンタリズム(原理主義)」とほぼ同義になっている
- その反面、「国家的誇りの顕揚」を企図した「自由主義史観」派の方は、過去の罪を負いたくない過去と断絶された現代を生きたい若者や市民の免罪符となり、いわば「コスモポリタン」となっているというのである
- つまり、この奇妙ないしは当然のねじれ現象がもたらすものは、共に過去の癒やしに失敗しているのだ
- 「自虐史観」の要求は、謝罪と反省の永久運動であり、そこには使命感を超えた一種の宗教的な信念、すなわち、我が身が十字架を背負い、茨の道を生きていく求道者的精神が必要とされ、すぐに「ヒロイックなナショナリズム」に転移していく
- 「自虐史観」は、普遍性を伴っている故に、一層始末の悪い、普遍的正義に基づく対隣国優越意識になっていく可能性があることは、一応念頭に入れておいたほうが良いだろう
- 他方、日本の歴史の誇りを回復しようとする「自由主義史観」の方も、「従軍慰安婦」の「強制連行」説否定では一致を見ているものの、戦前の評価を巡っては多様であり、したがって、国民に誇りの起源をすっきりと示すことは困難である
- なぜなら、仮に誇りの起源を提示し得たとしても、「誇り」が回復される複雑な経緯はすっぽり抜け落ちているので、一気に過去からの断絶=無責任=現在の私生活の肯定となってしまうことが十分考えられるからだ
- また「自由主義史観」は、「自虐主義史観」の反対勢力でしかないし、「誇り」が回復された時点で役割を終えるのであまり良くない
- その「誇り」もオリンピックの金メダルを祝う人々と大して変わらず、福田和也氏が言う「加害者の誇り」にまではいかないのではないだろうか
悪という希望 宮台真司:監修 現代位相研究所:編
- 悪の魅力や存在意義、その矯正についての多様な考察が集められた本
- 「人間性」の宗教的な側面、宗教の危険と必要性、そして人間は感情で判断する生き物だがそれを理性で修正することが可能だとする話など、かなりアに関連性がある
- デュルケムが犯罪を「守るべき規範を自覚させる役割を持つため永久に無くならない」としたように、「悪」を自分たちから切り離す動きは決してなくならないだろう
- また、かつては黒人や女性の参政権が悪とされていたように、悪の中には現在の道徳を拡張していく要素が含まれている可能性も十分に考えられる
- 別様になることの喜びと、その触媒としての悪
- 変革をもたらす〈宙づりのちから〉としての悪
- 悪に触れることは、おそらく〈賭け〉でしかない
- 複数性としての悪の擁護
- 〈悪〉の、複数性の字として、私たちの生の共同的な営みとしての理解
- 私たちが〈悪〉を希望として読み替えるとき、〈悪〉は、全体性に包摂される予定調和に抗する多様な可能性なのである
- 複数性の肯定は、集合的な道徳意識が、常に再審に開かれていることを意味する
- それは、それ自体において価値がある
- 可謬主義的な道徳主義は、それ自体の可謬性を誠実に引き受ける限りにおいて、つまりは、自己自身に誠実である限りにおいて、かろうじて許容される
- 複数性としての悪を擁護しようというのならば、その一部でありながら敵である〈複数性を縮減する悪〉に抗して、それを排除するという〈より小さな悪〉を背負うか、少なくとも消極的に支持しなければならない場合がありうる
- 例:テロとの戦いのためのアラブ系の無差別拘束
→『天獄』(地上)を排除しようとする『地下』?
- この本は悪の受容を推奨しているが、それは、自らの悪行をなあなあですませがちになる「必要悪」ではなく、「より小さな悪」を追求する姿勢である
- つまりそれは、「より小さな悪」を正しくそれとして背負うこと、みずからが行使する悪について、その極小化をみずからに絶えず要求し続けることを求めるという困難な道である
→シナモリアキラやセレクティ・フィレクティ、そしてアズーリアが進むべき道?
- つまりそれは、「より小さな悪」を正しくそれとして背負うこと、みずからが行使する悪について、その極小化をみずからに絶えず要求し続けることを求めるという困難な道である
- 襲来した異邦人としての子どもや教育に必要とされる悪
- ニーチェの「神の死」の宣告・論
- ニーチェの視座からすれば、私たちが神という超越的な価値から離れることは、何ら人間の自由を約束するものではない
- むしろ私たちは、神の不在のゆえにその道徳教義にしがみつき、自らの自由を常にないがしろにしているということになる
- ニーチェによれば、私たちが道徳とみなす事柄は、生についての解釈の一形態、それも他の解釈との競合に勝ち残ったそれに過ぎない
- にもかかわらず、道徳は自らを世界の本質であると理解しており、しかるに道徳は私たちを外から裁く審級としてふるまい続けている
- そうした道徳に対して、ニーチェの哲学は抜本的な「人間の自由」を求めて、生そのものを対置する
- ニーチェの信ずるところによれば、私たち人間の自由とは、生そのものの潜在力が最大限に発揮されるように生きることである
- それゆえ、ニーチェが自由を論じる目的は、私たちの生を支配的な道徳から救うこと、これなのである
- ニーチェが「力への意志」として表現する〈悪〉は、生そのもののダイナミズム、すなわち、生成と変容が織り成す不断の展開の名前
- それゆえ、「力への意志」は、決して「力への意識」ではありえない
- 意識は、生の圧倒的な多様性を否定して、世界を把握可能な単位に置き換えるものである
- それにもかかわらず、私たちは意識の作用の結果に過ぎないものを、あたかも感覚的な経験の原因だと思い込み、それによって人間の主体意識はいまや生の最高価値として誤解されている
- ニーチェの主たる論点は、世界を理解するための仕方は常に別様にも可能である、ということなのである
→【邪視】?
電子化×
遊びと人間 ロジェ・カイヨワ
- 模倣(ミミクリ)と言えばコレな気がする
- 眩暈感もある
- しかし、カイヨワは模倣(ミミクリ)と眩暈(イリンクス)の結び付きに対しては、否定的だったりもする
電子化◯
アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 吉田徹
- 「リベラル・デモクラシー」の成立から崩壊に至るまでの歴史、そしてリベラリズムの多様性が、新しい自己刷新をもたらす可能性への期待が綴られている新書
- 権威政治から、政治問題でもある歴史修正主義などの記憶の問題、移民問題とヘイトクライム、アイデンティティ政治
- そして、その原因である五層のリベラリズムがもたらしてしまった副作用までと、扱っている情報量は多いが、
- 何度も内容の振り返りがされているため、読みやすい本
- 著者は、政治を、共同体・権力・争点の三位一体として捉え、そのバランスの瓦解がリベラルの凋落をもたらしたとしている
- また、白人至上主義者とムスリムなどの思想やアイデンティティを異にするはずのテロリストたちが、実は皆、同じくアイデンティティの空白に苦しんでいるとしており、
- これを個人が担い手となり、手頃な大義をよそからもらってくるテロリズムと宗教の「ウーバー化」として位置づけている
- 「ポスト世俗化」社会では、神や宗教に個人が従うのではなく、
- 宗教こそが個人の欲望に服従するものとなった
- 神は個人の空白を埋めるために、呼び出されるのだ
→外力、スーリウム勢力の召喚術?
- 多くの学説も引用されており。
- マジョリティだけでなく、生まれた国の社会にも溶け込めない移民二世たちが、
- 他の社会的アイデンティティを抹殺しようとすることで、マジョリティとしての地位(ステイタス)にしがみつこうとする意識「捕食性アイデンティティ」を持ちやすいことや、
- 人が人としての尊厳や承認を得るためには、(他人に認められ誇りを持つために)見知らぬ人びととの協力や協働が不可欠であり、
- 集合的記憶(≒歴史)は、この個人と個人のあいだのつながりや絆を提供する、共有できる物語であるとする話や、
- ミシェル・ウェルベック『服従』の解釈で、自分で責任を負うしかない現代社会が激しい不平等をもたらし、それに耐えられない人間を宗教へと追い込んでいるという「ポスト世俗化」社会の話など、
- 過去に遡って語られる『呪文』や記憶(藍の色号?)といった、ア関連の話題も多い
- マジョリティだけでなく、生まれた国の社会にも溶け込めない移民二世たちが、
- 啓蒙は弁証法的だが、それを手放しても野蛮へ退行してしまう
- リベラリズムの不整合を乗り越えるヒントはもまた、リベラリズム自身にそなわっている
- めざすべきは、人間性の剥奪に抵抗するリベラリズムの構想
- 今、ヘイトが満ち満ちるなかで、その原因となるのではなく、これを治めるリベラリズムにどう進化できるのかが問われているのだ
- 要約・抜粋
- 記憶が取り戻されるのであれば、それはあくまでも可能なかぎり多くの共同体が幸福であるためなのだ
- 過去の歴史がこうであったはずという認識は往々にして、未来を固定的に想像することになる
- 過去はこうであったから、未来はこうであるべきだ、とする思考だ
- しかしそれでは現在を異なるものへと切り開く可能性を持つ未来のあり様を、狭めてしまうことに成るだろう
→未来を操作出来ても、戦いの道しか選ばないスーリウムの思考? - 「弱者」のテロ:過激派に至る三つのステップ
- 社会がそもそも成り立つためには、社会に生きる人びとに何かが共有されているという前提が無ければならない
- しかしその前提は、困窮といった経済的要因や孤立といった社会的要因によって、簡単に崩れる
- そして個人は、怒りと過激化に身を震わせることになる
→百億の怒り
ームスリムをテロリストとして視るテロ対策をすることこそが、かえってそうしたアイデンティティを強めてテロをもたらし、 - 負の循環を形作ってしまう
→異獣化、『邪視』
- 非リベラルな政治とどう戦うか再考するための三つの手がかり
- ①個人のアイデンティティそのものを絶対的なもの、所与のものとするのではなく、それ自体を政治的討議の検討の対象とすること
- これは、個人主義リベラリズムに対して寛容リベラリズムを対置させることで、均衡を取り戻すことを意味する
- ②公的な政治が再分配や経済的平等性に敏感になるという、経済リベラリズムに対する社会リベラリズムの優位性の回復
- これは政治が「リベラル・コンセンサス」から距離を取り、アイデンティティ政治に依存しすぎたためにステイタスの政治を招き寄せることを回避することになろう
- ③人々の間の違いではなく、何を共通としているのかについての合意を得る努力を続けること
- 個人が尊重されることは、必然的に他人との差異が作り出され、結果として社会が対立と分断で覆われる可能性が出てくることと紙一重だ
→価値を確立し、その副作用として『言震』を生み出す『黒血呪』、そして個人のアイデンティティを不変にする『氷血呪』?
