巻67 金人立劉予

Last-modified: 2024-06-12 (水) 18:58:07

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高宗建炎二年(1128)春正月、劉予を知済南府(1)とした。

劉予は景州(2)の人、河北提刑となった。金人が南侵したとき、劉予は官職を捨てて真州(3)に逃げた。張慤(ちょうかく)がこれを推薦し、知済南府に起用した。このとき盗賊が山東で蜂起しており、劉予は赴任したがらず、東南の一郡に任地を変えるよう願い出た。執政はこれを許さず、劉予は怒って去っていった。

(1)済南府 山東省済南市。
(2)景州 河北省遵化市。
(3)真州 江蘇省儀徴市。

2


十二月十日、金人は東平府(1)を落とし、済南府を攻めた。

劉予は子の劉麟(りゅうりん)を出戦させたが、宋軍は幾重にもこれを包囲した。郡倅(ぐんさい)(2)・張東が来援してこれを退けた。

撻懶(ダラン)は人をやって劉予を利で誘った。劉予は済南の驍将(ぎょうしょう)・関勝を殺し、民を率いて金に降った。しかし民は従わず、劉予は縄で城壁を降りダランに帰順した。

(1)東平府 山東省東平県。
(2)郡倅 郡守の副官。

3


三年(1129)三月、金人は京東諸郡を落とし、劉予を知東平府とした。金は黄河以南を国境とし、劉予にこれを統治させた。劉予の子・劉麟(りゅうりん)を知済南府とした。

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四年(1130)九月九日、金は劉予を斉の帝とした。

これ以前、金の主は帝が東南に行くのを知ると、粘没喝(ネメガ)を南方討伐に向かわせ、これに言った。
「宋が平定されたら、張邦昌のように君主に立てて補佐するのだ。」
兀朮(ウジュ)が北に帰ると、みな折可求・劉予を立てるべきであると意見が一致した。劉予は多額の金品でダランに賄賂を贈り、自分を帝に立てるよう求めた。ダランはこれを許したが、このことをネメガに伝えると、ネメガは許さなかった。高慶裔(こうけいえい)はネメガに説いた。
「わが家が挙兵したのは、ただ両河(河北・河東)を欲するからです。だから汴京(べんけい)(開封)を取ったとき張邦昌を立てたのです。いま、河南の州郡の官制を変えずにいるのは、張邦昌の故事に従おうとしているからではないでしょうか?元帥はなぜ速やかに劉予を帝に立てるよう建議し、恩を他人に帰そうとされないのですか?」
ネメガはこの言に従い、使者を劉予の部下のもとに行かせ、軍民のうち誰を立てるべきかを尋ねた。みな答えなかったが、劉予と同郷の張浹(ちょうしょう)が劉予を立てるべきであると言い、意見が定まった。

ダランは金の主にこれを報告した。金は高慶裔と知制誥(ちせいこう)韓昉(かんほう)を遣わし、玉璽・印綬(いんじゅ)・宝冊を渡し、劉予を「大斉皇帝」とし、代々子としての礼を修めさせ、金の暦を受け取らせ、丞相(じょうしょう)以下の官を置いた。劉予は即位すると大名府を都とし、張孝純を丞相、李孝揚を左丞、張東を右丞、鄭億年(ていおくねん)を工部侍郎、李儔(りちゅう)を監察御史、王瓊(おうけい)を汴京留守、子の劉麟(りゅうりん)を提領諸路兵馬兼知済南府、弟の劉益を北京留守とした。母の(てき)氏を皇太后、(めかけ)の銭氏を皇后とし、翌年を阜昌(ふしょう)元年とした。

朝廷はこれを知ると、劉予に仕える者の家族で東南にいる者に対し、厚く援助を与えた。博州(1)判官・劉長孺(りゅうちょうじゅ)は書状により過ちを正すよう劉予に勧めたが、劉予はこれを捕らえた。

(1)博州 山東省聊城(りょうじょう)市。

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紹興元年(1131)六月、劉予は招受司を宿州(1)に置き、宋から逃げてきた者を誘い入れた。

(1)宿州 安徽省宿州市。

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十二月、金は陝西(せんせい)の地を劉予に与えた。ここにおいて中原はすべて劉予の手に帰した。

