巻74 金亮南侵(金人殺亮立雍附)

Last-modified: 2024-08-02 (金) 12:38:12

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高宗紹興二十年(1150)三月、参知政事・余尭弼(よぎょうひつ)を金に送り、完顔亮(ワンヤンりょう)の即位を祝った。

帰国の前、金の主・完顔亮は上皇(徽宗(きそう))の玉帯を余尭弼に渡し、帝に贈った。金の秘書郎・張仲軻(ちょうちゅうか)は言った。
「これは世にもまれな宝なのですぞ。」
「江南の地はいずれわがものとなる。外国に置いておくというだけのことだ。」
張仲軻は金の主に南侵の意があるのを知り、事ごとに忖度(そんたく)して迎合するようになった。

2


二十一年(1151)二月、巫伋(ふきゅう)を金国祈請使とした。

巫伋が金に到着すると、まず初めに靖康帝(欽宗(きんそう))を帰国させるよう要請した。金の主は言った。
「彼が帰っても居場所がないだろう。」
巫伋は素直に引きさがった。

3


二十三年(1153)三月、金の主・完顔亮は自ら上京(じょうけい)から(えん)に行き、燕京を中都大興府(1)汴京(べんけい)を南京と改め、上京の名を削り、会寧府とのみ称した。また、中京大定府(2)を北京に改めたが、東京遼陽府(3)、西京大同府(4)はもとのままとした。完顔長寧を南京留守として統治させ、南侵の足がかりとした。それからしばらくして、汴京で大きな火災があり、宮殿が全焼した。金の主は大いに怒り、長寧を杖刑(じょうけい)に処して殺した。

(1)中都大興府 河北省北京市。
(2)中京大定府 内蒙古自治区寧城県の西。
(3)東京遼陽府 遼寧省遼陽市。
(4)西京大同府 山西省大同市。

4


二十六年(1156)三月、東平(1)の進士・梁鄖(りょううん)が上奏し、「金人は必ずや挙兵するでしょう。これに備えるべきです。」と言った。帝は怒り、梁鄖を遠い州軍に編管し、(みことのり)を下した。
「講和の策は(ちん)の志を断つものである。秦檜(しんかい)はただ朕を賛美するのみで、国の存亡をかけて議論することができなかった。近ごろは無知の(やから)が根拠のない話でみなの耳を惑わし、偽の詔を起草して旧臣を用い、兵車を使うよう上奏し、みだりに辺事について議論するに至り、朕はたいへん驚いている。以後このようなことがあれば厳罰に処すであろう。」

(1)東平 山東省東平県。

5


金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)は、武徳殿に行き、大臣の吏部尚書・李通、刑部尚書・胡厲(これい)翰林(かんりん)直学士・蕭廉(しょうれん)を呼び出し、座らせて次のように言った。
「朕は即位してからというもの、上奏文に目を通し、宮中の事務を処理し、いつも夜遅くになってようやく自室に戻っている。昔、ある夜、朕が就寝しているとき、意識が朦朧(もうろう)として目を開くと、二人の青い服を着て旗と割り符を持った人が天から降りてきて、朕に一枚の書簡のような紙を授け、これには上帝の詔が書かれていると言った。朕は再拝して受け取り、弓矢を()き、鎧兜(よろいかぶと)を着け、二人を従えて進もうとすると、朕がいつも乗っている『小将軍』と号する小さな駿馬(しゅんめ)が、面繋(おもがい)(くつわ)を着けて(きざはし)の下で待っており、青い服を着た二人は(ゆう)してこれに乗った。

馬に乗って進むと、雲と霧が馬の(ひづめ)から立ち上り、その下は波が湧きおこるかのようであった。心臓が動悸(どうき)していたが、そのとき一つの門が開いているのが見え、金碧(きんぺき)色に輝いていた。青い服の人がこれを指して、『天門です。』と言った。朕はこの中に入り、一里ばかり進むと鈞天(きんてん)宮に着いた。この宮殿は森厳壮麗で、光で目がくらみ、朕はここへ駆け入ろうとした。すると二人の金の鎧を着た人が、『ここは人間の世界ではない。馬を下り歩いて入るように。』と朕に言った。殿下に着くと、(すだれ)を垂らして誰かを待っているかのようであった。

しばらくすると、(あか)い服を着た人が出てきてともに拝礼した。殿上の人の話し方は赤子のようで、青い服を着た人に、『天策上将を宋国の征伐に向かわせよう。』と伝えさせた。朕が伏して謝辞を述べると、馬のいるところに戻らせた。兵は幽霊のような姿をしており、前後左右とも奥深くて終わりがなかった。一本の矢をこれに向かって放つと、たくさんの幽霊が一斉に拝礼した。その声は雷のようで、朕は驚いて目が覚めたが、拝礼の声がなおも耳に残っていた。朕が内侍(ないじ)を『小将軍』の様子を見に(うまや)へ行かせると、激しく(あえ)いで汗が雨のように流れていた。(えびら)を取って矢の数を数えると、一本なくなっていた。

私の見た夢はこのように現実になっている。天が私に手を貸しているのに、江南朝廷の制度など取り入れる必要はない。」
みなこれを祝い、南侵の計画がいよいよ定まった。

6


二十八年(1158)五月、金の主・完顔亮は、李通および翰林(かんりん)学士承旨・翟永固(てきえいこ)宣徽使(せんきし)敬嗣暉(けいしき)、翰林直学士・韓汝嘉(かんじょか)薫風(くんぷう)殿に呼び、尋ねた。
「朕は(べん)に都を移して宋を討伐し、天下を統一しようと思うが、そなたらはどう思う?」
李通は天時・人事を見るに、機を失するべきではないと答え、完顔亮は大いに喜んだ。一方、翟永固は引き下がって柱の間に立っていた。完顔亮がこれを見てそのわけを問うと、おもむろに進み出て言った。
「私に愚見があります。どうかこれを述べさせていただきたく存じます。本朝は海から国を建設してきましたが、民はいまだ恩恵を受けることなく、みだりに武力を用いてきました。(いにしえ)にあっては戦争とは火のようなものであり、鎮まらなければ自らを焼こうとします。故に(りょう)王(兀朮(ウジュ))の武勇があったとしても、講和を上策としたのです。

今、宋は一地方を統治し続け、天命はいまだ改まらず、金色の絹を贈ってわが国と通好し、歳事(1)を欠かすことがありません。大義名分のない軍を出動させ、遠征しようとするならば、私はまだその時ではないと思います。中都(燕京(えんけい))が完成して数年も経っておらず、国庫は乏しく、壮丁(そうてい)(青年・中年の男子)は疲弊しています。汴を造営してそこに住めば、それは豊富な物資を取りつくし、廃墟をかけて争うということであり、最もしてはならないことです。私は陛下にお仕えする身ですが、あえて陛下のお考えが正しくないとお答えせねばなりません。」
言い終わると地に伏せて死を願い出た。完顔亮はこれについて敬嗣暉・韓汝嘉に尋ねた。敬嗣暉は李通が正しいと言い、韓汝嘉は翟永固が正しいと言った。完顔亮は大いに怒り、(すそ)を払って立ち上がり、二人(翟永固・韓汝嘉)に殿のそばで沙汰(さた)を待つよう命じた。続いて完顔亮は翰林待制・綦戩(きせん)を呼んで『漢史』(『東観漢記』)および陸賈(りくか)『新語』について講義させた。完顔亮の怒りはやや静まり、二人を許した。

