1
哲宗元符三年(1100)春正月、帝が崩御した。
皇太后・向氏は哭礼して宰相らに言った。
「国家の不幸は帝に後継ぎがないことだ。早急に決めなくては。」
章惇は大声で言った。
「礼と律に照らし、母弟の簡王・趙似さまを立てるべきです。」
太后は言った。
「私には子がなく、諸王はみな神宗の庶子だ。このように事情は明白だ。」
「年長者をというのであれば、申王・趙佖さまがよろしいかと。」
「申王は眼病にかかっている。よくない。その次の端王・趙佶がよかろう。」
「端王は軽薄です。天下の君たるにふさわしくありません。」
言い終わらぬうちに曽布が叱った。
「章惇はこのことについて私と相談したことがない。皇太后さまのお考えに従うのは至極当然のことだ。」
蔡卞・許将が相次いで言った。
「お考えに従うべきです。」
太后はまた言った。
「先帝は以前、端王には幸福と長寿、仁愛と孝順があると言っていた。」
章惇は黙り込んでいた。
端王が宮殿に入ると、哲宗の棺の前で即位した。群臣は太后に軍事と政治を一時共同で処理するよう求めたが、帝がすでに年長であることから辞退した。帝は今まで過ごしてきた居所を拝して泣き、太后はこれを許した。端王は神宗の第十一子であった。
2
三月二十四日、四月一日に日食が起こるであろうことから、直言を求めた。
筠州(1)推官・崔鶠が上奏した。
「諫言の道というのは、激越に過ぎずして君主に注意を促すことにあります。激越ならば誹謗に近いものになります。人臣として君主を誹謗したとの評判があれば、それは佞人がたやすくそれに乗ずる原因となり、君主が事態を悟らない原因となり、天下が口をつぐんでものを言わない原因となり、諫言をためらうことになります。
(1)筠州 江西省高安市。
私は以前史書を読み、漢の劉陶・曹鸞、唐の李少良について知りましたが、感動を覚えるざるを得ず、山林にこもって帰らないという決然とした意志を感じました。最近、国家が日食を前にして直言を求めていると聞き、伏して詔書を読みまするに、『失言に対しては、朕は罪を加えない』との文言が見えます。陛下が真情を述べ、度量を広げられて以来、天下の言はこのように開かれているというのに、聞いたことを隠して一切を話そうとしないのは、臣下が陛下に背くということであります。
今、政令は煩雑・過酷で民は混乱し、風俗は険悪・軽薄で法はこれを抑えることができず、逐一これを述べる時間もないため、忠実な側近と邪悪な側近の判別を根本として述べたく思います。私は民間に生まれ朝廷の士を知りませんが、元祐の臣を奸人の党と言う者が側近にいれば、それは邪悪な人です。漢の党錮、唐の牛李の禍が再び今日に現れようとしているのは大変驚くべきことです。
そもそも毀誉褒貶というのは朝廷の公議であります。ゆえに朱崖軍司戸・司馬光を左遷したことについて、側近は彼を奸人とし、天下は忠臣であったとしています。今の宰相・章惇について、側近は彼を忠臣とし、天下は奸人であるとしています。これはどんな道理でしょうか?奸人について簡略に述べさせていただきたいと思います。
時に乗じて人を責めて富貴を盗み、わずかなきっかけを探して権勢を固めようとする。これを奸可といいます。贈り物が家の門にあふれ、絶え間なく会いに来る者が続き、不逞の輩と交わり、宮廷に党派をつくる。これを奸可といいます。奇抜な芸で君主の心を惑わし、俳優や女色で君主の徳を損なわせ、ひとり賞罰を操り、自ら恩と恨みに報いる。これを奸可といいます。君主の耳を塞ぎ、正直な者を排斥し、それとなく進言する者を風刺し、直言する者を指弾し、天下の言路を塞ぎ、滔天の罪を覆い隠す。これを奸可といいます。これらのことを司馬光は行っていたでしょうか?章惇は行っているでしょうか?そもそも実があって名がこれに従うものです。実がないのに名があるというのでは、誰がこれを信じるのでしょうか?
