1 後蜀の反逆
太祖乾徳二年(964)十一月、帝は王全斌に命じて後蜀の討伐に向かわせた。
後蜀(1)の君主、孟昶は、即位してからというもの、自分から君主の位を継ぎ、日々の暮らしは贅沢を極め、王昭遠・伊審微・韓保正・趙崇韜に要職を分担させ、軍事と政治の権限を預けていた。
孟昶の母で、太后の李氏は、もと後唐の荘宗(2)に仕える嬪御(3)で、孟知祥(後蜀の高祖、孟昶の父)を婿に与えられた人であった。李氏は言った。
「荘宗とそなたの父が後梁を滅ぼし、そののち夫が後蜀を創建するのを私は見届けてきました。当時、兵を率いる者は、軍功がなければ褒賞を授かることがなく、だからこそ兵たちは将の権威に服していました。ですが、今の将を見るに、王昭遠はそなたの近くに侍るだけの人、韓保正は先代からの俸禄を食んでいるだけの子孫にすぎません。彼らはもともと戦い方を学んでおらず、もしものことがあれば、このような者たちをどうして用いる必要があるでしょうか?」
蜀主・孟昶はこれを聞き入れなかった。
宋が荊湖を平定すると、後蜀の宰相・李昊は、蜀主に献策した。
「宋が自らの行く末を切り開いていく様子を見ますに、その勢いは後漢・後周とは比べものにならず、海内(4)を統一しようとするほどのもので、それが今ここにあるのです(宋と争うべきではありません)。もし宋に貢ぎ物を献上すれば、三蜀(5)を保つための良策となるでしょう。」
(1)後蜀 後唐の荘宗によって創建され、のち、荘宗から成都尹(いん)に任命された孟知祥が独立し、高祖として即位した。荘宗に滅ぼされた前蜀と区別するため、後蜀と称される(925~965)。
(2)荘宗 李存勗(りそんきょく)。後唐の初代皇帝。在位923~926。
(3)嬪御 皇帝のそば近くに仕える女官。
(4)海内 天下。
(5)三蜀 蜀のこと。漢代に蜀郡・広漢・犍為(けんい)に分割されたことから。
蜀主はこれを受けて使者を宋に遣わそうとしたが、王昭遠は固くこれを阻み、兵を率いて峡路(6)に駐屯させ、水軍を増やした。
帝はこれを聞いて、ついに後蜀を討伐することを決断し、張暉(ちょうき)を鳳州(7)団練使(8)とした。張暉は後蜀の内情や険しい場所、平坦な場所についてことごとく情報を得て帝に報告し、帝はたいへん喜んだ。
後蜀の山南節度判官(9)・張廷偉は、知枢密院事(10)・王昭遠に言った。
「あなたはもともと功績がありません。国家の要職の地位についたとはいえ、自分の力で大功を立てずにどうやってわが朝廷内の時論(宋に従うこと)を塞ぎ止めようというのですか?ここは并(へい)州(11)(北漢)と親しくし、同地の兵を南下させるのが良いでしょう。私は黄花(12)・子午谷(13)から兵を出してこれに呼応し、中原(宋)に北と西から敵を迎える形にさせて宋軍を弱らせ、攻め込む力を失わせれば、関右(14)の地(後蜀)は無事に保つことができましょう。」
王昭遠はその意見に賛同し、蜀主孟昶に勧めて趙彦韜らに蝋書を持たせて密行させ、北漢に対して黄河を渡り時を同じくして挙兵することを約束させた。
趙彦韜が開封に到着すると、彼は密かに蝋書を取りだし、帝に献上した。帝は笑いながら、「わが西方討伐に大義名分が与えられたぞ。」と言った。帝は王全斌に命じて西川行営都部署(15)とし、劉光義・崔彦進がこれを補佐し、王仁贍・曹彬を都監(副司令官)とし、歩兵・騎兵合わせて六万を率いて、それぞれ別の道から後蜀の討伐に向かった。
(6)峡路 四川・湖北両省の境目にあたる地域。
(7)鳳州 陝西省鳳県付近。
(8)団練使 職務内容を伴わない名目上の官職。ここでは討伐軍の指揮官に授与して権威を持たせている。
(9)節度判官 節度使の属官。
(10)知枢密院事 枢密院(政治・軍事の諮問機関)の長官。