翌日、李通を右丞(うじょう)、敬嗣暉を参知政事とした。翟永固は引退を願い出た。

(1)歳事 諸侯(宋)が毎年秋に天子(金)に謁見すること。

7


秋七月、金は李通を参知政事とした。

これ以前、金の主・完顔亮は寵臣(ちょうしん)の秘書少監・張仲軻(ちょうちゅうか)、左諫議(かんぎ)大夫・馬欽(ばきん)、校書郎・田興信らを便殿に呼び座らせた。金の主は張仲軻に言った。
「漢の領土は七、八千里に過ぎなかった。今、わが国の広さは万里に及び、大国と言うべきだ。」
「本朝の領土は広大ですが、天下には四人の主がいます。これを一つにできれば、さらに大きくなります。」
「かの国(宋)は何の罪があって討伐すべきだ?」
「宋人は馬を買い兵器を整え、山東にいる反乱者や逃亡者を帰順させていると聞きます。どうして罪がないと言えましょうか?」
金の主は喜んで言った。
「以前、梁珫(りょうしゅう)(ちん)に、『宋には(りゅう)貴妃という女がいて、見目麗しいという。いまこれを一挙両得(宋と劉貴妃)すれば、民は大手を振って歩くようになるだろう。わが国が挙兵したと聞けば、江南の朝廷は逃げ出すに違いない。』と言った。」
馬欽・田興信はともに答えて言った。
「島にいる蛮越(宋)については、われわれはみなその道を熟知しています。どこへ逃げるというのですか?」
「それならば、これは天がわが国を助けるということだ。朕が挙兵して宋を滅ぼすのは長くても二、三年かからないであろう。その後には高麗・夏国(西夏)を討伐するのだ。これらを統一した後に官吏を昇格させ、将兵らに賞与を与えれば、彼らは労苦をいとわないであろう。」

このとき、金の主は国が代々強盛を誇ったのを(たの)みに、何に気兼ねすることもなく征伐に乗り出し、天下を統一しようと考え、常に「天下は一つの家であり、これを正統とすべきだ。」と言っていた。

李通が参知政事になると、金の主の意向を受け、張仲軻・馬欽および近習(きんじゅう)や諸々の官吏とともに江南の物資・美女・玉と絹の多さを力説して、金の主の欲望に迎合した。金の主は李通を参謀長とし、南侵について議論させた。

8


冬十月、金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)は左丞相・張浩(ちょうこう)、参政・敬嗣暉(けいしき)汴京(べんけい)に行かせ、(新たに)宮殿を造営させた。

国子司業(1)・黄中が使者の任務から帰還し、上奏した。
「金人が汴京を治めれば、必ずやそこへ居を移してわが国に迫るでしょう。早急にこれに備えねばなりません。彼らが汴京に来れば、壮士健馬が日を数えずして国境にやって来るでしょう。」
宰相・湯思退は大いに怒り、黄中を左遷した。

(1)国子司業 国子監の次官。正六品。

9


二十九年(1159)春正月、金の主・完顔亮は左丞相・張浩および敬嗣暉、内侍(ないじ)梁漢臣(りょうかんしん)と中国の叛臣(はんしん)孔彦舟(こうげんしゅう)に命じ、通州(1)で軍船を造らせた。

全国の猛安(2)の部族および契丹(きったん)(けい)(3)を、数を限ることなく二十四万人集めて名簿に登録した。また、中都・南都・中原・渤海(ぼっかい)の壮丁、年齢二十以上五十以下の者を集めて二十七万人を登録した。親が老いており、家族が多いため、一人だけでも家に残しておきたいと希望しても聞き入れなかった。また、全国の総管府に使者を送り、兵器を造らせた。全国の格納されていた兵器を(えん)に運ばせた。また、汴の宮殿、燕の城を建築させたが、民はこの負担に耐えられなかった。矢羽は一尺から千銭分の長さに至るまで集められ、村落では往々にして牛をつぶして弓と鎧の材料とし、(からす)(かささぎ)・犬・豚に至るまですべて屠殺(とさつ)した。

(1)通州 江蘇省南通市。
(2)猛安 金で行われた社会・軍事組織の制度。300戸を1謀克、10謀克を1猛安とする。
(3)奚人 シラムレン川流域に居住する遊牧民族。契丹と同化していった。

10


五月、礼部侍郎(1)・孫道夫が金から帰還した。金の主・完顔亮は彼に言った。
「帰っておぬしの皇帝に伝えよ。わが国に仕えるにあたって、不誠実な点が多い。二つのことを例として挙げよう。おぬしの国の民がわが領土に逃げ込んだ場合、官吏がすべて送り返している。だが、わが国の民がおぬしの国の領土に入り込んだ場合、当局は捜索するものの、往々にして口実を設けて送り返さない。これが第一だ。おぬしの国は辺境で(くら)と馬を密かに買い集め、戦に備えている。これが第二だ。」
完顔亮は南侵したがっており、この二点を開戦の口実にしたのだった。孫道夫は帰朝するとこれを報告した。帝は言った。
「朝廷は金国にたいへん厚く仕えている。彼は何の名目で戦端を開こうというのだ?」
「彼は自らの手で君主を殺し、その地位を奪ったのです。挙兵するのに名目を問うことなどありません。」
湯思退・沈該(しんがい)はこの言に賛同しなかった。

孫道夫は帝に謁見するたびに軍事に言及した。このため沈該は孫道夫が張浚(ちょうしゅん)を推挙するのではないかと疑って忌まわしく思い、知綿州(2)に左遷した。

(1)礼部侍郎 礼部の次官。従三品。
(2)綿州 四川省綿陽市。

11


六月、帝は金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)に南進の考えがあると聞いたが、これを疑い、王綸(おうりん)を派遣して様子を見させた。

王綸が帰朝すると、帝に謁見して言った。
「隣国の恭順で友好的な態度に他意はなく、みな陛下の威徳の致すところであります。」
湯思退らはみな喜んだ。帝は言った。
「内外の者たちはみな、辺境に軍馬と将帥を置いて進取の計をなそうと言っている。万一軽挙すれば、いつか兵が並び立って災いを招くことだろう。」

12


三十年(1160)春正月、金は施宜生(しぎせい)を派遣して元旦を祝った。

施宜生は(びん)(福建)の人である。帝は吏部尚書・張燾(ちょうとう)に命じ、彼を都亭(駅の宿舎)に宿泊させた。このとき、間諜(かんちょう)が完顔亮が軍船を建造し兵を徴集していることを報告したが、帝は信じようとしなかった。宿舎の職員は故郷に帰ることを施宜生にほのめかし、宋へ来た本当の目的を尋ねた。施宜生は言葉をぼかして言った。
「今日は北風が強い。」
また、机の上にあった筆を取って叩き、
「筆が来る、筆が来る。」
と言った。施宜生が帰国すると、副使がこれを金の主に報告した。金の主は施宜生を煮殺した。

13


八月、賀允中(がいんちゅう)が金から帰国し、言った。
「金人は必ず盟約を破るでしょう。これに備えるべきです。」
帝は聞き入れず、賀允中を引退させた。

14


三十一年(1161)三月、宰相らに辺境の事案について議論させた。

これ以前、陳康伯は金人は盟約を破るであろうから、早急にこれに備えるよう要請した。金人の南侵計画が決まると、楊存中(ようそんちゅう)および三衙(さんが)(1)の将帥を尚書省に呼び出し、挙兵について議論させた。また、侍従(じじゅう)台諫(だいかん)も集めて議論させた。陳康伯は帝の招集命令を伝えて言った。
「今日は講和と守備について論ずるのではなく、いかに戦うかを率直に問うものだ。」
このとき、帝は閲兵したいと思っていたが、内侍省都知(2)・張去偽は密かに軍の出動を阻み、退避の策を述べた。内外の者は帝が(びん)(福建)・(しょく)(四川)に退避するとみだりに言いふらし、人々の気持ちは落ち着かなかった。朱倬(しゅたく)は一言も話さなかった。陳康伯は上奏した。
「金が盟約を破れば天も人もともに憤ることでしょう。今日のことは、進むことはあっても退くことはなく、陛下が堅く意を決すれば、将士の戦意はおのずから倍増します。どうか三衙の禁軍に襄陽(じょうよう)・漢陽を援護させ、この軍が先に出発してからこれに呼応させるようお願いします。」
そして利州西路都統制・呉拱(ごきょう)に襄陽を統治させ、配下の兵三千でこれを守らせ、荊南(けいなん)を守って突発的な事態に備えさせた。

(1)三衙 殿前司・侍衛親軍馬軍司・侍衛親軍歩軍司の総称。禁軍の最高機関。
(2)内侍省都知 宦官の官名。

15


五月、金人が来て淮南(わいなん)・漢陽の割譲を要求した。

これ以前、金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)は、人々が宋の景観の壮麗さについて話しているのを聞き、宋への使者のなかに画工を密かに忍ばせ、臨安の湖と山を描いて帰国させた。そして屏風(びょうぶ)を置いて自分の姿を描かせた。それは呉山の山頂で馬を走らせているもので、その上に詩が書かれており、「呉山の第一峰に馬を止める」という句があった。

