巻10 金匱之盟

Last-modified: 2024-05-10 (金) 12:41:45

1 太后の憂い


太祖建隆元年(960)二月五日、尊母(1)()氏が皇太后となった。太后は定州(2)安喜の人で、家を厳しく治めていた。五人の子を産み、匡済・匡胤・光義・光美・匡賛といい、匡済・匡賛は早くに亡くなった。
 
陳橋の変(趙匡胤による後周の政権簒奪)のとき、太后はこれを聞いて、「わが子にはもとより大志がありましたが、いまそれを果たしたのです。」と言った。尊ばれるに及んで皇太后となり、帝は殿上に拝したが、太后は愁然として楽しまなかった。左右の者が進んで、「母は子を貴しとすると聞きます。いま子が天子となられましたのに、なぜ楽しまないのですか。」と言った。太后は、「君たることは難しいと言います。天子は身を庶民の上におき、もし政治をとってうまくゆけば、その地位は尊ばれるでしょう。うまく治められなければ、匹夫たることを求められても、それすら覚束(おぼつか)ないでしょう。それが気がかりなのです。」と言った。帝は再拝して、「謹んで教えを承ります。」と言った。
 
(1)尊母 母の敬称。
(2)定州 河北省定県。

2 太后の崩御


二年(961)六月二日、皇太后杜氏が崩御した。
 
太后が病に伏せっているとき、帝は側に侍り薬を与え、離れることがなかった。病が(あらた)まると、太后は趙普を招き入れて遺命を受けさせ、帝に問うた。
「お前が天下を得られたのはなぜかわかるか。」
「みな父祖と太后の恩恵によるものです。」
「そうではない。(後周の)(さい)氏が幼児に天下を治めさせていたからに過ぎぬ。もし周に年長の君主がおれば、お前はこの地位を得られただろうか。お前の百年の後にわたり、帝位は光義に伝え、光義は光美に伝え、光美は徳昭に伝えよ。四海は広く、年長の君主を立てられるのは、国家の幸いである。」
帝は泣いて、「お教えの通りにいたします。」と言った。
太后は趙普を顧みて、「お前はわが言を記し、(たが)うことのないようにせよ。」と言った。
 
趙普は太后の寝台の前で誓約書を書き、末尾に「臣普記す」と署名し、これを金の(はこ)にしまい、密かに宮人に管理させた。
 
太后はついに崩じ、昭憲と(おくりな)された。

3 趙光義を開封尹に任命


秋七月、弟の趙光義を開封(いん)(1)とし、光美を興元(2)尹とした。
 
(1)尹 長官。
(2)興元 興元府。陝西省漢中市。

4 皇子を防禦使に任命


乾徳二年(964)六月、皇子・趙徳昭を貴州(1)防禦使(2)とした。旧例によれば、皇子は宮殿を出て王に封ぜられることになっているが、帝は徳昭がまだ二十歳に達していないうちに封じたのであり、特別に慣例を省略したのである。
 
(1)貴州 広西壮族自治区貴港市。
(2)防禦使 宗室の者が任ぜられる、実際の職務を伴わない官職。

5 趙光義を中書令に任命


三年(965)、弟の趙光義を中書令に、光美を同平章事(1)に、子の徳昭を貴州団練使に任命した。
 
(1)同平章事 宰相。

6 趙普の上奏


開宝六年(973)八月、趙普が宰相を辞め、開封を出て河陽三城節度使(1)となった。趙普は河陽に着くと、自ら上奏して、「人は私が皇弟の開封尹のことを軽率に取り扱うなどと言いますが、皇弟は忠孝にして徳に満ちた人で、どうして私が(そし)ることなどありましょう。まして昭憲皇太后の病が進んでいるとき、私は遺命を陛下とともに聞いたのです。私のことをよく知るのは陛下です。どうかご推察願いたく存じます。」と訴えた。帝は自らこの上奏文に封をし、金の(はこ)にしまった。
 
(1)河陽三城節度使 河南省孟州市。ここでいう節度使とは、五代までとは異なり、統治の実権はなく(実際の統治は知州・通判が行う。)、宗室の者や宰相経験者が任ぜられる、実際の職務をともなわない官職である。従って、地方への赴任となるが、左遷を意味するものではない。

