巻45 洛蜀党議

Last-modified: 2023-06-17 (土) 15:33:34

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哲宗元祐元年(1086)三月二十四日、程頤(ていい)を崇政殿説書(1)とした。

程頤は治平・元豊のとき、大臣らにたびたび推薦されていたが、これを受けることはなかった。ここに至り、司馬光・呂公著が程頤の道理にかなった行いを上疏した。
「河南の処士(2)程頤は学問に励んで古きを好み、貧困に安んじて節を守り、言は必ず信義を貫き、ややもすれば礼法を守り、年五十を越えて仕官を求めず、真の隠者、聖代の逸民であります。順序を越えて抜擢し、士人の模範としていただきたく思います。」
これを受け、程頤を西京(3)国子監教授とした。しかし、程頤が固辞したため、秘書省(4)校書郎(5)とした。程頤が入対すると、崇慶殿説書に改めた。

(1)説書 皇帝に経書を講義する官。
(2)処士 才能がありながらも隠居して仕えない人。
(3)西京 西京河南府。河南省洛陽市。
(4)秘書省 三館秘閣を統合し、図書や暦を司る官署。
(5)校書郎 図書の文字を校正する官。従八品。

程頤は上疏した。
「学習と知識に優れていれば、教化と心が完成します。子弟をよく指導する者は、必ずや名望と徳を備えた士となるものであり、これとともに居させれば精神を薫陶することができます。まして陛下はまだお若く、その英明さは天賦の資質を備えていますが、補佐が至らないことがあってはなりません。おおむね一日の間、賢人と接する時間を多くし、宦官や(めかけ)と親しむ時間を少なくすれば、気質が変化して自然に精神が完成されるのです。ここはどうか名高い儒者を侍講とし、講義が終われば彼らをそばに居させ、いつでも質問できるようにし、陛下に過失があれば諫言(かんげん)を申し上げることができるようにしてください。歳月が積み重なれば必ずやご聖徳を養うことができましょう。」

程頤は進講の度ごとに厳粛な面持ちで臨み、諷喩(ふうゆ)の諫言で言葉を紡いだ。帝が宮中で体を洗っているときに蟻をよけたと聞き、尋ねた。
「そのようなことがあったのですか?」
「うむ。傷つけるのを恐れてのことだ。」
「そのお心を四海に押し広めることこそ、帝王の要道です。」
帝が欄干に寄りかかって柳の枝を折ると、程頤は色を正して言った。
「まさに春の時が和し、万物が生い茂っているというのに、軽々しく枝を折って天地の和を傷つけるものではありません。」
帝はこれにうなずいた。

2


九月十二日、蘇軾(そしょく)翰林(かんりん)院学士とした。

蘇軾は登州(1)から呼び戻され、十か月の間に三度昇進して高官に上りつめ、侍読を兼任した。経筵(けいえん)で進読するとき、治乱興亡や正しい考え方と悪い考え方、政治の得失が問題となる部分に差しかかると、何度も繰り返し読んで帝を啓発し、帝に物事を悟らせるようにした。常に宮殿にいて便殿で謁見した。太后は問うた。
「そなたは以前どのような官職に就いていたのですか?」
「常州(2)団練副使です。」
「今は何の官を?」
「罪を待つ翰林学士です。」
「どうやってここまで昇進したのです?」
「太皇太后と皇帝陛下に出会えたからです。」
「それは違います。」
「大臣の推薦があったのですか?」
「それも違います。」
蘇軾は驚いて言った。
「私は何の功績もありませんが、他の方法で昇進を望んだことはありません。」
「これは先帝のご意思です。先帝はそなたの文章を読むたびに『奇才だ、奇才だ』と讃嘆していたものです。しかし、そなたを用いるには及ばなかったのです。」
蘇軾は思わず泣いて声を失った。太后と帝もまた泣き、側近らもみな感涙した。茶を与え、御前の金蓮(きんれん)蠟燭(ろうそく)を翰林院に贈った。