ここに至り、簽書(せんしょ)枢密院事・高景山、右司員外郎・王全を宋への使者として送り、天中節(陰暦五月五日)の祝賀を名目とした。完顔亮は王全に言った。
「宋の主に会ったら、おぬしは南京(なんけい)(開封)の宮殿を焼いたこと、辺境で馬を買ったこと、反乱者・逃亡者を招致したことの罪を面と向かって数え上げ、大臣をここへ連れてくるのだ。そうすれば朕が自ら問い詰め、淮南・漢陽の地を要求しよう。もし従わなければ、声を大にして(そし)るのだ。そうすれば彼らがおぬしに危害を及ぼすことはないだろう。」
つまりはこれらのことで激怒し、南侵の口実にしようとしたのである。また、高景山に言った。
「後日、王全が述べたことを報告せよ。」

王全が臨安に着くと、金の主の言った通りに帝を謗った。帝は王全に言った。
「そなたは北方の名家だと聞いている。それがなぜこのようなことを言うのだ?」
王全はまた言った。
趙桓(ちょうかん)欽宗(きんそう))はもう死んでいます。」
帝は初めて欽宗が崩御したことを知り、にわかに立ち上がって大声で泣き、哀悼の意を表した。

金の主は(みことのり)を下して全国の統制・将帥・監司に王全の言葉を伝え、臨機応変に処置して開戦の機会を失うことのないようにさせた。

16


六月、金の主・完顔亮は(べん)に遷都した。

17


秋七月、金は全国の民間の馬を大規模に徴集した。

これ以前、金は全国から馬を徴集した。一戸あたりの人口に応じて頭数を定め、計五、六十万頭を集め、戸ごとに自分で養わせた。

ここに至り、再び大規模に騾馬(らば)を徴集した。官は七品に至るまで、一頭を自分のもとに留めるのを許し、以前登録した民間の馬もともに徴集した。東の馬を西軍に与え、西の馬を東軍に与えて互いに往来し、昼夜行き来して絶えることなく、死んだ馬が道に散乱していた。死んだ馬が多かった官吏は罪を恐れ、自殺する者もいた。馬が通り過ぎたところでは民の田を踏み荒らし、馬を引く人夫を徴発した。河南の州県に対し、貯蔵してある米は大軍のために備えさせ、他のことに用いるのを許さなかった。騾馬の行くところでは馬草と(あわ)を与えなければならなかったがそれができず、当局がこれを要求すると、金の主・完顔亮は言った。
「北方の今年の民間の貯蔵量はなお多く、穀物は野に満ち、牧場に運ぶことができる。来年不作だったとしても、何の害があるというのだ?」
このため国内は騒然とし、盗賊が蜂起し、その大なるものは城や村を拠点とし、小なるものは山野に住みついた。盗賊について報告する者があれば、完顔亮はその者を杖刑(じょうけい)に処し、官位を降格させた。太医使・祈宰は上奏して南侵を(いさ)めたが、完顔亮は彼を殺した。このため群臣は反対意見を言わなくなった。

18


金の主・完顔亮は国内にいる宋・遼の宗室の者たち百三十余人を殺した。

19


徐嚞(じょてつ)を金へ遷都を祝いに行かせた。

徐嚞が盱眙(くい)(1)に着くと、金の主・完顔亮は韓汝嘉(かんじょか)を国境に送り、徐嚞を留めようとし、
(ちん)はようやくここ(汴京(べんけい))まで来たが、最近は北方で小競り合いが起こっていると聞き、中都に戻ろうかと思っている。祝いに来る必要はない。」
と伝えさせた。徐嚞は臨安へ帰った。

(1)盱眙 江蘇省盱眙県。

20


八月一日、宿遷(1)の人・魏勝(ぎしょう)が挙兵して海州(2)を取り戻し、総管・李宝が帝の命令により魏勝を知州事とした。

魏勝は智勇兼備であり、弓兵の募集に応じ山陽(3)に住んだ。金人が全国の民を兵に徴集すると、魏勝は躍り上がって、「この時が来た!」と言い、義士三百人を集めた。そして北へ行き淮河(わいが)を渡り、漣水(れんすい)(4)を取り、朝廷の恩徳を宣布して一人も殺すことなく、各地に酒・塩の専売所を置いて運営した。北(金領)から帰順しにくる士卒があれば、魏勝は彼らとともに寝起きし、ともに飲食して疑っていないことを示し、貧しい者たちのもとを見て回って感激させた。これより河北・山東から帰順しにくる者が日増しに多くなった。

(1)宿遷 江蘇省宿遷市付近。
(2)海州 江蘇省連雲港市付近。
(3)山陽 楚州。江蘇省淮安(わいあん)市。
(4)漣水軍 江蘇省漣水県。

金の知海州事・高文富は兵を送って魏勝を捕らえようとしたが、魏勝はこれを迎撃して敗走させ、海州城下まで追撃すると、高文富は門を閉めて固守した。魏勝は城外に多数の旗を置き、煙を上らせて兵がいると思わせた。また、各城門に人をやって、金人は盟約に背いて大義名分なく挙兵したが、本朝は寛大な姿勢で対処していると触れ回らせた。城中の人々はこれを聞いて門を開け、高文富と子の高安仁だけが兵を率いてこれを拒んだ。魏勝は高安仁および州兵千余を殺し、高文富を捕らえ、民は安堵(あんど)して元の生活に戻った。

魏勝は人をやって朐山(きょうざん)・懐仁・沭陽(しゅつよう)・東海の諸県に宋による領土奪還を説いて回らせ、これらを支配下に置いた。続いて租税を免除し、囚人を釈放し、倉庫を開けて兵をねぎらった。また、義士を五つの軍に分け、紀律は厳粛に行われ、宿将として配属した。魏勝はますます多くの義士を募り、領土の奪還を図った。各地でこれを聞いた者が応募し、十日で数千の兵が集まった。魏勝配下の将・董成(とうせい)は千余人を率いて()(5)に入り、金の守将および兵士三千を殺し、その他の者を降伏させ、武器・鎧数万を鹵獲(ろかく)した。

金は蒙恬鎮国(もうてんちんこく)に万余の兵を率いて海州を奪い返させ、州の北二十里の新橋に着いた。魏勝は兵を率いてこれを迎撃しにゆき、隘路(あいろ)に伏兵を置いて待ち伏せした。みな死に物狂いで戦い、伏兵が攻撃をしかけると金軍は大いに敗れ、蒙恬鎮国を殺し、千人を斬首し、三百人が降伏した。魏勝の軍はますます勢いづき、山東の民はみな帰順したがった。魏勝は檄文(げきぶん)を各地に送って兵を招き、集結して中央軍の到着を待った。

(5)沂州 山東省臨沂市。

21


()州の民数十万人が蒼山(そうざん)に砦を築き、金人はこれを包囲したが長らく降せず、砦の指導者・滕(日+狄)は魏勝に急を告げた。魏勝は兵を引き連れて救援に向かい、山の(ふもと)に陣を構えた。金人は多くの伏兵を置いた。魏勝は伏兵に遭遇すると砦に向かった。金人はこれを襲い、魏勝は単騎で殿(しんがり)をつとめ、大刀を持って奮闘した。

金人は魏勝の姿を望み見ると、敵軍の将であると悟り、五百騎で数重に包囲した。魏勝は四方に突撃し、金軍の陣は一旦開いたが再び閉じ、数時間戦って身に数十の槍傷を受け、白刃の中を冒して包囲を突破した。金兵はこれを追い、魏勝の馬が矢に当たって倒れた。このため魏勝は歩いて砦の中に入ったが、これに挑もうとする者はいなかった。金人はまた急襲して水源を断った。砦の中では(ほしいい)を食し、牛馬を殺してその血を飲み、魏勝が黙禱(もくとう)すると雨がにわかに降ってきた。金人はいよいよ猛烈に攻撃するようになり、山の周囲に軍営を築いた。