- 個人が尊重されることは、必然的に他人との差異が作り出され、結果として社会が対立と分断で覆われる可能性が出てくることと紙一重だ
- ①個人のアイデンティティそのものを絶対的なもの、所与のものとするのではなく、それ自体を政治的討議の検討の対象とすること
- 社会学者ヴィヴィオルカの差異を作り出す三位一体:アイデンティティ、個人、主体
→キュトスの末妹の座を争う四魔女?- この三角形を個人と社会のレベルにおいて、意識的かつ反省的に発展、均衡させていくのが、これから「請け戻される」リベラリズムの姿となるだろう
- 政治とは、異なるモノとの共存を可能にするための営みのこと
- そうであるならば、必然的に対話の契機が含まれていなければならない
電子化◯
- そうであるならば、必然的に対話の契機が含まれていなければならない
網野善彦著作集第十二巻(岩波書店)
- 著者の代表作である『無縁・公界・楽』とその関連の論文集であり、著者の資本主義についての思考が全て収められているようだ
- 公権力の及ばない避難所であり、日本独自の「自由」の場であった「アジール」と、そこでの「資本主義」について語られている
- 貨幣は元々呪術的な存在であり、出産に不可欠なアイテムでもあった
- 銭を地中に埋め、いったん神仏のもの「無主物」とすることで、銭は「資本」となった。
た - 物を交換することによって自分自身の一部を相手に渡し、相手自身の一部を自分にもらうことになるので、切りはなしがたいきずなが、両者の間に出来てしまう
- 「交易」が成立するためには、そこに入った人や物から俗世の縁を断ち切る「無縁の場」である市庭の存在が不可欠だった。
- 物をいったん神のものとすることで、後腐れのない物の交換である「交易」(市庭)が初めて成立したのだ。
- 金融、利息も本来は「神に対するお礼」であり、そうでなければ存在しえなかったであろう
- 「悪」は人のたやすく制御出来ぬ得体の知れない力
→紀竜レーレンターク? - 仕切られた空間では「ケガレ」になることも、道や橋、市のような解放された場所では「「ケガレ」にならないし、電線もしない
電子化×
あらゆる小説は模倣である 清水良典
- 実戦創作講座のついた小説論の新書
- さまざまな作家の模倣や先達からの影響をまとめることで、「霊感」でオンリーワンな作品を書く天才だけが作家だというロマン主義的な【邪視】を否定している
- 近代文学的なオリジナリティの幻想から抜け出し、無知や下手な模倣に甘んじることなく、巧みな模倣たれ
- ひとは単独で創造するのではない
- 個人の才能とか独創性というものは、本当は大したものではないのではないか
- 人間が永い歴史の中で育んできた豊かな蓄積に支えられ、それと交じり合うことが、創造すること、表現することの目的であり使命でなのではないだろうか?
- 主張こそ派手ではあるが、名声を持たない作家が「パクリ」疑惑をかけられるとそれだけで出版社的にはアウトだとか、できる限り自分の立つ場所から離れた素材から出発するのが基本としていたりと、単純なコピーを推奨するような本というわけではない
電子化◯
怒りの時代 世界を覆い続ける憤怒の近現代史 パンカジ・ミシュラ
- さまざまなテロや戦争の原因、怒りの根源を「西欧化」の敗北によって説明している本
→百億の怒り - 世界史を、植民地主義のブルジョワ(=現在のグローバリズム推進コスモポリタン)と大衆(ナショナリストのプロレタリアート)の対立で解釈し、
- テロや戦争の原因、怒りの根源を「西欧化」の敗北によって説明している
- 著者の立場は、現代西欧の右翼に近く、いわゆる、「遅れてきた近代化」で押し付け得られる外国の文化や行動様式に、違和感を覚えているような主張や精神を扱っている
- ただ、これは「空気」の説明であり、データなどの根拠はない
- フランスの啓蒙主義者は、国王の力を借りて貴族や僧侶たちを排除しようとした新興階級に過ぎず、
- 万民の平等や啓蒙などには無関心な、鼻持ちならない成金でしか無かった
- 敵対しあった勢力が、互いに相手をコピー
- フランス植民地主義者は、ナチスの拷問方法を使ったし、
- イスラム国が首をはねた西側の人質は、グアンタナモ収容所そっくりな囚人服を着せられていた
→アでは、よくある展開や技の応酬
- 西欧が敵を定め、相手を攻撃する理由を文化と宗教が異なる他者に求め続けている
- それは、そうしなければ心の安定が得られないから
- 相手を野蛮人だと見下し、相手とは似ても似つかない「リベラル」である自分たちの優越感を強化できないから
→異獣?
- コスモポリタンで、戦争すらそそのかしたヴォルテールと、それに反発し、スパルタを理想としたナショナリストのルソー
- ルソーは男性が弱らされることを恐れ、女性差別的な態度もとった
- ルソーの商業主義批判
- 進歩に対する文明と自由の影響は、人間を新たな奴隷状態へ導く
- 強者が弱者を食い物にし、力なきものは在るものをねたみ、相手を真似しようとする
- 人間は自分を中心に考えるので、結局、相手の上に経とうとし、自分より劣る立場、服従する立場へと相手を追いやってしまう
- 優位に立つことが出来た少数派にしても、脱落者の羨望と恨みにさらされる
→『地上』社会?序列
- テロなど西欧の敵の攻撃は残らず失敗したが、西洋がみずからの啓蒙主義に反して犯した汚い戦争の方は、残らず成功した
- 支配層のエリートと根無し草の大衆との亀裂は、トランプの勝利で隠せなくなった
- 大衆は最も美味な部分を騙し取られた
- 現在の秩序は、民主主義や独裁政治の別なく、力と欺瞞のもとで成り立っているのではないか、という疑いがますます深まっている
- こうした矛盾や代償によって、終末論的なムードが広く世界を覆い尽くしていく
- だが同時にこうした事実は、われわれが、われわれ自身と世界について考えるとき、変革をもたらす新たな思考が必要であることも浮き彫りにしている
- 関連書籍として吉田徹『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』を推奨したい
電子化◯
怒りの人類史 ブッダからツイッターまで バーバラ・H・ローゼンワイン
- 怒りの思想史をたどりながら、著者の怒りに対する考えが語られている本
- 「悪徳と美徳」というシリーズの一冊だが、独立した内容なので、この本だけで読める
- 著者は、「怒り」と一括りにされる感情の多様性、さまざまな怒りの価値と根源、そして怒りの捉え方の伝統を知ることによって、私たちはより怒りに対処できるようになる、と
- そして、自分の「感情の共同体」から外に出ることで、我々自身の現実と政治的・個人的可能性を手に入れよう、と主張している
- 一つの話題の間に(過去と現代がごちゃ混ぜになって)大量の人名が出てきて読みにくい本だが、(同じ感情の共同体でも)個人で微妙に異なる思想の流れについて細かく説明しているだけなので、いちいち覚える必要はない
- なんなら、後でまとめが語られるところまで読み飛ばしても問題はないだろう
- また、歴史学用語らしい「感情の共同体」という語が多用されるが、説明無しでもなんとなく意味は分かると思われる
- さまざまな仏教があり、信念や情動の規範が矛盾することもある
- ロヒンギャ族を虐殺する仏教徒もいれば、命をかけて彼らを守った仏教徒もいる
- 怒りを捨てよと説く仏教:怒りにいい面はなく、命を捨ててでも怒るべきではない
- 阿修羅の王、ヴェーパチッティの神話:忍耐には治癒力があり、怒るものと怒られるものの両方を癒やす
- 善巧方便:悪人を殺すのは慈悲
- 841年、チベットのラン・ダルマ王暗殺は、王自身をさらなる悪行から解放したとして正当化された
- こうした考えが、邪悪な悪魔が殺されて仏教の保護者となるという神話によって補完された
- 密教の聖典カーラチャクラ:北インドに侵入したイスラム教徒への復讐ファンタジー
- 菩薩の軍は野蛮人を皆殺しにしてイスラムを破壊し、仏教を再建する
- 「忿怒」尊(男神のヘールカ、女神のダーキニー)
- 現代の欧米における仏教徒、治療やアドバイスで活躍
- 生まれ変わりや生に内在する苦ではなく、精神疾患による苦痛に焦点を当てている
- 人間の本当の性質は「ブッダの性質」であり、怒りではない
- 虐待者をも赦せと語る者も
- アメリカの下位共同体にいる怒れる男たちは、「善悪の絶対的な規範」にしがみつき、それを正当化するために数々の理論的原則を発動させる
- 彼らは、ほかの人々が自分に賛同しないと被害者意識を持ち、腹を立てて、たいてい実際にはコントロールする必要がないものを、どうしてもコントロールしたがる
- 彼らは、男らしさの基準を満たさなければならないと思いこんでいる
- そしてその基準は、アメリカの文化では暴力を免責しがちだ
- また彼らは、自分たち以外のあらゆる権威に不信を抱き、厳しい個人主義、英雄的な正しさ、そして「正しいことのために立ち向かう」スーパーマンを重視する
→イアテム?
