巻50 花石綱之役

Last-modified: 2023-08-25 (金) 11:24:33

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徽宗(きそう)崇寧元年(1102)春三月、宦者童貫に命じて蘇州・(こう)州に専門の官署を置き、器物を製作させることとした。様々な牙・角・(さい)の角・玉・金・銀・竹・藤・絵画・漆器・彫刻・織物が、工夫を凝らして作られた。各種芸術品の工匠が日々数千人使役され、必要な材料は民から徴発され、民力は大変困窮した。

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三年(1104)二月、天下の鉱物と金銀をことごとく宮中の蔵に納めさせた。

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四年(1105)十一月、朱勔(しゅべん)に蘇州・(こう)州応奉局および蘇州の花石綱を統括させた。

これ以前、蔡京が蘇州に来たとき、ここに僧寺を建立しようと巨額の資金を集めたが、僧は言った。
「寺を完成させたいのならば、地元有力者の朱沖(しゅちゅう)でなければできないでしょう。」
蔡京は朱沖を呼び出して話し合った。数日後、朱沖は土地を計測しに寺まで来るよう蔡京に言った。蔡京が寺に来ると大木数千本が広場に積まれていた。蔡京は朱沖の能力を買った。翌年、蔡京が朝廷に帰ると朱沖の子朱勔を伴い、父子の姓名を童貫の軍籍に入れ、官職を与えた。

帝はこのとき花石(珍花奇石)に関心を持っており、蔡京は朱沖に浙江の珍品を献上するよう促した。初めに黄楊(こうよう)(彫刻の材料となる木)が献上され、帝はこれを褒めた。この後、毎年五、六品が献上され、ここに至りだんだんとその数が多くなり、(わい)河・(べん)河では献上品を運ぶ船の頭と尾が相接するほどになり、「花石綱」と称されるようになった。応奉局を蘇州に置き、朱勔に統括させた。

朱勔は国庫を自分の財布のように扱い、毎回十万・百万の銭を引き出していた。隅々まで珍品を探し求め、隠しておく場所もなかった。民の家に一石一木でも鑑賞に堪えるものがあれば、すぐに兵を家に立ち入らせ、黄封(差し押さえを意味する札)を貼って印とし、御前の物として監視させた。少しでも不満な態度を見せれば大不恭罪に問われた。物を持ち出すときは必ず徹底的に家探しした。不幸にも少しでも珍しい物があれば、みなこれを不吉であるとし、突然の差し押さえを恐れるばかりだった。差し押さえに遭った民は、中流の家ならば破産し、あるいは子女を売って損失の穴埋めをした。山を掘り石を運び、厳しく監督し、誰も入ったことのない所でも手段を尽くして珍品を手に入れ、手に入れるまでやめなかった。諸路の食糧の輸送が停滞し、商船にも手を広げて献上に足る品を差し出させ、あるいは取り調べた。船員はこの勢いに乗じて貪欲になり、州県に強い態度に出て、道行く人々は目を見張った。

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朱勔(しゅべん)の権勢は人を圧倒し、よこしまな者や卑しい者たちが屋敷の門前に集まって仕え、直秘閣から殿学士まで思い通りに手に入れることができた。朱勔におもねるのをよしとしない者は(きびす)を返して職を去った。世はこれを「東南小朝廷」と呼んだ。

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大観四年(1110)閏八月、張閣を知(こう)州とし、花石綱の統括を兼任させた。

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政和四年(1114)八月、新たに延福宮を建てた。宮殿は禁裏の北の拱宸(きょうしん)門の外側にあった。

これ以前、蔡京は宮殿を建てて帝に媚びようと考え、内侍の童貫・楊戩(ようせん)賈詳(かしょう)何訢(かきん)藍従熙(らんじゅうき)の五人を呼び出し、禁裏の狭さをそれとなく訴えさせた。そして五人は延福の旧名にちなんで新たな宮殿を建てるよう求めた。五人は工事を分担し、およそ目の届くところは豪華で壮観な形になるよう設計し、以前と同じものを建てないようにした。宮殿が完成すると「延福五位」と号した。

東西に宮室を配し、南北の部屋はやや小さく、東に景龍門、西に天波門を構え、その間に楼閣や亭、高台が相望むように建っていた。池を掘って海に見立て、泉をつくって湖に見立てた。鶴・鹿・羽に模様のある鳥・奇獣・孔雀を柵で囲い、千を数える動物がいた。美しい花や名木を集めた。変わった形の石や山と谷があり、もの静かで天然のもののようであり、そこは現実からかけ離れていた。

