巻63 南遷定都

Last-modified: 2024-01-21 (日) 11:28:57

1


高宗建炎元年(1127)秋七月、帝は京師にいまだ赴いていないことから、直筆の詔を下して東南へ巡幸することとした。

2


十九日、元祐太后が揚州に向かった。

帝は汪伯彦(おうはくげん)・黄潜善の言に従い、揚州に(みゆき)して敵を避けることに決め、副都指揮使・郭仲荀(かくちゅうじゅん)に太后を奉じて先発させ、六宮(りくきゅう)(1)および衛士の家族もみな従った。使者を汴京(べんけい)に行かせ、太廟の位牌を奉じて行在(あんざい)に向かわせた。

(1)六宮 皇后の宮殿。

3


九月五日、金人が河陽・汜水(しすい)(1)を侵したのを受け、日を選んで淮甸(わいでん)(淮河流域)に巡幸することとした。淮南・浙江(せっこう)の沿海諸州に城砦(じょうさい)を増築・修築し、民兵を訓練させた。

(1)汜水 河南省滎陽(けいよう)市。

4


冬十月一日、帝は揚州に向かった。

このとき、金兵が日々迫っており、許景衡は建康の天険に拠るべきと進言した。帝はこれに従い、知揚州・呂頤浩(りょいこう)に城を修築させた。

ここに至り、間諜(かんちょう)が金人は江南・浙江を侵そうとしていると知らせてきた。このため、しばらく淮甸に留まり、状況が落ち着き次第宮殿に帰ることとした。また、みだりに人々を惑わして巡幸を妨げる者は、告発を許してこれを罪に問い、告発しない者は斬ることとした。

5


二年(1128)春正月一日、帝は揚州にいた。

6


葉夢得を戸部尚書とした。

葉夢得は述べた。
「敵を待ち受ける計は形・勢い・気の三つのみです。形は土地・山川を本とし、勢いは城・食糧・兵器を重とし、気は将帥・士卒を急とします。形が固ければこれを恃んで守ることができ、勢いが強ければ援助して立つことができ、気が盛んであれば彼らに職務を行わせて用いることができます。このようにすれば、敵はわが謀計の内にあることになります。」
そして、
「陛下が南に巡幸し、長江を天険とすれば恐れるものがありません。」
と要請した。また、
「重臣を宣撫(せんぶ)総使として一人を泗水(しすい)に置き、両淮(りょうわい)および東方の軍を率いて敵を待ち受けるのです。もう一人を金陵に置き、江南・浙江(せっこう)の路を率い、退却に備えるのです。」
と要請した。上奏は受理されたが、帝からの返答はなかった。

7


冬十月八日、侍御史・張浚(ちょうしゅん)は、先に六宮(りくきゅう)の所在地を定めるべきだと言った。孟忠厚(もうちゅうこう)に太后および六宮の皇子を奉じて(こう)州に行かせ、苗傅(びょうふ)劉正彦(りゅうせいげん)扈従(こじゅう)都・副統制とした。

8


十一月十四日、寿寧寺にて祖先の位牌を祭った。

十六日、郊外で天を祭り、合祀(ごうし)を行った。

9


十一月二十九日、太后が(こう)州に到着し、扈従(こじゅう)統制・苗傅(びょうふ)はその軍八千人を奉国寺に駐留させた。

10


十二月十四日、黄潜善・汪伯彦(おうはくげん)を尚書左右僕射(ぼくや)兼門下中書侍郎とした。

二人が謝辞を述べに行くと、帝は言った。
「黄潜善が左相となり、汪伯彦が右相となった。朕は国事を心配する必要がない。」

このとき金兵が山東に横行し、群盗が蜂起していたが、黄潜善・汪伯彦は何ら策を持ち合わせずほしいままに振る舞い、東京(とうけい)は御史に、南京は留守に、()(1)は郡守に任せきりにし、直言する者は聞き入れられず、出兵を願う者は朝廷に知らされなかった。金兵は日々南進していたが、黄潜善らは李成の余党となり、深い考えもなかった。

