巻1 太祖代周

Last-modified: 2024-05-02 (木) 01:33:33

1 趙匡胤推戴


宋の太祖建隆元年(960)は、後周(こうしゅう)恭帝の柴宗訓(さいそうくん)元年(1)である。これ以前、後周顕徳六年(959)十一月、鎮州(2)・定州(3)から、北漢が契丹の兵と合流して侵攻してくるだろうとの報告があった。この年正月一日、殿前都点検(4)・検校太尉(5)・帰徳軍節度使(6)趙匡胤(ちょうきょういん)は、兵を率いてこれを防ごうとし、殿前副都点検(7)慕容延釗(ぼようえんしょう)が先遣隊を率いて先発した。
 
このときの後周の皇帝、柴宗訓は幼かったため、国の安定が疑われ、朝廷の内外に密かに趙匡胤を推戴しようという気運が起こっていた。都ではしきりに、
「趙匡胤の出陣の日をもって点検を天子に立てよう。」
と人々の口に上っていた。兵士と民は騒乱が起こるのを恐れ、逃げ隠れようとしていたが、ただ宮廷の中だけは落ち着いていて、このことを知らなかった。
 
一月三日、大軍が次々に出発した。軍校(8)苗訓(びょうくん)が大声で天文観測の結果を知らせ、太陽の下にもう一つ太陽があり、長い間黒い光が揺れ動くのを見て、趙匡胤の側近楚昭輔(そしょうほ)に、「これは天命だ。」と言った(日食が天命の表れであり、趙匡胤に天命があると考えた)。
 
この日の夕方、趙匡胤の軍は陳橋駅(9)に宿営した。将兵らが集まり、
「帝は幼く頼りない。我々が命をかけて敵を破っても、誰がこの功績を知るのか(幼帝に仕えても何の得もない)?先に点検(殿前都点検・趙匡胤のこと)を天子に擁立して、それから北征しても遅くはない。」
と話し合った。
 
(1)柴宗訓元年 柴宗訓は後周最後の皇帝。先代の世宗が北征中に陣没したため、急遽七歳の幼帝柴宗訓が即位した。このため元号がまだ定まっていない。
(2)鎮州 河北省石家荘市の北。北宋では真定府に改称される。
(3)定州 河北省定県。
(4)殿前都点検 禁軍(皇帝の親衛軍)を統括する殿前司の最高軍職。当時の禁軍は三衙(さんが)(殿前司・侍衛親軍馬軍司・侍衛親軍歩軍司)が統括していた。
(5)検校太尉 北宋前期の検校官十九階の第二階。職務内容のない名誉称号。唐代に検校官が置かれたが、次第に形骸化し、名誉称号となった。
(6)帰徳軍節度使 宋州(河南省商丘県)を統括する節度使。
(7)殿前副都点検 殿前都点検に次ぐ官。
(8)軍校 軍の補佐官。
(9)陳橋駅 開封府の北東。
 
都押衙(とおうが)(10)李処耘(りしょうん)は、このことが明らかになると、趙匡胤の弟、供奉官(きょうほうかん)都知(11)趙匡義(ちょうきょうぎ)、および帰徳掌書記・趙普に告げた。趙匡義、趙普の麾下の諸将らは輪をなして夜明けを待ち、牙隊(12)軍使・郭延贇(かくえんいん)に馬を走らせて都(開封)に入らせ、(開封にいて都の軍をまとめる立場である)殿前都指揮使(13)・石守信、都虞候(とぐこう)(14)王審琦(おうしんき)にこれを知らせた。二人とも元々趙匡胤に帰心していた(ため、趙匡胤につくことが確実だった。このため、都の軍を味方につけることができた)。
 
四日、明け方、将兵らが趙匡胤の寝所に迫り、趙匡義、趙普が(とばり)の中に入って趙匡胤擁立のことを伝えた。趙匡胤はこのとき酒を飲んで寝ているところで、あくびしておもむろに起きあがった。将校らはすでに抜刀して寝所の前に並び、
「我々諸将には主がいません。太尉(趙匡胤)を擁して皇帝となっていただきたく思います。」
と言い、趙匡胤が何も言わない間に黄袍(こうほう)(15)を身にまとわせた。
 