蘇軾は翰林院にあって、文章で政治について諫言した。畢仲游(ひっちゅうゆう)が手紙を書いて戒めたが、蘇軾は従わなかった。

(1)登州 山東省蓬莱区。
(2)常州 江蘇省常州市。

3


二年(1087)三月、程頤(ていい)は崇政・延和殿講読に就くことを願い出て、上疏した。

「私は最近、邇英(じえい)殿が暑いため崇政・延和殿講読に就くことを願い出ました。聞くところによれば、給事中・顧臨が私を延和殿講読にすべきでないと言ったとのことです。顧臨の意を推し量るに、講官が殿上に座って君主に講義してはならないということに過ぎません。遠い昔に例を引く(いとま)がなく、本朝の故事だけで言えば、太祖は王昭素を招いて『易』を講じさせ、真宗は崔頤正(さいいせい)に『尚書』を講じさせ、邢昺(けいへい)は『春秋』を講じましたが、彼らはみな殿上にあり、当時は坐講の形でした。立講は明粛太后の意向により始まりました。これは祖先が儒学と道理を重んじた美点であり、子孫がならうべきであるばかりか、万世の帝王がのっとるべきものです。世の人は君主を尊ぶと口では言いますが、君主を尊ぶ道を知りません。人君は高い道徳が備わっていれば尊く、権勢が備わっていれば崇高の極み、その尊厳は至高であり、ほかに加えることができません。」

また言った。
「天下の重責は宰相と経筵(けいえん)のみ。天下の治乱は宰相にかかっており、君主の徳の完成は経筵に求められる。」

4


八月二日、崇政殿説書・程頤(ていい)を罷免した。

程頤は経筵の席で古来からの礼法を用いることが多かったが、蘇軾(そしょく)は常識から外れているとして強く嫌い、常に侮蔑的な言動をとった。司馬光が亡くなったとき、百官は祝賀の礼を行っており、それが終わり次第弔事に赴こうとしたが、程頤はこれに反対して言った。
「人はこのような日にあって、泣けば歌わないものだ。」
ある者が言った。
「歌うなら泣かないということではない。」
蘇軾は言った。
「田舎者の叔孫通(しゅくそんとう)がこの礼を定めたのだ。」
こうして二人は仲が悪くなった。

蘇軾は館職の者に対し策問(1)を行ったことがあった。その問題文にはこうあった。
「今朝廷は仁宗の忠義にならおうとし、百官と当局が職責を果たさず、あるいは悪賢くなるのを恐れている。また、神宗の精励の精神にのっとろうとし、監司(2)・守令(3)その意を知らず苛刻な政治を行うのを恐れている。」
ここに於いて程頤の門人の右司諫・賈易(かえき)、左正言・朱光庭らが、蘇軾の策問を弾劾してそしった。このため蘇軾は地方への赴任を願い出た。
殿中侍御史・呂陶は言った。
「御史台と諫官は公正さを示すものであり、その職権を使って自分の嫌う者に報復をすべきではありません。」
右司諫・王覿(おうてき)は言った。
「蘇軾の言葉遣いは程度の軽重の問題に過ぎません。文字の異同を詳しく調べ、嫌疑を深く追及すれば、賛否が分かれて朋党(ほうとう)の議論が巻き起こるでしょう。学士(蘇軾)の言葉遣いが陛下の意に沿わなかったとしてもそれは小さな問題であり、士大夫らに朋党の名を着せることのほうが大きな問題です。」
太后はこれに賛同し、朝廷で述べた。
「蘇軾の文章の意味を詳しく検討したが、これは今日の百官・有司・監司・守令のことを言ったものであり、祖先をそしったものではない。」
范純仁も蘇軾は無罪であると言い、蘇軾は不問に付されることとなった。

(1)策問 政治についての見識を答えさせる試験。
(2)監司 監察官。
(3)守令 郡守と県令。

このとき帝は風疹(ふうしん)にかかり、宮殿に出てこなかった。程頤は宰相・呂公著のもとを訪ねて尋ねた。
「帝が宮殿にいらっしゃいません。ご存知ですか?」
そして言った。
「二聖(帝と太后)が朝廷にいらっしゃるとき、陛下がおられないのであれば、太后がひとりおられるわけにもゆきません。君主が病にあるのに大臣が知らないなど、これでよいのでしょうか?」
翌日、宰相は程頤の言に促されて帝を見舞った。このため大臣らは不愉快になった。そこで御史中丞・胡宗愈(こそうゆ)、給事中・顧臨がともに上奏し、程頤を経筵の席に置くべきでないとそしった。
諫議大夫・孔文仲(こうぶんちゅう)は上奏した。
「程頤は卑しい佞人(ねいじん)で郷里での徳行もなく、経筵の場で自説を述べ、僭越(せんえつ)にして分をわきまえておりません。高官や台諫に会い、悪口を言って人々の仲を裂いて恩恵にあずかり、市井は五鬼の筆頭と目しております。程頤を郷里に送り返し、法のあるべき姿をお示しいただきたく存じます。」
これを受け、程頤を罷免して西京国子監の長官とした。

