巻49 蔡京擅国

Last-modified: 2023-08-22 (火) 06:05:29

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徽宗(きそう)建中靖国元年(1101)十一月、蔡京を翰林(かんりん)学士承旨(1)とした。

これ以前、供奉官(2)・童貫は媚びへつらうことに長け、帝の心の機微をうまくとらえ、何事も前もって処理したため、帝に気に入られた。童貫が三呉(蘇州・常州・湖州)へ書画や芸術品を見に行くと、(こう)(3)に何か月も留まった。蔡京は童貫とここで遊び、昼夜を分かつことがなかった。およそ絵の描かれた屏風(びょうぶ)や扇子・帯の類は、童貫が連日禁中に届けて添えの言葉を上奏した。このため帝は蔡京に心を傾けるようになった。

(1)翰林学士承旨 内命(中書省を経ずに直接出す命令)や皇帝の顧問を受け持つ官。正三品。
(2)供奉官 宦官の官名の一。
(3)杭州 浙江省杭州市。

左階道録(4)・徐知常が符水(5)により元符皇后のもとに出入りしていたとき、太学博士・范致虚(はんちきょ)と仲良くなった。范致虚は蔡京を宰相に薦め、徐知常が宮殿に入って同じことを言った。このため宮女と宦官は口をそろえて蔡京を褒めたたえた。このため蔡京を知定州(6)とし、知大名府(7)に改めた。このとき韓忠彦(かんちゅうげん)は曽布と仲が悪かった。曽布は蔡京を引き入れて自分の助けにしようと考えた。このため蔡京が中央に召し出されたのである。

(4)左階道録 道官(道士に与えられた官名)の一。
(5)符水 道士が水の中で預言書を焼き、病を治すまじないをすること。
(6)定州 河北省定州市。
(7)大名府 河北省大名県。

蔡京は翰林学士承旨に就任すると、初めに二つのことを論じた。その第一はこうであった。
「神宗一代の歴史については、紹聖において元祐の誹謗(ひぼう)を正さなかったわけではなかったというのに、今また詔を下して評価を修正しました。これはみだりな変更というものです。ここはどうか史官に命じて紹聖期に隠蔽されていた事実を天下にお示しください。」
その第二はこうであった。
「元祐期に訴理所が置かれ、先朝に罪を得た人の名誉を回復させました。紹聖期には安惇(あんとん)蹇序辰(けんじょしん)がこの過ちを正しました。これは当然のことだったのですが、二人は除名処分を受けました。そうであれば訴理所を置いたのは正しかったということになります。この二臣の罪が除かれないのであれば、元祐・紹聖両朝への非難が降りかかることでしょう。」
これらが上奏されると、帝はますます蔡京を贔屓(ひいき)した。

2


これ以前、鄧綰(とうわん)の子、鄧洵武(とうじゅんぶ)が起居郎(1)となったとき、衆論に受け入れられないのを恐れた。そこで帝に理解してもらおうと思い、入対して言った。
「陛下は神宗の子であり、今の宰相・韓忠彦(かんちゅうげん)韓琦(かんき)の子です。神宗は新法を行って民に利便をもたらしましたが、韓琦は新法は間違っていると論じました。今、韓忠彦が神宗の法を変えました。これは韓忠彦が臣下として、よく父の志を受け継ぐことができており、これに対し陛下は天子として先帝を受け継ぐことができていないということです。先帝の志と事業を受け継ごうとされるならば、蔡京を用いなければなりません。」
またこう言った。
「陛下は先帝の志を受け継ごうとしておられますが、群臣にこれを補佐できる者がおりません。」

(1)起居郎 皇帝の言動を記録する官。従六品。

そして『愛莫助之図(あいばくじょしず)』を献上した。この図は『史記』年表の体裁にならっており、左と右に七列に区切られ、左を元豊、右を元祐とし、宰相・執政・侍従・台諫(だいかん)・郎官・館閣・学校に一列ずつ区切られていた。紹述をよく補佐する者を左の列に置き、執政のなかでは温益・蔡京の一、二人のみであった。そのほかは三、四人に過ぎず、趙挺之(ちょうていし)范致虚(はんちきょ)王能甫(おうのうほ)銭遹(せんいつ)といった者ばかりだった。右の列に置かれた者は、全朝廷の宰相・公卿(こうけい)・百官であり、いずれも政治に害をなし紹述に批判的であるとされた。

帝はこれを曽布に見せた。左の列の一人の姓名が消してあった。曽布がこれが誰かを問うと、帝は言った。
「蔡京だ。鄧洵武がこの者でなければならないと言っているが、そちとは考え方が違うので名を消したのだ。」
曽布は言った。
「鄧洵武は私と見解を異にしています。どうしてともに議論することがありましょう?」
翌日、曽布に代わって温益を尚書右丞とした。温益は喜んでこれを受け入れ、蔡京を宰相とするよう帝に要望し、反対派を抑えようとした。善人はみなこれを受け入れなかったが、帝は蔡京を宰相にすることを決めた。鄧洵武は中書舎人・給事中兼侍講となった。

3


礼部尚書・豊稷(ほうしょく)を罷免した。

これ以前、豊稷は諫官(かんかん)となって蔡京を辞めさせるべきだと言い、曽布の奸悪(かんあく)さについて述べた。ここに至り、たびたび寵臣に逆らったことにより辞職した。

4


十二月、邢恕(けいじょ)呂嘉問(りょかもん)・路昌衡・安惇(あんとん)蹇序辰(けんじょしん)蔡卞(さいべん)が宮観使(1)となり、郡を与えられた。張商英を宮殿に呼び出した。

(1)宮観使 職務実態を伴わない官名。

5


崇寧元年(1102)五月六日、韓忠彦(かんちゅうげん)が辞職した。

左司諫(さしかん)・呉材らは、韓忠彦は神宗の法を変え、神宗時代の人材を放逐したと述べた。韓忠彦は辞職して知大名府となった。

6


二十五日、陸佃(りくでん)が辞職した。

陸佃は常に元祐期の人材を用いようとし、出世争いを憎んでおり、言った。
「人材に大きな違いはなく、資質と経歴により任官すべきです。昇進を遅くしてやればみな争いを自重することでしょう。」
また言った。
「今天下の勢いは人の大病が快方に向かうかのようであり、薬を与えて養生させ、安定に向かわせるべきです。事を軽んじて政策を改めるのは、病人に騎射をさせるようなものです。」

御史が元祐期の党派を処罰するよう帝に要請した。陸佃は帝に言った。
「追及すべきではありません。」
このため詔が下された。
「元祐の諸臣はおのおの秩禄を削られた。これよりこのことについて質問してはならない。諫官(かんかん)も諫言してはならない。」
これを朝堂に掲げた。

みなこれを聞いて、陸佃は元祐の党籍に名があるため追及されるのを嫌がり、自分に害が及ぶのを恐れているのだと言った。陸佃は辞職して知(はく)(1)となった。

(1)亳州 安徽省亳州市。

7


二十六日、許将・温益を門下・中書侍郎とし、蔡京・趙挺之(ちょうていし)を尚書左・右丞とした。

蔡京は屯田員外郎(1)孫鼛(そんこう)と仲が良かった。孫鼛はかつて言ったことがある。
「蔡子は貴人だ。だが才が徳に勝ることはない。恐らくは天下の憂いをもたらすだろう。」
ここに及び、蔡京は孫鼛に言った。
「私が天子に用いられるようなことがあれば、助力して欲しい。」
孫鼛は言った。
「あなたがよく祖先の法を守り、正論によって君主を補佐し、倹約して百官に先んじ、口を閉ざして軍事に口出しをしなければ、それこそ天下の幸甚だ。」
蔡京は黙然としていた。

(1)屯田員外郎 屯田司(屯田等の田地を司る官署)の補佐官。正七品。

8


閏六月九日、曽布が辞職した。

曽布は王安石の推薦により用いられた。神宗のとき、御前で言ったことはいずれも王安石が建言しようしていたことだった。また、王安石を専任するよう神宗に上奏し、刑罰により天下を脅して反論させないようにした。

哲宗の親政が始まると、宰相・章惇(しょうとん)が紹述を口実に私怨を晴らし、曽布はこれに強く肩入れした。章惇が大獄を起こすと、これを救済することもなく、あるいは密かに反対派の排斥に利用した。章惇が追われ曽布が右丞となると、元祐と紹聖の方針を兼ね合わせようとし、蔡京を放逐した。

崇寧の初めになり、帝の紹述の意向を知ると韓忠彦(かんちゅうげん)を排斥して政治を壟断(ろうだん)し、蔡京を引き入れて自分の助けにしようと考えた。しかし、蔡京は以前の恨みを抱いており、曽布と見解を大きく異にした。

曽布が陳祐甫(ちんゆうほ)を戸部侍郎とした。陳祐甫の子陳迪(ちんてき)は曽布の愛婿(あいせい)であった。蔡京は曽布が爵禄を与えて近臣に便宜を図っていると言った。曽布は怒って長々とこれに反論し、声色も激しかった。温益がこれを叱った。
「曽布よ、御前で礼を失してよいのか!」
帝は不愉快であった。殿中侍御史・銭遹(せんいつ)がこれを非難した。曽布は辞職を願い出て知潤州(1)に転出した。

(1)潤州 江蘇省鎮江市。

9


秋七月五日、蔡京を尚書右僕射(ぼくや)兼中書侍郎とした。

この辞令が下った日、帝は蔡京を延和殿に着座させ、命じて言った。
「神宗が新法を創立したが、中途で終わった。先帝がこれを継ぎ、方針が二度変更され、国是が定まらなかった。朕は父兄の志を受け継ぎたく思う。今、特にそちを宰相とする。そちは何を教えてくれるのか?」
蔡京は頭を地につけて言った。
「死力を尽くします。」