みな趙匡胤を囲んで頭を下げ、万歳を唱和し、脇から手助けして馬に乗らせ、(べん)(16)に帰った。趙匡胤はくつわを取り、言った。
「お前たちは富貴をむさぼろうとして私を皇帝に立てた。我が命に従えば事は成就するが、さもなくば、私はよき君主となることができない(規律を守り、反逆者の汚名を着せられぬように)。」
みな馬を下りて、
「ご命令を。」
と言った。趙匡胤は言った。
「太后・帝は我らが仕える人なので、危害を加えてはならない。公卿(こうけい)(17)は我らと同等の身分の人々なので、危害を加えてはならない。朝廷の庫と街を略奪してはならない。命令の通りにすれば重い褒賞があるが、これに(たが)えばお前たちを許さんぞ。」(不要な殺戮・略奪によって後周の官僚層の支持を失い、政権簒奪が失敗に終わることを戒めた)。
みな「御意!」と応じ、隊を整えて進んだ。
 
(10)都押衙 左右金吾街仗司(きんごがいじょうし)、すなわち儀仗を司る官署に属する官。
(11)供奉官都知 供奉は寄禄官(実際の職務を伴わない名目の官)の一。都知は殿前司に属する武官名。
(12)牙隊 護衛隊。ここでは趙匡胤の親衛隊。 
(13)殿前都指揮使 殿前都点検に次ぐ地位の官。従二品。
(14)都虞候 殿前都虞候。殿前都指揮使、副都指揮使に次ぐ官。従五品。
(15)黄袍 皇帝だけが着用を許された黄色の衣装。ここで趙匡胤が着用することは帝位簒奪を狙うことを意味する。
(16)汴 開封のこと。後周・北宋の首都。
(17)公卿 高位高官の者たち。

2 政権簒奪


建隆元年一月五日、趙匡胤らは(べん)に入った。先に楚昭輔(そしょうほ)を送り、皇族に対してこれから軍が入り込んでも不安を抱くことのないよう説かせ、客省使(1)潘美(はんび)を遣わして宰相に会って事情(趙匡胤の軍が入り込んで恭帝に代わって皇帝になること)を伝え、帰順を促した。まだ早朝のことであったが、宰相らは夜通し朝廷に残っていた。この事変を聞いた宰相・范質(はんしつ)王溥(おうふ)の手を取り、言った。
「不用意に将(趙匡胤)を契丹の討伐に遣わしたのは、私の罪です(北辺の契丹の侵入に対処するため趙匡胤の軍を派遣したが、かえって朝廷に攻め込むすきを与えた)。」
爪は王溥の手に食い込み、血がにじみ出た。王溥は口をつぐんで答えることができなかった。

このとき、侍衛親軍副都指揮使(2)・韓通が禁中から慌しく戻り、兵を率いて趙匡胤の軍を防ごうとし、軍校・王彦昇(おうげんしょう)がこれを追った。韓通は自身の邸宅に駆け入ったが、門を閉ざし切らないうちに韓通は追いついた王彦昇に殺され、その妻子もともに死んだ。
 
趙匡胤は明徳門に登り、兵士らを一旦軍営に帰らせ、自身も軍事を司る役所に退いた。将兵らは范質らを擁して趙匡胤のもとを訪れ(宰相を囲んで皇帝を迎える準備が整っていることを示し)、趙匡胤はこれを見て涙を流して言った。
「私は世宗(3)の厚恩を受けたというのに、禁軍が迫って一日にしてこのような事態に至り、天地に恥じることとなった。これをどうすればよかろうか。」
范質らがまだ答えないうちに、列校(4)羅彦瓌(らげんかい)が剣を抜き、声を大にして、
「我らには主がおらぬ。今日この日、必ずや天子を迎えよう!」
と言った。范質らはお互い顔を見合わせるもどうすればよいか図りかねていたが、王溥が宮殿の階段を下りて最初に趙匡胤に拝礼し、范質もやむを得ず拝礼した。