『狐を狸と言う者は狐を知らないだけでなく、狸をも知らないのだ。』といいます。それゆえ佞臣を忠臣とする者は忠臣を佞臣とするのであって、ここに賞罰の濫用が生じるのです。賞罰が濫用されれば佞人は落ち着くことがなく、このようにすれば国が乱れることがありません。このようなことはかつてなかったことです。
司馬光は忠実をもって中華と夷狄に聞こえ、古の名臣も及ぶところではありませんでした。これを奸人と言うのは天下を欺くことであります。章惇のごときは狡猾にして凶悪、天下の士大夫は『惇賊』と呼んでいます。『貴極宰相』と、人がうらやんで名として(表面では)そう呼んでいるのですが、裏では賊と言ってもいるのです。これは君主の恩に背き、国権をもてあそび、忠臣が憤激し、義士が納得できず、ゆえに彼をおとしめて『貴極宰相』という名とし、その実を指して『賊』と呼んでいるのです。京師では『大惇・小惇、その災いは子孫に及ぶ。』と言われています。これは章惇と御史中丞・安惇のことです。小人は彼らを毒蛇と毒虫に例え、その残忍さは天性に根差し、この二人が遭遇すれば必ず害を生じます。天下に大事なくとも賊は忠良な者を陥れるだけでなく、善良な者を攻撃し、緩急あれば必ず自壊し、不忠義の心が蓄えられます。
近年、諫官は政事の得失を論ぜず、御史は奸人を弾劾せず、門下は詔令を封還せず、みな沈黙して自分に有利な計をなさんとしています。昔、李林甫が宰相の位に十九年間おり、海内はこれを恨みましたが、君主は気づきませんでした。最近、鄒浩が諫言して罪を得ましたが、大臣らは拱手傍観して一語も発することなく、命令に従って彼を排斥しました。そもそも股肱の耳目は治乱安危に関わることであり、一切がこの通りです。陛下には尭・舜のような聡明さがあるとはいえ、誰がこれを言わせ、誰がこれを行わせようとしているのでしょうか?
日とは陽であり、これを食すのは陰であります。四月は正陽の月であり、陽極が盛んで陰極が衰えるときです。しかし、日食は陰が陽に干渉するということであり、その変化は大きなものです。陛下が天威を恐れてその命令を聴き、大いに決断して正邪を明らかにされ、経学の道理に背くことなく、民心を塞ぐことのないようにすれば、天意は解きほぐれることでしょう。もし鼓をうち祭器を用い、素服(白装束)を着て楽器を撤去しても、徳を修め善政を布くことがなければ、天に応えることはできません。」
帝はこの上奏文を読んで崔鶠を褒め、相州(2)教授とした。
(2)相州 河北省安陽市。
3
龔夬を殿中侍御史とし、陳瓘・鄒浩を左・右正言とした。韓忠彦らが彼らを推薦した。
御史中丞・安惇は言った。
「鄒浩を再び用いれば、先帝の失敗が明るみになります。」
帝は言った。
「劉后の冊立は大事であった。だが中丞は何も言わず、鄒浩だけが直言した。なぜ用いてはならないというのだ!」
安惇は恐れおののいて退いた。陳瓘は言った。
「陛下が正しい道を開きたいとお思いならば、鄒浩の行ってきた善行を採用すべきです。安惇は陛下のお耳を惑わして私欲を満たそうとしています。善人と悪人を区別したくば、まずは安惇から始めるべきです。」
このため安惇は知潭州(1)に転出させられた。
(1)潭州 湖南省長沙市。
4
夏四月二十一日、范純仁らの官職をもとに戻した。
范純仁は永州(1)にいた。帝は中使を遣わして茶と薬を送り、言葉を伝えた。
「朕がまだ藩王の屋敷におり、太皇太后が宮中で政務を執っていたとき、あなたは先朝にあって直言してきたが、今は失われた宰相の位にある。眼病の調子がどうかはわからないが、誰に治してもらっているのだ?」
范純仁は頓首して礼を述べた。
鄧州(2)に居を移したとき、観文殿大学士・中太乙宮使を拝命した。その命令書にはこうあった。
「ただ年長者を尊重して優遇しようというのではない。どうか直言と遠大な国計をもって日々忠告してもらいたい。」
范純仁は命令を聞くと泣いて言った。
