1
高宗紹興十年(1140)二月、劉錡を東京副留守とした。
2
五月、劉錡は順昌(1)で金人を大いに破った。
これ以前、劉錡は東京(開封)に赴き、配下の王彦の八字軍三万七千および殿司(2)の兵三千を率い、臨安から長江をさかのぼって淮河を渡り、渦口に到着した。食事しているとき、暴風により宿営の帳が吹き飛ばされた。劉錡は、「これは賊の兆しだ。慌てふためいている兵を落ち着かせろ。」と言い、急いで進軍するよう命じた。
(1)順昌 もと潁州。安徽省阜陽市。
(2)殿司 禁軍の訓練、宮殿の宿衛を担当する官署。
金人が和議の盟約を破って南下すると聞くと、劉錡と諸将は舟を捨てて陸路を行き、三百里を行軍して順昌城中に着いた。東京がすでに降伏したとの知らせがあり、知府・陳規は劉錡に会って何かよい策はないか尋ねた。劉錡は言った。
「城中に食糧があれば君とともにここを守ることができる。」
「米が数万斛あります。」
「それはいい。」
そして陳規とともに兵を集め城に入り、守禦の計をなした。このとき八字軍は汴に駐留しようとしており、みな妻子を伴って行軍した。
ここに至り、劉錡は諸将に策はないか問うた。諸将は言った。
「金兵とはまともに戦ってはなりません。ここは精鋭を殿とし、歩兵・騎兵で老人と子供を守り、長江の流れに従って江南に戻るべきです。」
劉錡は言った。
「私は留守の職に就いたのだ。いま東京を失ったとはいえ、幸いにも全軍がここまで来た。城があれば守るべきだ。なぜこれを放棄するのだ?わが意はすでに決した。退却を口にする者は斬る!」
「夜叉」を名乗る部将・許清は奮って言った。
「太尉は汴京の副留守を仰せつかり、兵は老人と子供を連れてやってきました。いま敵を避けて逃げるのは簡単なことです。しかし父母妻子を捨てようとすれば忍びなく、ともに行けば敵は翼を広げて攻めてきます。一体どこへ逃げろというのでしょうか?力を尽くして一戦交え、死中に活を求めるのが最上の策です。」
軍議の結論は劉錡の意見と合致した。劉錡は大いに喜び、舟に穴をあけて沈め、不退転の決意を示した。
劉錡は営舎を官署の敷地内に構え、薪を門前に積み、ここを守る兵に言った。
「逃げるとき不利になったら私の営舎を焼け。敵に辱められないようにするのだ。」
そして諸将に門を守るよう命じ、斥候に作戦を説明し、土着の民を募って間諜とした。こうして兵は士気を高め、男子は戦に備え、婦人は剣を磨き、小躍りして言った。
「平時には人はわが八字軍を馬鹿にするが、今日国家のために賊を破り、功を立てるのだ!」
3
このとき城の防備がたいへん心もとなかったため、劉錡は城壁の上で自ら督励した。偽斉軍の造った癡車(巨石・大木を運ぶ車)を持ってきて城壁の上を埋め、民家の戸を外して城壁の周囲を覆った。城外には数千戸の民家があったが、これをすべて焼いた。
六日後、防衛の準備をあらかた終えたとき、敵騎は潁河を渡って城下に到着し、城を包囲した。劉錡は城下にあらかじめ伏兵を置いておき、敵将二人を捕らえた。これを問い詰めると彼らは言った。
「韓将軍(韓常)は白沙渦に宿営している。この城から三十里のところだ。」
劉錡は夜に千余人で韓常の軍を攻撃し、連戦した。殺した者、生け捕りにした者は多数に及んだ。
