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仁宗景祐元年(1034)冬十月、范仲淹を礼部員外郎・天章閣待制・判国子監(1)に除し、次いで権知開封府とした。
(1)判国子監 国子監の長官。国子監は科挙受験生に経書を教授する教育機関。
范仲淹は、以前郭后廃位について諫言したかどで睦州(2)に左遷されていたが、この時になって呼び戻された。御史台は石介を招いて主簿(3)にしようとしたが、彼がまだ到着しないうちに、朝政を批判したことにより罪を得て取りやめとなった。館閣校勘(4)・欧陽脩は、書状を送って中丞・杜衍を責めた。
「主簿は御史台の中でもものを言わない官である。石介は御史台の門の敷居もまたがないうちに、直言したことにより辞めさせられた。剛直にして憚らない性格と言うべきである。石介の才能を考えるに、彼は主簿の地位にとどまらず、すぐにでも御史とすべきである。石介を退けても他の賢者が必ずや推挙されるであろう。賢者とは物事を論じるのを好むものだ。都合の悪いことを言ったからといって、その者を退けて他の者を推挙するなど、こんなことでは意志が弱くて黙りこくっているような愚か者しか得られないだろう。」
杜衍はこの批判を受け入れることができなかった。
(2)睦州 浙江省建徳県の東。
(3)主簿 この当時にあっては職務実態のない官名であったが、元豊以後、官署の会計や文書の出納を担当する官となる。
(4)館閣校勘 館職の最低階級。書籍の校正を担当した。
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三年(1036)五月、范仲淹は、呂夷簡が政務をとり、官僚が彼の門下から多く用いられているのを見て、帝に『百官図』を見せ、官僚の並ぶ順序を指で差して言った。
「こうであれば序列と官位の移動は正しく、こうであれば序列は乱れています。こうであれば公正な人事であり、こうであれば私的な情実による人事であります。ましてや近臣の進退ともなれば尋常なものではないのですから、すべてを宰相にゆだねるべきではありません。」
呂夷簡は不満気であった。
他日、新たな都を建設する問題が論じられたとき、范仲淹は進み出て、「洛陽は堅固ですが、汴は四方とも戦いに巻き込まれる土地であります。太平の世にあっては汴に居し、有事の際は必ず洛陽に居するべきです。財を蓄え宮殿を補修すべきです。」と、言った。帝はこれを呂夷簡に問い、呂夷簡は「范仲淹の言は実情に合いません。名目を求めて実がないのです。」と、答えた。范仲淹はこれを聞き、四つの論を書いて帝に献上した。第一を『帝王好尚』、第二を『選賢任能』、第三を『近名』、第四を『推委』といい、時弊の批判が大体の内容であった。そしてまた、「漢の成帝は張禹(1)を信用し舅の家を疑いませんでした。ゆえに新の王莽の禍があったのです。私は今日張禹あって陛下の家法を損なうのではないかと恐れています。」と、言った。呂夷簡は、范仲淹が越権行為に出て非難を加え、君臣を離間し、朋党の者を取り立てようとしていると帝に訴えた。范仲淹は切々と反論したが、これがもとで辞職し、知饒州(2)となった。
(1)張禹 成帝時代の宰相。成帝は王氏の専権を疑って張禹にどうすべきか問うたが、張禹は自分の老いと子孫の弱さを顧て直言を避けた。
(2)饒州 江西省波陽県。
集賢校理(3)・余靖は上言した。
「范仲淹は大臣をそしったことにより、重く譴責されました。彼の言がいまだ陛下のお考えに合わないのであれば、それは陛下が(個人的な感情として)彼を許すか許さないかというだけの問題です。なぜ彼を処罰する必要があるのでしょう?汲黯(4)が朝廷にあったとき、平津(5)に偽り多しと言い、張昭(6)が将を論じたとき、魯粛(7)を粗忽と評しました。漢皇、呉主とも批判をよく聞いていながら、両者とも疑うことなく用いました。これがなぜ君主としての美徳を損なうのでしょうか?陛下は親政を始めて以来、たびたび直諫の臣を退けてきましたが、それは天下の口を閉ざすことになるでしょう。以前の命令(范仲淹を辞職させたこと)を撤回していただきたく存じます。」
この上奏は受理されたものの、彼もまた辞職させられ、監筠州酒税(8)となった。
(3)集賢校理 館職名。本来の官職と兼任させたり、外任時の貼職に用いられる。
(4)汲黯 漢の人。無欲で天子の面前で論争するため、武帝に古の社稷の臣と評された。
(5)平津 公孫弘のこと。漢の人。武帝時代の丞相で、平津侯に封ぜられた。
(6)張昭 三国・呉の人。左氏春秋に通じ、孫策の長史・撫軍中郎将となる。『春秋左氏伝解』、『論語注』を著した。
(7)魯粛 三国・呉の人。周瑜を補佐して曹操軍を赤壁に破る。周瑜の死後、代わって奮武校尉となった。
(8)監筠州酒税 筠州は江西省高安県。監酒税は酒税を司る地方官。
館閣校勘(9)・尹洙は上疏した。
「范仲淹の忠義は偽りのないものです。私は彼と師友を兼ねたよしみを結んでいます。つまりは彼の朋党です。范仲淹は朋党のかどで処分されたのですから、私も罪を免れません。」
呂夷簡は怒り、彼を監郢州(10)酒税に退け、次いで唐州(11)に流した。
(9)館閣校勘 館職名。書籍の校正を担当する。
(10)郢州 湖北省鐘祥県。
(11)唐州 河南省唐河県。
館閣校勘・欧陽脩は、司諫・高若訥に書状を送り、責め立てた。
「范仲淹は罪なくして朝廷を追われたというのに、あなたはそれを正すこともできず、なおも上辺だけで士大夫を評価し、朝廷に出入りしている。わが知り合いに恥があるというものだ。」
高若訥は怒り、この書状を帝に見せ、欧陽脩を夷陵(12)令に左遷した。
(12)夷陵 湖北省宜昌県。
朝廷の官僚らは宰相を恐れ、范仲淹を送ってやろうとしなかった。龍図直学士・李紘、集賢校理・王質だけが郊外まで彼を見送った。ある人が王質を責めると、彼は「希文(范仲淹の字)は賢者だ。左遷先でも朋党をつくることができよう。めでたいことだ。」と、言った。館閣校勘・蔡襄は「四賢一不肖詩」をつくり、范仲淹・余靖・尹洙・欧陽脩を讃え、高若訥をそしった。この詩は都の人士のあいだに伝わり書き写され、書籍商はこれを売って大きな利益を得た。このとき、契丹の使者がたまたま訪れ、これを買って帰り、幽州の館に広げておいた。
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御史・韓縝は呂夷簡に対し、范仲淹の朋党の名を朝廷内に掲示する詔を出し、百官が職権を越えて政事を批判するのを戒めるよう求め、呂夷簡はこれに従った。
蘇舜欽は以下のように上書した。
「これまでの歴史を見るに、神聖の君は正しい議論を聞くのを好みます。四海というのは広遠であり、民には隠し事があるため、すべてを知ることはできません。それゆえ、分け隔てせず下賤な者たちの言を取捨選択すれば、朝廷にやり残した政務がなく、物に背く心なく、佞臣や邪悪な陰謀があっても、このような者を推挙することもありません。
最近の詔書を見るに、職権を越えて政事を批判するのを戒め、これを各方面に伝えておりますが、これには当惑せざるを得ません。時折友人らと話し合っているのですが、これは陛下のご意思から出たものではないのでしょう。陛下は即位以来、しばしば下々の者たちに詔を下され、直言を求め、百官に転対(1)させ、目安箱を置き、直言極諫科を設けました。今回の詔書はこれまでのものから突然変わりました。大臣らが陛下の聡明さを塞ぎ、忠良な者の口を閉ざすものではないでしょうか?朝政を乱すのみならず、自ら滅亡の道を取るようなものです。善良な者を用い、賢者を推挙し、宰相が君主のわがままを覆い隠すのであれば、或いはまだ滅亡を免れましょう。いま、諫官御史はみな官署の門を出て、陛下の歓心を得て高位高官の地位を得ようとするばかりです。多くの臣下が朝廷にいるというのに、口をつぐんでものを言うこともできず、陛下は拱手して黙し、これでどうやって天下の物事に耳を傾けようというのですか?