- 負のステレオタイプ、「怒れる黒人女性」
- 女性は情動的だという偏見
- 働く黒人女性が、声を上げることを恐れるようになってしまう原因となっている
- 単に信条によって妥協したり引き下がったりすることを良しとしないだけで、
- 自制が効かない。理性的でない。気難しい。威嚇的だと判断されてしまう
- 白人女性の苦情や抵抗は勇敢だと見なされることもあるのに…
- かといって抗議しないと、自分の受けている抑圧に共謀しているように感じてしまう
- 黒人男性にも同様のイメージがある
→人種・ジェンダー差別・【レイシズム変数】
- アメリカ社会で怒りはたいてい攻撃とセットにされるが、他の社会ではそうとは限らない
- 怒りが暴力につながるという仮定は、アメリカ社会にとって都合がいい
- まず、攻撃的な人間の責任を免じることに役立つ
- また場合によっては、怒りは自分の責任を相手に押し付ける方法にもなる
- 「あなたがわたしを怒らせている」というわけだ
- プルデンティウスの叙事詩『プシュコマキア(魂の戦い)』
- 怒りは、完全武装した女性として描かれた(ラテン語の名詞は女性)
- その剣が忍耐の鎧によって砕け散ると、怒り自身が燃え上がり、自害するのだ
- 忍耐が、槍の先で怒りの死体をつついて死亡確認している挿絵も載っている
- サン・ヴィクトル修道院長ヨハネス・カッシアヌスは、すべての悪徳は一体である、として「悪徳の木」の比喩を考案
- 百科事典では、その根は新たに金銭欲だとされ「シナゴーグより」という付記がつけられた
→人種・宗教差別 - 6世紀のローマ教皇グレゴリウス1世は、悪徳を軍隊にたとえ、高慢という女王に率いられ、心臓を狙う
- 百科事典では、その根は新たに金銭欲だとされ「シナゴーグより」という付記がつけられた
- キリスト教では、悪に対する神の怒りは正当であるとされた
- 神に「正義の怒り」を祈る儀式を行い、修道院の土地や財産を侵害している(と捉えられた)敵への報復を願う修道士たちもいた
- 「感情の共同体」ごとに、感情の定義やそれを表現する語彙は異なる
- 中世吟遊詩人の「ira イラ」、怒りと悲しみ両方の意味と、その双方が混じったものをも意味した古オック語
- イファルク島の「song ソング」道徳違反を連想させる言葉
- 理にかなった怒りであり、人びとの関係を調整する
- 誰でも表明は可能だが、実際にはイファルクの族長の特権として、トップダウンで人びとの情動生活の構築を押し付けている
- 手段としては、ゴシップを通して、道徳秩序を乱した人間を追放するなどの方法が用いられる
- 犯人は、「ソング」を感じているヒトに謝ったり、贈り物をしたり、罰金を払ったりして、けりをつける
- 人びとは、他人の「ソング」を避けることが日課になっている
- 「ソング」の怒りこそが、逆説的にイファルクを「平和の王国」にしている
- アメリカ人は、かつて怒りに関する多くの語彙を持ち、1758年には、互いに言い争う人びとを「穏やかに会話にいそしんでいる」と表現することも出来た
- 怒りという言葉は、ときに「万能」な言葉として、より細やかな感情――悲しみ、傷心、驚き、プライド――の代用として簡単に使われる
- 怒りを捨てたり制御するという伝統は現代では見失われ、抗議運動では生得権として怒りが主張されることが多くなった
- 右派も左派も同じ言葉を使い、失われた名誉のことを嘆いている
- 「わたしたちがアメリカなのだ」
- 抑圧された人々のため社会正義を求めて戦う左派と、自分の縄張りを守ろうとする右派を隔てる「本物の境界」がある程度あいまいになっている
- 17世紀、ハリファクス卿(ジョージ・サフィル)は、「日和見主義」の概念を提唱
- 状況に応じて帆を調整する船乗りのように、自分の見解を修正する人間となれ
- 彼は、党派の争いは憲法をむしろ支え強化し、全体の枠組みを鍛えて結束を強くすると考えた
電子化◯
怒りの哲学 正しい「怒り」は存在するか 著:アグネス・カラードほか
- 哲学者たちが、怒りの善悪やそもそも怒りとは何か、について論じている本
- その論争の中心は「怒り(とそれによる報復)から邪悪さを切り離すことは出来ないが、それでもそれは、秩序と道徳を維持するために不可欠である」という主張であり、
- シカゴ大学の哲学科准教授アグネス・カラードのそうした問題提起に対し、10人以上の学者たちが自分の意見を表明している
- それぞれの主張は、数ページ以内に濃縮されていることもあり、ちょっと理解しにくい
- ただ巻末にまとめはあるし、少なくともカラードの論だけは、論者のほぼ全員がその意見を要約・解釈しているので分かりやすいと思われる
- 論の内容には、現代において怒りの表明と切り離せないフェミニズムやキャンセルカルチャー、BLMも含まれている
- そしておそらく、一番強硬な「怒り肯定派」も、キャンセルカルチャー(以下CC)を肯定するホイットニー・フィリップスであろう
- 彼は、CCを弱い被差別者に残された唯一の抵抗手段であり、真の悪は、差別者とそれを罰しないソーシャルメディアであるとしている
- だがあいにくと、今回の議論の中心は「たとえ正当性があっても怒りは悪」「悪い世界では、人は良い存在でいられない」という主張なので、「自分の側」を免罪しようとする彼の自己弁護は、だいぶ的外れになってしまっている
- そして面白いことに、フィリップスの自己弁護、自分が所属する「味方」の全肯定と「敵」と見なした対象の全否定は、そのままひっくり返すことが可能であり
- 彼が「敵」としてひとくくりにしている人々の、逆側の主張としても成り立つ
- 全ての「攻撃」を「自分たち弱者の護身のためなので仕方ない」
- 「過激派は邪悪かもしれないが、自分たちにはこれしか選択肢はない」
- と正当化する主張は、あらゆるイデオロギー、多くの戦争においてありふれたキャッチコピーなのだ
- 彼が嫌う「ゲーマーゲート事件」の批判にしても、いわば「フェミニズムがゲーム文化を侵略している」という陰謀論にもとづいた怒りの表明といった大義にもとづく社会運動、スクールカースト最底辺として差別されるナードの自衛といった側面を持つ(要出典)
- それを考えれば、あるいは敵を権力者と思い込み、「ナチ党員を殴ることはナチ党員であることは同じではない」と語る彼のような「正義の味方」にこそ
- 彼自身が語る「自分と同じように他者を扱うという初めの一歩」が必要なのかもしれない
- (それはそれとして、被差別者への差別と暴力やそれを容認するソーシャルメディアに対処の必要性も、また間違いないことではあるが)
- それに対し、他の論者はおおむね原理原則から「怒り」に向き合っており、その主張は建設的である
- 特に、どうしても無礼さを愛してしまう自分自身に向き合いつつ、善に似て非なる悪=「近敵」を否定するエイミー・オルバーティングの論や、
- 男性フェミニスト教員と協働したことで「裏切り者」と非難されて自殺した女性教師を悼む、マーサ・C・ヌスバウムの
- 「変革を求める怒り」を弁別し、「味方である確証がなくても相手を信頼する」という戦術の必要性を訴える論が興味深い
- たとえ、「怒り肯定派」が言うように正義と秩序のために報復という悪が必要なのだとしても、
- それ以外の方法や、より良い道を探し続けることの必要性までが、否定されるわけではない
- それに、「敵」や「悪」を認定する私たちの認知機能がたびたび間違いを起こすうえに、
- 怒りと暴力が、さらなる怒りと報復の暴力を呼び起こすることも確かだ
- 何よりこうして怒りについて多様な見解が生じていること自体が、そうした思考と模索の必要性を裏付けているのではないだろうか?