こうして将兵らは崇元殿に詣でるよう趙匡胤に請い、禅代(5)の礼を行った。百官を招いて趙匡胤のもとに来させ、夕方には列を整えたが、まだ禅詔(代替わりを告げる詔書)が書かれていなかった。翰林(かんりん)承旨(6)・陶穀があらかじめ用意された禅詔を袖の中から出したので、これを用いることとした。趙匡胤は宮廷に入り、北面(皇帝の居所)に拝礼して禅詔をうけとる姿勢をとった。それが終わると、側近に支えられながら殿に登り、皇帝の位についた。

周主を尊重して鄭王として形だけの称号を与え、符太后を周太后とし、二人を離宮に移した。大赦、改元を行った。趙匡胤が帰徳軍(=帰徳軍節度使)を領し、その府が宋州(7)にあったことから、国号を宋とした。使者を遣わして各地方・藩鎮に告げ、それぞれに官職・爵位を与えた。国の五徳の運気については、木徳の後周を受けつぐ、火徳(8)による王朝と定め、色は赤を尊び、(ろう)(9)の祭礼は(いぬ)の日に行うこととした。
 
(1)客省使 接待を担当する官。武官が地方に赴任する際に兼職し、昇進に利用された。
(2)侍衛親軍副都指揮使 三衙(親衛軍の統括機関)のうちの侍衛親軍司の副長官。
(3)世宗 後周の第二代皇帝。恭帝の先代。淮南(わいなん)征伐等を行い、趙匡胤や石守信らがこれに従い武功を挙げ、昇進を重ねていった。
(4)列校 地方軍の軍官。漢代、都を守る兵を五つに分け、北軍五校と称し、各校の首領を校尉といい、列校と総称したのに始まる。
(5)禅代 皇帝の代替わり。
(6)翰林承旨 皇帝の諮問や詔書の起草などを担当する官。正三品。
(7)宋州 河南省商丘市の近く。応天府に属す。
(8)火徳 陰陽五行思想に基づく木・火・土・(ごん)・水の五徳のうちの火の徳。中国には五徳が王朝の交替にかかわるという思想があった。
(9)臘 祖先を祀る祭礼。冬至から数えて三度目の戌の日に行う。

3 趙匡胤の出自


帝は、涿(たく)(1)の人である。四世代前の祖、(ちょう)は、唐の幽都令(2)であった。朓は(てい)を生み、珽は唐の御史中丞(3)であった。珽は敬を生み、敬は涿州刺史(4)であった。敬は弘殷を生み、弘殷は後周の検校司徒(5)、岳州(6)防禦使(7)であった。弘殷は()氏をめとり、帝を洛陽の夾馬営(きょうばえい)に生み、そのとき赤い光が家の周りをめぐり、不思議な香りが立ち込めて消えることがなかった。

帝が成長すると、容貌は雄々しいほどに大きく、人を受け入れる度量が大きく、識者は彼が類まれな資質を持つ人であることを見抜いていた。後周に仕え、百官の首位に立ち、殿前都指揮使に昇進し、軍政を司ること六年に及んだ。たびたび世宗(せいそう)の征伐に従い、多くの大功をあげ、人望を集めていった。

かつて、世宗はあるとき様々な文書に目を通していたが、そのとき革袋を手に入れ、その中に木札が入っていた。長さは三尺(約63cm)あり、「点検が天子となる」と書かれており、この文句に警戒心を抱いた。(8)このときは張永徳が殿前都点検となっていたので、(彼が帝位を簒奪するのを恐れて)趙匡胤に交替させたが、結局は趙匡胤が後周に代わることになった。
 
華山(9)の隠者陳摶(ちんたん)は、帝が後周に代わったのを聞き、「天下はこれから安定するだろう。」と言った。ほどなくして、鎮州から北漢の兵が引き揚げていくとの知らせがあった。
 