「帝は果たして私を用いられた。死してなお責任がある。」
再び中使をやって范純仁を帝に謁見させようとしたが、范純仁は帰って養生したいと言ったため、帝はやむを得ずこれを許した。帝は宰相らに会うたびに安否を問い、言った。
「范純仁に一目でも会えれば!」
蘇軾もまた昌化(3)から廉州(4)、永州に移り、三度目の許しを得て提挙成都玉局観に復帰した。
(1)永州 湖南省零陵区。
(2)鄧州 河南省鄧州市。
(3)昌化 海南省儋州(たんしゅう)市。
(4)廉州 広西壮族自治区合浦県。
5
五月十九日、蔡卞が辞職した。
蔡卞は紹述(1)を口実に、上は天子を欺き下は宰相らを脅かした。善人を中傷するとき、いつも秘密裏に帝に申し上げ、帝自らの命令書により地方に追い出すよう要望した。章惇は巨奸ではあったが、蔡卞の術中にあった。章惇は軽率で考えが浅かったが、蔡卞は慎重で寡黙だった。二人が話し合うとき章惇は毅然とし、蔡卞は一語も発しなかった。みな章惇の行動はわかりやすいが、蔡卞の考えは予測しづらいと言っていた。
(1)紹述 神宗の新法政策を受け継ぐこと。
ここに至り、龔夬が章惇・蔡卞の凶悪さについて、大略次のように述べた。
「昔日、丁謂が国政を執ったとき、その行いは暴虐だと言われましたが、ただ寇準だけを陥れたに過ぎません。章惇の時代になると、元老・宰相・侍従・御史台と各省の、天下のいわゆる賢者は一日にして嶺海(両広)に満ち溢れることになりました。宋が興って以来こんなことはありませんでした。まさにこのとき、章惇の威勢は海内を震わせました。これは陛下が自らご覧になられたことです。彼の事実無根の言葉は道理に背くものであり、このため人々は恐れを抱き、自分の地位を保つことができず、忠臣義士は地下で冤罪を着せられたまま骨を朽ちさせ、子孫は灼熱の荒れ地に閉じ込められ、海内の人は憤激しても物申すことなく、みな恨みを先帝に帰しました。彼の罪はこの通りであり、どうして法を正さずにいることがありましょうか?蔡卞は不忠をもって陛下に仕え、よこしまな心を抱いて感情を表に出しません。およそ章惇のすることは蔡卞が考え出したものであり、多くの場合彼が力添えしました。どうか公論をお聞きになり、彼らを左遷するよう明確に命じていただきたく存じます。」
帝がまだ返答しないうちに、台諫の陳師錫・陳次升・陳瓘・任伯雨・張庭堅らが、蔡卞の罪は章惇よりも重いと直言し、法を正して天下に謝罪していただきたいと要望した。このため蔡卞を知江寧府(2)に転出させた。台諫らはなおも非難し続けたので、秘書少監(3)を与えて池州(4)を分担統治させた。
(2)江寧府 江蘇省南京市。
(3)秘書少監 秘書省(図書・天文・暦・祭祀の祝辞を司る官署)の次官。従五品。
(4)池州 安徽省貴池区。
6
二十三日、文彦博・王珪・司馬光・呂公著・呂大防・劉摯ら三十三人の官職をもとに戻した。韓忠彦がこれを進言し、詔が下った。
7
六月、陳瓘は邢恕には立太子の功績を捏造した罪があると非難した。このため均州(1)安置とした。
(1)均州 湖北省十堰(じゅうえん)市の東。
8
九月八日、章惇が辞職した。
章惇は宰相になると国を牛耳って旧法党に報復し、蔡卞・林希・黄履・来之邵・張商英らを引き立てて要職に置き、諫官とした。これより正直な者は一人として追及の手を逃れることはできず、死者の災いはその子女にまで及び、しばしば大獄を起こして忠良な者を陥れた。天下はこれを憎んだ。
章惇が山陵使を兼任すると、霊柩車が水に落ちてもそのまま夜を徹して行かせた。台諫・豊稷らはその不謹慎さを弾劾したので、章惇は宰相を辞職して知越州(1)となった。
(1)越州 浙江省紹興市。
9
冬十月三日、安惇・蹇序辰を除名し、章惇を潭州に放逐した。
章惇が辞職すると、陳瓘らはまだ処分が軽いと考え、このように論じた。
