巻73 金亮之悪

Last-modified: 2024-07-10 (水) 04:16:48

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高宗紹興十八年(1148)六月、金は完顔亮(ワンヤンりょう)を平章政事とした。

完顔亮は本名を迪古乃(テクナイ)といい、金の太祖の子斡本(オベン)の子であった。その人となりは、恐れを抱きやすく猜疑心が強く、残忍で権謀術数に長けていた。自分と金の主(熙宗(きそう))が太祖の孫であることから、常に金の主の地位を狙っていた。中京(ちゅうけい)留守になると、権威を振りかざしてみなを脅かしていた。蕭裕(しょうゆう)を腹心とし、いつもともに天下のことを語り合っていた。蕭裕も邪悪な考えの持ち主であり、完顔亮の帝位簒奪(さんだつ)の意図を見抜き、言った。
「留守は太師に先んじ、太祖の長子であり、人徳と声望を備えており、人心と天意によって嘱望(しょくぼう)されるべきであります。有志たちが大事を挙げる(帝位を奪う)ときには、力を尽くして従いたく思います。」
完顔亮は喜び、彼とともに熙宗暗殺を計画した。

ここに至り、完顔亮は蕭裕を推挙して兵部侍郎とした。

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十二月、金は完顔亮を右丞相(うじょうしょう)とした。

完顔亮の誕生日、金の主は近侍(きんじ)の者をやって司馬光の肖像画、玉の入った吐鶻(とこつ)(束帯)、馬を与えたが、この者は金の主の皇后・裴満(はいまん)氏もともに礼物として与えようとした。金の主はこれを聞き、怒って近侍の者を杖刑(じょうけい)に処し、与えた品を取り戻した。完顔亮は謀反を計画しており、その漏洩(ろうえい)を非常に恐れていた。

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十九年(1149)三月、金の主は完顔亮を太保とし、三省を司らせた。

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五月、金は天災のため大赦を行うこととし、翰林(かんりん)学士・張鈞(ちょうきん)(みことのり)を起草させた。参知政事・蕭肄(しょうい)がその文言の一部を抜き出して(そし)った。金の主は張鈞を殺そうとし、尋ねた。
「誰がこれをやらせたのだ?」
左丞相・完顔宗賢が言った。
「テクナイがやらせたのです。」
金の主は不愉快になり、完顔亮を行台(こうだい)(地方の官署)に転出させた。完顔亮は(任地に赴く途中に)中原を通りかかったとき、留守・蕭裕(しょうゆう)と暗殺計画の実行を約束して去っていった。完顔亮が良郷(1)に到着すると中央から呼び戻された。その理由は想像がつかず、大いに恐れた。朝廷に着くと再び平章事に除され、謀反の意志がますます強くなった。

(1)良郷 河北省北京市の南西。

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冬十月、金の主・完顔亶(ワンヤンたん)は弟の()王・完顔常勝を殺し、皇后・裴満(はいまん)氏を殺した。

これ以前、金の大臣らは遼陽の渤海(ぼっかい)の民を燕南(えんなん)に移住させることを計画していた。近侍(きんじ)・高寿星らもそうすべきであると裴満后に訴えた。皇后がこのことを金の主に伝えると金の主は怒り、平章政事・完顔秉徳(ワンヤンへいとく)右丞(うじょう)・唐括弁を杖刑(じょうけい)に処し、左司郎中・三合を殺した。このため高寿星らは移住計画を中止した。