(1)転対 百官が順番に政事上の得失を奏上すること。
以前、孔道輔・范仲淹は剛直にして言ったことを曲げず、位は台諫(御史台と諫官)に至り、他の官に移っても諫言することを忘れませんでした。この二臣は口を閉ざすことを知らないわけでもなく、数年にして大臣の座を得ましたが、陛下の頼ろうとする気持ちに応えようとはしなかったので、彼らは中傷され、地方に流されました。これは正道を行く臣の意気をそぎ、剛直の士を悔やませ、目では時弊を見ていながら、口では論じなくさせました。
昔、晋侯が叔向に問いました。『国家の抱える問題で大きなものは何か。』叔向は答えました。『大臣が俸禄を得ていながら直諫せず、小臣が罪を恐れて批判を口にせず、下々の事情が上に通じないこと。これが大きな問題です。』と。ゆえに、漢の文帝は女子の言うことに感じ入って肉刑を廃止し、武帝は三老の議論を聞いて江充(2)の一族を滅ぼしました。肉刑は古法であり、江充は近臣でした。女子や三老など、愚昧の極みであります。
(2)江充 漢の人。武帝に重用されたが太子と仲が悪かった。武帝が病に倒れたとき、江充は病の原因は巫蠱(ふこ、人を惑わす者)にあると言った。このとき、方士と巫女が木人を宮中に埋めて祭っていた。江充は宮中の木人を掘らせ、太子の宮中から最も多くの木人が見つかったと上言した。太子は恐れて江充を斬り、兵を挙げて乱を起こすも敗れて自殺した。後、江充の一族は誅滅された(巫蠱の獄)。
正しい道というものは、卑しき者たちの言うことを侮らないことにあります。漢の文帝・武帝の二君はこれに従ったので、後世聖君と言われるようになりました。ましてや国家が爵位を設け、才知に優れた人が居並び、彼らに公正と忠実を求めるべきところを、言うべきことがあるときに黙っていろと教えるのですか?諫言した者を讃えようと言ってそうさせているのに、なおも恐れて何も言わず、敢えて諫言した者を罰するというのでは、誰が諫言などするものでしょう?世情はふさぎ込み、陛下は孤立無援に陥っており、陛下の御心を思うこと、悲しむべきものがあります。陛下にあらせられては、その御徳を発して先の詔を中止し、諫言の採用に努め、下は卑しき者たちにまで目を配り、常に太平を保ち、側近らを大切にしていただきたく存じます。」
帝からの返答はなかった。
4
四年(1037)十二月、地震があった。直史館・葉清臣はこのことから上言した。
「最近、范仲淹・余靖が諫言を口にしたことで左遷され、天下の人はこれを悔やみ、この二年間朝政を議論する者がおりません。陛下は深く自責し、忠実直諫の士を長く朝廷に留まらせられるよう願います。」
この上奏があってから数日後、范仲淹らは都の近くに移されることが許された。
5
宝元元年(1038)春正月、詔を下して直言を求めた。蘇舜欽が次のように上疏した。
「河東(1)の地で大きな地震があり、地が裂けて水が湧き出て、家屋や城壁が壊れ、民と家畜数十万が死に、十日ほど経っても収まらないとのことです。思うに、災いの兆しは祭事のときに告げられるもので、でたらめであったためしがありません。天人の下界になせる業は古今の鑑であり、大いに恐れるべきものです。おかしいのは、朝廷はこれほど大きな災害を見ていながら、政事の欠陥を補って天の戒めを遠ざけ、民心を安らがせようとせず、何事もないかのように黙然としていることです。諫官・御史は送られてくる文書に目を通し、災害の兆しを知らせて帝の御心を導こうとはしておりません。加えて、民情は騒然とし、寄り集まって勝手なことを論じ合い、天災を恐れている様子です。
(1)河東 今の山西省一帯。
私は言いたいのです。范仲淹がその剛直さによって奸臣に逆らい、その言は用いられず身は流罪に処されたのを見て、天下に詔を下し、職権を越えた批判を許さないことにしたのだと。私は権勢ある者との接触を避け、ただ好き勝手に中傷されるのを恐れるばかりで、国に職を補せられることなく、悲嘆に暮れてとどまることがありません。正月の初めにして雷が突然鳴りました。国家の過ちについて、みな敢えて陛下のために批判を口にすることをしません。ただ天のみは(災害や雷といった形で)懇切丁寧に陛下に過ちを告げているのです。これを受けてご明詔を発せられ、群臣が諫言するのを許されれば、私は幸甚この上ありません。
陛下は近年俳優や野卑な者たちと親しみ、燕楽(2)が節を越え、賜予(物を与えること)が度を過ぎております。燕楽が節を越えればわがままとなり、賜予が度を過ぎれば贅沢となります。わがままであれば政事に自ら勤しまず、贅沢であれば用度が不足します。国史を見るに、祖先は日々朝政を見、日も暮れてからようやく退朝し、さながら後苑の門に坐するかのようでした。政事について申し上げたい者があれば、すぐに謁見することができました。真宗の末年は病のため、暇のある日に政事をとることにしました。いま、陛下は壮年期にあり、宵衣旰食(3)して政務に励むべき時です。だというのに日を置いて宮殿に行かれています。これは政事に自ら勤しまないということです。また、国庫が底を尽き、民の蓄えが欠乏し、毎日のように過酷な取り立てが行われ、経費の見積もりは祖先の時代の二十倍に上ります。これは用度の不足ということです。政事に自ら勤しまないことと、用度の不足は、国の大きな憂えであります。陛下にあっては己を戒めて人を統率し、過ちを改め教訓を引き出し、訴訟に判決を下し、娯楽を捨て、俳優や近習といった柔弱な者どもとの関わりをやめ、剛直で良識のある者たちと親しみ、この度の災異から長久の計を思いめぐらせていただきたいのです。さすれば天下は幸甚であります。
(2)燕楽 宴会・娯楽に供する音楽。
(3)宵衣旰食 朝暗いうちから着替え、日も暮れてから食事をとるように政務に励むこと。
明君たるもの賢者を求めるのに労を費やし、官の任用に奔走するものです。しかし、朝廷を取り巻く者たちは、全てを選ぶ必要はなく、一、二の宰相と御史・諫官さえ選べばよいのです。最近、王随が吏部侍郎から平章事(宰相)に抜擢されました。これは通常とは異なる任用でしたが、王随は浅薄で人にへつらい、宰相の器ではありませんでした。石中立が官僚の中にあり、冗談が得意なことを自任し、人望が取るに足らないというのに宰相となりました。また、張観が御史中丞となり、高若訥が司諫となりました。二人は温和で軟弱であり、硬骨で敢えて直言しようなどという気概はありません。宰相を抜擢して置いておくというのは、彼らが黙ったままで自分の意見を言わないのを望んでいるのです。批判すべきことがあれば、必ず密かに人を介して伝えるようにし、そばにいる人がこれを見ています。全くもっておかしな話です。それゆえ、御史・諫官の任用は、陛下が自らこれを選び、宰相の門下から就任させないようにしていただきたいのです。御史・諫官に人を得ることができれば、近臣はその過ちをごまかすことができず、下を御する策となります。」
帝はこの言を全面的に採用した。
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冬十月三日、百官に詔を下して朋党を戒めた。
范仲淹は既に潤州(1)に移っていた。ある者が范仲淹がまた戻ってくるのを恐れ、専ら事実でないことを言いふらして范仲淹をそしり出した。さかんに范仲淹のことを言い立てていると、帝は怒り、この者を即刻嶺南に流した。
(1)潤州 江蘇省鎮江市。
朝廷内外に范仲淹を推薦する者が多く、帝は言った。
「以前范仲淹を左遷したが、このために密かに皇太弟を立てるよう求めてきた。ただ大臣をそしるだけではない。いま、彼を推薦する者はこれほどにも多く、朋党に与するかのようだ。詔を下して戒めることとしよう。」
程琳が朋党について帝に説明し、帝はよく理解した。李若谷もまた言った。