ほどなくして、金の三路都統・葛王・烏禄が兵三万を率い、龍虎大王の軍勢とともに城下に迫った。劉錡は門を開かせたが、金人は罠があるのではと疑い、近づかなかった。これ以前、劉錡は羊馬垣(城外の小城)を築き、この壁に穴をあけて門とした。ここに至り、許清らとこの城を囲んで陣地を構えた。金人が矢を放つと、みな垣の端から代わるがわる城壁の上に現れ、あるいは垣の上に留まった。劉錡は破敵弓を用い、神臂弓(脚で引く弓)と強弩を装備した部隊を並べ、城壁や垣の門から敵を射撃し、当たらぬ者はなかった。敵はやや退き、歩兵にこれを攻撃させた。川で溺死した者は数え切れず、鉄騎数千を破った。
4
このとき、順昌は包囲されること四日になり、金兵の勢いはますます盛んになり、砦を李村に移した。城から二十里であった。劉錡は驍将・閻充に壮士五百を募り、夜に金の軍営を襲撃させた。夕方、雨が降りそうになり、四方で落雷があった。弁髪の者を見かければこれを皆殺しにし、金兵は十五里退いた。劉錡は再び百人を募って襲撃に行かせようとすると、ある者が兵馬に枚を銜ませるように言った。劉錡は笑って、「枚など必要ない。」と言った。そして竹を折って笛を作らせ、市井の子供が遊んでいるかのようだった。これを各人に一つずつ持たせて合図とし、すぐに金の軍営を襲った。雷があたりを照らせば攻撃し、雷がやめば隠れて動かず、敵は大いに混乱した。笛を吹けばすぐに百人が集まり、金人は宋軍の行動が読めなくなり、終夜戦った。屍が野に満ち、金人は老婆湾に退却した。ウジュは汴でこれを聞くと、騎兵を急行させ十万の兵を率いて来援した。
5
劉錡が諸将を集めて良策はないか尋ねると、ある者が言った。
「今は何度も戦に勝っています。この勢いに乗って舟を用意し、全軍帰還すべきです。」
劉錡は言った。
「朝廷が兵を養うこと十五年、まさに今戦時の役に立っている。まして敵の鋭鋒をくじき、わが軍の勢いは増しているのだ。彼我の兵力の多寡が等しくないのであれば、前進すべきであって退くべきではない。敵の軍営は非常に近く、ウジュもやってきた。わが軍が少しでも動けば敵はその後をつけてくる。そうなれば先の戦いで敵を退けさせたのも意味がなくなる。敵を両淮(淮東・淮西)に侵入させて江南・浙江の民を脅かすことになれば、平素からの報国の志がかえって誤国の罪となろう。」
みな感動して奮い立ち、「ただ太尉の命あるのみ!」と言った。
劉錡は曹成ら二人に言った。
「お前たちには間諜となってもらう。うまくいけば重賞をとらそう。私の言うとおりにすれば、敵はお前たちを殺さないはずだ。これからお前たちを巡視隊とともに行かせる。敵に遭遇したらわざと落馬し、敵に捕らわれるのだ。敵将が何者かと尋ねたら、『太平の辺境の将は舞妓を好み、朝廷は両国を講和させて東京を守らせ、逸楽にふけりたいと考えています。』と答えるのだ。」
ほどなくして、二人は敵に遭遇して捕らえられ、ウジュの尋問に対して劉錡の言葉通りに答えた。ウジュは喜んで、「この城はたやすく破れるぞ。」と言い、鵝車(攻城用の戦車)と投石器を用いようとしなかった。翌日、劉錡が城に登ると二人がやって来るのが見え、縄を伝って城壁をよじ登ろうとしたが、敵は曹成らを枷につないで帰り、文書一巻を渡してきた。劉錡は兵たちの心が乱れるのを恐れ、すぐにこれを焼いた。
ウジュは城下に着くと、諸将が兵を失ったのを責めた。みなは言った。
「南朝の用兵は昔とは比べものになりません。元帥も城に行って自らの目でご覧になってください。」
6
劉錡は耿訓を金軍の軍営に送り、書状で戦うことを約束した。ウジュは怒って言った。
「劉錡はなぜあえて私と戦おうとするのだ!わが軍の力でお前の城を破り、靴のつま先で躍ってみせよう。」