宮殿が完成すると、帝は自ら文章を書き記した。その後住宅や茶館、酒店を築いた。毎年冬至を過ぎると明かりをつけ、東華門より北は夜間の外出を許し、民や商店を道の両脇に住まわせ、博打(ばくち)や飲酒を勧め、上元(正月十五日)までこれを続けた。これを「先賞」といった。次いで旧城をまたぐように宮殿を修築し、「延福第六位」と号した。再び城の外に堀を築いて二本の橋を架け、橋の下に石を敷き詰めて舟を通らせた。橋の上の人は外から自由に通ることを許した。これを景龍江と名付けた。この堀の両側には奇花珍木が植えられ、宮殿が向かい合って建っていた。

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七年(1117)秋七月、提挙御前人船所を置いた。

東南(蘇州・(こう)州)の監司、地方官、広東・広西の市舶司には応奉局があり、命令もないのに都へ品物を送り、宦者と相談のうえ献上した。霊壁(1)・太湖(2)慈谿(じけい)(3)・武康(4)に産する石、浙東・浙西の変わった形の竹や花、海産物、福建の茘枝(れいし)橄欖(かんらん)・龍眼、南海の椰子(やし)の実、登州(5)(らい)(6)の文石(模様のある石)、湖北・湖南の文竹(模様のある竹)、四川の珍しい果樹は、みな海を越え川を渡り、橋を壊し城壁に穴をあけて届けられ、これらを植えていった。これら珍味や草木は急ぎ足で運ばれ、大変な距離でも数日で届けられ、色や香りが失われることはなかった。

(1)霊壁 安徽省霊壁県。
(2)太湖 蘇州の西にある湖。
(3)慈谿 浙江省寧波市の北。
(4)武康 浙江省湖州市の南。
(5)登州 山東省蓬莱(ほうらい)区。
(6)莱州 山東省掖(えき)県。

ここに至り、蔡京は言った。
「陛下は声を荒げる小人のような心で天に仕えることもなく、尊んでいるのは山林にある無用な物で、人が捨てている物であります。しかし、当局の命令実行が行き過ぎ、混乱をきたしております。」
そして提挙(わい)(せつ)人船所を置き、内侍・鄧文誥(とうぶんこう)にこれを統括させるよう要請した。詔を下し、以後必要なものがあれば帝が命令を下して数回献上させ、それ以上みだりに献上するのを許さないこととした。表向きは民に利益をもたらすといわれたが、実際は以前と変わらず害をもたらすものであった。

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十二月、万歳山の造営を始めた。

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宣和三年(1121)春正月、童貫が蘇州・(こう)州応奉局と花石綱の統括を辞めた。

これ以前、帝は東南のことを童貫に託して言った。
「急な用件があれば、御筆(皇帝直筆の命令)により処理するのだ。」
童貫が呉に着くと、民が花石綱の負担に苦しんでいるのを目の当たりにした。そこで童貫は同僚の董耘(とううん)に帝直筆の詔を書かせて自分を罪に問い、各所の応奉造作局と御前花石綱運、木石や顔料の専売所を廃止した。帝も朱勔(しゅべん)の父・子・弟・甥を左遷した。呉の民は大いに喜んだ。

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閏五月、再び応奉司を置いた。

方臘(ほうろう) の乱が平定されると、王黼(おうほ)は帝に言った。
「士大夫はよこしまな心を抱いて悔い改めず、応奉司のことをそしっています。どうか応奉司を置いて私が統括し、よこしまな考えを退けさせていただきたく存じます。」
これに従った。このため、宮廷のことは梁師成に統括させることとし、各所の応奉局を復活させ、運送に従事する兵を強制的に用いたが、戸部はこれを問いただすことはしなかった。以後、各地の珍品で二人の家が満たされ、尚方(1)に納入したのは十分の一に過ぎなかった。

(1)尚方 宮廷の器物を管理する官署。

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四年(1122)十二月、万歳山が完成し、名を艮岳(こんがく)と改めた。

山の周囲は十余里、頂上は一峰九十歩であり、そこには介亭があった。東と南の二つの峰があり、南山に接した。山の東には萼緑華堂(がくりょくかどう)・書館・八仙館・紫石巖(しせきがん)棲真嶝(せいしんとう)・覧秀軒・龍吟堂があった。山の南は寿山で、二つの峰が並び立ち、雁池(がんち)噰噰(ようよう)亭があった。山の西には薬寮・西荘・巣雲亭・白龍沜(はくりゅうはん)・濯龍峡・蟠秀(はんしゅう)・練光・跨雲(こうん)亭・羅漢巖があった。