魏勝は、金軍は再び海州を攻撃するだろうと考え、密かに砦を抜け出し、海州城中に向かった。金人はこのため蒼山の包囲を解き、新橋から海州城下に向かった。魏勝は城を出て戦い、勝利した。金兵は部隊を四つに分けて攻撃し、魏勝は兵を集め城壁を登って防いだ。矢と石が七日間雨のように降り注ぎ、金兵は死傷者を多く出し、逃げていった。

22


十五日、劉錡(りゅうき)は兵を率いて揚州に駐屯し、統制・王剛中に兵五千を率いて宝応(1)に駐屯させた。

(1)宝応 江蘇省宝応県。

23


二十九日、成閔(せいびん)を京湖制置使とし、両地方(京西と荊湖(けいこ))の軍を指揮させた。

24


九月、金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)が大挙侵入した。

完顔亮は全国の兵を三十二の軍に分け、左・右大都督および三道都統制府を置いてこれを統括させた。奔睹(ほんと)を左大都督とし、李通がこれを補佐した。紇石烈良弼(フシャリりょうひつ)を右大都督とし、烏延蒲盧渾(うえんほろこん)がこれを補佐した。蘇保衡(そほこう)浙東(せっとう)道水軍都統制とし、完顔鄭家(ワンヤンていか)がこれを補佐し、海から上陸して間道を通って臨安に向かった。劉萼(りゅうがく)を漢南道行営兵馬都統制とし、(さい)(1)から進ませ、荊湖(けいこ)襄陽(じょうよう)の様子をうかがわせた。徒単合喜(とぜんごうき)西蜀(せいしょく)道行営兵馬都統制とし、鳳翔(ほうしょう)から大散関(2)に向かわせ、ここに駐留して後の命令を待たせた。左監軍・徒単貞の別将に兵二万を率いて淮陰(わいいん)に入らせた。

(1)蔡州 河南省汝南(じょなん)県。
(2)大散関 陝西省宝鶏市の南西。

金の主・完顔亮は諸将を呼んで方略を授け、尚書省で(うたげ)を催した。皇后・徒単氏と太子・完顔光英に都を守らせ、張浩(ちょうこう)蕭玉(しょうぎょく)敬嗣暉(けいしき)に政務を処理させた。完顔亮は戦装束に身を包んで馬に乗り、旅装を整えて出発した。側室たちがつき従い、兵は実際には六十万人だったが百万と号し、氈帳(せんちょう)(毛氈でできたとばり)が並び立ち、(かね)と太鼓の音が絶えなかった。

李通は淮水(わいすい)のほとりに浮き橋を造らせ、清河口から淮東に入ろうとしており、各地に衝撃が走った。

25


十一日、劉錡(りゅうき)・王権・李顕忠・戚方に、清河・潁河(えいが)・渦河口の防備を整えるよう命じた。

26


十八日、高平(1)の人・王友直は挙兵して大名(たいめい)を取り戻し、使者を朝廷に送った。

王友直は幼少のころ父の王佐に従って遊学し、中原の回復を志していた。金の主・完顔亮が盟約を破ったと聞くと、豪傑を集結させて、
「権力が事を成し遂げる所以(ゆえん)は、権力が正しきに帰することにある。どうして道理を損なうことがあろうか?」
と言った。そして詔の(てい)を装って河北等路安撫(あんぶ)制置使を自称し、仲間の王任を副使とし、州県に勤王を説いた。ほどなくして数万の兵が集まり、これを十三の軍に編成し、統制等の官を置いて統括した。大名に進攻すると一戦で勝利し、民を安心させ、紹興の年号を使うように説き、人を朝廷に送ってこのことを報告した。まもなくして寿春が帰順したため、王友直を忠義都統制とした。

(1)高平 山西省高平県。

27


冬十月、金の主・完顔亮は淮河(わいが)を渡ったが、魏勝が背後をうかがっているのを憂え、数万の軍で海州を包囲させた。

このとき、李宝は水軍を率いて膠西(こうせい)で敵を防ごうとしていた。魏勝は人をやってこれを迎えさせ、李宝は風に逆らって東海(1)に到着し、慷慨(こうがい)して士卒を奮起させて海州の救援に赴いた。そして魏勝とともに新橋で金兵を攻撃し、これを破った。

魏勝は戻って北関を守り、金兵は関に迫った。魏勝は関門に登ると宴を張って酒を飲み、兵をねぎらって固守させ、出戦しなかった。しばらく時が経つと、少数の兵を門の外に出し、険要な地形に拠って金軍を攻撃させた。金人はうまく攻めることができないと知ると、軍を率いて場所を移し、黄河を渡って関の背後を襲った。魏勝は兵を集めて城に入った。

金人は砂堰(さえん)を通過しようとし、城を包囲して軍営を築いた。魏勝は(せき)に拠ってこれを防いだ。次いで単騎で敵を東門の外に追いやり、大声で罵った。金の騎兵五百は風下の方向へ退却した。魏勝はこれを数十里に渡って追撃し、金兵は驚いて散り散りになった。翌朝、金人は霧に乗じて四方向から城に迫り攻撃した。魏勝は力の限り防ぎ、城壁の上から金属を溶かした液を火牛に浴びせた。金兵は前に進むことができず、多くの者が死傷し、砦を放棄して逃げていった。

(1)東海 江蘇省連雲港市付近。

28


二日、劉錡(りゅうき)は兵を清河口に駐屯させ、金軍の行く手を阻んだ。

金人は毛氈(もうせん)で船を包み、兵糧を載せてやってきたが、劉錡は潜水の得意な者に船の底に穴を開けさせてこれを沈めた。金人は渦口から淮河(わいが)を渡ろうとしたが、劉錡は淮陰に駐屯し、兵を運河の岸に並べて行く手を阻んだ。

29


八日、金人は曹国公・烏禄(ウル)を遼陽で帝に立て、名を(よう)と改めた。

金の主・完顔亮は汴京(べんけい)を出発したが、将兵の多くがその道すがらで逃げ帰っていた。曷蘇館(かっそかん)猛安・福寿、高忠建、盧万家(ろばんか)婆娑路(ばさろ)総管・謀衍(ぼうえん)東京(とうけい)謀克・金住らは、大名(たいめい)で鎧を授けられたが部族ごと逃げ帰った。つき従う者は二万余りに上り、みな「われらはこれから東京(遼陽)に行き、新たな天子を立てるのだ!」と路上で公言した。

東京留守・ウルは、許王・訛里朶(オリド)の子で、太祖の孫であった。性格は仁愛と孝順さに満ち、沈着にして情理に通じ、人望を集めていた。完顔亮は謀良虎に淮北(わいほく)の諸王を粛清させようとしたことがあり、ウルはこれを聞いて恐れた。このとき、属僚の六斤が(べん)から帰り、金の主が母親らを殺したことを報告し、「金の主は使者を送り宗室の兄弟を殺そうとしています。」と言った。ウルはますます恐れ、(しゅうと)の興元少尹(しょういん)・李石に相談した。李石はまず副留守・高存福を殺すよう、ウルに勧めた。ウルは高存福を捕らえ、これを殺そうとした。このとき福寿らが軍を率いて東京に入ったため、彼とともに高存福らを殺した。

ウルは宣政殿で即位し、大赦を行い、大定と改元した。(みことのり)を下し、完顔亮の罪悪数十事を列挙し、オリドを追尊して帝とした。

30


九日、劉錡(りゅうき)は都統・王権を送り淮西(わいせい)を守らせようとしたが、王権は劉錡の命令に従わなかった。そして金兵が大挙してやってくると聞くと、()(1)を放棄して昭関(2)に退き、軍は壊滅した。劉錡はこれを聞くと淮陰から揚州に後退した。金の主・完顔亮は廬州に入り、王権は昭関から和州(3)に退いた。

(1)廬州 安徽省合肥市。
(2)昭関 安徽省含山県の北。
(3)和州 安徽省和県。

31


呉拱(ごきょう)成閔(せいびん)は兵を送って唐(1)(とう)の諸州を回復した。

(1)唐州 河南省唐河県。

32


十八日、帝は王権が敗れたと聞くと、楊存中(ようそんちゅう)を内殿に呼び、敵を防ぐ策について話し合った。そして楊存中を陳康伯の意見に従わせ、海上を航行して敵を避けようとした。陳康伯は楊存中を自邸に招き、服を脱いで酒を置いた。帝はこれを聞くと安心した。