耿訓は言った。
「太尉(劉錡)はただ太子(ウジュ)と戦うことを求めているのではありません。太子は潁河を渡ろうとしないでしょうから、わが軍が浮き橋を五か所作るので、それを渡ったら戦おうと、太尉は言っています。」
ウジュは、
「いいだろう。」
と言い、明日府の官署で会食するよう命じた。
明け方、劉錡は潁河に五つの浮き橋を架け、川の上流と草むらに毒を流し、どんなに喉が渇いても川の水を飲まないよう、兵を戒めた。敵は「長勝軍」を編成して陣を構え、各部隊に族長を置いた。みな先に韓将軍を攻撃するよう願い出たが、劉錡は言った。
「韓常を攻撃して退けても、ウジュの精鋭部隊とはまともに戦えない。定石から言って、まず先にウジュを攻撃すべきだ。ウジュが少しでも動けば、他の部隊はなす術がなくなる。」
このときはたいへん暑く、敵は遠くから来て疲労しており、昼夜鎧を脱がず、人馬ともに飢えと渇きに苦しみ、水草を食した者は病気になり、困窮していた。一方、劉錡の兵は落ち着いており、輪番で休息し、明け方の空気は涼しく、兵を留めて動かなかった。
未(午後1~3時)・申(午後3~5時)の刻になり、敵は疲れて気力も衰えていたが、数百人を軍営の西門から出撃させて接戦し、数千人を南門から出撃させた。大声を出すのを禁じ、斧を持って宋軍を襲った。宋軍の統制官・趙樽、韓直は身に数本の矢が当たったが戦うのをやめようとせず、兵は死力を尽くして戦い、敵陣に入り、刀と斧が入り乱れ、敵は大敗した。夕方、大雨が降り、平地は一尺余りの水が溜まった。翌日、ウジュは軍営を撤去して逃げ去った。劉錡は兵に追撃させ、敵の死者は数万に及んだ。
7
戦闘中、ウジュは白の戦袍(戦装束)を着て近衛兵三千で督戦した。兵はみな重い鎧を身につけて「鉄浮図」と号し、鉄の兜をかぶり、兜には長い鍔がついていた。三人で一組をなして皮の紐でつながり、一歩進むごとに拒馬でこれを守り、人が一歩進むと拒馬もまた進み、後退はできなかった。官軍は槍で兜を突いて脱がせ、大斧で腕を断ち、首を砕いた。敵はまた鉄騎を左右の翼に分けて「拐子馬」と号し、女真の兵で構成されていた。また、「長勝軍」と号して専ら精強な部隊を攻撃した。戦たけなわの頃を過ぎてからこれを投入したがまったく前進せず、ここに至り劉錡の軍に殺された。
辰の刻(午前7~9時)から申(午後3~5時)の刻にかけて、敵は敗北した。劉錡は拒馬で敵を防ぎ、少し休憩した。城壁の太鼓の音はやむことなく、食事が出された。座して食事する兵士たちは平時のようで、敵は後ずさって近づかなかった。食事が終わると拒馬を撤去し、敵陣深くに入って攻撃し、大いにこれを破った。捨てられた屍と倒れた馬の血と肉が重なり合い、車と旗、武器と鎧が山のように積み重なっていた。
ウジュは平素から頼みにしている精鋭の十の七、八を失った。陳州(1)に着くと、ウジュは諸将の罪を数え上げた。韓常以下みな鞭で打たれ、汴に帰った。
しばらくして洪皓が金から密奏し、「順昌の勝利により、金人は恐れをなし、燕にある宝物を北に移しました。これは燕以南の地を捨てようとしているのです。」と伝えた。それゆえ、このとき諸将が力を合わせて追撃すれば、ウジュを捕らえ汴京を取り戻すことができると人々は考えた。しかし官軍はすぐに帰還してしまい、自ら機会を失った。たいへん惜しむべきであった。
(1)陳州 河南省淮陽区。
8
十一年(1141)春正月十五日、金のウジュは寿春(1)を侵した。
