巻37 王安石変法

Last-modified: 2023-03-03 (金) 21:02:10

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仁宗嘉祐(かゆう)五年(1060)五月二十二日、王安石を三司度支判官とした。

王安石、臨川(1)の人。読書を好み、文章を得意しとた。曽鞏(そうきょう)が彼の書いた文章を欧陽脩に見せると、欧陽脩はこれを褒め称え、進士上第(第一等)に抜擢し、淮南(わいなん)判官の職を与えた。

旧例では、任期が満了すると、文章を献上して館職への採用を願い出ることが許されていたのだが、王安石はそうせず、知(ぎん)(2)に転任した。堤防を築き、ため池の水を開通させ、流水と陸地をうまく活用した。穀物を貸し出して民に与え、収入が得られ次第返還させた。端境期に民に売買させ(穀物の不足を補わせ)、人々はこれを有り難がった。次いで(じょ)(3)通判となった。

文彦博(ぶんげんはく)は王安石の名利を求めない姿勢を見て彼を推薦し、序列に構わず朝廷で用いることにより、官僚らに競争を促すよう求めた。館職への就任を求められたが、王安石は断った。欧陽脩は彼を諫官に推薦したが、王安石は祖母が高齢であることを理由に辞退した。欧陽脩は彼が親を養う必要があることから、朝廷に群牧判官(地方の属官)に用いるよう言ったが、これも辞退した。王安石は地方への赴任を懇願し、知常州(4)となり、提点江東刑獄に移った。周敦頤(しゅうとんい)と出会ってからというもの、連日連夜語り合い、自室に引きこもって深く考えを巡らせ、寝食を忘れるほどであった。

(1)臨川 江西省撫州市。
(2)鄞県 浙江省寧波市の南。
(3)舒州 安徽省潜山市。
(4)常州 江蘇省常州市。

これ以前、館閣から就任の命が度々下ったが、王安石は断って身を起こさなかった。士大夫らは彼は世の中に関心がないのだと言い、彼の顔を知らないのを嘆いた。朝廷は王安石に高官の地位を与えたがっていたが、彼が官職に就きたがらないのを歯がゆく思っていた。ここに及び、王安石が度支判官となり、喜ばない者はなかった。彼は己の意見に固執した結果、「万言の書」を献上した。その大要は以下の通りであった。

「今、天下の財力は日増しに困窮し、風俗は日増しに衰え、民が法を知らないのを憂えています。古の王の政治にのっとらないがゆえであります。古の王の政治にのっとるとは、その意にのっとるということに過ぎません。その意にのっとれば、わが改革も天下の耳目を驚かせ、天下の口を騒がせることはありません。もとより古の王の政治に合致しているのです。

天下の力によって天下の財を生み、天下の財を取って天下の費用をまかなうのです。古の治世より、財の不足によって苦しんだことはなく、苦しみの原因は財の管理に定まった方法がなかっただけのことです。しかるべき地位にいる人の才能が用いるに足りず、巷間(こうかん)にも用いるべき才幹をもった者がおりません。社稷(しゃしょく)の信託、領土の防衛、陛下は久しくこれらを天の僥倖(ぎょうこう)に任せるのを常としておられますが、これで一時の憂えもないといえるでしょうか?

問題をそのままにして対処しようとしない弊害を戒め、大臣らに明確に詔を下し、これを発端として今の世の変化に対応されるようお願いしたく存じます。私の申すことは俗な者たちの言うこととは違います。だから彼らは私の考えを実際に合わず、乱れ切っていると思っているのです。」

帝は一読してそのままにしておいた。

<呂祖謙は言う。王安石変法の主旨は、大略をこの書に見ることができる。その学識は嘉祐に用いられず、ことごとく熙寧(きねい)に用いられた。世の風潮の変化があったのであろう。>

あるとき、舎人院(5)は詔勅の文字の改変・削除を申請してはならないとの詔が下った。王安石はこれに抗議して言った。

「このように事細かな規定があれば、中書舎人はその職務を行うことができず、大臣のすることを一律に許してしまうことになります。力の弱い大臣が陛下のために法を守ろうとせず、力の強い者が陛下のご意思を盾に命令を作り、諫官と御史がその意向に逆らえなくなれば、これはたいへん恐ろしいことです。」

この言葉は執政の職務に干渉するものであり、執政らは快く思わなかった。このとき王安石の母親が亡くなり、三司度支判官の職を辞した。

(5)舎人院 中書舎人が所属し、詔勅の起草、六部の文書への署名を担当する官署。詔勅に不備があると判断した場合、封をした上で皇帝に返還し、反対意見を述べる。

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英宗治平四年(1067)閏三月二十五日、王安石を知江寧府(1)とした。

英宗の治世が終わろうというとき、王安石は召し出されるも応じず、韓維・呂公著兄弟はますます彼を称賛した。神宗が(えい)州(2)の屋敷にいたとき、韓維が記室(3)となり、彼が講義するたびに称賛された。韓維は「これは私の説ではありません。わが友王安石の説であります。」と言った。韓維は庶子を左遷させてその席を空け、王安石を自らの代わりとして推薦しようとした。帝はこのため王安石に会いたいと思うようになった。

(1)江寧府 江蘇省南京市。
(2)穎州 安徽省阜陽市。
(3)記室 大宗正司(皇族の教育にあたる官署)に属する官。明確な職務はない。記室参軍。

神宗が即位すると、彼を呼び出したが来なかった。帝は宰相らに言った。
「王安石は先帝の朝に仕えていたが、呼び出しに応じなかった。朝廷を軽んじているのではないかと言う者もいた。今また来なかった。病にかかっているのか?何か要求でもあるのか?」
曽公亮(そうこうりょう)は言った。
「王安石は真の宰相の器。陛下を騙すなどまずありません。」
呉奎(ごけい)は言った。
「私は以前王安石と地方を治めたことがありますが、彼は自説を押し通して他人の意見を聞き入れず、その行いは実際に合っていませんでした。万一彼を用いれば、必ずや綱紀を乱すことでしょう。」
帝は聞き入れず、知江寧府の命が下った。

みな王安石はこの命を必ず断ると思っていたが、詔が下るとすぐ知府に就任した。

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九月、王安石を翰林(かんりん)学士とした。

宰相・韓琦(かんき)は三朝にわたって政治をとっていたので、専横であると非難されていた。このため、曽公亮は王安石を強く薦め、韓琦を更迭させようと目論んだ。韓琦は辞職を強く願い出たので、帝はやむを得ずこれを聞き入れ、司徒兼侍中・判相州(1)の職を授けた。韓琦が入対すると、帝は泣きながら言った。
「侍中の辞意は固く、今日辞職の命を下した。しかし、そなたが去れば誰に国を託せばよい?王安石などどうだろうか?」
韓琦は言った。
「王安石は翰林学士としては余裕がありますが、宰相の地位に居らせてはなりません。」
帝は答えなかった。

(1)相州 河南省安陽市。

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神宗熙寧(きねい)元年(1068)夏四月四日、王安石はようやく京師に入った。翰林学士を拝命してから七か月が過ぎていた。

王安石に身分に構わず入対するよう、詔した。帝が統治のために何を優先すべきかを下問すると、王安石は答えた。
「方法を選び、それを優先します。」
帝は言った。
「唐の太宗をどう思う?」
「陛下は尭・舜にならうべきであり、太宗の事績にならう必要などありません。尭・舜の道は簡素で煩雑でなく、要点が明らかで回りくどくなく、簡易で難しいものではありません。しかし、後世の学者はこれに通暁することができず、尭・舜の道が高遠にして到達できない境地だと思っているのです。」
「そなたは君主に難しいことを求めている。朕はわが身を顧るに、そなたの言うことに(かな)うことはできまい。意を尽くして朕を助け、この道をともに登ってもらいたい。」

ある日講義の席が設けられ、群臣が退いた後、帝は王安石を引きとどめて言った。
「そなたとゆっくり議論したい。」
そして言った。
「唐の太宗はどうあっても魏徴(1)を得ようとし、漢の昭烈(劉備)はどうあっても諸葛亮を得ようとし、後に有意義な実績を残した。この二子は誠に不世出の人物だ。」
「陛下は尭・舜となることができます。さすれば必ずや(こう)(2)()(3)(しょく)(せつ)(4)のような人物が得られましょう。そしてまた殷の高宗になれます。さすれば傅説(ふえつ)(5)のような人物が得られましょう。かの二子は道徳ある人が恥じる人物であり、語る価値もありません。天下が大きく人民が増えることにより、百年の太平が続き、学者の数は少なくはありません。ですが、統治者を補佐できる人がいないのが心配されます。陛下はどのように天下を治めるべきか分からず、誠心を推し進めるも実りを結ばず、皋・夔・稷・契・傅説のような賢人がいても、小人によってその存在が隠蔽され、隠退して去るのみです。」
「いつの世にも小人はいる。尭・舜の時代にも四凶(6)がいた。」
「尭・舜は四凶を見分けて取り除くことができました。それが尭・舜たるゆえんなのです。もし四凶どもが好き勝手に人を陥れるようなことを許せば、皋・夔・稷・契もまたそのような朝廷の禄を食んで一生を終えるのをよしとしたでしょうか?」

(1)魏徴 太宗の諫議大夫として仕え、怒る太宗を二百回余り諫めた。
(2)皋 皋陶(こうよう)。法に通じ、公正な裁判を行ったことで知られる。
(3)夔 舜に仕えた楽官。
(4)契 禹を補佐し、治水に功を上げた。
(5)傅説 高宗の宰相。
(6)四凶 共工・驩兜(かんとう)・三苗・鯀(こん)。

5


冬十一月、郊(1)を取り行った。

宰相らは河朔(かさく)で干害が起こり、物資が不足しているため、南郊に金と絹を与えないよう願い出た。学士らにこれを議論させた。司馬光は言った。
「災害を救い、節約に努めるのなら、高価なものから手を付けてゆくべきだ。この提案に従うべきだろう。」
王安石は言った。
常袞(じょうこん)(2)は朝廷で出される食事を辞退した。彼は恐らく食事の費用がまかなえないことを知っていたのであり、辞職すべきであったが、俸禄を辞退する必要はなかった。物資の不足は財の管理がうまくできていないがためだ。」
「うまく財を管理するとは、税を厳しく取り立てるだけのことだ。」
「そうではない。うまく財を管理するとは、税を新たに増やさずとも物資が足りているということだ。」
「天下にそのような道理があるものか。天地の生んだ財貨百物は民にはなく官にある。官は法を定めて民から収奪し、その害は新たに税を増やすよりもひどい。これは桑弘羊が武帝を欺いたときの言葉だ。司馬遷はこのことを書いて、その蒙昧(もうまい)さを見たのだ。」
二人の言い争いはやむことがなかった。
帝は言った。
「朕の考えは司馬光と同じだ。しかし、ひとまず宰相の申し出を許可しないこととする。」

このとき王安石は帝の命令を起草しており、常袞の故事を引いて両府(中書省と枢密院)を責めた。両府は言い返そうとしなかった。

(1)郊 天地を祭る祭祀。冬至に南郊で、夏至に北郊で行う。
(2)常袞 唐の人。代宗時代の宰相。

6


二年(1069)春二月三日、王安石を参知政事とした。

これ以前、帝は王安石を任用したいと思い、曽公亮が強く薦めたが、唐介は大任にふさわしくないと言った。帝は言った。
「文学(に通じた者)は任に堪えないか?経学(に通じた者)は任に堪えないか?政事(に通じた者)は任に堪えないか?」
唐介は答えて言った。
「王安石は学問を好み古い考えにとらわれています。ゆえにその議論は実際的でなく、彼に政務をとらせれば必ずや多くのことが改変されるでしょう。」
唐介は退いて曽公亮に言った。
「王安石を大任に用いれば、天下は必ず混乱するだろう。諸君はこのことをわきまえられよ。」
帝は侍読・孫固に尋ねた。
「王安石は宰相に据えるべきか?」
「彼は文章と品行に優れていますので、侍従や諫官といった職ならばよろしいでしょう。宰相には器量が必要ですが、王安石のそれは狭量です。どうしても賢い宰相を欲するならば、呂公著・司馬光・韓維がそれに当たります。」

帝は納得しかね、王安石を参知政事とし、彼に対し言った。
「人はみなそなたのことを理解できず、ただ経学に通じるのみで実務を知らないと思っている。」
王安石は答えた。
「経学こそまさに実務を(おさ)めるものです。」
「そなたが政策を実行するにあたり、優先するものは何だ?」
「衰退期の風俗というのは、賢者が道を行えず、愚者が無道を行い、(いや)しき者が礼を行えず、貴い者が無礼を行うものです。風俗を変え、法を定めるのは、まさに現今の急務です。」
帝は強く賛同した。

7


二十七日、新法を施行し、王安石が言った。

「周は泉府(1)の官を置き、専売の制度によって販路を一つにまとめ、広く貧民を救い、天下の財を自在に流通させました。後世では桑弘羊・劉晏(りゅうあん)だけがこの主旨にほぼ合致しています。学者たちは古の王がこの主旨にのっとったことを究明できず、君主は民と利を争うべきではないと考えています。財を管理したくば泉府の法にならい、利益を朝廷の手中に収めるのです。」
帝はこの説に賛同した。

王安石はまた言った。

「人の才能は得がたいもので、知りがたいものでもあります。十人に財を管理させたとして、その中の一人、二人の失敗を許せば、これに乗じて異論が巻き起こるでしょう。尭と群臣は一人を選んで治水にあたらせましたが、それでもなお失敗を免れることはできませんでした。まして一人を選ぶのでないなら、失敗を免れることなどできません。利害の大小を比較し、異論に惑わされないようお願い致します。」
帝は言った。
「一人が失敗したからといって改革をやめるなら、それは実り少なしというものだ。」

こうして制置三司条例司(2)が置かれ、国家の大計を司り、旧法を改変し、天下の利を通じさせた。陳升之(ちんしょうし)・王安石がこれを司った。

(1)泉府 周官の名。税を取り立て、また、公費で不要の品を買い上げ、これを原価で売り下げた。
(2)制置三司条例司 新法の推進機関。財政担当の三司とは別。その権限は三司・中書門下を超越した。

これ以前、泉州(3)の人呂恵卿(りょけいけい)が、真州(4)推官(5)の任期を終えて都に入り、王安石と経書について議論して意気投合し、友人として交流するに至った。そして帝に、「呂恵卿の賢明さは昔の儒者にもそうそう並ぶ者がありません。古の王の道に学び、これを実行できるのは呂恵卿しかおりません。」と言った。こうして呂恵卿と蘇轍が検詳文字(6)となり、事の大小に関わらず、王安石は必ず呂恵卿と相談してこの職務を行った。帝への報告書の起草は、多く呂恵卿の筆によるものであった。

また、章惇(しょうとん)を三司条例官とし、曽布を検正中書五房公事(7)とした。上奏により求めたいことがあるとき、これを取り継ぐ官僚が嫌がれば、曽布は必ず上疏して帝に細かく説明し、帝の意を固めさせ、王安石だけを信任するように仕向けた。そしてみなを脅かしてものを言えないようにさせた。このため、王安石は呂恵卿に次いで曽布を信任するようになった。

(3)泉州 福建省泉州市。
(4)真州 江蘇省儀徴市。
(5)推官 州・府の属官。
(6)検詳文字 制置三司条例司の次官。財務に関する論議に参与する。
(7)検正中書五房公事 中書門下の公務処理を調査・催促する官。

そして農田・水利・青苗・均輸・保甲・免役・市易・保馬・方田の諸役が相次いで新設され、新法と号して天下に施行された。王安石は劉恕(りゅうじょ)と親しくなり、彼を三司条例司に引き入れようとしたが、劉恕は財務に習熟していないため断り、言った。
「天子はあなたに大政を託された。尭・舜の道を推し進めて明君を補佐されよ。利を優先してはならん。」
王安石は言った。
「利はそれを妨げないようにしてうまく用いれば、尭・舜の道に(かな)うものとなる。」

このとき、朝廷の大臣らは新法に反対し、議論がまとまらなかった。王安石は言った。
「あなたは座して書を読んでおらんのだ。」
趙抃(ちょうべん)は言った。
「それは違う。(こう)()(しょく)(せつ)の時代に、どんな書物に目を通せたというのだ?」
王安石は応じなかった。

8


夏四月二十一日、三司条例司の要請に従い、劉彝(りゅうい)謝卿材(しゃけいざい)・侯叔献・程顥(ていこう)盧秉(ろへい)王汝翼(おうじょよく)曽伉(そうこう)・王広廉の八人を諸路に派遣し、農田・水利・賦役を視察させた。蘇轍は言った。

「職役(1)の負担者に郷戸(農民)を使わなくてはならないのは、官吏の登用に士人を用いなくてはならないのと同じです。田畑があって生きることができるのであれば逃亡の恐れがなく、愚かで嘘がつけないのなら人を騙す恐れがありません。今、このことを捨て置いて用いないのであれば、財を司る者には盗まれる害があり、盗賊を捕らえる者には逃げられる害があるのが密かに恐れられます。

唐の陽炎が両税法を定め、大歴十四年(徳宗・779)の賦税の全額を両税の額と定め、租調と庸はこれに統合されました。今、両税は従来通り行われており、どうしてまた庸銭を取る必要があるでしょうか?また、官僚を輩出している家が長らく職役を負担しています。古の、士大夫の子弟で才能ある人は、その才が用いられれば、その恩恵を自分の身に帰したことでしょう。胥吏(しょり)や下役人などは、官に用いられると、その恩恵を自分の家に帰します。聖人の旧法には深い意味があるのです。なぜ官戸までが職役を負担しなければならないのでしょうか?」

帝は聞き入れなかった。

(1)職役 官物の輸送、郷村の警備、州県の雑役などの役務。郷村の富裕層が輪番で負担したが、その負担は大きく、破産する者が多かった。

9


六月二十二日、御史中丞・呂誨(りょかい)を罷免した。

王安石が執政となると、士大夫の多くが人を得たと考えたが、呂誨だけは彼は世事に通じておらず、大任に用いればよからぬことが起こると言った。呂誨が入対しに行くとき、学士・司馬光も経筵(けいえん)(経書・史書の講義の席)に赴こうとしていたところで、二人は偶然出会って並び歩いた。司馬光は密かに今日何を言おうとしているのかを尋ねた。呂誨は言った。
「袖の中に弾劾の上奏文がある。最初に弾劾することになる。」
司馬光は愕然とした。
「みな人を得たと喜んでいるのに、何ゆえそのようなことをする?」
「君実(司馬光の字)までそのようなことを言うのか!王安石は時の声望を得ているが、彼は偏見にとらわれ、邪悪な言説を軽々しく信じ、人が自分におもねるのを喜んでいる。その言を聞けば美しいように見えるが、いざ実行に移せばその浅薄さがうかがい知れる。彼を宰相の地位に置けば、天下は必ずその害を(こうむ)ることだろう。帝は新たに即位され、政務を相談できるのは二、三の執政のみだ。しかるべき人でなければ国事を誤ることだろう。これは心腹の病だ。治して差し上げねばならん。」