「近ごろの風俗は衰退し、朋党が善良なるものを汚しています。君子と小人にはそれぞれ格の違いがあるものですが、今は概して朋党を大義名分としており、正しい道を行く人は自力でやっていくことができないでしょう。」
帝はこの言を受け入れた。
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二年(1039)十一月、盛度・程琳が辞職した。
宰相・張士遜は程琳を嫌い、孔道輔が自分について来ないのを憎み、彼らを朝廷から追いやろうとした。たまたま、開封府の吏、馮士元が賄賂を受け取ったことが発覚し、知府・鄭戩がこれを追及した。このため、盛度、程琳、及び天章閣待制・龐籍、直集賢院・呂公綽、太常博士(1)・呂公弼ら十余人が連座して辞職した。
張士遜は孔道輔に、「帝は程公の実直さを気に入っておられたが、いま小人に誣告されてしまった。帝はきっとこれを見極められるはずだ。」と、言った。孔道輔はこの言葉の意図を理解せず、宮殿に入って程琳の罪は軽く、取り調べが十分でないと言った。帝は孔道輔が朋党に与していることに怒り、彼も朝廷から追い出された。
結果、盛度は馮士元が近隣の場所を強引に自分のものにし、官舎を賃貸ししていた罪に連座し、程琳は馮士元が張遜の旧邸を騙して売った罪に連座し、龐籍と呂公綽・呂公弼は、馮士元が女奴隷を売った罪に連座した。盛度は参知政事を辞職して知揚州となり、程琳は知潁州(2)となり、龐籍らは左遷され、馮士元は島に流され、孔道輔も知鄆州(3)に出された。
孔道輔は張士遜に売られたのだとようやく分かり、発憤して死んだ。しかし、世間はその正直さにより彼を許した。
(1)太常博士 職務実態のない官名。従七品上。
(2)潁州 安徽省阜陽市。
(3)鄆州 山東省東平県。
8
康定元年(1040)春正月一日、日食があった。
富弼は天変に応じて下々の事情に通じたほうがよいと建言し、帝はこれにうなずいた。これにより職権を越えて諫言することの禁を解き、内外の臣下と庶民に詔を出し、朝政の過ちについて直言させた。
9
慶歴三年(1043)三月、諫官を増員した。
欧陽脩・王素・蔡襄を知諫院(1)とし、余靖を右正言(2)とした。蔡襄は賢人が仕える道が開かれたのを喜んだが、正しい道を行く人が自分の立場を維持するのが難しいのを憂慮し、以下の通り上奏した。
「諫官を任用するのが難しくなければ(安易に任用すれば)、諫言を聴くのは難しいことです。諫言を聴くのが難しくなければ、(良い)諫官を任用するのは難しいことです。欧陽脩ら三人は忠誠にして剛直であり、必ずや直言できましょう。私はよこしまな人間が害をなし、必ず直言を妨げる言説を吐くであろうことを恐れています。そのやり方は三つに過ぎません。功名を好み、栄進を好み、君の過ちを褒めるということです。陛下はこれらをよく見極め、好諫の名あれどその実なしということのないようにしていただきたく存じます。」
(1)知諫院 朝政の過ちについて諫言する官。
(2)右正言 同上。
欧陽脩が入対するたびに帝は必ず宰相らに質問し、やるべきことを相談した。法令を施行したり廃止したりといったことが多く、欧陽脩は善人が受け入れられなくなるのを心配し、たびたび帝のためにこのことを詳しく説明した。
范仲淹が饒州に流されてから、欧陽脩や尹洙・余靖が范仲淹に付き従っていることにより朝廷を追われた。奸人たちはこれを見て彼らを党人と言い、朋党の議が巻き起こった。そこで欧陽脩は『朋党論』を書いて帝に進呈した。この論の説くところは以下の通りであった。
「朋党の説というものは古くからあると聞きますが、幸いなことに君主は君子と小人を見分ければよいだけなのです。およそ君子と君子は道を同じくすることによって友となり、小人と小人は利を同じくすることによって友となるのであって、これは自然の理です。しかし、私は小人に友はなく、君子のみにそれがあるのだと思います。それはなぜでしょうか?
小人の好むものは俸禄と地位であり、貪るものは財貨です。利を同じくすべき時は、その時だけ徒党を組んで互いに推薦し合い、友となりますが、これは偽りのものです。利があると見れば先を争い、利がなくなれば交流は疎遠となり、かえって害となり、兄弟親戚であっても長く保つことはできないのです。それゆえ私は小人に友などなく、一時的に友をもつことがあっても、それは偽りのものだと考えます。
君子は違います。守るものは道義であり、行うものは忠義であり、惜しむものは名分と礼節です。これにより身を修めれば、道を同じくして互いに益することができ、これにより国に仕えれば、心を同じくしてみなで事をなすことができ、ずっと一つになれます。これが君子の友というものです。ゆえに君主たるもの、小人の偽りの友を退け、君子の真の友を用いるべきであり、天下が治まるのです。
尭の時代、小人共工・驩兜(3)ら四人が朋党をなし、君子八元・八凱十六人が朋党をなしていました。舜は尭を補佐し、四凶の小人の友を退け、元凱君子の友を薦め、尭の天下は大いに治まりました。舜が天子となってからは、皋・夔・稷・契ら二十二人が朝廷に並びました。彼らは讃え合い、譲り合い、二十二人が朋党をなし、舜は彼らをみな用い、天下はまたも大いに治まりました。
(3)共工・驩兜 尭の臣下。三苗・鯀(こん)とともに四凶と称され、幽州に流された。
『書経』には、『紂には億万の臣があったが、億万の心があるのみだった。私には三千の臣がいるが、一つの心があるのみだ。』と、あります。紂の時代、億万の人はそれぞれ心が異なり、朋党をなさなかったと言うべきです。そして紂は国を滅ぼしました。周の武王の臣三千人は一大朋党をなし、周は彼らを用いて興隆しました。
後漢の献帝の時代、天下の名士をことごとく捕らえ、彼らを党人と見なしました。黄巾賊の乱が起こると、漢室は大いに乱れてこれを悔い、党人を解放しましたが、すでに救いの手はありませんでした。唐の晩年、朋党の論を巻き起こし、昭宗の時代になると朝廷の名士をことごとく殺し、あるいは黄河に投げ捨て、『この輩は清流だから、濁流に投じてやろう。』と言い、唐は滅亡しました。
前代の君主で、各人に心を異にして朋党をなさせなかったこと、紂の右に出る者はありません。善人が朋党をなすことを禁じること、漢の献帝の右に出る者はありません。清流の友を殺戮したこと、唐の昭宗の世の右に出る者はありません。みな乱れて国を滅ぼしました。さらに言えば、讃え合い、譲り合い、疑いを抱かないこと、舜の二十二臣の右に出る者はありません。舜も彼らを疑わず全員を用い、後世の人は舜が二十二人の朋党に欺かれたのを責めず、舜を聡明なる聖者と讃え、君子と小人とを区別することができました。
周の武王の世にあっては、国の臣三千人を挙げて一つの朋党をなしました。古より朋党の多く大きいこと、周の右に出る者はなく、周が彼らを用いて興隆したのは、善人が多くてもこれを嫌うことがなかったということにあります。治乱興亡の足跡というのは、君主たるものこれを鑑とすべきであります。」
欧陽脩の論じ方は切なるものがあり、周囲の者はこれを仇のように見ていたが、帝はひとり彼の直言を褒め、侍臣に「欧陽脩のような者はどこで得ることができようか?」と言った。
10
夏四月、夏竦を枢密使とし、韓琦・范仲淹を枢密副使とした。
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帝は天章閣に出向き、大臣らを招いて自ら書いた詔書を取り出し、当世の急務について問うた。葉清臣はこれを聞き、時政について力説した。
「陛下は名利を求める風潮を落ち着かせようとされていますが、これは中書に関わることです。宰相がこの風潮を抑止すれば、朝廷の雰囲気は実直な方向に変わり、人は足を止めることを知るでしょう。宰相がよこしまな者を用いれば、みな栄達を求め、濁流の波が押し寄せるでしょう。職が倉庫番しかなければ、日々時の宰相の門に駆け込み、入れば巷の俗説を取り入れて帝の知恵を惑わし、出れば朝廷の議論を乱して同輩を驚かせ、一たび官署の長官に抜擢されれば、任官された地位によって便宜を図るものです。