(1)泗州 江蘇省盱眙(くい)県。

11


二十三日、張浚(ちょうしゅん)は軍事について参与した。張浚は金人は必ず襲来するであろうから、あらかじめ備えをしておくべきだと直言した。黄潜善・汪伯彦は考えすぎだとしてこれを笑った。

12


三年(1129)春正月、帝は揚州にいた。

13


二十七日、粘没喝(ネメガ)は徐州(1)を落とし、知州・王復が死んだ。

このとき韓世忠は淮陽(わいよう)(2)に駐屯しており、山東の兵を集めて(ぼく)(3)を援護しようとしていた。ネメガはこれを聞くと、兵万人を分けて揚州に向かわせ、自ら大軍を率いて迎撃した。韓世忠は衆寡敵せず、夜に引き返した。ネメガはこのあとを追い、沭陽(じゅつよう)(4)に着いた。韓世忠は軍を捨てて塩城(5)逃げ、軍は壊滅した。ネメガは淮陽に入り、騎兵三千で彭城(ほうじょう)(徐州)を取り、間道から淮東に向かい()州に入った。

(1)徐州 江蘇省徐州市。
(2)淮陽 山東省()州市。
(3)濮州 山東省鄄城(けんじょう)県。
(4)沭陽 江蘇省沭陽県。
(5)塩城 江蘇省塩城市。

14


二月一日、詔を下し、民が避難する兵についてゆくことを許した。劉正彦(りゅうせいげん)が兵を率いて皇子・六宮(りくきゅう)を守って(こう)州に向かった。

15


三日、ネメガは()(1)に着き、知州・朱琳(しゅりん)が降伏した。勝ちに乗じて南進し、天長軍を落とした。

内侍・鄺詢(こうじゅん)が金兵がやって来ると知らせると、帝はすぐに鎧を着て馬に乗り、瓜洲歩(かしゅうほ)(2)まで駆け、小舟を得て長江を渡った。親衛の兵数人と王淵(おうえん)張浚(ちょうしゅん)、内侍・康履らのみがついていった。日が暮れて、鎮江府(3)に着いた。

汪伯彦(おうはくげん)・黄潜善は同位の者らとともに釈迦の説法を聞き、それが終わると会食していたが、そこへ中書省の官吏が大声で言った。
「陛下がお出かけになられました。」
二人は振り向き合って慌てふためき、軍服を着て馬に鞭を入れて南に向かって駆けた。すると民が門を争って出てきて、死者が頭をうずめ合い、恨まぬ者がなかった。

(1)楚州 江蘇省淮安市。
(2)瓜洲歩 江蘇省揚州市の南。
(3)鎮江府 江蘇省鎮江市。

司農卿(しのうけい)(4)黄鍔(こうがく)が長江のほとりに着いたとき、兵たちは黄潜善を罵って言った。
「国と民を誤らせたのは、みな貴様の罪だ!」
黄鍔は黄潜善の誤りを説いていたが、首を()ねられた。

金の将・馬五が五百騎を率いて先駆し揚州城下に着いたところ、帝が南に行ったと聞き、揚子橋まで追ってきた。

事が急に起こったため、朝廷は儀式に用いる器物を捨てたが、太常少卿(5)・李陵は宗廟(そうびょう)の位牌を取って鎮江に向かった。城を出ること数里もしないうちに、城中は煙と炎が天を灯していた。李陵は金人に追いつかれ、太祖の位牌を道中に失った。

(4)司農卿 司農寺の長官。倉庫の事務を司る。従四品。
(5)太常少卿 太常寺(礼楽を司る官署)の次官。従五品。

16


帝は鎮江に到着し、官署に泊まった。翌日、臣下らを呼んでここを離れるべきかを尋ねた。呂頤浩(りょいこう)は鎮江に留まり、長江以北からの援護を待つよう求めた。群臣もこの意見に賛成したが、王淵(おうえん)だけは言った。
「鎮江は一面を防げるだけです。もし金人が通州(1)から長江を渡り姑蘇(こそ)に拠れば、これにどう対処しますか?銭塘(せんとう)(杭州)の川を天険として拠るのが上策です。」
帝の意は杭州に移ることに決まった。

