巻59 高宗嗣統

Last-modified: 2023-12-12 (火) 09:00:49

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欽宗(きんそう)靖康元年(1126)冬十月七日、馮澥(ふうかい)を康王の副使として金の斡離不(オリブ)の軍営に送った。

これ以前、王雲が真定(1)のオリブの軍営に行った。王雲は従者を先に帰らせ、金人は康王が軍営に来るべきであり、講和について話し合うべきだと述べていると伝えさせた。金の使者・王汭(おうぜい)らもやって来て、帝は馮澥を康王の副使として派遣した。王雲が帰還すると、王雲を資正殿学士として康王の副使とした。

康王は滑州(2)(しゅん)(3)から磁州(4)に向かった。守臣の宗沢が出迎えて言った。
「粛王は一旦出て行ったきり帰ってきませんでした。今、金は大王をだまして軍営に向かわせていますが、金の兵は迫っています。軍営に行くことに何の益があるというのでしょう?行ってはなりません。」
康王は嘉応神祠(かおうしんし)に参拝し、王雲があとに続いた。民が道を遮って北へ行かないよう康王を(いさ)め、
「真の奸賊(かんぞく)だ!」
と、大声で王雲を指さして言い、王雲を捕らえて殺した。

(1)真定 河北省正定県。
(2)滑州 河南省滑県の東。
(3)濬州 河南省浚(しゅん)県。
(4)磁州 河北省磁県。

オリブは黄河を渡り、遊撃隊が日々磁州城下に行き、康王の所在を追跡した。知相州(5)汪伯彦(おうはくげん)は絹の書状で相州に来るよう康王に求め、(えびら)を身につけ、兵を引き連れて黄河のほとりで康王を迎えた。康王は相州に着くと汪伯彦をねぎらって言った。
「いつか陛下に会うことがあれば、あなたを京兆(いん)(開封府長官)に推薦しよう。」
汪伯彦はこれより康王の知遇を得た。

相州の人・岳飛もまた劉浩(りゅうこう)を通じて康王に謁見した。康王は岳飛に賊の吉倩(きっせい)を帰順させた。吉倩が降ると、岳飛に承信郎を与えた。

今回王雲が死ななければ、康王は金の軍営に赴き、混乱が収まらなかっただろうと、みなが言った。

(5)相州 河南省安陽市。

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閏月(じゅんげつ)、殿中侍御史・胡唐老は言った。
「康王が磁州へ使者に赴いたところ、民に引き留められたのは天意であります。ここは康王を大元帥とし、天下の兵を率いて援軍とするようお願いします。」
何㮚(かりつ)もこの意見に賛成し、密かに詔を起草して草稿を献上した。帝は決死の士を募り、秦仔(しんし)ら四人を得て、(ろう)で固めた詔を持たせて相州に行かせた。そして康王を兵馬大元帥、知中山府(1)陳遘(ちんこう)を元帥、汪伯彦(おうはくげん)・宗沢を副元帥とし、河北の兵を起こして都を守らせることとした。

秦仔が相州に着くと、頭髪の中から詔を取り出した。康王はこれを読んで嗚咽(おえつ)し、民は感動した。

(1)中山府 河北省定県。

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十二月、康王は相州に大元帥府を開いた。数万人の兵を擁し、五軍に分けて進軍し、大名に駐留した。宗沢は二千人で金人と戦い、三十余の(とりで)を破り、氷を踏んで黄河を渡り、康王に謁見して言った。
「都は長らく包囲されています。援軍は遅れてはなりません。」
康王はこれにうなずいた。

知信徳府(1)梁揚祖(りょうようそ)が三千人を率いてやって来ると、張浚(ちょうしゅん)苗傅(びょうふ)楊沂中(ようぎちゅう)がその指揮下におり、兵は威容を誇った。このとき帝は曹輔(そうほ)(ろう)で固めた詔を届けさせた。それにはこうあった。
「金人は城に登って下りず、講和を話し合おうとしている。都城近くに兵を留め、動いてはならない。」
汪伯彦(おうはくげん)らはみなこれを信じた。しかし、宗沢はひとり言った。
「金人はわれわれをだましているのであり、わが軍を懐柔しようとしているのです。陛下の望みは援軍であり、ただ飢えるのを待つことはありません。急ぎ軍を率いて澶淵(せんえん)(2)に行き、すぐに砦を築き、都の包囲を解くのです。万一敵に考えがあっても、わが兵がすでに城下におります。」
汪伯彦はこの意見を非難し、宗沢を先に行かせるよう康王に勧めた。康王は宗沢を澶淵に行かせた。これより宗沢は大元帥府の政務に関与できなくなった。耿南仲(こうなんちゅう)と汪伯彦は軍を東平(3)に移すよう要請した。これに従った。