そして次のように上疏した。

「大姦は忠に似ており、大詐は信に似ております。王安石は外には素朴なふりをして、内心巧みに騙そうとしており、おごり高ぶった残忍な害物であります。誠に恐れながら、陛下は彼の才智を喜び、久しく信頼しておられますが、大悪人が官途に入り、小人どもが寄り集まれば、賢者はことごとく去ってしまい、乱れがここから生じます。私が王安石の足跡を調べるに、彼にはもともと遠大な計画などなく、ただ旧来の慣行を改変し、方法が人と異なり、いたずらに文章を飾り立て過ちを覆い隠し、上に不正を行い下を欺こうとしています。私は密かにこれを憂えており、天下と人民を誤った方向に導くのは、間違いなくこの人です。」

上疏は報告されたが、帝は王安石を厚遇していたので、この上疏は返還された。呂誨は朝廷を去ることを願い出、王安石も呂誨を去らせるよう求めた。帝は曽公亮に言った。
「呂誨が朝廷を出てゆけば、王安石も(自分も辞職させられるのではと)安心できまい。」
王安石は言った。
「私は身をもって国に報いんとしており、陛下のこの措置には義があります。私がなぜ疑いの目を向けられたからといって遠慮することがあるでしょう。仮にもそれが去就につながるなど。」

呂誨を左遷し、知(とう)(1)とした。呂誨が退けられると、王安石はますます人の意見を受け入れなくなった。司馬光はこれにより呂誨の先見の明に感服し、これには及ばないと思った。

(1)鄧州 河南省鄧州市。

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秋七月十七日、淮南・両浙(りょうせつ)・江南・荊湖(けいこ)の六路に均輸法を施行した。

条例司は言った。

「諸路の上供(1)には毎年一定の額が定められています。豊作ならば多く上納できますが、余剰分を上納することはできず、凶作ならば上納が難しくなりますが、不足があってはなりません。遠方から数倍の道のりで輸送するのに、都では半値で売っています。いたずらに豪商に公私の急につけ入り、価格の軽重と物資の集散の権を壟断(ろうだん)させているのです。

今、江南・両浙・荊湖・淮南の発運使(2)は、六路の税を集め、銭を貸し付けて費用にあてさせるべきです。およそ上供する物は、高いものを安くし、近所にあるものを遠方へ運ぶことができます。都の倉庫での処理に詳しい者は、便宜に従って買いだめし、物資の有無を制御することができます。

国の費用が充足し、民の財が不足しないことを願います。」

詔を下し、発運使・薛向(せっきょう)に均輸・平準を司らせて六路で施行し、元手として内蔵銭(3)五百万(びん)、上供米三百万(せき)を与えた。このとき、混乱が起こるのを憂慮し、政策の間違いをしきりに主張する者がいたが、帝は聞き入れなかった。薛向がこれについて対策し、属官を置くよう求め、これに従った。

(1)上供 徴収した税のうち、中央に上納するもの。
(2)発運使 陸運・水運を司る官。
(3)内蔵銭 内臓庫(宮廷の金庫)から支出される金銭。

蘇轍は言った。

「先に均輸担当の官吏を置きましたが、記録簿と俸禄は費用となって厚みを増し、品質の良いものでなければ売らず、賄賂がなければ何もしようとしません。官の買い上げ価格は民間よりも高く、売り下げ価格の弊害は以前と変わりません。一度銭が出てゆけば、返ってこないでしょう。たとえ売買による利益が少し得られたとしても、販売による損害は必ず大きくなるでしょう。」

帝は王安石に陶酔しており、この言を受け入れなかった。均輸法は成功しなかった。

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八月、知諫院・范純仁を罷免した。

范純仁は上奏した。
「王安石は祖先から伝わる法を変え、財を収奪し、民心が安定しません。『書経』に『怨みは目に見えるところに現れるだけではない。まだ現れないものも未然に防ぐよう図らねばならない。』(1)とあります。陛下は目に見えない怨みを未然に防がれるようお願い申し上げます。」
帝は言った。
「目に見えない怨みとは何だ?」
杜牧(とぼく)(2)の言う『あえて言わず、あえて怒る(不満を言葉で表さず、怒りで表す)』というのがそれです。」
「そなたは事の道理をよく論じる。朕のために古今の治乱から戒めとなるものを編纂してくれないか。」
これを受けて范純仁は『尚書解』を編纂して献上し、言った。
「この書はいずれも尭・舜・禹・湯王・文王・武王の事績について述べております。天下を治めるにこれに代わるものはありません。これを深く研究し、実行に移されるよう望みます。」

(1)『怨みは目に… 『書経』「五子之歌」。
(2)杜牧 晩唐の詩人。

帝は政治についての意見を切に求め、遠方の位の低い官吏をしきりに引見し、過ちがないかを尋ねた。范純仁は言った。
「小人の言というのは、聞けば採用すべきと思えますが、実行すれば必ず害があるものです。彼らは小を知り大を忘れ、近いものに目を奪われ遠いものが見えないのです。どうかご賢察ください。」

薛向(せっきょう)が六路に均輸法を施行すると、范純仁は言った。

「私はかつて補任の詔書を頂いたとき、古の王を補佐する政治を学ぼうとしていました。ですが今、桑弘羊にならって均輸の法を行い、小人らに民から収奪させ、怨みを集め、災いのもととなっています。王安石は富国強兵の術によって帝の御心を誘導し、功にありつこうとし、旧来の学を忘れ、法令を尊べば商鞅(しょうおう)(たた)え、財貨を論ずれば孟軻(もうか)(孟子)に背き、有徳の人をさげすんで保守的だと非難し、公理を捨てて通俗的な議論を押し通し、自分と意見の異なる者を愚者、合う者を賢者としています。劉琦(りゅうき)銭顗(せんぎ)らが一言もの申すと、すぐに左遷されました。朝廷の臣下らは大半が彼の下に走り、陛下もまたこれに従って彼の下に駆け寄り、これではどこへもたどり着くことができません。

遠大な計画は時間をかけて実現すべきであり、大事は急いで達成すべきではなく、才ある人物は焦って求めるべきではなく、長年続いた弊害は急に改めるべきではありません。功をなそうと()いては佞人(ねいじん)につけ入られてしまいます。速やかにご返答いただいて王安石を退け、内外の要望に応えられませ。」

上奏文は留め置かれて返答は下されなかった。范純仁は朝廷を去ることを強く求めたが、許可されなかった。ほどなくして諫官の職を罷免し、判国子監に改めた。范純仁の朝廷を去る意思はいよいよ固くなり、王安石はこれを諭して言った。
「軽々しく去ってはならん。あなたを知制誥(ちせいこう)とすることになっている。」
范純仁は言った。
「そのような言葉がわが心に響くものか!上奏は聞き入れられなかった。多額の俸給になど関心はない。」
范純仁は先の上奏文を写して中書に提出した。王安石は怒り、范純仁を重く降格させるよう求めたが、帝は言った。
「彼に罪はない。ひとまず都に近い地を与えておこう。」

これを受けて范純仁を知河中府(3)に命じ、ついで成都転運使に移した。范純仁は新法が不合理であるとして、治下の州県に新法の施行をさせなかった。王安石は事務を滞らせたことに怒り、職権により范純仁を左遷し、知和州(4)とした。

(3)河中府 山西省永済市の西。
(4)和州 安徽省和県。

12


二十八日、判刑部(1)・劉述ら六人を左遷した。

当初、知登州(2)許遵(きょじゅん)が州の牢獄に行ったところ、夫を謀殺しようとした妻がおり、殺傷に及んだが夫は死なず、取り調べるに至り、許遵が自らこの案件を受け持った。法によれば、殺傷を犯して自首した者は、原因となった罪(故意に殺人を計画したこと)を免ずることができた。このため、減刑を朝廷に求めた。帝は司馬光と王安石に、この件について議論するよう命じた。王安石は許遵の言が正しいとした。司馬光は言った。

「他の罪(ここでは殺人の計画)により殺傷するに至った者は、他の罪により首原(3)することができる。だが、謀(計画)と殺(実行)とを二つに分け、謀を原因となった罪とし、首原してよいはずがない。」

帝は王安石を贔屓(ひいき)しており、文彦博(ぶんげんはく)富弼(ふひつ)らは司馬光の考えを支持し、年をまたいでも結論が出なかった。

(1)判刑部 刑部の長官。再審や死刑判決の言い渡し等を司る官。従六品下。
(2)登州 山東省煙台市蓬莱区。
(3)首原 自首した者を免罪すること。

ここに至り、詔を下して王安石の意見に従うこととし、謀殺して人を傷つけた場合、自首した者は罪を二等減ずるとし、令として明文化しようとした。侍御史知雑事兼判刑部・劉述はこの詔を封還(4)し、帝に何度も反対の上奏をした。王安石は帝に告げ口し、詔を下して開封府推官・王克臣に劉述の罪を弾劾させた。劉述は侍御史・劉琦(りゅうき)銭覬(せんぎ)を伴い、以下のように上疏した。

「王安石が政治をとってまだ数ヵ月も経っておりませんが、内外は騒然としています。陛下は王安石を政府に置くことにより、唐(尭)・()(舜)の時代のようにしたいとお考えですが、王安石は管・商(商鞅)の詐術を操り、陳升之(ちんしょうし)と謀って三司の権限に干渉し、これを自分の手柄とし、官署と官僚を新たに設けて天下に施行し、衆人の耳目を驚かせています。

去年、許遵がみだりに按問(あんもん)自首の法を提議したため、王安石は偏見に任せて新たな意見を提起し、陛下はこれを察せずに聞き入れられ、天下の公正を損ないました。先代の朝が定めた制度は、代々守って失うことなく、事あるごとに道理に反するようであれば廃止するのが本来の形です。狡猾で専権をふるう人物を朝廷に置いて国法を乱す必要があるでしょうか?彼を罷免して天下をお慰めください。

曽公亮は王安石を恐れて接触を避け、裏で彼にすがりついて恩寵を得ております。趙抃(ちょうべん)は手を(こまね)いてばかりで、唯々諾々と彼に従っています。みな罷免すべきです。」

上疏が献上されると、王安石は帝に上奏し、劉琦を監(5)処州(6)塩酒務(7)、銭覬を監()(8)塩税に左遷した。

(4)封還 詔に誤りがあると判断した場合、詔に封をして皇帝に返すこと。
(5)監 監当官。地方の徴税・専売の監督官。
(6)処州 浙江省麗水市。
(7)務 小規模な専売所。
(8)衢州 浙江省衢州市。

殿中侍御史・孫昌齢は、初めは王安石に付き従って栄達していた。銭覬が御史台を退くとき、孫昌齢を罵って去っていった。これにより孫昌齢も、王克臣が王安石におもねって大権を握り、聡明な人物が表に出ないようにしていると言った。王安石は孫昌齢を()(9)通判に左遷した。

王安石は劉述を牢獄へ送ろうとしたが、司馬光・范純仁が反対したため、知江州(10)に左遷した。同判刑部・丁諷(ていふう)、審刑院詳議官(11)・王師元が劉述に肩入れして王安石に逆らった。丁諷は復州(12)通判に、王師元は監安州(13)税に左遷された。

(9)蘄州 湖北省蘄春県。
(10)江州 江西省九江市。
(11)審刑院詳議官 審刑院に所属する官。北宋前期、審刑院は大理寺・刑部と並ぶ司法機関であった。上奏された案件がまず審刑院に受理され、大理寺に渡されて判決が下され、刑部が再審する。刑部はその案件を審刑院に付託し、審刑院が当否を評議し、皇帝に報告する。最後に中書が有司に最終判決を下させる。
(12)復州 湖北省天門市。
(13)安州 湖北省安陸市。

13


条例司検詳文字・蘇轍を罷免した。

蘇轍と呂恵卿は意見が合わないことが多かった。このとき八使(1)を各地にやって余剰の利益を求めたが、内外の者たちはみな、迎合して何かあっても言わないようにしていた。蘇轍は書状により王安石に抵抗し、この害を力説した。王安石は怒り、罪を加えようとしたが、陳升之(ちんしょうし)がこれを止め、蘇轍を河南府(2)推官とした。

(1)八使 前漢順帝のとき、風俗視察のために遣わした周学・杜喬(ときょう)ら八人の使者。
(2)河南府 河南省洛陽市。

14


九月四日、青苗法を施行した。

当初、陝西(せんせい)転運使・李参は、管下の兵の数が多く食糧の蓄えが不足していることから、民に麦と粟の余りを自ら退蔵して官に渡すようにさせ、先に銭を貸し、穀物が熟してから官に返還させた。これを青苗銭と称した。数年後、食糧庫に余剰が生じた。

ここに至り、条例司は以下の通り要請した。

「諸路の常平倉(1)・広恵倉(2)の銭と穀物は、陝西の青苗銭の例にならい、前借りを求める民があればこれを与え、利息二分を取ることとします。夏税・秋税の納税のとき、銭納を求める民があればそれに従います。災害に遭った場合、穀物が熟すまで納期を延ばすことを許可します。ただ凶作の害を待つのではなく、民が銭の貸し付けを受ければ、豪農は中小農民に対し、手持ちの穀物の少ない端境期に乗じ、間をおかず倍の利益を求めることができなくなります。

また、常平倉・広恵倉の物資を集積して蓄え、凶作と物価上昇があってから売り出していますが、手に渡るのは都市部の遊び人にだけです。一路の物資の余剰と不足に精通し、物価の高い所から放出して安い所に集め、広く蓄積して物価を平均化します。そして農民たちに収穫の時期まで家計がもつようにし、財産を持たせ、豪農が家計の窮乏に乗じないようにさせるのです。

これらはみな民のためであり、朝廷が利益を目的として行うのではありません。これはまた古の王が恩恵を費やして利を生み出し、農耕と収穫を補助したという主旨にかなうものです。諸路の銭と穀物の多寡を量り、官と提挙(3)を派遣し、州ごとに通判・幕職官を一人ずつ選び、物資の移動と出納を管理したく思います。つきましては、まず河北・京東・淮南の三路でこれを施行し、ふさわしい時期に他の諸路に押し広げるのです。」

詔を下し、「よろしい。」とした。朝廷の庫から緡銭(びんせん)百万を支出し、河北の常平倉の粟を買い上げた。常平・広恵倉の法は青苗法に変わった。

(1)常平倉 穀物の売買によって穀物価格の安定を図る倉庫。
(2)広恵倉 災害対策用の予備倉。
(3)提挙 提挙常平官。提挙常平司の長官。常平倉の穀物、青苗銭の貸し付け等を司る官。従六品~正九品。

15


これ以前、王安石は呂恵卿と青苗法を制定するよう定めると、草稿を蘇轍らに見せて言った。
「これは青苗法だ。不合理な部分があれば、遠慮なく言ってくれ。」
蘇轍は言った。
「銭を民に貸すのは、もともと民を救わんとするためだ。しかし出納のとき、官吏はよこしまな行いをするため、法があってもこれを禁ずることができない。銭が民の手に入れば、良民といえどみだりに用いることを免れない。銭を納めるようになれば、富民といえど納められる限度を超えることを免れない。そうであれば鞭が必ず用いられるようになり、州県の事務は煩雑になるだろう。

唐の劉晏(りゅうあん)(1)は国の財政を司ったが、民に銭を貸し付けることはせず、各地の豊作・凶作の状況、物価の高低を把握していても、限度を超えることはしなかった。物価が安ければ官が買い上げ、高ければ官が売り下げる。これにより各地に物価が高すぎたり安すぎたりするという弊害がなくなった。

今この法が存在しても、弊害は残されている。あなたが心から民に志を示し、このような政策を行えば、劉晏と同じ功を立てることができよう。」

(1)劉晏 代宗・徳宗期の宰相。財務を担当した。

王安石は言った。
「君の言には誠に道理がある。ゆっくり考えてみることとしよう。」
これより月をまたいでも青苗法のことを言わなくなった。

このとき、京東転運使・王広淵(おうこうえん)が言った。

「春の農耕が始まりましたが、民は貧困に苦しみ、豪農がこれに乗じて利を求めています。本道の銭と絹五十万を留め置き、これを貧民に貸し付け、毎年利息二十五万を取るようにさせていただきたく思います。」

これに従った。
これは青苗法の主旨に合っており、王安石はようやく実施に移すべきと考え、王広淵を京師に呼んでともに議論した。これにより青苗法の実施を決意したのであった。

16


二十九日、王安石は呂恵卿を推薦して太子中允(ちゅういん)(1)・崇政殿説書(2)とした。

司馬光は諫言した。
「呂恵卿はよこしまでずる賢く、優れた人物とはいえません。王安石が内外の者から誹謗されていますが、これはみな呂恵卿が元凶なのです。」
帝は言った。
「王安石は官職を好まず、自ら薄給を受け取っている。賢者と言うべきだ。」
「王安石は非常に賢くはあります。ですが世事に通暁しない上にわがままで、これは彼の短所です。また、呂恵卿は信任すべきではありません。呂恵卿は真の奸人(かんじん)であり、王安石の謀主となり、王安石が実行役となり、ゆえに天下はこの二人を奸人と評しているのです。最近は序列に拠らず人材を抜擢しており、みな不満に思っています。」
「呂恵卿は朕の問いに明快に答える。優れた人物だ。」
「呂恵卿は文学と弁舌に優れていますが、職務への態度が歪んでいます。陛下には大らかな気持ちでこれを察していただきたく存じます。江充(3)・李訓(4)に才がなかったならば、どのようにして君主を動かしたというのでしょう?」
帝は黙り込んだ。

司馬光はまた王安石に書状を送った。

阿諛追従(あゆついしょう)の士は今はあなたに従順だが、一旦勢いを失えば必ずやあなたを売って自分を売り込むだろう。」

王安石は不快に思った。

(1)太子中允 職務実態のない官名。正五品下。
(2)説書 経書を講義する官。
(3)江充 前漢の人。武帝のもとで専権を振るい、巫蠱(ふこ)の獄を巻き起こすも武帝の皇太子に殺された。
(4)李訓 唐の人。文宗とともに宦官の粛清を計画したが、発覚して殺害された。