(1)涿郡 河北省北京市。
(2)幽都令 幽都は北京市の西南の県。令は長官。
(3)御史中丞 御史台(官吏の不正を監察する官署)の副長官。
(4)刺史 州の長官。
(5)検校司徒 検校官十九階の第五階。
(6)岳州 湖南省岳陽市。
(7)防禦使 武官の階官名(実際の職務はなく、序列のみを示す官名)。
(8)世宗はあるとき……警戒心を抱いた。 『宋史』巻一、顕徳六年(959)の条に、「世宗在道、閲四方文書、得韋嚢、中有木三尺余、題云『点検作天子』、異之。」とあり、訳文の通り補う。
(9)華山 陝西省華陰市の南の山。

4 韓通の葬儀


建隆元年一月八日、(みことのり)を発して後周の馬歩親軍副都指揮使(1)・韓通を中書令(2)とし、礼に(のっと)って葬儀を執り行い、韓通の忠誠を顕彰した。

帝は、王彦昇(おうげんしょう)が帝の許可なく勝手な判断で韓通を殺したことに罪を加えようとしたが、群臣らは建国の始まりでめでたいときでもあることから、彼を許すよう請うた。しかし帝はなおも怒り、王彦昇に終身節鉞(せつえつ)(3)を与えることがなかった。
 
(1)馬歩親軍副都指揮使 侍衛親軍副都指揮使の別称。侍衛親軍司の副長官。
(2)中書令 中書省の長官。
(3)節鉞 皇帝が将軍に授けて権威を持たせるための証書とまさかり。

5 論功行賞と慕容延釗らの策動の牽制


一月十一日、帝を擁立した功を話し合い、石守信を侍衛親軍馬歩軍副都指揮使とし、高懐徳を殿前副都点検とし、張令鐸(ちょうれいたく)を馬歩軍都虞候(とぐこう)(1)とし、王審琦(おうしんき)を殿前都指揮使とし、張光翰(ちょうこうかん)を馬軍都指揮使(2)とし、趙彦徽(ちょうげんき)を歩軍都指揮使(3)とし、みな節度使の官位を与えられ、その他の軍の領袖(りょうしゅう)らもみな爵位を与えられた。

このとき、慕容延釗(ぼようえんしょう)は大軍を従えて真定(4)にとどまり、韓令坤(かんれいこん)が兵を率いて北辺を動き回っていた。帝は使者を遣わして恭順するよう諭し、自分から帝に従えばとがめないこととし、両人とも帝の命に従った。その後、慕容延釗に殿前都点検、韓令坤に侍衛都指揮使(5)を与えた。
 
(1)馬歩軍都虞候 侍衛親軍司馬歩軍都虞候。同副都指揮使に次ぐ官。三衙の都点検、副都点検、都虞候を三帥という。
(2)馬軍都指揮使 侍衛親軍馬軍司都指揮使。侍衛親軍馬軍司(禁軍の騎馬隊を統括する官署)の長官。官位は正五品。
(3)歩軍都指揮使 右に同じく侍衛親軍歩軍司(禁軍の歩兵隊を統括する官署)の長官。官位は正五品。
(4)真定 河北省石家荘市の北。
(5)侍衛都指揮使 禁軍の三衙のうち、侍衛親軍歩軍・侍衛親軍馬軍を統括する官。

6 趙匡義の改名


一月十五日、帝は弟の趙匡義を殿前都虞候(1)とし、名を光義と改め(2)、趙普を枢密直学士(3)とした。
 
(1)殿前都虞候 殿前副都点検に次ぐ官。従五品。
(2)名を光義と改め 匡の字が皇帝趙匡胤の字と重なり礼を失するため、これを避けて改名した。
(3)枢密直学士 枢密院の文書への署名、皇帝の政治顧問や客人への応対などを担当する。官位は正三品。

7 廟の建立、暦の制定


祖先四代の廟を立てた。高祖・(ちょう)を尊んで僖祖(きそ)文献皇帝とし、曽祖・(てい)を順祖恵元皇帝とし、祖・敬を翼祖簡恭皇帝とし、彼らの妻をみな皇后とし、亡父弘殷を宣祖昭武皇帝とした。

