ショートストーリーその2。
とり(AU):BLUE BIRDにインスピを得た話

彼方まで吹き抜ける烈風が、荒れ果てた岩肌を絶え間なく削り続けている。
そこは世界の果てか。あるいは地獄の入り口か。
高く険しい山の頂に二羽のユリカモメが身を寄せ合っていた。
本来ならば、その翼は波飛沫のように白く、気高く輝いていたはずだ。
しかし今の彼らは、クチバシから尾羽の先までが泥と煤に汚れ、まるで黒い鳥かと見紛うほどに薄汚れている。
それは、彼らが潜り抜けてきた凄惨な時間の象徴であり、魂に刻まれた消えない傷の表れでもあった。
片方の、鋭い眼光を持つユリカモメの右脚には見るも痛々しい古傷が残っている。
もう一羽、どこか憂いを含んだ眼差しのユリカモメはその胸元に羽毛が深く沈み込むほどの、二度と元には戻らないであろう窪んだ傷を抱えていた。
荒れ狂う砂埃と潮の香りが、二羽の長い尾羽をぱたぱたと叩く。
彼らはただ目を閉じ、己の翼の中に頭を埋めて、風という名の絶望をやり過ごすように深く微睡んでいた。
眼下には、見渡す限りの灰色の海が連なっている。
重く垂れ込めた雲の隙間から、まばらな光の粒子が海面へと散らばり、水平線の彼方では音もなく雨が降り続いていた。
やがて、脚を怪我した方のユリカモメが、ゆっくりと頭を持ち上げた。
彼は頼りない足取りでひょこ、と一歩前に踏み出す。その僅かな気配に気づいた胸に傷を持つ相棒が、瞼を押し上げた。そこにあるのは、言葉にせずとも伝わる深い懸念と、沈黙のままに見守る覚悟だ。
脚に傷を持つユリカモメが、意を決したように翼を広げた。
その瞳は、優雅な渡り鳥のそれではない。幾度も地獄の底を覗き込んできた者だけが持つ、鋭く、研ぎ澄まされた光を放っている。彼の広げた翼が風に煽られ、相棒の耳元をくすぐった。
「……行こうぜ」
その掠れたさえずりは、まるで世界を塗り替える魔法のように響いた。
不思議なことに、水平線の向こうで降り続いていた雨がその一言を境にぴたりと止んだ。
胸に傷を持つユリカモメはまだ眠気の残る瞳で、相棒よりも優しく、しかしどこか意志の強い眼差しでまばたきを返した。
「青い空を見に行くんだ。白い砂浜もある。あそこは、きっとお前が驚くほど綺麗だ」
足に傷を持つ方は、必死に相棒を説得する。
そのあまりの剣幕に押されるように、もう一羽も億劫そうに頭を上げ、自身の翼を整え始めた。
「難しい話はいらねぇ。……ただ、お前が笑ってくれれば、それでいいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸に傷を持つユリカモメの視線から鋭さが消えた。
彼はどこか甘えたように、そして深い信頼を込めて、隣に立つ兄のような存在を見つめた。
もはや言葉を重ねる必要はなかった。彼らにとっての安息の地は、常にこの隣り合う空間にこそあったのだ。
二羽のユリカモメは一拍置いて、美しく汚れた翼を晴れ始めた空へと力強く打ち振った。
耳元を突風が吹き抜けていく。彼らは互いの軌跡を乱すほどの間近さで、危ういバランスを保ちながらも、驚くほど完璧なコンビネーションで空を駆けていく。
速度を上げ、先行するのは足に傷を持つ兄のユリカモメだ。
彼は弟を庇う盾となるように、真正面から突風を受け止めその乱気流を切り裂いて、後ろを飛ぶ者のための道筋を作り出していた。
「もし……もしお前が、また傷を負うようなことがあったらさ……」
飛翔の音に紛れて、途切れ途切れのさえずりが空へ放たれる。
「……俺の翼を、お前にやる」
後ろを飛ぶ弟は、頬に冷たい雫が当たったのを感じて、大きく目を見開いた。
前を行く兄が、泣いていた。
「……あ」
見てはいけない、聖域に触れてしまったような衝撃。弟は何も言い返せないまま、ただ自分の目からも熱い雫がこぼれ落ち、風にさらわれていくのを許した。
二筋の飛行機雲のような軌跡と、二つの魂が流した涙は、灰色の世界を白く塗り替えていく。
彼らが向かう先には、厚い雲を突き破った陽光が、地上へと真っ直ぐに降り注ぐ「天使の梯子」が神々しく立ち上っていた。
某歌をヒントにしました。キャス出してあげたかったな。