- 少なくとも、怒りと報復の暴力を無批判に肯定するのであれば、その先には弱肉強食の未来しか無いことであろう
→悪鬼たちを否定するアキラくん
電子化×
生きることの意味を問う哲学 森岡正博対談集
- 四つの対談とエッセイをまとめた本
- 著者は、『無痛文明論』『感じない男』『生まれてこないほうが良かったのか? 生命の哲学へ!』などの著作で、知られている
- 表題の哲学については、狭い意味では一つの対談でしか扱っていないが、
- それ以外の対談も、著者の哲学的手法やスタンスという意味では、同じく「生命の哲学」を扱っているものだと思われる
- 平易な言葉で書かれており、分かりやすく読みやすい
- ただ、たまに一文が長すぎたり、他の著書の知識が必要になることもある
- ア関連としては、
- 反出生主義(エントラグイシュ、出生を拒否した再生者の赤子)
- 加害者や加害性について(アキラくんなど)
- 大森荘蔵の「ことだま論」とロボットの意識について(ミヒトネッセなど人形たちやトリシューラそれにアズーリアなど)
- 同じく大森の「予言破りの自由」の概念や、日本語で哲学することの価値、
- そして、大森の概念の発展形であり、自分の中に他者の立ち現れを感じる著者の「アニメイテッド・ペルソナ」の概念に、深い関連性が観られる
- また、過去の哲学者たちとその著作を通じて対話し、一種の共同作業によって思考の限界を突破し、
- そうして、自己の哲学を構築していく著者の姿勢もまた、きわめてアリュージョニスト的である、と言えるのかもしれない
電子化◯
生きることを考えるための24問 小浜逸郎
- 著者の出した三冊の本『なぜ人を殺してはいけないのか』『人はなぜ働かなければならないのか』 『人はなぜ死ななければならないのか』をまとめた本
- それだけでなく、序文には著者の思考のエッセンスが詰まっていて参考になる
- 同じ問題を繰り返し考えているところもあるが、アリュージョニストに関わる重要な哲学的クエスチョンをしっかり原理原則から考えている貴重な書物である
- 惜しむらくは、著者の思想を説いている本に過ぎず、論証や議論・対話などが存在しないことだろうか
電子化×
生きるための経済学 安富歩
- 市場経済学は、原理を演算するために必要な時間やエネルギーを無視しているため、物理学を無視した机上の空論に過ぎない。
- だから、この経済学が庇護する「選択の自由」も存在しない。
→それらを演算可能な人工知能が存在すれば、空論でなくなる? - 正当なコミュニケーションは、相互に、常時相手の想定イメージを修正しながら行うもの
- M・ポラニー創発=「暗黙知」=tacit knowing =知るという事象の詳細は、決して明文化出来ない。
- 知性は明文化出来ない
- 「住み込み」こそ正義。物や人と相互にコミュとって、相互に変化せよ。
- 孔子の「道」は 「選択の道」であるため、そこから逸れても「罰」はなく「正しさから無意識に逸れた自分への恥」しかない。
電子化×
生き延びるための思想 新板 上野千鶴子
- 国家、暴力、ジェンダーをめぐる論考集であり、男たちのヒロイズムや戦争の義務論など=死にゆくための思想を否定する「生き延びるための思想」の本
- 姿勢のわりにはどうしても「強者としての視座」が垣間見えるのが、難点
- だが、高齢化を迎えた現代において、弱さに注目しヒロイズムを否定する思想の重要性は否定できないであろう
- 「境界」に関わる小熊英二や西川長夫の著書の解説も良い
- わたしの考えるフェミニズムは、、弱者が弱者のままで、尊重されることを求める思想のことだ
- だから、フェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道をとらない
- 相手から力づくで押し付けられるやりかたにノーを言おうとしている者たちが、同じように力づくで相手に自分の言い分を通そうとすることは矛盾ではないだろうか
- 弱者の解放は「抑圧者に似る」ことではない
- 戦争を含めてあらゆる暴力が犯罪だ、と言うことが出来なければ、DVすら解決することが出来ない
- そしてもし、DVをなくすことに私たちが少しでも希望を持つことが出来るなら、国家の非暴力化に希望を持ってはいけないだろうか
- プライバシーという概念は、家族をブラックボックスにすることで、その家族の中の権力者すなわち家長の利益を守ってきたのである
- 私的な領域は公的に作られたものであるし、不介入も介入の一種である
- そもそも、私領域が国家から独立していることはありえない
- 私的領域における家長の暴力を免責したのは、国家にほかならないことになる
- 公権力の介入によって、家族が個人に還元されその間に市民社会の法が適用されるるまでは、妻や子どもは「人」とは認められず、したがって「人権」も守られないことになる
- 逃げよ、生き延びよ
- わたしの念頭にあるのは、難民化の選択である
- 国境が人の流れを押し戻さなければ、あるいはもっと人の流れが双方向化すれば、自国民を他国民から区別して、敵と味方を区別することはできないだろう
- どこでも新来移民として生き抜いている人達がいる
- メキシコの「ウェット・パック」:国民として登録されてないインディオ語圏の人々にとっては、国境もどちらの国の「国語」も関係ない
- 「生きるための思想がなかった」ことが問題
- 人間が放っておけば動物のように生きるとでも思っているのか
- 「尊厳ある生」とか言って、「尊厳」を価値として自立させたとたんに、それが「生」より大切な価値になってしまう
- 惚けて垂れ流しになってるわたしやあなたに、そのまんま生きていて良いんだよと言ってあげるのが、思想の役目でなくして何なんだ、ということですよ
- 自己犠牲って、家族や恋人のためとは言いながら、その実、他人のためではなく自らの信念に殉じるのだから、究極のマスターベーションですよね
- ヒロイズムは女のというか、フェミニズムの敵だとずっと思ってきました
- フェミニズムって、やっぱりダサくて日常的で、「今日のように明日も生きる」ための思想なんです。じゃないと子どもを産んでいられない
- 弱者が生き延びようとした時に、敵と戦うということをしなくても良い
- 弱者の選択肢はたった一つ「逃げよ、生き延びよ」なのだ
- 「自分の命と安全を守ること以上に重要なことは、この世にあろうか」と言うべきなのです
- 非常時に男たちが戦争や革命から降りられなかったのは、男らしさと、それに結びついたヒロイズムがあったからでした
- 男たちも、そのヒロイズムから降りてもいい
- わたしたち人間の間違いは、死ぬための思想ばかりをつくってきたということではないでしょうか
- 女は弱者です
- 女は女は子どもを産んだり、介護すべき老人や病人を抱えたとたんに弱者になるが、その責任から逃げては来なかった
- その責任がないかのごとく、身軽な振る舞いをする者たちだけが、この社会が平等な競争のルールの下にあるかのようにふるまってきました
- 超高齢社会が到来したことは恵み
- こんなに人が長生きする社会では、かつて強者であった人も、かつて人生のピークにたった人も、それからあとに長い長い人生の下り坂を経験しないわけに行かないからです
- わたしたちは、弱者になるまい、というような努力をするぐらいならば、むしろ誰もが安心して弱者になれる努力をしたほうがマシ
- ケアは、相手に対する介入だけによって成り立っているのではない
- ケアは、相手の自発性や自律性への尊重と配慮によっても成り立っている
- 津波てんでんこは信頼の言葉:イエスマンに育ててこなかったという他者(子ども)への信頼
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「生きるに値しない命」とは誰のことか カール=ビンディング アルフレート=ホッヘ
- ナチス安楽死政策の参考になった本『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』を和訳し、解説をつけたもの
- 知的障害者や認知症患者を「絶対的に無価値な存在」と激しく差別する本文は、それゆえに読み進めにくいが、だからこそ自分の中にある差別意識を見つめたり安楽死について考えるためには,避けて通れない本であろう
- たとえ誤謬の恐れがあろうとも、善きことや道理に適ったことは実行されなければならない(ビンディング)
- 安らかな死による救済を認めようとしないとすれば、それはもはや同情ではなく、その反対の非情に他ならない(同上)
- 精神的に死せる者(知的障害者など)は、内側から主観的に生きたいと請求できないため、その殺害は通常の殺害とは異なる(ホッヘ)
- 生きるに値しない命に寄せられる同情の根底には、認識不足がある(同上)
- そのせいで、大半の人々は自分とは異なる生きもののなかに思考や感情を投影するのだが、それは行き過ぎた動物崇拝の源泉となっている(同上)
- この本の背後には、知性によってコントロールされた意志を優位におく人間観=自己意識中心の存在観がある(解説者:森下直貴)
- 自己意識中心の存在観には「無の視点」:私の生では無いものごと=無から全てを見ることで、全てを「ひと」とみなすセンスなどで対抗可能(同上)
→アキラくんとカイン、キロン、ヴァージルそしてゼド
意識する心―脳と精神の根本理論を求めて デイヴィッド・チャーマーズ
- 現象的意識(心)がどこから発生するのかを問う哲学的問題。
- 客観的な脳の振る舞いから、意識を説明できるという古典的解釈を「哲学的ゾンビ」という思考実験を以って批判した。
- 類似の「全ての情報は物理情報である」とする物理主義批判に、フランク・ジャクソンの「マリーの部屋」という思考実験がある。
- 心の哲学まとめwiki>デイヴィッド・チャーマーズ
依存的な理性的動物 ヒトにはなぜ徳が必要か アラスデア・マッキンタイア