(11)并州 太原府のこと。山西省太原市。ここでは同地に府を置く北漢を指す。
(12)黄花 鳳州の北東。
(13)子午谷 西安の南西にある谷。
(14)関右 潼関(どうかん)以西の地。つまり蜀のこと。古来、西を右と言った。
(15)行営都部署 討伐軍を起こすときの臨時の軍職。全軍の指揮を執る。
一方で、降伏後の蜀主を迎えるために汴水(16)のほとりに前もって屋敷を造らせた。その広さは五百余間に及び、什器を取り揃えていた。
帝は王全斌に、「城を攻略したときは、城内の武器と鎧、馬草を差し押さえて書き記しておき、財貨や絹織物はすべて将兵に分け与えよ。私が得たいのは土地だけだ。」と詔を下した。王全斌と崔彦進らは鳳州から進み、劉光義と曹彬らは帰州(17)から進んだ。
蜀主孟昶はこの知らせを聞いて、王昭遠を都統(司令官)に、趙崇韜を都監(副司令官)に、韓保正を招討使(18)に任命し、李進が韓保正を補佐し、兵を率いて宋軍を防ぐこととした。
戦いに赴く前に、左僕射(19)の李昊に命じて郊外で餞の宴会をさせた。酒もたけなわのころ、王昭遠は腕をまくって、「今回の戦いでは敵に勝つだけでなく、いとも簡単に中原をも奪ってやろう。」と息巻いた。そして自ら思いのままに武器を取り、軍事を指揮し、自らを諸葛亮になぞらえた。
(16)汴水 汴都(開封府)を流れる運河。
(17)帰州 湖北省秭帰(しき)県。
(18)招討使 戦争時に置かれる武官。降者を招きいたわり、叛者を討つの意。
(19)左僕射 職務内容を伴わない名目上の官職。宰相クラスの者に与えられた。従二品。
2 興州・羅川の攻略
乾徳二年十二月、王全斌らは万仞・燕子の二つの砦を攻略し、興州(1)を奪取し、石図など二十余りの砦を続けざまに占領し、食糧四十万石(2)を手に入れた。王全斌の先鋒の将、史延徳は、韓保正・李進らと三泉砦(3)で戦い、彼らの軍を破り、韓保正・李進らを捕虜とし、食糧三十万石を手に入れた。宋軍が羅川に着くと、後蜀軍は川に沿って陣を敷いて待ち構えた。宋軍は崔彦進、張万友を送って橋を奪いに行かせ、後蜀軍は大漫天砦に退いた。崔彦進・張万友と康延沢は、三つの道から後蜀軍を攻撃し、後蜀軍は精鋭をすべて繰り出して迎え撃ったが、大敗して壊乱した。王昭遠らは再度兵を引きつれて敵を迎え撃つことにしたが、三戦していずれも敗れた。王昭遠は桔柏江(4)を渡り、橋を焼いて剣門(5)に退いた。
(1)興州 陝西省略陽県。
(2)石 『長編』巻五、乾徳二年十二月辛酉(十九日)の条は、「石」の字を補っている。
(3)三泉砦 興州の南。
(4)桔柏江 四川省広元県の南西。
(5)剣門 四川省剣閣県の南。
3 夔州における勝利
劉光義と曹彬の軍は後蜀の夔州(1)で勝利し、後蜀の寧江制置使(2)・高彦儔がこの戦いで死んだ。
当初、夔州では、後蜀軍が長江を塞いで浮き橋とし、高台の上に敵棚(3)を三重に構え、長江を挟んで投石器が並べられ、宋軍への備えとしていた。
劉光義らが攻撃をかけに進もうとするとき、開封の宮廷では、帝は地図を広げてみなに見せ、長江の塞がれた所を指して、「わが軍は流れをさかのぼってここまで来たが、くれぐれも水軍によって戦ってはならない。まず先に歩兵と騎兵を陸路から上流に行かせて敵軍を襲撃すべきだ。敵軍の勢いが衰えてから下流で待機していた軍が戦櫂(4)を持って挟み撃ちにすれば、必ずやこの陣地を奪うことができるだろう。」と言った。(そして使者を通して劉光義らにこのことを伝えた。)
宋軍が夔州に到着すると、長江を塞いだ場所から三十里のところで舟を置いて徒歩で進み、先に上流の浮き橋を奪ってから、再び舟に戻って長江をさかのぼった。