17


帝が邇英閣(じえいかく)に講義を聴きに行った際、司馬光は曹参が蕭何(しょうか)に代わったことについて話した。帝は言った。
「漢は常に蕭何の法を守って変えようとしなかった。これは正しいか?」
司馬光は答えた。
「漢だけではなく、夏・殷・周三代の君主は禹・湯・文・武の法を守り、今でもその法が存在してしかるべきです。漢の武帝は高祖の法を変更して混乱を招き、盗賊が天下の半ばを占めるほどでした。元帝は先帝の政治を改め、漢の偉業は衰えました。このことから申しますに、祖先の法は変えるべきではありません。」
そこへ呂恵卿が言った。
「古の王の法を一年に一度変えるのは、正月の初めに法を朝廷に公布するということです。五年に一度変えるのは、各地を巡幸し、制度を研究するということです。三十年に一度変えるのは、刑罰は一時代にあっては軽く、一時代にあっては重い(時代に合ったものにする)ということです。司馬光の言は是を非とするものであり、朝廷を感化させようとしているのです。」
帝は司馬光にどう思うか問うた。司馬光は答えて言った。
「法を朝廷に公布するとは、旧法を公布するということです。諸侯に礼や楽を変える者があれば、王は巡幸してこれを誅殺し、変えさせないようにします。刑というのは、新たに興った国は軽い刑法を用い、乱れた国は重い刑法を用います。一時代にあっては軽く、一時代にあっては重いためであり、法を変えるということではありません。

天下を治めるとは部屋にいるようなもので、壊れた部分があればこれを補修しますが、大きく壊れない限りは新たに造ることはしません。公卿(こうけい)・侍従らがここにそろっています。陛下は彼らにご下問ください。三司使が天下の財を司っておりますが、彼らには才幹がなく、左遷すべきであり、執政(王安石)にこのことに干渉させるべきではありません。

制置三司条例司とは何なのでしょうか?宰相は道徳により君主を補佐するのであって、形式を用いるものでしょうか?形式を用いるのなら、それは胥吏(しょり)であります。看詳中書条例司(1)とは何なのでしょうか?」

(1)看詳中書条例司 歴代定められてきた慣例を再編し、新法の必要に応えるための官署。

呂恵卿は言葉に詰まり、他のことを持ち出して司馬光に言い返した。帝は言った。
「宰相はともに是非を論じあうものだろう。どうしてこうなるのだ。」
司馬光は青苗法の弊害を説いた。
「民が銭を借りて収入を得ても、下戸(下層農民)を蚕食し、飢餓に苦しみ土地を手放して流民化している。まして県官が権威をかさに強引に貸し付けたとしたらどうなるだろうか。」
呂恵卿は言った。
「青苗法は、願い出れば与え、願い出なければ無理強いはしない。」
「愚民どもは銭を借りることの利は知っているが、銭を返すことの苦しさまでは考えていない。県官だけが無理強いしないのではなく、豪農も無理強いしてはいない。太宗が河東を平定したとき、和糴(わてき)(2)の法を定め、米一斗につき十銭が支払われ、民は喜んで官と取り引きした。しかしその後、物価が高騰しても和糴は続けられ、河東の積年の弊害となった。明日の青苗もまたこのようであるのが恐れられる。」
帝は言った。
「陝西では青苗を施行して久しいが、民の病とはなっていない。」
司馬光は言った。
「私は陝西の出身ですが、その病は見られても、その利は見られません。朝廷は初め青苗法の施行を許可しませんでした。有司はそれでも民を苦しめています。まして法が許可すればどうなるでしょうか。」

(2)和糴 官が民間の穀物を買い上げること。買い上げた穀物は軍糧調達に利用された。農民の田地の大小を調査し、資産に応じて割り当てられ、前払いで銭が支払われたため農民に重宝された。その後、物価高騰が進んで支払額が低落し、事実上の軍糧調達と化した。

18


司馬光はまた『漢書』の賈山(かざん)の上疏について講釈し、諫言に従うことの美、諫言を拒むことの禍を説いた。帝は言った。
「舜は讒言(ざんげん)を嫌い、道理を尽くした。台諫が欺いて讒言すれば、その者を左遷せずにおくものか。」
「賈山の(くだり)について進読いたしただけのこと。時事について()えて申し上げることはしません。」
司馬光が退こうとすると、帝は司馬光を引き留めて言った。
「呂公著は藩鎮が晋陽(1)の兵を興そうとしている(山西の地方官が謀反を企んでいる)などと言っている。讒言を嫌い、道理を尽くすときではないか?」
「呂公著は普段から仲間とともにもの思いにふけっています。なぜそのように軽々しく兵を興すことがありましょう?多くの者がそんなことはないと思っています。」
「これはいわゆる『静言庸違』(2)というものだな。」
「呂公著には罪がありますが、それは今に始まったことではありません。以前、朝廷は呂公著に御史台の官の推挙を任せたのですが、呂公著は全員条例司の人を推挙しました。彼は条例司と通じ合っており、このように勢力を張るようになってから公衆の議論に訴え、非難するようになりました。弾劾されるべきです。」
「今、天下は騒然として休まる気配がない。孫叔敖(そんしゅくごう)(3)の言う『国が正しいとするものは、民が嫌がる』というものだ。」
「その通りです。陛下はその是非を考えるべきです。条例司のしていることは、王安石・韓絳(かんこう)・呂恵卿だけが正しいと思い、天下は間違っていると思っています。陛下はこの三人とともに天下の務めを果たすことができるでしょうか?」

(1)晋陽 山西省太原市。
(2)静言庸違 言うことはよいが行いがよこしまであること。『書経』「尭典」
(3)孫叔敖 春秋の人。楚の荘王の令尹。楚の富国強兵に努めた。

19


冬十月三日、富弼(ふひつ)が辞職した。

王安石が政務をとるようになると、富弼と意見が合わなくなった。富弼は王安石と対立するのは不利と考え、病と称して朝廷を退くことを願い出て、数十回上奏した。帝は言った。
「そちが去るというなら、誰がそちの代わりとなるべきだ?」
富弼は文彦博(ぶんげんはく) を薦めたが、帝は黙然とした。しばらくして言った。
「王安石はどうだろう?」
富弼もまた黙然とした。富弼は判(はく)(1)に転出した。

富弼は謹厳実直で孝行者であり、善を好み悪を憎み、常にこう言っていた。

「君子と小人が同じところに集まっても、その勢いは続かない。君子がそれを知れば、職務に励んだ後に退き、談論に興じて憂えるものがない。小人がそれを知れば、彼らは結託して自分たちと組むよう煽動(せんどう)し、入り組んだ派閥を形成し、相手の派閥に勝ってようやく静まる。彼らの思い通りになるのを放っておけば、横暴な振る舞いで善良な者を苦しめる。天下の平穏を願っても実現できまい。」

(1)亳州 安徽省亳州市。

20


陳升之(ちんしょうし)を同平章事とした。

陳升之が宰相となると、帝は司馬光に問うた。
「最近宰相となった陳升之について、周囲の者は何と言っている?」
(びん)の人は狡猾で、楚の人は軽率です。今、二人の宰相が閩の人で、二人の参政が楚の人であります。彼らは必ずや同郷の者たちを引きこんで朝廷をいっぱいにするでしょう。これで実直な気風が保たれるでしょうか?」
「陳升之は才智に富み、民政に通じている。」
「彼は大事に臨んで志を貫けない人物に過ぎません。およそ才智の士とは、忠実な人をそばに従えてこれを制するものです。これが明主が人を用いる方法です。」
「王安石はどうだ?」
「人は王安石をよこしまであると言っています。つまりは人を悪く言いすぎているのです。世事に通じていない上に自分の考えに固執する人物に過ぎません。」

21


十一月二日、韓絳(かんこう)を制置三司条例とした。

当初、陳升之(ちんしょうし)は王安石に取り入って地位を固めようとした。王安石も様々な議論が朝廷にあったため、陳升之に助けを求めた。陳升之は王安石の考えが正しくないのを知っていたが、力を尽くして王安石に助太刀した。王安石は陳升之に恩恵を与えることにし、自分より先に彼を宰相とした。陳升之が宰相となると、小さいことで意見が合わなくなり、呉越同舟であることが明白になった。そこで陳升之は帝に言った。
「宰相はすべてを統括します。管下の職がわざわざ司を称する必要があるでしょうか?制置三司条例司を廃止していただきたく思います。」
王安石は言った。
「古の六卿(りくけい)は今でいう執政であり、司馬・司徒・司寇・司空と、それぞれに職名がある。これがなぜ道理に反するのだ?」
陳升之は言った。
「制置百司条例ならばいいだろう。三司だけを制置(処理)させるならばよくない。」
「今、中書が百銭以上の物を支給して三司の官吏の欠員を補っている。いずれも陛下のご命令を得たうえでのことだ。制置三司条例を置いて何がいけない?」
こうして二人の関係は不和となり、王安石は韓絳を宰相に推薦し、ともに政務にあたった。

王安石が上奏するごとに、韓絳は必ず、「王安石の述べる意見は一つにとどまりません。みな用いるべきです。陛下はよくお考えください。」と言った。王安石は彼を頼みとした。

22


十三日、農田水利の法が施行された。

これより献策する者があふれかえり、数年間で廃棄された田一万七百九十三ヵ所、三十六万千百七十八(けい)余りを接収した。民は職役を割り当てられ、苦しんだ。

23


諸路提挙官(1)を置いた。

条例司は「民間では多くの者が青苗銭の借り入れを願い出ております。諸路の転運司にこれを施行させるようお願い致します。」と上言した。これを受けて、諸路に各々(おのおの)提挙二人、管当一人を置き、青苗・免役・農田・水利を司らせることにした。諸路で計四十一人であった。

提挙官が置かれると、往々にして王安石に迎合し、多額の青苗銭を民に貸し与えることで功績とした。富民はこれを欲しがらず、貧者は欲しがったため、戸等(2)の上下に応じて貸し付けた。また、貧富を問わず、十人を保長(3)とした。王広淵(おうこうえん)が京東(今の山東省一帯)にいるとき、一等戸に一万五千銭を貸し与え、戸等が下がると額も下がっていったが、五等戸でも千銭を貸し与えていた。民間は騒然となり、不合理に思った。しかし、王広淵は朝廷に来て上奏したとき、民はみな喜び感激していると言った。諫官・李常、御史・程顥(ていこう)は、王広淵は職役を強引に割り当て、過酷な取り立てをして朝廷に迎合し、民を苦しめていると言った。このとき、河北転運使・劉庠(りゅうしょう)が、青苗銭をむやみに貸し与えることなく上奏しにきた。王安石は「王広淵は新法を強く支持して弾劾され、劉庠は新法を壊そうとしたのに不問に付されている。このような有様なら、向背のない人物など得られまい。」と言った。これより李常・程顥の言は実行されなくなった。

(1)提挙官 市易法の運用にあたった財務官。
(2)戸等 所有する土地・家屋に応じた主戸(土地所有農民)の等級。豪農・地主である一・二等戸(上戸)、中小地主・上層自営農である三等戸(中戸)、中小自作農である四・五等戸(下戸)に分類され、(五等戸制)職役割り当ての基準となった。土地を持たない農民は客戸という。
(3)保長 保甲法における保の長。5戸で1保を構成し、郷村の治安維持、徴税にあたる。

24


閏月(じゅんげつ)、官を派遣して諸路の常平倉・広恵倉を管理させ、農田の水利と差役も管理させた。

25


三年(1070)二月己酉(きゆう)、河北安撫使・韓琦(かんき)が上疏した。

「青苗銭を貸し付ける詔書の内容を推測するに、『民を恵むのが務めであり、豪農が農民の困窮に乗じて倍の利息を取り立てないようにし、朝廷は利益を目的としない。』というものでしょう。今般定めた法令は、郷戸(農村の世帯)の一等以下の戸は直ちに千銭を借りることができ、三等以上の戸はさらに借りることが許されています。そのうえ、郷戸の上等戸や都市部に財産を有する者は、もともと豪農なのです。銭一千を借り入れさせ、一千三百を返済させれば、これは官が自ら銭を出して利息を取るということであり、初めに下した詔と相違します。

また、法令は強要を禁じていますが、強制的に銭を貸さなければ、上戸は借り入れを求めません。下戸は借り入れを求める者もおりますが、借りるのはたいへん容易で、返すのはたいへん難しいのです。これでは将来、返済の催促や豪農とともに利益のもと(下戸)を保って分け合うという弊害が必ず生ずることでしょう。

陛下が自ら倹約に努めて天下を教導されれば、自ずと国費に困ることはなくなります。さすれば興利の臣が至る所から出現し、あちらこちらに疑いを生ずることはなくなるでしょう。どうか諸路提挙官を廃止し、諸路の統治は提点刑獄にゆだね、常平の旧法を施行されるようお願いします。」

帝はこの疏を袖の中にしまい、執政(王安石)に見せて言った。
「韓琦は真の忠臣だ。朝廷の外にあっても王室のことを忘れていない。朕は初め、新法によって民を利することができると思っていたが、図らずも民を害すること、この疏の通りだ。坊郭(都市)の戸が青苗銭を借りるはずがない。使者もまた無理にこれを貸し与えている。」
王安石は奮然と進み出て、言った。
「民の欲する通りに青苗銭を貸し出せば、坊郭の戸であっても民に害を与えることなどできません!」
このため王安石は韓琦を非難し、上奏した。

「もし桑弘羊が天下の財貨を覆い隠し、君主の私用に供したなら、興利の臣と言うべきでしょう。今、陛下はなぜ常平法が民を助けるのかを学ばれ、利息を取ることになりました。周公の遺法もまた、豪農の勢力を抑え貧民を救済するもので、私欲を満たす助けとはしませんでした。これがなぜ興利の臣と言えましょう。」

帝は韓琦の言により新法に疑問をもつようになり、王安石は病と称して朝廷に来なくなった。帝は執政に青苗法をやめるよう伝えたが、趙抃(ちょうべん)は王安石が朝廷に出てくるのを待つよう求めた。王安石が朝廷を去るよう願い出ると、帝は司馬光に答詔を起草させた。それには「士大夫が声を荒げれば、民が騒ぎ出す(軽率なことをするな)」という一文があった。王安石が上奏して弁明すると、帝は婉曲(えんきょく)な表現で謝罪し、呂恵卿に帝の考えを伝えさせた。韓絳(かんこう)は王安石を引き留めるよう帝に勧めた。王安石は朝廷に来て謝罪し、「大臣・近臣・台諫らが結託し、古の王の正道に背いて陛下を誹謗(ひぼう)しようとしています。これが政治が乱れている原因です。」と言った。帝はもっともだと思った。王安石は再び政治をとるようになり、以前にも増して新法を堅く擁護するようになった。

詔を下し、韓琦の上奏文を制置条例司に送り、曽布の反論の上奏文を石に刻ませ、これらを天下に知らせた。韓琦はより切迫に自説を述べ、王安石は『周礼』(しゅらい)をみだりに引用して帝を惑わせていると訴えたが、いずれも返答しなかった。

文彦博(ぶんげんはく)もまた青苗法の害を説いたが、帝は言った。
「余は中使を二人派遣して(ちまた)の者に青苗法の是非について問わせたが、みなたいへん良いと言っている。」
「韓琦は三朝に仕える宰相です。これを信ぜず、宦者の言うことを信ずるのですか!」
これより前、王安石は入内副都知・張若水、押班(1)・藍元震と親しくしていた。帝はこのとき使者を遣わして開封で青苗銭の貸し付けがどう思われているかを調べようと思い、たまたまこの二人が使者に命ぜられた。二人が帰ってくると、民情は青苗銭の貸し付けを強く願っているのに、これを無理にでも実行する者はいないと誇張した。ゆえに帝はこれを信じて疑わなかった。

(1)押班 内侍省に所属する宦官。宮殿の宿直や使役に従事する。

26


十一日、司馬光を枢密副使に任じようとしたが、固辞して拝命しなかった。

司馬光はもともと王安石と仲が良かったが、新法が行われてからは書状を送って再三考え直すよう述べ、呂恵卿(りょけいけい)経筵(けいえん)の場で論争し、王安石は快く思わなかった。帝は司馬光を大任に用いようと思い、王安石のもとを訪れると、王安石は言った。

「司馬光は、外は人に上の名声が上がるようにさせ、内は下の実(利益)に肩入れし、言うことはすべて政治を乱す事であり、(くみ)するものはすべて政治を乱す人です。彼を側近に置き、国論を預けようものなら、それは衰亡へ向かう契機となりましょう。司馬光の才能が政治を乱すことはありません。ただ高い地位にあるだけならば、考えの異なる人たちも彼を慕い尊重することでしょう。韓信は漢の赤い旗を立てて趙の兵の気迫を削ぎました。今司馬光を用いれば、それは考えの異なる者たちとともに赤い旗を立てるということです。」

王安石が病と称して朝廷に来なくなると、帝は司馬光を枢密副使に就けようとした。だが、司馬光はこれを断り、こう言った。

「陛下が私を用いようとされるのは、私が率直な性格であることから国家の助けとしようと思われてのことでしょう。単に俸禄と地位を与えることによって称賛し、その言を用いないのであれば、それは百官にその人を(そし)らせるということです。私が単に俸禄と地位によって自賛し、民の憂えを救うことができないのであれば、それは名器を盗んで自分のものとするということです。陛下が制置条例司を廃止し、提挙官を呼び戻し、青苗法・助役法をやめることができれば、私は用られずとも多くの恩恵を与えられたも同然です。

青苗銭の貸し付けはと言えば、使者は滞納する者が出るのを恐れ、必ず貧者と富者に担保契約をさせております。貧者は返済できなければ四方に逃げてしまいますが、富者はそういうわけにもいかず、必ず督促して代償を払わせています。十年後、貧者は死に絶え、富者もまた貧しくなっていることでしょう。常平倉も廃され、これに戦の問題が加わり、これが飢饉によるものであり、弱い民は谷底に死し、強い民は集まって盗賊となりましょう。これが事の結末です。」

上奏は全部で九回献上された。帝の使者が司馬光に言った。
「枢密は兵事を司るものだ。官にはそれぞれ職掌がある。他のことに口出しをしてはならん。」
司馬光はこれに答えた。
「私がまだ命を受けていないのならば、それは侍従と一緒だ。言えないことなどない。」

王安石が再び政治をとるようになると、詔を下して司馬光の辞退を許可し、命令書を回収しようとした。知通進銀台司(1)范鎮(はんちん)はこの詔を二度にわたって封還した。このため、帝は直接司馬光に詔を送付し、中書門下を通さなかった。范鎮は、「私が不才なために陛下に法を破らせました。この職を解いていただきたく思います。」と上奏した。これを許可した。