愛する人を撃ち落とす日(AU):サンホラにインスピを得た話
漆黒の闇が支配する森に、乾いた銃声が幾重にも重なって響き渡る。サム・ウィンチェスターが握る銀の銃身は、月光を反射して弓のようなしなやかな美しさを放っていた。その銃口から放たれるのは、闇を切り裂く銀の一閃。
サムは、狂ったように引き金を絞り続けていた。視線の先、木々の隙間にうごめく「異形」に向けて。そこにあるのは、狩人としての冷徹な高揚感などではない。一発放たれるたびに、激しいリコイル(反動)が彼の身体を揺さぶり、震える睫毛からは透明な雫が火花のように散った。
記憶が、銃声の合間に鮮明な色彩を持って蘇る。数日前、変容の兆しを見せた兄を問い詰めたあの瞬間だ。
「その傷を負ったのは、いつだ!」
魔物に傷を負わされた者は、その血に宿る呪いによって全身を侵食され、やがては慈悲なき魔物へと成り果てる。サムの叫びは鋭い流星となって、うずくまるディーンの背中に突き刺さった。
「お前を……見つけたときだよ」
返ってきたのは、もはや人の器官から発せられたとは思えない、湿り気を帯びた獣の声だった。
サムは思い出す。生まれてすぐに運命に引き裂かれ、数十年の空白を経てようやく再会を果たしたあの日。駆け寄ろうとしたサムを、ディーンはひどく乱暴に弾き飛ばした。あの時、ディーンはただ「兄弟が抱き合うなんて恥ずかしいだろ」と、照れ隠しのような薄笑いを浮かべていたのだ。
すべては、弟にその傷を見せないための嘘だった。
「隠してたな……ずっと……」
サムの涙声は星屑となり、冷たい黒草のなかに音もなく沈んでいく。闇の奥からは、言葉を失った魔物の、重苦しい呼吸だけが聞こえていた。
出会いは、喪失への残酷な約束に過ぎなかったのかもしれない。だが、避けられない終焉であるならば、せめて最も愛しい者の手で。
「俺を撃て」
それが、兄が残した最初で最後の「言いつけ」だった。
だからこそ、サムは撃ち続けた。凛と白く輝く、最後の一発まで。夜の闇を彷徨う、かつて兄であったものに向けて。
再会してからの数日間、二人の間には数十年の断絶など存在しないかのようだった。互いの欠落を埋め合わせるように、すべてが完璧にはまり合うパズルのピースだと感じていた。それなのに、そのパズルを完成させる最後の一片は、自らの手で放つ銀の弾丸だった。
最後の一閃が闇を貫き、森に静寂が戻る。
愛する人を失ったあとのこの世界が、どれほど空虚で無意味な場所になるのか。サムはまだ、それを想像することができなかった。ただ、硝煙の匂いだけが、優しく彼を包み込んでいた。
某歌をヒントに。やっぱこういう役はディーンのほうが似合うんだよな。そんな並行世界もあったということで。
ケンカして相棒交換する話(if):ディーン&クラウリーとサム&キャスが見たかった話
バンカーの図書室を満たしているのは、静寂ではなく、肌を刺すような高電圧の緊張感だ。
サムとディーンの口論が最高潮に達した時、そこには守護天使のカスティエルや地獄の王クラウリーですら一歩も踏み込むことのできない絶対的な「圧」が生じる。
二人の応酬はコンクリートの壁を震わせ、バンカー全域に不穏な響きを撒き散らしていた。
ディーン・ウィンチェスターの攻撃は、支配的で直情的な暴力そのものだ。
荒々しい言葉の数々を、剥き出しの牙のように弟へ叩きつける。
有無を言わせぬ野太い声と地の底から響くような命令形。
それはサムの存在そのものを噛み砕き、物理的に叩き伏せようとする捕食者の咆哮に近い。
「お前のワガママにはうんざりなんだよ!いったい幾つになるまで俺に面倒見させる気だ?」
対するサム・ウィンチェスターは、当初はただ沈黙を守り一定の限界までその負荷を耐え抜く。
しかし均衡が崩れた瞬間の起爆は凄まじい。
堰を切ったように溢れ出す言葉はディーンが最も触れられたくない弱点を精密に狙い澄まし、致命的な急所を深々と抉り抜く。
生まれてからこの方、魂の根元で繋がっている兄弟でなければ不可能な容赦のない精神的解体作業だ。
「よし、言わせてもらうよ。面倒見てるのは僕だろ?家族だの兄弟だの、腑抜けたものばかり頼りにして地に足も付けてない兄貴にね!」