張邵(ちょうしょう)は上奏した。
「中原の形勢があり、東南の形勢があります。今すぐに中原の奪還をお考えでないならば、都を金陵に定めて江・(わい)(しょく)・漢・(びん)・広に根を広げ、中原の回復を図るのです。」
これには返答しなかった。

(1)通州 江蘇省南通市。

17


この日の夕方、帝は鎮江を出発した。四日後、平江(1)に到着した。朱勝非に平江・秀州(2)の軍馬を指揮させ、張浚(ちょうしゅん)がこれを補佐した。また、朱勝非に御営副使を兼務させ、王淵(おうえん)に平江を守らせた。さらに二日後、崇徳(3)に到着した。このとき、呂頤浩(りょいこう)が随行しており、同簽書(せんしょ)枢密院事・江淮(こうわい)両浙(りょうせつ)制置使を拝命し、兵二千を率いて京口に駐屯した。また、張俊に兵八千で呉江(4)を守らせた。

(1)平江 江蘇省蘇州市。
(2)秀州 浙江(せっこう)嘉興(かこう)市。
(3)崇徳 浙江省杭州市の北。
(4)呉江 江蘇省呉江区。

18


朱勝非の計を用いて張邦昌(ちょうほうしょう)の親族を任用し、閣門祗候(しこう)劉俊民(りゅうしゅんみん)を金軍への使者とした。そして劉俊民に、張邦昌から金人に宛てた「約和書稿」を持って行かせた。

19


十三日、帝は(こう)州に留まり、州府を行宮(あんぐう)とした。詔を下して自分を罪に問い、直言を求め、死罪以下の罪を赦免し、流罪にあっていた士大夫を釈放した。しかし、李綱だけは許さず、釈放しなかった。黄潜善の計を用い、李綱を罪に問うことで金に謝罪したのである。

20


和州(1)防禦使・馬拡が直言を求める詔に応えて上奏した。
「前日のことは、誤りが四、失敗が六であります。陛下には巴蜀(はしょく)へ西幸し、陝右(せんゆう)の兵を用い、重臣を置いて江南・淮甸(わいでん)を守り、金賊の計を破って天下の心を変えていただきたく、これが上策であります。

武昌(ぶしょう)(2)を都として荊湖(けいこ)に拠り、四川・広南を掌握し、義兵を集めて上流に分布させ険要を押さえ、河南諸路の豪傑と密約して土地を得て代々守ることを許す、これが中策であります。

金陵に留まり長江河口を守り、漕運(そううん)を開いて水軍を訓練して将兵を激励し、幸いにも一度勝つことができれば敵の形勢を見て遷都に備える、これが下策であります。

長江に拠って恃めば、幸いにも金賊が来なかったとき、遷都を先延ばしにし、秋冬になって金賊が再度やって来て、舟の(かい)を徴発し、長江・淮河(わいが)の千里にわたって水軍を並進させ、この時になって後悔する、これが無策であります。」
馬拡の上奏は数千言に及び、いずれも軍機に触れるものだった。

(1)和州 安徽(あんき)省和県。
(2)武昌 湖北省黄岡(こうこう)市付近。

21


十九日、金人は揚州を焼いて去っていった。呂頤浩(りょいこう)陳彦(ちんげん)に長江を渡り、残っていた金兵を襲撃させ、揚州を回復した。

22


二十日、黄潜善・汪伯彦(おうはくげん)が辞職した。

中丞(ちゅうじょう)張澂(ちょうちょう)は、二人には大罪二十があり、陛下の逃走を招き、天下はこれを恨んでいると論じ、罪を加えるよう訴えた。このため黄潜善を罷免して知江寧府(1)、汪伯彦を知洪州(2)とした。