(1)信徳府 河北省邢台(けいだい)市。
(2)澶淵 河南省濮陽(ぼくよう)市。
(3)東平 山東省東平県。

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二年(1127)春正月、宗沢は大名から開徳(澶淵(せんえん))に行き、この間金人と十三度戦ってすべて勝利し、書状により諸道の兵を都に集めるよう康王に勧めた。また、北道総管・趙野(ちょうや)、河東・河北路宣撫(せんぶ)范訥(はんとつ)、知興仁府(1)曽楙(そうぼう)に書状を送り援軍を送るよう促したが、三人とも宗沢は正気でないとして答えなかった。

このため宗沢は孤軍で進み、衛州(2)の南に到着した。先鋒隊が前方に金の軍営があると言った。宗沢は兵を率いて前に進んで戦ってこれを破り、転戦して東に向かった。敵は新手を繰り出し、宗沢の将・王孝忠が戦死し、前後みな敵の(とりで)に囲まれていた。宗沢は命令して言った。
「今日進むも退()くも死あるのみだ。死中に活を求める以外にない。」
士卒らは死を覚悟し、一で百に当たり、斬首すること数千、金人は大いに敗れ、数十里退いた。宗沢は敵は数が多く必ず勢いを盛り返すであろうと考え、夕方に軍営を移した。金人は夜にやって来たが、軍営がもぬけの殻になっていて大いに驚き、これより宗沢を恐れて出戦しようとしなかった。宗沢はその不意を突き、兵を率いて黄河を渡り、金軍を襲撃して破った。

(1)興仁府 山東省定陶区の西。
(2)衛州 河南省衛輝市。

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二月二十日、康王が済州(1)に到着した。

康王は兵八万を有しており、済・(ぼく)(2)の諸州に分駐させていた。高陽関(3)安撫使(あんぶし)・黄潜善、総管・楊惟忠(よういちゅう)も兵数千を従えて東平に着き、康王は真定総管・王淵(おうえん)に三千人を率いて救援させた。金人はこれを聞き、兵と中書舎人・張澂(ちょうちょう)に、帝の(ろう)で封じた詔を持たせて汴京(べんけい)から康王のもとへ行かせ、兵を副元帥に預け汴京に帰るよう命じた。康王がどうすべきか側近に問うと、後軍統制・張俊(ちょうしゅん)が言った。
「これは金人の詐術です。今、大王は都の外におられ、天の恵みというべきです。行く必要はありません。」
そして兵を進めるよう求めた。康王は済州に向かった。

金人が五千騎を送って康王を捕らえようと企んでいると、呂好問がこれを知り、人をやって書状で康王に言った。
「大王の兵は、戦えるようであれば金人を迎え撃つべきであり、そうでなくば遠くへ逃れるべきです。」

(1)済州 山東省済寧市。
(2)濮州 山東省鄄城(けんじょう)県。
(3)高陽関 河北省河間市。

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夏四月、金人は二帝を北へ連れ去った。

宗沢は衛州でこれを聞き、軍を率いて滑州に向かい、黎陽(1)を通って大名に行き、小道から黄河を渡り、金人の帰路で待ち構えて二帝を迎えて帰還させようと思ったが、勤王の兵卒が集まらず、実行できなかった。

(1)黎陽 河南省浚(しゅん)県。

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張邦昌(ちょうほうしょう)は元祐皇后・(もう)氏に、禁中に住んで垂簾(すいれん)聴政を行うよう求めた。皇后は馮澥(ふうかい)を奉迎使とし、謝克家と康王の(しゅうと)の忠州防禦使・韋淵(いえん)に「大宋受命宝」(玉璽)を持って済州に行かせ、康王に帝位につくよう勧めた。謝克家らが到着すると、康王は慟哭(どうこく)して詔を受け、謝克家を都に帰らせて即位の儀礼に必要なものを用意させた。