近頃の人士は競ってこの風潮に乗り、権勢家のもとに出入りし、『三尸』・『五鬼』といった号を持ち、館職を得たり、官署の仲間に入ったりしています。台諫の官は天子の耳目ですが、今はそうではなく、みな宰相の側近です。宰相の気に入らない者は、わずかな過失を取り上げて公に弾劾し、宰相の気に入った者は、付き従って馴れ合い、その者を推薦します。中書の政令が不公正で、賞罰が不適切ならば、誰もが口をつぐんで直言しようとはしないでしょう。君主が過ちや後宮の小事に敏感であれば、直言は的を得たものとなり、剛直な者を用いることになるのです。
任官されて一年も経たないのに、通常以上に昇進している者がおります。宋禧は御史となってから、宮中に犬や棘のある木を置いて守衛とするよう陛下に勧め、国の体面を傷つけ、四方の夷狄に嘲笑されたというのに叱責されることもなく、諫官に昇進しました。王達は湖南・江西の両転運使となってから、至る所で悪政を行い、百姓に過酷な取り立てをし、罪もない者を徒刑(懲役)に処しているというのに、宰相と長い付き合いがあることにより、特別に抜擢されて河北に行きました。このようなことでは、名利を求める風潮がずっと続くことになります。」
帝はこれを読んでうなずいた。
12
八日、夏竦が京師に来た。彼を罷免し、杜衍を枢密使とした。
夏竦を朝廷に招いたとき、諫官・欧陽脩、蔡襄らが、「夏竦が陝西にいた時、彼は意志が弱く、職務(西夏との戦い)に全力で取り組もうとしませんでした。加えて悪い企みがあり、よこしまです。陛下は政事に勤しんでいるというのに、首脳に不忠の臣を用いては、どうやって良き政治をしようというのでしょうか?」と、上奏した。中丞・王拱辰もまた、「夏竦は西征の軍を指揮したが、何の成果も上げずに帰ってきた。いま二府を置いたところで、世人を励ますことができようか?」と言った。そして帝の諮問に答えたとき、これを直言した。帝は納得せず立ち上がったところを、王拱辰が進み出て帝の裾を引っ張り、彼らの考えを詳しく伝えた。すると帝はようやく理解した。
夏竦が都の城門に着くと、ある者が帝に謁見してはならないと切に訴えた。右正言・余靖は、「夏竦はたびたび病のため辞職すると願い出ていたのに、呼び出しの命令を聞くや否や駅馬を乗り継いで駆けつけてきました。彼を罷免するよう早急に決断しなければ、夏竦は必ずや帝と対面するよう固く求め、帝の恩義を述べて感涙することでしょう。側近に彼を仲介できる地位の者があれば、帝のお耳を惑わすでしょう。」と言った。上奏がたびたび帝のもとに届けられ、数日後、夏竦に陝西へ帰るよう詔し、杜衍を枢密使とした。
夏竦もまた自ら節鉞(1)を返還するよう申し出て、知亳州(2)に移された。夏竦が亳州に着くと、万言をもって弁解する上書を届け、判并州(3)に移された。蔡襄は帝に言った。
「陛下は夏竦を罷免して韓琦・范仲淹を用いました。士大夫は朝廷で祝い、庶民は路傍で歌い、酒を飲んで大声で叫び、喜んでおります。一邪を退け、一賢を用いることは、天下の軽重に関わります。一邪を退ければその同類が退き、一賢を用いればその同類が用いられます。衆邪が軒並み退き、衆賢が軒並み用いられれば、世に不安などありましょうや?とはいえ、天下の勢いは病者のようであるのを、私は密かに憂えております。陛下は良医を得たのですから、彼らを信じて疑わず、ただ病を癒すのみならず、民を守ってやることです。名医といえどもその施術は万能ではなく、病は日に日に悪くなり、医和(4)・扁鵲(5)であっても治せないのです。」
(1)節鉞 節はヤクの尾を編んで垂らしたもので、信用の証とするもの。鉞はまさかり。威信を示すために天子から授けられるもの。
(2)亳州 安徽省亳県。
(3)并州 山西省太原市。判は通判(副知事)。
(4)医和 春秋時代、秦の名医。晋の平公の病を診るよう秦から招かれ、平公の病を治療不可能と診断し、趙孟に良医と称された。
(5)扁鵲 戦国時代の名医。
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国子監直講(1)・石介は、学問に熱心かつ高尚な性格で、善を好み悪を憎み、名声を愛し、何か事があれば敢然として取り組んだ。このとき、呂夷簡が宰相を辞め、章得象・晏殊・賈昌朝・韓琦・范仲淹・富弼が同時に宰相となり、欧陽脩・蔡襄・王素・余靖が諫官となった。夏竦は一旦枢密使を拝命したものの、これが取り消され、杜衍が取って代わった。このため石介は大いに喜び、「これはめでたいことだ。わが職を歌にして讃えよう。それがよい。」と言った。そして「慶歴聖徳詩」を作った。
(1)国子監直講 経書を教授する官。科挙の試験官も担当する。
「慶歴三年三月、皇帝が立ち上がり、おもむろに宮廷を出られ、晨に太極(仙界)に坐し、昼に閶闔(天門)を開き、自ら賢人らを招き、奸人どもを取り除かれた。高雅な音楽がゆるやかに鳴り響き、天地を揺るがすこと天が動くがごとく、雷が光るがごとく、昆虫が徘徊し、妖怪が誅滅され、明道の初めのようにこの吉祥を褒め称えた。
皇帝は憂えた面持ちで言われた。『予の祖先と予の父は、予に大業を残し、予はそれを失うのを恐れ、大臣らを頼ってきた。汝章得象・晏殊は慎み深く繊細で、予を長らく助け、予はそなたらの功績を讃えたが、そなたらはなおも予を助け、笙・鏞(大鐘)が合奏しているかのようだ。賈昌朝は儒者にして、学問を広く修め、私と政治を論じ、経学を伝え、章得象と晏殊の二相を補佐し、種々の事業が順調に進んでいる。
思うに汝范仲淹、汝は物事をよく察知する。かつて太后は勢いに乗り、湯が沸き火が熱するようであったが、汝はその時まだ小臣であり、直言することは難しかった。予の司諫となり、予の門の敷居を正し、予の京兆(開封府の長官)となり、予への讒言を憎んでいる。賊徒が西夏に興ったとき、予のためにこれを防ぎに行き、六月の暑い日や、真冬の雪の積もる日、汝は寒さに震え暑さにあえぎつつも、予の士卒と辛苦をともにし、辛酸を嘗めたと聞くが、汝は疲労を訴えることをしなかった。
予は遅くに富弼を得て、心はその喜びに満ちている。富弼はいつも予に会うが、私的な謁見をすることがなく、予を教え導いてくれる。富弼の言は切なるものがあるが、予は尭・舜のようにはなれず、富弼は自らを笞刑(棒叩きの刑)に処した。諫官を務めること一年、上書は箱に満ち、侍従を務めること一年、忠誠を尽くしてくれている。契丹はわが朝の恩義を忘れ、檮杌・饕餮(2)のごとく、大国を侮り、その言辞は傲岸不遜である。富弼は予の命をもって、恐れずひるまず、契丹との旧交を回復し、民は衣食を得た。砂は万里に満ちるとも、死生は一時のものだ。富弼の肌を見るに、霜ではがれ風に裂かれたかのようで、富弼の心を見るに、金を練り鉄を鍛えるかのようで、大官に除して疲れと渇きに報いようとしても、富弼はこれを断り、その志を奪うことはできない。思うに范仲淹と富弼は、夔・契のようであり、天が与えたもうたものであり、予に怠慢があろうものならば、両者が予を助け、民に病のあろうはずはない。
(2)檮杌・饕餮 両者とも伝説上の獣の名。
杜衍が仕えに来て、汝も予も老人である。予に仕えること二十余年に及び、頭髪は禿げ歯は欠けているが、心は一つである。礼法に従って度を越えようとはせず、枢密院の長となり、兵政は無欠である。予は早くに韓琦を知った。韓琦は気骨があり、その器は魁(3)が落ちてきたようであり、どうして門の横木のような小材であろか。その人となりは篤実で、飾りを施したものではなく、大事を任せるに足り、実直なこと周勃のようだ。韓琦は杜衍を助け、人に予の英知を知らしめた。
