巻18 営田之議

Last-modified: 2022-10-04 (火) 01:43:49

1 営田の責任者を置く


太宗端拱(たんきょう)二年(989)春、陳恕(ちんじょ)樊知古(はんちこ)を河北東・西路招置営田使とした。また、知代州(1)・張斉賢に詔して河東諸州の屯田(営田)の経営を任せることにしたが、ほどなくして中止した。
 
(1)代州 山西省代県。

2 何承矩の上疏


(そう)(1)節度副使・何承矩(かしょうく)が上疏した。
 
「私は年少のときから先代の臣に近侍して関南(2)へ行っていたため、北辺の道路や川の形勢について熟知しております。もし、順安(さい)の西に易河の蒲口(ほこう)を開けば、水を東に導いて海に注ぎ、東西三百余里、南北五十から七十里に渡って、湖沼をつくるもととなります。ここに堤防を築いて水を貯め、屯田をつくれば、敵騎の前進を阻むことができます。一年の間に、関南の湖沼が塞がれば、種をまいて稲田(とうでん)とします。縁辺の州軍で、ため池がすぐ近くにあれば、城を守る軍士を置くだけで、兵を発して広く守る必要もなく、地の利を活かして辺境の守りを充実させ、険阻な障壁を設けて防塞とすることができます。春と夏には農業を課し、秋と冬には軍事訓練をし、民を休息させ、国家の綱紀を守る助けとなります。このようにして数年を経れば、敵国は弱まり、わが国は強まり、敵国は疲れ、わが国は休まることができます。これが辺境防備の要訣(ようけつ)であります。
 
順安軍(3)以西は西山から百里にあたる場所ですが、水田がありません。兵を選んでこの地を守り、精鋭を選んで弱卒が入り混じっている状況を改めるよう望みます。兵というのは、それが少ないのを憂えるのではなく、驕慢(きょうまん)で職務に専心しないのを憂えるのです。将というのは、それが惰弱であるのを憂えるのではなく、見方が偏って無謀であるのを憂えるのです。兵が精強で将が賢明であれば、四方の辺境は枕を高くして憂いがなくなることでしょう。」
 
帝はこれを褒めて受け取った。
 
(1)滄州 河北省滄州市。
(2)関南 河北省の大清河流域以南から河間市一帯の地域。
(3)順安軍 河北省高陽県の東。
 
時あたかも、長雨による災害があり、滄州の官吏の多くはその地の不便さを非難した。何承矩は漢・魏から唐に至るまでの屯田の故事を引き、官吏らの論議を裁き、職務があれば必ず実行した。また、たまり水を蓄えてため池をつくり、稲田を広くつくって食を満たすべきであるとも言った。
 
滄州臨津(りんしん)(4)令で、(びん)(福建)の人、黄懋(こうぼう)が上言した。
 
「閩の地ではただ水田に種をまき、山沿いに水を導くだけで、労力を二倍費やします。河北の州軍はため池が多く、水を引いて田に注げば、労力を省いて容易に水田をつくることができます。三年から五年の間に、官民ともに大きな利益を得ることでしょう。」
 
このため、何承矩に詔して現状を調査させ、上奏に応じて黄懋の言の通りとした。何承矩を制置河北沿辺屯田使とし、黄懋を大理寺丞(5)とし、判官を充て、諸州鎮の兵一万八千人を労役に供した。雄(6)・莫(7)・覇州(8)・平戎(9)・順安等の軍で、六百里にわたって(せき)を造り、水門を設け、ため池の水を引いて灌漑した。初年は稲を植えたが、霜にあたって実らなかった。黄懋は、晩稲が九月に熟し、河北は霜が早くて気候の変化が南方に対して遅く、江東の早稲(そうとう)が七月に熟すことから、その種を取って河北の水田にまくようにさせた。この年八月、稲が熟した。何承矩は稲穂を数台の車に載せ宮殿に送らせると、群臣は嘆息した。河北は水草とはまぐりが生い茂るようになり、民はその利益を頼みとした。
 
(4)臨津 河北省東光県の東。
(5)大理寺丞 宋初にあっては実際の職務のない官名。従六品上。
(6)雄州 河北省雄県。
(7)莫州 河北省任丘県。
(8)覇州 河北省覇県。
(9)平戎軍 保定軍のこと。覇県の南。