(1)知通進銀台司 通進司・銀台司が受理・発送する上奏文・文書について意見を加え、審査する官。銀台司は全国の上奏文・文書を受理し、皇帝と有司に送る官署。通進司は皇帝が目を通した上奏文・文書を有司に発送する官署。

27


二十四日、韓琦(かんき)は青苗法について意見を述べようとしたが許されなかった。このため、上疏して河北安撫使の職を解き、大名府路を治めるだけにしたいと願い出た。王安石は韓琦を(そし)ろうと思っていたので、すぐにこれを承諾した。

28


三月、知審官院(1)・孫覚を知広徳軍(2)に左遷した。

帝が即位したばかりのとき、孫覚を右正言(3)としたが、進言が帝の意に逆らうものだったため、罷免され朝廷を去った。王安石は早くから孫覚と仲が良かったので、彼を助けて自分の補助者にしようと考え、知通州(4)の職から朝廷に呼び戻し、知審官院に改めた。このとき、呂恵卿(りょけいけい)が宰相となり、帝がこれについて孫覚に尋ねたところ、孫覚は答えた。
「呂恵卿は弁舌に長じて才があり、人より数段勝ります。しかし、己を利するために王安石に対し下手に出ております。王安石はこれに気づいていません。私はこのことが気掛かりです。」
「朕もそう思っている。」

(1)知審官院 審官院(六品以下の京朝官の勤務成績を評価する官署。磨勘院に代わって置かれた。)の長官。
(2)広徳軍 安徽省広徳市。
(3)右正言 政事について諫言する官。八品。
(4)通州 江蘇省南通市。

青苗法が施行され、これを提議した者が言った。

「『周官』に見える泉府は、銭を借りた民に二十五銭の利息を納めさせた。国家の財はこれで間に合わせたのだ。」

孫覚はこの過ちを一条ごとに上奏した。

「成周における銭の貸し付けは民の緊急時に備えるものであって、いたずらに貸し与えるものではなかったのです。それゆえ税を利息としました。しかし、税を利息とすることについて、『周官』を説く者はよく理解しておりません。鄭康成は経文を解釈して、王莽が余った銭を計算させ、納めさせた利息は十分の一を超えなかったのを根拠としていますが、周公が取った利息は王莽のときより重くはなかったはずです。まして国家が専ら泉府から財を工面するならば、冢宰(ちょうさい)(5)の九賦(6)を用いるものでしょうか?陛下の御代(みよ)にあっては古の王の法を追究すべきであり、疑わしい言説によって世を治めるものではありません。」

王安石はこれを読んで怒り、孫覚を朝廷から追い出すことにした。

このとき、曽公亮が「都の近郊で青苗銭を貸し付けているが、官吏が返済を迫ったり強引に貸し付けたりといった弊害が起こっているという。」と言った。王安石は孫覚をやって実情を見に行かせた。孫覚は「民は官と関わりたがっておりません。青苗法を廃止するよう望みます。」と言った。このため、孫覚は詔に背いた罪に問われ、知広徳軍に左遷された。

(5)冢宰 周代の六官の長。皇帝を補佐し、百官を統御する。
(6)九賦 周代に行われた、九つの賦税。

29


程顥(ていこう)が上疏した。

「近頃私は、あらかじめ青苗銭の利息を貸し付けるのをやめ、提挙官を官署から追い出すよう、重ねて上言しておりますが、朝な夕な様子を見ますに、いまだ実行されていないようです。賢者はまだ形になっていないものを見、智者はまだ乱れていないものを防ぐものです。ましてや今日の事情は明白で容易に知ることができます。折よい時に速やかに決断しなければ、弊害が続いて後戻りできなくなり、必ず後悔することでしょう。悔いて後に改めても、弊害はすでに広がっているのです。安危の根本は人情にあり、治乱の分かれ目は事の初めに何をするかにかかっています。衆心が離れれば明言しても信用されず、挙国一致すれば何事も必ず成就します。もとより威力を背景に強引に取り立てることはできませんが、言葉で言い聞かせればうまくいくものです。しかし、最近聞くところでは、いまだ不合理なやり方を取っているとのことです。

制置条例司は大臣の上奏に反駁(はんばく)し、新法を実行しない官を弾劾し、民心をいたずらに驚かせています。これは偏った見解によってみなの意見を(そし)り、小事によって民心を失うということであり、その得失を量るに適切とは思えません。私は密かに思います、陛下はもともと状況をご明察しておられ、是非を見極めようとしておられます。その御心は制度を変えることを躊躇しておられませんが、それは宰相が自分の考えを堅持しているからです。これにより民情を大いに憂えさせ、衆論をますます騒がしくさせております。もし新法を浸透させたいと思っても、成し遂げるのは難しいでしょう。

伏して望みまするに、陛下は神明の威断を奮われ、あらかじめ成功と失敗の分かれ目を洞察なされませ。宰相らとともに一つの失敗を成し遂げ、多くのことをやめてしまえば、どうして大恩を降して衆心を新たにすることができましょうか?青苗法の使者(提挙官)を追い出し、速やかに利息を取るのをおやめください。まして穀物の買い上げ・売り下げの法が並行して行われれば、蓄えた物資はおのずから多くなり、朝廷は間違った行いをすることはありません。何の名目で議論が激しくなるのでしょうか?

私の上言をご理解いただき、速やかに実行してください。さすれば天下の幸甚であります。」

30


夏四月八日、御史中丞・呂公著を左遷した。

このとき、すでに青苗法が施行されており、呂公著は上疏した。

「古来、有能な君主で、人心を失ってよく統治した者はおりません。また、武威によって脅かし、弁舌によって言いくるめてよく人心を得た者もおりません。昔日の賢者は、今ではみな間違っていたとし、新法を提唱する者は、彼らの言説をすべて俗説であったとしています。昔は賢者とされていたものが今は愚者ということがあるでしょうか?」

王安石は心底から怒った。帝は呂公著に呂恵卿を推薦して御史に就けさせようとしたが、呂公著は言った。
「呂恵卿は才こそありますが、よこしまで用いるべきではありません。」
帝がこれを王安石に告げると、王安石はますます怒り、呂公著を誣告(ぶこく)して言った。
韓琦(かんき)は人心に従おうとしています。趙鞅(ちょうおう)(1)が晋陽の軍を興し、君側の(かん)(呂公著)を除こうとするかのようです。」
このため呂公著は知(えい)州に左遷され、知制誥(ちせいこう)・宋敏求に命令書を起草し、罪状を明記させようとした。宋敏求はこれに従わず、ただ「事実に合わないことを述べた」とだけ書いた。王安石は怒り、陳升之(ちんしょうし)にこの文を改めさせ、実行した。

(1)趙鞅 春秋・晋の政治家。范氏と中行氏が趙鞅を討とうとしたとき、領邑の晋陽(太原)に走り、晋の軍に晋陽を囲ませた。

31


十九日、趙抃(ちょうべん)が辞職した。

王安石はますます頑なに新法を主張するようになり、趙抃は後悔した。そしてこのように上疏した。

「制置条例司は使者四十余人を置き、天下を騒がせています。王安石は強弁して自分の主張を譲らず、みなの意見を俗説と(そし)り、衆に背き民を騙し、間違いに従い過ちを飾り立てています。近頃は、台諫・侍従らは進言が聞き入れられないために朝廷を去り、司馬光は枢密院に任命されても拝受しませんでした。

事には軽重があり、体には大小があります。財貨と利益は事において軽であり、民心の得失は重であります。青苗の使者は体において小であり、近臣の任用と罷免は大であります。今、重を取り去って軽を取り、大を失って小を得るならば、宗廟(1)社稷(しゃしょく)の福にたがうであろうことが恐れられます。」

上奏が受理されると、趙抃は今の職を去りたいと懇願し、知杭州(2)に転出した。

(1)宗廟 代々の皇帝の位牌を安置した廟。転じて国家を指す。
(2)杭州 浙江省杭州市。

32


韓絳(かんこう)を参知政事とした。

侍御史・陳襄(ちんじょう)が言った。

「王安石が大政に参与して、まず初めに利益を図る政策を立案し、知枢密院事・陳升之(ちんしょうし)とともに条例司を司り、ほどなくして彼を宰相とし、韓絳がこれに続きました。数ヵ月もせずに政事に関与するというのは、中書の大臣がみな利によって任用されているということです。

どうか韓絳を辞めさせて新たに任命し、道徳と経学に秀でた賢者をこの職に置き、王政を損なうことなく大臣としての節をまっとうさせていただきとう存じます。」

これに対する返答はなかった。

33


二十三日、李定を監察御史裏行(1)とし、知制誥(ちせいこう)・宋敏求、蘇頌(そしょう)、李大臨を罷免した。

李定は幼い時から王安石に学問を教わり、進士に推薦されて秀州(2)判官となり、孫覚が朝廷に推薦して京師に入った。李常が李定に会って尋ねた。
「君は南方から来たというが、民は青苗法についてどう言っている?」
李定は言った。
「民はこれを重宝し、喜ばない者はいません。」
「今、朝廷全体がこのことで争っている。君はそのようなことを言わない方がいい。」
李定はすぐに王安石のもとに行ってこのことを告げ、言った。
「私はただありのままを言っただけです。それが都では許されないとは知りませんでした。」
王安石は喜び、帝に対面で上奏するよう薦めた。

(1)監察御史裏行 監察御史の就任には、太常博士以上で州の通判を歴任し、三人の推薦が必要となる。この要件を満たさない場合、「裏行」の名を帯びる。職務内容は監察御史と同じ。
(2)秀州 浙江省嘉興市。

帝が青苗法について下問すると、李定は「民はこれを大変重宝しております。」と言った。周囲の者は新法の不合理を説いたが、帝は耳を貸さなかった。帝は李定を知諫院に就けようとしたが、宰相は選人(官僚候補生)が諫官に除せられた例がないと言ったため、監察御史裏行とした。

これについて、知制誥・宋敏求、蘇頌、李大臨は言った。
「李定は選考を経ずに朝廷の官に抜擢され、御史の推薦によらず御史台に置かれています。朝廷が才ある人物を急ぎ用いようとしているとはいえ、通例を無視するとなれば法制を破ることになり、益すること小さく、損ずること大であります。」
そして命令書を封還した。この後同じ命令が四度出されたが、蘇頌らは反対の上奏を何度も献上した。みな詔を何度も出させた罪に問われ、知制誥を解職された。世の人々は彼らを「熙寧(きねい)三舎人」と呼んだ。

34


二十二日(1)、監察御史裏行・程顥(ていこう)張戩(ちょうせん)、右正言・李常を罷免した。

(1)二十二日 前節と日付が前後している。

これ以前、程顥は次のように上疏した。

「天下の道理を聞くところ、根本が簡易で道理に従って実行すれば、できないことなどありません。それゆえ、『智者が禹の治水のように事を行えば、無理をせず地勢に従って水を導く。』(『孟子』離婁(りろう)章句下)と言われているのです。水を険しい所に捨て置くのは、智者とは言えません。

古来、政治をうまく行った者で、自分ひとりで決断してうまくいったこともありますが、補佐する大臣らそれぞれに違った考えがあり、道理に反することが多く、国政に異論が生じ、名分は正しくなく、内外の人々が口々によくないと言い、それでいてよく治まっているなど、聞いたことがありません。ましてや適切な措置をとれず、正しい考えを捨て去り、一、二の小官が国家の大計に参与し、卑しい者を用いて高貴な者を侮り、邪をもって正を妨げるなどもってのほかです。

これらはみな、天下の(ことわり)がこのような方法で成功すべきでないよう導いているのであり、智者のすることではありません。たとえ運よく成功したとて、それは小成に過ぎず、興利の臣は日々勢力を強め、尚徳の気風が次第に衰えてゆくことでしょう。これは朝廷の福ではありません。ましてや天候が乱れ、地震が連年続き、四方の人心が日々動揺しております。これらはみな、陛下が上を仰いで天意を測り、下を(うつむ)いて世情を見よ、ということです。

私は職を務めてもお役に立てず、見識に中身がありません。速やかに降格を賜りたく存じます。」

帝は程顥(ていこう)に、中書に行って話し合うようにさせた。王安石は程顥を叱りつけようと、怒りの表情で彼を待った。程顥が中書に来ると、(おもむ)ろに言った。
「天下の事は一家の私議にあらず。落ち着いて聞いてほしい。」
王安石はこの言葉に恥じ、身を(かが)めた。

張戩(ちょうせん)は台官(御史)・王子韶(おうじしょう)と新法の不合理さについて論じ合い、孫覚・呂公著を呼び戻すよう願い出た。また、このように上疏した。
「王安石は法を乱し、曽公亮・陳升之(ちんしょうし)はためらってこれを糾そうとせず、韓絳(かんこう)は彼を補佐して付き従い、李定はへつらって台諫の権限を侵し、呂恵卿(りょけいけい)は刻薄にして口がよく回り、経学にかこつけて邪悪な言説を飾り立ております。侍講や近臣に置いてよいものでしょうか?」
また、中書に出向いて王安石と言い争ったりもした。王安石が扇子で顔を隠してせせら笑うと、張戩は言った。
「私は正直一本槍なためあなたに笑われているが、天下にあなたを笑う人は大勢おりますぞ!」
陳升之が傍らから二人を取りなしたが、張戩は言った。
「あなたも無罪では済まされませんぞ。」
陳升之の顔にも慙愧(ざんき)の色が生じた。

李常は上言した。
「均輸・青苗の法により、物資を集散して利息を取り、経文の意味をこじつけております。王莽が『周官』をみだりに解釈し、片言により天下に毒を流し込んだのと何が違うのでしょう?」
王安石は李常と親しい者をやって言い聞かせたが、李常は上言をやめなかった。また言った。
「州県の貸し付けている常平銭は、実際には元金から出ているのではなく、民に利息を支払うよう強制し、そこから出たものです。」
帝は王安石を詰問した。王安石は(詔を利用して)李常に首謀者の名を述べさせようとしたが、李常は自分は諫官ではないからと言って、詔を受け取らなかった。

程顥(ていこう)は上奏が実行されないと、地方への赴任を懇願した。張戩(ちょうせん)・李常も辞職を願い出た。これを受け、李常を罷免して滑州(2)通判とし、張戩を知公安県(3)とし、王子韶を知上元県(4)とした。王安石はもともと程顥と仲がよく、意見が合わなくなってもなお、帝に対する忠義を敬っていた。そのため、程顥を京西路提点刑獄に転出させるにとどめた。程顥はこれを断り、簽書(せんしょ)鎮寧軍節度判官(5)に改められた。数日の間、台諫の職が空席となった。王安石は世論が争っているのに乗じ、親戚の謝景温を侍御史知雑事(6)とするよう求め、帝はこれに従った。

(2)滑州 河南省開封市の北。
(3)公安県 湖北省荊州市沙市区の南。
(4)上元県 江蘇省南京市。
(5)簽書鎮寧軍節度判官 鎮寧軍は広西壮族自治区河池市付近。簽書節度判官は、文書を司る地方の属官。
(6)侍御史知雑事 御史台の副長官。

35


五月四日、詔を下し、辺境の州郡は(防衛に備えて)青苗銭を貸し出さないこととした。

36


十五日、詔を下し、制置三司条例を廃止し、権限を中書に返した。呂恵卿(りょけいけい)に判司農寺(1)を兼ねさせた。

これ以前、新法に反対する者たちが条例司を廃止するよう願い出た。帝は王安石に尋ねた。
「制置三司条例司を中書に併合すべきだろうか?」
王安石は言った。
「条例司の政策の実施はまだ終わっていません。私は韓絳(かんこう)とともに条例司を司っており、交代で上奏させていただくよう常にお願いしております。今、韓絳は枢密院におり、まだ併合すべきではありません。詔を出すのを遅らせていただくようお願いいたします。」

ここに至り、韓絳は中書に入り、その後に詔を下して条例司の権限を中書に返還した。また、帝は直筆の書簡で王安石を説得し、条例司の政策実行にあたる属官全員に官位を与えた。青苗・免役・農田水利等の法は司農寺に委任することとし、呂恵卿に監督させた。

(1)判司農寺 司農寺に所属する官。司農寺は、それまでは権限が三司に吸収されて有名無実化していたが、熙寧三年からは権限が大きく拡大され、新法の推進機関となった。

37


九月、曽布を崇政殿説書・判司農寺とした。

王安石は自分の仲間の一人か二人を経筵(けいえん)の席に置いておき、新法に反対する上奏を防ぎたいと常々思っていた。呂恵卿が父の喪に遭って辞職したため、王安石は曽布を推薦してこれに代えた。しかし、曽布は経歴が浅く、みな彼をとがめて従わなかったため、ほどなくして辞めた。

38


山陰(1)陸佃(りくでん)は、過去に王安石から経学の手ほどきを受けたことがあり、ここに至って推挙され、京師に入った。王安石が新政について問うと、陸佃は言った。
「新法は全くもって良い。だが、実行するとなると最初に意図した通りには行かず、かえって民を騒がせている。」
王安石は驚いた。
「なぜそのようなことを言う!私は呂恵卿と話し合って進めているのだ。」
朝廷外の世情について尋ねると、陸佃は言った。
「あなたは自分に都合の良いことを聞いて喜んでいる。古人にそのような人はいなかった。これでは諫言を拒んでいると思われるだろう。」
王安石は笑って言った。
「諫言を拒むなどあるものか。間違った考えがはびこっているから、聞くに足りないというだけのことだ。」
「それだから諫言を拒んでいると人に思われるのだ。」

翌日、王安石は陸佃を呼んで言った。
「呂恵卿は『民間で借金を取り立てるにも、やはり一羽の鶏と半頭の豚が要る。李承之を遣わして淮南の状況を調べさせることにした。』と、言っていた。」
李承之が戻ってくると、民は新法を不要とは思っていないと偽り、陸佃の言ったことは実行されなかった。

(1)山陰 浙江省紹興市。

39


劉庠(りゅうしょう)を知開封府とした。

劉庠は王安石に仕えるのをよしとしなかったが、王安石は劉庠に会いたがっていた。劉庠が人と話したとき、劉庠は言った。
「王安石が政治をとって以来、人情に合うものが一つもない。彼のもとに行って何を語ろうというのか!」
結局王安石のところへは行かず、上疏して新法は間違っていると直言した。
帝は言った。
「どうして大臣(王安石)を補佐しないのだ?」
劉庠は答えた。
「私は陛下に仕えるのみです。大臣に付き従ったりはしません。」