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二年(1132)夏四月二十九日、劉予は(べん)に移った。

劉予は汴に着くと、祖先を尊んで帝とし、宋の太廟に位牌を置いた。この日、暴風が巻き起こり、屋根瓦が揺れて民は大いに恐れた。

このとき、河南・山東・陝西(せんせい)に金軍が駐屯し、劉麟(りゅうりん)は郷兵十余万を皇太子府軍に編入した。河南(洛陽)・汴京淘沙(とうさ)官を置き、両京の墓がほとんど発掘されつくした。徴税は過酷で、民は生活に困った。

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これ以前、襄陽(じょうよう)鎮撫使(ちんぶし)桑仲(そうちゅう)が上奏し、劉予の罪を糾すよう求めた。朝廷は桑仲を兼節制応援京城軍馬とし、情勢を見て劉予が陥落させた州郡を回復するよう命じた。次いで同河南軍馬に翟興(てきこう)荊南(けいなん)に解潜、金・房州に王彦(おうげん)、徳安に陳規、()・黄州に孔彦舟(こうげんしゅう)()・寿州に王亨(おうきょう)を任命し、互いに応援し合うこととした。

ほどなくして、桑仲は部下に殺され、翟興(てきこう)が伊陽山(1)に進駐した。劉予はこれを憂え、使者に翟興を招かせ、爵位を与えることを許した。しかし、翟興はこの偽詔を焼き、使者を殺した。このため劉予は翟興の部下・楊偉(ようい)と密かに結託して翟興を殺すことを考えた。楊偉は翟興を殺し、その首を持って劉予に降った。

(1)伊陽山 河南省(すう)県付近にある山。

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十二月、李横は劉予の兵を陽石で破った。勝ちに乗じて(じょ)州に向かい、偽守・彭玘(ほうき)が城を差し出して降った。

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三年(1133)春正月四日、李横が潁順(えいじゅん)(1)で勝利し、偽守・蘭和が降伏した。

六日、偽兵を長葛で破った。

(1)潁順軍 河南省禹州市。

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八日、李横は兵を率いて潁昌(えいしょう)(1)に向かったが、偽安撫(あんぶ)趙弼(ちょうひつ)が固守した。李横は急襲してこれを降した。趙弼は逃げ、潁昌を回復した。

(1)潁昌府 河南省許昌市。

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二月、統制・李吉は劉予の将・梁進(りょうしん)を伊陽台に破り、これを殺した。

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三月、劉予は李横が潁昌に入ったと聞き、金に救援を求めた。金はウジュを潁昌に向かわせた。劉予はまた将・李成を送って兵二万を率いさせ、京城(開封)西北の牟駝岡(むだこう)で迎え撃った。李横は敗北し、再び潁昌を失った。

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夏四月、劉予は(かく)(1)を落とし、統制官・謝皐(しゃこう)を捕らえた。謝皐は腹を指さして敵に見せ、
「これぞわが赤心だ!」
と言って自ら心臓をさばいて死んだ。

(1)虢州 河南省霊宝市。

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水軍都統制・徐文が背き、劉予に降った。

徐文は勇気と力が人に勝り、重さ五十斤の刀を振るって向かうところ敵なく、みな徐大刀と呼んだ。武功により淮東(わいとう)浙西(せっせい)沿海水軍都統制となった。諸将はこれを忌まわしく思い、徐文が反乱を起こそうとしているとそしり、朝廷は兵を送ってこれを攻撃した。徐文は自らが率いる船六十(そう)、官軍四千余りを明州から海路塩城(1)に移動させ、劉予に降った。そして言った。
「宋は沿海に備えがありません。二浙(浙東・浙西)を襲撃すべきです。」
劉予は大いに喜び、徐文を知(らい)(2)とし、兵を率いて通州(3)・泰州(4)を攻撃させた。

(1)塩城 江蘇省塩城市。
(2)莱州 山東省莱州市。
(3)通州 江蘇省南通市。
(4)泰州 江蘇省泰州市。

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五月、朝廷は韓肖冑(かんしょうちゅう)・胡松年を偽斉への使者とした。