過去に兄弟と幾度も交戦し、その冷徹なまでの戦闘能力を知るキャスとクラウリーも、この異様な気迫を前にしては立ち尽くすしかなかった。
戦場での殺気とはまた異なる、血の繋がった者同士がぶつけ合う情念の深さに、人外の二人は本能的な身震いを覚えていた。
沈黙が訪れた一瞬の隙を突き、カスティエルがおずおずと問いかけた。
「……ディーン、サム。一体、何がそこまで二人を駆り立てる理由なのだ。何か邪悪な力が関わっているのか?」
ディーンは肩を上下させ、忌々しげにサムを指差して吐き捨てた。
「サムが、冷蔵庫に入れておいた俺のプリンを食べやがったんだ」
「だからそれは兄貴がちゃんとしまっとかないから…!だいたい消費期限とか見てるの?」
そのあまりにも矮小な、しかし彼らにとっては正当な「戦争の火種」を聞き、クラウリーは天を仰いだ。
「たかだか菓子一つで、この世の終わりかのような気迫を出していたのか。……全く、ウィンチェスターというのは、地獄のどの悪魔よりも理解に苦しむな」
地獄の王は、心底呆れ果てた様子でバンカーの冷たい空気の中に姿を消した。
小一時間経過しても図書室を満たす重苦しい気炎は一向に収まっていない。
ディーンの野獣のような瞳は執念深く目前の弟を射抜き、サムのやや切れ長な瞳もまた、真っ向からその不遜な視線を撥ね返している。
「おい、兄弟喧嘩もここまで行くと鬱陶しいぞ」
地獄の王が呆れ顔で罵っても二人は一向に「自分たちの世界」から戻ってくる気配がない。
ウィンチェスター兄弟の絆が生み出す負のエネルギーは、周囲の空気を物理的に歪めているかのようだった。
「……決めた。明日から僕はキャスが相棒だ」
沈黙を破り、不意にサムが宣言した。
突然指名されたカスティエルは、驚きのあまり猫のようにびくっとして思わず後ずさりする。
「上等だ。クラウリー、さっさと明日の狩りの準備をするぞ」
ディーンが吐き捨てるように言い放つ。
「ふざけるな! 誰が貴様のような猿とモーテルを回るか!」
クラウリーの痛烈な反論も空しく、意地の張り合いは周囲を巻き込んだ最悪の形へと変貌した。
こうして、かつてないほど厄介なウィークリーが幕を開けたのである。
ディーンとクラウリーの狩り。
湿り気のある空気が立ち込める廃屋の奥へとディーンは迷いなく踏み込んだ。
いつもなら、背後には音もなく裏手に回り込み数分後には完璧な伏兵情報や調査収穫を携えて合流するサムの気配があるはずだった。
しかし今隣にいるのは、高価なスーツを埃で汚すことに毒づき続けている地獄の王、クラウリーだ。
「おい、もっと静かに動け。死ぬぞ」
「黙れ、猿め。貴様の荒々しい足音のせいで、私の繊細な聴覚が台無しだ」
苛立ちを隠さないクラウリーはディーンの合図を無視して勝手にテレポートを繰り返し、かえって連携を乱して足を引っ張る。
ディーンは数時間前まで罵り合っていた弟の、あの無言の阿吽の呼吸を少しだけ恋しく思った。
だが、いざ這い出てきたモンスターとの乱戦が始まると、景色は一変した。
ディーンが正面から刃を振るう隙に、クラウリーは地獄の魔術で怪物の動きを拘束し、さらに背後から致命的な一撃を誘発させる。
悪魔ならではの容赦のない狡猾な「コンビネーション」は、正義感の強いサムとの狩りでは決して味わえない効率の良さを持っており、意外なほどによく効いた。
「悪くないな、王様」
「当然だ。貴様の弟のように、道徳心とやらを気にして手加減などせんからな」
帰り道、場末のバーに立ち寄った二人は、カウンターに並んで座った。いつもなら「そんなに飲むの?」と健康管理を説くか、あるいは読書や調査に没頭して酒を嫌がるサムがいる。しかし、クラウリーは最高級のウイスキーを注文し、ディーンが煽るビールと同じペースでグラスを空けていく。
酒飲みの相手としてもこれ以上の相棒はいない。
ディーンは酔いの回った頭で、目の前の皮肉屋の悪魔を見やった。小言を言う弟もいない、酒も進む。
(……案外、このままのほうがいいのかもな)
最悪な一週間の始まりだったはずが、ディーンの胸には、ほんの少しの危うい充足感が芽生え始めていた。