- 著者は、『美徳なき時代』で、「共同体主義」(コミュニタリアニズム)に大きな影響を与えた思想家
- 人間を、動物と連続した存在であると捉え、他の動物と比較することでよりよく理解しようとする、独特のスタンスを持つ
- また、道徳の基盤を人間の「傷つきやすさ」(依存しなければ生きていけない)に置いており
- 既存の哲学の人間観、つまり、他者に世話されたり依存することがない「自立した」人間を前提に考える視座を批判している
- ヒトがその能力を「開花」(flourish/善く生きること。生の十全な実現。アリストテレスのエネルゲイア(現実態)を意識?)させるためには、実践的推論能力を発達させなければならない
- そのために、手本となる社会関係(コミュニティー)から、真に「より善い」ことを判断するための諸徳を学ぶ必要がある
- 子どもたちの手本になれるコミュニティーを作ろう
- ニーチェのように社会から孤立することは英雄的だが、そうなればお互いの必要性(傷つきやすさ)を基盤とする友情すら、結ぶことが出来なくなってしまう
- 共通善を共有しない相手とは、合理的な対話や探求を共にすることが出来ないし、何事かを学ぶことも出来ないのだ
- 彼の狂気はその証明となってしまった
- 他者を知るということは、作用や相互作用を通じて反応的な共感や感情移入が引き起こされるということ
- そうした共感や感情移入がなければ、他者たちがとった行動の理由を、彼らに帰することが出来ないだろう
- そうした理由によって、彼らの行動は私達に理解可能なものとなる
- またそれによって、彼らが理解出来るような形で、私たちが他者に反応することが可能になるのである
- 他者理解は、デカルトが誤解したように、ふるまいや発言からの推測に全面的に依拠しているわけではない
- 一文が長すぎて読みにくいが、解説はわかりやすいし難解な独自用語なども無いのが良い
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異端の時代 森本あんり
- トランプ大統領の当選に代表される現代のポピュリズムを、「正統の曖昧化」だとして、キリスト教神学史の正統の歴史を語ることによって批判している本
- 真の正統を語りつつ、それに取って代われる覚悟と責任感を持つ「真の異端」の誕生を期待している
- 正統とは、長い歴史を通して人びとになんとなく、いつでも・どこでも・誰にでも信じられてきた「と思われているもの」であり、明確な形を持たない
- 教義として定められたから正統になるのではなく、人びと長く信じ祈ってきた「とされる」内容そのものが正統なのである
- いずれの領域にあっても、正統は、名状しがたく把握しがたい全体性を特徴とし、異端は、明示的な要素と輪郭を持った彩度の高い主張を得意とするのだ
- 異端の教義を示す「呪われたもの」(アナテマ/公会議)にしても、実は「どうしてもダメな例のサンプル/ゲレンデの警告札」程度の意味しか無いのだ
- 自由はつねにネガティヴにしか規定され得ず、社会における自由も、秩序の拘束なしには保証され得ない
- 「御上たたき」:目上の立場にあるものを執拗に攻撃する現代の個人主義には、しばしば異端的セクトの過激さが転移している
- 彼らは、権威とされているものに批判を浴びせかけるとき、もっとも確かな自分のアイデンティティを感じるのである
- それは、宗教学的に見ると、正統を批判する異端の宗教的な正義感とまったく同質である
- だが、そうした体制批判者たちは、他者攻撃においては仲間意識を共有しても、その後に来るべき新たな秩序の形成をともに担うという段になると、とたんに腰が引けてしまう
- そこには、正統の権威を引きずり下ろした後に残る空虚さの予感、ニーチェ的に言えば、神を殺した後にその当事者たちを襲う罪悪感がある
- だから人が、その空虚さを埋めようとして、無意識ながら過度に宗教的になるのである
- 人はだれでも、神とつながっていたい
- 別の表現をすれば、超越的な根拠によって、自己の生の有意義さを確認をしたいのである
- アイデンティティは、自分ひとりで作られるものではなく、個人を超越する何者かとの連帯により、自分より大きな何者かへの献身によって、はじめて確立する
- 既存の宗教に求めて得られないのなら、それは自分で作るしかない
- だから人は、宗教がなければ宗教を作るのだ
- 集団や組織となった宗教には、たしかに二番煎じで胡散臭いことも多い
- だがしかし、そのような集まりでしか実現できない宗教性もあり、そのような宗教性の裏付けによって個人と社会が共に成熟していく可能性もある
- 個人が社会を意識するには、宗教が必要なのである
→アキラくんやアズーリアの、個人と「女神」の直接的結びつきの否定? - かくして正統と異端の問題は、個人と社会の問題、そしてその間をつなぐ宗教へと収斂していく
- ペラギウス主義/政治的メシアニズム:善が勝利することへのほとんど宗教的な信頼のこと
- 人間が神の助力を得ることなしに善を行い、完全な存在になることが出来ると主張
- 現代人が抱く誤解ないし幻想:自分という存在が自分の意志の産物である、と思い込むこと
- だが人間は、絶海の孤島に住む自足的な存在ではなく、その決定は環境や社会に制約されてしばしば非合理的である
- 民主主義は、人民、自由、進歩という三つの構成要素をもつが、それらが互いの制約を逃れて唯一の原理として暴走すると、それぞれポピュリズム、新自由主義、政治的メシアニズムという怪物を産み出してしまう
- トドロフが言う「メシアなきメシア信仰」著者:自己肥大化した「人民」がメシアを僭称している、と理解すべきだろう
- 政治的メシアニズムに置いては、革命は必然的に恐怖政治へと転化する
- 至高の善を実現するためには、各人が犠牲を払いつつ精進するのが当然の要請とされるからである
- 正統と異端はまた、個と全体という社会力学の下地を持っている
- 公的生活への参加や連帯から切り離された個人は、たやすく操作されて全体主義に取り込まれてしまう(ハンナ・アレント)
- 政治権力とは別の価値軸をもつ自発的な中間団体が多元的に存在することは、民主主義下の個人の暴走を防ぎ、社会全体のレジリエンスを向上させることに役立つだろう
- 個人であろうとする意志を捨てることなく、かつ自分がより大きな全体の部分であることを受け入れるには、存在論的な自己肯定が必要である
- 個人と全体を統合する勇気は、自己を超えた存在に与る事によってのみ得られるのである
→トライデントに参加しつつ、独立性を保つ方法?ミルーニャの融血呪耐性?
- ポピュリズムの宗教的な性格は、その善悪二元論にも明らかである
- 政治は本来、妥協と調整の世界であり、一方的な善や悪の体現者はいない
- しかし、ひとたび全国民の「声なき声」を代弁する立場を襲うと、彼らの闘争には「悪に対する善の闘争」」という宇宙論的な意義が付与され、にわかに宗教的な二元論の様相を帯びる
- 市井の人びともこれを歓迎する
- 善悪二元論的な世界理解は、日頃抱いている不満や怒りを(たとえ争点とは事実上無関係であっても)そこに集約させてぶつけることができるからである
- それによって人びとは、自分にも意義ある主体的な世界参加の道が開かれていることを実感する
- つまり、ポピュリズムは、一般市民に「正統性」の意識を抱かせ、それを堪能する機会を与えているのである
- みずから新たな正統を担おうとする覚悟のある異端だけが、真の異端である
- また、真正の異端は、一人よがりの正義を振り回したりはしない
- 彼は、同志を募り、信頼する友を持ち、共同作業を委ね、自分も分業体制の中で限定された位置をもつ
- そうしてこそ、腰の据わったアイデンティティが生まれ、粘り強く理想を実現するための戦いを続けることが出来るのである
- そのような異端が、やがて正統となる
- そして新たな正統となったら、次は自分が新たな異端の挑戦を受ける立場となるため、それに正面から応えつつ課題を担い続ける腹構えが必要である
- 批判されても中央にどっかと居座り続ける図太さと憎たらしさをもたねばならない
- それがさらなる若き異端の群れを育て、鍛えることだろう
- そのようにして大舞台が回り続けることが、健康な社会の徴表(特徴・目印)である
- もし現代に正統の復権が可能だとすれば、それは時代の正統を担おうとするこのような正真正銘の異端が現れることから始まる以外にない
→異端審問官ハルベルトやアキラくんたちのコルセスカが歩むべき道?
いのちはなぜ大切なのか 小沢竹俊
- ホスピス医療に関わる筆者が、考えてきたことをまとめた新書
- 子供向けだが、内容はしっかりしており、
- 「いのちの教育」での「いのちの大切さ」の説き方にある問題点や、生を肯定するための考え方について書かれている
- 「いのちはひとつしかないから大切」「いのちは先祖からつながってきたから大切」、死の恐怖の強調といった、
- いのちの教育で使われる言葉についても批判している
- 他にも、人が穏やかでいられるための3つの柱や、自己肯定・自立の分類、思春期の自己否定も必要なことなども語られている
- 動けないほど身体機能が衰えても、選択という自律だけは出来る
- 神様でもなんでも、関係性の支えがあれば、人は死が身近でもおだやかでいられる
- ただし自分の支えは、オリジナルを自分で見つけなければならない
- 支えになってくれる人がいなくとも、自分が誰かの支えになることも出来る
- 他者との関係を育めば、生きる意味を見いだせることも
- 委託による死の恐怖からの解放(自律の柱と時間の柱・将来の夢の応用)
- たとえ自分で出来なくても、自分の行いたい大切なことがらを、心から信頼できる誰かに委ねること、
- 手放すことができたならば、たとえ死が身近に迫っていても、おだやかでいられると認識する可能性が見えてきます
→『使い魔』?