黄潜善はみだりに国権を握り、忠良な者を恨んで李綱を追い宗沢を阻み、台諫(だいかん)・内侍で直言する者があれば術策によりすぐさま陥れた。内外の者はこのために切歯扼腕していたが、帝は気付かなかった。

(1)江寧府 江蘇省南京市。
(2)洪州 江西省南昌市。

23


夏四月二十日、帝は杭州を出発した。鄭瑴(ていかく)を置いて太后を守らせた。

24


五月一日、帝は常州(1)に着いた。

(1)常州 江蘇省常州市。

25


四日、帝は鎮江に着いた。

26


八日、帝は江寧府に着き、府名を建康と改めた。

27


六月十一日、江南・淮南(わいなん)にため池を引いて溝を掘り、金兵を阻むよう命じた。

28


二十三日、皇太后が建康府に到着した。

29


二十八日、内外に伝えた。
「戦争の秋が近づいている。太后には宗室を率いて位牌を持って長江以南に来てもらいたい。軍事以外の諸官庁はこれに随行せよ。朕は大臣や宿将とともに防衛に備える。南に移ることを希望する民があれば、当局は禁止してはならない。」

30


八月十三日、太后は建康を出発した。

31


帝は金兵が迫っていると聞き、使者を遣わして進軍を遅らせるよう求めることとした。そして京東転運判官・杜時亮(とじりょう)および修武郎・宋汝為(そうじょい)を金軍に遣わして和を請い、ネメガに書状を届けた。
(いにしえ)の国家を擁しながら危機に瀕する者は、守るか逃げるかしかありません。今、守ろうとしても人がなく、逃げようとしても土地がありません。恐れおののいて閣下が哀れに思って私を許してくれるよう望む所以(ゆえん)です。故に、以前お届けした書状について、旧来の国号を取り去りたく思います。これは天地みな大金の国であって二人の皇帝を尊ぶことはないということです。また、どうして軍が遠方へ行くのをねぎらい、進軍を速めることがありましょうか?」

32


閏月(じゅんげつ)十四日、起居郎・胡寅(こいん)が上奏した。
「陛下は親王の弟であることから淵聖(えんせい)皇帝(欽宗(きんそう))の命を受け、河北に出陣されました。二帝が北へ連れ去られれば、義軍を糾合して北へ迎えに行かれるべきでありますが、陛下はすぐに帝位につかれ、太子を立て、宮殿に戻らず、陵墓を見守り、歳月を無駄に過ごしてほぼ戦ったことがありません。敵が虚に乗じて一人でも南に渡れば、ひたすらに委縮して遠くへ逃げるばかりで、軍民はこれを恨んでおります。自己保全の計とはいえないでしょう。」
そして七つの策を進言した。
一、和議をやめ戦略を整えること
二、行台(1)を置いて危急の際の職務を区分すること
三、実際的なことに重点を置き、空虚な文言を退けること
四、大いに天下の兵を興し、自強に努めること
五、荊湖(けいこ)襄陽(じょうよう)(2)に都を置き、根拠地を定めること
六、宗室の才能ある者を選び、地方統治の任にあたらせること
七、綱紀を定め国体を立てること
上奏文は数千言にのぼったが、呂頤浩(りょいこう)はその正直さを嫌い、胡寅を罷免した。

(1)行台 出征時、駐屯地に置き、中央の政務機構を代行した官署。
(2)襄陽 湖北省襄樊(じょうはん)市。

33


十五日、帝は諸将を呼び集めてどこに留まるべきかを話し合った。張俊・辛企宗は(がく)(1)・岳州(2)から長沙に(みゆき)するよう求めた。韓世忠は言った。
「国家は河北・山東を失いました。江南・淮南(わいなん)を捨てれば、これ以上どこの地があるというのでしょう?」
呂頤浩(りょいこう)は言った。
「金人の考えは陛下の行かれるところを辺境とすることです。今は戦いつつ避けつつ、陛下を万全の地にお連れすべきときです。私は常州・潤州(3)に留まって死守したく存じます。」
帝は言った。
「朕の左右には宰相がいなければならん。」
このため、杜充(とじゅう)に建康を、韓世忠に鎮江を、劉光世に太平(4)・池州(5)を守らせることにした。