3 陳尭叟の上奏


度支(たくし)判官・陳尭叟(ちんぎょうそう)らが言った。
 
「漢・魏・晋・唐は、陳(1)・許(2)(とう)(3)(えい)(4)および(さい)(5)・宿(6)(はく)(7)から寿春(8)まで、水の流れを利用して田を開墾し、その跡が残っています。官を選んで大いに屯田を開き、水を疎通させることを望みます。長江・淮河の下軍、散卒(9)および募った民を労役にあて、官銭を支給して牛を買い、耕具を備え、運河を導き、堤防を築くべきです。屯田一つにつき十人を置き、一人につき一頭の牛を与え、五十()の田を管理させます。古代の制度は一人が百畝を耕し、今ではその半分を耕すのみですが、長く待てば古代の制度を復活させることができます。畝ごとに約三(こく)の収穫が望め、毎年十五万斛を収穫できるでしょう。先に挙げた七州に二十の屯田を置けば、三百万斛が取れるでしょう。こうして収穫を増やせば、数年で倉庫が充実し、長江・淮河(わいが)からの穀物の漕運を省くことができます。まだ開いてない民田は、官が植え付けをし、まだ開いてない公田は、民を募って耕すこととします。毎年の収穫の取り分は、民間の主戸(10)と客戸(11)の例にならうこととします。『傅子(ふし)(12)に、『陸田の命は天に懸かる。』とあります。陸田は人の労力で管理していても、水害・旱害(かんがい)が突然起これば一年の苦労が水泡に帰します。水田の方式は人の労力によりますが、それでよく管理していれば地の利を尽くすことができ、虫害も陸田より少ないのです。水田がよく管理されていれば、その利は倍になります。」
 
帝は上奏を読んでこれを褒め、大理寺丞・皇甫選(こうほせん)、光禄寺丞・何亮(かりょう)を遣わし、調査の上で上奏の通りに屯田を経営させることとした。しかし実行はされなかった。
 
(1)陳 河南省淮陽県。
(2)許 河南省許昌市。
(3)鄧 河南省鄧州市。
(4)潁 安徽省阜陽市。
(5)蔡 河南省汝南県。
(6)宿 河南省亳県。
(7)亳 河南省亳県。
(8)寿春 安徽省寿県。 
(9)下軍、散卒 ここでは雑役に従事する地位の低い兵を指す。
(10)主戸 自己の土地を所有する農民。大規模な土地を所有し、客戸(小作農)を雇って耕作させる地主層から、小規模な土地を所有して自ら耕作する中小土地所有農民層までを指す。
(11)客戸 自己の土地を所有せず、地主のもとで耕作に従事する農民。
(12)『傅子』 晋、傅玄撰。政治・道徳のあるべき姿について論じる。

4 陳靖の上言


至道二年(996)、直史館(1)陳靖(ちんせい)が上言した。
 
「先帝の民を厚く生かそうとすること、穀物を貯蔵し農業に励むのを先にし、塩鉄と酒の専売を末にする、などということはありませんでした(必ずしも農業を重視していたのではありません)。天下の田土を調べるに、江淮(こうわい)(江蘇)・湖湘(こしょう)(湖南)・両浙(りょうせつ)(浙江)・隴蜀(ろうしょく)(四川)・河東(山西)の諸路を除き、遠く離れたところにあるため、督促してもすぐには収穫を得ることができません。都の周辺二十二州は、数千里の幅があります。このため、土地の開墾は十のうち二、三にとどまり、税を納める者は十のうち五、六もありません。
 
また、家に隠れて逃亡したと称し、耕作しないで遊んでいる者がいるため、納税される額は毎年減っており、国家の経費は不足しております。詔書をたびたび下し、逃亡した民にもとの仕事に戻ることを許し、その者の租調を免除し、納税の時期を延期するようにしています。しかし、郷県がこれを守らず、一戸が帰業するたびに官吏に通報し、(あした)にわずかな土地を耕作させ、暮れに徭役を負わせ、捕盗の役人が次々とやってきて問い詰めています。通常の税をむやみに免除しても、飢え死にを免れるものではありません。まして民が土地を捨てて移り住むのは貧困によるのであり、債務を逃れ、国税を逃れるのであります。その者が逃亡すれば、郷里の役人は家屋や什器(じゅうき)・桑・(なつめ)・材木に至るまで資財を調べ、その価格を評価します。そして郷里の役人が税の納入にあてたり、債権者が貸した金の償還にあてたりします。逃亡者の生計は成り立たなくなり、帰ってきても行くところがなく、流浪の身となり、もとの耕作生活に戻るのを断念してしまっています。
 
