1
仁宗景祐二年(1035)春二月、宗室の子、趙宗実を宮中で養育することにした。趙宗実は太宗の曽孫であり、商王・趙元份の孫であり、江寧節度使・趙允譲の子であった。
帝にはいまだ跡継ぎがなく、趙宗実を宮中に入らせ、皇后に彼を養育させた。生まれて四年であった。
2
嘉祐元年(1056)五月、知諫院・范鎮を罷免した。
帝は急病にかかり、宰相・文彦博は太子を立てるよう求め、帝はこれを許可したが、病が癒えたため中止となった。
ここに至り、范鎮は奮然として、「天下の事でこれよりも大きいものはない!」と言い、次のように上疏した。
「諫官を置くのは宗廟と社稷(帝室と国家)の計であります。諫官であるのに宗廟・社稷の計をもって陛下にお仕えしないならば、それは死を恐れ利を貪る人であり、私の本意ではありません。陛下は病に倒れられたとき、天下は恐々としてどのようにすべきか分かりませんでした。そのような中で、陛下はひとり祖先の後継者について憂慮されております。これは国家を深く憂慮されておられるからです。昔、太祖は自分の子がいるにも関わらず、弟の太宗を皇帝に立てました。これは天下にとって正しい選択でした。真宗は周王が薨去すると長子を宮中に養いました。これは天下に対する大慮であります。
ここは太祖の心、真宗の故事にならい、近親の者で最も賢い人を抜擢し、礼と秩禄の上で優遇し、その人を側近に置いて政事の任に就かせ、億兆の人心を繋ぎ止めるよう願います。陛下の子が生まれて世継ぎとなれば、自邸に帰してやりましょう。」
この上疏は何度も献上されたが、返答はなかった。
これについて、文彦博は「こんな功名を求める者を手本とするものか!」と言った。范鎮は書状をもって答えた。
「天文から変を占うに、突如として戦が起ころうとしている。鎮は義をもって死職に臨むものだが、乱兵の下に死んではならない。これは鎮が自分が死ぬときを選ぶということであり、功名を求めるという疑いなど、どうして気に掛けるものか。」
また、こうも述べた。
「陛下は私の上疏を受け取りながら、これを宮中に留め置かず中書に送りました。これは大臣らに実行させたいということです。私は二度にわたり中書に行きましたが、大臣らは口実を設けて私を追い出しました。これは陛下が宗廟・社稷の計を立てたいと思っていても、大臣らはそうではないということです。私は大臣らが私の意見に触れたがらないわけを考えていましたが、恐らく実行しても陛下が途中で心変わりするのではと思っているのでしょう。心変わりによる弊害は一死(范鎮の死)に過ぎませんが、太子が立てられなければ、万一天文が告げる急な争乱があったとき、死してなお罪があり、私の献じた計をなそうにもすでに実際の役に立ちません。私の上疏を大臣らにお示しになり、彼らに自らの死に場所を選ばせるようお願いいたします。」
これを聞いた者は震え上がった。
兼侍御史知雑事(1)に除せられたが、范鎮は建言が聞き入れられなかったために固辞した。これについて文彦博は、「あなたの行動には批判が向けられている。あなたの建言を実行するのは難しいですぞ。」と言った。范鎮は答えた。「事はその是非を論じることにあり、その難易を問うことにはない。みな今日に先日のことを非難するが、後日に今日のことを非難すべきでなかったことを分かっていようか。」
范鎮は帝に三度対面して建議を述べ、泣き崩れた。帝もまた泣いて、「朕はそなたの忠実さを心得ている。そなたの言はもっともだ。あと二、三年待たれよ。」と言った。范鎮は前後十九回にわたって上奏し、百余日間待命し、鬚と髪は白くなった。朝廷は范鎮の意志は変えられないと考え、知諫院を罷免し、糾察在京刑獄(2)に改めた。
(1)侍御史知雑事 御史台の副長官。
(2)糾察在京刑獄 京師の諸監獄(御史台獄以外にも他の官庁管轄の監獄があった)の過失、刑罰の濫用を糾す官。
3
并州通判・司馬光が太子を立てるよう建言し、范鎮にも死を賭して主張するよう勧めていた。翰林学士・欧陽脩は上言した。