(1)鄂州 湖北省武漢市付近。
(2)岳州 湖北省岳陽市。
(3)潤州 江蘇省鎮江市。
(4)太平 安徽(あんき)省当塗県。
(5)池州 安徽省貴池区。

34


二十一日、太后が洪州に到着した。

35


二十六日、帝は建康を出発し、臨安(1)に向かった。

考功員外郎(2)婁炤(ろうしょう)が上奏した。
「今日の計は、古人の力を量る言を思い、兵家の己を知る計を察するべきであります。努力して淮南(わいなん)を保つことができれば、淮南を障壁とし、建康を仮の都とし、失地の回復を図るのです。努力しても淮南を保つことができなければ、長江を険要の地とし、呉・会を仮の都とし、国力を養うのです。」
これを受け、帝は臨安に帰り、淮南を防衛しないことに意を決した。

(1)臨安 浙江(せっこう)省臨安区。
(2)考功員外郎 考功司(官僚の昇進・左遷を司る官署)の次官。正七品。

36


九月六日、帝は平江府に着いた。

37


冬十月八日、帝は臨安に到着し、越州(1)に向かった。

(1)越州 浙江(せっこう)省紹興市。

38


十一月二十三日、詔を下した。
「国家は近年金人の侵入を受け、戦争のない年はなかった。朕は帝位継承以来深く心配し、父兄が危難にあってわが民が安心できておらず、彼らを戦争の害に陥らせないようにしたく思った。故に恥を忍んで退避を計画し、失地を回復して都に帰ることを望み、しばらく休息することにした。南京(なんけい)から淮甸(わいでん)に移り、淮甸から建康に移ったが、会稽(かいけい)は遠く、僻遠(へきえん)の極みである。

謙虚な言葉を用いて礼を厚くし、使者が互いを見合い、尊称を取り去り身を低くするよう願い、正朔(せいさく)(1)を用いるよう求め、臣下らと肩を並べ、使者を遣わして祈り、心を尽くしている。たとえ金石は無情であっても、少しは動じるものである。連年屈従した態度で接してもこちらの意に従わず、民が騒がしくすれば、いつ休まるときがあろう?

(1)正朔 新たな皇帝が発布する暦法。

今、諸路の兵が江南・浙江(せっこう)に集まり、朕は(はばか)ることなく自ら赴き、要害に拠っている。金人が朕が(なんじ)ら兵民の主であることを許すならば、朕は事大の体にあり、不恭な態度を取ることがあろうか?あるいは兵を用いてわが行在(あんざい)をうかがい、わが宗室を傾け、民を塗炭の苦しみに陥れ、東南の金帛(きんはく)子女を奪いつくせば、朕もまたどうしてわが一身を愛し、陣に臨んで前言を実践し、民を守らぬことがあろうか?

朕は十一月二十五日をもって移動し、浙西に行き敵を迎え撃つこととした。わが将兵人民を思い、国家涵養(かんよう)の恩と二帝拘禁の恥を思い、殺戮(さつりく)の害を悼んでいながら、手をつかねて倒れるのを待つばかりでは、どうやって考えをめぐらせ、力を合わせ、奮励して国家を保つことができようか?」
この日、金人は吉州(2)と六安軍(3)を落とした。

二十五日、帝は越州を出発し、銭清鎮(4)に着き、浙西に行き親征しようとした。諸官庁には曹娥(そうが)(5)に移ったものもあり、銭清鎮に移ったものもあった。侍御史・趙鼎(ちょうてい)は衆寡敵せざるため、夷狄(いてき)を避けたほうがよいと強く(いさ)めた。