(3)魁 北斗七星の第一星。
欧陽脩や余靖を思うに、朝廷に厳然とそびえ立ち、その言論は細々として、忠誠は特に強く、俸禄・身分は低いというのに志はひるむことがない。かつて大官をそしり、左遷されるも遠方から帰ってきた。剛気で折れることなく、たびたび進み出て直言し、予の過ちを補ってくれる。
王素は宰相となってから、忠義の心を持って清廉な道を行き、昔御史となったときは、予の榻(腰掛け)をしばしば叩いたものだ。蔡襄は小官ながら、名は予のもとにも聞こえ、かつて献言して予の過ちを戒めた。剛気にして忠誠を守り、欧陽脩の友となり、ともに諫官となり、真剣な顔で朝廷に列している。予が汝の言をとがめるならば、汝の口を閉ざしてはならない。』
皇帝は忠邪を区別し、優れた人材を抜擢し、奸人を取り除かれた。茅を抜き取るかのように多くの賢人を用い、距(木の枝を切ったとき、幹に残った部分)を取り除くかのように大きな権力を持った奸人を去らしめた。上は大臣に頼り、予の宰相を司る。下は諫言に頼り、予の法を維持する。正しい道を行く側近らに奸人はなく、予の太平を望むこと十日にも及ばない。皇帝が皇位を継承して二十二年、武威で抑止して処刑せず、淵のように黙す。聖人の考えは予測しがたく、天のように動く。賞罰は予にあり、その権力を失わず。己を慎んで南面(4)し、奸人を退け賢人を用いる。賢人と親しんで代えることなく、聡明でなければ用いない。奸人を除くことは難しく、決断することによってのみ打ち勝つことができる。聡明ならば二心なく、決断をしっかりすれば迷うことがない。聡明にして決断力があるのは、ただ皇帝の徳のみである。
(4)南面 古は帝王が群臣にまみえるとき、南に向かって坐した。転じて帝王の位を指す。
群臣が徘徊して前に進まず息を止め、『正直でありさえすればよこしまなことはなくなるとは、皇帝は我々を罰しようというのか。』と、語り合っている。諸侯は恐れおののき、玉を落として靴を失い、『皇帝は聡明にして、我々は四時朝見している。わが職を慎み、増長を控えよう。』と、語り合っている。四夷は馬を走らせ、鐙を落とし鞭を置き忘れ、『皇帝の武威は、戦争をやめて貢納品を納めさせ、我々の国を永久に属国とするものだ。』と、語り合っている。皇帝の一挙一動に、群臣は恐れ、諸侯は恐れ、四夷は服している。皇帝が万千年の久しきを保たんことを。」
この詩の讃える者の多くは一時の名臣たちで、大奸とは夏竦を退けるということであろう。詩が発表されると、孫復はこれを聞いて、「石介の禍がここに始まった。」と言った。范仲淹も韓琦に、「こんな詩を作るとは、奇怪な輩のくだらん行いだ。」と言った。
14
五月、呂夷簡が宰相を辞職した。
陝西転運使・孫沔が上書した。
「呂夷簡が国政をとってから、忠言が退けられ、正直な気風がなくなりました。使相(1)を許昌の守りに行かせるとき、王随・陳尭叟を推薦して自分の代わりとしました。彼らの才は凡庸で負担は重く、議論するにも協力せず政庁の中で争い合い、周囲の者に笑われ政事が廃れました。また、(宰相を一度辞めたときは)張士遜を宰相に据えましたが、張士遜には見識がなく国事を誤らせました。呂夷簡は賢人を用いずに国の大計を図ろうとし、目下の者ばかりを取り立てて自分の地位を固め、宰相は自分でなければならないと陛下に思わせ、自分に期待させて再び宰相に用いてもらおうとしました。結果、陛下は呂夷簡を呼び戻し、彼は大名より帰って朝政をとりました。それから三年、何も改革することなく、姑息を安らぎとし、批判を避けるのを知恵としてきました。
西方の将帥らがたびたび敗戦を報告しました。契丹はこれに飽き足らず、勝ちに乗じて財物を求め、兵はいなくなり物資が粗悪となり、天下は窮乏しました。刺史・牧守は税収が十分の一も得られず、法令が頻繁に変わり、官民ともども怨み嘆いています。隆盛の基盤がたちまちこうなってしまったのです。今、呂夷簡は病のため引退しましたが、陛下は自ら薬を調合され、徳音(2)を認め、『そなたをいつまでも多忙な地位に置いていた過ちは、朕自身にある。』と書いておられます。忠義の士たちには、このような詔書が出されたと聞き、泣き崩れる者もいます。
呂夷簡が中書にあること二十年、三たび宰相に用いられ、彼の言うことを聴かないことはなく、求めることを行わないことはありませんでした。宋あってただ一人の君を得ておりますが、陛下のために何ができるか、我々はいまだ知りません。天下がみな賢人と讃えても陛下が用いないのは、側近がその賢人を陥れるからです。みなが奸人と評しているのに陛下がこれをご存じないのは、朋党がこれを覆い隠すからです。
最近は契丹が再び盟約し、西夏が通好したため、高官らは喜び日々和平を望んでいます。ここで法を正しく行わせ、城壁や砦を修築し、賢人能吏を任用し、費用を節約して兵を養えば、景徳・祥符の気風が今に蘇るでしょう。もしこれを安穏として見過ごし、この状況に甘んじていれば、国は土が崩れ落ちるように瓦解し、救う手立てがなくなるでしょう。呂夷簡は四方はすでに安定し、諸々の制度は正されたと考えており、病のために黙々と引退し、一言も発することなく帝の心を操り、(彼の基準で)賢人と愚人をより分けようとしています。南山(3)の竹を使い尽くしても彼の罪を書き切ることはできません。」
(1)使相 節度使と中書令または侍中・中書門下平章事を兼任する官。勤労の実績ある老人や前宰相を充てる。
(2)徳音 詔書の形式の一。いたわりの言葉を書く。
(3)南山 終南山。陝西省西安市の南。
この上書が報告されると、帝はこれを非難せず、みなその厳正さを喜んだ。呂夷簡はこれを読むと、「元規(孫沔の字)の言う薬のくだりは、知るのが十年遅かった。」と、人に言った。蔡襄は言った。「呂夷簡が病を得て以来、両府の大臣は笏を並べて呂夷簡の邸宅の門前に職務を授かりに行き、権勢を貪ろうとしています。病はとどまることを知りません。」このため呂夷簡に対し、軍国の大事に参与してはならないと命じた。
15
秋七月十一日、王挙正が参知政事を辞めた。
欧陽脩・余靖は王挙正は大人しすぎて任に堪えず、范仲淹に宰相としての才があると言い、王挙正を罷免して范仲淹を用いるよう求めた。帝はこれに賛成し、王挙正は辞職して知許州(1)となった。
(1)許州 河南省許州市。
16
八月十三日、范仲淹を参知政事にしようとしたが、范仲淹は「執政とは諫官によって就任を許可さるべきものではないのか。」と言って就任を固辞し、韓琦とともに辺境へ行くことを願い出て、陝西宣撫使(1)とした。が、まだ出向かないうちに再び参知政事に任命した。
帝は太平の世を保つことに熱心で、たびたび時事について范仲淹に尋ねた。范仲淹は、「帝は私を用いられた。だが、事には順序というものがあり、長い平安による弊害は一朝一夕に改まるものではない。」と、人に語った。帝は再度手詔(自ら書いた詔書)を范仲淹に与え、天章閣を開き、大臣らを呼んで条対(2)させた。范仲淹は引き下がって十事を述べた。すなわち、左遷と昇進を明確にすること、恩寵を求める者を抑えること、貢挙(3)に注力すること、長官を選ぶこと、公田を均等に割り当てること、農耕と養蚕を奨励すること、防備を整えること、信用できる者を推挙すること、命令を重んじること、徭役を減らすこと、であった。帝はこれらをすべて採用し、規定とすべきものはすべて詔書の形式で公布した。
(1)宣撫使 辺境防衛を担う官。一品~三品。
(2)条対 箇条書きの形式で天子の諮問に答えること。
(3)貢挙 地方から官僚候補生を選抜すること。
17