「陛下は帝位にあること三十余年になりますが、太子をいまだ立てられておりません。これは久しく太子を立てないのが常道となっているということであります。漢の文帝が即位したとき、群臣は太子を立てるよう勧めました。群臣は自らを疑うこともせずに勧め、文帝も群臣に二心があるなどと疑うこともありませんでした。後唐の明宗は人が太子のことを言うのをたいへん嫌がりました。しかし、文帝が太子を立てた後は、在位の期間が非常に長く、漢の太宗となりました。明宗は太子を早くに定めなかったため、秦王が帝位簒奪を企てて大禍に陥り、後唐は乱れました。陛下は何を疑って久しく太子を立てられないのですか?」
殿中侍御史・包拯、呂景初、張抃、知制誥・呉奎、劉敞らがみな上疏して立太子を強く勧めた。宰相・文彦博、富弼、王尭臣らも相次いで早急に大計を定めるよう勧めたが、帝は聞き入れなかった。
4
三年(1058)六月、韓琦を同平章事とした。
群臣はみな太子を立てるよう勧めていたが、帝は躊躇して決断しなかった。韓琦が宰相になると、折を見て言った。
「太子は天下の安危を繋ぐものです。昔から動乱が起こったのは、いずれも策を早くに定めなかったことによります。陛下はなぜ宗室の中の賢い者を選び、宗廟・社稷の計としようとされないのですか?」
帝は言った。
「後宮でもうすぐ子を産む者がいるのだ。暫し待て。」
暫くすると女子が生まれた。韓琦は『漢書』孔光(1)伝を懐に忍ばせ、これを献上し、「成帝には世継ぎがなく、弟の子を立てました。彼は中庸な君主でしたが、このような決断ができたのです。ましてや陛下ではありませんか。どうか太祖の心を自分の心となさってください。さすればできないことなどありません。」と言ったが、帝は答えなかった。
(1)前漢の人。成帝に世継ぎがなく、弟の中山王と甥の定陶王のどちらかを選ぶこととなったとき、他の者が定陶王を支持するなか、ひとり中山王を支持した。
5
包拯を御史中丞とした。包拯は言った。
「太子が長らく立てられておらず、天下はこれを憂えています。万物には根本があるものですが、太子は天下の根本であります。根本が立たなければ、災いが大きくなることでしょう。」
帝は言った。
「そちは誰を立てたいのだ?」
「私は非才にして今の地位にありますが、あらかじめ太子を立てるようお願いしているのは、ひとえに宗廟を万世にわたって続かせるためであります。陛下は誰を立てたいかを私に訊かれましたが、それは私を疑っているということです。私は齢七十にして子がありませんので、晩年の幸福を望むことはありません。」
「ゆっくりとこのことを話し合わねばな。」
帝は喜んで言った。
6
四年(1059)十一月、汝南王・趙允譲が亡くなり、濮王を追封された。
趙允譲は実直な性格で、内に寛大で外に厳粛であり、喜怒を顔に出すことがなく、知大宗正寺(1)を二十年間務めた。宗室の子で学問を好む者があれば、これを奨励して称賛した。教えに従わなければこれを戒め、それでも変わらなければその罪を正した。このため、みな恐れて従った。
亡くなると安懿と諡された。その子趙宗実が宮中で養われていたため、官爵を追贈した。
(1)知大宗正寺 諸王の子孫の訓育、宗室に関する政令を司る官。
7
六年(1061)六月、司馬光を知諫院とした。
司馬光は入対して最初に言った。
「私が以前并州通判であったころに申し上げた三つの上奏について、陛下が果断に実行されるようお願いします。」
帝は暫く沈思してから言った。
「宗室の者を選んで世継ぎにしたいということか?忠臣としての言だ。みなこのことに触れたがらんのだ。」
「これを言うときは死ぬ覚悟でおりましたが、意図せずして陛下は私の意見を受け入れられました。」
「それに何の害がある?古くからみなそうしてきたのだ。」
8
十月十三日、父の後継として趙宗実を知宗正寺とした。
帝が三人の王を亡くすと至和中から病にかかり、宮殿に行くこともできず、みな心配になり、臣下らは太子を立てて国の根本を固めるよう盛んに言いだし、包拯・范鎮が最も痛切に訴えた。五、六年を経ても躊躇して太子を立てず、意見を言っていた者たちも何も言わなくなっていた。先年、韓琦が初めて宰相となったとき、折を見てこのことを言い、懐に孔光伝を忍ばせて献上したが、帝は答えなかった。また、曽公亮・張昪・欧陽脩がこのことを直言した。