高彦儔は監軍(5)・武守謙に、「宋軍は遠くから川を渡ってくるため、戦列が伸びて急な襲撃に対して態勢を整えにくくなる。よって、この戦いの利は速戦によってすばやく決着をつけることにある。防壁を固めて待ち構えるのが上策だ。」と言った。しかし武守謙は、「敵がわが城下にいるのにこれを撃たずして、なぜ待つ必要があるのですか。」(6)と言ってこれに従わず、独断で麾下の兵を率いて劉光義の騎兵部隊の将、張廷翰と戦って敗走した。
張廷翰は勝利の勢いに乗じて夔州の城に攻め込んだ。高彦儔は全力で戦うも勝つことかなわず、身に十余りの傷を受け、側近の者たちもみな散り散りになった。高彦儔は走って自分の屋敷に逃げ帰り、衣冠を整えて正装し、北西の方向(成都府、後蜀の都)を向いて二度拝礼し、火中に身を投じて焼け死んだ。数日後、劉光義が彼の骨を灰の中から見つけ出し、礼式の通りに葬り、敬意を示した。
(1)夔州 四川省奉節県。
(2)制置使 軍の長官。
(3)敵棚 敵の侵入に備えた簡素な小屋。ここではそれを多数並べたもの。
(4)戦櫂 戦闘用の櫂(かい)。
(5)監軍 軍の副長官。
(6)敵がわが城下に…あるのですか 『長編』巻五、乾徳二年十二月辛未(二十九日)の条に、守謙曰、「寇拠吾城下而不撃、又何待也。」とある。
4 王昭遠の敗北
乾徳三年(965)春正月、王全斌は進撃して益光に駐屯し、降伏した兵士を捕らえた。その者が言うには、「益光の川の東側の、大きな山をいくつか越えたところに、来蘇という狭い小道があります。後蜀の軍は川の西側に浮き橋が架かっているので、対岸から渡ることができます。来蘇から剣門の南二十里のところに行けば、青強にたどり着いて官道(1)と合流します。この道を進めば、剣門の険しさも取るに足りません。」とのことであった。そこで兵を分けて来蘇に向かい、川に浮き橋を架けて渡った。
後蜀軍はこれを見て、砦を棄てて逃げ、青強に駐屯した。王昭遠はこれを聞いて副将に剣門を守らせ、自らは軍を率いて漢源坡に退き、王全斌の軍が来るのを待った。しかし、王昭遠が漢源に着かないうちに剣門は破られ、これを知った王昭遠は震え上がって取り乱した。趙崇韜は陣を構えて戦いに出たが、王昭遠は胡牀(2)に座ったまま立ち上がることができずにいた。
これに対し王全斌は進撃して彼らを大いに破り、万余に上る首を斬った。敗れた王昭遠は逃走して東川に身を投じ、泳いで民家(3)の倉の陰に隠れ、悲しみ嘆いて涙を流し、目を赤く腫らしていた。そこを追っ手の騎兵に見つかり、趙崇韜とともに捕らえられた。
(1)官道 国家の建設した広い道。
(2)胡牀 牀几(しょうぎ)。折りたたんで携行できる椅子。
(3)民家 『長編』巻六、乾徳三年春正月甲戌(二日)の条に、「昭遠投東川、匿民倉舎下」とある。
5 遂州の降伏
劉光義・曹彬は、後蜀の万(1)・施(2)・開(3)・忠(4)の四州を陥落させ、峡中(5)の郡県はすべて平定され、遂州(6)の知州・陳愈は城を開いて降伏した。
このとき、諸将らは通過する村々で兵が殺戮するのを放任していたが、曹彬のみはこれを禁止した。そのため、峡路の兵は終始少しも村を略奪することはなかった。
(1)万州 四川省万州区。
(2)施州 湖北省恩施市。
(3)開州 四川省開県。
(4)忠州 四川省忠県。
(5)峡中 峡路と同じく、湖北・四川の境目の地域。
(6)遂州 四川省遂寧県。
6 孟昶の降伏
後蜀の主、孟昶は、王昭遠が敗れたと聞いて宋軍の進撃を非常に恐れ、金銭と絹を庫から放出して兵をかき集め、太子の孟玄喆に率いさせることにした。李廷珪と張恵安らが彼を補佐し、急遽こしらえた軍を剣門に向かわせて王師(宋の中央軍)を防ごうとした。
しかし孟玄喆は武術を習ったことがなく、李廷珪と張恵安も凡庸で惰弱、見識があるわけでもなく、人物ではなかった。孟玄喆は成都を離れて剣門に向かったが、妾や楽器、その奏者数十人を連れてゆき、昼夜遊びほうけるのみで、軍事を顧みることがなかった。孟玄喆は緜州(1)に着いたとき、剣門が失われたと聞くと、東川まで逃げ帰り、通りかかったときに民家や倉を焼き払っていった。