5


呂公著は一人で政治を取り仕切っていたが、他の群臣は仲間につき従わざるを得ず、洛党・蜀党・(さく)党の語が生まれた。洛党は程頤(ていい)を指導者とし、朱光庭・賈易(かえき)を補佐とした。蜀党は蘇軾(そしょく)を指導者とし、呂陶らを補佐とした。朔党は劉摯(りゅうし)梁燾(りょうとう)王巖叟(おうがんそう)・劉安世を指導者とし、補佐する者は最も多かった。このとき、熙寧・元豊時代に仕えた者たちは朝廷を退いていたが、怨み骨髄に入り、密かに乗ずる隙をうかがっていた。みな事態を悟ることなく、それぞれ朋党(ほうとう)をつくり、互いに非難し合った。呂大防は秦の人で、剛直で朋党に関わらなかった。范祖禹(はんそう)は司馬光を師とし、朋党をつくらなかった。

帝はこれを聞くと、胡宗愈(こそうゆ) に質問した。胡宗愈は答えた。
「君子が小人を(かん)と言えば、小人は君子を党と言います。陛下が中立の士を選んで用いることができれば、朋党の禍はやむでしょう。」
そして『君子無党論』を献上した。

6


冬十月、右司諫(うしかん)賈易(かえき)を降格させた。

程頤(ていい)蘇軾(そしょく)は仲が悪く、その朋党(ほうとう)も互いに非難し合っていた。賈易は呂陶の朋党である蘇軾兄弟を弾劾し、文彦博(ぶんげんはく)・范純仁を非難した。太后は怒り、賈易を厳しく叱責しようとした。呂公著は言った。
「賈易の言もまた率直であります。大臣を激しくそしっているだけのことです。」
このため賈易を罷免して知懐州(1)とした。

呂公著は御前を退いて宰相らに言った。
「諫官は得失を論じていない。主上はまだお若く、迎合してお心を惑わす者が現れるのが心配だ。ここは側近と諫官を頼りとし、陛下に耳に痛い言葉を軽んじさせてはならない。」
みなこの言葉に感服した。

(1)懐州 河南省沁陽(しんよう)市。

7


三年(1088)三月、孔文仲(こうぶんちゅう)が亡くなった。

呂公著は言った。
「孔文仲は大勢に抗して直言していたが、愚かで世事に通じていなかった。諫言(かんげん)するときにも軽薄な輩に利用されて善良な者を害してしまった。後にだまされたことを知り、憤慨して血を吐き、起き上がれなくなった。」
呂公著の言葉は程頤(ていい)をなじるものであった。

8


胡宗愈を尚書右丞(宰相)とした。

諫議(かんぎ)大夫・王覿(おうてき)は、胡宗愈が『君子無党論』を帝に献上したのを悪く思い、彼に政治を執らせるべきでないと上疏した。太后は大いに怒った。范純仁(はんじゅんじん)文彦博(ぶんげんはく)・呂公著は簾前(れんぜん)で弁護したが、太后の怒りは解けなかった。

范純仁は言った。
「朝臣は党派にかたよることなく、ただ善悪正邪をもって物事を見極めるものです。文彦博・呂公著はいずれも代々に渡って仕えてきた者です。どうして迎合して帝をだますようなことがありましょう。昔、わが父(范仲淹(はんちゅうえん))と韓琦(かんき)富弼(ふひつ)が慶歴(仁宗・1041~48)のとき、ともに宰相となり、おのおの知人を推挙したところ流言が飛び交い、朋党(ほうとう)をつくっていると非難され、三人は相次いで地方に出されました。三人をそしった高官らは『一網打尽だ』と喜びました。これは遠い日のできごとではありません。陛下はこれを戒めとしてください。」
そして前代の朋党の災いについて直言し、欧陽脩の『朋党論』を写して献上した。

結果、王覿は知潤州(1)に出され、胡宗愈はもとの官職のままとなった。

(1)潤州 江蘇省鎮江市。

9


五年(1090)春正月、程頤(ていい)は父の守制(1)を理由に朝廷を去った。

台諫(だいかん)賈易(かえき)が程頤にへつらっていると非難した。賈易を再度降格させて知広徳軍(2)とした。

(1)守制 祖父母・父母の喪にあって、官職に就いている者が辞職し、科挙受験者が受験をとりやめ、庶民が婚姻をとりやめること。
(2)広徳軍 安徽省広徳市。

10


六年(1091)二月、蘇轍を尚書右丞とした。

蘇轍への任命が下ると、右司諫(うしかん)・楊康国は言った。
「蘇轍兄弟は文学の才能がないとは申せませんが、正道を行っているとも申せません。彼らの学問とは張儀・蘇秦の学問であり、彼らの文章は奔放で縦横無尽であり、落ち着きがありません。陛下が蘇轍の文学を好み、これを用いて疑わないのであれば、それは王安石を用いるのと同じです。蘇轍は文学をもって自負し、剛腹で人に勝つことを好み、王安石と何ら変わりありません。」
帝からの返答はなかった。