10


六日、元祐の法を禁じた。

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十一日、尚書省に講議司(1)を置いた。

蔡京は放逐された者たちのなかから立ち上がり、一旦志を得ると天下はその言動に目を見張った。蔡京は紹述を口実として天子を制御した。熙寧(きねい)の条例司の故事にならって尚書省に講議司を置き、自ら提挙(長官)となり、熙寧・元豊に行われた法と神宗がやろうとしてなしえなかったことを論議した。仲間の呉居厚・王漢之(おうかんし)ら十余人を属官とし、大きな政事について議論させた。およそ実行された施策はここから出たものであり、法はたびたび変更されて定まることがなかった。

(1)講議司 宗室・国費・商業・塩沢・租税・冗官・地方統治についての権限をもち、命令を執行する官署。神宗期の制置三司条例司に近い。

12


八月二十七日、趙挺之(ちょうていし)・張商英を尚書左・右丞とした。

張商英が中書舎人となると、謝表(1)で元祐の賢臣たちをそしった。翰林(かんりん)学士に任ぜられると、蔡京を宰相とする命令書を起草し、口を極めて賛美した。このため蔡京は張商英を引き立てた。

(1)謝表 感謝の意を述べた上奏文。

13


紹聖の役法を復活させた。

14


九月十七日、元祐党人碑を端礼門に立て、元符末に紹述に反対する上奏をした者を記録し、正・邪に分けて昇進・左遷させた。

元祐・元符末の賢臣らは左遷や放逐、死去、配流(はいる)のためほぼいなくなったが、蔡京はこれで満足せず、仲間の強浚明(きょうしゅんめい)葉夢得(しょうむとく)とともに、以下のように名簿に記した。

宰相・執政
司馬光・文彦博(ぶんげんはく)・呂公著・呂公亮(りょこうりょう)・呂大防・劉摯(りゅうし)范純仁(はんじゅんじん)韓忠彦(かんちゅうげん)王珪(おうけい)梁燾(りょうとう)王巖叟(おうがんそう)・王存・鄭雍(ていよう)傅尭兪(ふぎょうゆ)趙瞻(ちょうせん)・韓維・孫固・范百禄・胡宗愈(こそうゆ)・李清臣・蘇轍・劉奉世・范純礼・安燾・陸佃(りくでん)
待制以上
蘇軾(そしょく)范祖禹(はんそう)王欽臣(おうきんしん)姚勔(ようべん)・顧臨・趙君錫(ちょうくんしゃく)・馬黙・王蚡(おうふん)孔文仲(こうぶんちゅう)・孔武仲・朱光庭・孫覚・呉安寺・銭勰(せんきょう)李之純(りしじゅん)趙彦若(ちょうげんじゃく)趙卨(ちょうせつ)・孫升・李周・劉安世・韓川・呂希純・曽肇(そうちょう)王覿(おうてき)・范純粋・王畏(おうい)・呂陶・王古・陳次升・豊稷(ほうしょく)謝文瓘(しゃぶんかん)鮮于侁(せんうしん)賈易(かえき)鄒浩(すうこう)張舜民(ちょうしゅんみん)
その他
程頤(ていい)・謝良佐・呂希哲・呂希績・晁補之(ちょうほし)・黄庭堅・畢仲游(ひっちゅうゆう)・常安民・孔平仲・司馬康・呉安詩・張来・欧陽棐(おうようひ)陳瓘(ちんかん)鄭侠(ていきょう)・秦観・徐常・湯馘(とうかく)杜純(とじゅん)・宋保国・劉唐老・黄隠・王鞏(おうきょう)・張保源・汪衍(おうえん)・余爽・常立・唐義問・余卞(よべん)・李格非・商倚(しょうい)・張庭堅・李祉・陳佑・任伯雨(じんはくう)朱光裔(しゅこうえい)陳郛(ちんふ)蘇嘉(そか)龔夬(きょうかい)・欧陽中立・呉儔(ごちゅう)呂仲甫(りょちゅうほ)・劉当時・馬琮(ばそう)陳彦(ちんげん)劉昱(りゅういく)魯君貺(ろくんきょう)韓跋(かんばつ)
宦官
張士良・魯燾(ろとう)趙約(ちょうやく)譚裔(たんえい)王偁(おうしょう)陳詢(ちんじゅん)張琳(ちょうりん)裴彦臣(はいげんしん)
武臣
王献可・張巽(ちょうそん)・李備・胡田
など、百二十人の名を記し、その罪状に等級をつけ、彼らを奸党(かんとう)といい、帝自ら端礼門で石に名を刻むよう求めた。

蔡京らはまた、元符末の日食の前に直言を求めたときの上奏文と熙寧(きねい)・紹聖のときに政治を執っていた者を記録し、これを中書省に送って正上・正中・正下の三等、邪上・邪中・邪下の三等に格付けをするよう要望した。このため鍾世美(しょうせいび)以下四十一人を正等とし、いずれも要職に抜擢された。范柔中以下五百余人は邪等とされ、降格処分となった。また、降格処分を受けた者は現在住んでいる州に居住してはならないとの詔を下した。

15


冬十月二十七日、蔡卞(さいべん)が知枢密院事となった。

16


十二月二十六日、詔が下った。
「不正な言説、先朝の賢人の書を批判するものおよび元祐の政策は、施行してはならない。」

17


二年(1103)春正月五日、任伯雨(じんはくう)ら十二人を遠隔の州に安置した。

蔡京・蔡卞(さいべん)は元符末に台諫(だいかん)が自分を非難したことを恨み、党派の対立を利用して陥れた。同日、任伯雨を昌化軍(1)に、陳瓘(ちんかん)を廉州(2)に、龔夬(きょうかい)を化州(3)に、陳次升を循州(4)に、陳師錫(ちんししゃく)(ちん)(5)に、陳祐を(れい)(6)に、李深を復州(7)に、江公望を南安軍(8)に、常安民を(うん)(9)に、張舜民(ちょうしゅんみん)を商州(10)に、馬涓(ばけん)を吉州(11)に、豊稷(ほうしょく)を台州(12)に流した。

これ以前、蔡京が(しょく)を治めていたとき、張庭堅が属官となっていた。蔡京が宰相になると、引き入れて自分の助けにしようとしたが、張庭堅は従わず、蔡京はこれを恨んだ。ここに至り、象州(13)編管とした。

(1)昌化軍 海南省儋州(たんしゅう)市。
(2)廉州 広西壮族自治区北海市の北。
(3)化州 広東省化州市。
(4)循州 広東省竜川県。
(5)郴州 湖南省郴州市。
(6)澧州 湖北省澧県。
(7)復州 湖北省天門市。
(8)南安軍 江西省大余県。
(9)温州 浙江省温州市。
(10)商州 陝西省商州区。
(11)吉州 江西省吉安市。
(12)台州 浙江省臨海市。
(13)象州 広西壮族自治区象州市。

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二十七日、蔡京を尚書左僕射(さぼくや)兼門下侍郎とした。

19


三月六日、元祐の党派の子弟は宮殿に入ってはならないとの詔を下した。次いで詔を下した。
「元符末に上奏した進士で三舎生(1)の者は太学を辞めて帰郷せよ。元祐の政見を説き、人を集めて教授した者は、監察当局が調査し、必ず処罰して許してはならない。元符に上奏した邪等の者もまた京師に入ってはならない。」

(1)三舎生 太学における外舎・内舎・上舎。初学者が外舎に入り、内舎・上舎へと進学する。

20


八日、集英殿にて進士に対し策問を行った。

このとき、李階が礼部試の首席となった。李階は李深の子であり、陳瓘(ちんかん)の甥であった。安忱(あんしん)は殿試の答えとして言った。
「党人の子である李階を礼部試の首席とすれば、天下に範を示せない。」
このため李階の合格を取り消し安忱に合格を与えた。

また、黄定ら十八人が邪等に区分された者の名を報告した。帝は車の中から黄定に言った。
「お前たちが朕の短所を責めるのはよい。だが、神宗・哲宗がお前に何を背いたというのだ!」
黄定らを左遷した。

21


夏四月十九日、司馬光・呂公著・呂大防・范純仁(はんじゅんじん)劉摯(りゅうし)・范百禄・梁燾(りょうとう)鄭雍(ていよう)趙瞻(ちょうせん)王巖叟(おうがんそう)の十人の景霊宮に描かれた肖像画を塗り消した。

二十七日、范祖禹(はんそう)の『唐鑑(とうがん)』および三蘇(蘇洵(そじゅん)蘇軾(そしょく)・蘇轍)・黄庭堅・秦観の文集を破棄した。

22


三十日、趙挺之(ちょうていし)を中書侍郎、張商英・呉居厚を尚書左・右丞、安惇(あんとん)を同知枢密院事とした。

23


元直秘閣・程頤(ていい)を除名した。

蔡京に取り入ろうとする者が程頤を非難して言った。
「その政見はすこぶる偏り、素行は怪しく、専ら詐術によって愚者をだましています。近ごろは山にこもって書を著し、朝政に害を及ぼそうとしています。」
これを受けて詔を下した。
「程頤の科挙合格以来書いてきたものを破棄し、監察当局は著書を調査せよ。」
范致虚(はんちきょ)が言った。
「程頤は邪悪な言説で衆人の耳を惑わし、尹焞(いんとん)張繹(ちょうえき)がこれを助けています。河南に流し、彼の学徒を追放するようお願い致します。」
程頤は龍門(1)の南に移された。各地から程頤の教えを求めにくる者を押しとどめて言った。
「聞いたことを尊び、知ったことを行えばそれでよい。私の一門に来ることはない。」