サムとカスティエルの狩り。
雨上がりの湿った空気の中、サムはシェイプシフターが潜む古いアパートの影に身を潜めていた。
本来なら、ここでディーンが軽口を叩きながら敵の注意を引き、その隙にサムが裏から仕留めるのがいつもの形だ。しかし、現在の相棒は元天界の戦士、カスティエルである。
「サム、正面から入るぞ。隠れる必要はない」
カスティエルは「隠密」という概念をあまり解さない。
天使の先鋒はあまりに真っ直ぐで裏表がない。できる限り無血での解決や周囲への被害を最小限に抑えたいサムのバックアップとはどうしても呼吸が合わなかった。
(ディーンなら、ここで何も言わずに僕の意図を汲んでくれたはずなのに……)
サムはあの野性的で無駄のない兄の動きを、ほんの少しだけ恋しく思った。
だが、戦いが佳境に入った時、予想外の事態が起きた。
カスティエルが力任せにシフターを突き飛ばした先にはサムが逃走経路を塞ぐために予測して構えていた銀のナイフがあった。
「……図らずも、完璧な連携だったな」
カスティエルが無機質な声で言い、サムは驚きと共に苦笑いしながら頷くしかなかった。
計算されたものではないが二人の異なる性質が奇跡的に噛み合った瞬間だった。
バンカーへの帰り道、二人は路地裏にある静かなカフェに立ち寄った。
テーブルには、焼きたてのパンケーキと香りのいいお茶が並んでいる。ディーンとの狩りの後なら油ぎったダイナーで安っぽいハンバーガーとビール、そして大音量のロックが定番だ。
あのアドレナリン全開の打ち上げも悪くはないが、今のサムにはこの静けさが心地よかった。
カスティエルが「パンケーキにかけられたシロップの粘度」について、まるで古代の法典を解釈するかのような真剣さで考察するのを聞きながら、サムは穏やかな心持ちで紅茶を口にした。
(こういう時間は、ディーンとは絶対に共有できないな……)
兄との喧騒に満ちた絆も大切だが、カスティエルとの知的な、あるいは奇妙に静謐な時間は、サムの疲弊した精神に深く染み渡った。
「このままでも、いいのかもしれない」
紅茶の湯気の向こう側で不器用にフォークを操る天使を見つめながら、サムはそんな考えが頭をよぎるのを止められなかった。
バンカーにほとんど戻ることもなく、ディーンとクラウリーはハンター仲間からの呼び出しに応じて各地の現場を渡り歩く「狩りのハシゴ」を続けていた。
「おい、サムはどうした? いつもならセットで現れるだろ」
合流した馴染みのハンターに尋ねられても、ディーンは眉一つ動かさず、至極当然といった風に答える。
「あいつは今、病院だ。……ちょっと頭の方をな」
嘘ではない。ある意味では、あいつの今の精神状態は異常だ。
一方で、ディーンの隣で最高級のウイスキーを不機嫌そうに煽っている男――クラウリーは、ディーンから「親戚の叔父」として紹介されたことに心底腹を立てていた。
「おい、猿め。仮初めであっても俺様をウィンチェスターの血筋にさせるな。これ以上侮辱を重ねるなら、貴様の魂を真っ先に地獄へ引きずり込んでやるぞ」
「うるせぇ。地獄の王が親戚にいるよりは、変屈な叔父貴の方がまだマシだろ」
その日の深夜。
ストリップバーで出会った好みの美女に声をかけたディーンは、鮮やかな手際で彼女をモーテルの自室へとお持ち帰りすることに成功した。
「じゃあ、ちょっと待っててくれ」
期待に胸を膨らませ、期待通りの「お楽しみ」が待っているはずのドアを蹴り開ける。
しかし、そこに広がっていたのはロマンチックな夜とは程遠い光景だった。
照明を全開にし、ベッドの上で優雅に脚を組み、紅茶を啜りながら資料を読み耽るクラウリーの姿。
「……何してるんだ、お前は」
「戻ったか。この資料の三ページ目に興味深い記述があってな――」
連れてきた美女は部屋の異様な空気と、そこどけと言わんばかりの「叔父」の視線に怯えて逃げ去っていった。
「おい!! せっかくの夜が台無しだ! 少しは空気を読みやがれ!」
「ふん。ウィンチェスターの絶望に満ちた悔し顔。これこそが、今回の忌々しい狩りにおける一番の報酬だ」
うそぶきながら、楽しげに紅茶をお代わりする地獄の王。ディーンはベッドに倒れ込み、天井を仰いでつい口走った。