もし遊んでいる民を広く募り、誰も耕していない田を与えて開墾させ、当面の間税を課さず、戸籍と土地台帳を別につくるのを許してその地の便宜に任せ、民力の多寡、土地の肥瘠(ひせき)に応じて等しく田を与えれば、税の督促に煩わされることなく(2)、民が疲れることもなくなるでしょう。逃亡した民がもとの耕作に戻るときは、成年男子の数に応じて田を与え、その他細々としたことは大司農(3)の裁決を得ることとします。耕作と桑の植樹のほか、雑木と蔬菜(そさい)・果物を植え、羊・犬・鶏・豚を飼育させます。桑を植える土地を与え、これを井田(せいでん)(4)になぞらえ、住居を造り、保伍(ほご)(5)を組織させます。老人の養生や葬送の道具、慶弔の贈り物の資金については、制度を立てることとします。三年から五年を待ち、生計が安定してきたら戸数を数えて徴税額を定め、田地を測量して納税させます。もし民力が不足していれば、官が穀物を買う銭を貸し、または食糧や耕具を買うこととします。このような田の授与は司農寺に委任し、秋の収穫期になってから、借金を返済させ、時価によって税を金銭で代納させ、その数を戸部に報告させます。」
 
(1)直史館 暦の編纂に携わっていたが、後に編纂から離れて兼職の官名となった。
(2)土地の肥瘠に応じて……督促に煩わされることなく 『長編』巻四〇、太宗至道二年秋七月庚申の条に、「相農畝之磽肥、均配畀之、無煩督課」とある。よって、訳文のとおり改める。
(3)大司農 司農寺(農業のほか、籍田や祭祀に用いる猪、蔬菜などを取り扱う官署)の長官。
(4)井田 古代に行われたとされる土地制度。真ん中を公田とし、周辺の八つの田を八つの家に所有させた。
(5)保伍 犯罪防止を目的とする郷村の組織。五家を一甲として、その上に小保・大保などを置く。
 
帝はこれを読んで喜び、陳靖に詔して上奏させた。
 
陳靖はまたこうも言った。
 
「逃亡した民で復業したい者、流浪の身で耕作につくことを願い出る者は、農業担当の官にその者を調査させます。そして田土を支給し、戸籍に収め、州県はまだその者を差役につけてはならないこととします。食糧と種が乏しく耕牛のない者には、司農寺に官銭を貸し出させます。田制は三品を設けます。肥沃で水害・旱害(かんがい)の恐れのない土地は上品、肥沃(ひよく)ではあるが水害・旱害の恐れのある土地、()せているが水害・旱害の恐れのない土地は中品、瘠せていて水害・旱害の恐れのある土地は下品とします。上田は一人につき百()、中田は百五十畝、下田は二百畝を与えます。五年後に租税を納めさせますが、百畝につき十分の三だけを納めさせます。一家に三人の丁(成年男子)があれば、請求により与えられる田は丁の数に従います(この場合は三丁に支給します)。五丁の場合は三丁の場合と同じく、三丁に支給します。七丁の場合は五丁に支給します。十丁の場合は七丁に支給します。二十、三十丁の場合は十丁を上限とします。
 
広い郷村で田が多ければ、農業担当の官の裁量で課税します。住居・蔬菜・梨・棗・(にれ)・柳といったものを栽培する土地は、一戸十丁ごとに百五十畝を支給し、七丁は百畝、五丁は七十畝、三丁は五十畝、三丁に満たない場合は三十畝を支給します。桑の税を除いて五年後に課税額を計算し、その他の税はすべて免除します。」
 
宰相の呂端は、「陳靖が定めようとしている田制は旧法を多く改めるため、莫大な費用がかかります。」と言った。そして費用のことについて有司に報告し、塩鉄使(6)陳恕(ちんじょ)らに詔して議論させ、陳靖の上奏の通りにするよう請うた。陳靖は京西勧農使となり、陳・許・蔡・(えい)(じょう)(とう)・唐・(じょ)などの州を調査し、民に墾田を勧め、大理寺丞・皇甫選(こうほせん)、光禄寺丞・何亮(かりょう)が補佐した。皇甫選と何亮は、「成果を挙げることは難しく、これをやめるよう願います。」と上言した。だが、帝の志は農業を振興させることにあり、重ねて陳靖に詔して計画を推進させた。ほどなくして、三司が多額の官銭を費やし、万一水害や旱害があれば無駄になってしまうため、この計画は中止された。
 
(6)塩鉄使 山川の資源、市場、河川などのことを司る官署の長官。