秋刀魚の缶詰

Last-modified: 2015-10-13 (火) 09:29:17

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No.150
weapon150.png秋刀魚の缶詰戦闘糧食
装備ステータス
火力雷装
爆装対空
対潜索敵
命中回避
射程
装備可能艦種
駆逐艦軽巡洋艦重巡洋艦戦艦
軽空母正規空母水上機母艦航空戦艦
備考
開発不可能
アイテム「秋刀魚」の交換で入手可能
旬の水揚げされたばかりの新鮮な秋刀魚を使った蒲焼の缶詰です。
脂が乗った秋刀魚を炭火焼で丁寧に仕上げたその味は、そのままでも美味しいですが、
おにぎりと一緒に食すれば美味しさ倍増です。
(戦闘糧食と一緒に発動すると効果倍増です。発動すると消滅します)

ゲームにおいて

  • 2015年10月09日のアップデートで実装。
    • 同日開始された期間限定ドロップイベント「秋の秋刀魚祭り?」にて収集できる「秋刀魚」を7尾集めることで1個交換できる。
    • 実装当初はアイテムから交換しても装備図鑑に載らない不具合があったが、2015/10/11のオンメンテで修正された。
  • 戦闘糧食と同じく補強増設で追加した補強装備スロットにも装備可能。
  • 発動した場合、本人はcond値+12で仲間はcond値+8~+10。戦闘糧食に比べておすそ分けの効果が大きいのが特徴。
    • 戦闘糧食と一緒に使う(同じ艦に装備する必要あり)ことで本人はcond値+21、仲間はcond値+17~+20と効果がおよそ2倍になる。
      とはいえスロット2つを使う必要があることや、この装備自体の入手可能数に限りがあることを考えると、雰囲気重視の仕様であろうか。

  • 今後の実装可否次第では二度と入手できなくなる可能性はややありえるため、秋刀魚7尾で図鑑埋めで最低1個入手しておくのもいいかもしれない。

小ネタ

  • イラストのレッテルの文字は以下の通り。
    品名:秋刀魚蒲焼
    内容量:四三二瓦(432g)
    納入年月:昭和一六年一二月(1941年12月)
    製造者:???間宮 明石工廠(?部分は読めず)
    納入者:鎮守府罐詰株式会社
    • 実際に、間宮は缶詰製造設備も持っていたらしい。
  • 缶詰とは金属缶に食材と水や調味液を詰め、密封して加圧加熱殺菌したもの。*1
    • 日本において初めて缶詰が作られたのは明治4年(1871年)であり、フランス人指導のもと長崎県でオイルサーディンの缶詰が試作された。
      本格的な生産としては明治10年(1877年)にアメリカ人指導のもと製造されたサケの缶詰が初めてである。
      このサケ缶が製造された10月10日を日本缶詰協会は「缶詰の日」として制定している。丁度秋刀魚イベント開始の次の日である。
  • 長期保存がきき、調理の手間がいらない缶詰は、帝国陸海軍も大いに活用していた。
    • どのぐらい長持ちするかというと、2015年7月に香川県で発見された昭和19年製造の赤飯の缶詰17個が、中身に全く異常がなかったほど。(検査の結果、若干変質はしていたものの、細菌などは検出されず。)
      缶が錆びなければ非常に長い間保存できる。勿論風味は劣化するが
      ちなみにこの赤飯の缶詰は、海軍所属だった水兵が両親への手土産として故郷の小豆島にこっそり持ち帰っていたものらしい。
  • その種類は多岐にわたる。赤飯、五目飯、いなり寿司、餅などの主食系や、牛缶、鯨缶、鮭缶、鯖缶、ウナギやイワシや秋刀魚の蒲焼缶などの副食物系、
    ミカン缶、桃缶、パイン缶、みつ豆缶などの嗜好品系、タケノコや松茸など*2の各種野菜の水煮缶など、あらゆる種類の缶詰が海軍で用いられていた。
    • と言っても、水上艦艇では中々お目にかかれない代物でもある。乗員たちがよく目にするのは、せいぜい酒保で販売されているフルーツ缶各種や、
      戦闘糧食で配られる牛缶や鯨缶などがいいところ。烹炊所が生きているのに缶詰を使う必要は無いからである。
    • ではどこで使われるのかというと、潜水艦や航空隊にそれから陸戦隊などが主。
      潜水艦に積み込まれた生鮮食料品は大体1週間で無くなり、それ以降は延々と缶詰の食事が続くことになる。
      なので出撃前の潜水艦は通路その他、積めるところにはすべてびっちりと缶詰の木箱が積み込まれ、乗員はそれを踏んづけて歩かねばならない。食糧を踏むのは多少気が引けたという。
      • 毎日毎日缶詰の連続なので、乗員たちもいい加減ウンザリして食欲が落ちてゆく。
        なので乗員たちは日持ちのする生の玉ねぎを持参ないしギンバイしておき、各自オニオンスライスにして醤油や味噌で食べていたりもしていた。私物の鰹節もあれば言うことなし。
        たかがオニオンスライスではあるが、生鮮食料品に飢えた乗員たちにとってはこの上なき美味だったという。
    • また、航空隊では搭乗員たちの長時間飛行の際に弁当として使われていた。予め缶詰ごと湯煎しておき、上空で開ければ温かい食事にありつけるというわけだ。
    • さらに、水上艦艇では大事なギンバイ対象品であり、一種の通貨というかつまりはちょっとしたワイロの種でもあった。
      • 缶詰を保有するのは主計科であり、その主計科の使う調理用スチームや真水や冷蔵庫などを管轄するのは機関科。タカられるのは当たり前だった。
        内容としてはこうだ。機関科の古参下士官兵の胸先三寸、調理の時間にスチームのバルブを開けなかったりポンプを作動させなかったり冷蔵庫のカギを開けなかったりする。
        アワを食った主計兵が駆けつけてきても「どうも蒸気の上がりが悪い」「ポンプの具合が悪くてねえ」「担当者がいないからカギがどこにあるやら」などとトボける。
        主計兵も古参になると心得たもので、サッと缶詰その他を持参すれば効果覿面、ものの3秒もせずに突然機械の具合が良くなったりカギが見つかったりする。
        あまりに機関兵が悪どいように見えるが、当の主計兵は主計兵で、いつも缶詰どころか食材の上等部位だけ使った豪華な特別食と洒落込んだりしているので、お互い様でもあった。