暦の制度を定め、孟月(陰暦一・四・七・十月)と季冬(陰暦十二月)を五享とし、毎月一日と十五日は食物と供物を神に捧げることとした。三年に一度、孟冬(陰暦十月)に(こう)(1)を行い、五年に一度、孟夏(陰暦四月)に(てい)(2)を行うこととした。
 
(1)祫 代々の祖先の位牌を始祖の廟に合祀すること。
(2)禘 天と宗廟を祀る大祭。

8 李筠の挙兵


建隆元年夏四月二十四日、後周の昭義節度使(1)李筠(りいん)が反乱の兵を起こした。

当初、帝は即位すると、使者を遣わして李筠に中書令を与えた。使者が()(2)に着くと、李筠はこれを追い返そうとしたが、幕僚らが強く諌めるため、使者を引き入れることとした。李筠は酒を置き、後周の太祖の肖像画を壁に掛け、涙を流してやむことがなかった。幕僚らはこの行為が宋への反逆と使者にみなされるのを恐れ、使者に言った。
「公(李筠)は酒を飲んだたため、泥酔しているのです。宋への反逆の意図があってのことではありません。なにとぞ怪しまれませぬように。」

北漢の主、劉鈞(りゅうきん)はこれを聞いて、蝋書(ろうしょ)(3)を送って李筠と結んで兵を起こそうとした。李筠の長子、李守節は泣いて北漢との結託をやめるよう諌めたが、李筠は聞き入れなかった。

帝は自ら詔を発し、李筠に落ち着くようなだめ、李守節を招いて皇城使(4)とした。その帰りに際して李筠に、
「私がまだ天子ではないとき、お前は勝手に天子を名乗った。いま私が天子となったというのに、お前は私に地位を譲るくらいのこともできないのか。」
と李守節に言付けた。

李守節が帰って李筠にこのことを告げると、李筠はついに挙兵した。軍営に檄文を書かせ、帝の罪を数え上げた。監軍(5)周光遜(しゅうこうそん)らを捕らえて人質として北漢に送り、援軍を求めた。また、人をやって沢州(6)刺史・張福を殺し、その城を拠点とした。 

(1)昭義節度使 潞州(山西省長治市付近)を統治する節度使。
(2)潞州 山西省長治市。北宋では隆徳府に変更されている。
(3)蝋書 ろうで固めて漏洩を防いだ書簡。
(4)皇城使 朝廷の使者。
(5)監軍 軍を監督する官。
(6)沢州 山西省晋城市。
 
従事(7)閭丘仲卿(りょきゅうちゅうけい)は李筠に言った。
「あなたは孤軍によって謀反を起こしているが、その勢いはとても頼りなく、北漢に助力を頼るといえど、おそらく援助を得ることはできないでしょう。大梁(たいりょう)(8)の兵は精鋭で、鋒を交えることは難しいでしょう。西へ向かって太行山(9)に下り、自ら懐州(10)・孟州(11)に行き、虎牢(12)を塞ぎ、洛陽を拠点として、東に向かって兵を差し向けるのがよいでしょう。これを策として上奏します。」
だが、李筠はこの策を用いることができなかった。

北漢の主、劉鈞(りゅうきん)は、自ら兵を率いて李筠のもとに赴き、李筠は太平駅(13)でこれを迎えた。李筠はそこで、自分は後周の太祖の恩を受けたので、死を惜しまず趙匡胤に挑みたいと言った。北漢の主は、後周とは先代からの仇敵(きゅうてき)の間柄であるため、この言を不快に思い、宣徽使(せんきし)(14)盧賛(ろさん)に李筠の軍を監視させることにした。李筠は北漢の兵が弱小なのを見て、また、盧賛が来て監視されることになり、心中悔いること甚だしかった。北漢との謀議は意見の合わないことが多かったため、李守節を潞州に留まらせ、自ら軍を率いて南に向かった。北漢の主は盧賛と李筠が仲違いしていると聞き、平章事(15)・衛融を遣わして和解させた。