富弼を枢密副使にしようとしたが、富弼は固辞した。帝は宰相に、「これは朝廷が特別に任用したものである。遼に使者として赴くためではない。」と言い含めてその意を伝えた。このとき、李元昊の使者が去り、帝は紫宸殿に行き、富弼が枢密院の官僚らを引き連れてくるのを待ってから玉座に座った。富弼はやむを得ず任命を受けた。帝は太平の任を担う宰相であることから、富弼に北事(遼に対する防衛)を、范仲淹に西事(西夏に対する防衛)を司らせた。
富弼は現在なすべきこととして十余条及び安辺十三策を建言した。その大略は賢人を用いること、愚者を退けること、恩寵を求める者を用いないこと、長年の弊害を取り除くことであり、監司(1)の地位にあって才のない者を交代させ、その属官を淘汰しようと考えた。小人はこれを嫌がった。
(1)監司 安撫使・転運使・提刑使等、地方の要職の総称。
18
十九日、韓琦を陝西宣撫使とした。
このとき、二府の官僚たちが列をなし、韓琦はいつでも直諫するため、中書に属する案件であってもその内容について述べるであろうと上奏した。同僚らはこれを喜ばなかったが、帝はひとりその見識を認め、「韓琦は正直者だ。」と言った。
韓琦はまず行うべきこと七つを箇条書きで建言した。すなわち、政治の根本を正すこと、辺境防衛の計画を考えること、賢人を抜擢すること、河北の防備を整えること、河東の守りを固めること、民心を安定させること、洛邑(1)を造営することであった。また、これに次いで救弊八事を建言した。すなわち、将帥を選ぶこと、人材の能力を確かめること、物資を豊かにすること、恩寵を求める者を退けること、能吏を用いること、無能な者を用いないこと、官吏の採用を慎重にすること、無駄な食糧を削ることであった。そして、「これらのうちのいくつかの提案について、批判があればそれに従います。大臣らに計画させ、彼らの裁量に任せるよう願います。」と、言った。帝は喜んでこれを採用し、陝西を安定させるよう命じた。
(1)洛邑 河南省洛陽市の西。周の首都。
19
九月四日、呂夷簡が太尉の称号を与えられ官を辞した。
20
冬十月、張昷之・王素らが都転運按察使(1)となった。
(1)都転運按察使 州県の官吏の名簿を管理し、勤務成績を査定して中央に報告する官。慶歴三年五月から同五年十月まで置かれた。
これ以前、知諫院・欧陽脩が言った。
「天下の官吏は数多く、朝廷は彼らの賢愚善悪を把握することができません。そこで按察(勤務成績の査定)の法を立てるようお願いします。朝官・三丞(2)・郎官(3)から有能で清廉な者を選んで按察使とし、州県に派遣して官吏の資質をくまなく確かめさせます。清廉でありながら功績のない者は、その旨をその者の名の下に朱書し、中等の人材は同じく墨書します。これを毎年報告させるのです。」
詔を下し、これに従った。
富弼・范仲淹は中書・枢密院に詔を出すよう求め、各路の転運按察使を選び、彼らが自ら知州を選び、知州が知県を選び、不適任な者は罷免させることにした。こうして、張昷之らが転運按察使に選ばれた。張昷之は河北、王素は淮南、沈邈は京東、施昌言は河東、李絢は京西を、それぞれ担当した。范仲淹は監司を選ぶ際、官僚の名簿を手に取り、才がない者と見るや一筆のもとにその名を消した。富弼は「一筆で消すのはたやすいが、その者の一家が泣くであろう。」と言った。范仲淹は言った。「一家が泣くことなど、一路が泣くことの比ではない。」このことは取りやめとなった。
(2)三丞 宗正寺丞・太常寺丞・秘書省丞。丞は長官・次官を補佐する属官。
(3)郎官 六部に属する官の総称。
21
二十八日、以下の通り詔した。
「考課の法が定められて久しい。祥符のとき、その治世は太平となった。そのとき詔条(官吏の資質を調べる詔)を下したが、その内容はたいへん寛大なものであり、成績が上等ならば定年の制度があり、官僚になれば勤続年数に従い昇格するという規則があった。辺境での勤務は、不測の事態も多い場所であるため、政務を適切に処理する才のある者が欲しいと思っても、功績なくして禄を食む道もないわけではない。成績の良い者を表彰してやらなければ、みなの志は励まされず、選別を行わなければ、人の心は奮起しない。大要と細目を報告し、甲令(重要な法令)として規定せよ。」
こうして磨勘法が定められた。
当初、太祖の時代の旧制では、文武の常参官は、それぞれの官署の事務の繁閑により毎月査定され、成績が基準を満たせば昇進していたが、評定と実態が一致しなかった。このため、この方法をやめ、審官院を置いて官僚の職務を査定し、任期満了に伴い交代する京朝官については、帝が引見して直接審査し、功績がなければ昇進させないことにした。その後法を定め、文臣は五年、武臣は七年で、汚職の罪がなければ昇進できるようにした。汚職の前歴があれば、文臣は七年、武臣は十年で昇進できることとし、中書・枢密院がこの命令に従った。
七等級の選人(官僚候補生)については、その経歴を審査し、犯歴がない、あるいは功労があれば昇進させた。これを循資といった。淳化四年(太宗・993)、磨勘司を置いたが、祝典のときに褒賞が与えられるたびに百官は昇進していた。真宗が即位したとき、これを廃止し、郊祀の恩賞があったときのみ勲階(武勲に応じた官位)・爵邑(爵位と領地)を上げるのを許可した。
この時になって、范仲淹・富弼は、官員の余剰は磨勘(勤務評定)による昇進が速すぎ、容易に高位に上がってしまい、そのため恩蔭により昇進する者が多くなったことが原因であるとした。このため、待制以上については、昇進後六年間、特に事情がなければ再び昇進し、何らかの過ちがあれば昇進を何年か先延ばしにし、諫議大夫(1)で止まることとした。京朝官については、四年ごとに査定し、前行郎中(2)で止まることとした。少卿(寺の次官)・監については、七十人を定員とし、欠員があれば補充することとした。少卿以上の昇進については、帝の命令を仰ぐこととした。この法は旧制よりも厳密なものとなった。
(1)諫議大夫 職務実態を伴わない官名の一。
(2)前行郎中 同上。
22
十一月二十三日、詔を下した。
「周の大司楽は学政を司り、六芸(1)を卿大夫の子弟に教えていた。よって、官僚となる人材はもともと彼らの中にいるものだ。だが、昨今の恩蔭の法により恩典が広く行われ、遠縁の者までが恩恵にあずかり、年若くして官位を与えられ、立身の道や政務への関わり方も知らないというのに、みなが並んで昇進している。これはその者が官位にふさわしいか審査し、民を重んじるものではない。法令として規定せよ。」
こうして蔭子の法が定められた。
(1)六芸 『礼記』・『楽経』・『書経』・『詩経』・『易経』・『春秋』。
当初、太祖は任子の法を定め、(父兄との血縁により官位についた者は、)朝廷に出仕して御史台・三省の六品、諸司の五品の二種の官職を歴任したのち、昇進を求めることを許可した。太宗が即位すると、諸州から推薦された者に仮の官位と三班(2)の職を与えた。また、特定の選人の七等級について、誕聖節(皇帝の誕生日)と三年ごとの南郊(天を祭る祭祀)のときに、各等級につき一人を推薦することを許したが、特別な恩典は与えないこととした。これにより奏薦の恩が広く行われた。
この時になって、范仲淹・富弼はこの制度をやめさせた。選人は郊祀のときに試験を受けさせ、受けない者は官僚に選抜されないこととし、誕聖節の奏薦の恩を廃止した。長子は年限を設けず、それ以外の子と孫は必ず十五年、弟・甥は二十年を過ぎてから恩蔭の適用を許された。これ以後、任子の恩は廃止された。
(2)三班 三班院。低品の武臣の官位への選任を司る官署。
23
四年(1044)夏、帝は宰相らと朋党について論じた。范仲淹は答えた。
「およその事が善悪邪正に傾くのは、類を同じくするもの同士が集まるからであり、およその物は群を同じくするもの同士で分かれるものです。太古より邪と正が朝廷に存在し、おのおのが党派をなすものであり、君主はこれを邪と正に弁別するのみです。君子たちが寄り集まって善事をなさせることに、国家にとってなんの害があるでしょうか?禁じてはなりません。」