7 趙光義を晋王に封ず


九月、弟の趙光義を晋王に封じ、序列を宰相の上に置いた。また、弟の趙光美に侍中を兼ねさせ、子の趙徳昭を同平章事とした。

8 趙徳芳を貴州団練使に任命


九年(976)三月、子の趙徳芳を貴州団練使とした。

9 趙光義の邸に行幸


九月、帝は晋王・趙光義の(やしき)に行幸した。帝は趙光義を親愛し、たびたび邸を訪れ、厚く礼遇した。趙光義が病に倒れたとき、自ら灼艾(しゃくがい)(1)をした。趙光義は痛みを覚え、帝もまた(もぐさ)を取って自ら(きゅう)をした。帝はいつも近臣に対し、「光義は龍が行き虎の歩むがごとく、帝王の気風がある。いつか必ず太平の天子となろう。彼の幸運と徳行は私の及ぶところではない。」と言っていた。
 
(1)灼艾 体の一定の部位に艾を置いて焼く治療法。

10 太祖の死


冬十月、帝は病にかかった。二十日(1)夜、大雪の日、帝は晋王・趙光義を呼び寄せ、後事を託した。左右の者は退けられて話を聞くことはできず、ただ遠くから火影の下で晋王が時に席を立つのが見えるだけで、遠慮して後ろへ下がっているようであった。帝は水晶の小斧を引いて地に立て、晋王に、「よくこれを行え。」と、大きな声で言った(武力の象徴としての斧だが、しっかり立たせないと砕け散ってしまう。天下に威を示すも政治を誤らぬように、との意か)。それからほどなくして帝は崩御し、水時計は四鼓(2)のころであった。皇后は晋王に会うと愕然とし、「わが母子の命はみなあなた様に託します。」と叫んだ。晋王は泣いて、「ともに富貴を保ちましょう。ご心配には及びません。」と言った。
 
二十一日、晋王・趙光義は皇帝の位につき、名を(けい)と改めた。皇后を開宝皇后とし、西宮に移した。弟の趙廷美を開封(いん)とし、斉王に封じた。兄の子・徳昭を永興軍(3)節度使兼侍中とし、武功郡王に封じた。徳芳を山南西道節度使(4)・同平章事・興元尹とした。趙廷美は趙光美のことである。次いで、太祖と趙廷美の子女に詔して皇子・皇女と称し、宗室は一体であることを示した。
 
(1)二十日 原文の日付は壬午とあり、換算不能だが、『宋史』には、太祖が崩じたのは癸丑、すなわち二十日とある。(『宋史』巻三、開宝九年十月 p.48)
(2)四鼓 午前一時から三時。
(3)永興軍 永興軍路。陝西省一帯にあたる地域。府は京兆府(長安)。
(4)山南西道節度使 陝西省漢中市。 

11 趙廷美、北漢征伐を願い出る


太宗太平興国四年(979)二月、帝は自ら北漢を討伐しようとし、斉王・趙廷美に不在時の政務を任せようとした。開封判官・呂端は趙廷美に、「(じょう)櫛風沐雨(しっぷうもくう)(1)し、民を慰問して罪人を討つことを述べています。王のおられる所は賢人と親しみ、従者らを率いるべき場所です。(このようなときに王のような責任ある方が、)上の留守居役を務めようとするのは、よくないことです。」と言った。このため趙廷美は北漢征伐に赴くことを請い、帝はこれを許した。
 
(1)櫛風沐雨 風が髪をくしけずり、雨が体を洗うように、非常に苦労することのたとえ。

12 趙徳昭の自殺


八月、皇子の武功王・趙徳昭が自殺した。
 
趙徳昭は帝に従って幽州(北漢)征伐に赴いていたが、軍営の中、とある騒動が起こった。帝の所在もわからなかったため、趙徳昭を帝位に立てようとする者もおり、帝はこれを聞いて不快に思った。
 
趙徳昭が帰還すると、北漢の征伐がまだ有利に進んでおらず、久しく太原に関する武功の褒賞が行われていなかった。趙徳昭はこのため嘘を言って繕ったので、帝は大いに怒り、「お前が自ら北漢征伐を成し遂げれば、褒賞を得るのも遅くはない。」と言った。趙徳昭は不安になり、自分の住む宮殿に帰ると自ら首を()ねた。帝はこれを聞いて驚き悔やみ、その亡骸を抱えて大いに()き、「馬鹿者、なぜこのようなことをするのだ。」と言った。
 