翌日、陳康伯は上奏した。
「陛下に越(浙江(せっこう))や(びん)(福建)に行くよう勧める者がいたとお聞きしますが、案の定領土奪還の機会は去りました。なぜ静かに逃げるきっかけを待っているのですか?」

ある日、帝はにわかに直筆の詔を下した。
「敵がまだ退いていないのであれば、百官を解散する。」
陳康伯はこの詔を焼き捨て、上奏した。
「百官が解散すれば、君主は孤立してしまいます。」
帝の決意が固まると、陳康伯は詔を下して親征するよう求めた。帝はこれに従い、以下のように詔を下した。
「天と祖先はともに国家の命運を盛んなものにした。民があり国家があり、おのずから太平の逸楽を楽しんだ。」
また、このようにも書かれていた。
「歳星(木星)が呉の地に現れ、淝水(ひすい)の勲功となった。(秦の)兵は(しん)軍の倍の力があり、韓原の勝利を得ることができた。」

帝は平江に行き、葉義問に江・(わい)の軍を監督させ、中書舎人・虞允文(ぐいんぶん)を軍事に参与させた。次いで楊存中を御営宿衛使とした。

33


金人は真州(1)を陥落させた。統制・邵宏淵(しょうこうえん)が迎え撃ったが、敗走した。

(1)真州 江蘇省儀徴市。

34


二十一日、王権は采石(さいせき)(1)に退いた。

金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)は和州に入ったが、梁山濼(りょうざんぱく)(梁山泊)の水が涸れていたため、以前造ってあった軍船は進むことができず、李通に造り直しを命じた。作業の監督はたいへん厳しく、将兵は日夜休息することもできず、城中の民家を壊して材木とし、死人を煮て油を抽出し、これを用いた。

(1)采石 安徽省馬鞍山(ばあんざん)市付近。

35


二十六日、金人は揚州を陥落させた。劉錡(りゅうき)は真州・揚州の民を舟で長江を渡らせて江南に移し、瓜洲(かしゅう)(1)に駐屯した。

金人が襲来すると、劉錡は歩将・呉超、員琦(うんき)、王佐らに、皁角林(そうかくりん)でこれを防ぐよう命じた。劉錡は重囲に陥り、馬を下りて死闘した。王佐は歩兵を林の中に伏せ、金人が入ってくると(いしゆみ)をにわかに放った。金人は運河の岸が狭く、騎兵に不利であったため引き揚げていった。王佐はこれを追撃して大いに破り、統軍・高景山を斬った。

(1)瓜洲 江蘇省鎮江市の北。

36


二十七日、李宝は陳家島(1)で金人を大いに破り、金の将・完顔鄭家奴(ワンヤンていかぬ)を殺した。

李宝は海州の包囲を解くと、子の李公佐とともに水軍を率いて膠西(こうせい)の石臼島に向かった。敵の船はすでに河口を出て、陳家島に停泊しており、わずかに山一つ分を隔てるのみだった。このとき、北風が強く吹いており、李宝は石臼神に祈った。すると船の楼の中から風が巻き起こり、鐘のような音をさせていた。兵はみな奮い立ち、船を曳き刀を握り、戦いに備えた。敵の船を操縦しているのはみな中原の遺民で、李宝の船を遠くに見ると、敵兵を欺いて李宝の船に入り込み、知らせずにいた。

宋の中央軍が到着すると、風が強く吹いて船の速度が上がり、山を通り過ぎて敵に迫り、陣太鼓の音が周囲を震わし、波が高く巻き起こった。敵は大いに驚き、(いかり)を引き上げ帆を張った。帆はいずれも油が染みており、船の列が数里に渡って連なり、風と波がその一隅に巻き起こり、目的地に行くことができなかった。李宝はこれに火矢を射るよう命じた。煙と炎が巻き起こり、数百(そう)が延焼した。火が及ばなかった敵船はなおも前に進んで宋軍を防ごうとした。李宝は壮士たちを奮起させて敵船に登らせ、刀で敵を殺した。

敵兵三千余人を降伏させ、敵将・完顔鄭家奴ら六人を斬り、倪詢(げいじゅん)らを捕らえ、朝廷に献上した。また、統軍の割り符と印章および文書、武器と鎧、(ます)を万をもって数えるほど鹵獲(ろかく)した。他の物資も列挙しきれないほどであったが、これらはすべて焼き捨て、その火は四昼夜消えることがなかった。

(1)陳家島 山東省青島市の南。

37


十一月四日、張浚(ちょうしゅん)を判建康府(建康府の長官)とした。

これ以前、秦檜(しんかい)は和議を主導するようになると、朝廷は安穏として辺境のことを意に介さなくなった。張浚は時事を帝に力説しようと考え、母の計氏に対し、計氏は高齢なため必ず害が及ぶであろうと言った。計氏はこれを知ると、計氏の父の計咸(けいかん)が、紹聖(哲宗・1094~97)のとき、策問に対する答えとして、「直言して刑死しようとも、直言せずして陛下に背くことに耐えられません。」と書いたと張浚に言った。張浚は意を決し、上奏した。
「当今の時勢は頭目心腹の中に黄疸(おうだん)を養っているに等しく、決断しなければやむことがありません。それが遅ければ害は大きく治すのが難しくなり、早ければ害は軽く治しやすくなります。陛下は心の中でこのことに考えをめぐらせ、独りで決断し、慎重に真偽を判断し、急な事態に備え、国家の平穏を願っておられます。そうでなくば、後に後悔することになります。」
これが三省に渡ると秦檜は大いに怒り、張浚を連州(1)居住とした。

秦檜が死ぬと、朝廷は秦檜のときと同じく講和を重視した。このとき張浚は喪に服していたが、星に異常があったため帝から直言を求められた。張浚は、金は数年のうちに開戦の口実を求めて戦をしかけてくるであろうが、わが方は逸楽に溺れて戦の備えを怠っているのを憂慮し、沈該(しんがい)万俟禼(ばんしせつ)が宰相の位にあり、天下の期待に満足することなく、かつて自らが大臣であり、彼らと喜びと憂いをともにしたため、喪中にあるにもかかわらず、上奏・直言した。しかし、台諫(だいかん)は張浚の名が罪人の名簿にあり、異議を唱えて国是(和平政策)を動かそうとしているとしていると述べたため、張浚を永州(2)に左遷した。

ここに至り、殿中侍御史・陳俊卿(ちんしゅんけい)が上奏し、張浚の忠実さを直言した。帝は事態を悟り、この命が下った。

(1)連州 広東省連州市。
(2)永州 湖南省零陵区。

38


王権を行在(あんざい)(臨安)に呼び寄せ、李顕忠にその軍を代わって率いさせた。

39


金人は瓜洲(かしゅう)を侵した。

このとき、劉錡(りゅうき)は病が重かったため、兵権を解くよう願い出た。そして(おい)の中軍統制・劉汜(りゅうし)に兵千五百人で瓜洲を守らせ、李横に兵八千人で固守させた。劉錡を鎮江に戻し、(もっぱ)ら長江を守らせた。これにより両淮(りょうわい)の地をすべて失った。

金人の攻撃はますます激しくなったが、劉汜は敵が弓を射るのを制してこれを退けた。葉義問は鎮江に到着して劉錡の病が重いのを見ると、李横に劉錡の軍を貸し与え、兵に長江を渡らせた。兵はみな渡河に反対したが、葉義問はこれを強制した。劉汜は出戦を願い出たが劉錡は聞き入れなかった。だが、劉汜は家廟(かびょう)の方向に拝礼して戦いに出向いた。

金人の鉄騎が長江を覆い、劉汜は先に退却した。このため李横は孤軍となって金人に当たることができず退却し、都統制の印を失った。李横配下の左軍統制・魏俊(ぎしゅん)、右軍統制・王方が戦死し、李横・劉汜はわずかに身一つで免れた。葉義問はこれを聞くと、陸路から建康に逃げた。

