【SS】私がボーダイフォーミュラのチャンピオンになるまで(前編)

Last-modified: 2023-12-16 (土) 17:11:46

説明

ボーダイフォーミュラの27,30,31代目チャンピオンになったナイジェル・ブルータスの自伝小説。
これはその小説の前編だ。

プロローグ

イゲレスのツクットランドのとある家庭に生まれた子供。その名もナイジェル・ブルータス。両親の影響で車に異常なほどの興味を示し、やがてカートの道へと進む。
僅か5年の間*1に国内の主要な大会を制覇、15歳の時にフォーミュラ・ヴォードに進み、17歳でボーダイ・ジュニアフォーミュラへと昇格。そして20歳の時にボーダイフォーミュラへとランクアップした。
しかし、彼が見たのは、壮絶なボーダイフォーミュラの世界だった…。

登場キャラ

コメント

  • 「私はヒーローではない!私は彗星だ!」のところを「私は英雄ではない!私は彗星だ!」にすればいいんじゃない? -- 2022-12-10 (土) 15:04:27
  • クロイツ帝国の戦争中に呑気にレースやってたのか.....(2008年4月から2009年1月1日までクロイツ帝国はヒカキングダムと戦争していた) -- 2022-12-10 (土) 16:34:53
  • ありがとうございます。そうします。 -- ボーダイ自動車連盟の偉い人 2022-12-10 (土) 17:06:25
  • ワーシッソウシソー(カラス自体が失踪してんだよなぁ) -- カラス 2022-12-10 (土) 17:10:19
  • 戦争をやってた頃は膨大共和国にチームの本拠地が移ってました。 -- ボーダイ自動車連盟の偉い人 2022-12-10 (土) 17:10:22
  • ↑なる -- 2022-12-10 (土) 17:37:09

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Tag: 【SS】

ほんへ(編集中なので勝手に手を加えないでください。)