劉予は臣下の礼をもって臨もうとしたが、韓肖冑はこれに応ずることなく、胡松年は言った。
「みな対等な宋の臣だ。」
そして長く(ゆう)(拱手して行う礼)して拝しなかった。劉予はこれに屈せず、帝の意向を尋ねた。胡松年は言った。
「必ずや旧領を回復するよう望んでおられる。」
劉予は大いに恐れた。

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李横らを軍に帰営させ、辺境の兵が斉に攻め入るのを禁じた。金と和議を行うためである。

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十一月、金人は李永寿・王翊(おうよく)を使者によこした。

李永寿らは傲慢な態度をとり、劉予軍の捕虜と西北の流民を返還し、長江を区切りとしてそれ以北の土地を劉予に与えるよう求めた。翰林(かんりん)学士・綦宗礼(きそうれい)は言った。
「劉予父子は金に頼り、李永寿らは劉予に従って来ているのです。長江以北の土地の要求はきっと劉予の考えによるものでしょう。その企図がわが領土をうかがうことにあるのを見るに、恐らくは使者を遣わすことにより人情に緩みが生じるのを狙っているのでしょう。将帥を戒め、備えを厳とすべきです。」

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四年(1134)夏四月、熙河(きか)路総管・関師古は劉予の兵と左要嶺で戦ったが敗北し、敵に降った。(とう)(びん)の地(甘粛)はことごとく劉予の手に帰した。

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九月、劉予は子の劉麟(りゅうりん)に金兵を率いて侵攻させた。

これ以前、金の主・完顔晟(ワンヤンせい)呉乞買(ウキマイ))はネメガと南侵について議論していた。このときウジュが帰還し、南侵してはならないと強く主張し、言った。
「江南は低い土地にあって湿っており、兵士と馬は疲労し糧食も足りず、恐らくは成功しないでしょう。」
ネメガは言った。
「都監は安逸をむさぼる気か!」
金の主は意見が合わないため議論をやめた。

ここに至り、劉予は岳飛が(じょう)州・(とう)州を回復したと聞いて恐れ、金に援軍を求めた。完顔晟は訛里朶(オリド)・ダランに渤海(ぼっかい)軍・漢軍五万を徴集して劉予に応じさせ、ウジュが地形に精通しているとして彼に前軍を率いさせた。劉予は子の劉麟、甥の劉猊(りゅうげい)に複数の道から南侵させ、騎兵は()州から(じょ)州を攻め、歩兵は楚州から承州(1)を攻めた。

(1)承州 江蘇省高郵市。

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冬十月十一日、韓世忠に詔を下し揚州に駐屯させた。

これ以前、金兵は淮河(わいが)を渡り、韓世忠は承州から鎮江に退いた。

ここに至り、韓世忠は詔を受け取り感涙して言った。
「主はこれほどまでに憂えておられる。私はどうやって生きていられよう!」
韓世忠は淮河を渡り、揚州に進駐した。

22


このとき、張浚(ちょうしゅん)は福州におり、金・斉が力を合わせて東南をうかがうであろうことを憂慮していた。朝廷もこのことを議論していたため、上奏して状況を直言した。帝はこの言を重く見たが、このとき趙鼎(ちょうてい)が帝に親征を勧め、帝はこれに従った。喩樗(じゅちょ)は趙鼎に言った。
「陛下が長江に行かれるのであれば兵気百倍だ。しかし、あなたはこの挙を万全のものと見るか、それとも一度試すぐらいのものと見るか?」
趙鼎は言った。
「中国は連年退いて振るわず、敵はますます驕り、義はこれ以上()げるべきではない。それゆえ陛下の親征には賛成だ。事の成否は私が予知できるものではない。」
「ならば帰路のことを考えるのだ。張徳遠には厚い人望があるが、彼に江・(わい)(けい)(せつ)・福建を宣撫(せんぶ)させ、諸道の兵を帰順させようとするならば、その往路は朝廷の帰路だ。」
趙鼎はこれに賛同して帝に上奏し、張浚を帰還させた。

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十三日、韓世忠は揚州に到着し、統制・解元に承州を守らせ、金兵が来るのを待ち構えた。