40


七日、金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)は長江に赴いて高台を築かせ、自ら鎧を着て高台に登り、黒い馬を殺して天を祭り、羊一匹と豚一匹を長江に投じた。そして奔睹(ほんと)らを呼んで言った。
「船の(かい)はそろっている。長江を渡れるぞ。」
蒲盧渾(ほろこん)は言った。
「宋の船はたいへん大きく、わが方の船は小さくて速度も遅いです。長江を渡ることはできないでしょう。」
完顔亮は怒った。
(ちん)はかつて梁王(ウジュ)に従い趙構(高宗)を追って島に行ったことがあるが、宋の船すべてが大きいなどということがあるか?明日は必ず長江を渡るぞ!明け方には玉麟(ぎょくりん)堂を焼いてやろう。最初に渡った者に黄金一両を与えてつかわす。」
完顔亮は黄色い旗と赤い旗を岸辺に置き、号令により兵を渡河させた。

41


このとき、葉義問は虞允文(ぐいんぶん)蕪湖(ぶこ)(1)に行って李顕忠を迎え、王権の軍と合流し、兵をねぎらわせることにした。虞允文が采石(さいせき)に到着すると、王権はすでにここを通り、李顕忠はまだ来ていなかった。周囲は敵騎でいっぱいであり、官軍は所々に散らばり、(くら)を解き鎧を束ねて(帰順の意を示す)路傍に座っていた。いずれも王権の敗残兵であった。虞允文はこのまま李顕忠を待っていては国事を誤ると考え、すぐに諸将を呼んで忠義を説いて励まし、言った。
金帛(きんはく)(金と絹)と告命(官職の辞令書)はここにある。武功を挙げることを期待する。」
みなは言った。
「今、われらに君主あり。命がけで戦いたく思います。」
ある者が虞允文に言った。
「あなたは命を受けて兵をねぎらい、命を受けずして督戦している。誰かがこれを密告すれば、あなたはその(とが)めを受けますか?」
虞允文はこの者を叱りつけて言った。
「危難が国家に迫っているのに、わが将たちがなぜこれを避けて通ろうというのか!」
そして諸将に大きな陣を並べて動かないよう命じ、軍船を五つに分け、そのうち二隻を東西の岸に並べ、一隻を川の中流に置いて精鋭を待機させ、二隻を小さな港に置いて不測の事態に備えた。

(1)蕪湖 安徽省蕪湖市。

部署を終えると、敵が叫び声を上げながら襲来した。完顔亮は小さな赤い旗を振って数百の船を指揮し、長江の流れを断つほどであった。そして(またた)く間に南岸に七十(そう)がやってきて、官軍に迫った。官軍はやや退き、虞允文は陣中に入り、統制・時俊の背を軽く叩いて言った。
「お前の胆力と智謀は天下に知れ渡っている。陣の後ろに立つのは女子供だけだ!」
時俊は双刀を振るって出戦し、兵は命がけで戦った。川の中流の官軍は海鰌船(かいしゅうせん)(小型の軍船)で敵の船を衝き、すべて沈めた。敵は半死半戦し、日が暮れても退却しなかった。このときある敗残兵らが光州(2)からやってきた。虞允文は彼らに旗と太鼓を与え、山の後背から現れるように仕向けた。敵は援軍が来たのだと疑い、ようやく逃げだした。虞允文はまた強弩(きょうど)で追撃し、大いにこれを破った。金兵は和州に帰還したが、長江で死ななかった者は、完顔亮がこれを叩き殺した。

(2)光州 河南省潢川(こうせん)県。

このとき、曹国公(完顔雍(ワンヤンよう))が東京(とうけい)で即位し、大定と改元したと知らせがあった。完顔亮は(もも)を叩き(激しい感情を示す)、嘆じて言った。
「朕は江南を平定しようとしていたのに大定と改元するとは、天に背く行いだ!」
そしてあらかじめ書いてあった書きつけを取り出し、それには「一たび戎衣(じゅうい)して天下は大いに定まり」(3)改元したという故事が書かれており(自分を武王になぞらえ)、これを群臣に見せた。完顔亮は諸将を集め、北へ帰ることを計画し、兵を分けて長江を渡らせようとした。李通は言った。
「陛下の親征は異国に深く入り込んでいます。功なくして帰り、前は兵が分散し、後ろは敵に乗ぜられるようなことがあれば、万全の計とはいえません。兵を留めて陛下だけが長江を渡り、北へ帰られれば、諸将の心は離散してしまいます。今、(えん)の北にいる、遼陽の近くの諸軍は陛下に背くつもりだと思われます。ここはまず兵に長江を渡らせ、船を集めてこれを焼き、南に引き返す望みを絶ち、そのうえで陛下が北へ帰られるのがよいでしょう。さすれば南北の情勢は日ならずして落ち着くでしょう。」
完顔亮はこれに賛同した。

(3)「一たび戎衣して… 『書経』武成に見える一文。周の武王が一たび軍衣を身に着けて戦うと、天下は完全に安定した、の意。

42


虞允文(ぐいんぶん)は、完顔亮は明らかに敗北したが、再び襲来するであろうと考えた。このため、夜半に諸将を配置し、船隊を編成して縄で上流に()き、盛新を送り、水軍により楊林河(ようりんが)の河口で金人の行く手を阻ませようとした。

翌日、案の定敵がやってきた。虞允文はこれを挟撃して大いに破り、軍船三百を焼いた。敵は偽の詔書(しょうしょ)を送って王権に帰順を促し、以前からの約束であるかのように書かれていた。虞允文は、「これは反間の計だ。」と言い、このように返書した。
「王権は退却し、軍法により処分された。新たな将の李顕忠は早く戦って雌雄を決したいと思っている。」
完顔亮はこれを読むと大いに怒り、龍鳳舟(りゅうほうしゅう)を焼き、梁漢臣(りょうかんしん)および船を建造した者二人を斬り、軍を率いて揚州に向かった。また、符宝郎・耶律没答(やりつぼっとう)の護神果軍に淮河(わいが)を押さえて渡らせた。また、自分の直属軍の中に淮河まで戻った者があれば、都督府の決定を通さずすべて殺した。

43


十九日、劉錡(りゅうき)が病のため辞職した。

李顕忠が采石(さいせき)に到着すると、虞允文(ぐいんぶん)は彼に言った。
「敵が揚州に入れば、瓜洲(かしゅう)の兵と合流するだろう。京口(鎮江)には備えがないので私が行かねばならない。君の兵を分けてもらうことはできないか?」
このため李顕忠は一万六千の兵を割いて虞允文に与え、虞允文は京口に戻った。

このとき、敵は滁河(じょが)に多くの兵力を置き、三つの水門を造って水を数尺の深さまで貯め、瓜洲口(かしゅうこう)を塞いだ。楊存中(ようそんちゅう)成閔(せいびん)邵宏淵(しょうこうえん)の諸軍は京口に集まり、その数二十余万に及んだ。虞允文は軍船の数が少なくものの役に立たないため、材木を集めて造り直させた。張深に滁河口を守り、大河江の要衝を押さえさせ、苗定(びょうてい)下蜀(かしょく)(1)に置いて援軍とした。また、劉錡に会って病の具合はどうか尋ねた。劉錡は虞允文の手を取って言った。
「病など問題にならん。朝廷は兵を養って三十年になるが、戦技を披露することなどなかった。そして大功は一儒生が成し遂げている。われわれは恥じ入るばかりだ。」
劉錡は病のため臨安に呼び戻され、提挙万寿観となった。

詔を下し、成閔らを招討使とした。成閔は淮東(わいとう)招討使、李顕忠は淮西招討使、呉拱(ごきょう)は湖北・京西招討使となった。

(1)下蜀 江蘇省鎮江市の西。

44


二十七日、金の主・完顔亮(ワンヤンりょう)瓜洲(かしゅう)に着くと亀山寺(きざんじ)で寝起きした。

虞允文(ぐいんぶん)楊存中(ようそんちゅう)とともに長江に行って水軍の戦いぶりを試験し、踏車船(1)で中流を上下するよう兵に命じ、金山(2)のまわりを三周させた。その動きは空を飛んでいるかのようであった。

敵は満を持して待ち構えたが、(宋の水軍を見ると)互いに顔を見合わせて驚いた。完顔亮は笑いながら、「紙の船だ!」と言った。ある将が(ひざまず)いて言った。
「南軍には備えがあります。油断してはいけません。ここは揚州に駐屯し、進攻する機会をうかがわれるようお願いいたします。」
完顔亮は怒り、この将を杖刑(じょうけい)五十に処した。そして諸将を呼び集め、三日で長江を渡り、さもなくば皆殺しにすることを約束させた。