  • ところで、秋刀魚にかぎらず、漁と海軍、そして釣りと海軍は切っても切れない縁がある。
    • 北方の洋上、採れたての鮭やマス、カニなどを現地で缶詰に加工する海上缶詰工場ともいうべきなのが漁業工船。いわゆる「蟹工船」もその一種。
      「敵艦見ユ」の信濃丸や第一回ブラジル移民船笠戸丸、旧病院船博愛丸など、錚々たる面々がボロ船と成り下がって余生を過ごす職場であった。
      ところが彼女たちは漁獲のために相当きわどい行動をするため、よく領海侵犯の疑いでソビエトの監視艇に捕まったりしていた。
      そんな彼女たちを守るために警備の任に就いていたのが第1駆逐隊などの海軍駆逐隊だった。
      ソ連警備艇へ睨みをきかせるばかりでなく、「何某丸が捕まった」と聞くや駆けつけてソ連当局と交渉、乃至場合によっては隙を見てかっさらってくるのが仕事である。
      小林多喜二の『蟹工船』での警備駆逐艦はぼろくそな書かれようだが、漁業の保護もまた、当時の海軍の大事な仕事だったのである。
    • また、爆雷戦訓練で魚群がいそうなところを見計らって爆雷を投下、気絶して浮いてきた魚を拾うという「爆雷漁」も海軍ならではだった。
      これに関しては中でも特に、近場に良質な漁場の多い呉鎮守府所属の駆逐艦の得意技だったという。*3
      • 古い時代には、水雷艇が調子に乗って高松沖かどこかでやってしまい漁業組合が激怒、香川県知事から呉鎮守府長官に抗議が行くという大騒動になったこともある、らしい。
      • 陸奥爆沈事件の際には最上?が図らずしてこの爆雷漁をやる形になり、瀬戸内の大鯛を実に50匹も手に入れた。
        どういう経緯だったかは最上改の項目を参照のこと。陸奥轟沈が鯛50匹の漁獲を産んだのだった。割りに合わねぇ……
    • 当時、軍艦の艦上での釣りは原則禁止という建前だったが、実際は黙認の形だった。それはそうだろう。
      司令官や艦長たちだって、規則に忠実に禁止禁止と取り締まるよりは、釣果のおすそ分けで一杯やるほうが好きに決まっているからである。
      しかも軍艦の周囲は艦から出る残飯が一種の撒き餌のような効果を発揮し、自然に魚が集まる。これを活用しない手はなかった。
      • むしろ積極的に艦上での釣りを奨励した人としては、秋津洲利根?の艦長として知られる黛治夫大佐などがいる。
        乗員の慰安としての意味以上に、釣りをしていれば自然と潮流や天候などの海上感覚を体感的に学ぶことができ、見張りの訓練にもなるからである。
        少なくとも艦内にこもって将棋やブリッジをやっているよりはずっと役に立つとの判断からだった。
        他にも利根では、真珠湾出撃前に水偵の妖精さんたちがタラバガニ釣りに精を出したとか(戦果50パイ)、
        呉軍港空襲で至近弾により浮いた魚を目当てに近在の漁師たちが小舟で利根周辺へ群がって漁獲したとか、とかく利根は妙に釣りと縁がある艦でもあった。
      • 北方海域で行動中の?でも警戒の合間を縫って釣りの許可が出た。
        北方は魚介類の宝庫だけあって、タラやカレイが面白いようにかかり、30分で15~20匹は釣れたという。毎食タラの刺し身が食膳を賑わした。
        のみならず煙突の廻りにロープを張り巡らして干物作りまでやり始め、響は干されたタラやカレイの干物で満艦飾となった。
        しかし残念ながらその後の対空戦闘で、せっかくのこの満艦飾の干物たちは滅茶苦茶になってしまったという。
      • 江田島の海軍兵学校沖は一種の禁漁区のようなもので。クロダイやウナギの大物がうようよしていた。