韓世忠は自ら騎兵を率いて大儀(1)に向かい、敵騎に当たるべく木を切って柵とし、自ら退路を断った。たまたま魏良臣が金に使者に赴いてここを通過したとき、韓世忠は炊事係を隠し、詔があれば長江に移動して守るつもりであると魏良臣をだました。魏良臣は速やかに駆け去った。韓世忠は魏良臣が国境を出たころを見計らい、馬に乗って軍中に、
「わが鞭の鳴るところを見よ!」
と命じた。ここにおいて軍を再び大儀に向かわせ、五つの陣を置き、二十余所に伏兵を置き、太鼓の音を聞いたらすぐに攻撃に移るよう申し合わせた。

(1)大儀 江蘇省揚州市の北西。

魏良臣が金の軍中に着くと、金の前将軍・聶児(じょうじ)勃菫(ぼっきん)(2)が官軍の動静を尋ねたため、所見を詳しく答えた。勃菫は大いに喜び、兵を率いて長江に行き大儀から五里を隔て、別将・撻不野(たつふや)が鉄騎を擁して五陣の東を通過した。韓世忠は小旗を振って太鼓を鳴らし、伏兵が立ち上がり、旗の色と金人が混ざり合った。金軍は乱れ、官軍は前に進み出た。韓世忠は親衛の軍に各々長い斧を持たせ、上は人の胸を刺し、下は馬の脚を斬った。敵は鎧を着ながら泥の中に落ち、韓世忠は精鋭の騎兵を指揮して四面から蹂躙(じゅうりん)し、人馬ともに倒れ、撻不野ら二百余人を捕らえた。韓世忠が派遣した董旼(とうびん)も天長(3)鵶口橋(あこうきょう)で金人を打ち破った。

(2)勃菫 部族長。
(3)天長 江蘇省天長市。

十四日、金人は承州を攻撃した。解元は州の北門で敵と遭遇し、水軍を設けて金軍の陣を挟み、一日十三戦したが勝敗は決しなかった。韓世忠は成閔(せいびん)に騎士を率いて応援に行かせ、再び大いに戦い捕虜多数を得た。韓世忠は自ら淮河まで追撃した。金軍は壊滅し、踏み潰され溺死した者が多数に及んだ。

勝報が届くと群臣は祝賀した。帝は言った。
「韓世忠の忠勇、朕は必ず成功すると思っていた。」
沈与求(しんよきゅう)は言った。
「建炎以来、将士は金人を迎え撃ったことがありませんでした。いま韓世忠が連勝し、その功績は大きなものです。」
みなこの挙を中興の武功第一と評した。

24


金・斉の兵が日々迫っていたため、群臣は帝に他の場所へ移り、各官署を散在させてこれを避けるよう勧めた。張俊は言った。
「敵を避けて安息しようというのですか?進んで防ぐことだけが成功への道です。」
趙鼎(ちょうてい)は言った。
「戦って勝てなかったら他へ移るということでも遅くはありません。」
帝は言った。
「朕は二聖(欽宗・徽宗(きそう))が遠くにいるため己を屈して和を乞うたが、かの国はほしいままにわが国を侵した。朕が自ら六軍(天子の軍)を率い、長江へ赴き決戦すべきだ。」
沈与求(しんよきゅう)はこれに強く賛同した。趙鼎は喜んで言った。
「わが国は連年委縮し、敵はますます驕っています。いま親征を聖断されれば将士は奮い立ち、必ずや成功するでしょう。私はその熱意にならい、大計を図ることで国に報いたく存じます。」

ここにおいて孟庾(もうゆ)行宮(あんぐう)留守とし、軍事に関係しない官署は各々の判断で敵兵を避けるよう命じた。張俊を浙西(せっせい)・江東宣撫使(せんぶし)王𤫉(おうしょう)を江西沿江制置使とした。胡松年が長江に赴き、諸将は兵を進めるよう話し合い、劉光世は建康に軍を移した。後宮の者は温州から船で泉州(1)に向かった。