「章惇は紹聖中、看詳元祐訴理局を置き、先朝の言葉に従わない者に釘足・皮剝ぎ・斬首・抜舌の刑を加えました。その残酷さはひどいものです。看詳官は安惇・蹇序辰らのような者たちで、大臣の諷諭を聞いて紹述の意に迎合し、誣告の文章を書いて人をそしり、朝廷を混乱の渦に巻き込みました。公論のことを考え、法を正すべきであります。」
これを受けて安惇・蹇序辰の二人が除名の上郷里に帰され、章惇を武昌節度副使に降格させ、潭州に居住させた。
10
蔡京・林希が辞職した。
侍御史・陳師錫が上疏した。
「蔡京・蔡卞はともに悪人であり、国家を迷わせ朝廷を誤らせました。そして蔡京は功名を大変好み、日夜内侍や親族らと徒党を組み、要職を望んでいます。もし彼らを用いれば、天下の治乱はこれより分かれ、祖先の築いた国はこれより瓦解してゆくことでしょう。」
龔夬も言った。
「蔡京は文及甫の案件を追及して私怨を晴らし、始めは宣仁太后を非難し、終わりは先帝に責任を転嫁し、罪なき者たちを族滅して己が欲望を満たそうとしました。当時の文書や上奏文があり、それをもとにこじつけの証拠を見つけることができると思います。ここは事実を調査し、奸臣の罪を正していただきたく思います。」
帝は返答しなかった。
このとき中丞・豊稷が河南から呼び出され、初めて入対しに向かった。そこで蔡京と出会った。蔡京は豊稷に言った。
「天子はそなたを僻地から御史に召し出された。今日はきっとご高説を述べられるのであろう。(私を批判するのであろう)」
豊稷は色を正して言った。
「自分の知っていることを言うだけだ。」
この日、豊稷は蔡京の悪行を述べたが、帝は受け入れなかった。台諫の陳瓘・江公望らも相次いで同じことを言ったが、帝はやはり聞き入れなかった。豊稷は言った。
「蔡京が朝廷にあって、われら何の面目あってここにあるというのか!」
そして再び蔡京を強く批判し、ようやく蔡京は知永興軍(陝西)に転出させられた。批判はやまず、蔡京は官職を奪われ杭州(1)居住となった。
右司諫・陳祐は、林希は紹聖の初め権勢家におもねって詞命(2)に人をそしる文章を書いたと批判した。このため林希は端明殿学士を剝奪され、知揚州(3)に移された。
(1)杭州 浙江省杭州市。
(2)詞命 使者に対する応対の文。
(3)揚州 江蘇省揚州市。
11
四日、韓忠彦・曽布を尚書左・右&ruby(ぼくや){僕射}とし;、門下・中書侍郎を兼任させた。
曽布は最初章惇に追従していた。およそ章惇のすることは多く曽布の提案によっていた。だが、ともに宰相になれなかったため仲が悪くなった。元符中、章惇は人心が自分についてこないため、自分の息のかかった名士を推薦しようと考え、司馬光・呂公著らの剥奪された諡をもとに戻すよう哲宗に求めた。曽布は無益なことと考え、この提案を阻もうとして上奏した。
「君主の権力は軽々しく人に渡すものではありません。今、大臣から諫官に至るまで、宰相を恐れることを知り、陛下を恐れることを知りません。」
これは章惇の提案を覆そうとしたものだったが、哲宗が崩御したため取りやめとなった。
帝(徽宗)が即位すると、国の統治に意を注ぎ、忠実な者を用いようとした。曽布はこれを利用して紹聖期の者たちを排除しようと考えた。曽布が宰相を拝命すると、その弟翰林学士・曽肇は反対派に嫌疑をかけられるのを避けるため知陳州(1)に転出した。その際曽布に言った。
「兄者は君主を得た。善人を用いて正道を助け、章惇・蔡卞の再起の芽をつむべきだ。ここ数ヵ月、忠臣と賢人は相次いで朝廷を去り、任用される補佐・侍従・台諫は往々にして章惇・蔡卞に仕えていた者たちだ。一旦彼らの勢いが今日より増すようなことがあれば、必ずこれを発端として地位を安定させる計を立てるだろう。これを思えば慟哭すべきだ。最近陛下のお考えが変わって小人らは増長し、進めば元祐の人(旧法党)を帝の前で非難し、退けば元祐の人をことごとく要職から排除している。章惇・蔡卞が朝廷に復帰せずとも蔡京ひとりでこの二人を兼ねるに足りる。憂慮すべきことだ。」