これ以前、ウジュは順昌の戦いに敗れた後、京師・亳州に留まり、許州(2)・鄭州(3)に出入りしていた。そして両河の軍と以前からの部隊十余万を集結し、再起を図った。秦檜が軍を帰還させたのを知ると、挙兵して寿春を攻め落とし、淮河を渡り、廬州を落とした。
(1)寿春 安徽省寿県。
(2)許州 潁昌府。河南省許昌市。
(3)鄭州 河南省鄭州市。
9
二月四日、張俊・楊沂中を淮西に向かわせた。
このとき、ウジュは合肥から歴陽(1)に向かい、騎兵は長江に着いた。張俊は王徳に長江を渡らせようとしたが、王徳は言った。
「淮河は長江を遮蔽して守るものです。淮河を放棄して守らなければ、それは『脣亡歯寒(2)』というものです。敵は数千里の遠くから来ており、糧道は確保できていません。敵がまだ淮河を渡り切っていないうちに攻撃すれば、士気を失わせることができます。もし攻撃が間に合わず敵を安心させてしまえば、淮河はわが国の領有ではなくなってしまいます。」
このため王徳に采石(3)から長江を渡らせることとし、張俊は軍を監督してこれに続き、長江の近くに宿営した。このとき淮河はすでに失われていたが、王徳は、
「明日の朝は歴陽で会食していることでしょう。」
と言い、夜には和州(歴陽)を落とし、明け方に張俊を迎え入れた。ウジュは昭関(4)に退却した。
(1)歴陽 安徽省和県。
(2)脣亡歯寒 どちらか一方がなくなると、もう一方も危うくなること。
(3)采石 安徽省馬鞍山市付近。
(4)昭関 安徽省和県の西。
10
六日、金人は和州を奪い返しに来たが、張俊はこれを破った。
七日、王徳は金人を含山(1)で破った。
十四日、王徳・田師中は含山および昭関を取った。
十五日、崔皋は金人を舒城(2)で破った。
(1)含山 安徽省和県の西。
(2)舒城 安徽省舒城県。
11
十八日、楊沂中・劉錡はウジュの軍を柘皋(1)で大いに破った。
これ以前、劉錡は太平州(2)から長江を渡り、張俊・楊沂中と合流したが、このとき廬州はすでに陥落していた。このため劉錡は関師古とともに東関の険に拠って敵を防ぎ、兵を引き連れて清渓に出て、二つの戦いに勝利した。
ウジュは、柘皋の地形は平坦なため騎兵を用いるのに利があると考え、ここに駐留した。劉錡は兵を進め、ウジュと石梁河を挟んで陣を構えた。この川は巣湖(3)に通じ、幅は二丈だった。劉錡は薪を運んで橋を作るよう命じ、間もなくして完成した。そして二、三の部隊を送り、橋を越えたところに槍を持って伏せるようにした。また、人をやって張俊・楊沂中の軍と合流させた。
(1)柘皋 安徽省巣湖市の北。
(2)太平州 安徽省当塗県。
(3)巣湖 安徽省巣湖市の西にある湖。
翌日、楊沂中および王徳・田師中・張子蓋の諸軍がともにやってきたが、張俊だけが遅れた。劉錡と諸将は軍を三つに分けて並進し、川を渡り金人を攻撃した。田師中は張俊の到着を待ちたいと言ったが、王徳は言った。
「今が絶好の機会だ。待っていられるか!」
そして劉錡とともに馬に乗ってわれ先に敵を迎撃に行き、楊沂中がこれに続いた。ウジュは鉄騎十余万を二つに分け、王徳と道を挟んで陣を構えた。王徳は言った。
「賊の右の陣は守りが堅い。私が最初にこれを攻めよう。」
王徳は軍を率いて渡河し、一番槍をつけた。金軍の一族長が鎧を身にまとい馬を躍らせて出戦してきた。王徳は弓を引き、一矢にしてこれを倒した。王徳は勝ちに乗じて大きく叫びながら突撃し、諸軍は太鼓を叩いてこれに続いた。金人は拐子馬の戦法を用いて両翼から進み、王徳は兵を率いて激しく戦った。楊沂中は言った。