(1)泉州 福建省泉州市。

劉光世は人をやって趙鼎に婉曲に言った。
「相公自ら蜀に入ろうとしておられる。なぜ他人の害を肩代わりするのですか?」
韓世忠も言った。
「趙丞相(じょうしょう)はあえて蜀に入ろうとしているのだ。」
趙鼎はこれを聞いて帝の気が変わるのを恐れ、合間を見て言った。
「陛下は軍を養われること十年、これを用いるのは今日であります。もし少しでも委縮すれば人心は団結せず、長江の険も頼みとならないでしょう。」
帝はついに臨安を出発し、劉錫(りゅうしゃく)楊沂中(ようぎちゅう)が禁兵を連れてついていった。平江に駐屯し、帝は長江を渡って決戦を挑もうとした。趙鼎は言った。
「敵は遠くから来ており、利は速戦にあります。しかしすぐに戦うのは策ではありません。また、劉予が自らやって来たわけではなく、陛下はあの青二才と勝負を決する必要はありません。」
このため親征は取りやめとなった。

25


十一月七日、詔を下して劉予の六軍に対する罪を暴いた。

劉予は帝位を僭称(せんしょう)して以来、その朝廷は金のものにならい、名を「大斉」とするに至った。

ここに至り、初めてその罪を明らかにし、六軍を励ました。

26


十四日、張浚(ちょうしゅん)に枢密院を管理させ、長江への軍の派遣を監督させた。

これ以前、張浚は召喚の命により朝廷に来た。趙鼎に会うとその手を取って言った。
「この度の措置は人心が合わさったものだ。」
趙鼎は笑って言った。
喩子才(じゅしさい)喩樗(じゅちょ))の功績だよ。」
そして張浚を知枢密院事とするよう命が下った。張浚は命を受けると即日長江に行き軍を監督した。このとき、ダラン・ウジュは兵十万を擁し、日を定めて長江を渡り決戦を挑もうとしていた。張浚は長駆して長江に行き、劉光世・韓世忠・張俊を呼んで話し合った。将士は張浚の姿を見ると勇気十倍となった。張浚は諸将の部署を定めると、自ら鎮江に留まり同地を監督した。

27


十二月十八日、金・斉が兵を合わせて()(1)を包囲した。守臣・仇悆(きゅうよ)は城を囲んで固守し、岳飛に救援を求めた。岳飛は牛皐(ぎゅうこう)・徐慶を送ってこれを助けた。牛皐が到着すると、向こうの金将に言った。
「牛皐ここにあり、お前らの好きにはさせん!」
敵軍は愕然とし、戦わずしてついえた。岳飛は牛皐に言った。
「必ず追撃しろ!去ったのにまた来ては意味がない。」
牛皐は三十余里追撃し、金人は踏み潰されて死んだ者が数え切れなかった。

(1)廬州 安徽省合肥市。

28


金兵が淮河(わいが)から引き揚げた。ダランは()州、ウジュは竹塾鎮に駐屯していたが、韓世忠に阻まれ、書状と礼品を贈り他日戦うことを約束した。韓世忠は部下の王愈(おうゆ)と俳優二人を送り、これに蜜柑と茶を持たせてこれに応え、「張枢密は鎮江にいる」と伝えた。ウジュは言った。
「張枢密は嶺南に流されたはず。なぜここにいる?」
王愈は張浚から渡された文書を見せた。ウジュは色を変え、帰還を考えるようになった。このとき雨と雪のため糧道が通じず、野には略奪するものもなく馬を殺して食べ、蛮軍・漢軍みな恨んでいた。また、金の主・完顔晟(ワンヤンせい)の病が(あつ)いとの知らせが入り、夜に引き揚げた。ウジュらが去ると、劉麟(りゅうりん)劉猊(りゅうげい)輜重(しちょう)を捨てて逃げた。