曽布はこの言に従わなかった。
(1)陳州 河南省淮陽区。
曽布が宰相を拝命するや、御史中丞・豊稷は御史台の職員らを連れてこれを非難した。豊稷は工部尚書に移された。豊稷は地方への赴任を強く願い出たが許されず、その謝表(2)には、
「内侍は恨みを集める府となり、佞人は上奏文を削り取っている。」
との文言があった。帝が佞人とは誰かを問うと、豊稷は言った。
「曽布です。陛下が曽布を退ければ天下は安定します。」
(2)謝表 感謝の意を述べた上奏文。
12
二十六日、詔を下し、事実をねじ曲げて偏った見方をし、またはみだりに文章を改変して国事を害することを禁じた。
13
十一月八日、明年の元号を改めるよう詔を下した。
元祐・紹聖ともに過失があったことから、公正さをもって朋党を取り除こうとの願いを込め、建中靖国と改元することにした。詔が下ると御史中丞・王覿は言った。
「建中の名は公平中立の意から取ったとはいえ、前代の元号と重なっており、正しくありません。唐の徳宗を戒めとすべきです。(1)」
みなこの意見に賛同しなかった。王覿は言った。
「尭・舜・禹は一つの道理を授けました。尭は四凶を退けませんでしたが舜がこれを退け、尭は元・凱を推挙しませんでしたが舜がこれを推挙しました。事は必ずしもすべてが同じなのではありません。文王は豊に邑をつくり、武王は鎬を治めました。文王は関所や市場に税をかけず、沢梁(川に設けて魚を捕らえるやな)を禁止しないといった寛大な政治を行いましたが、周公はこれらに税をかけ禁止し、政治のよき継承を損ないませんでした。神宗が前に法を作り、子孫が後にこれを守るべきであり、何か異変が起こったとき、改革すべきは改革すれば、道理を失することがありません。」
宰相らはこの言に怒り、王覿を翰林学士に改めた。これより正直な者と邪悪な者が混ざって用いられるようになった。
(1)徳宗を戒めとすべきです。 徳宗の時代に建中(780~783)が用いられている。
これ以前、曽布が帝に紹述(神宗の新法政策を受け継ぐこと)を勧めた。帝は決断しかね、給事中・徐勣に相談した。徐勣は答えた。
「陛下は物事の両存を欲しようとしているのではありませんか?天下の事には是と非があり、朝廷の人には忠臣と佞臣があります。その内容を考えずただ両存させようとするならば、それがうまくいったためしを私は知りません。」
14
徽宗建中靖国元年(1101)春正月一日、流れ星が地を照らし、南西から飛んできて尾(星宿の名)に入り、距星に到達した。
この日の夜、赤い雲気が北東から起こって南西に向かい、中にこもっていた白い雲気が散ろうとし、そのそばに黒い雲気があった。右正言・任伯雨は言った。
「正歳の始め(正月)、建寅の月(正月)、卦は泰と出ており、改元の年にあたっています。時は孟春(正月)であり、赤い雲気が夜も更けたころに起こりました。一日について言えば、昼は陽であり夜は陰であります。四方について言えば、南東は陽であり北西は陰であります。五色について推し測るに、赤は陽であり黒と白は陰であります。これらのことから言えるのは、朝廷は陽であり宮中は陰、中国は陽であり夷狄は陰、君子は陽であり小人は陰であるということです。これは宮中に陰謀があり、下が上を侵そうとしていることの証です。星は中正なる中国を通過し、西の方で散って白い雲気となりました。白は建軍を意味します。これは夷狄が密かに進軍しようとしていることの証です。天意に従い仁愛をもち、異変を警戒するのです。陛下が忠良な者を用い、邪悪な者を退け、名分を正し、奸人を批判し、小人に上の者を侵そうとする心を生ぜしめないようにされれば、異変が吉祥に転ずることでしょう。」
また、こうも言った。
「近ごろ内降(1)が増えてきており、これを正式な詔勅と偽る者が現れるのが危惧されます。漢の鴻都(2)での売官、唐の墨勅斜封(3)は手近な戒めであります。」