(1)龍門 河南省洛陽市の南。

24


八月二日、張商英が辞職した。

張商英は紹聖のとき、人に取り入って紹述を主導していたが、ここに至り、蔡京と意見が合わなくなった。執法(御史中丞)・石予、御史・朱紱(しゅふつ)、余深が蔡京の意図を汲み、張商英を弾劾しようとしたが証拠がなかった。そこで張商英が元祐のときに「嘉禾頌(かかしょう)」を著し、そのなかで司馬光を周公になぞらえたこと、また、司馬光への弔辞のなかにその功績を褒めたたえた言葉があることを根拠に、張商英を処罰するよう要望した。そして詔が下った。
「張商英は何度も議論をして人に取り入り、元祐の初めに祖先の功績をそしった。御史台は交互に報告し、宰相の列に入れてはならない。」
張商英は知(はく)州に左遷され、元祐党籍に名を入れられた。

25


蔡京は奸党(かんとう)の名を自ら書いて大きな碑に刻み、これを郡県に行き渡らせ、監察当局の長官に石に刻ませた。

長安の石工に安民という者がおり、字を彫るのを辞退して言った。
「民は愚人なので碑を立てる意味を知りません。しかし、司馬相公については海内がその正直さを称えているというのに、今これを奸人と言っています。民は名を刻むに忍びありません。」
長安府の官は怒り、これを処罰しようとした。安民は泣いて言った。
「どうしてもというなら構いませんが、どうか安民の二字を石の末端に彫ることだけはお許しください。後世に罪を得るのが怖いのです。」
これを聞いた者は恥じ入った。

26


三年(1104)春正月、当十大銭(1)を鋳造した。

太祖以来、諸路に監を置き銭を鋳造していた。折二銭・折三銭・当五銭といった種類があり、時々に応じて規格がつくられたが、当十銭が鋳造されたことはなかった。

ここに至り、蔡京は利益で帝を誘惑しようと思い、当十銭を諸路で鋳造し、小平銭とともに通用させるよう要請した。

(1)当十大銭 当十銭。一個で十銭の価値がある銭。

27


このとき天下は太平で国庫は充実していたが、蔡京は「豊亨(ほうきょう)予大(1)」を唱え、官爵を糞土のように見、貯蓄した財を使い込み、大方使い果たしてしまった。

(1)豊亨予大 天下太平で人民が楽しみを極めること。

28


蔡攸(さいゆう)を秘書郎(1)とした。

蔡攸は蔡京の長子であり、帝に気に入られていた。ここに至り、進士出身(合格)を与えられ、この命が下った。

(1)秘書郎 図書を管理する官。正八品。

29


夏四月、講議司を廃止した。

諸州の現行の新法に関する文書は直接尚書省に送付することを許可した。講議司の属官には制置三司条例司の例にならい恩典を与え、張康国以下ほかの官職に移された者が四十人近くに及んだ。

尚書省は言った。
「先朝の法を復活して以来、幾多の心配がなくなりましたが、なお復活しきれていない部分のあることが恐れられます。諸路の官署でまだ先朝の法を復活させていないものには、各自報告させるようお願い申し上げます。」
これに従った。

30


蔡京は京西北路に専切管幹通好交子所を置き、川峡路にならって偽造法を定め、偽造した交子を使用し、周囲の者がこれを告発しなかった場合はこの法により処罰し、交子を私造した者は徒刑・流刑に処するよう要請した。まもなくして諸路に銭引(紙幣の一種)を流通させ、新たな様式で印刷した。四川は旧法によることとしたが、福建・浙江(せっこう)・湖北・湖南・両広では流通させなかった。趙挺之(ちょうていし)が福建は蔡京の郷里であることを考慮し、銭引の流通を免れたのであった。

31


六月一日、熙寧(きねい)・元豊の功臣の肖像画を顕謨(けんぼ)閣に描いた。

32


二十六日、辟雍(へきよう)(1)が完成した。

詔を下した。
(けい)国公・王安石は孟軻(もうか)(孟子)以来ただ一人の人物である。このため孔子とともに合祀(ごうし)され、位は孟軻に次ぐこととする。」

吏部尚書・何執中が学殿を開き、京師の人々が自由に見学できるようにすることを要請した。

(1)辟雍 太学の予備学校。祭祀を行う場でもある。

33


十一日、詔を下した。
「元祐・元符の党人とされた者、および邪等と報告された者を一冊の記録簿に合わせよ。合計三百九人の名を朝堂の石に刻め。その他の者は記録簿から外し、以後弾劾してはならない。」
戸部尚書・劉拯(りゅうじょう)は言った。
「漢・唐の失政はいずれも朋党(ほうとう)に原因があります。今日の人が前日の人を朋党とすれば、後日の人が今日の人を朋党とするでしょう。大抵の人の過ちは公論から出るものです。なぜみなを記録簿に記して禁錮(きんこ)する必要があるのでしょうか?」
蔡京は大変不愉快になり、御史に劉拯を弾劾するよう促し、知()(1)に転出させた。

(1)蘄州 湖北省蘄春県。

34


秋七月十四日、方田法(1)を復活させた。

(1)方田法 新法政策の一。耕地の測量を行って面積、肥瘠を明らかにし、それに基づいて土地ごとの租税額を定める。それまでの手実(自己申告)による耕地の把握は虚偽の申告などの不正を招いたので、これに対処したもの。

35


八月、許将が辞職した。

許将は政府に十年いたが、意見を述べることがなかった。中丞・朱諤(しゅがく)は許将が昔書いた謝表を入手し、その文言に誹謗(ひぼう)中傷の言葉があったとした。また、許将は元祐期には元豊から受け継がれていた政策を変え、紹聖期には元祐に行われていた政策をそのままにしていたと弾劾した。許将は辞職して知河南府(1)となった。朱諤は蔡京の一味だった。

(1)河南府 河南省洛陽市。

36


十月二十九日、趙挺之(ちょうていし)・呉居厚を門下・中書侍郎とし、張康国・鄧洵武(とうじゅんぶ)を尚書左・右丞とした。

紹聖のとき、蔡京が役法を管理しており、張康国を属官に推薦した。蔡京が宰相になると、党籍を定め、紹述を主唱したが、いずれも張康国が密謀に関与していた。それゆえ蔡京は張康国を大変頼りにしていた。福建転運判官から三年経たずして翰林(かんりん)院に入って承旨となり、左丞となった。

37


胡師文を戸部侍郎とした。

これ以前、東南六路の食糧は江蘇・浙江(せっこう)から淮河(わいが)流域まで運ばれ、真(1)・揚(2)()(3)()(4)に七つの倉を置いて軍糧を蓄えていた。また、楚州・泗州から(べん)までの運航路を開き、京師に運んでいた。江淮発運使がこれを管理し、京師には常に六百万(せき)があり、どの倉も数年分が積まれていた。

州郡で食糧の不足があれば中央が倉から高値で買い取って補充した。これを額斛(がくこく)という。各州の毎年の食糧の残高を計算し、貯蔵分から京師に代行輸送させた。これを代発という。豊年には標準価格で政府が買い取った。穀物が安ければ政府が買い取り、農業に影響させないようにした。飢饉により食糧が不足すれば民には銭で代納させ、民は重宝した。元金が毎年増え、軍糧に余裕が生じ、この方法はよいものといえた。

(1)真州 江蘇省儀征市。
(2)揚州 江蘇省揚州市。
(3)楚州 江蘇省淮安市。
(4)泗州 江蘇省盱眙(くい)県。

蔡京が国政を執るようになると、余剰の財を浪費するようになった。このため姻戚の胡師文を発運使とし、穀物買い取り用の元金百万(びん)を充当した。やがて胡師文は中央に入り戸部侍郎となった。これより後継の者が悪習を踏襲し、時に賄賂が贈られるようになり、元金が底をついた。元金がなくなると食糧の買い取りもできなくなり、蓄えがなくなって輸送網も崩壊した。

38


四年(1105)春正月、蔡卞(さいべん)が辞職した。

蔡卞は心持ちが邪悪な方向へ傾いており、一貫して妻の父である王安石の行いが至当であるとしていた。また、兄の蔡京が遅い出世ではあったが自分より上位にあり、自分は宰相になれなくなった。このため二府(1)の見解は時おり合わなくなることがあった。

ここに至り、蔡京が童貫を制置使(2)にするよう要請すると、蔡卞は宦官を用いるべきではなく、辺境の計略を誤るだろうと言った。蔡京は帝の御前で蔡卞をそしった。蔡卞は朝廷を去ることを願い出て、知河南府に出された。

(1)二府 中書省と枢密院。このときの蔡卞の官職は知枢密院事。
(2)制置使 辺境の軍を統括する官。

39


三月、趙挺之(ちょうていし)を尚書右僕射(うぼくや)兼中書侍郎とした。

40


知慶州(1)・曽孝序を嶺南に流した。

これ以前、曾孝序は湖北を訪れることになり、その途次で宮殿に立ち寄った。蔡京は曽孝序が舒亶(じょたん)のことを言うのではないかと不安になり、高位の官職で買収しようとしたが、曽孝序は従わなかった。また、蔡京と講議司について論じたときに言った。
「天下の財を通常より高くし、民の築いた財を京師に集め、太平の法でなくなるのが恐れられる。」
蔡京はこれを恨み、知慶州に転出させた。