秉徳・唐括弁の二人はこれを恨みに思い、大理卿・烏帯(ウタイ)とともに金の主の廃立を計画し、ウタイは完顔亮にこれを知らせた。ある日、完顔亮は唐括弁と話しているときに問うた。
「大事を挙げる(帝位を奪う)とすれば、誰を皇帝に立てるべきだ?」
「胙王・常勝様です。」
完顔亮はその次に誰を立てるべきか問うと、唐括弁は言った。
(とう)王の子、阿楞(ありょう)様です。」
「阿楞は血のつながりが薄い。立てることはできん。」
「あなたにそのつもりはないのですか?」
「やむを得なければ、私以外に誰がいるのだ?」
こうして二人は朝な夕なともに暗殺計画を練っていった。護衛将軍・特思は二人のことを疑い、裴満后に知らせた。皇后がこれを金の主に言うと、金の主は怒り、唐括弁を呼んで言った。
「貴様と亮は何を話し合っているのだ?私をどうするつもりだ?」
そして唐括弁を杖刑に処した。完顔亮はこのため常勝・阿楞を忌み、特思を憎むようになった。

このとき、河南の兵士・孫進が乱を起こし、皇帝の弟・按察(あんさつ)大王を自称したが、金の主の弟は常勝・査剌(さらつ)のみだった。完顔亮はこれに乗じて常勝・阿楞・達楞・特思を罪に陥れて殺した。金の主は皇后に怒りを募らせ、これを殺し、胙王の妃・撒卯(さんぼう)を後宮に入れて皇后の地位を継がせた。また、徳妃・烏古論(うころん)氏及び夾谷(きょうこく)氏・張氏らを殺した。

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金の完顔亮(ワンヤンりょう)は主の完顔亶(ワンヤンたん)を殺し、自ら皇帝となった。

このとき、護衛十人長・僕散忽土(ぼくさんこつど)はオベンから恩を受けており、徒単(とぜん)阿里出虎と完顔亮は姻戚関係にあった。このため完顔亮は彼らを内応させた。大興国は李老僧を完顔亮の部下にさせて尚書省令史となっていたが、彼は以前(金の主によって)杖刑(じょうけい)に処せられたことを恨んでいた。このため完顔亮は李老僧を通じて大興国を内応させた。大興国は寝殿(皇帝の居室)に仕えており、夜はいつも割り符と鍵を取って帰宅していた。

この月三日、僕散忽土・徒単阿里出虎が宮中に勤務しているのに乗じて乱を起こした。夜の二鼓(午後9時~11時)、大興国は割り符と鍵を持って門を開き、完顔亮と妹の婿の徒単貞及び平章政事・完顔秉徳(ワンヤンへいとく)左丞(さじょう)・唐括弁、大理卿・ウタイ、李老僧らは服の下に刀を忍ばせて宮殿に入った。門番は唐括弁が金の主の女婿(じょせい)であり、完顔亮も血縁の近い親類であったので、疑わずに彼らを中に入れた。宮殿の内門に来たところで衛兵らはようやく異変に気付いた。完顔亮らは刀を抜いて衛兵らを脅して動けないようにし、寝殿に入った。

金の主は常に刀を寝台の上に置いていたが、この夜は大興国が先に刀を取って寝台の下に投げたので、金の主は刀を取ることができなかった。阿里出虎が先に進み出て斬りつけ、僕散忽土がこれに続き、金の主は倒れた。完顔亮も進み出て自らの手で斬り、返り血が顔と服いっぱいに降り注いだ。金の主は死んだが、秉徳らにはこの後のことを託す人物がいなかった。僕散忽土は言った。
「初めに平章(完顔亮)を立てようと決めていたはず。今さら何を疑うのだ。」
このため秉徳は群臣とともに完顔亮を即位させた。

金の主が皇后の即位について話し合いたく思っていると偽って大臣らを呼び、曹国王・完顔宗敏、左丞相・完顔宗賢を殺した。秉徳を左丞相、唐括弁を右丞相、ウタイを平章政事とした。裴満(はいまん)后に(おくりな)して悼平皇后とした。完顔亶(ワンヤンたん)を廃立して東昏(とうこん)王とした。大赦・改元を行った。

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二十年(1150)春正月、金の主(完顔亮(ワンヤンりょう))は嫡母(父の正妻)・徒単(とぜん)氏及び母の大氏を尊び、いずれも太后とした。