(1)内降 中書省の審議を経ず、宮廷から直接出される命令。
(2)鴻都 後漢のとき、鴻都門の近くに設けられた学校。高位の官職が授与された。崔烈は鴻都門に立て札を立てて官爵を売った。
(3)墨勅斜封 墨勅は皇帝が官署を経ずに直接下す命令。斜封は朝廷の正式な授封によらない官爵の授与。
15
范純仁が亡くなった。その遺言の上奏文には、
「宣仁太后の誹謗はいまだ追究されておらず、太后が陛下を助けた功績が明らかにされておりません。」
とあった。また、帝に対し、
「心を清らかにして欲を少なくすること。自分に厳しくして民に利便をもたらすこと。朋党の論を絶つこと。正直な者と邪悪な者が何をもたらすかを察すること。」
など八事を勧めた。忠宣と諡された。
16
二月二十六日、章惇を雷州(1)司戸参軍に降格させた。
(1)雷州 広東省雷州市。
これ以前、任伯雨が章惇を非難した。
「章惇は長らく朝廷の権力を盗み、国を迷わせ陛下をだまし、毒を官僚たちに流し、先帝のお考えが急に変わったのに乗じて離反の心をもち、陛下に傲慢な態度をとり、臣下としての恭しさに欠けました。もし彼の計画が実行に移されれば、陛下と皇太后はどのような地位に置かれることでしょうか?彼を許して処罰しないのであれば天下の大義は明らかにされず、国家の法が行われないことになります。
北方(遼)の使者がこう言ったそうです。
『去年遼の主が食事しているとき、中国で章惇が左遷されたと聞き、箸を放り出して立ち上がり、『良いことだ』と二度言い、『南朝(中国)があの者を用いるのは間違っている。』と仰せになりました。』
と。北方の使者はまた尋ねました。
『どうしてこのような処置しかとらないのですか?』
と。この言葉からして、『孟子』にある『国中の人がみな死刑にすべきだと言っている』(梁恵王章句下)という言葉にとどまらず、蛮族の国であっても彼を死刑にすべきだと考えずにはおれないのです。」
八度上奏したが、帝からの返答はなかった。台諫の陳瓘・陳次升らも章惇を強く非難し、章惇は雷州司戸参軍に降格となった。
これ以前、蘇轍が雷州に流されたとき、官舎に住むことを許されず、民家を賃借することになった。章惇は民家を強引に奪い取ったのだと考え、州官に民を追及させたが、賃借の証文が取り交わされていたため取りやめた。
ここに至り、章惇は民に家はないかと尋ねた。民は言った。
「以前蘇公が来られたとき、章丞相は私の家を壊そうとされました。家は貸せません。」
後に睦州(2)に移され、そこで死んだ。
(2)睦州 浙江省建徳市の東。
17
三月、権給事中・任伯雨を罷免した。
任伯雨は当初右正言となり、半年の間に百八の上奏文を献上した。大臣らは彼の多言なことを恐れ、権(仮の)給事中を与え、しばらく黙っていれば正式に給事中にすると密かに伝えたが、任伯雨は聞かず、ますます強く諫言するようになった。
曽布は元祐期の者(旧法党)と紹聖期の者(新法党)を協調させようとしたが、任伯雨は帝に言った。
「人材は違う党派に分けるべきではありません。古より君子・小人が混ざり合って世がうまく治まったことはありません。得てして君子は去りやすく、小人は去りにくいものです。この二者をともに用いれば、しまいには君子がみな去ってしまい、小人だけが残るのです。唐の徳宗のときには君子がみな去ってしまいました。建中はそのときの元号であり、戒めとせねばなりません。」
任伯雨が曽布を弾劾しようとすると、曽布はこれを察知し、度支員外郎(1)に移した。
(1)度支員外郎 度支司(租税の支出、国家の予算を司る官署)の補佐官。正七品。
18
六月二十九日、尚書右丞・范純礼が辞職した。
韓忠彦は筆頭宰相であったが、実質的には曽布が政治を壟断していた。曽布は紹述を推進しようと考え、中丞・趙挺之に元祐期の諸臣を排撃するよう、暗に言い含めた。范純礼は従容として帝に言った。