(1)慶州 甘粛省慶陽市。

ここに至り、蔡京は結糴(けってき)(2)俵糴(ひょうてき)(3)の法を行い、民の財をこれにつぎ込んだ。曽孝序は上奏した。
「民力が底をついております。一たび彼らが逃げ出せば、一体誰が国を守るのでしょうか?」
蔡京はますます怒り、御史・宋聖寵(そうせいちょう)に曽孝序の私事を弾劾させ、家族を逮捕して罪を捏造(ねつぞう)しようとしたがうまくいかなかった。そこで、曽孝序が出軍の日を約定していながらその期日に遅れそうになったとのかどで除名し、嶺表(両広)に流した。

(2)結糴 商人を募り、官からあらかじめ買い上げ資金として銭・物資を支給し、この債務を一定の期限後に利息をつけて穀物で返済させる方法。
(3)俵糴 民田を測量して先に銭・物資を支給し、秋の収穫後に米・麦・粟を納入させること。

41


六月二十三日、趙挺之(ちょうていし)が辞職した。

これ以前、帝は蔡京を単独の宰相とし、これに補佐を置こうと考えた。蔡京は趙挺之を強く薦め、尚書右僕射(うぼくや)を拝命した。趙挺之が宰相になると蔡京と権力を争い、しばしば蔡京の奸悪(かんあく)さを述べた。そして宰相の地位を去ることを願い出て蔡京を避けようとし、辞職した。

42


五年(1106)春正月五日、彗星(すいせい)が西の方に出て、その長さは天を満たした。

十一日、呉居厚を門下侍郎とし、劉逵(りゅうき)を中書侍郎とした。

十二日、星変のため正殿に行くのをやめ食事を減らし、直言を求めることにした。劉逵は元祐党人碑を破壊し、邪等の者を報告して記録することをやめるよう要望し、帝はこれに従った。夜半、黄門(宦官)を朝堂にやって石碑を壊した。

翌日、蔡京がこれを見て大声で言った。
「石は壊せても名はなくせぬ!」

43


十四日、太白(1)が昼に見えた。党人に対する一切の禁を解き、方田法と諸州が毎年贈る貢納品を一時廃止した。そして詔を下した。
「崇寧以来左遷された者については、その生死にかかわらず官職をもとに戻し、配流(はいる)された者をもとの地へ帰せ。」

(1)太白 星の名。金星。

44


二月三日、蔡京が辞職した。

蔡京は邪心を抱いて仲間を増やし、賞罰の権限を一手に握り、紹述の名を借りてみだりに制度を変えた。利殖に関する政務を増やし、贅沢によって君主を惑わし、ややもすれば『周官』の「惟王不会」(1)を説き、先朝は経費を節約していたと言う者がいれば見識の浅い者と見なした。土木建築を行うときは、以前建っていたものの大きさを測り、それより大きいものを建てた。

時は天下太平で官員の数に無駄があり、節度使は八十余人に及び、留後・観察使以下遠方の郡の刺史は数千人に及び、学士・待制は内外百五十人に及んだ。応奉司(2)・御前生活所、営繕所、蘇・(こう)造作局を置き、雑多な名の官署が置かれた。それらは奇抜な行いを功績としたが、なかでも花石綱の害が最もひどかった。

(1)惟王不会 王の食事には算盤を用いず、思う存分に食材を使うこと。
(2)応奉司 宮廷に財物を献上する官署。

ここに至り、彗星(すいせい)が現れたことによって帝はこれらの害悪を悟り、建築物の造営を一切やめ、蔡京を罷免して中太一宮使とし、京師に留め置いた。だが、周囲の批判はやまず、中丞・呉執中は帝に言った。
「大臣の進退は全身の姿を表すものです。」
帝は蔡京に対し戒告の詔を下した。批判はようやく下火になった。

45


趙挺之(ちょうていし)を尚書右僕射(うぼくや)兼中書侍郎とした。

蔡京が辞職すると、帝は趙挺之を呼んで言った。
「蔡京の行いはそなたの申す通りであった。」
趙挺之は右相を拝命した。趙挺之は劉逵(りゅうき)と協力して政治を補佐し、蔡京の道理にもとり民を虐げる行いがようやく正されようとしていた。しかし、趙挺之は後の害を心配し、意見を述べるときは、その初めは自分で言うが、続きは劉逵に言わせることにしていた。劉逵もまた功績を挙げようとし、周囲を顧みなかった。

これ以前、蔡京は辺境でいさかいを起こし、連年戦争していた。ここに至り、帝は朝廷で大臣らに言った。
「朝廷は蛮族といさかいを起こしてはならない。一たび戦端が開かれれば、戦争が続き災いが起こり、民の命が地に投げだされる。これで君主が民を愛する心をもっているといえようか?」
趙挺之は引き下がって大臣らに言った。
「陛下のご意思は停戦にある。われわれはこれに従うべきだ。」
しかし、執政らはみな蔡京の一派であり、ただ微笑するのみであった。

46


三月四日、詔を下した。
「星変は消えた。直言を求めるのをやめる。」
次いで方田諸法と諸州からの貢納品の献上を再開した。

47


二十七日、礼部試の受験者六百七十人に進士及第を与えた。

蔡薿(さいぎょく)は蔡京の再度の任用を予想し、試験の解答に書いた。
熙寧(きねい)・元豊の徳業は天に比肩しますが、不幸なことにこれを継いだのが元祐でした。紹聖の紹述は永久の利益でありますが、不幸なことにこれを継いだのが靖国でした。陛下は二度にわたり求言の詔を下して直言を求め、実用することを望まれました。しかし、元符末の者たちは好機を得て奸言(かんげん)をほしいままにし、隙に乗じて偏った意見を言い、祖先をそしって疑うことなく、国是を動揺させてはばかることがありませんでした。悪い影響が出ないうちに対処し、そのもとを絶っていただきたく存じます。」
蔡薿を首席合格に抜擢し、この解答を天下に頒布(はんぷ)した。

48


冬十二月二日、劉逵(りゅうき)が辞職した。

蔡京はその仲間を使って帝に進言させた。
「蔡京が法を改めたのは、みな陛下の意を受けたものであり、私的な考えによるものではありません。今すべてをやめてしまえば、紹述を成し遂げることができなくなってしまいます。」
帝はこの言葉に惑わされ、蔡京を再び用いようと考えた。だが、群臣でそれに気づく者はなかった。

鄭居中(ていきょちゅう)は鄭妃の父鄭紳のもとに出入りしており、このことを知った。すぐに帝に謁見して言った。
「陛下の定められたものは、いずれも学校・礼楽・療養・救済等の法であり、厚く民を富ませてきました。どこに天に背いてその譴責(けんせき)を招き、改革すべき点があるのでしょうか?」
帝は喜んだ。鄭居中が御前を退くと礼部侍郎・劉正夫にこのことを話した。劉正夫も帝との対面を願い、鄭居中と同じ意見を述べた。帝はようやく劉逵の専断を疑うようになった。

これを受けて、蔡京一派の御史・余深、石公弼(せきこうひつ)が、劉逵は恣意的な振る舞いをして大臣らを侮辱し、悪人を引き立てていると非難した。劉逵を知(はく)州に出した。

49


大観元年(1107)春正月七日、蔡京を尚書左僕射(さぼくや)兼門下侍郎とした。

十五日、呉居厚が辞職した。

二十五日、何執中を中書侍郎、鄧洵武(とうじゅんぶ)梁子美(りょうしび)を尚書左・右丞とした。

梁子美は当初河北都転運使であったが、貨物を横流しして帝に献上し、緡銭(びんせん)三百万を投げうって北珠(1)を買い取り、これを献上した。このため諸路の漕運(そううん)担当の官がこれに続き、余った財を争って献上した。

北珠は女真の地でとれ、梁子美は遼から買っていた。遼はその利益をむさぼろうとして女真を虐げ、海東青(鷹)を捕らえて北珠と交換した。女真は深く恨んだが、梁子美はこれにより栄達した。

(1)北珠 松花江下流で産する真珠。粒が大きくつややかで名品とされる。

50


二月二十二日、再度方田法を施行した。

51


三月十一日、趙挺之(ちょうていし)が辞職した。何執中・鄧洵武(とうじゅんぶ)を門下・中書侍郎、梁子美(りょうしび)朱諤(しゅがく)を尚書左・右丞とした。

52


鄭居中(ていきょちゅう)を同知枢密院事とした。

蔡京が宰相に復帰すると、鄭居中に功績があったため、蔡京はこれを推薦した。

これ以前、鄭居中が直学士院(1)だったとき、自分は鄭貴妃の従兄弟(いとこ)だと言っていた。妃の家は代々卑賎(ひせん)で鄭居中を頼りにしていた。鄭居中が枢密院に入ったとき、妃はすでに高貴な身分になっており、鄭居中に頼るべきものがなかった。そこで宦者の黄経臣に、鄭居中が親族関係を通じて不正を行ったと訴えさせ、中太一宮使に改めさせた。鄭居中は不愉快であった。蔡京は上奏した。
「枢密院は兵権を司る所です。三省の執政でもなければ親族を通じて不正をするなどできません。」
黄経臣はこの上奏が届かないようにした。このため鄭居中は蔡京が力を尽くして自分をかばってくれなかったと思い、これを恨んだ。