「……あいつ(サム)なら、こんな野暮な真似は絶対にしねぇのに」
その言葉に、クラウリーの手が止まった。
彼は眼鏡の縁を直し、珍しく冷やかしではない、底冷えするような現実的なトーンで告げた。
「ほう。ついに出たな。……あいつが恋しいのなら、素直にそう言えばいいものを。酒の味が落ちるほどの意地の張り合いなど、時間の無駄だ。ディーン、そろそろ仲直りのタイミングではないのか?」
クラウリーの意外なほどの「正論」による背中の押し方に、ディーンはただ、鼻を鳴らして顔を背けるしかなかった。
ディーンたちが戻らないバンカーは、驚くほど静まり返っていた。
サムとカスティエルは長年放置されていた故人ハンターたちの走り書きを精査し、デジタルデータに収め直す作業に没頭していた。
最近ようやくPC操作を習得したカスティエルは、その驚異的な記憶力と相まって、作業の良き相棒となっていた。
夜も更けた頃。サムは買い出しのためにバンカーを出た。
不幸は、バーの路地裏を通りかかった時に起きた。酒とドラッグに溺れた男たちが、サムを標的に暴行を加えたのだ。
相手がモンスターであれば、サムは一瞬で場を制圧しただろう。
しかし相手が生身の人間だと分かっていると、彼は途端に強い武力行使ができなくなる。
無意識に「兄なら、迷わず冷徹に片付けていただろう」と思いを馳せながら、サムは反撃もせず一方的に打ちのめされ、傷を負ったままバンカーへと逃げ帰った。
ふらつきながら帰宅したサムを見て、カスティエルは驚愕した。
すぐさま治癒を試みようとするが、サムはそれを制止する。
「キャスの恩寵を無駄遣いしたくない。明日、病院に行くから大丈夫だよ」
そう言い残し、サムは自室へと引きこもった。
深夜、扉を叩く音がした。カスティエルが、見よう見まねで作ったホットミルクを手に立っていた。
それはサムがよく作る、蜂蜜を少し入れたあの味を再現しようとしたものだった。
「何があったか、説明してくれ」
問い詰めるカスティエルの声は静かだが、拒絶を許さない響きがあった。サムはぽつりぽつりと、路地裏での出来事を話した。
「ハンターが一般人に手を上げるわけにはいかないだろ。相手は怪物じゃない、ただの、酔っただけの人間だ」
すべてを聞き終えたカスティエルは、温まったミルクをサムに持たせ、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「サム。……そろそろディーンと仲直りをするべきだ。君には、やはり彼が必要だ」
静寂が落ちる。サムは何も言い返せず、ただ冷め始めたカップを握りしめていた。
パリッとしたFBIのスーツで聞き込みに奔走するディーンの傍らで、クラウリーは貴族のようにふんぞり返っていた。
案の定、傲慢な態度の相棒ではまともな捜査など進まず収穫はない。
今回の相手であるシェイプシフター集団は規模が大きく、二人きりでは太刀打ちできないことを悟り、彼らは一時撤退を余儀なくされた。
「これはあくまで戦力の援助要請だ。勘違いするな」
誰にともなく力説しながら、ディーンはサムに電話をかけたが応答はない。
焦燥と共にカスティエルへかけ直すと、「サムは今、病院だ」とだけ告げられた。
昨日、嫌味で口走った「あいつは病院だ」という言葉が不吉な予言のように現実となり、ディーンは居ても立ってもいられなくなった。
即座に病院へ駆けつけたディーンは、偶然にも正面でサムと衝突した。
「サム、病院に行くなら連絡しろ!」
「なにもかも兄貴に連絡しないといけないわけ?そもそも、そんな暇はなかった!」
再会した瞬間にまたしても激しい口論が始まり、通路の真ん中で火花を散らす二人を、クラウリーは心底辟易した様子で眺めていた。
「シェイプシフターだ!」
ディーンは用件だけを乱暴に吐き捨てると、クラウリーをその場に置き去りにして元のモーテルへと走り去った。
残されたカスティエルとクラウリーはただ呆然とその背中を見送ることしかできなかった。
ディーンの脳内はいまだ病院で繰り広げたサムとの第二ラウンドの余熱で沸騰していた。