40


十一日、曽公亮が辞職した。

当初、曽公亮は韓琦(かんき)を嫌っており、王安石に韓琦と距離をおくよう勧めた。ともに政務をとるようになり、帝が王安石を寵愛しているのを知ると陰から諸事を助け、表向き意見を異にするかのようにしていた。また、子の曽孝寛を政治に参与させ、帝の前に進み出させ、父と異なることがなかった。これより帝は王安石をますます信任するようになり、王安石は曽公亮に深く恩恵を施した。

曽公亮は老齢を理由に辞職を願い出、司空・侍中・集禧観(しゅうきかん)使を拝命した。蘇軾(そしょく)従容(しょうよう)として曽公亮が改革の間違いをしっかり糾さなかったのを責めたが、曽公亮は言った。
「帝と介甫(王安石の字)は一心同体、すなわち天なのだ。」
だが、王安石は曽公亮が充分自分におもねっていないと考えていたので、宰相を辞めるのを許可したのだった。

41


十六日、帝は賢良方正(1)の士に対し、自ら策問(2)した。

太原判官・呂陶がこれに答えた。

「陛下は即位の初めにあって、財の管理の言説に惑わされず、老人の(はかりごと)に構う暇もなく、辺境でいさかいを起こさないことを願うばかりです。陛下は立法に意を注がれ、自らを尭・舜たろうと思われておいでです。しかし、陛下の心がこのようであれば、天下の論はあのようであります。ご自身を省みてそう思われませんか?」

この答案が合格すると、帝は王安石の方を見て答案を手に取り、半分も読まないうちに落ち込んだ表情を示した。帝はこの答案の言葉に感化され、馮京(ふうけい)に最後まで読ませ、その言には道理があると言った。

(1)賢良方正 人材を抜擢するため、臨時に行う科挙の一。皇帝が自ら試験する。
(2)経学や政治について質問すること。

このとき、范鎮の推薦する台州(3)司戸参軍(4)・孔文仲が策問に答えた。それは九千余字にして、王安石の定めた理財・訓兵の法が誤っていると論ずるもので、宋敏求は特等として合格させた。王安石は怒り、孔文仲を辞めさせてもとの官に戻すよう、帝が直接指示するように言った。斉恢(せいかい)・孫固はこの指示を封還し、韓維・陳薦・孫永は孔文仲を左遷すべきでないと強く説いたが、帝は聞き入れなかった。范鎮は上疏した。
「孔文仲は田舎者で物事に暗く、忌避すべきことを知りません。そしてそのようなことに直言し、罪を犯しました。帝のお縄にかかるのを恐れんばかりです。」
帝はこれも聞き入れなかった。

呂陶もまた蜀州(5)通判の職を与えられるにとどまった。

(3)台州 浙江省臨海市。
(4)司戸参軍 州の賦税・倉庫の物資受け入れを司る官。正八品~従八品下。
(5)蜀州 四川省郫都(ひと)区。

42


二十四日、司馬光を罷免し、知永興軍(陝西省)とした。

43


冬十月、翰林(かんりん)学士・范鎮が辞職を願い出て、これを許可した。

范鎮は上疏した。
「進言が用いられず、朝廷に顔が立ちません。よって辞職を申し出たく存じます。」
また、青苗法の害を直言し、言った。
「陛下に諫言を治める資質があるのに、大臣は諫言を拒む計を進言しています。陛下に民を愛する性質があるのに、大臣は民を痛めつける術策を用いています。」
この疏が受理されると、王安石は大いに怒り、自ら命令書を起草して強く非難し、戸部侍郎を与えて辞職させた。范鎮は謝表(謝意を述べた上奏)を献上した。そのあらましは、
「陛下はみなの意見を募って耳目とし、真実を覆い隠す者を退け、有徳の老人を腹心とし、公正さをもたらすようにしていただきたく思います。」
というものであった。天下はこれを聞いて勇気ある発言だと思った。

蘇軾(そしょく)は范鎮のもとに行き、ねぎらった。
「あなたは退けられたとはいえ、名声はますます高まりましたぞ。」
范鎮は憂鬱な面持ちで言った。
「君子は臣下の計を聞き入れ、天下に人知れず恩恵を受けさせ、智謀の士としての名声もなく、勇猛さによる武功もないという。私にはこれができなかった。天下に害を受けさせておきながら、名声を享受してきた。私にどうして君子としての心があるというのだ!」

44


十二月、諸路の更戍(こうじゅ)法(輪番での防衛に関する法)を改めた。

太祖は五代の弊害を教訓に、趙普の策を用いて各地の精鋭を集め、兵営を京畿路(河南省)に並べて宮廷の護衛に備え、輪番で駐留して辺境の防衛にあてた。当時の将帥は皇帝に謁見し、横暴な者は軍籍に入れられ、乱暴でわがままな者がいても好き勝手はできなかった。什長(じゅうちょう)(1)の法と階級による区別を定め、ともに協力しあうようにし、上級の者と下級の者が制御しあい、階級の区別を明確にし、軍律に反しないようにさせた。

その後、兵制を定め、天子の衛兵が京師を守り、交代で辺境を守るものを禁軍といった。諸州の鎮兵で労役を分担するものを廂軍(しょうぐん)といった。戸籍から選び、または応募した者を組織して当地の防衛にあたらせるものを郷軍といった。籍を(とりで)に置き、防衛にあたるものを蕃軍(ばんぐん)といった。軍種は全部でこの四者のみであった。

ここに至り、更戍法は制御が簡単ではあるが、兵と将が面識がなく、危急の際に頼りにならないという意見が提議された。これを受け、諸路の将兵をすべて禁軍の隷下におき、兵に将と面識をもち、将に兵を訓練させ、平素から訓練させて交代で防衛にあたる手間をなくさせた。ついで京畿・河北・京東・京西路に三十七将を置き、陝西(せんせい)五路に四十二将を置いた。

しかし、禁軍の兵はことごとく将官に付き従い、飲食して遊びにふけり、驕慢で怠惰になった。また、将官は州郡の長官の権力をしのぎ、将ごとに部隊の将、訓練官等数十人を置き、諸州にもともとある総管・鈐轄(けんかつ)・都監・監押(いずれも将官の職)の上に重複して官位を設け、俸禄を無駄遣いした。軍事に通じる者はみなその非合理を唱えたが、やめさせることはできなかった。

(1)什長 兵十人をまとめる長。

45


九日、保甲法を定めた。

王安石は言った。
「古の王は農民を兵とした。今、公私の財を欠乏させることなく、国家長久の計をなさんとすれば、募兵をやめて民兵を用いるべきである。」
これを受けて保甲法が定められた。その内容は次の通りであった。

・十家を保とし、保長を置く。
・五十家を大保とし、大保長を置く。
・十大保を都保とし、都保正・副を置く。
・主戸(1)・客戸(2)丁男(ていだん)(20歳~59歳までの男子)が二人以上いる場合、一人を選んで保丁として保に置き、丁男が二人以上の戸で勇壮な者がいる場合、これも保に置く。
・このうち、家の資産が最も豊かで知力と勇敢さが人並み以上の者は、これも保丁にあてる。

・弓矢の扱いと戦い方を教える。
・一大保ごとに、五人が輪番で盗賊を取り締まる。
・告発によって盗賊を捕らえた場合、懸賞の銭を与える。
・同じ保の者が強盗・殺人・強姦・略取・奇怪な宗教の流布・毒薬の製造、備蓄を犯し、またはこれを知りながら告発しなかった場合、伍保(ごほ)法の規定に従う。
・これ以外の罪で、その者が関与せず、または勅令・律が糾明することを許していない場合、告発されても罪に問われず、事情を知っていても罪に問われない。
・法により隣の保の者が罪に問われる場合、これに連座する。家に強盗三人を宿泊させ、三日経っても隣の保が事情を知らなかった場合、不注意の罪を科す。

・居住者の逃亡・死亡により、保が五家に満たない場合、他の保に併合する。
・他の郷村から保に入る場合、その者を編入して同じ保の構成員とする。
・戸数が規定内であればその保に編入するが、その者の編入によって十家に達するならば、別に保を作る。
・戸籍簿を置いて保の戸数・居住者の姓名を記す。

(1)主戸 土地所有農民。一等戸(大土地所有農民)~五等戸(中小自作農)に区分される。
(2)客戸 自分の土地を持たない農民。いわゆる小作農。

46


提点刑獄・趙子幾は王安石に迎合し、保甲法の実施をまず都の近郊から行いたいと言い、詔を下してこれに従った。ついで永興・秦鳳・河北東・西の五路に拡大し、全国に施行された。諸州は保甲に登録し、民を集めて盗賊捕縛の訓練を施した。だが、法令の施行が過酷だったため、民は往々にして盗賊となり、郡県はこれを報告しようとしなかった。判大名府・王拱辰(おうきょうしん)はこのような弊害に抗議して言った。

「こうした弊害はただ財力を欠乏させるだけでなく、農耕の適切な時期も逃してしまいます。これは法の使いが罪に陥るということです。民はしだいに大きな盗賊となると思われ、その兆しはすでに見え始めております。すべてをやめることはできないにしても、下戸の保甲への登録を減らし、負担を和らげるようお願いいたします。」

保甲法の担当者が王拱辰が法の施行を妨げていると言うと、王拱辰は言った。
「これは老臣が国に報いんがためのことだ。」
王拱辰の抗議の上奏がやむことはなかった。帝は事態の重大さを理解し、下戸は保甲から外すことが許された。

47


十一日、韓絳(かんこう)・王安石を同平章政事とした。

48


二十二日、募役法を施行した。

これ以前、条例司に詔して役法を定めさせることにした。条例司は言った。
「民に銭を出させ、人を募って役にあてるというのは、古の王が民の財を民間人への俸禄とし、官僚としての意識をもたせたことにならうものです。」
呂恵卿(りょけいけい)・曽布に法令を起草させ、年をまたいでようやく完成した。

民の貧富に応じ、五等に分類して銭を納めさせた。これを免役銭といった。官戸・女子のみの戸・寺観・独身者・未成年者もまた等級に応じて銭を納めさせた。これを助役銭といった。銭の納入は、州もしくは県が払う雇直(夫役に支払う銭)と同じように、州が戸等に応じて雇直を徴収した。また、その二割増しの銭を徴収し、水害・干害時の不足に備えた。これを免役寛剰銭といった。これらの銭を使って人を募り、役に代えた。

この法が開封府で試験運用され、ついで諸路に施行された。しばらくすると、東明県(1)の民数百人が入り乱れて開封府へ訴えにきた。帝がこれを知って王安石を問いただすと、王安石は強い調子で言った。

「募役法を批判する者たちは、多額の銭を納めさせれば必ず余りが生じるので、群衆が訴えれば必ず役を免除できると言っております。彼らは民衆の人望を集め、訴えを受ければ免輸銭を与えるつもりなのです。彼らこそ役にあてるべきなのです。」

帝はことごとくその言を採用した。ついで、帝は台諫が何度も新法をやめるよう上奏してくるので、王安石が少しばかりこれを減らすほうがよいのではないかと言った。王安石は答えた。
「朝廷が法を定めるのは、義によってなされるべきです。卑俗な者らの意見に惑わされる必要はありません。」

(1)東明県 開封府の東。

司馬光は言った。

「上等戸はこれまで交代で役にあたり、時々休息していました。今、毎年銭を納めさせれば、休息できる時がなくなってしまいます。下等戸や独身者、女子のみの戸は、これまで役が免除されていました。今、彼らにまで銭を納めさせれば、寡婦や独身者も役を免ぜられないことになります。労働力は、民が生まれたときから持っていものです。穀物や絹は、民が桑を耕して得られるものです。しかし銭に至っては、県官が()るものであって、民が勝手に造ってはならないのです。

今、当局が法を定め、ただ銭を求めようとしています。毎年豊作であれば、民は穀物を安値で売り、毎年凶作であれば桑や(なつめ)()り、牛を殺し、田を売って銭を納めるでしょう。これで民はどうやって生計を立てろというのでしょうか?この法が行われれば、富者はまだ安泰ですが、貧者は日々困窮してゆくことでしょう。」

帝は聞き入れなかった。

49


二十四日、王安石に『三司令式』を監修させることにした。

天下は新法によって騒然としていた。邵雍(しょうよう)は洛陽に隠居しており、その門人や旧友で朝廷に仕官している者たちは、投劾(自分を弾劾する文)して郷里に帰ろうと考え、書状で邵雍にどう思うか尋ねた。邵雍は答えた。
「まさに賢者が力を尽くすべき時だ。新法は堅固だが、それを一分でも緩めることができれば、民は一分の恩恵を受けることができる。投劾して何の意味があるというのだ。」

50


四年(1071)三月六日、新法の実施にあたり、職に堪えない者を調べさせた。

陳留(1)知県・姜潜(きょうせん)は、就任数ヵ月にして青苗法が実施された。姜潜は県城の門に、青苗銭を貸し出すという内容の立て札を掲げさせ、これを郷村にも掲げさせた。それぞれ三日経ったが、貸し出しを申し出る者はなく、立て札を取り払って官吏に渡し、「民は貸し出しを願っていない。」と言い、病気を理由に辞職した。

山陰知県・陳舜兪(ちんしゅんゆ)は、上書して新法の害について直言し、監南康軍(2)塩酒税に左遷された。ここに至り、「青苗法は実際には合理的なものです。初めは事情がわからなかったのです。」と、再び上書した。見識ある者はこれを(わら)った。

(1)陳留 開封府の南東。
(2)南康軍 江西省九江市星子鎮。

51


夏四月十八日、司馬光を判西京(せいけい)留台(1)とした。

これ以前、司馬光は永興にいたが、進言が用いられないため、判西京留台に就くことを願い出たが、帝からの返答はなかった。また、以下のように上疏した。

「私の不才なること、群臣の最も下であります。先見の明では呂誨(りょかい)に及ばず、公正さでは范純仁・程顥(ていこう)に及ばず、直言では蘇軾(そしょく)・孔文仲に及ばず、勇気では范鎮に及びません。今、陛下は王安石だけを信じ、これに付き従う者らを忠良とし、これを批判する者らを奸人(かんじん)とされています。私が今日言うことは、陛下のおっしゃる奸人の言でありましょう。私の罪が范鎮と同じであれば、范鎮の例にならい辞職したく存じます。罪が范鎮より重いのであれば、流罪・誅殺に処してください。逃げ隠れは致しません。」

ようやくこの申し出に許可がおりた。司馬光は洛陽に居を構えると、以後口を閉ざして政事を論じなくなった。

(1)判西京留台 初めは宰相を歴任した者が就く閑職であった。熙寧二年十二月以後は、新法に反対する者をこの職に流した。西京は洛陽のこと。

52


直史館(1)蘇軾(そしょく)を杭州通判に転出させた。

蘇軾は直史館から推薦する人物を話し合うなかで帝と意見が合い、即日呼び出し、現今の政治の得失を下問した。蘇軾は答えた。
「陛下は文武を天から賦与され、物事に暗いことに困らず、物事に勤しまないことに困らず、物事を決断しないことに困っておられません。ただ焦って良き政治を求め、広く人の言に耳を傾け、盛んに人材を抜擢しておられます。どうか気持ちを落ち着け、人物や物事が向こうからやって来るのを待ち、そのうえでこれに応ずるようにしていただきたく存じます。」
帝は驚いて言った。
「そちの三つの言葉は、よく噛みしめるべきであろう。館閣にある者は、みな朕のために治乱について深く考え、隠し立てをしない。」

(1)直史館 館職名。

蘇軾は同僚たちを陰で批判した。王安石はこれを不愉快に思い、蘇軾を権開封府推官とし、口実をつくって苦しめようとした。蘇軾は決断のしかたが鋭敏で、名声は遠くまで及んだ。かつて新法の誤りを上疏して直言したことがあった。

「私の言いたいことはたったの三言のみです。陛下は人心を一つにまとめ、世の風俗を温かいものとし、綱紀をしっかり定めてください。君主が頼みとするものは人の心です。古より今に至るまで、温和でみなとともにあれば不安なことはなく、剛直で自分の考えを押し通せば安泰ではないのです。

祖先以来、財貨を管理する者は、三司をおいて他にありません。今、陛下は別に制置三司条例司を創設し、六、七人の若者に日夜内に求めさせ、四十余人の者に外に求めさせ、万乗の国の主でありながら利を口にされ、天子の宰相に財を管理させています。君臣とも宵衣旰食(しょういかんしょく)(2)すること一年近くになりますが、富国の功績は風を捕まえるかのように曖昧で、国庫から数百万(びん)を払い、祠部(しぶ)(3)は五千人を数えます。これを国策とするのは難しいのはみなが知るところです。

汴水(べんすい)(4)の濁流は、民が稲を植えるのに用いられていません。もし堤防で囲ってこの流れを清め、万頃(ばんけい)(頃は田地の単位)の稲を欲するならば、千頃の堤防が必要となり、一年に一度沃土(よくど)とするために泥を引き入れれば、三年でいっぱいになるでしょう。陛下が宰相に地形を視察させ、至る所に穴を掘り、水利を調査し堤防を開けば、水流は以前の流れを外れてしまいます。そうなれば提案者の肉を()んだとて、民に償うことができるでしょうか?

(2)宵衣旰食 日が明ける前に着替え、日が暮れた後に食事をとる。職務に励むこと。
(3)祠部 祭祀の日時、僧侶・道士の名簿、度牒の発行を司る官署。
(4)汴水 黄河から分かれ、開封を通る運河。

古より徭役には必ず郷戸(農民)を用いてきました。今はただ江南・両浙の数郡の雇役があるのみですが、これを全国に広めたいのです。楊炎が両税法を定めてから、租調と庸はこれに統合されました。どうしてまた庸を徴収する必要があるのでしょうか?

青苗法による銭の貸し付けは昔から禁じられていましたが、陛下が初めて法として定められ、毎年常に施行しております。無理な貸し付けは許されていないとはいえ、数世代の後には暴君と汚吏で政治が行われるようになるでしょう。陛下は彼らをうまく制御することができますか?