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衣服は肉体に何を与えたか 北山晴一
- 『日本経済新聞』のコラム「衣身伝心のはなし」を加筆修正したもの。
- 衣服の話に手が抜かれているわけではないが、採用されている数々の画像のせいで、衣服よりはるかに肉体の印象が強い
- 衣服論に興味があるなら、ギュスターヴ・クールベ『世界の起源』の章は後回しにした方が良いだろう
- 平等思想は、社会的な差別から人間を解放したが、同時に社会のネットワークから切り離し、人間をアトム化、つまり匿名でバラバラな存在にさせた
- モード現象とは、差異化への必要と同一化への誘惑の両方を、同時に満足させてくれる社会的な装置である
- 近代社会は、変化を経済的価値に換算するようになって、歯止めを利かなくさせた
- しかし社会の基礎をひっくり返すような変化は困るので、近代社会が採用した「変化の制御装置」こそが、モード現象なのだ
- 言いかえれば、モードとは、個人を序列化された秩序に巻きこみつつ、結局は横並びのユニフォーム化状態を出現させる、そういうシステムなのである
- 流行とは、すなわち変化の制度化なのだ
いまを生きるための教室シリーズ 角川文庫編集部
- 各教科を専門家が本気で論じる、大人も読める教科書シリーズ
- 『今ここにいるということ』
- 芸術:後ろ姿や闇がもたらしてくれる想像力を大事にしよう
- 青森県での少年犯罪シンポジウム:高校生の「人間をなぜ殺してはいけないのでしょうか?」の続き、想像と思考の大切さ
- 社会:大澤真幸
- 冷戦を通じて証明されたのは、〈自由〉より重要な価値がないということだが、自由社会には「責任」が不可欠
- 選択の結果が偶然に等しいなら、その責任を問うことが、自己責任を問うことが出来ない
- 責任は、原因がないところに、それがあるように想定するところに生まれる
- 真の赦しとは、原因(罪人)があると知りつつ、それがないかのようにみなす決断である
- 真の赦しを通じて責任を、ひいては〈自由な社会〉を再生させる事ができるはず
- 推薦者による私見:赦しとは(個人を無条件で受容する)共同体あるいは居場所の「かたち」を演じる者によって与えられるものだということではないだろうか?
意味と他者性 大澤真幸
- 分析哲学と社会理論の間に位置するという本
- 意味に「他者」(正確には他者にとって「他者である自分」)が必要であるという話や、それが機械に「心」があると認められる条件でもあるということが記述されている
- 探究は、施策の順拠点として、直観や共通感覚の水準に遡行しようとするが、それらは、思索がなおそこから分離していくべき場としてのみ準拠としての意義を持つのである
- このような分離を可能にする一つの方法が、言語の分析を媒介にした探究なのである
- 言語に先立つ領域のさらに深部こそがじゅうようなのだから、この戦略はまったく倒錯しているように見えるだろう
- しかし、単純に言語をかなぐり捨てた場合には、かえって心地よい詩的言語を通じて、底の方にも開いている穴を隠してしまうだけだ
→【邪視】に対する【呪文】の話
- 私の考えでは、言語の分析の水準に留まることは、二つの有効性を持つ
- 第一:直観から言語がどうしようもなく隔たっているということを利用して、直観そのものに宿る亀裂を表現してしまう
- 直観に殉じようとして、言語への不信を装えば、かえって言語への過剰な信頼に陥っていく
- 私が提案したのはその逆で、言語への徹底した信頼を装うことで、実質的に言語への不信を構成し、言語に基礎を与える領域を剔出してみようということである
- 第二:もし、言語に、たとえ否定的な価値であるにせよ世界に対する態度の総体が引き継がれているのであれば、そのような態度の最も基礎的な部分は、結局、言語の使用についての換言不可能な普遍的条件の中に痕跡を留めているはずだ
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- 第一:直観から言語がどうしようもなく隔たっているということを利用して、直観そのものに宿る亀裂を表現してしまう
イメージの記憶(かげ) 危機のしるし 田中純
- 雑誌『UP』の連載「イメージの記憶」を中心に、筆者による近年のイメージをめぐる論考を集成した論文集
- 「不死のテクノロジーとしての芸術」や神話、影などア関連の話も多い
- やや難解であるし当然のように美術史などの知識を前提としているが、たぶん一般人でもなんとか読めなくはないレベルの本
- 『シン・ゴジラ』論やカミュ『ペスト』、ドナルド・トランプの風刺画、そしてホロコーストなどの話もある
- 大量に出土する握斧についての論の紹介
- 英国の文化人類学者ティム・インゴルド
- ヒトが両手を使って石核から剥片を削り出す作業を行う過程で、その手の形状をなぞるように創発的に出現した
- つまり握斧は、ヒトの「身体」と素材である「もの」との相互触発的なプロセスのなかで「かたち」が創発的に「出現」した
- ホルスト・ブレーデカンプ
- 化石が、握斧の中央に絶妙のプロポーションで配置された握斧がある
- 化石という自然の「像」がヒトの「身体」にもたらす像行為の作用によって、
- 石核という「もの」が握斧という「像」に変容した
- いずれも、資料形相論や心身二元論のモデルに依らない形態生成説明の試み
→モノとヒトの関係性による創発、『使い魔』、義肢『イストリン』、包摂(サブサンプション)アーキテクチャ?
- 英国の文化人類学者ティム・インゴルド
- 不死のテクノロジーとしての芸術
- 古代ギリシア・ローマの最古の文字は、器物に書き込まれた「器物それ自体」が一人称で自分の説明をしている文であった
- ギリシア語の「わたし(ユゴー)」は、元来たんに「ここにあること」を意味する名詞から派生しているという
- オブジェが「ここにあることという性格、それを「いま、ここにあること」と理解するならば、
- これは、当該のオブジェがベンヤミンの言う「アウラ」を有するということではないか
- 古代ギリシア・ローマの最古の文字は、器物に書き込まれた「器物それ自体」が一人称で自分の説明をしている文であった
- ボリス・グロイス『アート・パワー』の引用
- ベンヤミンがオリジナルとコピーの区別をめぐって問題にしていたのは、それらがどのような歴史的場所に配置されるかという「トポロジー」であった
- したがって、オリジナルから場所を暴力的に奪うことになる「アウラの喪失」が生起しうる一方では、
- コピーに固有の場を与える操作も可能となる
- ベンヤミンが「世俗的啓示」と呼んだものは、コピーを「遠さのトポロジーの内に置く」この操作を通じ、
- 「アウラの喪失」を逆行させることである
- グロイスは現代美術におけるインスタレーションという形式のうちに(中略)
- 彼が同様に重視する形式はアート・ドキュメンテーションであり、これらの相互作用が「アウラの除去と再付与」の複雑な遊戯をかたちづくる
→『杖』の手法による零落の逆行、展示やその記録を通じて神秘性の再付与をする?『杖』の要素が強い『呪文』?
- 彼が同様に重視する形式はアート・ドキュメンテーションであり、これらの相互作用が「アウラの除去と再付与」の複雑な遊戯をかたちづくる
- したがって、オリジナルから場所を暴力的に奪うことになる「アウラの喪失」が生起しうる一方では、
- アート・ドキュメンテーションは、アート・スペースのなかで芸術のメディウムを使うことにより「生そのもの」を指し示す試み
- それは同時に、生政治でもある
- 写真家アニー・リーボヴィッツの論争を呼んだ写真集『或る写真家の人生』
- 同棲していた恋人の作家スーザン・ソンタグの遺体を撮影したため、その息子から母は「死後に辱めを受けた」と非難された
- リーボヴィッツは、死者ソンタグのまなざしに同一化していたのではないか?