私がボーダイフォーミュラにデビューするまではプロローグで述べたとおりだ。
私はわずか20歳にしてボーダイフォーミュラという世界レベルの大舞台にデビューしたわけだ。当然、あの頃は多くのメディアやドライバーから注目された(今でもそうとかは言わないお約束!)
とりあえず、私はどこのチームに入れるのか…それがまず気になった。気になって仕方がなかった。本当に気になって仕方がなかったのだ。
「俺のような若いのはは弱いチームからのスタートだろうなぁ…」と思っていた矢先、意外なチームからオファーがあったのだ!
その名は、ヴェルセデス・メンツだった!なんと、私が憧れたレーサーであるヒャン・マヌイル・フィンヂオ氏が監督をやっているからね!
なんと、フィンヂオ氏の方からオファーが来るとは思わなかった。私は舞い上がった。こんなにうれしいことはない。
さて、約束された時間より少し早めにクロイツ帝国のヴェルセデス・メンツチームの本拠地へと足を運んだ。
ヴェルセデス・レーシングセンターの会議室へ通された。そこにはあのフィンヂオ氏がいらっしゃったのだ。
私は思わず感動と重度の緊張のあまり身震いしてしまった。
フィンヂオ氏は、「君がナイジェル・ブルータス君かね。話は聞いておるぞ。なんでもフォーミュラ・ヴォードのドライバーズチャンピオンを二年連続で取ったんだって?
素晴らしい才能の持ち主だな。」とおっしゃった。
私は「そそそ、その通りです…。」と言った。
フィンヂオ氏は微笑み、また私に話しかけた。「そんなに緊張しなくていいんだぞ、さあ、もっと君のことを聞かせてくれないか?」と。
私とフィンヂオ氏はずっとしゃべり続けた(笑)。私がフィンヂオ氏の大ファンであることも話した。フィンヂオ氏は、「なんと!私のファンであったか!君をこのチームに招いてよかったぞい。」と言った。
なんで突然尊敬語が文からなくなったかって?この瞬間にフィンヂオ監督と主従関係を超えてお友達になれたからね。
さて、私は2006年の第一戦、ハメリカグランプリより参戦した。当時のアッートキンズ・あぁん・インタアッーナショナルサーキットは本当に怖かった。でも、私は頑張って走り、完走した。結果は9位、初めてにしては上出来であった。フィンヂオ監督からも、「素晴らしい。上出来だ。」とのお言葉をいただいた。とっても嬉しかった。
それからというもの、私はフィンヂオ監督から教えてもらった裏技の「ポイント稼ぎ」をやっていた。当時はまだまだ一年に10戦ぐらいしかなかったが、毎回入賞圏内に入れるように頑張った。入賞すれば、ポイントがもらえるから。
チームメイトであったクレイ・エガローニも、よき友として一緒に戦った。後に彼は大事故に遭うのだが、それは後で述べることにしよう。
そしてそこから2年後、22歳の時だ。フィンヂオ監督が、「このチームは今年限りで撤退することになった。」と言った。あまりにも突然だった。
私は思った。「このチームで戦えるのは今年が最後。1戦でもいいから優勝したいな…」と。
第一戦のハメリカグランプリ。二回目だから優勝したい。そう思って、ギアチェンジの参考になる目印を見つけておいた。
私は予選で一位になった。「これで満足してはいけない。」私は心にそう言い聞かせた。
そして本番のフォーメーションラップ。私は最前列でタイヤを温めつつ走った。
スターティンググリッドについて、スタートを待つ。赤を示していたシグナルが青を示した!私は緊張のあまりアクセルをベタ踏みしてしまった。タイヤは空転しながらも必死で真っ直ぐホームストレートの路面をつかんだ。しばらくして16周目、私は当時の最強ドライバーだったグラファム・ウィルに抜かれて二番手に後退していた。まずい。そう思った。すると、何やら雲行きが怪しくなってきた。「カタッ…カタッ…」と硬いヘルメットに何かが当たり始めた。「雨だ!救世主だ!」私はヘルメットの中で叫んだ。どうやら観客に聞こえていたらしい。恥ずかしいよ、まったく。
私のマシンのタイヤはスタートダッシュで空転したことや必死でグラファムを追いかけたせいかタイヤが消耗して*2しまっている。私はすぐさまピットインし、ウェットタイヤに交換した。
どうやらグラファムはまだピットインしないみたいだ。ピットのクルーたちが急いでタイヤ交換をしてくれたおかげで、あまり順位を落とさずにピットを出ることができた。
次の瞬間、雨は勢いを増してきた。すると何周か経ったら事故が続発、24周目にセーフティーカーが導入される。私とグラファムの差は一気に縮まる。グラファムはまだタイヤを交換していない。
30周目、セーフティーカーか退場するも次の瞬間、グラファムは第一コーナーでスピンし、リタイアした。私は労せず(?)して一位にのし上がる。
45周目に雨はやみ、55周目には路面が乾いてきた。56週目にタイヤをスリックタイヤに交換した。この時、二位とは20秒も差があったから、ピットアウト時に順位を落とさなかった。
ついにファイナルラップの69周目。私はこの時勝利を確信した。
そして、私は一位でチェッカーフラッグを受けた。優勝だ。
若きエースの誕生に、多くの観衆たちがサインを求めてきた。私は疲れていたが、一人ずつに丁寧にサインを書いてあげた。
私の勝利は母国でも報じられ、親族や学生時代の同級生、その他の国民の皆様が私を褒めてくれた。
みんなは私を「新たなヒーロー」と呼んだ。
「私は英雄ではない!私は彗星だ!」そう叫んだ瞬間、「ヒーロー!ヒーロー!」と叫んでいた歓声が「コメット!コメット!」に変わった。