「敵は弓矢を頼みにしている。わが軍の一部はこれに屈している。」
そこでみなに長い斧を持って壁のようにして進ませると、金軍は大敗した。王徳と劉錡らはこれを追撃し、東山で再度破った。敵は宋軍を望み見て驚き、「あれは順昌で見た旗だ!」と言い、紫金山に逃げた。
この戦いで将士九百人を失ったが、金人の死者は万をもって数えた。ほどなくして、ウジュは再び自ら兵を率いて店歩で宋軍を迎え撃った。楊沂中らはこれを破り、勝ちに乗じて北へ追撃し、廬州を奪還した。
12
三月六日、張俊・楊沂中・劉錡は詔を受け取り、軍を帰還させた。
帰路を行くことわずか数里、金人が濠州(1)を急遽攻めようとしているとの間諜の報告があった。張俊は帰還してくる楊沂中・劉錡を迎え、黄連埠(2)で合流し、ともに濠州の救援に向かった。このとき濠州から六十里離れており、濠州の南の城がすでに陥落していた。張俊は諸将を呼び集めて、これへの対処を話し合った。楊沂中は戦うことを主張したが、劉錡は言った。
「本来ならば濠州に救援に行くべきですが、濠州はすでに失いました。退却して険阻な地にこもり、後図をはかるのが最良の策です。」
諸将は「その通りだ!」と言い、三将は鼎の脚のような形で宿営した。
(1)濠州 安徽省蚌埠市。
(2)黄連埠 安徽省蚌埠市の南東。
ある者が敵兵は去ったと言うと、劉錡は張俊に言った。
「敵は城を取ったのにすぐ退却しました。何か策があるに違いありません。兵を密に配置してこれに備えるべきです。」
張俊は聞き入れず、むしろ功績を立てたいと思い、劉錡には濠州に行くなと命じ、楊沂中と王徳に神勇(部隊名)の歩兵・騎兵六万を率いてただちに濠州へ向かわせた。陣がまだ整っていないうちに、煙が城中から上り、金軍の伏せていた騎兵万余が両翼から出戦してきた。楊沂中は王徳に、
「どうしますか?」
と尋ねた。王徳は言った。
「私はちっぽけな将だ。相談するまでもない。」
楊沂中は鞭を持って兵たちに言った。
「回れ!」
諸軍はこれを逃げろという意味だと思い、列を乱して南に向かって逃げ、紀律を取り戻すことはなかった。金人はこれを追撃し、死者はたいへん多かった。韓世忠が軍を率いて城下まで来たが、やはり不利とみて退却した。楊沂中は滁州に、張俊の軍は宣化(3)に、劉錡の軍は藕塘(4)に入った。
(3)宣化 江蘇省南京市の北西。
(4)藕塘 安徽省滁州市の西。
食事をとっていると張俊がやってきて、言った。
「敵兵が近づいている。どうするのだ?」
劉錡は言った。
「楊宣撫の兵はどこにいるのですか?」
「利を失って帰った。」
「恐れなく言えば、歩兵でここを守らせていただくようお願いします。宣撫はわれわれがどうするか見ているのです。」
劉錡の部下はみな言った。
「両大帥の軍はもう長江を渡ったのです。われわれの軍だけがなぜ苦しんで戦っているのですか?」
劉錡は言った。
「順昌は孤城で、近くに赤子の助けもなく、率いる兵は二万に満たなかったが、それでも勝つことができた。ましてや今は地の利を得て、精鋭もそろっているのだ!」
そして三か所に伏兵を置いて金人を待ち構えた。するとすぐに張俊は劉錡に言った。
「間諜はでたらめを言っている。(金軍ではなく)戚方の殿軍がいるだけだ。」
このためみな本営に帰った。張俊は建康、劉錡は太平州、楊沂中は臨安へ帰った。ウジュも淮河を渡って北へ去った。これ以後官軍は出撃することがないとみたからであろう。