孟玄喆逃走の報を聞いて、蜀主は惶駭(2)し、側近に良い策はないかと尋ねた。老将の石斌が言うには、「宋軍は遠方より攻め上ってきたため、その勢いは長くは続かないでしょう。兵を集めて守りを固め、宋軍を疲れさせましょう。」とのことであった。だが、蜀主は、「我ら父子は四十年間兵士たちに贅沢な暮らしをさせてきた。このような軍がいざ敵を迎え撃つにあたって、私のために東に進んで一矢でも放つことができようか?いま、もし城の守りを固めたとしても、誰が私のために命を投げ打ってくれようか?」と言った。
王全斌(おうぜんひん)はこのときすでに魏城(3)に進み出ていた。
乾徳三年正月八日、蜀主は李昊に命じて上奏文を起草させ、降伏を請うた。王全斌はこれを受け取り、成都城に入った。劉光義らも兵を率いて合流した。
前蜀(4)が滅んだときにも、降表は李昊が起草していた。ある蜀の民が夜中にこっそりと、「代々降表を起こすのは李家だ。」と、李家の門に落書きした。
王師が汴(開封)を出発してから降伏を受け入れるまで、六十六日。州四十五・県百九十八を得た。帝は呂余慶に成都府を治めさせた。
(1)緜州 緜は綿に同じ。現四川省綿陽市。
(2)惶駭 おそれる。
(3)魏城 四川省梓潼県。緜州の東。
(4)前蜀 王建によって建国された王朝(907~925)。王建は唐から蜀王に封ぜられていたが、唐の滅亡とともに蜀と称して独立した。後唐の荘宗に滅ぼされる。
7 裘帽の挿話
王全斌が後蜀の討伐に赴いたとき、汴京は大雪に見舞われていた。帝は氈帳(1)を講武殿の入り口に懸けて寒風を防ぎ、貂(2)の毛皮で作った紫色の裘帽(3)をかぶって政務をとっていた。このとき側近の者に、「私は温かい服をかように着ることができるが、体はそれでも寒さを感じる。まして西方へ征伐に赴いた将兵らは、霜と雪の中をひるむことなく進んでいる。このことを考えると、何もせずじっとしていられようか?」と言った。
そしてすぐに毛皮の帽子をとって中使(4)を送り、王全斌にこの帽子を急ぎ届けさせ、諸将に対し、「多くの者に与えることはできぬ(王全斌にだけ特別に贈ったものだ)。」と伝えた。王全斌はこの贈り物に拝礼し、感じ入って涙を流した。それゆえに戦いに行った先で武功を挙げることができたのである。
(1)氈帳 毛のむしろで作ったとばり。
(2)貂 てん。獣の名。
(3)裘帽 毛皮で作った帽子。
(4)中使 宮中から遣わす使者。多くは宦官。
8 全師雄の乱
王全斌・崔彦進・王仁贍らが後蜀に駐屯している最中、昼夜宴を開いて軍務を顧みず、部下たちが好き勝手に街の娘を強引に連れ込み、財物を奪うのを野放しにし、蜀の人々はこれに苦しんだ。 曹彬は軍を汴(開封)に帰らせるよう何度も求めたが、王全斌は聞き入れなかった。
帝は詔を下して、捕虜となった後蜀の兵を汴に向かわせ、彼らに手厚く物資と金銭を支給しようとしたが、王全斌らは勝手にその数を減らして自分のものとし、さらに配下の者たちが奪い取ったため、後蜀の兵たちの間に忿怨の空気が漲り、反乱を企てるようになった。
乾徳三年三月、後蜀の兵たちは緜州に行き、そこで乱を起こし、所属の村々を脅して強引に軍に引き入れた。その結果、反乱軍の頭数は十万余りに達し、興国軍と自称した。彼らは後蜀の文州(1)刺史、全師雄を迎え、推戴して軍の頭とした。
王全斌は朱光緒を遣わして降伏を呼びかけようとしたが、朱光緒は全師雄の一族を皆殺しにし、全師雄の愛娘を自分のものとした。
全師雄はこれを知って怒り、帰順の考えを断ち、軍を率いて彭州(2)を攻め、これを本拠地とした。自らを興蜀大王と称し、幕府(3)を開いて節度使二十余人を任命し、各所の要害を守らせた。四川の民はみな争ってこの軍に入った。