11


六月、翰林(かんりん)院学士承旨・蘇軾(そしょく)が辞職した。

蘇軾が(こう)(1)から呼び戻された。ほどなくして侍御史・賈易(かえき)は、蘇軾が元豊の末に揚州(2)にいたとき、先帝が(みまか)られたのを聞いて詩を作り、また、呂恵卿が詔書を起草したとき、いずれもその内容が先帝をそしり、人臣としての礼を欠くものであったと非難した。御史中丞・趙君錫(ちょうくんしゃく)もこれに続いて同じことを言った。太后は怒り、賈易を罷免して知宣州(3)とし、趙君錫を知(てい)(4)とした。呂大防は蘇軾を二人とともに罷免するよう求めた。そこで蘇軾を知(えい)(5)とし、次いで知揚州に改めた。

(1)杭州 浙江省杭州市。
(2)揚州 江蘇省揚州市。
(3)宣州 安徽省宣城市。
(4)鄭州 河南省鄭州市。
(5)潁州 河南省阜陽市。

12


七年(1092)三月、程頤(ていい)の喪が明けた。三省は程頤に館職を与えようとしたが、判検院(1)・蘇轍が進み出て言った。
「程頤が朝廷に入ればおとなしくしてはいないでしょう。」
太后はこの意見を受け入れた。范祖禹(はんそう)は言った。
「程頤の経学と義にかなった行いは天下の周知するところ。司馬光・呂公著がどうして陛下をだますことがありましょうや。民間の人であるためいまだ朝廷のしきたりに慣れておりません。しかし、程頤を非難する者たちのように、他意があってのことではありません。ここは程頤を侍講にお迎えください。必ずや陛下の助けとなることでしょう。」
これを受け、程頤を直秘閣(2)・判西京国子監に任じたが、程頤は二度上奏して辞退した。

御史・董敦逸(とうとんいつ)は程頤の恨み言を探し集め、管勾(かんこう)崇福宮に改めさせた。

(1)判検院 判登聞検院事。登聞検院の長官。登聞検院は鼓院(官民からの意見書を受け取る官署)で留め置かれた意見書を再度受け付ける官署。
(2)直秘閣 皇帝への書籍の進読、書籍の点検・書写を行う官。正八品。

13


九月、蘇軾(そしょく)を兵部尚書(1)兼侍読とした。

(1)兵部尚書 兵部の長官。従二品。

蘇軾は揚州から兵部尚書兼侍読として呼び戻され、次いで礼部に移り、端明殿と侍読の二つの学士を兼任した。御史・董敦逸(とうとんいつ)、黄慶基は言った。
「蘇軾は中書舎人だったとき、呂恵卿と詔を起草して先帝を非難したことがあります。弟の蘇轍は表裏一体となり朝政を乱しています。」
呂大防は上奏した。
「先帝は中国の力を強めようと西方の蛮族を征服しにかかり、一時は群臣が過分にその方針に従おうとし、参考にした故事も適切さを欠きました。太皇太后と皇帝が君臨され、民の欲するものがあれば救済したり制度を改めたりしておられ、当然の道理といえます。最近は諫官(かんかん)がこのことを理由に士人を中傷し、朝廷を動揺させようとしており、非常によからぬ意図があります。」
蘇轍は兄を弁護して言った。
「呂恵卿の書いた先帝を非難する言葉とは、先帝に言及してはいますが、そこには『最初に尭の仁にならい、伯鯀(はくこん)の行いを試み、最後は孔子の英知を拠りどころとしたが、宰予のやり方は信じなかった。』とあり、最初から先帝を誹謗(ひぼう)したものではありません。」
太后は言った。
「先帝は往時のこと(西夏との戦争)を悔い、涙を流していました。」
呂大防は言った。
「先帝は一時の過ちを犯しましたが、本意ではありません。」
太后は言った。
「このことは宰相らが深くわきまえるべきです。」

こうして、董敦逸・黄慶基を湖北・福建路転運判官(2)とした。

(2)転運判官 転運使司(地方の財政を担当する官署)に属する官。