中書令を贈り、魏王に追封し、()と諡された。

13 趙廷美に秦王を進封


冬十月、北漢平定の功が論じられ、斉王・趙廷美に進封が行われ、秦王とした。

14 趙普の訴え


六年(981)三月、皇子の興元尹・趙徳芳が亡くなった。中書令・岐王を贈り、康恵と諡された。
 
このとき、盧多遜(ろたそん)が政治を牛耳っており、趙普が長年任地から朝廷に参内しているのを謗り、趙普は当初帝を立てるつもりがなかったと言い、趙普は鬱々としてどうすることもできなかった。また、もと晋王・趙廷美の邸の旧僚、柴禹錫(さいうしゃく)趙鎔(ちょうよう)・楊守一が、秦王・趙廷美が驕り高ぶり、陰謀がひそかに実行されようとしていると告発した。
 
帝は趙普を疑い、趙普にこれらのことを問うと、趙普は、「国家の要職に信頼できる人物を据え、奸人(かんじん)の偽りをよく観察してください。」といい、「私は旧臣の座にありながら、権勢を恃む輩に不当な謗りを受ける身となっております。」と訴えた。そして昭憲太后の遺命を聞いたこと、および前朝のとき上奏して自ら訴えたことを詳しく述べた。帝は金匱(きんき)を開き、趙普の書いた誓書と上奏文を読み、趙普を招き、「人というのは誰でも過ちを犯すものだ。(ちん)は五十年を待たずして四十九年にわたる非を知った。」と言った。
 
九月、趙普を司徒兼侍中に任じ、梁国公に封じた。

15 趙廷美の左遷


七年(982)三月、ある者が告発した。帝が西池に行幸する際、趙廷美が乱を起こそうとしている、と。このため、趙廷美の開封尹の職を解き、西京(せいけい)(1)留守(2)とし、襲衣(3)犀帯(さいたい)(4)・銭千万(びん)(5)・絹・(あやぎぬ)各々(おのおの)一万匹、銀一万両、西京の邸宅一軒を与えた。枢密使・曹彬(そうひん)に詔して趙廷美に対し、瓊林苑(けいりんえん)にて(はなむけ)の宴を張らせた。太常博士(6)王遹(おういつ)に河南府の職務を代行させ、開封府判官・閻挙(えんきょ)に留守の職務を代行させることにした。
 
柴禹錫(さいうしゃく)を枢密副使、楊守一を枢密都承旨(7)趙鎔(ちょうよう)を東上閤門使(こうもんし)(8)とし、彼等が趙廷美の陰謀を告発した功を賞した。一方で、左衛将軍(9)・枢密承旨・陳従信を左衛将軍に、皇城使(10)・劉知信を右衛将軍に、弓箭(きゅうせん)庫使(11)・恵延真を商州(12)長史(13)に、禁軍列校・皇甫継明(こうほけいめい)(じょ)(14)馬歩軍都指揮使に、定州(15)の人、王栄を(ぼく)(16)教練使(17)に、それぞれ降格させた。いずれも趙廷美と交わり、酒食のねぎらいを受けている人物であった。
 
ある者が、王栄が趙廷美の側近と、「私は近く節度使となるであろう。」と妄言を吐いたと告発した。このため王栄を罷免し、離島に流した。
 
(1)西京 西京河南府。河南省洛陽市付近。
(2)留守 城の守衛などを司るとされるが、実際は閑職で、皇帝の行幸に応対するのみの職。
(3)襲衣 組になった衣服。
(4)犀帯 犀の角を取り付けた帯。
(5)緡 銭の束に通すひも。ぜにさし。一緡は一千文にあたる。
(6)太常博士 太常寺(社稷・廟・習楽を司る官署)の寄禄官(実際の職務のない官職)。
(7)枢密都承旨 枢密院承旨司(枢密院の事務機関)の長官。従五品。
(8)東上閤門使 横行武階の第五階。宋代の武官の官階には正任武階・遥郡武階・横行武階などがあった。
(9)左衛将軍 実際の職務のない官名。従四品。
(10)皇城使 武階名の一。
(11)弓箭庫使 東班に属する官の一。宋代の諸司の使・副使は東班と西班に分かれていた。
(12)商州 陝西省商洛市。
(13)長史 散官の一。宋代は散官が十等に分けられ、その第六等。正九品。
(14)汝州 河南省臨汝(りんじょ)県。
(15)定州 河北省定州市。
(16)濮州 山東省鄄城(けんじょう)県の北。
(17)教練使 軍事教育を司る官。