24
六月二十二日、范仲淹を陝西・河東宣撫使とした。
このとき、范仲淹は、「防秋(1)のときが近づいています。私を参知政事の職から外し、辺境の統治を承り、安撫の名を帯び、辺境の管理に資するようお願いいたします。」と、上奏した。このため、上の命令が下ったのだった。
当初、范仲淹は呂夷簡に逆らって数年間朝廷を追い出され、陝西で戦争を指導することになった。帝は禁軍の兵が范仲淹の指揮下に入ることを望んでいたので、彼らから選抜して辺境の守りに赴かせた。呂夷簡の辞職にともない朝廷に呼び戻されると、天下をよく治め、みな彼の業績を敬慕した。范仲淹も天下が自分を宰相に任じたのだと考え、富弼と日夜政務について相談し、世に太平をもたらした。しかし、彼らの改革は多くの者の理解を得られず、その規模も広大であるため、議論は入り乱れて実行は難しかった。また、按察使が各地に派遣されると、弾劾される者が後を絶たず、みなはこれを喜ばなかった。任子の恩がなくなり、磨勘の法が行われるようになり、恩寵を目当てとする者たちには不都合となった。このため、誹謗中傷が盛んとなり、朋党の論が興って鎮めることができなくなった。
これ以前、石介は富弼に意見を述べ、伊・周(伊尹・周公旦)の事績にならうよう求めた。夏竦は石介が自分を退けたことを恨んでおり、また、富弼らの勢力を削ごうと考えた。そこで女奴隷に石介の筆跡を長い間習わせ、筆跡を真似できるようになると、石介の意見書にある伊・周の字を伊・霍(霍叔(2))に改竄した。そのうえ、石介が富弼の代わりに太子を廃立する詔書を書いたという噂を流し、朝廷に報告した。帝はこれを信じなかったが、富弼と范仲淹は恐れおののき、安心して朝廷にいられなくなり、西北の辺境を安定させに出向くことを願い出たが、許可されなかった。たまたま契丹が西夏を攻めたと聞き、范仲淹は辺境に行くことを強く願い出て、これを許された。陝西に赴くとき、鄭州(3)を通りかかった。このとき、呂夷簡はとうに老け、鄭州に隠居していた。范仲淹が彼に会いに行くと、「なぜそんなに急いで朝廷を出てゆくのだ?」と、呂夷簡は尋ねた。范仲淹は陝西・河東両路の安定に行き、事が終われば帰るのだと答えた。呂夷簡は言った。「あなたは危地に身を投じようとしている。なぜ再び辺境に行く必要がある。西辺を治めようとするなら、朝廷にいて指示を出すほうがよい。」范仲淹は愕然とした。彼が朝廷を去ると契丹の攻撃はますます差し迫り、帝は内心疑いを抱かずにはいられなかった。
(1)防秋 辺境防衛のこと。古代、遊牧民は馬が太る秋になると中国に侵攻した。辺境の防備を整えてこれを防ぐことを防秋といった。
(2)霍叔 霍叔処。周の文王の第八子で武王の弟。霍(山西省霍県)に封ぜられた。紂の子、武康を監視していたが、管蔡の乱(周公旦に不満を抱く管叔鮮・蔡叔度・霍叔処らによる反乱。三監の乱とも)により庶人に降された。
(3)鄭州 河南省鄭州市。
<羅従彦(4)は言う。小人の恩寵を求める態度というのは恐るべきものだ。仁宗の英明さにより国をよく治めることを重視したものの、富弼・范仲淹らが讒言により朝廷を追われ、その志を果たすことができなかったのはどういうことか。古にあっては、君主は政治や重要な事を行うにあたって、君臣が話し合い、心と計画を一つにしていた。聡明さが備わることで物事を知り、仁が備わることで物事を守り、勇気が備わることで物事を決断し、このため軽率にならず長い目で対処することにより、国を長く保った。ゆえに、小人は利己心を持つことができず、恩寵を当てにする者はそれがうまくいかなかった。もし、慶歴の事例において、始めに君臣の間を緊密にし、ずっと続くようにしておいたならば、君臣の間はそのまま保たれて、范仲淹らが追われるようなことはなかったのではないか。>
(4)羅従彦 宋の人。楊時に師事し、学者となって豫章先生と称した。南宋の建炎中に博羅主簿となり、退官後は羅浮山に隠居した。
25
八月、富弼を河北宣撫使とした。これは富弼の申し出に従ったものであった。富弼と范仲淹が朝廷を去ると石介も不安になり、地方への赴任を願い出て、濮州(1)通判となることを許された。
(1)濮州 山東省鄄城(けんじょう)県の北。
26
杜衍を同平章事兼枢密使とし、賈昌朝を枢密使、陳執中を参知政事とした。
杜衍は恩寵目当ての佞人を追いやることに注力し、内命(皇帝の私的な命令)が下っても実行に移さず、詔書が十数枚積み重なると帝の前に行って返した。帝は欧陽脩に、「他の者は杜衍が内命を封還(封をして返す)しているのを知っているのか?朕に求めることがあっても、杜衍がいつもこれを伝えずに止めているため、封還が多くなっているのだ。」と言った。
陳執中が知青州(1)から召還されるとき、諫官・蔡襄、孫甫らが強く諫めた。「陳執中は陳恕の子ですが、剛腹にして無学であります。彼に政治を任せれば天下の不幸となります。」帝は聞き入れなかった。諫官は陳執中の非難をなおもやめず、中使に勅告(帝の伝言)を託し、青州を与えようとした。翌日、諫官が宮殿に入ると帝は色をなして迎え、「陳執中を非難するのではなかったのか?朕は自分で彼を呼んでいるのだ。」と、言った。諫官はなにも言わなかった。
(1)青州 山東省益都県。
27
十一月、詔を下し、朋党同士で過ちを暴きあったり、按察使が恣意的に過酷な処置を下したり、文人がみだりに行状の怪しい者をあげつらうのを戒めた。
28
五年春正月二十八日、杜衍・范仲淹・富弼が辞職した。賈昌朝を同平章事兼枢密使に、宋庠を参知政事に、王貽永を枢密使に、呉育・龐籍を枢密副使にした。
范仲淹・富弼が辺境の安定に出向いたものの敵の数は多く、二人が執務室でできることは少し食い止めるくらいのことで、杜衍のみがこの状況の鍵を握った。杜衍は賢人を推薦して佞人を退けるのを好み、小人らはこれを嫌った。杜衍の婿は蘇舜欽であった。彼は蘇易簡の子であり、文章に巧みでその議論は権勢家の気を損ね、このとき監進奏院(1)であった。旧例に従って神を祭り、踊り子と音楽で客を楽しませたのが集賢校理・王益柔であった。彼は王曙の子であり、宴席上で戯れに「傲歌(傲は驕るの意)」を作った。御史中丞・王拱辰はこれを聞きつけ、この二人が范仲淹の推薦を受け、蘇舜欽は杜衍の婿であることから、杜衍と范仲淹の勢力を削ごうとした。そこで御史・魚周詢、劉元瑜に対し、彼らを弾劾するようそれとなく指示した。王拱辰と張方平は罪状を並べ立てて王益柔を誅殺するよう求め、范仲淹に累を及ぼそうとした。賈昌朝はひそかに王拱辰らの謀議を主導した。韓琦は帝に言った。
「王益柔は平素からおかしなことを言ってばかりいます。深謀ある者とはいえません。張方平らはみな陛下の近臣であり、国の喜びと憂いをともにしています。いま西辺で戦があり、大事なることこの上ありません。そのため普段は陛下にいちいち細かいことを述べたりはしないのですが、みな一致して王益柔を弾劾しております。このことを重視していただきたいのです。」
帝はこれに理解を示し、王益柔を左遷して監復州酒税(2)とし、蘇舜欽は官籍から除名され、王益柔の宴席にいた者十余人が退けられた。みな知名の士であった。王拱辰は、「一網打尽にしてやったぞ!」と、喜んだ。蘇舜欽は官界を放逐されてからは呉に寓居し、高僧や逸士たちと詩を詠じて自適に暮らした。杜衍は許されないと見るや、たびたび朝廷を去るよう求めるも許可されなかった。范仲淹は不安となり、政務を離れるよう願い出た。帝はこれを許可しようとしたが、章得象は言った。
「范仲淹には実際とはかけ離れた名声があります。いま彼を辞めさせてしまえば、天下は陛下が軽々しく賢臣を左遷したとみなすでしょう。ここは彼の申し出を許可しないでおくべきです。范仲淹から謝表(感謝を述べた上奏文)があれば、それは帝を欺いてなにか有利なことを要求するということです。その場合は罷免すべきです。」