- トランス状態のなかで、リーボヴィッツが依り代となっって死者ソンタグも視線を体現し、死者みずからがおのれの亡骸を外部から注視していた、
- そのまなざしの軌跡のように思われる
→死者の代弁 - しかし、その「死者のまなざしへの同一化」は写真家が耐えきれなくなったのか、最期で破綻している
- (因習的な作法に従った)最期の全体像の写真は、死者の視線がとらえた亡骸のイメージ群を、写真家自身を含めた生者たちの世界に取り戻すために必要な作業だった
- これら一連の写真のシークエンスが「示される」べき共同体とは、「死者たちの共同体」ないし、少なくとも「死者たちとともにある共同体」でなければならないように思われる
- 古代ローマの共和制下でイメージに要求された「尊厳」もまた、「死者たちの/死者たちとともにある共同体」を前提としていた
- この言葉がわたしの脳裏を去ろうとしない「ラテン語を話した人びとは死ぬことを『より大勢のほうへ行く』と言っていた」
- 著者の本『デヴィッド・ボウイーー無(ナシング)を歌った男』に関して、「無」の思想の逍遥、「無」に関する思索、ボウイ論の外部に拡がる思考の可能性
- 哲学者・唐木順三『中世の文學』
- 「つれづれの無為」という一種の形而上学的ニヒリズムを脱却し、文化や歴史を蘇らせ、無為に代わる行為を開拓せんとしたのが、世阿弥の「さび」
- 詩を生み出し、舞台上に一瞬の花となって咲き、端歌や小唄の一節を通して魂を震撼させる「無の色気」
→『呪文』
- 哲学者・唐木順三『中世の文學』
- 光/闇の二元論ではなく、陰影の濃淡こそが問題
医療倫理 よりよい決定のための事例分析 グレゴリー・E・ペンス
- さまざまな医療倫理問題について、具体的な事例ごとに論争を紹介し分析している本(全二巻)
- 倫理の歴史まとめや、最初に「正解」を決めてしまう「論点先取」などの論証関連問題についてしっかりまとめてあるのが良い
- 扱っている範囲も幅広く、安楽死や中絶、代理母などの難しい問題もしっかり触れている
- ただ、この本は著者が自分の見解を述べる面が強すぎるため、中立性はやや低い
- 著者には、医療は「慈悲」を再重視すべきという信念があり、安楽死、中絶などの事例でその意見がはっきりと出てしまっているのだ
- どうやら、「滑りやすい坂」の懸念を危惧することなく、苦痛しかない生から患者を解放すべき、というのが著者の信念であるらしい
- ただ、この本では実際に「滑りやすい坂」が現実化してしまった実例も紹介されていているのだが、その箇所だけは、著者のコメントは特に無かったりもする
- また、これはあくまでアメリカ人のための本なので、自由第一のアメリカ合衆国の現場と憲法を前提にしている
- そのため、日本医療や法律のこれからについて考えるには、今ひとつ役立たない面があることも否定できない
- 「滑りやすい坂」:「くさびの薄い刃先」議論、「くさび」議論とも。
- 概念について明確に定義されないまま、使われることが多い
- 一般的には、特に問題がないとされた一歩が踏み出されるなら、一連の他の変化が必然的に発生し、最後に非常に望ましくない結果が生じるというもの
- 例:医療が、いったん自殺幇助やダウン症胎児の中絶を求めると、それはやがてナチスドイツの医師による大量虐殺へ至る、とする論など
- その議論は「経験的な」ものと「概念的な」ものの二種類に大別される
- 「経験的な」議論:いったん第一歩を踏み出せば人間本性の悪い側面が現れ、それを抑えることができなくなる
- 「概念的な」議論:理性は同様のケースを同様に一貫して扱うようものであるから、いったん道徳規則がわずかに変更されるなら、他の変更も必然的に生ずる
- 前提、結論、事実と価値の溝
- 自然主義的誤謬:事実と価値の溝を飛び越えること、事実的前提から価値判断を含む結論を導くこと、また事実的前提が与えられているとき事実と価値の結合関係を示さないことは、誤りである
- 宗教と倫理
- 道徳を神の与えるものと信じるなら、私たちは、どうすれば在る特定の道徳規則が神の意志だと分かるのかを考え、その根拠を示さなければならない
- もし聖書のような原典を根拠にして神の意志を理解しようとするなら、数ある解釈のうちからいずれを選ぶのか、そしてその選択をどうやって正当化するのかを問う必要がある
- 道徳的多元論:日常生活においては、ある程度の道徳的多様性が出てこざるを得ないと認めてしまうことである
- 多元論は、倫理にはそもそも真理というものが在るのかという問題を提起する
- 医療は、いつでも誤診の可能性がありうる、安楽死における寿命や障害児の障害診断の場合でも…
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陰謀論の正体 田中聡
- 現代社会では、陰謀論的な考え方が避けられなくなっているとして、そんな社会でどう生きるかを説いている新書
- トランプ政権やコロナ禍以前の本ではあるが、様々な陰謀論の周辺事情に詳しく、陰謀論について独特の扱いを提案している
- 著者は、陰謀論を単なる負のレッテルとして思考停止することを批判し、逆に「思考を促す有用な道具」として扱う可能性を見出しているのだ
- 陰謀によって社会が悪くなっているという危機感がなかったら、陰謀論などありえない
- 以前は、多くの人に陰謀論が訴える危機の認識が共有されなかったため、陰謀論は本格的に流行っていなかった
- それが、東日本大震災と福島原発事故で変わった
- 原発事故の状況をつねに過小に発表していた政府やマスコミへの不信感が、人びとの不安と不信を一気に増大させたのだ
- 陰謀論者はトンチンカンなアホウに見える
- しかし、作り手の意図を戦略として読もうとする態度も、陰謀論者の思考と変わらない
- 経済的成功が最優先化している社会では、売上のための戦略と陰謀を厳密に分けることは難しい
- 陰謀論の世界では、様々な映像などから象徴的な意味を読み取る
→呪術的思考 - 陰謀論は、体制や権力による民衆の扇動である場合もある
- 関東大震災で朝鮮人の虐殺を招いたデマも、その出所は警察や軍隊であり、内務大臣の水野錬太郎などたった三人の権力者による画策だったという
- ただ、それだけでなく、それは免罪感を求めた民衆の暴走でもあったのかもしれない
- 松本清張『日本の黒い霧』:GHQの支配を説く陰謀論は、そのことによって逆に、日本人と占領軍の共犯関係を隠蔽しているのではないか?
- 戦争で死んでいった死者たちへの負債と裏切り、繁栄をアメリカとの「共同正犯」によって得た後ろめたさ
- どこかに「問題」を見れば、他の「問題」が隠される
- それは仕方のないことだから、そのようなものだと知って応用していけばいいのだ
- むしろ「共同正犯」を見出すことこそ、「すべてはつながっている」と考える陰謀論にぴったりの仕事ではないか
- 「パレーシア」:フーコーの用語。ある知のあり方が真理になるための「真理のゲーム」に実践的に関わること
- 真理を語るということは「真理のゲーム」に参加すること
- 真理は、歴史的に作られたものであり、絶対性はない
- 個々の真理は、自由な主体の「行為としてしかあり得ない」と考えると、すべての主体は自分なりの真理の確立に参加することが出来る
- 陰謀を肯定する「高貴な嘘」の思想を持つネオコンなど、新自由主義の社会では実際に存在する陰謀に歯止めが効かない
- しかし個人には、こうした嘘を暴くような力はない
- ならば、間違ったことを言い続ける「パレーシア」で真理のゲームに参加するしかないのではないだろうか
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映画を見る歴史の天使 あるいはベンヤミンのメディアと神学 山口裕之
- 『複製技術時代の芸術作品』において、映画などの新しい技術によるアウラの凋落(零落)を語ったベンヤミンの研究書
- これまで分けてられていた彼の二つの主題「メディア」と「神学」を一つのものとして、語っている
→『邪視』?メディアミックスされている神話の魔女コルセスカ? - その文章は比較的読みやすく分かりやすい
- ア関連では、「名(命名)」「集団的身体と技術」や「模倣における魔術性」「グーテンベルクの銀河系の終焉」
- また、この本で語られる「魔術性」とは、大量複製技術が普及する以前の芸術作品が持っていたとされる「アウラ(オーラ)」と結びついているものであり、
- それは、アで言うところの「神秘」あるいは「クオリア」かそれに近い概念ではないかと思われる
- ベンヤミンは黙示録的な「人間の歴史が終焉した後に永遠の神の国が到来する」ような神学・歴史観を持っていたようであり、
- それは、世界と合一していたエデン的な原始の状態から、「文字」の世界に落ちぶれた人間のメディアと深く関わっている
- しかし、ベンヤミンにとって文字は単なる「堕落」というわけでもなく、
- その堕落の極みには、救済の可能性もあるとしていたのだという
- また彼は、複製技術は芸術のアウラを零落させるだけでなく、
- 高度な技術は世界の再生産/再創造をもたらし、その複製物に魔術的な価値を与えることもあるとしていたのだ
- 他には「触覚の思想史」の話や、
- 週末論になっていったユダヤ教のメシアニズム「破局理論」の影響
- 人間の「悪くて一時的なアイオーン」と神の「来るべきアイオーン」その二つの世界は相容れないという話も、また興味深い
- 週末論になっていったユダヤ教のメシアニズム「破局理論」の影響
- 抜粋
- 仮想的な身体性と結びついた魔術性、
- もはや「現実」の模倣的再現物ではなく、なかば自律的に存在する完全な「リアリティ」の世界
- 現実世界は「罪」のうちにとらわれた「歴史」の世界
- はかなく時間が過ぎゆく「廃墟」に過ぎない
- 「映画」というメタファーによって語られる高度な技術メディアを通じてあらたな魔術が支配し、
- 「映画」のなかで映し出されていたはずの「現実」がいつの間にか消滅していく
- ちょうどある映画の末尾で、1つの物語(歴史)が超越的なまなざしによって仮想的な経験という枠を与えられながら閉じられていくように、
- 天使は、そのプロセスを歴史の世界の外から見ている
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- 仮想的な身体性と結びついた魔術性、
映像文化の社会学 長谷正人
- 写真、映画、TV、映像を社会活動の一種として分析した本
- ベンヤミンは、大量複製技術が、芸術作品のアウラを凋落(零落)させると主張した
- しかし、現代のスターは、むしろ大量複製される映像によってそのアウラを支えられている存在なのだ
- 大量複製される映像の文化には、無名の大衆が「無名なまま、その人生を肯定される可能性」と「有名になり、スターに近づく可能性」の二つの道が開かれている
- つまり、アウラが凋落する喜びと、アウラを感じ取る喜びの両方が存在するのだ
- だからこそ、映像文化について考えることは、魅力的なのである
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越境者が読んだ近代日本文学 鶴田欣也
- 感情抑え気味な、文学の論文集
- 境界関係の話は、越境者である筆者の話が大半だが「甘え」に関する話
- 「甘えと文化衝撃」:甘えさせる喜びというのは授乳の気持ちよさに似ていて、煎じつめると自我の拡張と関係があるのではないだろうか
→ルウテト? - 考えてみると、今まで日本近代文学の批判の基準は、西洋から輸入された個という概念にあった
- 外国の批判基準で自国の文学を裁くというのは、必ずしも悪いことではないが、それが金科玉条となると害がある
- 見えるものがあると同時に、それによって隠されてしまうものもあるからである
- 個だけに焦点を当てると、甘えや同化が暗闇に隠されてしまう
- 人間が健康な精神を発達させるために幼児期の甘えが必要だという土居健朗の言葉を否定する者はいないだろう
- しかし、優れた文学者というのはどうも「健康な精神」を持たないで育った人が多いのではないかと思う
- 芸術や文学を通して自分の世界とのつながり、いわば同化や甘えを持とうとしているのではないだろうか?