帝は石守信、高懐徳、慕容延釗(ぼようえんしょう)王全斌(おうぜんひん)を派遣して進路を分けて攻撃させた。帝は石守信らを戒めた。
「李筠を太行山に下らせて天険の地に立てこもらせるな。急ぎ兵を率いて隘路を押さえ、必ず李筠を破れ。」
石守信らは李筠の兵を長平(16)にて破った。
 
(7)従事 州の属僚で、文書に関する事の全般を担当する。幕職官とも。
(8)大梁 宋都開封のこと。後周では大梁と称した。大のは音はタイ。
(9)太行山 河南省焦作市の北。沢州と懐州の間の山。
(10)懐州 河南省沁陽市。
(11)孟州 河南省陽泉市孟県。
(12)虎牢 河南省鄭州市の西北の要衝。
(13)太平駅 山西省長治市沁県の南。
(14)宣徽使 唐の粛宗以後に置かれ、宦官が担当し、宮中の諸司、三班、内侍の名簿と郊祀、朝会などを管理した。
(15)平章事 尚書・中書・門下三省の長官であり、宰相。
(16)長平 長平関。太行山の北。沢州に属す。

9 李筠討伐


建隆元年六月三日、帝は自ら大軍を率いて李筠(りいん)の討伐に向かった。山路は険しく岩が多かったが、帝は自ら進んで馬上にいくつかの岩を背負ったので、将兵はこれに続いて争って岩を背負い、山道は一日にして平らとなり、大軍が進みやすい大きな道になった。

ようやく石守信らと会い、李筠の軍に沢州の南で大勝し、盧賛を殺し、李筠は逃げて沢州を保った。帝は自ら戦いを指揮し、柵を並べ立てて沢州の城を囲んだ。大将馬全義は決死の士数十人を率いて城の姫垣をよじ登り、ついに城内に入り込んだ。死を悟った李筠は火に飛び込んで自ら命を絶った。

衛融を捕らえた。彼が死を請うと帝は怒り、武器を取ってその首を打ち叩き、流血が衛融の顔面を覆った。それにも関わらず、衛融は「死に場所を得たぞ!」と叫んだ。帝は宋朝に屈しないその姿を見て、「この者は忠臣である。」と言って彼を許し、太府卿(1)とした。

北漢の主は李筠が敗れたのを恐れ、軍を引き揚げて帰った。帝は潞州に進攻し、李守節は城を挙げて降伏した。帝は彼の罪を許し、(ぜん)(2)団練使(3)とした。
 
(1)太府卿 太府(国家の銭穀の出納を司る)の長官。
(2)単州 山東省単県。
(3)団練使 節度使より重要度の低い州を統括する武官。実際の職務内容は伴わない。

10 都の改称


秋七月、帝は潞州から帰還した。大梁(開封)を東京(とうけい)、洛陽を西京(せいけい)とした。

11 李重進の挙兵


七月二十一日、後周の淮南(わいなん)節度使(1)・李重進が、揚州(2)を拠点に挙兵した。李重進は後周の太祖の(おい)である。帝と同じく後周の王室に仕え、兵権を分担していたが、心中常に自分より武勇に勝る(3)帝に対して遠慮していた。帝は即位すると、李重進に中書令を与え、李重進の府を青州(4)に移し、自分に恭順するよう促し、これに従わなければ反逆と見なすこととした。李重進は不安を増し、ひそかに反逆の意志を抱いた。李筠が挙兵すると、李重進は腹心の翟守珣(てきしゅしゅん)を潞州に遣わし、ひそかに李筠と結託した。

翟守珣はもともと帝と面識があり、ひそかに都に出向いて会見を求めた。帝は、
「私は李重進に鉄券(5)を与えようと思うのだが、彼は私を信用するだろうか?」
と問うた。翟守珣は、
「帝が鉄券を与えたとしても、李重進にはもともと帰順の考えがありません。」
と答えた。帝は翟守珣に厚く贈り物をし、李重進に策謀を練るのをやめるよう説得させ、二つの凶事(李筠と李重進の策動)が同時にうごめき、帝の兵の勢いを分断するのを防ごうとした。翟守珣が帰ると、李重進にまだ軽率に兵を進ませるべきでないと勧め、李重進はこの言を信じた。