また西に万松嶺(ばんしょうれい)があり、中ほどに倚翠(いすい)楼があった。上下には二つの関が置かれた。関の下は平地で大きな沼が掘られていた。沼の中には二つの中州(なかす)がつくられ、東に蘆渚(ろしょ)浮陽亭、西に梅渚雪浪亭が置かれた。西の川に鳳池(ほうち)をつくり、東の川には鴈池(がんち)をつくった。一つの館を二つに分け、東を流碧(りゅうへき)館、西を環山館といい、巣鳳閣・三秀堂があった。東の池の後ろには揮雪庁があった。ここから山道を上ると介亭に着いた。亭の左には極目亭・蕭森(しょうしん)亭があり、右には麗雲亭があった。山の中ほどからは北に景龍江を望むことができ、この川の上流は山間に注いだ。西に行くと潄瓊(そうけい)軒があった。

また岩の間には練丹凝観・圜山(かんざん)亭があり、その下には川辺が見え、高陽酒肆(しゅし)清澌(せいし)閣があった。北岸には勝筠菴(しょういんあん)躡雲(じょううん)台・蕭閑館・飛岑(ひしん)亭があった。支流には別に山荘をつくり、囲むような形の川をつくった。また南山の外に小山をつくり、横幅二里、芙蓉(ふよう)城といい、精妙な装飾を施していた。景龍江のほとりには館が立ち並び、精妙に飾り立てていた。その北は瑤華(ようか)宮の火災により、その地を大きな池につくり変え、曲江池と名付けた。そこには蓬壺(ほうこ)堂があり、東には封丘門があった。その西は天波門橋から水を引いて西に流し、半里近くのところで南に折れ、また北に折れた。南に折れた流れは閶闔(しょうこう)門を過ぎ、上下二つの流れとなり、茂徳帝姫(ていき)の邸宅を通った。北に折れた流れは四、五里に及び、龍徳宮のあたりを流れた。

艮岳が完成すると、帝は自ら『艮岳記』を著した。山が国の(うしとら)の位置にあったのが由来である。

これ以前、朱勔(しゅべん)は太湖で石を取った。その石の高さと幅は数丈に及び、大きい船に載せ、千の人足に()かせ、城を穿(うが)ち橋を断ち、(せき)を壊し城門を開け、数か月かかって届けられた。このとき燕の地を手に入れたため、これにちなんで昭功敷慶神運石と号し、万歳山に立てた。また、絳霄(こうしょう)楼を建てた。高くそびえ立ち、工芸の粋を尽くしていた。以後、宦官らは建築をやめず、山林と谷は日々高く深くなってゆき、(あずまや)や楼観は記しきれないほどになった。また、金の芝が万寿峰に生え、名を寿岳と改めた。

権勢ある宦官は競って新味のあることをしようとしたが、これまでの建築物は十分に広大壮麗であり、各地から献上される珍鳥を飼いならせないことに悩んでいた。市井(しせい)の人に薛翁(せつおう)という者がおり、動物を飼いならして劇場のようにしていた。宦官らはこの者に万歳山で鳥を使った見世物をさせることを童貫に願い出て許された。このため帝は日々衛兵を集めて露払いさせ、黄蓋(こうがい)(黄色い傘)を張って遊びに出かけた。見世物劇場に着くと大きな皿に肉を盛り米をあぶり、薛翁が鳥の鳴き声を真似ると、鳥たちがそれに続いた。鳥たちが餌を食べ飽きると、自由に飛び回るのを許した。ひと月余りで庭園の鳥がかき集められ、声真似がなくても集まるようになり、ますます飼いならされ、鞭の前にあっても恐れることがなかった。専門の部局を置いて来儀所と命名し、各地の動物を集めて官署を置いて統括させた。ある日、帝がこの山に(みゆき)したとき、道を掃き清める音が聞こえ、数万の鳥が群がって飛んでいるのが見えた。薛翁が先に立って牙牌(がはい)(官員の身分証)を持って道の左側に立って言った。
「万歳山の瑞鳥(ずいちょう)が陛下をお迎えに上がりました。」
帝は思いもよらないことに大変喜び、薛翁に官職を与え、多くの贈り物をした。