29


六年(1136)春正月、韓世忠は劉予が淮陽(わいよう)に兵を集結させていると聞き、軍を率いて淮河を渡り、符離(1)の近くを通過して北に向かい、その城下に着いたが敵に包囲された。しかし、韓世忠は矛を猛然と(ふる)って包囲を突破し、(やじり)一つ残さなかった。呼延通は金将・牙合勃菫(ぼっきん)と戦い、喉を押さえてこれを捕らえた。勢いに乗じて襲撃すると金人は敗走し、兵を進めて淮陽を囲んだ。金軍は一日包囲されれば烽火(のろし)を一つ上げると取り決めていた。烽火が六つ上げられると、ウジュと劉猊(りゅうげい)は兵を率いて援軍にやって来た。韓世忠は張俊に救援を求めたが、張俊は韓世忠に領土を併呑する意図があるとみて応じなかった。韓世忠は陣を敷いて敵に向かい、人を送って敵に言った。
「錦の衣を着て芦毛(あしげ)の馬を陣前に立てているのは韓相公である。」
ある者がこれを危ぶむと、韓世忠は言った。
「こうでもしなければ敵を呼び寄せることができん。」
果たして敵がやって来て、先頭の騎兵二人を殺し、引き揚げていった。韓世忠は楚州に帰還した。淮陽の民で宋に帰服した者は万をもって数えた。

(1)符離 安徽省宿州市。

30


夏四月、劉予は唐州(1)を落とした。

(1)唐州 河南省唐河県。

31


九月、岳飛は将を派遣し、劉予の兵を唐州で破った。

32


冬十月三日、劉麟(りゅうりん)劉猊(りゅうげい)は複数の道から淮西(わいせい)に侵攻した。

これ以前、劉予は張浚(ちょうしゅん)が長江に諸将を集めていると聞き、立て札にその罪を書き、兵を進めて張浚を討とうとした。また、金に急を告げ、先に出兵して南侵するよう要請し、救援を求めた。金の主・完顔亶(ワンヤンたん)は諸将を呼んでこれについて議論した。蒲盧虎(ブルフ)は言った。
「先帝が劉予を立てたのは、新たな国境を切り開いて確保し、民と兵を安息させようとしたからです。いま、劉予は進んで領土を取ることもできず、また守ることもできず、戦が続いて災いとなり、良い時機が見いだせません。劉予の要請に従えば、勝てば劉予がその利を占め、負ければわが方がその害をこうむります。ましてや前年劉予が出兵したとき、常に長江に利を得ることがありませんでした。どうしてこれを許可する必要があるでしょうか?」
このため金の主は劉予への救援を許可せず、ウジュを黎陽(れいよう)(1)に送り好機をうかがわせた。

(1)黎陽 河南省(しゅん)県。

ここにおいて劉予は郷兵三十万を率い、三つの道から侵攻した。劉麟(りゅうりん)は中路の兵を率い、寿春(2)を通り合肥を侵した。劉猊(りゅうげい)は東路の兵を率い、紫荊山(しけいざん)から渦口に出て、定遠(3)を侵した。孔彦舟(こうげんしゅう)は西路の兵を率い、光州(4)から六安(5)を侵した。

(2)寿春 安徽省寿県。
(3)定遠 安徽省定遠県。
(4)光州 河南省潢川(こうせん)県。
(5)六安 安徽省六安市。

このとき、張俊・劉光世・楊沂中(ようぎちゅう)・韓世忠・岳飛が諸州に分駐し、長江は上下とも兵がなかった。趙鼎(ちょうてい)はこれを深く憂え、張浚(ちょうしゅん)に文書を渡し、張俊と楊沂中に合肥を守らせようとした。張浚はこれに賛同し、楊沂中・張宗顔らを派遣して合肥を守らせた。また、楊沂中を(ごう)(6)に向かわせ、張俊と合流させた。そして楊沂中に言った。
「陛下は統制の重厚さに期待しておられる。適時功績を立てるがよい。」
このとき辺報(朝廷に辺境の状況を伝える文書)は日々急を告げており、張俊は盱眙(くい)を、劉光世は()州を捨てようとし、いずれも敵の勢いは強大であると報告していた。張浚は書状にて二将を戒めた。
「劉予の兵は逆をもって順を犯している。これを排除せずして、どうやって国を立てるというのか?平時もまたどうして養った兵を用いることがあろうか?今日のことは、進んで戦うことにあり、退いて守ることにはない。」
劉麟が合肥に迫ると、趙鼎は言った。
「敵は淮河を渡りました。急ぎ張俊を送り劉光世の軍と合流させ、淮南の敵を掃討し、その後にそこへ留まるかどうか議論すべきです。」
帝はこれに賛同したが、張俊・劉光世では力不足ではないかと思い、岳飛に全兵力を率いて東に下るよう命じた。また、自ら張浚に命令書を渡し、張俊に対し劉光世・楊沂中らを戻して長江を守らせるよう命じた。張浚は上奏した。
「諸将が長江を渡れば淮南を失います。長江の険は敵とともにあり、淮南にいる敵兵はまさに長江を塞ぐ原因であります。敵が淮南を手に入れれば軍糧を運ぶことができるようになり、彼らの生計となります。江南は守るべきでしょうか?いま兵を合わせて襲撃すれば必ず勝って守ることができます。引き下がろうとする意思が少しでもあれば大事は去ってしまいます。また、岳飛が動き、(じょう)・漢に備えがあれば、敵はどこを頼みとすべきでしょうか?朝廷は内側で専権を振るうのではなく、諸将に展望をもたらすようお願い申し上げます。」
帝は直筆の書簡で張浚の上奏に答えて言った。
「そなたの見識の高さと遠謀なくして、どうすればこれほどまでになるのだ!」
これより長江防衛に対する反対意見(東南へ避難すること)が出されなくなった。