昔、漢の武帝は財力が尽きたため、桑弘羊の説を用い、安いものを買い、高いものを売り、これを均輸と称しました。が、商業は正常に行われず、盗賊がはびこり、反乱が起こったかのようでした。私が陛下に人心をまとめてもらいたいと思うのはこういうことです。

国家の存亡とは道徳の浅深にあるのであって、強いか弱いかではないのです。帝位継承がどれだけ続くかは風俗の厚薄にあるのであって、富んでいるか貧しいかではないのです。陛下には道徳を尊重し、風俗を温かいものとしていただきたく、功を焦り富強を追い求めないようにしていただきたいのです。

仁宗は法の執行を寛大に行い、人材の任用に順序があり、過ちを覆い隠し、軽々に旧来の法を改めることがありませんでした。それが成功しているかを考えるに、成功とはいえません。戦争について言うなら、十回出戦して九回負けています。国庫について言うなら、わずかに足りて余りがありませんでした。ただ恩徳を人に施し、世の風俗が義を知っているのみでした。ですから仁宗が(みまか)られる日、天下はその仁徳に帰服したのです。

新法推進派は、末期の官吏が旧習にとらわれ物事が正されないのを見て、過酷な方法で正し、知恵によって救い、新進気鋭の人材を招き、一切速成の効をもたらそうとしております。いまだその利を享受していないのに、軽薄な気風が醸成されています。風俗を温かくしたいのであれば、こんなことが許されるでしょうか。私が陛下に風俗を温かいものにしてもらいたいと思うのはこういうことです。

祖先は官吏の取り締まりを台諫に委任し、片言隻句を罪に問うことはしませんでした。もし軽い罪であれば、すぐに官位に関わりなく処分し、(わざわざ証拠を調べず)風聞にもとづく弾劾を許し、長官が処分に関わることはありませんでした。天子のことに言及すれば天子は顔色を変え、事が朝廷に関わるものであれば宰相は罪に問われるのを待ったのです。

台諫はみながみな賢人で、言うことがすべて正しいということはありません。ですからその鋭気を養い、重権の力を借り、奸臣の萌芽(ほうが)を断つ必要があるのです。長老の話を聞くと、台諫の言は常に天下の公論に従っているとみなが言います。今は世論が騒がしくなり、恨みや(そし)りが交々(こもごも)としておりますが、公論のありかもまたわかろうというものです。私は世論がここから離れ、習慣が風俗となり、世論が執政の私人となり、君主を孤立に至らしめるのを恐れんばかりです。これでは綱紀をひとたび廃したとて、何事も起こりません。陛下に綱紀をしっかり定めてもらいたいと思うのはこういうことです。」

王安石は帝が独断で自分を任用しているのを称賛した。蘇軾は進士の試験に策問し、以下のように出題した。
「晋の武帝は呉を平定し、独断により勝利した。苻堅は晋を討ち、独断により滅んだ。斉の桓公は管仲を任用して覇を唱え、燕の(かい)子之(しし)を任用して国が乱れた。やったことは同じだが結果が異なる。」

王安石はますます不快感を募らせ、侍御史・謝景温を通じて、蘇軾が服喪を理由に蜀に帰り、舟に乗って商売しようとしていると上奏した。このため、六路に詔を下して竿(さお)の作り手と船頭を捕らえて徹底的に調べたが、得られたものはなかった。蘇軾は地方への赴任を願い出て、杭州通判となった。

53


鄧綰(とうわん)を侍御史・判司農寺とした。

当初、鄧綰は寧州(1)通判であったが、王安石が帝の信任を得て政務をとるようになったのを知った。そして数十の時事について述べ、言った。
「宋が興って百年、世の慣習が定着して統治に背くようになりました。改革すべきです。」
また言った。
「陛下は伊尹(いいん)・周公旦の補佐を得て青苗・免役等の法を定められ、民は歌って踊り、帝の恩沢を受けない者はおりません。どうか根拠のない議論に動かされて頑なに実行することのないように願います。」
また、王安石に書状を送り、たいへんおもねった内容の文を読ませた。このため王安石は鄧綰を帝に強く薦め、駅馬で呼び出した。このとき、西夏が慶州(2)に侵入しており、鄧綰は帝の前で非常に詳しく状況を説明した。帝は問うた。
「王安石や呂恵卿と面識はあるのか?」
「ありません。」
「王安石は今の古人、呂恵卿は賢人だ。」
帝のもとを退き王安石に会うと、かつてから交流があったかのように喜んだ。王安石が(ものいみ)(3)すると、陳升之(ちんしょうし)は鄧綰を辺境の政事に習熟させるためといって、再度知寧州にしようとした。鄧綰はこれを聞いて不愉快になり、(そし)った。
「急に私を呼びつけ、帰らせる気だ。」
ある人が()いた。
「君はどんな官職がふさわしいというのだ?」
「館職にはなれるだろうし、諫官にもなれるだろう。」
翌日、集賢校理(4)・検正中書孔目房(5)に任じられた。都にいる同郷の者たちは笑い罵った。鄧綰は言った。
「笑い罵っているのは他の者がそうしているからだ。きっと高官に任じられるだろう。」
ついで同知諫院となった。

このとき、新法は司農寺から出されるようになっていたが、呂恵卿は喪に服しており、曽布は任に堪えなかった。王安石は鄧綰の任用によって威厳をもたせようとし、この命が下ったのだった。

(1)寧州 甘粛省寧県。
(2)慶州 甘粛省慶陽市。
(3)斎 自宅にこもるなどして身を慎むこと。
(4)集賢校理 館職の一。
(5)検正中書孔目房 中書省の官僚の過失を審査する官。正七品。

54


五月十日、右諫議大夫・呂誨(りょかい)が亡くなった。

呂誨は病を患い、引退を申し出た。

「私はもともと持病などなかったのですが、医者の常識に反した処置にあい、むやみに薬を飲まされ、しだいに中風(手足のしびれる病)となり、歩くのもままなりません。この痙攣(けいれん)の苦しみなど恐れるものではありませんが、重要な職務に変事を来たすのが心配です。病がここまで進んでは、どうにもなりません。そうとはいえ、わが身の小さいこと、もとより惜しむに足りませんが、九族(1)から大事を託されたかのようであり、たいへんに憂えております。」

これはわが身の病を朝政にたとえたものと思われる。

ここに至り、病が悪化した。司馬光が見舞いに来ると、目は閉じられていた。司馬光が泣くのを聞くと、目を強く見開いて言った。
「国事にはまだなすべきことがある。君実(司馬光の字)よ、励むのだ!」
ついに亡くなった。享年五十八。彼の知り合いもそうでない者も、みな痛惜した。

(1)九族 自分から数えて上下四親等(高祖~玄孫)のこと。

55


保甲法が施行され、帝は、農村の民が銭がないのに弓矢を買い、加えて辺境防備に移されるとの伝聞に戸惑い、父子が集まって泣いていると聞き、王安石に言った。
「保甲はもう少し時間をかけて密にしてゆくのがよいのでは?」
王安石は言った。
「時間は惜しむべきです。」

このとき、韓維が知開封を務めており、上言した。
「諸県で保甲を組織していますが、農民たちは戸惑っており、指や腕を断ってまでして保丁になるのを避けています。どうか農閑期に編成させていただきとう存じます。」
帝はこれを王安石に問うた。王安石は答えた。
「これはまだどんな結果になるかわからないのです。たとえこの通りだとしても、驚くことはありません。」
「民の言は現実に合っている。これに耳を傾けるのが英知というもので、配慮せねばならん。」
「天下たるもの、もしただ民情の願いに任せるだけならば、なぜ君主を立て、官吏を置くのでしょうか?保甲法とは盗賊をなくすのみならず、保丁を訓練して兵とし、費用を節約しようというものです。陛下はただ果断であればよいのであって、人の言を気にかけることはないのです。」
この言を受け、帝は河東・河北・陝西(せんせい)三路の義勇軍を都の保甲法と同様にした。ほどなくして、韓維を知(じょう)(1)とした。

(1)襄州 湖北省襄樊市。

56


六月(1)二十一日、富弼(ふひつ)が判(じょ)(2)となった。

富弼が(はく)州にいたとき、青苗法を頑なに実施せず、「これでは財が上に集まり、人が下に散じてしまう。」と言った。提挙官・趙済は富弼が詔令の実施を妨げていると弾劾し、鄧綰(とうわん)は当局に審理させた。このため、富弼を武寧節度使・同平章事に降格させ、左僕射(さぼくや)の称号を与えて判汝州とした。
王安石は言った。
「富弼は処分されたとはいえ、いまだ権勢を失っていません。昔、(こん)は誅殺を命ぜられ、共工は恭順を装ったために流罪に処されました。富弼はこの二つの罪を犯しましたが、使相(3)を剥奪するにとどまりました。これでどうやって奸人(かんじん)を退けようというのですか。」
帝は答えなかった。

(1)原文には甲戌とのみあるが、五月では日付が合わない。『宋史』巻十五、神宗熙寧四年六月の条により加える。
(2)汝州 河南省臨汝鎮。
(3)使相 節度使と中書令あるいは侍中・中書門下平章事を兼任する官。前宰相があてられるが、実際の政事には関わらない。

富弼が応天府(4)を通り過ぎるとき、通判・張方平に言った。
「人とは知りがたいものだ。」
張方平は言った。
「王安石のことか?どこが知りがたいというのだ?私は皇祐(仁宗・1049~53)の知貢挙(科挙の試験官)となったことがあったが、王安石の学才を称え、試験の答案を見て手本とする者がいたのだ。だが、彼が官途に就くと、宮中のしきたりをかき乱して変えようとした。私は彼の人となりを嫌い、檄(5)によって宮中から追い出した。それ以来彼とは口をきいていない。」
富弼は先の言を恥じた。富弼もまた王安石を好んでいたのであろう。

(4)応天府 山東省商丘市。
(5)檄 呼び出しの文書。

57


秋七月十四日、御史中丞・楊絵(ようかい)が言った。
「提挙常平・張靚(ちょうせい)らが助役銭を割り当てる際、多いもので一戸で三十万銭に上ります。少しくこの額を減らし、民を安心させていただけないでしょうか。」
帝は聞き入れなかった。
このとき、賢人らの多くが朝廷を去り、王安石を避けていた。楊絵は再び上疏した。

「有徳の老人は惜しむべきです。今、旧臣の多くが病にかこつけて辞職を願い出ております。范鎮は六十三歳、呂誨(りょかい)は五十八歳、欧陽脩は六十五歳で引退しました。富弼(ふひつ)は六十八歳で病を理由に宰相を辞職し、司馬光・王陶は五十歳で閑職を求めました。陛下はそのわけをお考えになるべきではないでしょうか。」

王安石はこれを聞いて深く憎んだ。

58


劉摯(りゅうし)は王安石に重んじられ、監察御史裏行を拝命した。帝に謁見し、直接称賛の言葉を賜った。帝は質問した。
「そちは王安石に学問を教わったのか?そちの才能と見識を高く買っているぞ。」
「私は東北の生まれで、幼きときより独学でした。そのため、王安石殿のことは知りませんでした。」

帝の前を退くと、このように上疏した。

「君子と小人の分かれ目は、義と利のみにあります。小人は褒賞を欲しがる気持ちが先に来て、奉公の心が後に来ます。陛下に勧農のお考えがあっても、今は混乱の種となっています。陛下に労役を均等に割り振るお考えがあっても、今は収奪に頼っています。天下には物事を成し遂げるのを好む者もおれば、何もしないのを好む者もおります。あちらはこちらを通俗的だと言い、こちらはあちらを常軌を逸していると言っています。義を重んずる者は利を追い求めるのを恥ずべきであるとし、利を好む者は道義を守るのを無能であるとしています。この風潮はだんだんと強くなっており、漢・唐の党派争いが起こるでしょう。」

そして助役銭を集める十の害を述べた。さらに楊絵(ようかい)も言った。
「提刑・趙子幾は、知東明県・賈蕃(かばん)が県民を抑圧しないことに怒り、助役法のことで責め立て、他のことであらを探し、賈蕃を獄に下して自ら取り調べました。これは王安石に迎合しているのです。」
また、「助役法の実行が難しい理由は五つあります。」と言った。劉摯もまた次のように論じた。
「趙子幾は賈蕃を処罰する口実を探しています。これは天下の口を閉ざそうとしているのです。この罪を取り調べさせてください。」

これにより王安石は大いに怒り、知諫院・張璪(ちょうそう)に、楊絵・劉摯の論じた助役法の十の害、実行の難しい五つの理由を書いた上奏を入手させ、『十難』を書いて追及しようとした。張璪はこれを断ったが、曽布がやりたいと言いだした。『十難』を書き上げると、楊絵・劉摯が人を騙し、向背(迎合と裏切り)の心があると弾劾した。楊絵・劉摯の上奏に対し詔が下され、それぞれ陳情させた。楊絵は前後四回の上奏を写し、自らを弁護した。劉摯は奮然として言った。
「臣下たるもの、どうして権勢に屈し、天子に真実を知らさでおくべきでしょうか?」
そして箇条書きで非難に答え、自説を述べた。

「助役法という名の銭を収奪する法は、大臣と御史がこれを朝廷に提唱し、大臣の仲間が監司・提挙官となって全国で実施し、その勢いは一挙に広まりました。そして一日中、一年中議論していまだ結論が出ず、民心に従わないことになりました。私は自分の言動により罪に問われていますが、官僚と民衆の意見を陛下にお聞かせするのが私の職務です。今あわてて問題点を洗い出し、向かい合って議論したところで、陛下の耳目としての任を辱めるのではないでしょうか?

いわゆる向背について言えば、私の向かうところは義であり、背くところは利であり、向かうところは君主であり、背くところは権臣であります。

願わくば私の上奏文と司農寺の上奏文を百官に示し、その当否を問うてください。」

帝からの返答はなかった。翌日、再び上疏した。

「陛下は朝な夕な刻苦精励され、自ら政務をとっておられますが、天下はいまだ安定しておりません。一体誰の仕業でしょうか?陛下は太平を望むことに意を注がれ、太平を己の任務とされています。君主が大権を握るとはこのことです。

ここ二、三年の間、均輸法により天下は動揺しましたが、天地に一民一物として安定したものはありませんでした。財について議論すれば、市井(しせい)の人々がみな政事堂に呼び出されることになります。利を得ようとすれば、下は暦に至るまで、官が自ら売り出すことになります。これをおし進めてゆけばどうなるか、言うまでもありません。

名器を軽々しく用いれば、賢人とそうでない者が混ざりあってしまいます。忠義に厚く徳のある老人が退けられて無能とみなされ、年若で口のまわる者が取り立てられて有用な人材だとされ、道義を守り国を憂える者が俗物とされ、常軌を逸し民を害する者が融通が利くと言われております。政府の政策の論議、人材の登用は、一属官にすぎぬ曽布とともに決定して詔を起草し、臣下らが事情を知るのはその後であります。ゆえに曽布の家の門前は利を求めて奔走する人でいっぱいで、市のようです。

今、西夏はまだ和議を申し入れておらず、帰順しない兵がおり、三方面の辺境で苦しんでいます。黄河の決壊はいまだ解決されておらず、河北の干害、諸路の水害により、民は疲弊し財は欠乏し、県官は減らされています。ここは陛下が国を憂えて政務に励むべきときであるというのに、政事がこのようであれば、大臣が陛下を誤らせ、大臣の用いる者が大臣を誤らせることになります。」

この疏が上奏されると、王安石は劉摯を嶺外(れいがい)(広東・広西)に流そうとしたが、帝はこれを許さず、楊絵を知鄭州(1)に、劉摯を監衡州(2)塩倉に左遷し、張璪も降格となった。

訪察使を派遣して全国を回らせ、職役に関する書類を短期に作成させた。

(1)鄭州 河南省鄭州市。
(2)衡州 湖南省衡陽市。

59


八月、王雱(おうほう)を崇政殿説書とした。

王雱は王安石の子であり、人となりは荒々しく物言いが辛辣で、遠慮するところがなかった。それでいて頭の回転も速く、元服もしないうちに著書数十万言があった。鄧綰(とうわん)・曽布が強く彼を推薦し、この命が下った。

王雱は「商鞅(しょうおう)は豪傑の士だ。」と言い、「異論ある者を誅殺せねば新法は実行できない。」と言っていた。ある日、王安石が程顥(ていこう)と話していると、王雱が髪も束ねず、足も素足で、婦人を伴って冠を着けて出てきて、父が程顥と何を話しているのか尋ねた。王安石は言った。
「新法が妨げられたので、程顥殿とそれについて話し合っているのだ。」
すると王雱は大言した。
韓琦(かんき)富弼(ふひつ)の首を(まち)にさらせば新法を行うことができます。」
王安石は即座に言った。
「小僧がたわけたことを!」
程顥も言った。
「いま参政と国事を論じているところだ。若い者の関わることではない。しばらく退がってなさい。」
王雱は不愉快になった。

60


九月、全国の専売所と渡し場を売り下げ、人を募って買い上げさせ、経営を請け負わせることにより利益を得た。それらの一年の収入は六百九十八万六千(びん)であり、穀物・絹九十七万六千六百万(せき)・匹余りであった。司農寺と祠部がこれらを売り下げると、その中で商売することを許可した。

61


冬十月、鮮于侁(せんうしん)を利州(1)転運副使とした。

監司(2)に詔を下し、管轄する地方の助役銭の額を定めさせた。利州路転運使・李瑜(りゆ)はその額を四十万にしようとした。このとき鮮于侁は判官であり、「利州は民は貧しく土地は痩せております。この半分ならばよいでしょう。」と言って反対した。李瑜は耳を貸さず、それぞれが上奏して意見を争った。このとき、全国の職役の書類はまだ完成していなかった。帝は鮮于侁の意見を正しいとして、司農寺の曽布にこの意見を頒布させて規則とするよう指示し、李瑜を左遷して鮮于侁を転運副使兼提挙常平に抜擢した。

これ以前、王安石が金陵(3)にいたとき、その名が重んじられ、士大夫らは宰相となるよう望んでいた。だが、鮮于侁は君主に強引に物事を求めるその姿勢を好ましく思わず、「彼が用いられれば、きっと天下を乱すことだろう。」と語っていた。

王安石が政治をとるようになると、鮮于侁は上書して時事を論じ、「憂慮すべきは一、嘆息すべきは二、そのほか政治の原則に反し、民の怨みを買うものは数え切れません。」と言った。これは専ら王安石を風刺したものであった。王安石は怒り、鮮于侁を(そし)った。

帝は鮮于侁に文才があり、用いるべきだと称えた。王安石は言った。
「なぜそのようなことがおわかりなのです?」
「上奏文を見ればわかる。」
王安石は何も言わなかった。

鮮于侁が転運副使になると、管轄下の民は青苗銭の貸し付けを願い出なかった。王安石は使者をやって(なじ)ったが鮮于侁は言った。
「青苗の法は、願い出れば貸し付けるが、民が自ら願い出ないなら、無理に貸し付けるものではない。」
蘇軾(そしょく)は鮮于侁を称え、上は法を犯さず、中は親を廃さず、下は民を傷つけず、このような姿勢から三難(容易に達成できない三つのこと)と称した。