ここに至り、司馬光は上疏した。
「以前私は太子を立てるよう進言いたしましたが、それはすぐに実行していただきたいという意味でした。今は静かではありますが、そのうち小人どもは言うでしょう、『陛下は壮年であらせられるのに、何を焦って不吉なことを言いだすのですか。』と。小人どもに深い考えはなく、いざというときに意のままになる者を太子に立てようとしたがっているだけです。『定策国老』・『門生天子』(1)の禍については、わざわざ述べるまでもありません。」
(1)定策国老・門生天子 唐の敬宗から宣宗にかけて、皇帝の廃立が宦官によって決められ、皇帝が門下のように扱われたこと。宦官の楊復恭らは定策国老と自称した。
帝はたいへん感じ入り、「中書に送れ。」と言った。
司馬光は韓琦らに、「あなた方が今議論することなく、他日禁中にて夜半に寸紙を出して誰かを世継ぎとすれば、天下は事を誤らずに済みますぞ。」と言った。韓琦らは拱手して、「そこまではしませんぞ!」と言った。
知江州・呂誨もこれについて上疏した。韓琦が入対すると、司馬光・呂誨二人の上疏を読み上げた。帝は遂に言った。
「朕も長らくそうしたいと思っていた。誰か適切な者はおるか?」
韓琦は恐縮して言った。
「これは私ごときが決めることではありません。自らご聖断ください。」
「宮中に二人の子を養っている。小さい方は純真だが、聡いとは言えん。大きい方ならばよかろう。」
韓琦がその名を問うと、帝は言った。
「宗実だ。」
韓琦らはこれを強く褒め称え、立太子の議論はようやく決着を見た。
趙宗実は従順な性格で、読書を好み、酒に溺れるなど軽率なところがなく、服装や馬車も質素でさながら儒者のようであった。濮王の喪にあったとき、その後を継いで知宗正寺となった。
韓琦は「これを実行するのであれば途中でやめてはなりません。陛下は断じて自らの決断を疑うことなく、宮中に立太子の許可を出されますように。」と言った。帝は心中宮中の人に知られたくないと思っており、「中書に行わせれば済むことだ。」と言った。立太子の命が下ったが、趙宗実は固辞し、喪が明けるまで待ってほしいと申し出た。帝はこれを韓琦に下問すると、韓琦は答えた。
「陛下は宗実様の聡明さを知って太子に選ばれましたが、宗実様は無理に応じることをしませんでした。器量と見識が遠大であり、聡明であることの証です。確固として宗実様を立てられることです。」
「分かった。」
十八の上奏があった後、立太子を許可した。
9
七年(1062)八月五日、趙宗実を皇子とし、名を曙と賜った。
10
九月一日、皇子趙曙に鉅鹿郡公を進封した。
趙宗実の喪が明けると、韓琦は「宗正の命が出されたとき、みな必ず皇子になるであろうと思っていました。宗実様の名を改めるのがよろしいでしょう。」と言った。帝はこれに従った。
韓琦は中書に入ると、翰林学士・王珪に詔を起草させた。王珪は、「これは大事です。対面で直接ご命令を受け取らねばなりません。」と言った。翌日、王珪は請対(皇帝の下問に答えるのを求めること)して言った。
「海内は久しく立太子を望んでおります。これは陛下自らのご意思によるものですか?」
「朕の意は決している。」
王珪は再拝して祝い、退いて詔を起草した。欧陽脩はこれを聞いて、「王珪は真の学士だ。」と嘆じた。
詔が下ると、趙宗実はまた病と称して固辞し、上奏十余が献上された。記室(1)・周孟陽がそのわけを尋ねると、趙宗実は言った。
「福を求めず、災いを避けるのだ。」
周孟陽は言った。
「もう立太子のことは形を伴って進んでいるのです。もし固辞して命をお受けしないのであれば、宦官が別の者を奉戴し、安心できなくなりますぞ。」
趙宗実はようやく事態を理解した。
(1)記室 記室参軍。書簡・上奏文を起草する官。従八品。
司馬光は帝に言った。