徒単氏と大氏はともに完顔亶(ワンヤンたん)に非常に寵愛(ちょうあい)されていた。金の主が完顔亶を殺すと、徒単氏は言った。
「帝は道理に背いたとはいえ、臣下がこのようなことをしてよいものでしょうか?」
金の主はこれを恨んだ。

ここに至り、オベンを追尊して帝とし、廟号(びょうごう)を徳宗とし、二母(徒単氏・大氏)を尊んで皇太后とした。徒単氏は東宮に住み、永寿宮と号した。大氏は西宮に住み、永寧宮と号した。この後、徒単后の誕生日、酒もたけなわのころ、大氏が立ち上がって長寿を祝ったが、徒単后は公主や宗室の者の妻たちと語り合っており、大氏は長らく(ひざまず)いていた。金の主は怒って宴会場を出ていった。翌日、徒単后と語らっていた者を呼び出し、全員杖刑(じょうけい)に処した。大氏はこれに反対したが、金の主は言った。
「今日のことは、以前の通りとはいきません。」

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夏四月、金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)は、多くの宗室の者たちを殺した。

これ以前、熙宗(きそう)の治世のとき、完顔亮は太宗(呉乞買(ウキマイ))の諸子の勢力が強いのを見て忌まわしく思った。自分が即位すると、蕭裕(しょうゆう)とともに彼らを殺すことを企てた。また、(左遷された)前左丞相(さじょうしょう)完顔秉徳(ワンヤンへいとく)は熙宗の廃立を率先して計画したが、自分が即位することなく完顔亮に即位を勧めており、このことを恨んでいた。このため、完顔亮は彼を処刑しようと考えた。

ここにおいて、蕭裕は尚書省令史・蕭玉に謀反を告発させ、領三省事・阿魯(アル)、右丞相・唐括弁、判大宗正寺・胡里甲を打毬(だきゅう)(1)をしようとの名目で呼び出し、来た者を殺した。そして使者を東京(とうけい)(2)に送り、留守・阿鄰(ありん)を殺し、北京(3)では留守・斛禄補(こくろくほ)、南京(4)では領行台事・秉徳(へいとく)を殺し、彼らの親族を処刑した。また、太宗の子孫七十余人、粘没喝(ネメガ)の子孫三十余人、宗室の者五十余人を殺した。太宗・ネメガの後裔(こうえい)はすべて断絶し、ウタイ・蕭裕・蕭玉らは重賞を受け取った。

完顔亮は蕭玉の子に自分を尊ばせ、言った。
(ちん)はそなたに報いるものがないが、朕の娘をそなたの妻とし、朕がそなたに仕えることの代わりとしよう。」

(1)打毬 紅白の(まり)を打毬杖ですくい取り、毬門に投げ入れる競技。
(2)東京 東京遼陽府。遼寧省遼陽市。
(3)北京 北京大定府。内蒙古自治区寧城県の西。
(4)南京 南京開封府。河南省開封市。

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冬十月、金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)は左副元帥・撒離喝(さんりかつ)らを殺し、その一族を皆殺しにした。

完顔亮は斜也(シエ)の諸子の勢力が強大であるのを忌まわしく思い、宗室の功績ある旧臣に至るまで、ことごとく排除したく思った。そして都元帥府令史・遙設(ようせつ)に謀反の罪を誣告(ぶこく)させ、撒離喝及び景祖(烏古迺(ウクナイ))の孫・謀里野、シエの子・孛吉(ぼっきつ)と彼らの一族百数十人を殺した。また、()王・斡帯(あったい)の孫・活里甲が建築物の装飾を好んでいるとのかどで一族皆殺しにした。

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二十一年(1151)五月、金の主・完顔亮は叔母の阿懶(アラン)と宗室の者の妻を後宮に入れた。