(1)直学士院 翰林学士に同じ。

53


蔡攸(さいゆう)を劉図閣学士兼侍読とした。

54


葉夢得(しょうむとく)を起居郎とした。

蔡京が宰相に復帰すると、以前定めた法で廃止されたものを復活させた。葉夢得は上言した。
「『周官』には『太宰(たいさい)八柄(はちへい)(1)によって王を(たす)け、群臣を統御する』とあります。いわゆる法の制定・廃止と賞罰は王の権限に属し、太宰は王を詔けることはできても専権を振るうことはできません。事は可と不可の二者に過ぎません。可と思われるならば陛下自らが行うべきでありますが、今は廃止された法を復活させるべきではありません。今はただ大臣の進退を可否とすべきです。陛下はいまだ可と否の中間の答えが得られていないのではないでしょうか?」
帝は喜んで言った。
「近ごろは士の多くが徒党を組んで栄達を求めている。そちの言には日和見の色がない。」
葉夢得は起居郎に用いられた。

(1)八柄 王が群臣を統御する八つの手段。爵・禄・予・置・生・奪・廃・誅。

大臣らは葉夢得に才があるのを喜んだ。葉夢得は言った。
「古来、人を用いるときはまず賢と能を区別するものです。賢者は徳があるといわれ、能者は才があるといわれます。ゆえに古代の王は常に徳を才に勝らせ、才を徳に勝らせようとはしませんでした。崇寧以来、内にあって朝廷と同じ議論をする者が純真とされ、外にあって法令を速やかに実行する者が有能だとされ、器量ある者、深遠な見識をもつ者が優れているとの評価を得ておりません。恐らくは才ある人を過大に用いているのでしょう。今後人を任用するにあたっては、有徳の士を優先して用いるようお願いいたします。」
帝はこれに賛同した。

55


侍御史・沈畸(しんき)を監信州(1)酒税に左遷し、御史・蕭服(しょうふく)を処州(2)に流した。

(1)信州 江西省上饒(じょうじょう)市。
(2)処州 浙江省麗水市。

蔡京は劉逵(りゅうき)を恨んでいたが、このとき蘇州(3)で銭の偽造事件が起こった。蔡京はこれを利用して劉逵の妻の兄である章綖(しょうえん)兄弟を陥れようと考えた。開封(いん)(4)・李孝寿がこれを追及し、連座する者が千余人に上り、強引に勾留して罪を認めさせ、死者が多数に及んだ。蔡京はまだ不徹底であると思い、侍御史・沈畸、御史・蕭服を代理に行かせた。沈畸は楚州に到着すると犯罪の証拠のない者七百人を即日釈放し、嘆息して言った。
「天子の耳目として、権力者におもねり人を(あや)め富貴をむさぼってよいものか!」
そして事実を調査し、冤罪(えんざい)の案件を無罪にして帝に報告した。蔡京は怒り、沈畸を監信州酒税に左遷し、蕭服を処州に拘束し、章綖を島に流した。

(3)蘇州 浙江省蘇州市。
(4)開封尹 開封府知事。

56


閏十月、再び鄭居中(ていきょちゅう)を同知枢密院事とした。

鄭居中は蔡京を恨んでおり、密かに張康国と組んで蔡京の様子をうかがうことにした。都水使者(1)趙霆(ちょうてい)が両の首をもつ亀を黄河で捕らえ、献上して瑞祥(ずいしょう)とした。蔡京は言った。
「これは斉の小白(桓公)が得たという象罔(しょうもう)です。これを見た者は覇者になれます。」
鄭居中は言った。
「首が二つなどあり得るものでしょうか。みな驚いているのに蔡京だけはこれを信じています。何を考えているのかわかりません。」
帝は亀を金明池に捨てるよう命じ、鄭居中が自分のことを考えてくれていると言った。ゆえに冒頭の命令を下したのであった。

(1)都水使者 都水監(治水を担当する官署)の長官。正六品。

57


太廟斎郎(1)方軫(ほうしん)を嶺南に流した。

(1)太廟斎郎 太廟での祭祀を担当する官。

方軫は上奏した。

「蔡京は社稷(しゃしょく)をうかがい、道理に外れた考えを抱き、熙寧(きねい)・元豊の政策を受け継いで自らを推薦しています。内は執政・侍従、外は統帥・監司、彼の門人・親戚でない者はおりません。

蔡京は上奏するたびに陛下直筆の命令を書き、人に『これは上意である。』と言っています。翌日実行されてなければ、今度は『私が上奏したのだ。』と言うのです。それがよい結果になれば自分の発案だとし、悪い結果になれば君主の命令だとし、陛下に天下の恨みを集中させようとしているのです。

元符末より陛下は帝位を継承されましたが、忠義の士が意見書を箱に入れてもすぐになくなってしまいます。蔡京は邪等に区分した者を遠方の地に流して官籍から除名しています。これで誰が陛下のために直言しようというのでしょうか?

蔡京の子蔡攸(さいゆう)は日々花石や鳥獣を献上して陛下の見識を狭め、天下の治乱をわからなくさせようとしています。蔡京はきっと陛下に背くことと思われます。蔡京を処罰してくださいますように。」

これを蔡京に見せた。蔡京は方軫を獄に下すよう求めた。方軫は嶺南に流された。

58


十一月一日、日食が起こった。

蔡京は日食の程度からして警戒するほどのことではないとし、群臣を率いて慶賀した。

59


二年(1108)春正月二十七日、蔡京に太師(1)を与えた。

(1)太師 寄禄官の一。職務実態は伴わない。

60


三年(1109)三月二十二日、張康国が急死した。

張康国は蔡京におもねって昇進してきたが、枢密院に入るとしだいにおかしな言動をとるようになった。このとき帝は蔡京の専横を嫌っており、密かに張康国にこれを抑えさせ、宰相になることを許した。蔡京は張康国を忌み嫌い、呉執中を中丞とした。呉執中は張康国を非難しようとした。張康国はこれを察知し、早朝に陳情に訪れ、帝に伝言した。
「呉執中が今日入対すれば、必ず蔡京のために私を非難するでしょう。私は今の職を辞したく思います。」
このあと呉執中が入対すると、やはり張康国について述べた。帝は怒り、呉執中を左遷した。

ここに至り、張康国は早朝に朝堂のわきの控え室にいたが、ここで病にかかった。天を仰いで舌を出し、待漏院(1)に担がれ、そこで亡くなった。あるいは毒を盛られたのだと噂された。

(1)待漏院 百官が朝会の準備をする場所。

61


七月二十九日、蔡京が辞職した。

蔡京は国を牛耳ること久しく、中丞・石公弼(せきこうひつ)、殿中侍御史・張克公が蔡京の罪を弾劾し、数十回にわたり上奏した。帝もまた蔡京を嫌っており、罷免して太一宮使とした。

これ以前、帝が端王であったとき、大使局に郭天信という者がおり、端王が天下を治めるだろうと言っていた。帝が即位すると、予言が的中したことにより寵愛を得た。常に天文について上奏し、その内容は蔡京を動揺させた。太陽のなかに黒点があると密かに報告し、帝は恐れた。この後も黒点についての報告がやまず、帝は蔡京を疑うようになり、罷免した。

62


八月四日、何執中を尚書左僕射(さぼくや)兼門下侍郎とした。

何執中は一貫して蔡京に仕えてきたため、蔡京に代わり筆頭宰相となった。

太学生の陳朝老が宮殿に来て上奏した。
「陛下は即位されてから宰相を五度任命されました。韓忠彦(かんちゅうげん)の凡庸さ、曽布の貪欲さ、趙挺之(ちょうていし)の愚鈍、蔡京の横暴に天下は()えられませんでした。今、陛下は蔡京の奸悪(かんあく)さを見抜き、宰相の印を解かれました。天下の人は新たな命を得たかのように喜んでいました。しかし、何執中が宰相になると、内外は暗然として失望しました。何執中は蔡京のように国を食い破り民を害することはありませんが、その資質は平凡で人に過ぎるものではありません。天下の状況はここまでひどくなり、まるで体内の臓器が深く傷んだようなものですが、ここでどうして平凡な医者が立ち上がる必要があるのでしょうか?何執中は権力者におもねって二府に上り詰め、これだけでも幸運だというのに、突然これを国家経営の補佐とされました。これは蚊に山を背負わせるようなものであり、任に堪えることはできません。」
この()は上奏されたが、理解されることはなかった。

63


十一月二十三日、蔡京は楚国公を与えられて引退したが、なおも『哲宗実録』の編纂を監修し、一日と十五日に参内(さんだい)した。

石公弼(せきこうひつ)は言った。
「蔡京は京師に出入りして志を捨てることなく、いまだ衰えぬ威勢は群臣を脅かしています。断乎とした決断をし、後悔することのないようにしていただきたく思います。」
殿中侍御史・洪彦昇(こうげんしょう)は言った。
「蔡京が再び宰相となれば、紹述の名を借りて一切を変更し、先朝の法を損ない、徒党を組んで国を誤らせ、公私ともに困窮することでしょう。宰相の印を返したというのに都に対し傲慢な態度をとり、上は厚情の恩を頼みとしながら中には蔡京は跋扈(ばっこ)の志を抱いております。ここは早くに英断していただき、彼を都から追放していただきたく存じます。」
殿中侍御史・毛注は言った。
「蔡京は賞罰の権をもてあそび、内外を動揺させ、翰林(かんりん)学士・葉夢得(しょうむとく)を腹心として仲間を増やしています。」
帝はこのため葉夢得を提挙洞霄(どうしょう)宮に左遷し、毛注を侍御史に昇格させた。毛注は再度直言した。
「蔡京は孟翊(もうよく)の妖書を受け取り、反逆の志をもつ張懐素と交友し、悪人の林攄(りんちょ)を引き入れて政府に置き、親しい仲の宋喬年(そうきょうねん)に京師を統治させ、その門人は各所に広がっています。みな陛下の恩寵は衰えておらず、蔡京が朝廷に行けばまた用いてもらえるだろうと申しております。」
太学生・陳朝老も蔡京の悪事十四項を述べ、遠方に放逐して悪人の勢力を防ぐよう要望した。いずれも聞き入れられなかった。