崔彦進・高彦暉らは、分進して全師雄の軍を攻撃したが、全師雄に破られ、高彦暉が戦死した。王全斌は張廷翰を送って重ねて攻撃したが、これもうまく行かず、成都に退いた。全師雄軍の勢いはますます強くなり、兵を緜州・漢州(4)に送ってこれらを守り、桟道(5)を断ち切り、川沿いに砦を置き、成都を攻めようと声を張った。
こうして卭・蜀・眉・雅・果・遂・渝・合・資・簡・昌・普・嘉・戎・栄・陵の十六州と成都の属県が挙兵して全師雄に呼応し、王全斌らはこれに非常な戦慄を覚えた。
このとき成都城には、まだ汴に送っていない捕虜が二万七千人いた。王全斌は彼らが賊軍に呼応して城内で反乱を起こすのを心配し、諸将と謀って捕虜たちを夾城(6)に誘い込んで逃げられないようにし、彼らを全員殺し尽くした。
(1)文州 甘粛省文県。
(2)彭州 四川省彭県。
(3)幕府 軍の本営。幕を張って軍の指揮をしたことから。
(4)漢州 四川省広漢市。
(5)桟道 崖に沿って木材で棚のように張り出して設けた道。
(6)夾城 両辺に高い壁を築いた通路。
9 孟昶と李氏の死
乾徳三年六月、蜀主・孟昶は一族を挙げて百官とともに汴に到着し、子弟たちを引き連れ、白絹の服を着て宮城の門の下で裁きを待った。帝は崇元殿に姿を見せ、礼節をもって彼らの姿を見、軽蔑するような態度をとることもなく、厚く贈り物を施した。孟昶に検校太師兼中書令を与え、子の孟玄喆を泰寧軍節度使とし、臣下や百官にも官職を与えた。
孟昶はそれから程なくして亡くなった。帝は朝会を五日間中止し、のち、楚王に封じた。
孟昶の母、李氏は、もと後唐の荘宗の妾であったため、彼女が汴に到着するとき、帝は輿に乗せて宮廷に入らせるよう命じた。帝は李氏に会い、「母君にあってはよくご自愛されますように。鬱々と郷土を懐かしむことはありません。他日、あなたを郷土に送り帰して差し上げましょう。」と言った。李氏は、「私はもともと太原の生まれ。懐かしい并(太原)の地に帰ることができれば、もはや言うことはありません。」と言った。このとき帝は北征を計画(太原に都を置く北漢を攻めること)していたため、李氏の言を聞いてたいへん喜んだ。
孟昶の死を知っても李氏は慟哭するのを良しとせず、涙の代わりに酒を地に注いだ。李氏は、「そなたは社稷(1)の務めに尽力して死ぬこともせず、今日まで生に執着してきました。私が死なずにいるのは、ひとえにそなたが生きていてこそです。そなたはすでにこの世を去り、私はどうして生きていられましょう。」と言った。その後数日のあいだ食を断ち、孟昶の後を追うようにして亡くなった。帝はこれを聞いて心を痛めた。
このことが起こる少し前、帝は宝石で飾った孟昶の便器を見て、これを壊すよう命じ、「わざわざ七宝(2)をちりばめてこのようなものを飾り、財を無駄遣いして、食物を蓄える器もないではないか。君主の務めがこんなものでは、滅亡以外に何があるというのだ!」と言った。
(1)社稷 社は土地の神、稷は五穀の神。国の守り神として祀(まつ)られた。転じて国家のこと。
(2)七宝 多種の宝石。
10 全師雄軍の壊滅
乾徳三年十二月、帝は四川の兵が乱を起こしたのを聞き、客省使・丁徳裕に兵を率いて反乱軍の鎮圧に向かわせ、康延沢を東川七州招安巡検使に任命した。
このとき、全師雄は新繁(1)に駐屯しており、ここに向かって 劉光義と曹彬が進撃し、全師雄の軍を大敗させた。全師雄は郫(ひ)(2)に退却し、王全斌と王仁贍が再び攻め、全師雄はまたも灌口(3)に敗走した。