(6)濠州 安徽省鳳陽(ほうよう)県。

楊沂中の兵が濠州に着くと、劉光世は廬州を捨てて采石に向かい、淮西は大いに震えた。張浚はこれを聞き、呂祉を劉光世の軍に向かわせて伝えた。
「一人でも長江を渡る者があれば、斬って見せしめとする!」
劉光世はやむを得ず廬州に戻り、楊沂中・張俊らに応じた。

劉猊軍は淮東に到着したが、韓世忠に阻まれたため定遠に引き返した。劉麟は淮西から三つの浮橋をつないで淮河を渡り、濠州・寿州の間に駐屯したが、張俊が兵をもってこれを拒んだ。劉猊は兵を率いて定遠を侵し、宣化(7)に向かって建康を攻撃しようとしたが、楊沂中は兵二千でこれを防ぎ、劉猊の先鋒と越家坊で遭遇し、これを破った。劉猊は孤軍で敵地に深入りするのを恐れ、なお()つ宋軍に襲撃されたため合肥に向かおうとし、劉麟と合流して後退した。劉猊らが藕塘(ぐうとう)(8)に着くと、楊沂中は再び彼らと遭遇した。劉猊は山に拠って陣を並べ、矢石が雨のように降り注いだ。楊沂中はこれを急襲し、統制・呉錫(ごしゃく)に屈強な兵五十人を率いて劉猊の軍に突入させ、劉猊軍は壊乱した。楊沂中は大軍を放ってこれに乗じ、自ら精鋭の騎兵で劉猊軍のわきを衝き、
「敵軍敗れたり!」
と大声で叫んだ。敵軍は慌て驚いた。張宗顔が()州から来て背後からこれを攻撃し、張俊の大軍が李家湾でこれと戦った。敵軍は大いに敗れ、(しかばね)が野に満ちた。劉猊は謀主・李愕(りがく)に出会って言った。
「たまたまひげの将軍に出会ったが、その勢いは鋭く、当たるべきではない。将軍は果たして楊殿前であった。」
そして数騎とともに逃げた。楊沂中は馬を躍らせこれを罵倒し、残った者はみな怖気づいて降伏した。劉麟は順昌(9)にいたが、劉猊が敗れたと聞くと砦を捨てて去っていった。楊沂中と王徳は勢いに乗じて劉麟を追撃し、南寿春まで行ったところで帰った。孔彦舟(こうげんしゅう)も光州の包囲を解いて去っていった。

(7)宣化 江蘇省南京市付近。
(8)藕塘 安徽省定遠県の南東。
(9)順昌 福建省順昌県。

このとき、岳飛は曹成を破ってから楊幺(ようよう)を平らげるまで六年かかり、いつも盛夏に軍を出動させていたため眼病を患い、ここに至っていよいよ症状が悪化していた。しかし、召喚の命を聞くと即日起き上がって朝廷に向かった。まだ朝廷に着かないうちに劉麟が敗れた。帝は趙鼎に言った。
「劉麟の敗北は喜ぶには足りないが、諸将は朝廷を尊び喜ぶべきだと思っている。」
岳飛に文書を与えた。それには、
「敵兵はすでに淮を去った。そちが進発する必要はない。」
と書かれていた。岳飛はもと居た軍に戻った。