「皇子は莫大な富を辞して一月になります。聡明さが卓越しておられます。ですが、父としての呼び出しに応じずとも、君命として呼び出せばすぐにもおいでになるでしょう。ここは臣子の大義をもって咎め、宮殿に入らせるのがよろしいかと存じます。」
帝はこれに従い、趙宗実はようやく命を受けた。
趙宗実が宮殿に入ろうというとき、側近らを戒めて、「心してわが居所を守れ。帝に嫡子が生まれれば、私はここへ帰って来る。」と言った。そして輿に乗って帝のもとへ赴いた。見送る良民・賎民は三十人に満たず、行李は簡素で書物が数箱あるのみだった。みな祝賀し合った。
11
八年(1063)春二月十一日、帝が病に倒れた。
二十六日、中書・枢密が福寧殿の西閣で政事を上聞した。
12
三月二十九日、帝が福寧殿で崩御した。享年五十四。
遺詔には皇子が皇帝の位につき、墳墓については極力倹約するようにとあった。皇后は門の鍵をすべて集めてその前に置き、明け方、皇子を呼び出して帝位を継がせようとした。皇子は驚き、またも「曙は位を継ぎませぬ!」と言って踵を返したが、韓琦らが脇を抱えて引きとめた。
13
夏四月一日、皇子が即位した。
三年の喪に服し、韓琦を冢宰(1)にしようとしたが、宰相らが反対し取りやめとなった。
(1)冢宰 周の六官の長で、天子を補佐し、百官を統御する。
14
四日、帝が病にかかった。
五日、皇后を皇太后とした。
八日、詔を下し、皇太后に一時共同で軍事と国政を処理するよう求めた。
皇太后は内東門の小殿に行って御簾を垂らし、宰相らが政事を上聞した。皇太后は慈愛があり倹約に努め、経書・史書を渉猟し、それらを援用して政事を裁決した。みな上奏すること日に数十に及んだが、その一つ一つの大要を記憶しており、疑問があって裁決しかねるときは「あなた方がさらに議論しなさい。」と言い、自分の意見を言ったことがなかった。曹氏(皇太后)と側近らは少しの仮借もなかったので、宮殿と省庁は厳粛な空気に包まれた。
15
二十九日、高氏を皇后とした。皇后は、侍中(1)・高瓊の曽孫であり、母の曹氏は太后(皇太后)の姉であった。それゆえ幼少の頃から宮中に育てられ、帝と同年に生まれ、ともに太后のもとで育てられた。仁宗は「後に必ずやこの二人を夫婦としよう。」と言っていた。成長すると宮殿を出て濮王の屋敷(趙宗実のこと)に嫁ぎ、京兆郡君に封じられ、三子を産んだ。
ここに至り、皇后とした。
(1)侍中 宰相に与えられる官名。官位と俸禄を表すための形式的な官名。
16
秋七月、帝の病が癒えた。
帝の病は重く、その挙動は常軌を逸し、宦者への待遇も冷たくなった。側近らは不愉快になってみなで悪口を言ったため、帝と太后(皇太后)の仲が悪くなり、みな恐れを抱いた。知諫院・呂誨が帝と太后に上書した。それは大義を述べ、言葉は真摯なもので、多くの人が言いづらい内容に触れていた。だが、帝と太后はいまだ釈然としなかった。
ある日、韓琦・欧陽脩が御簾の前で上奏していると、太后が嗚咽して涙を流し、そのわけを話した。韓琦は言った。
「それは病であるからに過ぎません。病が治ればこのようなことはなくなります。子の病を、母が受け入れられないというのですか?」
太后の気持ちはまだ落ち着かなかった。欧陽脩が進み出て言った。
「太后が先帝にお仕えすること数十年、仁徳を天下に表されました。昔、温成様(張皇后)が先帝の寵愛を受けていたのを、太后は寛大な心で受け入れられました。しかし今、母子の離間が生じるのは受け入れられないというのですか?」
太后はやや気持ちが落ち着いた。欧陽脩はまた言った。
「先帝は長らく在位され、恩恵を人に施しました。それゆえ、ある日帝がお隠れになれば、天下は太子を奉戴することに反対しません。ですが今、太后は一婦人にして、我々は五、六の書生であるに過ぎません。(太后が実権を握っても)先帝のご意思ではなく、天下の誰が聴き従うでしょうか?」
太后は長く押し黙った。韓琦が進み出て言った。
「我々が朝廷の外にあって(太后が韓琦らを朝廷から追い出して)帝が補佐する者を失うようなことになれば、太后はその責めを免れませんぞ。」
太后は驚いた。
「何を言うのです!余計辛くなりましたよ!」