帝は六宅使(りくたくし)(6)陳思誨(ちんしかい)を遣わして李重進に鉄券を与えた。李重進は旅装を整え、陳思誨に従って(べん)(開封)に行って帝に謁見しようとしたが、臣下らがこれを阻んだため、ためらって腹づもりを決めることができなかった。また、自分が後周王室と親しい間柄であったことから、周囲から擁立されるのを帝が警戒して自分の立場が危うくなるのを恐れた。そこでついに宋との対決を決意し、陳思誨を捕らえ、城を修繕して兵を集め、人を遣わして南唐に援軍を求め、南唐の主(李煜(りいく))はこれを聞き入れた。

帝は石守信、王審琦(おうしんき)李処耘(りしょうん)宋偓(そうあく)らを遣わし、道を分けて李重進の討伐に向かわせ、趙普は帝に親征を勧めた。
 
(1)淮南節度使 江蘇省・安徽省一帯を統治する節度使。
(2)揚州 江蘇省揚州市。
(3)自分より武勇に勝る 『長編』巻一、建隆元年九月己酉(十二日)の条に、淮南節度使・兼中書令滄人李重進、周太祖之甥也、始与上倶事世宗、分掌内外兵権、而重進以上英武出己右、心常憚焉。(淮南節度使・兼中書令で、(そう)の人である李重進は、後周の太祖の甥である。当初、帝とともに世宗に仕え、宮廷内外の兵権を分担していたが、李重進は帝の武勇が自分より優れているため、心中常に帝に遠慮していた。)とある。よって、右の通り補う。
(4)青州 山東省益都県。
(5)鉄券 功臣を封ずるのに用いる符。表に功績、裏に懲罰を記す。李重進に与えることで、趙匡胤が皇帝であることを示そうとしている。
(6)六宅使 武階名、つまり武官の階官(実際の職務を伴わない、官階のみを表すための称号)の一。

12 李重進の死


冬十月、帝は汴を出発した。十一月十一日、広陵(1)に到着し、一日でこの地を攻略した。城がまさに落ちようというとき、李重進の側近たちは陳思誨(ちんしかい)を殺そうとしたが、李重進は言った。
「私はいま一族挙げて火を放って死のうというのに、この者を殺して何の得になるのか。」
そして一族ともども焼死し、陳思誨も結局は殺された。帝は城に入り、李重進に加担した者数百人を殺し、揚州は平定された。

<ある史官は言う、韓通はまだ宋が禅譲を受ける前に死んだため、忠義の志があったことは明らかである。李筠・李重進については、旧来の史書には叛乱と記されているが、叛乱かどうかはいまだ決めかねるところである。彼らは殷の洛邑の頑民(頑なに抵抗する民)、殷の忠臣といえないだろうか。あるいは、この三人は、かつて後唐(こうとう)後晋(こうしん)後漢(こうかん)に仕えていたという。このことから、彼らを智氏の予譲(2)に例えるというのも、あながち間違ってはいないだろう。>
 
(1)広陵 揚州の古名。
(2)予譲 戦国時代、晋の人。晋の有力者の一人、智伯に仕えて重用される。のち、晋の有力者同士で争いが起こり、智伯が趙襄子(ちょうじょうし)に滅ぼされると、身に漆を塗って(らい)となり、炭を呑んで()となって趙襄子を討とうとしたが、逆に趙襄子に捕らわれ自尽した。

13 柴宗訓の死


建隆三年(962)冬十月、鄭王宗訓を離宮から房州(1)に移した。王は後に開宝六年(973)春に没し、恭帝と(おくりな)(2)された。
 
(1)房州 湖北省房県。十堰(じゅうえん)市の南。
(2)諡 皇帝の死後に贈られる称号。生前の事跡が反映される。