シェイプシフターの集団が手に負えない規模であることは理解していたが苛立ちが冷静な判断を塗り潰していた。彼はろくな策も持たぬまま、衝動に突き動かされるように無謀にも敵陣へと単身飛び込んでいた。
だが、多勢に無勢という言葉を噛みしめる時間は短かった。
ディーンは瞬く間に組み伏せられ、暗い地下室へと監禁される。
彼の前に現れたのは、鏡写しのような自分自身の顔――ディーンの姿を完全にコピーしたシェイプシフターであった。
「こいつはウィンチェスターだ。必ずもう一人、弟がいるはずだ」
偽物のディーンは冷酷に笑い、完璧な声音を操ってサムへと電話をかけた。
「サムか? シフターどもの居場所を突き止めた。合流しよう。まず指定するモーテルに来てくれ」
一方、サム、カスティエル、そしてクラウリーの三人は、気まずい沈黙の中でその電話を受け取っていた。スピーカーから流れる「ディーン」の声に、疑いの色は混じっていない。
「ディーンが安全なモーテルを教えてくれたな。今すぐ行った方がいい」
カスティエルは兄弟の仲直りのきっかけを見出したかのように熱心に促す。
「……そうだね」
サムは重いため息をつき、複雑な表情を浮かべながらも応じた。まだわだかまりは消えていないが、狩りの合流地点を指定された以上、拒む理由はなかった。
三人は偽りの兄が待つモーテルへと、罠の存在を露ほども疑わずに走り出した。
指定されたモーテルの前で、三人を迎えたのはディーンの姿をしたシフターだった。
「待ってたぜ」
「この野郎、俺様をいいようにこき使って謝礼のマッカランも無しか!」
「やあ、ディーン」
いつもの調子で軽口を叩くクラウリーと、安堵の表情を見せるカスティエル。だが、サムだけは不自然なほどに距離を置き、警戒を解いていなかった。
その直後、部屋に待ち伏せていたシフターたちが一斉に飛び出した。奇襲に成す術なく、カスティエルとクラウリーは瞬く間に打ち伏せられる。地地に伏した二人を見下ろし、偽ディーンは卑俗な笑みを浮かべてほくそ笑んだ。
しかし、一人だけその圏外にいたサムは、冷徹な瞳で偽物を射抜いていた。
「……お前が兄貴じゃないことくらい、最初から分かってたよ」
言い放つと同時に、兄さえも凌駕する精度の長距離スナイプでライフルの引き金を引く。銃弾は偽ディーンの眉間を正確に撃ち抜いた。
「その1。敵の居場所を知ってるなら、電話口でさっさと直接教えるはずだ。その2、あの短気な兄貴がいちいち作戦を練り直すわけがない。ディーンなら僕に丸投げする」
続け様に仲間を捕獲していたシフターたちを次々と撃ち抜き、沈黙させていく。
「その3。喧嘩の真っ最中に、あんな『信頼を感じさせる声』で僕に電話なんてしてこない!」
最後の一匹が地に伏した。
「今度兄貴のフリをして僕を騙すなら、『サミーちゃん、寂しくなったでしょ?』って言った方がいいかもね」
「おい! 俺がいつそんなこと言った!」
自力で拘束を解いて脱出してきた本物のディーンが、一部始終を耳にして怒鳴り声を上げながら駆け寄ってきた。
「喧嘩してる時はいつもそんな感じだろ!」
「だいたいお前が病院なんか行くからだ!」
「兄貴がいなくたって、別にどうってことない!」
「プリンの恨み、墓まで忘れるなよな!」
兄弟の「第3ラウンド」は収まらない。モーテルの闇が深まるのと比例するように、再燃した子供じみた罵り合いはどこまでも続いていくのだった。
一方でバンカーに戻ったクラウリーの苛立ちは収まるどころか頂点に達していた。
彼は図書室のテーブルを叩き、サムを真っ向から睨みつける。
「サム、よく考えてみろ。貴様、俺様を囮にしたのか! ディーンが偽物だと分かっていたなら、なぜ一言も言わなかったんだ!」
「それは、その……」
サムが小声になり、視線を泳がせる。その煮え切らない態度に、クラウリーがさらに距離を詰めて詰め寄った。
そこへ、背後からニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた本物のディーンが現れる。
「カッコつけたかったんでちゅよねー、サミーちゃん?」