64


四年(1110)二月二十日、余深を門下侍郎、張商英を中書侍郎、侯蒙(こうもう)を同知枢密院事とした。

蔡京が罷免されると、張商英は峡州(1)から知(こう)州に赴任した。途中宮殿に立ち寄ったところ謁見を許され、上奏した。
「神宗の定めた法は大害を取り除き大利をもたらしました。今一つ一つ実行せば、紹述の美を尽くすことができます。法に弊害があれば変えなくてはなりませんが、その意義を失わなければよいのです。」
この言を受け、張商英を政府に留め置くことにした。

帝は従容(しょうよう)として侯蒙に質問した。
「蔡京とはどんな人物だ?」
「蔡京に心持ちを正させれば、(いにしえ)の賢相といえどこれに加える者がおりません。」
帝は密かに蔡京の素行をうかがわせた。蔡京はこれを聞いて恨んだ。

(1)峡州 湖北省宜昌市。

65


五月十八日、彗星(すいせい)が見えたため、侍従官に政治の過ちを直言させた。

石公弼(せきこうひつ)らは蔡京の罪を直言した。張克公も言った。
「蔡京が政治を補佐して八年、その権力は海内を震撼(しんかん)させてきました。軽々しく贈り物をして国庫を食い破り、爵禄を与えて恩を売り、建築担当の官署を使役して自分の屋敷を修築させ、船で花石を運ばせ、陛下を祝うと称して塔を建築して臨平(1)の山を壮観なものとし、田地を灌漑(かんがい)するとの口実で川を決壊させ、興化(2)で発見された預言書に符合させました。法名を退送、家の門号を朝京としており、大変不遜であります。方田法は農業にいそしむ民を不安にさせ、牢獄は人を遠方へ流す悪習のもととなってきました。」
そして不軌不忠の罪数十事を数え上げた。

(1)臨平 浙江省杭州市の北東。
(2)興化 江蘇省興化市。

毛注が再び論じた。
「蔡京の罪悪は大きく、天人が譴責(けんせき)しております。宰相を辞めて引退したとはいえ、なおも陛下の恩寵を頼みに屋敷に盤踞(ばんきょ)し、天の怒りを買っています。このもとをたどれば、蔡京に原因があります。蔡京の罪を考えるに、いちいち述べることもできません。陛下は元祐党碑を撤去して改革の道を開かれましたが、蔡京はこれが自分の考えに反するのを憎み、禁令を定めました。陛下は詔を下して天下の言を求められましたが、蔡京はこれが自分を批判するのを憎み、重ねて法を定めました。蔡京の威勢が周囲を震撼させるのを、内外の者は憤っています。早くに国を去らしめ、天変を除かれるべきであります。」

66


二十六日、蔡京を左遷して(こう)州に出した。

67


六月八日、張商英を尚書右僕射(うぼくや)兼中書侍郎とした。

これ以前、蔡京は国権を独占すること久しく、内外の者はこれを憎んでいたが、張商英は蔡京と違う意見を持ち、賢人だと言われていた。帝は張商英に人望があるとみて宰相とした。このとき長らく(ひでり)が続き、彗星(すいせい)が天にあった。張商英が拝命した日の夜は彗星が見えず、翌日に雨が降った。帝は喜び、「商霖(しょうりん)」の二字を大書して張商英に与えた。

68


十二月、張商英は熙寧(きねい)・元豊の歴史を編纂し、書名を『皇宋政典』とすることを要請した。尚書省に当局を置くこととした。張商英は、蔡京は紹述の名のもとに君主を制御し、士大夫を禁錮(きんこ)したに過ぎないと述べた。それゆえ『政典』を編纂してその過ちを正そうとしたのである。

69


政和元年(1111)八月五日、蔡京を再び太子太師とした。

70


二十七日、張商英が辞職した。

張商英は公平な視点で政治を行った。蔡京が鋳造させた当十大銭を当三銭に改め、貨幣の価値を平準化させた。転般倉(1)を復活させて直達法をやめた。塩鈔(えんしょう)(2)を行い行商人に流通させた。横暴な徴税をやめさせ、民力を回復させた。帝に贅沢を控え、土木工事をやめ、寵愛を求める者を退けるよう勧めた。帝は張商英を恐れ、升平楼を修築させたとき、現場監督が張商英らの前列の騎兵がやってくるのに出会うと、工匠らを楼の下に匿った。張商英は忠実だと称えられていた。しかし、志は大きいが才に乏しく、やろうとすることを先に公の席で言ってしまうため、反対派はあらかじめ計略を巡らせることができた。

(1)転般倉 真州・揚州・楚州・泗(し)州に置かれた倉庫。江南から開封へ米などの物資を輸送する際、汴河(べんが)は凍結や流水量の変動があるため、江南からの米を一旦転般倉に保管した(転般法)。開封まで一貫した輸送ができるよう水路が改められると直達法へ推移した。
(2)塩鈔法 辺境あるいは中央の官署に現銭を納めた商人に塩鈔を与える方法。塩鈔は塩場で塩と交換できる。

これ以前、何執中と蔡京がともに宰相であったとき、造営についてはあらかじめ議論することにしていた。ここに至り、二人は張商英が自分より上位になったことを憎み、鄭居中(ていきょちゅう)とともに日夜張商英の過失を捏造(ねつぞう)していた。まず、張商英の門客の唐庚(とうこう)を非難のもとにさらし、知恵州(3)に流した。このとき方士・郭天信が帝に寵愛されており、張商英がともに行き来していたため事が発覚した。このため鄭居中は中丞・張克公に対し、二人ともに弾劾するよう促した。張商英は宰相を辞め、知河南府となった。

(3)恵州 広東省恵州市。

71


冬十月、陳瓘(ちんかん)を台州に拘束した。

陳瓘は蔡京に逆らったことにより、(ちん)州に流された。陳瓘の子陳正彙(ちんせいい)(こう)州におり、蔡京が太子に不正な働きかけをしたと訴えた。知杭州・蔡薿(さいぎょく)は陳正彙を捕らえて京師に送り、これを蔡京に告げて一計を案じさせた。

事が開封府に伝わると陳瓘も逮捕された。開封(いん)・李孝寿は、陳正彙の告発が事実無根であることを証明するよう、陳瓘に迫った。陳瓘は言った。
「正彙は蔡京が国家を悪い方向に導こうとしていると聞き、周囲の者にそれを知らせたのだ。私が前もってそれを知ることなどできようか?知らなかったのを理由に父子の恩を忘れ、それが事実無根であると主張するなど、人の情として忍びがたいものだ。私情を挟んで子の言ったことに合わせるのも、義にかなった行いではない。蔡京の奸悪(かんあく)さはきっと国の災いとなろう。私はこのことを以前から御史台に訴えてきた。今さら言うまでもないことだ。」
内侍・黄経臣が取り調べたときにこの言葉を聞き、声を失い大きく息をついて言った。
「陛下はまさに真実を知りたがっておられる。この言葉の通り答えればよいのだ。」
取り調べが終わると、陳正彙は虚偽の言動をとったかどで海に流され、陳瓘は通州(1)安置となった。

帝は陳瓘の著書『尊尭集(そんぎょうしゅう)』を取り寄せた。張商英がこの書を入手していたが、献上する前に宰相を辞めていた。陳瓘は上奏して『尊尭集』を御前に進呈して開くことを求めた。また、王安石を宣聖廟(孔子廟)に合祀(ごうし)すべきではないと、寓意(ぐうい)の形で述べた。帝はこの文章には道理がないと言った。陳瓘は誹謗(ひぼう)の罪に問われ、台州に拘束された。

(1)通州 江蘇省南通市。

72


これ以前、王安石は『日録』八十巻を著したが、陳瓘(ちんかん)は王安石がこの書のなかで宗廟をそしったと主張した。陳瓘は廉州に流されると、『合浦尊尭集(ごうほそんぎょうしゅう)』を著し、『日録』の誹謗(ひぼう)の罪を蔡卞(さいべん)に帰した。後、『四明尊尭集』を著して王安石を痛烈に批判し、熙寧(きねい)年間における宰相の取捨の顛末(てんまつ)を広く知らしめ、過ちを改める心を伝えようとした。

ここに至り、台州に流された。何執中は蔡京の指示を受け、左遷されていた石悈(せっかい)を知台州とし、陳瓘を死に追いやろうとした。石悈が着任すると陳瓘を捕らえて法廷に連行し、刑具を並べてみせ、脅したうえで殺そうとした。陳瓘はその意味を悟り、大きく叫んで言った。
「今日のことは正式な命令あってのことではあるまい!」
石悈はしばらく言葉を失ったが、ようやく陳瓘に言った。
「朝廷が『尊尭集』を入手しただけのことだ。」
「ならばなぜこのようなことを許可するのだ!君に『尊尭』と名付けた理由を教えようか?それは神宗を(ぎょう)とし、陛下を(しゅん)としたのだ。尭を尊ぶことに何の罪があるというのだ!時の宰相の統治は浅薄で、人に愚かだと思われている。君に何ができるというのだ。公論を恐れず、名分を冒すというのか?ましてや『尊尭集』はすでに献上されているのだ。」
石悈は恥じ入り、(ゆう)して陳瓘を下がらせた。陳瓘を追い詰める手段は数え切れないほどあったが、ついぞ害を及ぼすことはできなかった。何執中は怒り、石悈を罷免した。