33


金人は劉予が敗れたと聞き、その状況を問い詰め、劉予の廃立を考え始めた。

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七年(1137)閏十月、金人は(べん)を襲い、劉予を捕らえて廃立した。

これ以前、劉予はネメガ・高慶裔(こうけいえい)の力で帝に即位した。このため二人を特に厚く尊重しており、ウジュと諸将はこれを深く恨んでいた。劉予の兵が藕塘(ぐうとう)で敗れると、金人は劉予の廃立を考え始めた。ネメガが死ぬと、岳飛は間者を遣わして蝋書(ろうしょ)を劉予に届け、ともにウジュを討つことを約束した。ウジュはこの書状を手に入れるとたいへんに驚き、急ぎ金の主に報告した。このため劉予廃立の意がますます強くなった。劉予は劉麟(りゅうりん)を太子に立てるよう要請したが、金の主・完顔亶(ワンヤンたん)は言った。
「河南の民に聞くべきだ。」
劉予は意気阻喪したが、なお日々使者を遣わして南侵を求めた。このため金は元帥府を太原に建て、劉予の兵はすべてこの命令に従わせた。束抜を左都監として太原に駐屯させ、撻不野(たつふや)を右都監として河間(1)に駐屯させ、陳・蔡・(じょ)(はく)(えい)・許の諸郡を分担で守らせた。

(1)河間 河北省河間市。

ここに至り、尚書省は劉予は国の統治に功績がないと上奏した。金の主はついにダラン・ウジュに南侵と偽って劉予を襲撃させた。汴に到着しようというとき、劉麟を黄河渡河についての軍議に呼んだ。劉麟が二百騎を引き連れ武城に着いたところで、ウジュが騎兵を指揮してこれを捕らえ、汴に駆け入った。劉予はこのとき講武殿で弓を射ていた。ウジュは三騎を従えて東華門に突入して馬を下り、劉予に出てくるよう迫った。そしてその手を取って二人で宣徳門に行き、やせ馬に乗るよう強制し、刀を抜いて劉予を抱え上げ、金明池の牢に収監した。

翌日、百官を集めて詔を宣布し、劉予を問責してこれを廃立した。その詔にはこう書かれていた。
(なんじ)の一邦を建てて八年になるが、なお戦争にいそしんでいる。これでどうして汝を国のために用いることがあろうか?」
そして鉄騎数千で宮殿の門を囲み、小校(低位の武官)を市中に送り、宣言した。
「これより汝の全員を軍に入れることはなく、汝から免行銭を取らず、汝のために上辺だけ仕える人(劉予)を叩き殺そう。汝の旧主(高宗)と少帝(趙眘(ちょうしん)、後の孝宗)が来ることを望む。」
これ以後人心はやや落ち着いた。そして行台尚書省を(べん)に置き、張孝純を権行台左丞相(じょうしょう)とし、胡沙虎(こしゃこ)を汴京留守とし、李儔(りちゅう)がこれを補佐し、諸軍は兵にことごとく帰農するよう命じた。劉予は二帥(ダランとウジュ)に廃立をやめるよう哀願したが、ダランは劉予に言った。
「昔、趙氏の少帝が戦乱のため都を出たとき、民は燃頂煉臂(ねんちょうれんぴ)(2)して号泣した。今お前を廃立すれば哀れな者が一人もいなくなる。お前はなぜ自分を責めないのか!」
劉予は言葉に詰まった。劉予は家族とともに臨潢(りんこう)(3)に移された。

(2)燃頂煉臂 燃頂は頭を、煉臂は腕を線香で焼くこと。このような苦行に励むように一心不乱であること。
(3)臨潢 内蒙古自治区バイリン左旗。

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岳飛は上奏した。
「劉予廃立の時機に乗じて不備を突き、長駆して中原を取るのです。」
韓世忠も上奏した。
「機を失ってはなりません。全軍に北方討伐を命ぜられますように。」
ともに帝からの返答はなかった。