(1)利州 四川省広元市。
(2)監司 按察使などの監察官を指す。
(3)金陵 南京市の南。

62


五年(1072)春正月十九日、都に巡察の兵を置き、政治を批判する者を調べ、捕らえて罪に問うた。

63


三月、富弼(ふひつ)が致仕(仕官を引退すること)した。

富弼は(じょ)州に二ヶ月滞在し、上言した。
「私は新法のことはよくわからず、地方を治めることもできません。洛陽に帰り、療養したく思います。」
これを許可した。この後に致仕を願い出たため、司空・武寧節度使の称号を与えた。富弼は致仕した。

富弼は自邸にいても、朝廷には大きな問題があると、知っていることをすべて言った。帝はそのすべてを採用したわけではなかったものの、富弼への寵愛は衰えなかった。王安石が進言しようとしたとき、帝はこれを退けて言った。
「富弼は直筆の上奏で、『老臣に申し上げることはありませんが、ただ自邸を仰いで嘆くばかりです。』と言っている。何たる至言だ。」
富弼を敬うこと、この通りであった。

64


二十六日、市易法を施行した。六つの市易司が隷下に加わった。

65


夏五月二十七日、保甲養馬法を施行した。

開封府管下の諸県の保甲に対し、馬を飼うことを願い出る者があれば、これを許可した。よって、陝西(せんせい)で交易した馬から選んでその者に与えた。

曽布らに詔して、法令の条文を献上させた。陝西五路の義勇兵・保甲で、馬を飼うことを願い出る者は、一戸につき一匹を許可した。財産に余裕があり、二匹飼うことを願い出る者は、これを許可した。

いずれの場合も監牧(1)が馬を見定めて与え、あるいは官が値段をつけて自ら売った。この規定は開封府と陝西五路で先行運用した。開封府内では三千匹、陝西五路では五千匹を超えないこととした。盗賊を駆逐する場合を除き、三百里を越えて乗ることは禁止された。年に一度馬が肥えているか痩せているかを調査し、死亡・病気があった場合は補償した。開封府内においては、馬草二百五十束までの計量を免除し、銭と布を与えた。陝西五路においては、毎年折変(せつへん)(2)・縁納銭を免除した。

三等戸以上の十戸を一保、四等戸以下の十戸を一社とし、病気・死亡があった場合は補償させた。保戸の馬が死亡した場合、保戸にすべて補償させた。社戸の馬が死亡した場合、社戸に半額を補償させた。

後、全国に施行された。

(1)監牧 馬の飼育を管理し、良馬を選び、全国に送る官。
(2)折変 両税等の税を他の物品で代納すること。

66


王安石が宰相を辞めることを求めたが、帝は許さなかった。

これ以前、枢密都承旨(1)・李評は政事を論ずるのを好み、帝はその言に従うことが多かった。一方で助役法の不合理を直言したことがあったので、王安石は李評を憎んだ。李評は上奏によってみだりに閤門(こうもん)(2)を辞めさせていた。王安石はこれを権力の濫用だと言い、断罪しようとした。帝も李評に罪があると言ったが、実際には李評を断罪しなかった。

翌日、王安石は帝に謁見し、東南の一地方官になることを願い出た。帝は言った。
「古来からの君臣で、そちと朕ほどお互いをよく知っているというのもたいへん珍しい。朕は愚かなため、初めは何もわかっていなかった。だが、そちが翰林(かんりん)学士となってから、初めて道徳の説を知るようになり、少しは物事がわかるようになった。国事には着手するきっかけというのがある。なぜ辞めるなどと言うのだ。」
王安石が辞職を固く願うと、帝は言った。
「李評のことであろう?朕がそちを疑っているとでもいうのか?朕は知制誥(ちせいこう)のときからそちのことを知り、国事を預けてきた。呂誨(りょかい)がそちのことを少正卯(しょうせいぼう)(3)盧杞(ろき)(4)にたとえていたとしても、朕は迷うところがない。朕を惑わすことなどできるものか!」
数日もしないうちに、王安石は再び上奏文を携えて謁見した。帝はそれに目を通さず王安石につき返し、宰相を続けさせた。

(1)枢密都承旨 枢密院の属官の長。重要な情報や密命を伝え、枢密院の事務を司る。
(2)閤門官 朝会・宴会、皇帝への謁見等を司る官。
(3)少正卯 春秋・魯の大夫。政治を乱す者として孔子に誅殺された。
(4)盧杞 唐・徳宗の宰相。言葉巧みに徳宗に取り入った。

67


八月二十八日、方田均税法を公布した。

帝は田にかかる税が不均等であるのを憂慮し、司農寺に方田および均税法を改めて制定させ、天下に公布した。

方田の法。東西南北各々千歩を、四十一(けい)六十六()百六十歩を一方とする。毎年九月、各県の知県と通判は土地を測量する。農地を囲む堤防・原野・平野・沼沢の分類に従って土地の種類を定め、赤い泥、黒い土はその色を区別する。方の測量が終わると、その土地と色の種類によって肥瘠(ひせき)を評価し、五つの等級に区分して徴税の規則を定める。

翌年の三月に測量が終わると、民に掲示した。「三ヶ月間訴えがなくば、戸帖(こちょう)(1)に記し、荘帳(2)を付し、地券とする。」

均税の法。各県の徴収額は、規則で定められた租税額を限度とする。以前、端数を無理に徴収していた。米が十合に満たないのに、これを升(十合)として徴収し、絹が十分に満たないのに、これを寸(十分)として徴収するといった類である。以後、端数を各戸均等に割り当てることにより水増しして、定められた額を超えることを禁ずる。定められた額を超えて徴収額を増やすあらゆる行為を禁ずる。

痩せ地、塩分の多い土地、不毛の地、および民が利益を得るための山林・ため池・用水路・墳墓には課税しない。田地の隅に盛り土をし、適切な種類の木を植えて標識とする。方帳(3)を有し、荘帳を有し、甲帳(4)を有し、戸帖を有している者で、相続による家産の分割、典売(5)、土地の譲渡をする場合、官が憑証(ひょうしょう)を発給し、県が帳簿を置き、今回方の単位で測量した田を正規のものとする。

法令が整備されると、鉅野県尉(6)王曼(おうまん)を教官とし、京東路から先に実施し、諸路がこれに続いた。

(1)戸帖 各戸が所持する不動産台帳。田土の種別・等級・面積・特徴・納税課額等が記載される。
(2)荘帳 土地面積を記した帳簿。
(3)方帳 土地面積を記した帳簿。
(4)甲帳 各戸の土地面積や等級を記した帳簿。甲頭に与えられた。
(5)典売 買戻し条件つきで売ること。
(6)鉅野県尉 鉅野は山東省巨野県の北。県尉は県の治安維持を担当する武官。

68


六年(1073)夏四月二十六日、文彦博(ぶんげんはく)が辞職した。

文彦博は長く枢密におり、王安石が旧法の多くを変えていることから、帝に言った。
「朝廷の政務は、人心を合わせることに努め、みなの意見を採用し、何事もなく平静でいるのを重んじるものです。陛下は政務に励まれていますが、人心はいまだ安定しておりません。改革の過ちでありましょう。祖先伝来の法は必ずしも行えないことはありませんが、不公正な者のため実行できないのです。」
王安石はこの発言が自分に向けられたものと知ると、奮然としてこの言を退けて言った。
「民の害を除こうというなら、どうしてやってはいけないというのだ!万事が実行できないというなら、それは現実からかけ離れた西晋の風というもので、政治の役に立たないではないか!」

市易司が設立されたが、それにより得られたものも官と監が売ることになった。文彦博は国益を損ない、民の怨みを買うと考え、華岳山(1)が崩れたとき、帝に直言した。
「官僚を輩出する家は商売で利益を得ることに疎く、儒者の俗世を離れた議論は受け入れられず、堂々たる大国が皇々として利を求め、そうした世の姿に対し、天意が警告しているのです。」
王安石は言った。
「華山の崩落は、天意が小人を戒めるために起こしたものです。市易法は民が久しく苦しんでいるから制定したのであり、これにより豪農の横暴を抑えるのが目的です。官に何の利益がありましょう。」

文彦博は辞職を強く願い出た。このため司空・河東節度使の称号を与えられ、判河陽となり、やがて大名府に移された。

(1)華岳山 南京市の東。

69


九月、免行銭(めんこうせん)(1)を徴収した。

これ以前、京師には物資ごとに(こう)(同業組合)があり、官署が求めるものは、それを通じて流通させていた。下は貧民・行商に至るまでこれに関わり、品目ごとに割り増しと割り引きがあった。呂嘉問(りょかもん)は、行の収益の額に応じて銭を納めさせ、税の官吏の俸給にあてる分と免行戸に支払わせるよう求めた。宮廷が物資を売買し、雑買場務(2)があり、その上市易司を置き、物価の高低を見積もった。内外の官署が物価を制御したいと思えば物資を買い入れた。ここに至り、免行銭の徴収が行われた。

(1)免行銭 都市の商人から徴収した銭。諸官庁の必要物資の調達である行役を銭納に変えることを目的とした。
(2)雑買場務 宮廷・官庁が必要とする物資を買い入れる官署。

70


七年(1074)夏四月六日、一時的に新法を停止した。

去年の秋七月以来雨が降らなかった。この月になって、帝は憂鬱な面持ちで深く嘆息し、害のある新法をやめようと考えた。
王安石は言った。
「水害と干害は通常のことであり、尭や湯王も免れることはできなかったのです。陛下は即位以来、連年豊作が続いていました。今、干害が長く続いていますが、人事を引きしめてこれに対処すればよいのです。」
帝は言った。
「朕が恐れているのは、人事が引きしまっていないということだ。免行銭を過重に徴収しているため、世間は怨嗟の声に満ち、近臣から皇后の親族に至るまで、このことを口にしない者はない。」
馮京(ふうけい)は言った。
「私もそのように聞いております。」
「不逞な士大夫は馮京のもとに集まっているのです。それゆえ馮京だけがそのような噂を耳にするのです。私はそのような話は聞いたことがありません。」

これ以前、光州(1)司法参軍(2)鄭侠(ていきょう)は王安石に抜擢され、自分を取り立ててくれたことに感じ入り、忠義を尽くそうと考えた。任期が満了して都に入ると、王安石は新法の評判について尋ねた。鄭侠は言った。
「青苗・免役・保甲・市易のことや、辺境の防備について、私は一心に取り組んでいます。」
王安石は何も答えなかった。
ここに至り、鄭侠は監安上門となった。

(1)光州 安徽省潢川(こうせん)県。
(2)司法参軍 刑法を司る地方官。

このとき、毎年飢饉が続き、税の徴収が過酷で、東北の民は流民となり、風に舞った砂が天をおおい、体を支え合って道を塞ぎ、病に苦しみ、満足な服を着ることもできず、木の実や草の根をゆで、鎖や(かせ)を身に着け、瓦を背負って木を掲げ、これらを売って官に税を支払う者が累々として後を絶たなかった。こうした現状を目にした鄭侠は、その状況を絵にかき、失政を上奏しようとして宮殿にやって来たが、取り次いでもらえなかった。そこで危急の密使と称して馬を乗り継ぎ、これを献上した。そのあらましは以下の通りであった。

「陛下は南征北伐され、みなその戦勝の勢いを絵にかいてみせました。しかし一人として天下を憂え、父母妻子が助け合わず、流れ歩いて苦しみ、貧困にあえぐさまを絵にかいて献上した者はおりません。私が安上門にいて日々見聞きすることを一枚の絵としてみましたが、これは実際の百分の一にも及びません。これをご覧になれば、きっと涙を流されることでしょう。ましてや朝廷の千里万里の外などはこれ以上でしょう。陛下におかれましては、私の絵をご覧になり、私の言葉を実行に移され、十日雨が降らなければ宣徳門に私を斬り、君主を欺いた罪を正していただきたく存じます。」

この疏が上奏されると、帝は絵を何度も見返し、三、四回長嘆し、袖にしまって宮殿に入った。この夜、帝は寝つくことができなかった。

翌日、開封府に命じて免行銭をすべて免除し、三司に市易法の状況を調べさせ、司農寺に常平倉から物資を放出させ、三衙(さんが)(3)()(4)・河州(5)の軍事について報告させ、諸路に民の物資が失われている原因を報告させた。青苗法・免役法については、無理な催促をやめさせ、方田法・保甲法は廃止した。これらは十八の事項に及び、民は歓呼して祝いあった。この日、大雨が降り、各地が潤った。

(3)三衙 殿前司(諸軍の兵の名簿・統制・訓練等を司る官署)・侍衛親軍馬軍・侍衛親軍歩軍(禁軍の騎兵隊と歩兵隊)の総称。
(4)熙州 甘粛省臨洮(りんとう)県。
(5)河州 甘粛省東郷族自治県の西。

七日、宰相らは雨が降ったことを祝った。帝は鄭侠の絵と疏を袖から出して宰相らに見せ、王安石に尋ねた。
「鄭侠とは知り合いか?」
「かつて私のもとで学んでいました。」
王安石は上奏して宰相職を辞めることを願い出た。他の者は帝の一連の行動のわけをようやく知った。

奸臣らは鄭侠を恨み、御史獄(御史台管轄の監獄)に下し、勝手に馬を乗り継いだ罪で処罰した。呂恵卿(りょけいけい)鄧綰(とうわん)は帝に言った。
「陛下は数年間寝食を忘れる思いで政務に励み、このような立派な政治を成し遂げられ、天下はその恩恵にあずかっておりました。だというのに、気のおかしな者の言をいれられ、新法をことごとく廃止されてしまいました。惜しむべきことです。」
そしてともに輪になって帝の前で泣いた。このため新法はすべて元通りとなり、方田法のみが廃止された。

71


十九日、王安石が辞職し、韓絳(かんこう)を同平章事とし、呂恵卿(りょけいけい)を参知政事とした。

王安石が政治をとって六年、法を改革し、辺境を開拓し、有徳の者や正直の士は左遷されていなくなり、軽薄で言葉巧みにへつらう者らが通常の段階を超えて抜擢された。天下はこれを恨んだが、帝はますます王安石を信任した。太皇太后は折を見て帝に言った。
「先祖伝来の法は軽々しく変えるものではない。民は青苗法・助役法にたいへん苦しんでいると聞く。これらを廃止しなさい。」
帝は言った。
「それは民に利をもたらすものであって、苦しめるものではありません。」
「王安石は学才に秀でているが、彼を嫌う者もたいへん多い。彼を守ってやりたいなら、しばらく外に出すとよい。」
「王安石は国家のために宰相の職についていると、群臣は考えています。」
帝の弟で岐王の趙顥(ちょうこう)がそばに居り、進み出て言った。
「太后のお言葉は考慮すべきでしょう。」
帝は怒った。
「私が天下を乱しているというのか!お前が自分でそうしているのだ!」
趙顥は泣いて言った。
「どうしてそのようなことを言われるのですか!」
みな息が詰まって話がやんだ。しばらくして、太后が涙を流して帝に言った。
「王安石が天下を乱している。どうするのだ?」
帝はようやく王安石を疑いはじめた。

鄭侠(ていきょう)の疏が上奏されると、王安石は不安になり、辞職を願い出た。帝は再三引き留めたが、王安石はますます意向を固めた。このため、観文殿大学士・知江寧府(南京)とした。呂恵卿は自分の仲間を使って、毎日名を変えて王安石を引き留めるよう上奏した。王安石はこれに感じ入り、韓絳が自分に代わり、呂恵卿がこれを補佐するよう求め、帝もその要請に従った。この二人は新法を守って多くの点で失敗し、世人は韓絳を「伝法沙門」、呂恵卿を「護法善神」と称した。

呂恵卿は内外で新法について異論を唱える者がいるのを恐れ、書状を書いて各地の監司・地方官に届け、新法の利害について報告させた。また、官吏が法に反したことを理由に新法を廃止することはないとの詔を下すよう帝に勧めた。このため、王安石の施策は変わることがなかった。

72


五月、三司使・曽布、提挙市易司・呂嘉問(りょかもん)が辞職した。

これ以前、呂嘉問は市易司を管理し、勤務評定に関係なく賞与を受けていた。帝は呂嘉問が民を混乱させていると聞き、これを王安石に話した。王安石は答えた。
「呂嘉問は法を守り公事を処理していますが、その過程で民の怨みを買ったのです。」
「免行銭は細かいものまで徴収し、市易司は果物や氷、炭まで売って、国体を傷つけている。」
王安石は強弁し、帝は細かいことにこだわり、帝王の大略を知らないとそしった。帝は言った。
「そちの申す通りならば、士大夫らはなぜ新法を不合理だと考えているのだ?」
王安石はそのように言っている者の名を明かすよう求め、呂嘉問に細かく報告させた。帝が韓維・孫永に命じて民を集めて干害の原因を尋ねさせ、坐賈銭(ざこせん)(1)千万を減免すると、王安石は呂嘉問の報告をもって上奏した。

「朝廷が免行銭を納めるのを民に許すのは、人々が生業に安心して従事し、強引な取り立てを抑制するためです。これをやめてしまえば、誰も法を守らなくなります。また、役人の俸給が安いため、その財源を民に求めざるを得ません。厳格な法によらなければ取り立てを禁止することはなく、薄給をもって厳格な法と言うならば、法は時に曲げることもあるのです。

今、民から取り立てる分を減らし、役人が自重することをわきまえれば、これは我々が新法を推進する本来の趣旨にかないます。免行銭をやめさせようとする者がいますが、これは正しくありません。民に役人を恐れない者はなく、それを利用して公務によって罪に触れ、銭を出させようとしていますが、うまくいっていません。役人の俸給は高いといえますが、以前民の所得の半分を徴収していたときには及びません。」

(1)坐賈銭 有店舗商にかけられる税。

このとき市易司は三司に所属しており、呂嘉問はその権勢をたのんで山陵使(2)薛向(せっきょう)を三司より上の職位に抜擢した。だが、曽布が薛向に代わると、心中穏やかではなくなった。

たまたま帝が直筆の書簡を送って曽布に挨拶すると、曽布は魏継宗のもとを訪れ、呂嘉問は利息を多くとることで賞与を求め、官署をおどして土地を分捕っていると上奏した。帝は曽布にこのことについて調べさせた。王安石は曽布と呂嘉問との間には私怨があると言った。これを受け、曽布と呂恵卿がともに朝廷を治めるよう詔を下した。このため呂恵卿は曽布を恨み、魏継宗をおどして曽布を誣告(ぶこく)しようとしたが、魏継宗は従わなかった。曽布は呂恵卿とともに職務にあたることはできないと言い、帝はこれを聞き入れようとしたが、王安石が承知しなかった。そこで帝は中書に言った。
「朝廷が市易司を設けているのは、物価を平均化することにより民に便宜をもたらすためであり、『周官』にある泉府のようなものだ。今は中流の家も失業している。わが民はこれでどうして泰然としていられようか。制度を定めるべきだ。」
曽布は帝を見て言った。
「いつも詔書を拝聞いたしますに、陛下は王道により天下を治めんとしておられます。今の市易司の暴虐は、間架(3)除陌(じょはく)(4)のように浸透しております。このような政治が竹簡に記され、唐・虞・三代に見られないばかりか、秦・漢以来の歴史を見ても、今のような衰え乱れた世はいまだかつてなかったでしょう。呂嘉問は塩や絹を売るよう求めていますが、これでは各方面から笑いものにされるでしょう。」
帝はこれにうなずいた。