私は嬉しかった。こんなに褒められたことなど、今までに一度もなかったから。
その後、私は3戦連続で表彰台に乗り、クレイも一緒に乗ったこともあった。
そして最終戦のBMEキシコグランプリ。エマニエル・ロドリゲス・サーキットで開かれ、私は予選の結果もありポールポジションを獲得した。
しかし、トップで走っていた時、周回遅れの前走車に幅寄せをされ、そのままスピンしてグラベルへ突っ込み、リタイアになった。
私は無線でチームの本部に向かってこう言った。
楽になるまでは苦しいことや辛いこと、つまらないことはゴマンとある。それらを乗り越えた者こそが楽になれるのかもしれない。でもな、楽になるために頑張っているときに他人に邪魔されるとすごい腹が立つ!あのドライバーを殴ってやりたいぜ!」
私の体内ではアドレナリンが噴出し、興奮は最高潮にたっしていた。でも、クレイが2位に入賞したと聞くと、安心して興奮は収まった。
さて、なんだかんだ言いながら最終戦が終了し、この年のコンストラクターズチャンピオン*3はヴェルセデス・メンツが受賞。最後の最後で、チャンピオンを獲得できた。フィンヂオ監督からたくさん褒めてもらい、私はとても嬉しかった。
さて、ヴェルセデスチームの撤退後はどうしようか、私は迷っていた。新興チームや弱小チームに移ってのんびり活躍するか、名門チームに移るかという選択だ。私は労せずして新たなチームを見つけることができた。その名も「スクーデリア・ヴェラーリ」。1985年、ボーダイフォーミュラ世界選手権が始まって以来参戦している名門チームだ。多くのドライバーズチャンピオンを送り出しており、私も気になっているチームであった。しかも、創設者エンツォ・ヴェラーリ氏には何度かお世話になっていたし、彼からのオファーが来ていた訳だから、私はヴェラーリと契約を結んだ。
さて、ピオラノでのテストで、私は初めてヴェラーリのマシンに乗った。3Lの180°V型12気筒エンジンが素晴らしいサウンドを奏でる。
「くぅ~っ!!最高のサウンドだ!」
私はヴェラーリのサウンドに感動した。こんなに素晴らしいサウンドを提供してくれたのだから、勝って恩返しをするしかない。そう思った。
この年は12戦中4勝してドライバーズランキング2位。かなり惜しかったのだが、なかなかの好成績を収めることができて嬉しい気持ちでいっぱいだった。
私はヴェラーリで数シーズン戦ったが、同時に新たなライバルが現れた。
アウストリア育ちの新星、ニkin・ラウダである。デビューしてたった四年でヴェラーリに加入。私とほぼ同じ年頃*4ではあったが、若気の至りなど見せずに正確な走りで優勝を勝ち取っていく。まさかこんなに強いチームメイトが現れるとは、私も思っていなかった。私の方が年下だったから、私は彼から多くを学んだ。レース展開を掴むこと。相手の癖を見抜き、隙を見逃さないこと。今思い返すと、彼との出会いが私を名ドライバーへとさらに成長させたのかもしれない、と思う。
ニkinが加入して2年後。クロイツ帝国はヌプブンクにあるヌプブンクリンクで、ある悲劇が起きようとしていた。その日は雨だった。今まで見たことがないほどに雨が降っていた。
決勝レース前のドライバーズミーティングでニkinは、
「こんな雨じゃ走れるわけがない。観客の皆には申し訳ないが、中止するしかない。事故でも起きればドライバーの中から死人が出てしまう。」と言っていた。
しかし他のドライバーは、
「コイツ弱虫だなぁ、雨だからって俺らは走るぜ。」
「ちょっとしたクラッシュこそ醍醐味だろうがッ!」
「僕らは金暴力S〇Xのために走ってるんだ。1ボーダイでも多くてに入れられるのなら、走るんだけどね(笑)」
ほとんどのドライバーが、彼を見下していた。私は何も言えなかった。それほど立場が上だという訳でもないから。
ギスギスした雰囲気の中で決勝レースが始まった。レインコンディションなのにドライタイヤで走るという賭けに出たヨッヒン・マスヲがリードした。話は脱線するが、ボーダイフォーミュラの本当の醍醐味は、ハイリスクハイリターンな賭けを成功させることだと思うが、読者の皆様はどう思われているのだろうか。
というわけで、私もヨッヒン・マスヲがドライタイヤでスタートすると聞き、ドライタイヤでスタートした。賭けは上手くいった。5周目に入り、ブレーキングでヨッヒンを抜かして1番手に躍り出た頃…
「キイイヤァァァァァッ!!ガシャングシャアキュルッキュルルル…ズガァァァン!!!!」
コース中盤にあるコーナーの「ヌペルクヴェルク」ではスキール音、クラッシュ音、爆発音が響く阿鼻叫喚の地獄と化していた。あのニkinが、順位を挽回している途中にクラッシュしているとは思わなかった。直ちに赤旗が出され、レースは中止に。レースを止めてピットへと戻る途中、ヌペルクヴェルクを通り過ぎた。辺りには破片が飛び散り、彼の乗っていたヴェラーリ312T2のボディは焼け焦げていた。まさか自分のチームメイトがこうなるとは思わなかった。
優勝は私だったが、喜んでいる暇はない。ニkinが担ぎ込まれた病院へ急いだ。
「生きていてくれ、生きていてくれ、生きていてくれ…!!」
僕は車のハンドルを握りながら、そう呟いていた。あのような事故に遭い、生きているドライバーなど見たことがなかったからだった。


*1 10歳~14歳の間
*2 タイヤが熱でドロドロになっていること。
*3 マシンを製作する会社のチャンピオン
*4 2歳差