アランは完顔亮の叔父の曹王・阿魯補(あろほ)の妻である。完顔亮は阿魯補を殺してアランを後宮に入れ、昭妃に封じた。また、徒単貞(とぜんてい)を通じて宰相に言った。
「朕の子孫は多くはない。以前派閥の者たちを処刑したが、その妻の多くは朕の親戚であり、彼女らを選んで後宮に入れるべきだ。」
このため宰相はこれを実行するよう上奏し、アルの子・莎魯啜(さろてつ)胡魯(ころ)の子・胡里剌(こりらつ)、胡失打、秉徳(へいとく)の弟・乣里(きゅうり)の四人の妻を後宮に入れ、乣里の妻・高氏を修儀(女官の名)に封じた。

崇義節度使・ウタイの妻・唐括定哥(とうかつていか)は、かつて完顔亮と姦通(かんつう)したことがあった。完顔亮が皇帝になると、定哥は侍女(じじょ)を来朝させた。完顔亮はウタイを殺せば皇后になるのを許すとほのめかした。定哥は初め忍びなく思っていたが、完顔亮は言った。
「お前の夫を殺さなければ、お前の家族を皆殺しにするぞ。」
定哥は大いに恐れ、ウタイを(くび)り殺した。定哥は宮中に入れられ、貴妃に封じられ寵愛(ちょうあい)された。しかし、後に実家の下男と姦通し、死刑となった。

また、秘書監・完顔文に妻の唐括石哥(とうかつせっか)を差し出させて麗妃とし、乙剌補(いつらつほ)に妻の蒲察乂察(ほさつがいさつ)を差し出させて後宮に入れた。乂察は完顔亮の姉の娘である。

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二十二年(1152)十二月、金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)は、済南(いん)・葛王・烏禄(ウル)の妻・烏林答(うりんとう)氏の容貌が端正であると聞きつけ、これを呼び寄せた。烏林答氏はウルに言った。
「私が行かなければ、陛下はきっと王を殺すでしょう。私は自らを励まし、累が及ばないようにせねばなりません。」
そして王府の(しもべ)を呼んで言った。
「私のために泰山に祈り、皇天后土にわが心を明察させなさい。」
良郷に着くと、機を見て自殺した。

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二十三年(1153)夏四月、金の太后・大氏が亡くなった。

金の主は(えん)に都を移し、親族はみなこれについていったが、徒単(とぜん)太后のみを会寧(1)に留めた。徒単后は常に恐れを抱き、中使が来ると必ず着替えて命を待った。大氏は燕におり、常に徒単后のことを心配していた。病が重くなると、徒単后に一目でも会うことができないのを(うら)みに思った。死が近づくと金の主に言った。
「お前は私のために永寿宮(徒単后)を一緒に連れてこなかったのでしょう。私が死んだら必ず彼女を迎えに行き、私に仕えるのと同じように彼女に仕えなさい。」

(1)会寧 黒竜江省ハルビン市の南東。

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二十四年(1154)十一月、金の主は従姉妹を後宮に入れた。

寿寧県主・什古(じゅうこ)斡離不(オリブ)の娘であった。静楽県主・蒲剌(ほらつ)及び習撚(しゅうねん)兀朮(ウジュ)の娘であった。師古児は訛魯観(オルゴン)の娘であった。混同県君・莎里古貞(しゃりこてい)及びその妹・余都はアルの娘であった。いずれも完顔亮の従姉妹であった。

(せい)国夫人・重節は蒲盧虎(ブルフ)の娘の孫であり、完顔亮の(めい)であった。張定安の妻・奈剌忽(ならつこつ)は太后・大氏の(あによめ)であった。蒲魯胡只(ほろこし)唐括石哥(とうかつせっか)の妹であった。いずれも夫がいた。

莎里古貞が最も寵愛され、呼び出されると必ず自ら廊下に立って待ち、長く立っているときは師古の膝の上に座っていた。後宮の女で外に夫がいる者は、初めは順番で後宮を出入りさせて(夫に会うのを許して)いたが、後には夫を会寧に行かせ、外出を許さなかった。(めかけ)のもとへ行くときは必ず音楽を奏でてにおい袋を置き、あるいは妾たちを並んで座らせ、自由気ままに淫らな行為に及び、その様子を見物させた。寝室に隙間なく絨毯(じゅうたん)を敷き、裸で彼女らを追いかけまわして遊んでいた。