16 盧多遜・趙廷美の失脚と趙普の暗躍


以前、昭憲太后は、太祖は帝へ帝位を伝え、帝は趙廷美に伝えて徳昭に及ぼすよう遺命した。それゆえ帝は即位した当初、趙廷美に開封を治めさせ、趙徳昭・趙徳恭らに皇子を称させた。だが、趙徳昭が天寿を全うせずして死に、趙徳芳もこれに次いで若死にすると、趙廷美は自分の地位が脅かされるのではと不安になった。柴禹錫(さいうしゃく)は趙廷美に謀反の動きがあると告発し、趙廷美を動揺させた。
 
他日、帝は帝位継承のことを趙普に尋ねた。趙普は、「太祖は自分の子に継がせるといって人選を誤ったというのに、陛下もまた誤ってはなりませぬ。」と言った。こうして、趙廷美は罪を得ることとなった。
 
趙普が宰相に復帰すると、盧多遜(ろたそん)は心穏やかならず、趙普はしばしば引退するようほのめかしたが、盧多遜は権勢をむさぼり、失脚させることができなかった。趙普は偶然に、盧多遜がかつて堂吏(1)趙白を遣わして秦王・趙廷美と親交していたことを知った。帝は大いに怒り、盧多遜を兵部尚書(2)に降格させた。二日の後、盧多遜を御史の獄に下し、中書守堂官・趙白、秦王府孔目官(3)閻密(えんみつ)、小吏(4)・王継勲らを捕らえ、翰林(かんりん)承旨・李昉(りほう)、翰林学士・扈蒙(こもう)、衛尉卿(5)崔仁冀(さいじんき)、御史・滕中正(とうちゅうせい)らに命じ、この件を審理させた。
 
盧多遜は罪を認め、たびたび趙白を送って中書省の機密を趙廷美に漏らし、「宮車晏駕(あんが)(6)すれば(帝が崩御遊ばしたら)、大王(趙廷美)に力を尽くしたく存じます。」と言っていたことを供述した。趙廷美もまた小吏・樊徳明(はんとくめい)を送って盧多遜に、「承旨(盧多遜)の言葉はまさにわが意にかなうものだ。」と言って弓矢を贈り、盧多遜はこれを受け取っていた。閻密は専横にして法を犯し、帝を名指しで非難していたことを述べ、王継勲は趙廷美のために芸妓を求め、権勢を恃んで賄賂を受け取っており、いずれもみな罪に服した。
 
(1)堂吏 中書門下省に属する官。詔勅の起草などを行う。
(2)兵部尚書 兵部の長官。
(3)孔目官 左・右金吾街仗司(軍の儀仗を司る官署)の最高位の吏人。事務・文書を取り扱う。
(4)小吏 位の低い官僚。
(5)衛尉卿 宋初にあっては実際の職務のない官職。
(6)宮車晏駕 宮車は皇帝の乗る車。転じて皇帝を指す。晏駕は馬車が夜遅く出ること。皇帝の死を婉曲に表現した語。
 
事案の内容が朝廷に報告されると、帝は文武官に詔を発して朝堂に集めて議論させた。太子太師(7)王溥(おうふ)ら七十四人は、「盧多遜と趙廷美は動静を探って朝廷を呪い、大逆不道、誅殺して刑法を正すべきです。趙白らは斬刑に処しましょう。」と上奏した。帝は詔して盧多遜の官位を剥奪し、崖州(8)に流し、その家族、近親らを僻地に移した。趙白、樊徳明、閻密、王継勲らはことごとく都の門外で斬られ、家財は朝廷に没収された。趙廷美は連行されて私邸に帰らされ、その家族は名を変えさせた。趙徳恭らは皇姪(こうてつ)(9)であったが、皇姪の娘が韓崇業に嫁いだため、その娘の公主、駙馬(ふば)(10)の称号を解き、西京に行かせ、趙廷美が以前住んでいた所におらせた。閻矩(えんく)(ふう)(11)司戸参軍(12)に、孫嶼(そんしょ)を融州(13)司戸参軍に降格させた。いずれも趙廷美の属官でありながら、彼を補佐した形跡がなかったため、罪に服したのである。
 