陳瓘は平素から蔡京兄弟について論じ、いつも彼らの下心を指摘し、隠したがっていることを暴露し、蔡京に大変嫌われていた。ゆえにひどい嫌がらせに遭ったのである。

73


二年(1112)二月一日、蔡京に太師を与えたうえで引退させ、京師に屋敷を与えた。蔡京は(こう)州から呼び出され、帝は内苑の太清楼で宴を催した。

74


夏四月、再び方田法を行った。

75


六月二十日、蔡京に三日に一度宰相府に来て議論させることとした。

蔡京は諫官(かんかん)が自分を批判するのを煩わしく思っていた。そこで密かに御筆(帝の直筆の命令)を起草・進呈し、これを帝が自ら書いて直筆の詔とし、これに違反する者は命令に背いた罪に問うよう要望した。事の細大を問わず必ずこの方法を通して命令が行われ、帝の御筆とは思われない場合でも群臣は異論を差し挟まなかった。以後、帝の親戚や近臣は争って御筆を求め、宦官の楊球(ようきゅう)に代筆させるようになり、「書楊」と号した。

<呂中は言う、奸臣(かんしん)が御筆の令を始めてからというもの、およそ私欲によるものは御筆の名のもとに行われ、これに背く者は刑に処された。このため給事中・中書舎人に命令書の下書きが渡らなくなり、台諫は意見を言うことができなくなり、綱紀が崩れた。昔、仁宗に全権を総攬(そうらん)するよう勧める者がいたが、仁宗は言った。
「天下のことを処理するときは、宮中から命令を出すことはしたくないのだ。」
この言はまさに万世の法である。>

76


八月、元祐年間の詔書を焼き捨てた。

77


九月、官名を改定した。

蔡京は恣意(しい)的な考えで官名を改めることにより、元豊の政治を受け継ごうとした。まず初めに開封の長官を(いん)・牧に改めた。以後、府を六曹に、県を六案に分け、内侍省の官職は枢密院のそれにならい、六尚局・三衛郎を置いた。そして詔が下った。
「太師・太傅(たいふ)・太保は(いにしえ)の三公の官であるが、今これを三師とする。古にこの名称はなく、三代に三公を定めたのにならうものであり、宰相の任に就くこととする。司徒・司空は周の六卿の官であり、太尉は秦の兵を司る官であり、いずれも三公ではなく、廃止すべきである。よって三孤を置いて次相の任に就くこととする。また、侍中を左輔(さほ)、中書令を右弼(うひつ)とする。尚書左僕射(さぼくや)を太宰兼門下侍郎とし、右僕射を少宰兼中書侍郎とする。尚書令および文武の勲官をやめ、太尉を武階に冠することとする。」
しかし、このとき官員には無駄が生じており、名称は混乱し、甚だしいものでは走馬承受(1)が擁使華に格上げされ、道士にみだりに官品が与えられた。元豊の制度はここに至り大きく損なわれた。

(1)走馬承受 皇帝から派遣され、地方の将帥・人事・辺境の動向などを監察し、年に一回宮殿に赴いて報告する官。宦官があてられた。

78


三年(1113)春正月二十日、王安石を(じょ)王、子の王雱(おうほう)を臨川伯に追封し、孔子廟の広場に合祀(ごうし)した。

79


五年(1115)秋七月、宗廟の南に明堂(祭壇)を建設させることとした。蔡京を明堂使とし、当局を置いて工事を始めた。日々万を数える人が使役された。

80


八月、太子詹事(せんじ)(1)・陳邦光を池州(2)に安置した。

(1)太子詹事 皇太子に仕える官。従三品。
(2)池州 安徽省貴池区。

これ以前、蔡京は太子に大食(タージー)国のガラスの酒器を献上し、宮殿の広場にならべた。太子は怒った。
「天子の大臣(蔡京)は道義をもって教え導いた話を聞いたことがない。愛玩物を持たせてわが志を揺るがそうというのか!」
側近に命じてこれを割った。

蔡京は陳邦光が酒器を割ったことで太子を激励したと聞き、諫官(かんかん)に彼を追放するよう暗に促した。

81


六月夏四月庚寅(こういん)、蔡京に三日に一度参内(さんだい)し、高官の位を正し、三省を統括させることとした。

82


五月庚子(こうし)鄭居中(ていきょちゅう)を少保・太宰とし、劉正夫を少宰とし、鄧洵武(とうじゅんぶ)を知枢密院事とした。

蔡京は大規模な工事を行って民の生活を苦しめた。また、みだりに法を変え、官僚らには従うべき長官がなかった。鄭居中は常に帝のために諫言(かんげん)し、帝もまた蔡京の専横を嫌っていた。このため鄭居中を太宰とし、蔡京の動向をうかがわせた。劉正夫が蔡京とたびたび議論して意見が異なっていたため、少宰とした。

83


七年(1117)六月一日、明堂が完成したため、蔡京を()国公に封じた。

蔡京は()国公と魯国公の爵位を辞退して拝命しなかった。このため蔡京の親族二人に与えることとした。

84


八月八日、鄭居中(ていきょちゅう)が辞職した。

鄭居中は蔡京と仲が悪かった。ここに至り、母の喪を理由に宰相の位を去った。蔡京は喪が明けた後に再度鄭居中が起用されるのを恐れた。そこで、鄭居中が王珪(おうけい)女婿(じょせい)であることから、蔡確の子蔡懋(さいぼう)に哲宗の立太子の一件について訴えさせ、鄭居中の再起用を阻もうとした。さらに、蔡確を清源郡王に追封し、墓前に帝直筆の文を刻んだ石碑を立て、鄭居中を動揺させようとしたが、何の前触れもなく危害を加えるわけにはいかなかった。

85


十二月、侍御史・黄葆光(こうほうこう)を昭州(1)に流した。

これ以前、黄葆光は左司諫(さしかん)であった。この職に就くとすぐに、三省の官僚が雑多であるため、元豊の旧制によらない官職はすべて廃止するよう要請した。帝は官職のあり方を正すよう命じ、士論は一時これに従った。蔡京はこれが自分の考えに反するために怒り、帝に促して内批(中書省を経ずに出す命令)を下させた。
「まさに『豊亨予大』のときであるというのに、黄葆光は衰亡節約の政策を行った。符宝郎(2)に降格とする。」
翌年、黄葆光は侍御史を拝命した。

(1)昭州 広西壮族自治区平楽県。
(2)符宝郎 宝物を収蔵・管理する官。従七品。

ここに至り、大きな旱魃(かんばつ)が起こり、帝は憂慮していた。黄葆光は上疏(じょうそ)した。
「蔡京は強引で法を越えた行いをし、君臣の分がありません。鄭居中(ていきょちゅう)・余深は蔡京に遠慮してしまい、天下の責を担うことができません。だから災害が起こったのです。」
この疏は献上されたが、返答はなかった。

蔡京の権威は周囲を揺るがし、朝廷の者は誰もものを言わなくなったが、黄葆光だけは力を尽くして蔡京を批判した。蔡京は恐れ、別件で罪に問い、配流(はいる)した。

86


宣和元年(1119)九月、道徳院に金色の芝が生えたため、帝はこれを見に行き、蔡京の屋敷にも立ち寄った。

このとき、蔡京の子蔡儵(さいしゅく)蔡攸(さいゆう)蔡翛(さいしょう)および蔡攸の子蔡行はいずれも大学士であり、蔡鞗(さいちょう)は帝の娘茂徳帝姫(ていき)をめとっていた。その他の家族や使用人も高官の地位にあり、(めかけ)に夫人の称号を与えていた。蔡京は帝のそばに(はべ)るとき、いつも「君臣相喜ぶ」と言っていた。帝は車に乗るとしきりに蔡京の屋敷を訪れ、着座させて酒を勧め、家族同然の待遇をした。蔡京は謝表に書いた。
「正妻は酒を勧めて長寿を祝い、返杯を求めて私についていくと言っております。幼子が袖を引っ張り離しません。」
事実この通りであった。

87


蔡攸(さいゆう)に開府儀同三司(1)を与えた。

蔡攸は帝に寵愛され、いつでも謁見することができ、王黼(おうほ)とともに宮中の演劇を見ることを許されていた。宴会に参加すると、蔡攸と王黼は一重の上着と短い(はかま)を身に着け、青や赤の顔料を塗り、俳優や侏儒(しゅじゅ)(背の小さい人)に混じって卑猥(ひわい)で下品なことを言い、冗談を言って帝を喜ばせた。蔡攸の妻宋氏は宮中に出入りし、蔡攸の子蔡行は宮中の守衛を管理し、その寵愛は父をしのぐほどだった。蔡攸は帝に言った。
「いわゆる君主とは、天下を家として太平を楽しむものです。人生には限りがあるのです。自らいたずらに苦しむ必要がどこにあるのでしょうか?」

(1)開府儀同三司 職務実態を伴わない官名の一。従一品。

88


冬十月一日、『紹述熙豊(きほう)政事書』を天下に布告した。

89


十一月十四日、正字(1)曹輔(そうほ)(ちん)州編管とした。

(1)正字 図書の校正を行う官。従八品。

帝は政和以来微行することが多かったが、民間には知られていなかった。蔡京が謝表に「軽車(2)小輦(しょうれん)(3)、七たび(みゆき)を賜る」との文言を書くと、邸報(4)により帝の微行が周囲に知れ渡ったが、官僚らはおもねって意見を言わなかった。曹輔は諫言(かんげん)した。