- 「すねる」「ひがむ」「うらむ」の人たちは、「甘え」に満足している人たちには見えないものが見えるのだ
- 充足と文学は対立関係にある
- 暗夜行路における「甘え」と「ゆるし」
- 『暗夜行路』の主人公謙作は、一方的な「甘え」と相互的な「持ちつ持たれつ」そして「ゆるし」によって、西洋的自我の定規では測定できない複雑な成長の軌跡を描いている
- 謙作の成長は、ある時点で甘えがポンと道端に捨てられるようなものではなく、薄められながらも残っていて、その必要性があればすぐに頭をもちあげてくるもの
- 成長は、同時に「甘える」が「甘やかす」方に転換することでもある
- 謙作は、自分は幼少時に甘えをあまり与えられないで育ったと信じていた
- 入ってないものは出てこないので、甘えを自然から吸い取り充電することによって、彼はゆるすことができ、愛することができるようになった
- 日本的な成長とは、相手を認め、ゆるし、相手と「持ちつ持たれつ」の関係を結ぶことなのだ
- 相手をゆるさないところには、甘えもない
- 甘えは相手と同化することだから、いつまでも自己の境界線を明確にしていたのでは、ゆるしもなければ甘えもない
- ヘミングウェイの個と「甘え」:『老人と海』では、闘っていた敵と同化している
- 相手を知ることで、その資質が越境しているのである
→アキラくんとカーインなど
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- 相手を知ることで、その資質が越境しているのである
美味しい料理の哲学 廣瀬純
- 「シリーズ道徳の系譜」の一冊
- 現代では、忘れ去られてしまった概念「美食のコミュニスム」
- それは、十九世紀フランスの「空想的社会主義者」シャルル・フーリエが、著書『えせ産業』で提唱したものである
- この本は、それにふさわしい言葉や思考を集団でつむぎだしていく、そのきっかけになることを目指して書かれたのだ
- フーリエはその生涯に渡って、食べ物の「美味しさ」やそれがもたらす喜びを万人が得られる社会、生産者・消費者の協同組合に基づくような社会を夢想し続けた
- 現代では、彼が夢見たように「食」は生理学的機能から解放されたが、しかし、それを論じるための言葉は相変わらず貧しいまま
- 料理を語る言葉は「健康」という生物学的タームへと退行してしまっている
- 本書は、「美味しい。」という稚拙な言葉を超えて新たに思考を展開して行くために、「美味しい料理」をそれとして思考し新たな言葉を生み出すために、
- その糸口となり得るアイディアを提供している
- そのアイディアとは、「串に刺さった焼き鳥」に集約される
老いと踊り 編著:中島那奈子 外山紀久子
- 表題の通り、ダンスにおける「老い」および、「老い」の価値や位置づけについて追求している論考集
→四章断章編・ヴァージルとサイザクタートの話におけるグレンデルヒ(ウォゾマの姨捨てへの反論 - 収録されている論考は、2014年に東京ドイツ文化センターで開催された国際シンポジウムの公演や議論をもとに、
- ブラッシュアップされたものでもある
- その中身は、ポストモダン系学問を基盤とし、そこへ芸術批評や台本的の要約、日本神話と、それぞれ別種の専門分野の文章が同居しており、
- 読解に、三タイプの異なる知識や文体への慣れが必要とされるという、読みにくさフィーバーな状態となっている
- とはいえその根底にあるのは、どれも老いに対して人間がとってきたスタンスという、普遍的なもの
- 文章の大意を読み取るだけなら、そう難しくはないと思われる
- ただ、老いの再評価や研究については、まだまだ始まったばかり
- なにしろ、英米文化圏では、長い間〈老い〉について語ることはタブー視されていたとされ、
- まだ一部の芸術家の表現にしか〈老い〉の肯定が存在しないのである
- このテーマにおいては、〈老い〉が成熟として高く評価される日本の能が、一番の最先端と言えなくもないくらいなのである
- まあ、その日本も現代においては、(序文で愚痴られているように)
- 効率の良い労働力として、成人・男性・健常者の「強さ」を求め「弱さ」を回避した高度経済成長期の名残りや、
- 女性のみ若さや美が重視されるような、差別的な傾向が根強いことも否定できない
- 結局、こちらでも〈老い〉の価値については、こうした研究や一部の舞踏家の活動を通して再発見しはじめたところに過ぎないのだ
- ア関連では、
- 能の主人公に多い死者や、社会の外部にいて死者に近い老人の持つ「死者の眼」
- すなわち、死後の地点から生を評価するまなざしと、それによる「近代的主体」「個人という鎧」の武装解除や、
- 西欧において、美の概念を形成するその対極とされた「吐き気をもよおすもの」=老婆の話
- そして、日本における踊り手の三つの人格(役・芸名・本名)と万世一系の襲名や身体に叩き込まれた「型」などに、関わりがみられる
→リールエルバ- ドイツ文学者のヴィンフリート・メニングハウスによれば、吐き気をもよおすものと瞬間こそ、
- それが理想の美から排除されたものであることによって逆に、理想的な美しい体を形作っているという
→三章、相対的なアイデンティティの話
- また、沖縄の「ファーカンダ(葉・茎)」という言葉と、祖父母が孫に生まれ変わる生命観
- 植物のような連続性の話や、
→リーナに憑依転生していたダウザール - 舞台表現では、一人の演者が子供から老人までの成長や、逆に若返りを演じる演目が紹介され、
- 日本神話においては「翁童身体」という、相補的に連続し合っている神話的・存在論的イメージの話もされている
→オルヴァ
- 日本神話においては「翁童身体」という、相補的に連続し合っている神話的・存在論的イメージの話もされている
- 能の主人公に多い死者や、社会の外部にいて死者に近い老人の持つ「死者の眼」
- ちなみに、この本に掲載されている写真の中には、乳房むき出しの(素人には深夜に叩き起こされた主婦にしか見えない)踊りのものもあるので、
- 読む際には背後に注意すべきではないかと思われる
- 中上健次『日輪の翼』を舞台化するために、台湾で買い上げたステージトレーラーのデコトラの柄
- 鳥の羽と蛇の絡んだ翼竜という、異種交配を示すもの
→『聖婚』?
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- 鳥の羽と蛇の絡んだ翼竜という、異種交配を示すもの
お金より名誉のモチベーション論 太田肇
- 日本人の承認欲求とモチベーションを分析した本
- 日本では、欧米と異なり会社に共同体要素が盛り込まれており、地位=全人格的評価である
- そのため、日本では地位の上昇のような積極的に認められる「表の承認」はあまり歓迎されず、序列を守り調和を保つことで消極的に認められる「裏の承認」=周囲との調和によって認められる承認が重視される
- 人がお金や仕事の楽しさ、面白さ、あるいは達成欲求や自己実現欲求に動機づけられているように見えるときも、それは自己弁護が含まれるものであり、その裏には承認欲求があることも多い
- 刑事ドラマで主人公がヒラばかりなのは、収入以上のアウトプットや貢献をしないと評価されないという「裏の承認」の代表例である
- 社会や組織は閉鎖的になるほど、その内部での価値基準は均質化し、そこで得られる承認は「ゼロサム」つまり限られた承認を奪い合うようになっていく
- 裏の承認が重視される風土は画一性と調和をなにより重んじる農業社会や小品種大量生産の工業化社会には適していた
- しかし、本当の意味で個性や創造性が求められるポスト工業化社会(情報化社会・知識社会)では、裏の承認に厳しい風土は大きな障害となる
- 風土は一朝一夕では変えられないが、承認のし方やされ方を少しずつ変えていけばいい
オタ文化からサブカルへ ナラティヴへ誘うキャラクター アライ=ヒロユキ
- アニメにおける宮崎駿の限界から『少女革命ウテナ』や『宇宙海賊キャプテンハーロック』『銀河英雄伝説』まで様々な作品を通して、運命に抗う「英雄」あるいは「役者」として振る舞うキャラクターと、批評性を持つサブカルチャーの可能性を論じた本
→四章断章編・学園編など、「役者」として振る舞うキャラクターたち - 行為体=キャラクターの三つの役割。
- 私たちを公的領域へ「つなぐ」こと、「自由な振る舞い」によって媒介し抗って一元的なイデオロギーに回収されない複数性を確保すること、そして、物語世界を注視し鑑賞する「鑑賞者」として私たちをも世界の鑑賞/注視へと誘うこと
- 世界は効率で支配された消費物ではなく、生き生きとした意味のあるもの。私たちは消費者ではなく、人間という存在
- そこに至る道は、鑑賞/注視から始まる
- そして、サブカルチャーは本質的に社会的領域にあって、公共領域に侵食する稀有な存在であるがために現代社会の本質を浮き彫りにする
- それが、サブカルチャーと呼ばれるものの持つ可能性である
→神話的キャラクターであるコルセスカ、および『幻想再帰のアリュージョニスト』自体が持つ可能性? - 『装甲騎兵ボトムズ』と『THE ビッグオー』ありあわせのメディアイメージの応用(アプロプリエーション)によって作られた舞台の、時代性とその意義
→サイバーカラテ?
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