        軽巡大井や廃艦平戸などの兵学校練習艦ではその役目を存分に活用し、夜な夜なこっそり釣り糸を垂れて釣果を得ていた。
        胴回り10センチもあるような大ウナギが多い時では1晩に1人で5~6匹も釣れたという。
        このウナギたちは、ギンバイ料理の手並みも鮮やかにすぐさま焼きたての蒲焼きとなり、密かに賞味されていた。
      • 釣り針や釣り糸を使わないタコ採りなどもあった。
        酷暑日課と言って、真夏のあまりに暑い時間帯は訓練を中止し水泳などに充てられていたが、この時が狙い目。
        海中の岩の穴や隙間など、いかにもタコがいそうな場所へグッと握りこぶしを入れると、驚いたタコは手にしがみついてくる。
        あとはそのまま浮き上がって戦果にするだけ。哀れなタコは刺し身にされてその晩の酒の肴になる。?の乗員たちは盛んにこれをやっていたという。
  • 帝国海軍では徴用された本職の漁船たちも働いていた。黒潮部隊こと「特設監視艇」がそれである。
    外海航行可能な大型漁船を乗員もろとも徴用し、機銃や無線や電探若干と艇長以下海軍軍人数名を乗せて出来上がり。
    彼女たちは太平洋上に展開して敵艦隊や敵編隊への警戒の任にあたっていた。
    中でもドーリットル空襲部隊を発見した第23日東丸などが有名である。無論第23日東丸も乗員全員が戦死した。
    • 彼女たちの運命はまことに悲惨だった。ちょっと武装したからといっても漁船のことである。敵に歯が立つわけがない。
      敵を発見し「敵見ゆ、地点◯◯」と打電した時が最期。その一報だけを残し消息を絶つのが常だった。
      戦争末期には敵も対策をとるようになり、発見次第哨戒機の翼端で無電アンテナ線を切断してから沈めるようになったので、最期の一報すら発せないで沈む例も多かった。
      徴用されたその瞬間に死が確定したようなものであり、人知れず洋上にぽつりと浮いて死のやって来る瞬間を待ち続ける、過酷な任務だった。
      徴用された407隻の内、約300隻余り(!)が戦没したという。
  • 余談ではあるが艦これの運営メンバーは缶詰の同人誌を3冊出版している。
    • 内容は缶詰の擬人化レビューや缶詰料理のレシピ、製造会社へのインタビューがフルカラーで掲載されており相当気合が入っている。
      ちなみに秋刀魚の蒲焼き缶は3冊目に掲載されている。
      2冊目には某正規空母によく似た「大和煮さん」も登場している。運営が缶詰好きなのは確定的に明らか。

*1 日本では規格上密封してから加熱して殺菌したものを缶詰と呼んでいる。なので缶に入った乾パンやあの有名なシュールストレミングは日本だと缶詰ではなく缶入り食品である。
*2 駆逐艦「響」のメニューでタケノコと松茸の水煮缶を使ったカレーライスが出たと伝えられている。松茸は今では高級品だが当時は現在の百倍近く収穫量があった。
*3 呉鎮守府所属の駆逐隊は駆逐隊番号10番台。すなわち第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)、11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、深雪)、12駆逐隊(叢雲、東雲、薄雲、白雲)、15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮、夏潮)、16駆逐隊(雪風、初風、天津風、時津風)、17駆逐隊(浦風、浜風、谷風、磯風)、18駆逐隊(陽炎、不知火、霞、霰)、19駆逐隊(磯波、綾波、敷波、浦波)。大体この辺りが常習犯だったようだ。