先ほどの「寂しくなったでしょ?」という煽り文句を根に持っているディーンの、容赦のないトドメが刺さる。
サムは耳まで赤くして、力なく肩を落とした。
「……ここ最近、失態ばかり続いてたから、ちょっとその……。一人で解決して、挽回したかったんだ」
「二度と貴様らの兄弟喧嘩には関わらん! お前らには心底うんざりだ!」
クラウリーは吐き捨てるように宣言しつつも、闇に消えるように消えていく。
一人残されたサムは、隣で彫像のように佇むカスティエルの朴訥な雰囲気に、縋るような救いを感じて声をかけた。
「キャス……」
しかし、カスティエルが向けたのは慈悲の眼差しではなかった。
「嘘をつくのは良くない、サム」
怒鳴られた方がまだマシだと思えるほどの、静かだが重い鉄槌のような一言を残し、カスティエルは翻るトレンチコートと共にバンカーから出ていってしまった。
静まり返った室内で、ディーンが「ちゃんと謝れば?」と言わんばかりに、サムの顎をクイと指で持ち上げた。
サムはその屈辱的で無慈悲な兄の仕草を、ただ呆然と受け入れることしかできなかった。
結局、カスティエルとサムが仲直りできたのはそれから数日後のことだった。
明日はディーンの誕生日だ。サムはせめて明日一日くらいは兄をのんびりさせてやりたいと考えていたが、当のディーンは我関せずといった様子で、早々にサムを次の狩りへと連れ出した。
「誕生日に仕事かよ」と内心で毒づきつつも、サムは聞き込みの合間を縫ってディーンの好物を密かに揃えて回った。
高級なバーボンや、ディーンが以前から欲しがっていたヴィンテージのカウボーイグッズ。それらを目にするなり、ディーンはあからさまに相好を崩した。
「お前、こんなもので俺を釣ろうなんて……見事に釣られちゃうんだよなぁ、これが」
「持つべきものは、よく出来た弟だろ」
トドメにサムが差し出したのは、深夜まで営業しているストリップバーの特等席チケットだった。ディーンは歓喜の声を上げ、そのまま夜の街へと消えていった。
翌朝、サムが目を覚ますと、そこには床で泥のように爆睡する兄の姿があった。よほど楽しんだのだろう、幸せそうな寝顔をそのままにして、サムは一人で昨日の聞き込み通りにある古い屋敷へと向かうことにした。
静まり返った屋敷の玄関に手をかけたその時、背後から猛烈な衝撃がサムを襲った。
「……ッ、シフターか!?」
今回の敵は実体のない霊的な存在だという事前情報に、サムは完全に油断していた。
目の前に現れたのは前回の戦いで煮え湯を飲まされたシェイプシフターの残党だった。
彼らはウィンチェスター兄弟への復讐を果たすべく、執拗に二人の足取りを追っていたのだ。
サムは一人、背後から迫る異形の殺気と対峙することとなった。
屋敷の冷たい空気の中、シェイプシフターはサムの姿に完璧に同化し、ディーンへ電話をかけた。
「ディーン、相手は強い。助けてくれ」
その声を聞いた瞬間、寝ぼけていたディーンの脳内に激しい警鐘が鳴り響いた。
「サムか? 大丈夫なんだな!」
「ああ……たぶん大丈夫だ。でも、早くしてくれ」
電話が切れる。シフターはほくそ笑んだ。無策な兄が、愛する弟を救うために無謀に突っ込んでくる姿が容易に想像できたからだ。
果たして、ディーンは何の躊躇もなく屋敷の玄関を蹴り破り、中に飛び込んできた。
「サム! どこだ!」
背後から、ナイフを構えたコピーサムが悠然と姿を現す。
「兄貴、遅かったな」
ディーンは足を止め、背後のサムを一瞥した。つま先から髪の一本一本、穏やかさを湛えた切れ長の瞳に至るまで、それは寸分狂わぬ「サム・ウィンチェスター」そのものだった。しかし、ディーンは迷いなく銃を抜き、コピーサムの肩を撃ち抜いた。
「ぐっ……! 何をする、僕がサムだぞ!」
「お前はサミーじゃない。サムはどこにいると聞いてるんだ!」
激痛に顔を歪めながらなお演技を続けるシフターの首根っこを、ディーンは怒りに燃える瞳で乱暴に掴み上げた。
「お前が偽物な理由は三つある。その1、あいつが『たぶん大丈夫』なんて曖昧な言い方をするか。その2、あの隠し事大好きで過保護な弟が、誕生日の夜の俺に電話なんてするわけがない。何があろうと黙って寝かせておくはずだ」