二十六日、諸官庁を越州に移した。

(2)吉州 江西省吉安市。
(3)六安軍 安徽(あんき)省六安市。
(4)銭清鎮 浙江(せっこう)省紹興市の北西。
(5)曹娥江 浙江省紹興市の東にある川。

39


十二月二日、帝は明州(1)に着いた。

(1)明州 浙江省寧波(ニンポー)市。

40


八日、海に出て敵兵を避けるよう提案が出された。

41


二十六日、帝は(うん)(1)・台州(2)に移った。

(1)温州 浙江省温州市。
(2)台州 浙江省臨海市。

42


四年(1130)春正月一日、帝は舟に乗り海上にいた。

43


三月、帝は温州を出発した。

44


夏四月十二日、帝は越州に帰った。

これ以前、金人が退き、帝は温州から西に帰ろうとし、群臣を呼んでどこに留まるか話し合った。呂頤浩(りょいこう)は言った。
「これからは浙右(せつゆう)(浙江西部)に留まり、(しょく)に入ることを考えるべきです。」
范宗尹(はんそういん)は言った。
「蜀に入れば両方とも失うでしょう。江表(長江以南)に拠って関陝(かんせん)(陝西)に入るようにすれば、両方とも得ることができます。」
帝は言った。
「よし。」

ここに至り、越州に留まることとし、越州を紹興府に昇格させた。

45


八月、隆祐太后が越州に着いた。

46


十一月十三日、冬至。帝は百官を率いて二帝の方向に向かって拝礼した。長江を渡って以来、初めてこの礼式が行われた。その後元旦にも同じ礼式を行った。

47


紹興元年(1131)春正月一日、帝は越州にいた。

48


夏四月、隆祐太后が崩御した。

49


九月十八日、明堂(1)にて天地を合祀(ごうし)し、太祖・太宗もともに祭った。

初めて会稽(かいけい)に留ったが、長江を渡る前に用いていた礼楽の楽譜が焼けてしまったため、太常寺は仮に望祭の礼を用いるよう上奏した。

(1)明堂 上帝や祖先の祭祀など、国家の典礼を行う場所。

50


二年(1132)春正月十四日、帝は紹興から臨安に赴いた。呂頤浩(りょいこう)の求めに従ったものだった。

51


三年(1133)春正月一日、帝は臨安にいた。

52


四年(1134)春正月一日、帝は臨安にいた。

53


九月十五日、明堂にて天地を合祀(ごうし)した。国子(じょう)・王普の意見を用い、舞楽を正した。

これ以前、帝は時の災厄にあって、器物や礼式は便宜に従うこととし、損益を考慮して倹約に努めるよう当局を戒めた。このため元年の例にならい、登歌(1)と宮架(2)、楽官・楽工・器物・衣服を大幅に倹約した。

国家の命運がようやく安定し、国境を保ち民を安息させることが務めとなり、礼楽がようやく盛んになった。

(1)登歌 祭典のとき、堂に登って歌う歌。
(2)宮架 楽器を掛ける用具。

54


冬十月、帝は劉予が侵入したため、親征の詔を下した。

二十三日、臨安を発した。

二十七日、平江に着いた。

55


五年(1135)春正月一日、帝は平江府にいた。

56


二月八日、帝は臨安に帰った。

57


十五日、臨安に太廟(たいびょう)を建てた。

このとき、太廟の位牌が(うん)州に置かれ、一定の時期に知州に祭祀(さいし)させていた。司封郎中(1)林待聘(りんたいへい)は言った。
「位牌に関する礼は都で行うべきですが、新たな都がまだ定まっていません。(いにしえ)の軍が戦車に位牌を載せていたことに鑑み、位牌を行宮(あんぐう)に移し、祖先の威光を明らかにするようお願いします。」
ここにおいて臨安に太廟を建て、太常少卿・張銖(ちょうしゅ)に位牌を安置させ、帝は拝謁の礼を行った。侍御史・張致遠は言った。
「太廟を創建すれば、興復の大計を失することになります。」
殿中侍御史・張絢(ちょうけん)も言った。
「去年は明堂を建て、今年は太廟を建て、これでは臨安を長く住む地として中原奪還の意思がないことを示すことになります。」
帝からの返答はなかった。