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皇后は直筆の命令を内外に告げた。
「最近敵国が挙兵し、都城が失われた。雲気が宮殿をめぐり、二帝が連れ去られると偽りの言説がわが国に及び、三霊(天地人)を改めて占うこととなった。みな中原に主なきことを恐れ、従前から仕えている大臣を朝廷に臨ませた。道理としては死をもってと言葉にするが、実際に危機が迫れば救済はかりそめのものにとどまらず、内は今にも亡くなりそうな民の命を救い、外は隣国の勢いを緩め、わが国を安定させ、一城の災難を免れようとするものである。

私は病弱の身をもって二帝が連れ去られた中に立ち、後宮に迎えられ位号を与えられ、欽宗(きんそう)帰還の式典を挙げ、靖康の復興の心を表すものである。命運の屯(()の名)を吟じ、国家の覆滅を座視してひとり自省し、涙を流して何に従おうというのか。太祖の創業に思いを致すに、天からわれわれを慈しまれ、二百年の間、人は戦を知らず、九つの君主に帝位が継がれ、代々徳を失うことがなかった。わが一族に二帝が北へ連れ去られたという過ちがあるとはいえ、天はわれわれに味方するであろうという心を持ち続けている。

賢王(康王)に目をかけて都の近くに住まわせ、みなの要請に従って政権を受け継がせ、康王の屋敷の旧領を受け継がせ、宋朝の伝統を受け継がせることとした。漢家の災厄は十世に及び、光武の中興が行われるべくして行われた。献公の子は九人だったが、ただ重耳(ちょうじ)がいるのみだった。これはただ天意によるものであって、人の考えなど入る余地もない。なおも内外の協力を期待し、安危の計を定め、(しば)しの休息を得て太平にとどまることを願う。これを周囲に布告し、わが意を明らかにするものである。」

済州の長老たちが宋の軍門に来て言った。
「各地の城中の火は天に注がれています。王には皇帝の位についていただきたく存じます。」
宗沢と権応天府・朱勝非が康王のもとに来て言った。
南京(なんけい)は太祖の創業の地であり、各地の中でも漕運(そううん)が行いやすい土地です。」
康王は意を決して応天府に向かった。康王が滑州を出発したとき、鄜延(ふえん)副総管・劉光世、西道都総管・王襄(おうじょう)宣撫司(せんぶし)統制官・韓世忠が軍を率いて合流した。

康王が応天府に到着すると、府の門の左に壇を築き、五月一日をもって即位し、靖康二年を建炎元年と改めることとした。

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高宗建炎元年(1127)五月一日、帝は登壇して冊命(さくめい)を受け終わると、慟哭(どうこく)し二帝の方向に拝礼し、応天府で即位した。

大赦を行い、張邦昌(ちょうほうしょう)および金国に仕えていた人を一切不問に付した。しかし、蔡京(さいけい)・童貫・朱勔(しゅべん)李彦(りげん)孟昌齢(もうしょうれい)梁師成(りょうしせい)譚稹(たんしん)の子孫は任用しなかった。

この日、元祐皇后が東京(とうけい)(開封)で御簾(みす)を取り払った。

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二日、靖康帝を尊んで孝慈淵聖(えんせい)皇帝とした。

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黄潜善を中書侍郎、汪伯彦(おうはくげん)を同知枢密院事とした。

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元祐皇后を尊んで元祐太后とした。

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生母・()氏を尊んで宣和皇后とし、夫人・(けい)氏を皇后とした。

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六日、呂好問を尚書右丞(うじょう)とした。

これ以前、元祐太后は呂好問に直筆の命令書を持たせて応天府に向かわせた。帝はこれをねぎらって言った。
「わが国が無事なのはそなたのお陰だ。」
このためこの命が下った。

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王淵(おうえん)楊惟忠(よういちゅう)は河北の兵、劉光世は陝西(せんせい)の兵、張俊(ちょうしゅん)苗傅(びょうふ)は元帥府の兵と投降兵を率いて行在(あんざい)にいたが、統一がとれていなかった。このため御営司を置いて行幸を管理し、軍政を統一した。

黄潜善に御営使を兼務させ、汪伯彦(おうはくげん)がこれを補佐し、王淵を都統制とし、劉光世に高宗一行の事務を管理させた。韓世忠を左軍統制、張俊を前軍統制、楊惟忠を主管殿前公事とした。