シフターが絶望に目を見開く中、ディーンは銃口をその眉間に押し当てた。
「その3。サムはそんな『助けてくれてありがとう』みたいな情けねえ顔はしねぇよ! ……もういい、俺が自分で探す」
乾いた銃声が響き、シフターは物言わぬ肉塊へと戻った。前回、サムに「偽物を見破る手柄」を奪われていただけに、ディーンの胸には奇妙な達成感が宿っていた。
「おい! 僕はそんなこと言わないだろ!」
突然、床下から聞き慣れた怒鳴り声が響いた。ディーンが板を剥がすと、そこには拘束された本物のサムが、今にも爆発しそうな顔でこちらを睨んでいた。
「喧嘩中なんていつもそんな感じだろ。次に俺を騙したいなら、『兄貴なんか死ね』くらい言わせた方がまだ信じられるぜ」
「死ねまでは言ってない! せいぜい『どっか行け』くらいだ!」
「兄貴としてそれは死刑宣告と同じなんだよ!」
助け出された安堵も束の間、誕生日の夜は、終わりの見えない兄弟喧嘩の第四ラウンドと共に更けていった。
3つの理由を言わせたかっただけまである
E pluribus unum(多から一へ):10円玉見てて不意に思いついた話
バンカーの図書室、地下特有の低い天井の下で、カスティエルは指先に挟んだ小さな銀色の円盤を、慈しむように光に透かしていた。
それは、何の変哲もない10セント硬貨だ。フランクリン・ルーズベルトの横顔と、アメリカの精神を象徴する「E pluribus unum(多から一へ)」の文字が刻まれた、どこにでもあるダイムの一枚。日本円にすれば10円強の価値しかないその硬貨を、まるで天界の失われた秘宝かのように真剣に見つめる相棒の姿に、今夜のリサーチを始めようとしたサムは思わず足を止めた。
「……キャス? 何してるの? 10セント硬貨なんて珍しくもないだろう」
サムは手に持っていたコーヒーを揺らし、驚きと興味が混じった視線を投げかけた。カスティエルは満足げな溜息をつき、硬貨をテーブルにコトンと鳴らして置いた。
「ああ、サムか。いや、この硬貨だが……。ディーンに買い出しを頼まれた際、売店でお釣りとして渡されたものだ」
カスティエルがこうした語り口調になるとき、サムは決して言葉を急かさない。この二人だけの間に流れる、柔らかで優しい、そして少しだけ浮世離れした静かな空気を壊さないよう、静かに続きを待つ。
「……驚異的だとは思わないか。ここには1980年と刻まれている。私の手に至るまでの数十年間、これが何千、何万という人々の手を渡り歩いてきたということだ」
「……そうだね」サムは優しく苦笑を灯した。「40年以上も、この小さな銀色の粒は世界を見てきたわけだ。ゲームセンターやコインランドリーのボックス、あるいは兄貴が好むバーのカウンターや、僕がよく行くカフェのテーブルも……この硬貨はきっと『知って』いるんだろうね」
「この無数の掠れや傷も、その長い旅路のなかで刻まれ続けたものか……」
改めて光に照らして感じ入るカスティエルに、サムはどこまでも穏やかな声をかけた。
「……疲れてるのかい、キャス?」
「いや。すまない、単に思ったことを言っただけで……」
どぎまぎとする様子を見て、サムは確信した。これは何かの予兆でも哲学的な問いでもない、ただの「カスティエルがカスティエルらしい感性を見せた」だけの、愛すべき日常の一幕なのだ。
サムはゆっくりと立ち上がり、部屋の隅にたたまれていた愛用の暖色系ラグを広げた。そして、カスティエルの背後からその肩を包み込むようにラグをかけ、いまだ硬貨に注がれている生真面目すぎる頭を、慈しむように一度だけ優しく撫でた。
「蜂蜜をたっぷり入れたホットミルクを作ってくるから、少し待ってて」
ラグに包まれたまま、驚いたように、しかし気恥ずかしさも見せずただ真っ直ぐに見上げてくるカスティエルの視線に、かえって恥ずかしくなったのはサムの方だった。「じゃあ、作ってくるから」
パタパタと響くスリッパの音。背後のテーブルでは、飲みかけのコーヒーが静かに冷めていく。その横で、1980年製の10セント硬貨だけが、歴史の重みを湛えた鈍い銀色の光を放っていた。
こういうのはサムとキャスのペアが一番いいな