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二十五年(1155)冬十月、金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)は、大房山(1)雲峰寺を山陵とした。そして右丞相(うじょうしょう)僕散思恭(ぼくさんしきょう)らを会寧に行かせ、太祖・太宗の(ひつぎ)をこの山陵に移し、徒単(とぜん)后を迎えて(えん)に移した。

太后が沙流河まで来ると、完顔亮は自らこれを迎え、左右の者に杖二本を持たせ、太后の前に(ひざまず)いて言った。
「私は不孝者で、久しくお仕えすることができませんでした。私を杖で打ってください。」
太后は完顔亮を助け起こして言った。
「庶民でも跡継ぎの子がいれば、これを愛し、打つことなどできません。私にはあなたのような子がいるのです。打つなど()えられません。」
そして杖を持った者を叱りつけてさがらせた。

燕に到着すると、太后は寿康宮に住んだ。完顔亮は彼女に仕え、表向きは極めて恭順な態度をとり、太后が立ち上がろうとすれば自らこれを手助けし、車に乗るときは徒歩でついて行き、太后が物を使うときは自らそれを取った。これを見た者は孝行を尽くしていると思い、太后も真心からのものであると信じた。

(1)大房山 河北省房山区の西。

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三十一年(1161)八月、金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)は太后・徒単(とぜん)氏を殺した。

これ以前、徒単后は完顔亮が南侵したがっていると聞き、たびたびこれを(いさ)めた。完顔亮は喜ばず、太后に謁見して宮殿に帰ると必ず怒り、周囲の者はその理由がわからなかった。

(遷都先の)(べん)に着くと(1)、太后は寧徳宮に住み、侍女(じじょ)高福娘(こうふくじょう)に完顔亮の生活の状況を尋ねさせた。完顔亮は寧徳宮に行き、太后の様子をうかがわせた。およそ太后の行いは、事の大小問わず、高福娘の夫・特末哥(とくまつか)が、高福娘に誇張して報告させていた。

契丹(きったん)が反乱すると、枢密使・僕散忽土(ぼくさんこつど)が討伐に赴くこととなり、太后のもとに別れの挨拶をしに行った。太后は言った。
「わが国は代々上京(じょうけい)(会寧)を都としていましたが、中都(燕京)に移り、今また汴に移り、挙兵して長江・淮河(わいが)を渡って宋を征伐し、中国を疲れさせようとしています。私はこれを諫めてきましたが、聞き入れられませんでした。契丹の件についてもこの通りです。どうすべきですか?」
高福娘はこれを完顔亮に報告した。

完顔亮は、太后が(てい)王・徒単充を養って自分の子とし、完顔充の四人の子はいずれも成人していること、また、僕散忽土の将兵が朝廷の外におり、反乱の意図があるかもしれないことを恐れた。このため点検・大懐忠らに太后を殺し、また、太后の側近数人の名を挙げ、彼らを殺すよう命じた。このとき太后は樗蒱(ちょぼ)(賭博の一種)に興じており、大懐忠が来ると太后に跪いて(みことのり)を受け取らせた。太后は愕然とし、跪こうとしたところを、尚衣局使・虎特末が後ろから打ちつけ、倒れて起き上がろうとしたところを再度打ちつけ、高福娘らが(くび)り殺し、あわせて側近数人も殺した。完顔亮は太后の遺体を宮中で燃やし、骨を川に捨てるよう命じた。これとあわせて鄭王・徒単充の子・徒単檀奴(だんぬ)、徒単阿里白の二人を殺し、僕散忽土らを呼んで皆殺しにした。高福娘を(うん)国夫人に封じ、特末哥を沢州(1)刺史とした。

(1)沢州 山西省晋城市。