「近ごろの朝廷の命令は元豊を是とし、元祐を非としています。私がこれを見ますに、神宗の立法はもともと善意に基づくものでしたが、官吏がこれを実行するにあたって過ちがあり、民を苦しめることになりました。宣仁太后の政治には過ちを正しいという傾向がありました。大臣らの意見には違いがみられますが、どれもがよこしまな考えというわけではありません。今議論を重ねている臣には志を得ない者がおります。ゆえに彼らは紹述を口実として、元豊を是として元豊期の者を賢人とし、元祐を非として元祐期の者を退けようとしています。そのような考えが国事を憂えるものといえるでしょうか?すぐにでも恨みを晴らして奸人を退けたいのであれば、このことを深く察せねばなりません。」
范純礼は沈毅で剛直だったため、曽布はこれを恐れ、駙馬都尉(1)・王詵に言った。
「陛下は君を翰林学士承旨(2)にしようとお考えだが、范右丞が許可しないのだ。」
王詵は怒った。王詵が遼の使者を客舎に迎えたとき、范純礼が酒宴を取り仕切ったが、王詵は范純礼がこのとき帝の名をおとしめたと非難した。范純礼は辞職して知潁昌府(3)となった。
(1)駙馬都尉 皇帝の女婿に授けられる官名。従五品。
(2)翰林学士承旨 皇帝の顧問を務める官。正三品。
(3)潁昌府 河南省許昌市。
19
帝の治世の初めは、虚心になって諫言を受け入れていた。海内はこれに望みをかけ、慶歴の治にならうよう願っていた。曽布が宰相となると、紹述を促そうとした。諫官・陳祐はこれを六度にわたり弾劾したが、帝は聞き入れず陳祐を罷免し、日和見して人を推薦しようとしたかどで譴責した。左司諫・江公望はこれを聞いて謁見を求め、対面で帝にその理由を尋ねた。帝は言った。
「陳祐の意図は曽布を放逐して李清臣を宰相とすることにある。」
江公望は言った。
「ほかのことはわかりませんが、近ごろは諫官を替えること三度、諫官を排斥すること七度、これは朝廷の美事ではありません。」
そして袖中から上奏文を取り出して元豊・元祐の政治の得失を力説し、言った。
「陛下が自らこの二つを分けるならば、必ずや災いのもととなるでしょう。」
帝は感じ入り、この言に従った。
前太学博士・范致虚が上奏した。
「太学の取士の法は変えるべきではありません。」
また言った。
「『御製泰陵挽章』を拝読しましたところ、『ともに裕陵(神宗の陵墓)を受け継がん』とありました。これは陛下の祖先への孝行の本心であります。これを守られるよう願うのみです。」
江公望は再び上奏した。
「先帝の時代から紹述の意見があり、大臣らは反対派を非難し、自分に媚びる者を仲間と見なし、主君に忠実な者を反対派と見なし、権威を借りて私怨を晴らし、天下を騒然とさせ、泰陵(哲宗の陵墓)は継承の美を全うすることができません。元祐期の人材は熙寧・元豊の時代に輩出しましたが、紹聖期に放逐され残っている者はほとんどおりません。神宗期と元祐期の臣の間には恨みなどなかったというのに、先帝は自分の敵であるはずの者を信じて彼らを退けられました。陛下が元祐期の臣を引き立てて名分とするならば、必ずや元豊・紹聖の臣との対立が起こります。対立があれば争いが起こり、争いが起これば党派が再びつくられます。陛下の改元の詔には、『中立の道を立てようと思えば、善人と悪人を区別して人々に示し、中和を根本として政治を行うべきである。』とあります。天神地神はこの言葉を聞いております。今これを変えてしまえば、天神地神はどう思うでしょうか?」
帝がこの上奏文を范純礼に見せると、范純礼はこれに賛同し、江公望を昇進させるよう要望した。
蔡王の府の長官が朝廷に報告に来たとき、報告文のなかに王に対する不遜な言葉があった。江公望は事実無根の言葉を帝の近親に加えることのないよう望んだが、結局は辞職することになった。
20
秋七月二十七日、安燾が辞職した。