水陸転運使・曹翰は、王仁贍と協力して賊将・呂翰を嘉州(4)に包囲し、呂翰は城を捨てて逃げ出した。この日の夕方、賊軍は灌口に逃げ帰り、散り散りになった兵を結集した。灌口の城を囲むようにして輪をなし、鼓を三回打つのを合図に宋軍に攻撃をかけることを皆で決めた。曹翰の間者がこれを知り、灌口城の鼓を打つ者を脅して鼓を二回打たせた。このため賊軍は集まらず、先に決めたとおりにならなかったのを警戒して夜が明け始めてから逃げ出した。そこを宋軍が追撃し、これを破った。
王全斌は全師雄を灌口に破り、全師雄は金堂(5)に逃れたが、そこで病死した。残党は銅山(6)に立てこもり、謝行本を頭目に推したが、康延沢がここに進軍して勝利した。丁徳裕らはそれぞれ分かれて兵を集めて攻撃し、賊軍はことごとく鎮圧された。
また、この地の諸蛮族も宋朝を訪れて帰順を願い出た。
(1)新繁 四川省新繁県。
(2)郫 四川省郫県。
(3)灌口 永康軍とも。四川省灌県。
(4)嘉州 四川省楽山市。
(5)金堂 四川省金堂県。
(6)銅山 四川省徳陽市中江県銅山村。
11 王全斌の降格と曹彬の謹厳さ
乾徳五年(967)春正月二十五日、王全斌らを呼び戻した。
帝は自ら蜀で起こった乱について事情を聞き、蜀に出向いた使者が帰ってくると必ず王全斌らの不法な行いについて述べさせ、その事情を隅々まで知り尽くし、王全斌らを全員召還した。
彼らは初めのころ戦功を立て、部下をつける(=自分の勢力を広める)ことを求めなかったのを酌み、本来なら獄吏に厳しく追及されるところを(1)、中書省に罪状を問わせることにした。王全斌らは略奪の罪、投降者を殺した罪を認め、責任を追及して王全斌を崇義節度留後(2)、崔彦進を昭化節度留後に降格させた。
劉光義らは略奪に走ることなく、慎み深く職務をこなしていたため、爵位・俸禄を贈られ、呂余慶を参知政事(3)に昇格させた。
王仁贍らは諸将の過ちを一つ一つそしり、自ら辞職したいと願い出て、「清廉にして慎みを忘れず、陛下に恥じることのない将は、曹彬ただ一人だけです。」と言った。
曹彬が朝廷に帰ってきたとき、彼の荷物袋には書物と衣類しか入っておらず、また、蜀にいたころは部下の気持ちをよく和らげていた。そのため、曹彬への恩賞は格別なものであった。曹彬は帝のもとを訪れ、「他の諸将らはみな罪を得ましたのに、私一人褒美を受け取っては落ち着くところがありません。(4)ここは敢えて詔を受け取らぬことといたします。」と謝して言った。帝は、「あなたは多大な功績があるのにそれを誇ろうともしない。罪を犯したものは罰し、よく務める者に褒賞を与えるのは国の常に変わらぬ掟である。そう遠慮することはない。」と言った。
(1)本来なら獄吏に…ところを 『長編』乾徳五年春正月辛丑(十二日)の条に、「上以全斌等新有功、不欲付之獄吏、令中書門下逮仁贍及全斌・彦進与訟者質証。(帝は王全斌らが新たに戦功を挙げたことに鑑み、獄吏のもとに取り調べさせるのを望まず、中書門下省に王仁贍・王全斌・崔彦進を捕らえさせ、(蜀の)訴えに来た者たちの言い分との照合を行った。)とある。よって、訳文の通り補う。
(2)留後 節度使の属官。
(3)参知政事 副宰相に相当する官職。宰相とともに政事を議論する。
(4)私一人褒美を…ありません 『長編』巻八、乾徳五年春正月丁巳(二十八日)の条に、彬入辞曰、「諸将倶獲罪、臣独受賞、何以自安、臣不敢奉詔。」とある。従って、訳文の通り補う。
12 沈義倫を用いる
二月、沈義倫を枢密副使に任命した。
これ以前、沈義倫は四川転運使となり、軍に随行して蜀に入った。彼は仏寺に住んで菜食し、珍品を献上して取り入ろうとする者を退けた。都に帰ったとき、荷物箱には書物が数巻あるのみであった。
帝は曹彬に官吏の良し悪しの評判を尋ねたが、曹彬は、「私は軍の監督をするのみで、官吏の採用に関しては私の職務ではありません。」と答えた。それでも帝は強いて良い人物はないかと尋ねるので、曹彬は、「沈義倫を用いるべきです。」と言った。帝はこの言を褒め、後にこの命が下った。