趙普は、趙廷美が西京にいるのは好ましくないと考え、知開封府・李符にほのめかして、「趙廷美は過ちを悔いることなく、怨みを抱いております。遠い地方に移し、万が一の変事を防ぐよう願います。」と上言させた。帝は詔を下して、趙廷美を涪陵県公に降格させ、房州(14)に留め置いた。妻の楚国夫人・張氏は国からの封土を削られた。閻彦進(えんげんしん)を知房州に、袁廓(えんかく)を通判に任じ、趙廷美の動向を伺わせることにした。趙普は李符が自分の企図を漏洩するのを恐れ、李符に他の事で罪を着せ、彼を春州(15)に流した。李符は一年余りで亡くなった。
 
(7)太子太師 宰相や文臣が兼任する、実際の職務のない官名。従一品。
(8)崖州 海南省海口市付近。
(9)姪 兄弟の子を指すが、男子にも用いる。
(10)駙馬 皇族の女子に授与される称号。従五品。
(11)涪州 四川省涪陵県。
(12)司戸参軍 戸籍・賦税・倉庫の出納を担当する官。正八品上または下。
(13)融州 広西壮族自治区・融水(ミャオ)族自治県。
(14)房州 湖北省房県。
(15)春州 広東省陽春県。

17 趙廷美の死


八年(983)冬十月、趙普が宰相の職を辞した。趙廷美は房州に赴いたが、不安の余り病にかかり、雍熙(ようき)元年(984)春正月、房州にて亡くなった。齢三十八であった。
 
帝はこれを聞き、嗚咽して涙を流し、宰相・宋琪(そうき)李昉(りほう)らに、「趙廷美は少年のときから強情で、長じてはますます凶悪になった。(ちん)は血筋を同じくする者として彼と親しんでいたので、彼を法で裁くのは忍びなく、房陵(房州)に居させて、過ちを省みることを願っていた。ちょうど恩を施してもとの地位に復帰させようと思っていたのに、急に逝ってしまった。わが心痛はどうしてくれようか。」と言った。そして悲しんで泣き、左右の者も悲しみに包まれた。詔して涪王(ふうおう)と追封し、(おくりな)は悼とし、哀悼の儀式を行って成服(1)し、彼の子の趙徳恭、趙徳隆を刺史とした。
 
趙廷美の罪を得たのは趙普の策謀によるものであった。このため、真宗が即位すると、彼の名誉を回復して秦王とし、妻の張氏を楚国夫人とし、仁宗は太師・尚書令を贈り、徽宗は魏王に改封した。
 
(1)成服 葬儀と納棺の後、死者との親疎によって異なった喪服を着ること。

18 趙普の性格と経歴


趙普は太祖の創業を補佐した功により、范質らに代わって宰相となり、帝は心から信頼して職務を任せ、大小の別なく彼に(はか)って物事を決めてきた。
 
趙普はかつて、ある人を官に就けるよう薦めたが、帝(太祖)は許さなかった。翌日再び奏上したが、やはり許さなかった。その翌日も奏上すると、帝は大いに怒り、奏上の(ふだ)を地に投げ打った。趙普は顔色を変えることなく、(ひざまづ)いて牘を拾って帰った。後日、その牘をつなぎ合わせ、再びもとのように奏上すると、帝は趙普の意図を察し、ついにその人を用いた。
 
また、群臣のなかに昇進させるべき人がいたが、帝はその人を嫌っていたため許さなかった。趙普は堅く昇進させるよう請うた。帝は怒り、「私はこれを許可する気はない。お主はどうするつもりなのだ。」と言った。趙普は、「刑と賞は、天下の刑と賞なのです。陛下はご自分の喜怒をもってこれを判断してはなりません。」と言った。帝は怒り頂点に達し、座を立ち、趙普もあとに従った。帝が宮殿に入ろうとすると、趙普は宮殿の門に立ち、そのまま去ることがなかった。帝はついに許可した。趙普の豪胆たることこの通りであった。
 
しかしながら、能ある人を嫌う面もあり、まだ頭角を現す前で大成していない人のことを悪く言い、帝は、「塵埃(じんあい)の中に天子、宰相を知ることができれば、人はみなこれを物色するだろう(人物というのは自分で確かめないと評価できない)。」と言った。趙普は宰相の職にあること十年、すこぶる専横で、私怨により馮瓚(ふうさん)・李美・李檝(りしゅう)を罪に陥れ、収賄による死罪に処すよう論じ、多くの廷臣がこれを忌まわしく思った。
 