そばで聞いている者で、冷や汗を流さない者はなかった。
数日後、韓琦は帝に謁見した。帝は言った。
「太后が私に対して冷たいのだ。」
韓琦は答えた。
「古より聖帝明王は孝行を欠かすことがありませんでした。舜のみを大孝と称え、その他はすべて不孝だということがありましょうか?父母が子を慈しみ、子が親に孝行するのは通常のことであって、わざわざ言うようなことではありません。しかし、父母が子を慈しまないのに、子が親に孝行するのは称えるべきことです。陛下の太后への孝行がいまだ不十分なだけのことです。父母が子を慈しまないなどということがあるでしょうか?」
帝は大いに感じ入り、事態を悟った。
17
帝は六月から御殿に赴いていなかったが、この月十三日になって、ようやく紫宸殿に赴き、百官に見えた。韓琦は輿に乗って雨乞いをするよう求め、白装束で出かけた。人々は大いに安堵した。
18
冬十月二十七日、仁宗を永昭陵に葬った。
19
十二月二日、経筵(1)が開かれた。
翰林学士・劉敞が『史記』を進読し、尭が舜に天下を授ける件に入ると、拱手(2)して言った。
「舜は卑賎の出身であったが、尭は位を譲り、天地がこれを受け、百姓がこれを戴き、他の方法を誤りとし、ただ孝友の徳が上下を照らすのみであった。」
帝は畏まって感動し、太后もこれを聞いて大いに喜んだ。二人のわだかまりはなくなっていった。
(1)経筵 経書・史書について講義・議論する席。翰林学士が講官を務め、輪読する。
(2)拱手 両手を合わせて敬意を表すこと。
20
英宗治平元年(1064)夏五月、帝の病が快癒した。
韓琦は太后に御簾を取り払い、政権を帝に返還してもらおうと考え、十余の上奏を帝に報告した。帝の裁決はすべて適切であった。
韓琦が太后のもとに行きこのことを報告すると、太后は一つ一つについて褒め称えた。韓琦が政務をとっていた宮殿を去るよう太后に求めると、太后は言った。
「宰相はここを去ることはできません。私は後宮奥深くにいるのみです。毎日ここに居たのはやむを得なかっただけのことです。」
「前代の皇后で、聡明であった馬皇后(1)・鄧皇后(2)も権力への執着を免れませんでした。太后は速やかに帝に政権を返還され、馬・鄧皇后の及ぶところではありません。いつ御簾を取り払うおつもりか、まだ決めかねておられるようですが?」
太后は遂に立ち上がった。韓琦はすぐに御簾を取り払うよう命じた。御簾が落ちると、なおも屏風の陰に太后の衣服が見えた。
帝が親政を開始すると、韓琦に尚書右僕射(3)を与えた。
(1)馬皇后 後漢・明帝の皇后。政治に介入することなく、外戚の力を押さえこんだが、前漢の時代に反乱を起こした馬何羅のことを『漢書』に記載しないよう、班固に頼んだ。班固はこれを断ったものの、『漢書』には馬何羅を莽何羅と記していることが多く、馬皇后との関係を隠蔽しようとしたのではないかと言われている。
(2)鄧皇后 後漢・和帝の皇后。和帝の死後、殤帝(しょうてい)・安帝の摂政を務めた。安帝が28歳のときに亡くなるまで摂政を辞めておらず、韓琦はそのことを言っているのであろう。
(3)尚書右僕射 職務実態を伴わない官名。従二品。
<呂中は言う。国家が疑いの心に満ちているとき、大臣が任にあたるに必要なのは、一に徳望、二に才智である。才智があっても徳望なくして国家を安定させようとすれば、天下の心を服せしめることができない。徳望あっても才智なくしてこの任にあてれば、天下の事を処理することができない。ゆえに、「以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨んで奪うべからず。(みなしごの若君を預けることができ、国家の政令を任せることができ、大事にあたってもその志を奪うことができない。)」(『論語』泰伯第八 6)というのである。
韓魏公は慶歴・嘉祐のときから大事を任せるに足り、周勃のように重厚で、その徳望は人心を長らく従えることができた。適切に対処しなければならない事態にあたって、胸中に秘めた才智もまた天下を運営するに足り、英宗の治世の初めを正しく導くものであった。真宗の初めに呂端があり、仁宗の初めに王曽があり、彼らはみな国家社稷を安定させた名臣である。>