安燾は密かに上奏した。
「紹聖・元符以来政治を執ってきた者たちは、紹述の虚名を借りて君主を惑わし、上は地位を固めて私怨を抱き、下は立身を望んで党派を結び、一つの潮流をなし、牢固として破ることができません。彼らは自らのために謀をなすのを善とし、朝廷のためにわずかでも計を練るなどあったためしがありません。熙寧・元豊の間、国庫は充実しておらず、紹聖・元符以来、国庫を傾け辺境開発の費用にあててきました。どうか陛下は役に立たない者を辞めさせ、公私の蓄えを充実させ、前もって国家の計をお立てください。さすれば天下の幸甚でございます。」
また、
「東京(開封)における朋党の災いが萌しております。履霜(1)を戒めていただきたく存じます。」
とも言った。文言は大変激越であった。帝は不愉快になり、安燾を枢密院から知河陽府(2)に転出させた。
(1)履霜 霜が降るとやがて氷が張ることから、前兆を見て災いを警戒せよということ。
(2)河陽府 河南省洛陽市。
21
八月、陳瓘は上疏した。
「私は以前、『神宗実録』を別に編纂して一代の書とするよう申し上げましたが、これが実行されたとは聞いておりません。紹聖の史臣が今の宰相となっているためでしょう。」
返答はなかった。陳瓘の議論は公平な視点をもっており、大局を述べることを目的とし、些細なことを口実とすることなく、人の犯した過ちに言及することがなかった。また、権(仮の)給事中を兼ねていた。
曽布は紹述の政務を独断で取り仕切っており、王安石が熙寧年間に記していた『日録』を入手してこれを根拠とし、陳瓘を自分に迎合させようと考え、権給事中から正式な給事中にしてやろうと伝えた。陳瓘は子の陳正彙に言った。
「私と宰相は多くの点で意見が合わない。今このようなことを言ってきたのは、官爵によって誘惑しようとしているのだ。」
翌日、陳瓘は曽布に書簡を渡した。それにはこうあった。
「あなたは私的な視点で書いた史書を重んじて宗廟を疎んじ、辺境に費用をつぎ込んで先帝の政治を損なった。また、神宗の志に背き、神宗の事績を損なった。この二者は天下のともに知るところであるが、陛下はそれについての説明を聞くことができない。隠蔽の害にこれより大なるものはない。」
曽布は書簡を読んで激怒した。
陳瓘はまた曽布の上奏文と自著の『日録弁』・『国用須知』を書き写して三省に献上し、早急に曽布を放逐するよう上奏した。しかし、陳瓘は知泰州(1)に左遷された。陳瓘はこの地で『合浦尊尭集を著して十の論を書き、『神宗実録』の記載を正したが、王安石の過ちを証言することはなかった。都へ帰されると再び『四明尊尭集』を著し、八つの事項、すなわち聖訓・論道・献替・理財・辺機・論兵・処己・寓言について述べた。箇条ごとに分けて詳しく解説し、婉曲な表現がなかった。
(1)泰州 江蘇省泰州市。
22
冬十月、陸佃を礼部侍郎とした。
「最近では、士大夫は立身出世を競い合い、褒美を求めることを崇高な精神とし、人を非難することを美風とし、忠厚を愚鈍と見なし、遠慮深い態度を惰弱と見なし、みなでこのような気風をつくり上げ、この勢いを止めることができません。これを正して救うことが今日の課題です。よく前人を継ぐ者は、必ずしも前人を踏襲するとは限らず、否定すべきは補い、肯定すべきは称賛するものです。元祐における政策方針の変更には、神宗の政策を補うことを知り、それを称賛することを知らないという罪があるのです。紹聖における神宗の政策の称賛には、それを称賛することを知り、それを補うことを知らないという過ちがあるのです。ここはどうか賢人と相談し、政事を熟考してください。ただ先帝の方針を受け入れてそれを尊ぶのです。大いなる中正は今日に期待されているのです。」
これを受け、陸佃に『哲宗実録』の編纂を命じ、吏部尚書に移し、尚書右丞とした。
23
十一月二十三日、翌年からの元号を崇寧と改めるよう、詔を下した。