帝は常に趙普の邸宅に(みゆき)した。たまたま呉越が使者を遣わして書状を趙普に届け、海産物十瓶を御簾(みす)の下に置いていった。まだそれを開けないうちに帝が到着したので、急いでこれを閉じた。帝はこれを見て何であるかを問い、趙普は事実をもって答え、帝は、「海産物ならばきっと良いものだろう。」と言った。帝はこれを開くよう命じると、中には瓜子金(かしきん)(1)が入っていた。趙普は恐れおののいて、「私はまだ書状を開けていなかったため、本当に知らなかったのです。」と謝した。帝は、「ひとまずこれを受け取れ。わが国のことはみなそなたの書生に動かされていると、呉越が言うだけのことだ。」と言った。
 
あるとき、官は民間での大木の売買を禁じたが、趙普が秦(陝西)・隴(甘粛)の大木を都に売っているという偽りの情報が流れた。三司使(2)趙玭(ちょうひ)はこのことを上奏し、帝は大いに怒り、趙普を宰相の座から追いやろうとした。王溥(おうふ)が努めて援助の手を差し伸べたため、それは取りやめとなった。しかし、盧多遜と趙普は仲が悪く、たびたび盧多遜が入対(3)して趙普を謗り、帝はますます悦ばなかった。
 
これより先、開宝の初め(968)、判大理寺(4)雷徳驤(らいとくじょう)は、()の属官に趙普に対して強引に刑の名目を当てはめさせた。このため趙普はこれを恨み、帝に見えて対面してこのことを告げ、語気は激しさをともなっていた。帝は怒り、雷徳驤を引きずり出し、商州司戸参軍に降格させた。しばらくして、知商州・奚嶼(けいしょ)は趙普の意に迎合し、雷徳驤の恨み言を奏上した。雷徳驤は免職され、霊武(5)に流された。雷徳驤の子、雷有鄰(らいゆうりん)は、登聞鼓(6)を打ち、父の冤罪を述べ立て、あわせて中書省の吏に趙普の不法な行いを訴えた。帝は趙普を御史の獄に下し、事情を聴取させた。帝はいよいよ趙普を疑い、ついに参知政事・呂余慶、薛居正(せっきょせい)に詔して、趙普と印章と署名を司る班を交代させ、権力を分散した。趙普は宰相を辞め、太祖の代に再び召されることはなかった。その後、久しく鬱々として志を得なかったが、太宗太平興国五年になって、上の崩御により、司徒・侍中に召され、秦王・趙廷美の獄が趙普の手によって行われた。
 
八年、宰相を辞して武勝軍節度使(7)となった。帝は詩を作って餞別とし、長春殿で宴を賜った。趙普は詩を受け取って、「陛下は私めに詩を賜って下さり、これを石に刻み、わが朽骨とともに冥府に葬りたいと存じます。」と涙して言った。帝はこのため痛く感動した。翌日、帝は宰相に、「趙普は国家に対して功がある。私は昔ともによく遊んだものだが、今は歯も髪も衰えてしまった。だから国の要務に煩わされることのないようにしたく、詩によってわが意を伝えることにしたのだ。趙普は感激して泣いていたが、私もまた涙がこぼれ落ちてくる。」と言った。宋琪(そうき)は答えた。「趙普殿は先に中書省に来て、帝の御詩を手にとって涙を流しながら、『この生もあと余年にして、国の務めに役立つこともできない。願わくば来世もまた、陛下のために犬馬の力を尽くしたく思う。』と私に言いました。今また陛下のお気持ちを聞くに、君臣の間柄は始終円満であったと言えましょう。」 
 
(1)瓜子金 瓜の種の形をした金。
(2)三司使 国家の財政を管理する官。宰相に次ぐ地位。
(3)入対 皇帝の質問に答える。
(4)判大理寺 大理寺(審刑院から送られた犯罪事案の内容を審査・判決する官署)の長官。北宋前期にあっては、まず審刑院が案件を受理し、大理寺に送られて審査・判決し、次いで刑部が再審査し、再度審刑院が評議する。その後、皇帝の裁定を経て、中書省下の官署が決定を下した。
(5)霊武 甘粛省永寧県付近。
(6)登聞鼓 皇帝が臣民の諫言や冤罪の訴えを聞くとき、朝堂の外に鼓が掛けてあり、臣民が鼓を打って上奏すること。
(7)武勝軍節度使 浙江省金華市。