(1)司封郎中 司封司(官員に対する封爵・贈官などを司る官署)の長官。従六品。

58


六年(1136)七月、建康府に軍営を建てた。

張浚(ちょうしゅん)は上奏した。
「東南の形勝の地で建康より重要なものはなく、中興の根本であり、君主をここに居らしめ、北に中原を望み、常に憤りと恐れを抱き、安逸に流されないようにするのです。臨安は僻地(へきち)にあるため、内は娯楽に流されやすく、外は遠近の者を呼び寄せ中原の心をつなぐに不足であります。建康に都を定め、三軍をいたわり、失地の回復を図られるよう願います。」
帝はこれに従った。

秦檜(しんかい)を行営留守とし、孟庾(もうゆ)が補佐することとした。

59


九月一日、帝は臨安を発した。劉予が侵攻しようとしたためであった。

60


八日、帝は平江に着いた。

61


七年(1137)春正月一日、帝は平江にいた。詔を下し、建康に移ることとした。

62


八年(1138)春正月一日、帝は建康にいた。

帝が平江に行こうとすると、李綱は平江は建康から離れておらず、退避の名目があるのみであり、軽々しく動くべきではないと言った。そして上奏した。
「昔から戦をして大業をなす者は、必ず先に人心を固め、士気を上げ、地の利に拠って先に下がるのをよしとせず、人事を尽くして先に屈するのをよしとしないものです。楚・漢は滎陽(けいよう)(1)成皐(せいこう)の間を隔て、高祖はたびたび敗れても尺寸の地とて明け渡すことがありませんでした。鴻溝(こうこう)を割譲すると、項羽は東に向かい、垓下(がいか)の変に遭いました。曹操・袁紹(えんしょう)が官渡で戦ったとき、曹操は兵弱く食糧が乏しかったのですが、荀彧(じゅんいく)は退避に反対しました。袁紹の輜重(しちょう)を焼くと、袁紹は引き上げて帰り、河北を失いました。

これらの例から今日のことを見るに、一叛将(はんしょう)のために風向きを見て敵に(おび)え、自ら敵に屈する必要があるでしょうか?建康から平江へ軽々しく移れば、陛下の車が移動した後に人情が動揺して意志が固まらず、士気が委縮して闘う心をなくします。我が退き彼が進み、敵の馬を南渡させれば、一(ゆう)を得れば一邑を守り、一州を得れば一州を守り、一路を得れば一路を守り、乱臣賊子、悪賢い官吏や民がつき従い、虎や(とび)が勢力を張り、前日のように戻ろうとしても、朝廷は(いばら)瓦礫(がれき)の中に立つことになり、許されないことです。もし敵騎と衝突し、やむを得ず一時これを避けるのであれば、なお申し上げることがあります。

いま戦場に急な知らせがなく、将兵に不利なことがなく、朝廷は往時のことを懲罰すべく、軍政を整え、号令を明らかにし、賞罰を明らかにし、ますます固守に努めています。だというのに、にわかにこのような騒ぎを起こし、前功を捨て、後患を踏み、自ら敗北に向かって走るのであれば、惜しむべきものであります。」

(1)滎陽 河南省滎陽市。

63


十一日、帝が臨安に帰ることを提案すると、張守が言った。
「建康は六朝より帝王の都であって壮大な気風を備え、都に拠って中原を治め、険阻な地に拠って強敵を防いできました。陛下の席がまだ温まらないというのに今また巡幸されれば、諸官庁と諸軍に労苦が重なり、民力と国の費用に大きな負担がかかります。今しばらくこの地に安住し、中原の民心をつなぎとめるよう願います。」

64


二月七日、帝は建康を出発した。

65


二十二日、帝は臨安に到着した。これよりこの地を都と定めた。