帝はこれに従った。この言葉通り范仲淹から謝表が届き、帝はいよいよ章得象の言を信ずるようになった。
(1)監進奏院 進奏院(路・州の上奏文を受理し、中央に送る官署)の長官。
(2)監復州酒税 復州は湖北省沔陽(べんよう)県の西。監酒税は地方の酒税を司る官。
このとき、富弼が河北より帰還し、都の門をくぐろうとしていた。右正言・銭明逸は章得象らに迎合し、范仲淹・富弼は法をさらに厳しくして国法を混乱させ、彼らの推薦する者の多くはその朋党であると非難した。陳執中も杜衍が二人をかばっていると中傷した。帝はこれを快く思わず、范仲淹らを左遷した。杜衍は知兗州(3)、范仲淹は知邠(4)州、富弼は知鄆(5)州となった。范仲淹は病を得たため辺境への赴任を解いてもらうよう求め、知鄧州(6)となった。
(3)兗州 山東省兗州県。
(4)邠州 甘粛省彬県。
(5)鄆州 山東省東平県。
(6)鄧州 河南省鄧県。
29
二月四日、詔を発して京朝官の制度を廃止し、保任叙遷法を施行した。また、磨勘・蔭子の新法を廃止した。
30
三月五日、韓琦が辞職した。
范仲淹・富弼が朝廷を去ったとき、韓琦が上疏した。
「陛下は杜衍を宰相に用いましたが、百二十日で罷免しました。范仲淹は西夏の者と初めて親しみ、自ら辺境を守ることを志願したうえ、それ以前からの名声もあります。富弼が朝廷を出ていったことは大きな損失です。富弼には固い節操があり、天は彼に忠義を与えたのです。さきに契丹が強大な兵力で辺境に押し寄せたとき、富弼に契丹へ使者に赴くよう命じられました。彼は屈強な契丹とうまく渡り合い和議を成立させましたが、彼は出世のことなど忘れています。これは古人でもなかなかできないことです。
近ごろ李良臣が契丹から帰り、北の契丹の君主のもとから帰ってきたと盛んに言い立て、みなこれを羨んでいます。陛下は二度にわたり富弼を枢密副使としましたが、みな彼の功績を忘れ、辞退してこの職を受け入れようとせず、昇格後に赴任するよう強制してようやく批判も名誉も顧みず職務に専念するありさまです。ややもすれば国法を正しく行おうと考え、その志は陛下のために万世の業を立てようとするものであります。最近の臣僚たちはなにかにつけて忠良な者を攻撃し、私憤を満足させています。これは国家の福ではありません。陛下におかれましてはこのことをお察しいただきますように。」
上疏は受理されたものの、帝からの返答はなかった。
当初、陝西四路総管・鄭戩は、静辺砦を派遣して劉滬、著作佐郎・董士廉に水洛(1)の築城を監督させ、秦州(2)・渭州(3)から援軍をよこした。知渭州・尹洙は言った。
「賊はたびたび砦を攻撃してくるため、常に兵を一つに合わせているが、五路の将帥の兵は二万人に届かず、賊の李元昊は国中の兵を投入しようとしている。わが兵がたびたび賊に苦戦させられるのは、砦が多く兵が分散していることによる。いま、なんの理由もなく羌の田二百里を奪い、堡塁を並べ軍を駐屯させ、無駄に糧食を消費すれば、わが兵はいよいよ分散し、辺境の備蓄が不足してしまうだろう。」
これを上奏して水洛の築城をやめさせた。鄭戩は職務を退いたものの劉滬らはそのまま築城監督を続けたので、尹洙は不満を抱き、張忠を彼に代えさせようとした。だが、劉滬は交代を受け入れなかったため、尹洙は裨将(補佐の将)・狄青に劉滬と董士廉の属僚を拘禁させ、水洛の築城をやめさせた。鄭戩は上奏し続け、韓琦は尹洙を支持したが、朝臣らは鄭戩を擁護した。このため、尹洙を知慶州(4)、後に晋州(5)に移し、劉滬らを釈放して水洛の築城を再開した。韓琦は地方への赴任を願い出て、知揚州に出された。
(1)水洛 甘粛省庄浪県。
(2)秦州 甘粛省天水市。
(3)渭州 甘粛省平涼県。
(4)慶州 甘粛省慶陽県。
(5)晋州 山西省臨汾(りんふん)市。
河東転運使・欧陽脩は上疏した。
「杜衍・范仲淹・韓琦・富弼は、天下が用いるべきと評する賢人であり、罷免すべき罪などありません。古来、小人の讒言というのは浅はかなもので、善良な者を陥れようと罪を捏造して朋党をなし、大臣の地位を揺るがそうと専権をふるって誣告します。一人の善人が去っても多くの善人が残っているならば、小人の利は成就しないでしょう。多くの善人を去らしめようとしても彼らには過ちが少ないので、罪を捏造して朋党をなせば彼らをことごとく追い出すことができます。古来、大臣らは君主に司られものであり、一度信任されれば他のことによりその地位が動揺することはそうそうありません。専権というのは陛下の憎むもので、これは排除すべきものです。正しい志を持った士が朝廷にいるのは奸人らの忌み嫌うところで、謀臣を用いないのは敵国の福であります。陛下のためにこれを惜しむものであります。」
奸人らはますます欧陽脩を忌み嫌い、彼に濡れ衣を着せて知滁州(6)に左遷させ、尹洙も知潞州(7)に左遷された。
諫官・余靖、欧陽脩が相次いで朝廷を去ったが、天下は彼らを賢者と評した。宰相らは彼らを朋党であると非難し、彼らを官界から放逐しようとした。董士廉は宮殿に出向いて上書し、水洛の件で尹洙を訴えた。詔を下して御史・劉湜を遣わし取り調べさせたが、他の罪はなかった。だが、尹洙は部将・孫用を軍校から辺境の職に任じたとき、孫用は京師から金を借りており、辺境に任官する際も返済しなかった。尹洙はその才を惜しみ、公金を借りて返済にあてた。これが問いただされると、金はすでに官に返していたものの、罪を得て監均州(8)酒税に左遷された。
(6)滁州 安徽省滁県。
(7)潞州 山西省長治市。
(8)均州 湖北省十堰市の北東。
31
六月、石介が死去した。
石介は字を守道といい、兗州奉符の人であった。進士を受験し、国子直講、太子中允(1)、直集賢院(2)、濮州通判を歴任した。魯の人は彼を徂徠先生と称した。実直な風貌で生気があり、学問に造詣が深く、志が大きく、野にあって天下を忘れず、是々非々な態度で憚ることがなかった。それゆえ小人らは彼を憎み、彼の死後の名誉を傷つけようとした。石介はいつもと変わらぬ態度で、「わが道はもとよりこの通りに定まっている。」と、言った。
(1)太子中允 職務実態を伴わない官名の一。正五品下。
(2)直集賢院 集賢院直学士。館職の一。
32
十一月、京東安撫使・富弼を罷免した。
滁州の狂人、孔直温が謀叛を起こして誅殺され、彼の家が捜索された。その結果、石介の書状と孫復に贈った詩が見つかった。このとき石介はすでに他界していたが、宣徽南院使(1)・夏竦は石介が自分をそしったのを深く恨んでおり、常に復讐したがっていた。そこで、石介は死を装い、富弼が石介を遣わして契丹と結んで挙兵し、一路の兵馬を率いて内応しようとしているのだと言い、石介の棺をあばいて取り調べるよう求めた。このため詔を兗州に下し、石介の安否を調べさせることにした。このとき杜衍が兗州を治めており、属官らにこのことを話したが、みなあえて答えようとしなかった。掌書記(2)・龔鼎臣は、石介は死んでいることを一族を挙げて保証することを申し出た。提刑(3)・呂居簡も、「理由なく棺をあばこうなど、後世に範を示すことができん。」と言った。事情を記して上奏し、ようやく取り調べを免れた。これにより富弼は安撫使を罷免され、孫復は監虔州(4)税に左遷され、石介の子孫は池州(5)から出ることを禁止された。
(1)宣徽南院使 宣徽院は北院と南院に分かれるが、その南院に属する宣徽使。
(2)掌書記 州の属官。署名・印璽を司るほか、知州を補佐する。従八品。
(3)提刑 提点刑獄。路の刑事を司る官。判決を出すことが難しい案件の取り調べ、再審などを行う。
(4)虔州 江西省贛州(かんしゅう)市。
(5)池州 安徽省貴池県。