(1)踏車船 輪の上に(かい)がついており、これを踏んで前進する船。
(2)金山 江蘇省鎮江市にある山。

驍騎(ぎょうき)・高僧はその一派を誘って逃亡しようとしたが発覚し、完顔亮は兵に命じて斬り殺した。そして下令した。
「兵が逃亡すれば、蒲里衍(ほりえん)(謀克の副長)を殺す。蒲里衍が逃亡すれば、謀克を殺す。謀克が逃亡すれば、猛安を殺す。猛安が逃亡すれば、総管を殺す。」
このため兵たちはますます恐れを抱くようになった。

完顔亮は鴉鶻船(あこつせん)を瓜洲まで運航させ、明日を期して長江を渡るよう命じ、「遅れた者は殺す。」と言った。

45


兵たちは本国へ逃げ帰りたいと思い、浙西(せっせい)都統制・耶律元宜(やりつげんぎ)および猛安・唐括烏野(とうかつうや)に完顔亮暗殺を計画するよう求め、言った。
「前方には淮河(わいが)があって渡河を阻み、みな捕まってしまいます。最近、遼陽で新たな天子が即位したと聞きます。ここはともに大事(完顔亮の殺害)を行い、しかる後に全軍挙げて北へ帰るのがよいでしょう。」
耶律元宜はこれに賛同し、明け方に衛兵が交代するときを狙って暗殺を実行することとした。

明け方、耶律元宜らは諸将を引き連れ、兵を完顔亮の営所に迫らせた。完顔亮は騒ぎを聞き、宋軍の兵が襲ってきたのだと思い、服を取って起き上がろうとしたところ、矢が(とばり)を突き破って入ってきた。完顔亮はこれを取って見てみると、愕然として言った。
「わが軍の兵ではないか!」
近侍の大慶山は言った。
「事は急を要します。ここを出て避難しましょう。」
「どこへ逃げようというのだ?」
そして弓を取ろうとしたが、矢が当たって地に倒れた。延安少尹(しょういん)納合幹魯補(のうごうかんろほ)が最初に完顔亮を斬った。手足がまだ動いていたので、これを(くび)り殺した。兵たちが営所の衣服を奪い尽くしていたため、驍騎(ぎょうき)指揮使・大磐(たいばん)の衣服と頭巾で完顔亮の遺体をくるんで焼いた。完顔亮の側室たちを保護し、李通・郭安国・徒単永年(とぜんえいねん)梁珫(りょうしゅう)・大慶山らは殺された。耶律元宜は自ら左領軍副大都督となり、人をやって太子の完顔光英を(べん)で殺した。軍を三十里後退させ、檄文(げきぶん)を持たせて人を鎮江の宋軍に送り、講和について協議させた。ほどなくして、荊湖(けいこ)襄陽(じょうよう)・両淮にいた金軍は、柵を抜いて北へ帰っていった。

46


これ以前、金人が辺境に侵入したとき、鄭樵(ていしょう)は、木星が宋から分かれ、金の主が自ら倒れようとしていると言った。ここに至り、果たしてその通りとなった。

47


金の主・完顔雍(ワンヤンよう)は完顔亮が殺されたのを知ると、すぐに燕京(えんけい)に入った。

48


十二月、成閔(せいびん)・李顕忠は両淮(りょうわい)の州郡を取り戻した。

49


張浚(ちょうしゅん)が建康に到着した。

これ以前、朝廷から呼び出されて岳陽(1)に到着し、舟を買って風雪を冒して進んだ。このとき、金兵が周囲にひしめいており、張浚が東から来た者に会うと、その者は言った。
「敵兵は勢いづき、采石(さいせき)を焼き、炎と煙が天にみなぎっております。軽々に進んではなりません。」
張浚は言った。
「私は君父の急に駆けつけようとしており、まっすぐに進み陛下の所在を尋ねるのみだ。」

このとき、長江には北岸へ行こうとする舟は一つもなく、張浚は小舟に乗って近道を進んだ。池陽を通過したところで完顔亮が死んだのを知り、二万の兵を和州に留めた。李顕忠の兵が長江の岸辺におり、張浚はこれをねぎらいに行った。ある部隊が張浚の姿を見ると、天に従い長江を下っているように見えた。張浚は軍をねぎらうと、すぐに建康に向かった。

先牒(せんちょう)(2)通判・劉子昂(りゅうしこう)行宮(あんぐう)の儀式の道具を管理していたが、ここに至り、帝に馬車に乗って建康に行くよう求めた。帝はこれに従った。

(1)岳陽 湖南省岳陽市。
(2)先牒 辞令書が下されるよりも先に就任した、の意か。

50


十日、帝は建康に向かった。

張浚(ちょうしゅん)は道の左わきに立って帝を迎え、拝礼した。衛兵が張浚のしぐさを見ると、常に額に手を当てていた。張浚は左遷されていたが再び起用され、その風采(ふうさい)は威厳に満ちており、軍民みな彼を尊重した。

51


三十二年(1162)春正月、山東の人・耿京(こうけい)が挙兵して東平を回復した。

このとき、金の主・完顔亮が死ぬと、中原の豪傑たちが立ち上がった。耿京は東平を拠点とし、東平節度使を自称し、歴城(1)の人・辛棄疾に書記を管理させた。辛棄疾は宋朝に帰順するよう耿京に勧めた。このため、耿京は辛棄疾に帰順する(むね)の上奏文を持たせて行在(あんざい)(臨安)に向かわせた。帝は大いに喜び、辛棄疾に厚く褒美を与え、耿京を知東平府とした。

(1)歴城 山東省済南市。

52


金の主・完顔雍(ワンヤンよう)は南征の軍を解散させ、高忠建を報諭宋国使とし、皇帝に即位したことを告げた。

53


二月六日、帝は建康を()った。

出発の日の近く、帝は張浚(ちょうしゅん)に言った。
「そちがここにおれば、朕は北顧の憂いがない。」
御史・呉芾(ごふつ)は言った。
「建康は襄陽(じょうよう)・漢陽と密接に連絡し、淮甸(わいでん)(淮河流域)を治めることができます。陛下はここに留まり、中原回復の望みをつなぐのがよいでしょう。もし臨安に帰れば、西北の情勢が不安定になります。」
帝は聞き入れなかった。

54


閏月(じゅんげつ)、辛棄疾が山東に到着した。このとき、耿京(こうけい)配下の将・張安国が耿京を殺して金に降ったため、辛棄疾は海州に戻り、みなと謀って言った。
「私は将帥(耿京)に従い宋朝に帰順したが、期せずして事変が起こった。どうやってこれを復命すればよいのだ!」
そして李宝配下の統制・王世隆、忠義の人・馬全福らと約して裏道から金の軍営に行き、(とばり)の中で張安国を捕縛し、臨安に献上して斬った。詔を下し、辛棄疾に江淮判官を与えた。

55


夏四月二十二日、金の高建忠が臨安にやってきた。

朝廷は返礼の使者を遣わし、完顔雍(ワンヤンよう)の即位を祝うことにした。工部侍郎・張闡(ちょうせん)は要請した。
「使者の派遣の命を(おごそ)かにし、敵国の礼を正し、かの国がそれに従わなければ戦あるのみです。このようにすれば、中国の威が再び盛んになることでしょう。」
帝はこれに賛同し、洪邁(こうまい)を賀登極使とした。帝は執政に言った。
「先の講和はもともと上皇(徽宗(きそう))・太后のためのものであり、己を屈し言葉遣いをへりくだっていても、なお(はばか)らないところがあった。今、両国の盟約は破綻しており、名分を正し国境線を画定し、まず先に朝廷の儀式と歳幣の内容を定めるべきだ。」
これを受け、洪邁は外国の使者を接待する際の礼儀十四事を上奏した。

ほどなくして、高建忠は臣下の礼をもって接するよう求めたが、宋が州郡を新たに取り戻すと、陳康伯が道義の点からこれを非難したため、取りやめとなった。

洪邁は出発の直前、敵国としての礼を用いるよう上奏した。帝は直筆の書簡を洪邁に与え、それにはこう書かれていた。
「祖先の陵墓から離れること三十年、その時々に清掃や祭祀(さいし)を行うこともできず、誠に心を痛めている。かの国が河南の地を手に入れて北へ帰るのであれば、かの国は必ずやこれまで通り自らを高い地位に置くことだろう。そのとき朕が再び己を屈しても何を惜しむことがあろう。」
洪邁は上奏した。
「山東の戦はいまだ終わることなく、両国の通好は成立しません。」