「陛下は正殿(政務を処理する所)にいるのを嫌がり、時折り小輦に乗って市井(しせい)の店や郊外に出かけ、存分に遊んで帰ってこられます。初めはこのことを噂するのもはばかられましたが、今では常に話題になっています。私は陛下が国家を託された重みを担っていることを気にかけてきませんでしたが、遊び歩いてたちまち危機に陥り、このような事態になりました。君主が民に与えるのは、人を合わせるのを根本とし、合わされば腹心となり、離れれば()・越となります。人が背くのは一瞬のことであり、恐るべきことです。

(2)軽車 速く走る小型の車。
(3)小輦 小型の人力車。
(4)邸報 京師にある臣下の屋敷から詔令等の写しを周囲に伝えるもの。官報のもとであり、後に商人が担うようになった。

昔、仁宗は民をわが子のように扱い、哀れんで傷つけはしないかと恐れ、宮廷が許せば衛兵が宮殿を出てゆき、(しつ)(大型の琴)に触れるかのようでした。(ことわざ)に『盗人は主人を憎む』とありますが、主人が盗人に何を背いたというのでしょうか?今愚かな民たちは差役と租税が日々増えていくなかにあり、いちいち従順でいられるでしょうか?万が一にもお忍びで幸されているとき、朝廷に恨みを持つものが悪い考えを隠し持っていれば、神霊の加護があっても権威が深く傷つけられます。ましてや私がこのように言わざるを得ないとは、戒めずにおくべきではありません。

陛下には宮中深くにあって拱手(きょうしゅ)し、蒼天(そうてん)のような至高の姿勢で臨み、日月が日々入れ替わって変化しないような行いをしていただきたいのです。お出かけになる際は、太史(5)が日を選び、当局が道を開き、三衛百官が前と後ろにつきます。そのような煩わしいことをせず、費用を節約したいとお考えであれば、臨時に命令を下して節約し、従者たちには微服(身分を隠すための服装)を着せればよろしいでしょう。」

帝はこの上奏文を読むと、大臣らに見せ、宰相府に送って審議させた。

(5)太史 太史局。天文を観測し、吉凶を占う官署。

余深は言った。
「あなたは小官に過ぎないというのに、なぜこのような大事を論じるのだ?」
曹輔は言った。
「大官が何も言わないから小官が言ったのだ。官に大小あれど君主を愛する心は一つだ。」

王黼(おうほ)は張邦昌・王安中に向き直って言った。
「そのようなことがあったのか?」
「わかりません。」
「これは(ちまた)の庶民でも知らぬ者はなく、宰相らが国政を執っていながら知らないはずがない。このようなことも知らなかったのであれば、宰相に用いるべきではない。」
王黼は怒り、官吏に命じて曹輔に自供させた。曹輔は筆をとって、
「ただ一心にして求めるものはなく、君主を愛するのみ。」
と書き、自宅で罪を待った。王黼は上奏した。
「曹輔を厳罰に処さねば、根拠のない噂がやむことはありません。」
曹輔は郴州編管となった。

90


これ以前、曹輔(そうほ)諫言(かんげん)しようとしたが、きっと罪に問われるであろうと考えた。このため子の曹紳を呼んで家のことを託し、扉を閉めて上奏文を起草した。夜、縁起の悪い鳥が屋根の先で鳴き、その声は順々に輪を紡いでいた。曹輔は禍々(まがまが)しいものを感じていたが、躊躇(ちゅうちょ)することはなかった。配流(はいる)が決まると喜んで途に就いた。

91


二年(1120)六月九日、蔡京を引退させた。

蔡京の専横が長く続いて衆論はこれにつき従うことがなくなり、帝も忌み嫌っていた。蔡攸(さいゆう)の権勢が父と争うほどになると、軽薄な者が二人を離間させるようになった。これ以後父子はそれぞれ派閥をつくり、仇敵(きゅうてき)となった。

蔡攸は帝から与えられた屋敷に別居していたが、ある日蔡京のもとを訪れた。蔡京は客人と語り合っている最中であり、客人を別室に控えさせた。蔡攸が屋敷に入ると、急に立ち上がって父の手を握り、その状態を確かめて言った。
「父上の脈拍は緩やかですね。調子が悪いのですか?」
「いや。」
「禁中で政務がありますので。」
言い終わると蔡攸はすぐに立ち去った。客人はこの様子を見て蔡京にどういうことか尋ねた。蔡京は言った。
「君はこの意味がわからないのか?病にかこつけて私を辞めさせようとしているのだよ。」
数日後、果たして蔡京は太師・()国公を与えられたうえで引退し、一日と十五日に参内(さんだい)することとなった。

92


十一月、王黼(おうほ)を少保太宰とした。

これ以前、蔡京が引退した。王黼は表向きは人心に従ったものの、その実蔡京と反対のことを行い、周囲の者は口をそろえて賢相と称していた。しかし、太宰を拝命すると、権勢をかさによこしまな行いに走り、多くの美女と財を蓄え、宮廷に対して越権行為を行い、蔡京の跡をたどった。

93


六年(1124)十一月、王黼(おうほ)が辞職した。

王黼は宰相となってから常に宴会に同席し、自ら俳優の役を演じ、ふざけたことをして帝を喜ばせていた。太子はこれを聞いて王黼を嫌うようになった。王黼は(うん)王・趙楷(ちょうかい)に寵愛され、ひそかに帝位の簒奪(さんだつ)を企んでいたが、いまだ果たせずにいた。

帝が王黼の屋敷に芝を見に訪れたとき、王黼の屋敷は梁師成の屋敷と垣根を連ねており、便門(正門以外の門)を通じて行き来しているのを見た。帝は王黼と梁師成が交友しているのを知った。宮殿に帰ると、王黼への寵愛はにわかに衰えた。

李邦彦(りほうげん)は王黼と仲が悪く、蔡攸(さいゆう)と結託して王黼をそしろうとした。このとき中丞・何㮚(かりつ)が王黼の専横を十五事にわたって述べた。このため王黼を引退させることとし、一派の胡松年らもみな罷免した。

94


十二月、蔡京に再び三省を統括させた。

王黼(おうほ)が引退すると、朱勔(しゅべん)が蔡京を用いるよう強く勧め、帝はこれに従った。蔡京はこのとき四度宰相となり、目もかすんで政務を処理することができず、末子の蔡絛(さいとう)がすべて決裁していた。蔡京の判断はいずれも蔡絛が行い、蔡京に代わり上奏するようになった。蔡絛が参内(さんだい)するたびに侍従以下の者がみなで(ゆう)して迎え、小声で何事かをささやき、中書省の官吏数十人が文書を抱えて後に続いた。このため蔡絛は私利私欲に走り、権力をもてあそぶようになった。妻の兄韓梠(かんりょ)を戸部侍郎に引き立て、謀議して気に入らない者を追放した。宣和庫式貢司を置き、方々の金品と蔵に蓄えてあるものをかき集め、天子の私財とした。白時中・李邦彦(りほうげん)は文書の指示を実行するだけであった。

95


七年(1125)夏四月、蔡京を引退させた。

蔡絛(さいとう)は蔡京に目をかけられ、権力をほしいままにしていた。兄の蔡攸(さいゆう)はこれを妬み、帝に蔡絛を殺すようたびたび進言していたが、帝は許さなかった。白時中・李邦彦(りほうげん)も蔡絛を憎んでおり、蔡攸とともに蔡絛の悪事を暴いた。帝は怒り、蔡絛を配流(はいる)しようとしたが、蔡京が許してやるよう強く求めた。そのため停職処分にして父母に仕えるよう勧めるにとどめた。そして韓梠(かんりょ)を黄州(1)安置とし、蔡絛の侍読の職を剝奪し、科挙合格の勅令を破棄して蔡京を動揺させようとしたが、蔡京は志を曲げなかった。帝は童貫を蔡京のもとに行かせ、辞表を提出させることにした。童貫が来ると、蔡京は泣きながら言った。
「陛下はここ数年なぜ私を許してくださらないのだ?誰か讒言(ざんげん)する者がいるのだろう。」
童貫は言った。
「わかりません。」
蔡京はやむを得ず辞表を童貫に渡した。帝は詞臣(2)に命じて蔡京に代わって三度上奏して辞職を願い出させ、詔を下してこれに従わせた。

(1)黄州 湖北省黄陂(こうは)区。
(2)詞臣 翰林学士など、文章を書くために侍従する官。

<史臣は言う、蔡京は天性の資質として詐術に長け、弁舌巧みに人を制御し、寵愛を独占し、隙をうかがって自分の地位を固めることを企図し、終始一貫していた。常識的なこだわりを捨てて、国力を使い果たして仕えたと言うべきであろう。帝もまたその奸悪(かんあく)さを見抜いており、たびたび罷免してはまた起用していたが、蔡京と意見の合わぬ者を選んで牽制していた。蔡京は罷免されそうになると帝に謁見して哀れみを乞い、伏せて額を地につけて恥じることがなかった。

燕山の役のとき、蔡京は蔡攸のために詩を書いて送り出した。詩は表向きには行ってはならぬと(ぐう)しているが、その実任務に失敗して解職されることを願っていた。利を見て義を忘れ、兄弟は参星と商星(3)の関係のようになり、父子は秦と越の関係のようになった。

晩年、蔡京の家が政府となり、栄達を望む輩がその門前に集まり、財物や奴隷を贈って高位の官職を求め、綱紀や法を捨てて役に立たないものとした。失敗を心配して様々なところまで気を配り、その根は至るところに張られ、牢として脱することができず、国家の災いとなった。>

(3)参星と商星 この二つの星は東西に相背いて出るため、同時に見ることができない。兄弟の仲が悪いことの例え。