21
二十一日、皇太后の宮殿の名を慈寿とした。
22
秋八月、内侍都知・任守忠が蘄州(1)に流された。
章献太后が政務をとっていたとき、任守忠は都知・江徳明らと交友があり、太后への謁見を願い出た結果、過分に寵愛されて宣政使(2)入内都知に昇進した。
仁宗がまだ世継ぎを決めておらず、帝を太子に立てようとしたとき、任守忠は暗愚で貧弱な者を擁立するよう建議して暴利を貪ろうとした。帝が即位すると、今度は帝の病に乗じ帝と曹太后を離間させた。知諫院・司馬光は任守忠の離間の罪を論じて国の大賊とし、市中にて斬罪に処すよう要請した。呂誨も上疏してこれを論じ、帝はその言を受け入れた。
翌日、韓琦は何も書いていない勅書を一本取り出し、欧陽脩が既にこれに署名していたが、趙槩がこれを非難した。欧陽脩は、「構わずこれに署名されよ。韓公にはきっと何か考えがあるのだ。」と言った。韓琦が政事堂に着座すると、任守忠を中庭に呼び、「汝の罪は死に値する。」と言った。そして彼を蘄州安置に処し、空白の勅書を取り出してこれに文字を書いて任守忠に渡し、即日蘄州に送った。韓琦は処分を軽減すれば更生するものと考えたのである。任守忠の仲間の史昭錫らもことごとく南方に流され、みな気分がすっきりした。
(1)蘄州 湖北省蘄春県。
(2)宣政使 職務実態を伴わない官名。
23
二年(1065)春二月、三司使・蔡襄を罷免した。
帝が濮王の屋敷で皇子となったとき、近臣のなかに異議を唱える者がいると聞き、みな蔡襄を疑った。帝が即位すると、蔡襄がどのような者かたびたび尋ねた。韓琦らは弁護したが、帝は許さなかった。蔡襄は辞職を申し出て、知杭州(1)に出された。
(1)杭州 浙江省杭州市。
24
秋七月、富弼が辞職した。
嘉祐中、韓琦と富弼はともに宰相の職にあり、中書に解決の難航している案件があれば、往々にして枢密と相談していた。富弼が枢密使となってから、帝の命令により中書と枢密が合議する案件以外、韓琦は富弼に相談したことがなく、富弼は不愉快であった。
太后が帝に政権を返還すると、富弼はたいへんに驚き、「弼は補佐の任にあるというのに、軍事以外のことに関してまったく内情を知ることもできない。これは韓公は私と政務について相談したくないということだ!」と言った。あるときこのことで韓琦を咎めると、韓琦は言った。「それは以前の太后のご意向によるものだ。みなにはっきりと言えることではない。」富弼はますます不愉快になった。
帝が親政を始めると、富弼に戸部尚書を与えたが、富弼はこれを断って言った。
「この詔には私が嘉祐中に世継ぎを立てて恩恵を施すよう建議したことが書かれていますが、これは糸髪の労というもので、賞するに足りません。仁宗・太后は陛下に多大な恩恵を与えられましたが、いまだそれに報いたとは聞き及びません。順序が逆でございます。」
これを再度申し入れたが帝は聞き入れず、この官職を受け入れた。
ここに至り、足の病を理由に政務を引退することを強く求め、二十回余り上奏し、ようやく使相(1)鄭国公として判揚州(2)に赴いた。ほどなくして判汝州(3)に移った。
(1)使相 親王・中書令・宰相が兼任またはその前任者に与えられる官名で、地方に赴くものの実際の職務には関わらない。
(2)揚州 江蘇省揚州市。
(3)汝州 河南省梁県。
25
文彦博を枢密使とした。
文彦博は河南から帝に謁見した。帝は言った。
「朕が即位できたのは、そちのおかげだ。」
文彦博は恐れ入って答えた。
「陛下が帝位を継がれたのは、先帝のご意思と皇太后のご協力によるものです。私に何の功績がありましょう。そのとき私は地方におり、韓琦らが仁宗のご聖志を承り、遺詔を受け取ったのです。私は何の関わりもありません。」
そして身を横に避けて向かい合おうとしなかった。帝は言った。
「そちにはしばらく西の方へ行ってもらう。すぐに呼び戻すだろう。」
文彦博は判永興軍(陝西省)に改められ、ほどなくして呼び戻された。