洪邁が(えん)に到着すると、金の閤門使(こうもんし)(1)は、国書が形式通りに書かれていないのを見て、国書のなかの文言を「陪臣」の二字に改め、金の主に謁見する際は従来通りの礼を用いさせようとした。洪邁は頑として拒否したため、金は宿舎を三日間封鎖し、水も与えなかった。洪邁は金人を見かけると不遜な態度で話しかけたため、金人は彼を抑留しようとしたが、張浩(ちょうこう)が反対したため帰国させた。

(1)閤門使 皇帝の外出や宴会に同伴し、百官・親王・外国の使者が皇帝に謁見する際の案内役を務める官。

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金人は再び海州を攻撃したが、鎮江都統・張子蓋と魏勝がこれを破った。

金人は五斤太師に全国の兵二十余万で海州を攻撃させ、先に一軍を送って州の西南から魏勝軍の糧道を断った。魏勝は精鋭三千余騎を選び、石闥堰(せきたつえん)で金軍を防いだ。金軍は進むことができず、夜になってようやく引き返した。魏勝は千人を険要の地に置き、金兵十万が襲来すると、魏勝は兵を率いて激しく戦い、数千人を殺し、その他の者はみな逃げた。魏勝は戻って城に入った。

ほどなくして、金兵は城を数重に囲んだ。魏勝は郭蔚(かくうつ)とともに防ぎ、あるいはひとり城を出て金軍を攪乱(かくらん)し、休む暇を与えなかった。また、魏勝は金の軍営に夜襲をしかけ、攻城用の兵器を焼いた。ほどなくして、今度は金人が力を合わせて城を急襲した。魏勝は李宝に急を告げ、李宝は朝廷に報告した。朝廷は張子蓋を救援に向かわせ、張子蓋は石湫堰(せきしゅうえん)に進んだ。

金人は河東で万の騎兵を陣に並べ、張子蓋は精鋭数千騎を率いてこれを攻撃した。統制・張汜(ちょうし)が陣を攻撃したが、流れ矢に当たって死んだ。張子蓋は、「事は切迫している!」と言って腕を振るい大声で叫びながら金軍の陣に突撃した。魏勝らがこれに続き、死闘を演じた。金軍は大いに敗れ、石湫河で溺れ死んだ者が半数に及び、包囲が解けた。

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六月、三招討司を廃止した。金人が講和を呼びかけたためであった。

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これ以前、李顕忠は金の都統・蕭琦(しょうき)と密かに結んで内応させていた。李顕忠は蕭琦に出撃するよう要請し、宿(1)(はく)州から(べん)に向かわせ、汴京から関中・陝西(せんせい)への道を通じさせようとした。関中・陝西への道が通じるようになれば、鄜延(ふえん)には李顕忠の名声が響き渡っているため、同地の軍は必ず呼応するであろうと考えた。また、同地のもと配下の軍数万を出動させ、河東を取ろうと考えた。しかし、このとき停戦の詔が下ったため、この計画は中止となった。

(1)宿州 安徽省宿州市。

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李顕忠は初め李世輔と名乗り、綏徳(すいとく)(1)青澗(せいかん)の人であった。代々蘇尾九族都巡検使となり、十七歳のとき、父・李永奇に従って軍を指揮し、勇猛さと敏捷(びんしょう)さをもって名を知られた。

これ以前、金人は延安を陥落させると、李永奇父子に官職を与えた。李永奇はにわかに泣き出して言った。
「私は宋の臣下で代々国恩を受けてきた。かの国に用いられるなどあるものか!」
このとき、劉予は李世輔に騎兵隊を率いて東京(とうけい)(開封)に向かわせることにした。李永奇は李世輔を戒めて言った。
「お前は東京に行ったら機に乗じて宋朝に帰れ。私のために志に背くようなことはするな。うまくいけば私も浮かばれるというものだ。」
李世輔が東京に着くと、ウジュに従い万騎を率い、淮河(わいが)のほとりで狩りをした。李世輔は呉俊に命じて淮水の馬を渡河させられる地点を探させ、ウジュを捕らえて宋朝に帰ろうと考えた。呉俊が戻ると、李世輔は馬で駆けつけて首尾はどうだったか尋ね、竹刺(先のとがった竹の棒)を馬の体に刺して止まった。

ウジュは李世輔に知同州(2)を与えた。李世輔は()(3)に着くと父のもとを訪ねた。李永奇は言った。
「同州は南山に続いており、金人が駅伝の道を往来している。お前はそこで同州の部族長を捕らえ、洛水(らくすい)渭水(いすい)を渡り、商州(4)(かく)(5)を通って朝廷に戻り、私に知らせるのだ。私は挙兵して延安を取ったうえで朝廷に帰ろう。」

(1)綏徳州 陝西省綏徳県。
(2)同州 陝西省大茘(たいれい)県。
(3)鄜州 陝西省富県。
(4)商州 陝西省商洛市の西。
(5)虢州 河南省霊宝市。

金の撒離喝(さんりかつ)が同州に来ると、李世輔は計を用いてこれを捕らえた。馬に乗って城を出て洛河に着いた。しかし舟が約束の刻限に遅れたため渡ることができず、しばしば追手と戦ったがいずれも勝利した。李世輔が高原で休憩していると、追手がますます増えているのが見えた。撒離喝が(ほお)を叩いて(あわ)れみを乞うと、李世輔は折れた矢を与え、同州の人を殺すことおよび李世輔の親族に危害を加えることをしないよう誓わせた。撒離喝はこれを許諾し、高原の(ふもと)に身柄を移された。追手の兵たちが争って彼を救出し、免れることができた。

李世輔は老人と子供を連れて北へ向かい、()城に到着すると急いで人をやり、李永奇に状況を知らせた。李永奇はすぐに一族を挙げて城を出たが、馬翅谷(ばしこく)で金人に追いつかれた。一族三百人が殺害され、李世輔はわずかに二十六人を連れて夏(西夏)に逃げた。夏に着くと、夏人はなぜ来たのか尋ねた。李世輔は泣きながら、
「父母と妻子が亡くなって痛恨極まり、彼らとともに死ねなかったのが恨まれる。二十万の兵を借り、撒離喝を生け捕りにし、陝西(せんせい)五路を取って夏に献上したい。」
と言った。夏の主は李世輔を延安経略使とし、臣下の王枢・𠼪訛とともに出兵させることにした。時に紹興九年五月のことであった。

李世輔が延安に着くと、総管・趙惟清(ちょういせい)は大声で言った。
鄜延(ふえん)はいま宋朝に帰しており、許可書もある。」
李世輔は許可書を手に取って読むと、属官らとともに並びながら拝礼し、大いに慟哭(どうこく)した。そして以前からの配下八百余騎を引き連れて王枢・𠼪訛に会いに行くこととし、彼らに言った。
「私は延安府を手に入れた。許可書を読み、私の部隊により同地を本国に帰順させるのだ。」
𠼪訛は聞き入れず、言った。
「初め経略(李世輔)は兵を借りて陝西を取ると言って今に至ったのだ。私に宋のために延安を帰順させようというのか!」
李世輔は説得するのは無理だと悟ると、刀を抜いて𠼪訛を斬ろうとしたがうまくいかず、王枢を捕らえて縛り上げた。

夏人は鉄鷂子(てつようし)軍を率いて襲来したが、李世輔は配下の部隊でこれを防ぎ、馬で駆けながら双刀を振るい、向かうところ敵をなぎ倒し、夏兵は壊乱した。李世輔は立て札を掲げて兵を集め、精悍(せいかん)な兵万人を得た。そして王枢・𠼪訛の父母兄弟を捕らえ、東の市中で斬った。()州に到着した頃には歩兵・騎兵四万余りを擁し、河池(6)呉玠(ごかい)に会った。次いで行在(あんざい)(臨安)に行くと、帝は再三に渡って慰労し、名を顕忠と賜った。

(6)河池 甘粛省()県。