事が決しないうちに王安石は宰相を辞め、呂嘉問が引き留めようとして泣いた。王安石はこれをねぎらって言った。
「宰相には呂恵卿を推薦しておいたよ。」
呂恵卿が政治をとるようになると、以前からの訴訟を処理し、曽布が新法を妨害したと弾劾して知(じょう)(5)に転出させた。呂嘉問もまた知常州に転出させられた。章惇(しょうとん)を三司使とした。

(2)山陵使 皇帝や皇太后の葬儀を司る官。
(3)間架 架は屋根の桁のこと。二つの桁ごとに柱を立て、その間を間といった。屋内の間架の大小により課した唐代の税。
(4)除陌 唐代の雑税。
(5)饒州 江西省鄱陽(はよう)県。

73


秋七月、手実法を定めた。

免役銭の徴収が均等でなかったため、呂恵卿は弟の曲陽県(1)尉・呂和卿を用いて政策を話し合い、手実法を考案した。

この法の内容は以下の通りであった。官が価格を定め、民に田地・家屋・資産・家畜の評価額を自分で計算させる。家屋に課せられる銭が五であれば、利息の銭は一とする。食器や食用の粟以外のものを隠匿した場合は告発することを許し、隠匿していたものが得られた場合、その三分の一を賞与として与える。あらかじめ計算の方法を民に示し、形式に従って実情を記し、県が受理して登録し、評価額に従って上下の序列を定め、五等級に区分する。一県の民の資産の額が判明すれば、県の役銭の額を集計し、納める額を決定する。

詔を下してこの提案に従ったが、民家は一尺の(たるき)、一寸の土まで官に漏れなく把握されて、鶏や豚まですべて奪われ、民は生活に困った。

呂恵卿がこの法を定めたとき、全国の半数以上が災害に苦しんでいたが、何の手も打たなかった。荊湖(けいこ)訪察使・蒲宗孟(ほそうもう)は上言した。
「これは天下の良法です。民に資産額を自ら申告させることにより、混乱することがなく、豊作を待つ必要もありません。当局に詔を下し、豊作・凶作に従ってこの法の緩急の度合いを調整していただきたく存じます。」
これに従った。このため民はますます困窮した。

(1)曲陽県 河北省曲陽県。

74


冬十月十六日、三司会計司を置いた。

帝は官署を置くことで費用がかかるのを憂えていたが、王安石は言った。
「官署を増やすのは、むしろ費用を省くためです。」
「古は十分の一を税としていたが、今は一切の財を取っている。」
「古も十分の一であったわけではありません。」
王安石は天下の官吏に賞与を与えようとし、帝がこれを許可しないうちに三司の官吏の俸給を増やし、その額は毎年緡銭(びんせん)百十一万余りに及んだ。新法を提唱する者らはみな、俸給が高ければ人は自重することを知り、法を犯すことがなくなり、刑の執行を減らすことができると言った。だが、良吏はたいへん少なく、賄賂を取ること相も変わらず、往々にして死罪を命ぜられる者が現れ、この方策を批判する者が出始めた。これを受け、三司帳司(1)にこの年の天下の財の出入額を会計して報告させ、宰相にこれを管理させることにした。

ここに至り、韓絳(かんこう)は以下の通り要請した。すなわち、官を選んで官署を置き、天下の戸数・人口・税役・場務(専売所)・鉱山・渡し場・家屋の税額、毎年の課税額および一路の銭と穀物の出入額を集計することにより、重複を取り除き、毎年の増減、官署の廃止と設置、余剰と浪費を比較検討し、余剰と欠乏を合算して物資のある所とない所が融通し合えるようにし、この官職への任用の当否により左遷と昇進を決める。そうすれば国家の大綱を詳しく検討することができる、と。三司使・章惇(しょうとん)も同じことを言った。そこで三司会計司を置き、韓絳を提挙(長官)とした。

(1)三司帳司 諸州の帳簿を調査し、不正を糾す官署。

75


八年(1075)春正月、鄭侠(ていきょう)が上疏し、呂恵卿の仲間たちが政治に害をもたらしていると言い、『唐書』魏徴・姚崇(ようすう)宋璟(そうけい)伝、李林甫・盧杞(ろき)伝を取り出して二列にならべ、「正直な君子とよこしまな小人の事績の図」と題した。官職にある者で、暗に李林甫に似ていて姚崇・宋璟の考えと反する者を書に記して献上した。また、馮京(ふうけい)を宰相に推薦し、宮中に鎧を着て登殿して人をののしる者がいることなどについて言った。

呂恵卿は上奏して鄭侠をそしり、中丞・鄧綰(とうわん)知制誥(ちせいこう)・鄧潤甫にこの問題を処理させ、鄭侠を(てい)(1)に編管(2)した。御史台の官吏・楊忠信が鄭侠に会って言った。
「御史は黙って何も言わず、あなたは何度も上書した。この責任は監門(3)と御史台に人がいなかったことにある。」
そして懐中から『名臣諫疏』二(はこ)を取り出し、鄭侠に与えて言った。
「これが助けとなろう。」

(1)汀州 福建省長汀県。
(2)編管 遠方の州へ流し、その地の戸籍に編入し、監視される処置。
(3)監門 宮殿の門を守衛する官。

馮京と呂恵卿はともに政府にいたが、多くの点で考えが合わず、王安石の弟、王安国は鄭侠と仲が良かった。侍御史・張璪(ちょうそう)は呂恵卿の命を受け、鄭侠がかつて馮京のもとに通い、交流があったと弾劾した。鄧綰・鄧潤甫は、王安国は以前鄭侠の上奏の草稿を読み、うまくいくだろうと言葉をかけたと言った。これらには兄をそしる意図があった。こうして、王安国を郷里に帰らせ、馮京を知(はく)州に転出させた。

鄭侠は汀州に左遷されて同地に向かっていたが、呂恵卿は舒亶(じょたん)に道中で鄭侠を捕らえさせ、荷物箱の中を捜索し、『名臣諫疏』を書き写したものを見つけ、新法について書いたものや親友からの書簡もあり、ことごとくそれらの姓名を調べて処分に乗り出した。鄭侠が獄に下されると、呂恵卿は鄭侠を殺したいと思ったが、帝は言った。
「鄭侠の言は自分のためのものではない。その忠誠は称えられるべきであり、厳しく処分する必要はない。」
このため、英州(4)に移されただけで済んだ。

(4)英州 広東省英徳市。

76


これ以前、王安国は西京(洛陽)国子監教授に任じられた。任期が満了して京師に入ると、帝は王安石の親族であることから、特別に召し出した。帝は下問した。
「漢の文帝とはどのような君主だ?」
王安国は答えた。
「三代以来見られなかった器です。」
「その才をもって法を定め制度を変えることができなかったのが悔やまれる。」
「文帝は代王のときから未央宮に入り、わずかの間に政変(呂氏の乱)を鎮めました。才なくばできなかったでしょう。賈誼(かぎ)の言を用い、群臣が節度をもつことを期待し、政務に専念して民を徳化し、天下に礼と義が普及し、刑法は置くだけで用いないという有様でした。ならば文帝には才一等が加わると言えましょう。」
「王猛は苻堅を補佐し、小国でありながら法令は確実に行われていた。今、朕は大国を擁していながら人をうまく使うことができない。なぜだ?」
「王猛は苻堅に法を厳しくして人を(あや)めさせ、秦の帝位は伝わることがなくなりました。今、刻薄の小人がこの故事により陛下を誤らせようとしています。ここは専ら尭・舜・三代を法としてください。さすれば従わない者などおりません。」
帝はまた問うた。
「そちの兄が政治をとっているが、みなは何と申しておる?」
「みなは何も知らず、徴税が厳しすぎると言っております。」
帝はこの答えに満足しなかった。このため、王安国には崇文院校書が授けられるにとどまり、ついで秘閣校理に改められた。

王安国は新法の弊害をたびたび王安石に説き、呂恵卿を佞人(ねいじん)と見なした。このため呂恵卿は王安国を朝廷から追い出した。

77


二月十一日、再び王安石を同平章事とした。

これ以前、呂恵卿は王安石に迎合し、新法を制定した。このため王安石は呂恵卿を抜擢し、にわかに宰相になった。呂恵卿は志を得ると射羿(しゃげい)の意(1)を抱き、王安石が再び用いられるのをよしとせず、その道を閉ざそうとし、およそ王安石を困らせるものであればどんな知恵でも用いた。朝廷の官僚らが呂恵卿に会って帝の信任を得たとき、王安石を排斥して呂恵卿に媚びようと言いだした。呂恵卿は彼らを仲間に引き入れた。また、鄧綰(とうわん)・鄧潤甫が李逢(りほう)の獄を利用し、また、李士寧を両脇から抱えて王安石を脅かそうとした。王安石はこれを聞いて彼らを恨んだ。

韓絳(かんこう)は専ら中書にいたが、多くの政事が滞り、またたびたび呂恵卿と言い争った。呂恵卿を制御できないと考えると、帝に王安石を再び用いるよう求め、帝はこれに従った。呂恵卿はこれを聞いて不安になり、王安石兄弟の失敗を書き並べて対面で上奏し、帝を惑わそうとした。

帝は呂恵卿の上奏文を封緘して王安石に送った。王安石は上表した。
「忠が足りずに信用を得ようすれば、事ごとに自明であることが必要です。義が足りずに奸人を排除しようとすれば、人と人が対立するものです。」
これは上述のことを言ったものである。

王安石は再任の命を受けると道を倍して進み、七日で汴京(べんけい)に着いた。

(1)射羿の意 羿は夏の太康のときの有窮(山東省徳州市)の君主。射撃に巧みで太康の位を簒奪したが、民政を顧ず家臣に殺された。

78


蜀の人李士寧は、導気養生の術を会得し、三百歳を超えていると言い、人の吉凶を言い当てていた。王安石はこの者と旧交があり、いつも宰相府に迎え入れ、たいへん仲が良かった。

王安石が金陵におり、呂恵卿が大政に参与していたとき、山東で李逢(りほう)・劉育の変が起こり、帝室の趙世居もこれに関わっていた。御史府・()(1)はそれぞれ訴訟を起こして問いただした。取り調べにあたった者が李士寧がこの計画に関与していると言ったため、天下に勅命を発してこれを捕らえた。処分が決まると、趙世居は死罪、李逢・劉育は街中で(はりつけ)にされ、李士寧は(じょう)刑のうえ永州(2)に流され、連座する者はたいへん多かった。

呂恵卿がこの訴訟を起こしたとき、これに李士寧を巻き込み、罪を捏造して陥れようとしたが、王安石が再び政治をとるようになったため実行されなかった。

(1)沂州 山東省臨沂市。
(2)永州 湖南省零陵区。

79


冬十月二日、呂恵卿が辞職した。

御史・蔡承禧(さいしょうき)は、呂恵卿が帝を欺いて法を乱し、私党をつくってほしいままに振る舞ったと弾劾し、呂恵卿は自邸で沙汰を待った。中丞・鄧綰(とうわん)はこれまで呂恵卿に追従してきた事実を取り繕って王安石に媚びようとした。王安石の子、王雱(おうほう)も呂恵卿を深く恨み、呂恵卿兄弟が秀州(1)華亭県の富民に銭五百万を強引に貸し付けたこと、知華亭県・張若済とともに田地を買って不当に利益を得たことを告発し、獄に下して取り調べさせるよう、鄧綰を暗に誘導した。

呂恵卿はついに辞職し、知陳州(2)に転出した。鄧綰はまた、三司使・章惇(しょうとん)が呂恵卿の不法行為に協力したと弾劾し、知湖州(3)に転出させた。

(1)秀州 浙江省嘉興市。
(2)陳州 河南省淮陽区。
(3)湖州 浙江省湖州市。

80


七日、(すい)(星の名)が(しん)(二十八宿の一)に現れた。

帝は天文の異変がたびたび起こったため、宮殿に隠れて食事を減らし、詔を下して直言を求め、天下に大赦を下し、民のためになっていない政策について下問した。程顥(ていこう)は詔に応じ、朝政について直言したため、知扶溝県(1)事とした。王安石は同僚らを率いて上疏した。

「晋の武帝五年、彗が軫に現れ、十年には(はい)(彗星)が現れ、在位二十八年間、『乙巳占(いっしせん)』の記載とは合致しませんでした。天道は遠く、古代の王は占星官による占いがあっても、信じたのは人事のみでした。裨竃(ひそう)(2)は火の占いが確実なものだと言い、これにより災いを(はら)おうとしましたが、国僑は聞き入れず、鄭は火の占いをやめました。裨竃のような者は荒唐無稽と言われても仕方ないでしょう。ましてや今の星工(星に通暁した人)などはもっとひどいでしょう。両宮(皇帝と皇后)が天文の異変を憂えていると聞きます。ここはどうか我々の言をお聞きになって安心していただきたく思います。」

(1)扶溝県 河南省扶溝県。
(2)裨竃 春秋、鄭の大夫。天文や天候の占いに精通した。

帝は言った。
「民は新法に苦しんでいると聞く。」
王安石は答えた。
「厳しい寒さと暑さに対しても民は怨みを抱いています。救済策を用いるまでもありません。」
「寒さ暑さへの怨みにも救済策を用いないというのか?」
王安石は不愉快になり、自邸にこもって病と称して床に伏し、帝は励まして起き上がらせようとした。王安石の仲間が言った。
「今、帝が普段嫌って用いない者が突然採用されれば、帝の権力が軽んじられ、人の隙をうかがう者(政治を乱す者、旧法党)が出てくるでしょう。」
王安石はこの考えに賛成した。帝は王安石が自邸から出てきたのを喜び、王安石の進言をことごとく受け入れた。鄧綰(とうわん)は言った。

「生活の道具というのは、日々用いられて家が維持できるのです。その実態をすべて報告させるようにすれば、各戸は告発を心配するようになり、道具を隠すようになるでしょう。商人は利益を増やしたがるものですが、交易は春にあったと思えば夏にはなくなり、秋にため込んだものは冬には使い果たしてしまいます。何もないため官の帳簿にも記録できず、不正があったとしてどうやって捕らえるというのでしょうか?告発の勢いは止められそうにありません。告発を好む者が褒賞のために怨みを買うようなことをし、告発に怯える者はひたすら耐え忍ぶのみです。」

詔を下して手実法を廃止した。

81


九年(1076)秋七月、鄧綰(とうわん)が辞職した。

呂恵卿が陳州に出され、張若済の事案の処分が長らく決まらずにいた。そこで王雱(おうほう)は門下省の友人である呂嘉問・練亨甫(れんきょうほ)に、鄧綰が呂恵卿の罪状を書き並べた文書を入手させ、他の文書と混ぜて張若済の処分が決まるようにさせた。王安石はこれを知らなかった。

門下省の官吏が陳州にいる呂恵卿にこのことを伝えると、呂恵卿は書状によりこれを帝に報告し、上書して王安石を責めた。
「王安石は学問をかなぐり捨てて枝葉末節の方策を重んじています。命にたがい令にかこつけ、陛下を欺いて物事を強要すること数年に及びました。志を失い道理に背いた者でも、このようなことはありません。」
帝はこの書状を王安石に見せたが、王安石はそのようなことはないと答えた。王安石はこのことを王雱に問いただした。王雱がわけを話すと、王安石はこれを咎めた。王雱は怒り、背中に腫瘍が生じて死んだ。

帝は王安石の立ち居振る舞いを嫌うようになった。鄧綰は王安石がかつての勢いを失ったのを見て、王安石の子や婿を任用し、京師に屋敷を与えてはどうかと上書した。帝がこれを王安石に伝えると、王安石は言った。
「鄧綰は国の司直(1)となってから、宰相らのために陛下の恩恵を求めるようになり、国体を傷つけています。左遷すべきです。」
帝は鄧綰は心持ちが偏っていて、品性が悪く、物事を論じては人を推薦し、職分を守ろうとしないことを理由に、知(かく)(2)に退けた。

(1)司直 大理寺司直。全国の州の犯罪事案を取り扱う。
(2)虢州 河南省霊宝市。

82


冬十月二十三日、王安石が辞職した。

王安石は再度宰相となかったが、たびたび病と称して辞職を求めていた。子の王雱(おうほう)が死ぬと、悲しみに堪えられず、国務を解いてもらうよう強く求めた。帝はますます王安石を嫌がるようになり、使相・判江寧府とし、次いで集禧観(しゅうきかん)使に改めた。王安石は金陵に退くと、往々にして「福建子」の三字を書いた。呂恵卿の所業の誤りを深く悔いたものであろう。

83


呉充・王珪(おうけい)を同平章事とした。

呉充の子、呉安持は王安石の娘を(めと)っていたが、呉充は心中王安石の所業をよく思っておらず、帝に新法の不合理をたびたび進言していた。帝は呉充が不偏不党であることを察していた。王安石が辞めると、呉充が宰相となった。呉充は新法を改めたいと思い、司馬光・呂公著・韓維・蘇頌(そしょう)を呼び戻すよう求め、孫覚・李常・程顥(ていこう)ら数十人を推薦した。

司馬光は洛陽から呉充に書簡を送った。

「新法が行われてからというもの、内外は騒然としている。民は細かい税目に苦しみ、取り立てに迫られ、悲しみ恨んで流民となり、崖に落ちて死に、日夜遠くを眺めて朝廷が過ちを悟り、悪法を一挙に改めるよう待ち望んでいる。今日天下の急を救わんとするならば、青苗・免役・保甲・市易法をやめ、戦争の計画を中止すべきだ。この五つを取り除こうとすれば、まず利害を区別し、上奏への道を開き、君主の心を理解する必要がある。今、病は深いとはいえ、手遅れというわけではない。今治さなければ長く続く持病となってしまう。」

呉充はこれを用いることができなかった。

84


馮京(ふうけい)を知枢密院事とした。

呂恵卿は王安石の罪を告発して私信を暴露した。それには「帝に知らせないように」や「同年齢の者に知らせるな」との文言があった。馮京と王安石が同年の生まれであったため、このように書いたのである。

帝は王安石を人を騙す者とし、馮京を賢人と評した。このため馮京が用いられた。