巻53 復燕雲

Last-modified: 2023-09-22 (金) 20:42:54

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徽宗(きそう)政和元年(1111)九月、端明殿学士・鄭允中(ていいんちゅう)と宦者・童貫を遼に遣わした。

童貫は西羌(せいきょう)での作戦がうまくいくと、遼も思い通りになるだろうと考え、遼に使者を送り様子をうかがうよう要請した。そして鄭允中を遼の主の誕生日を祝う使者とし、童貫がその補佐となった。ある人が言った。
「宦官を副使とするなど、国に人がいないのですか?」
帝は言った。
「契丹は童貫が羌を破ったと聞き、これを一目見たいと思っている。ならば童貫に契丹の様子をうかがわせるのはよい策であろう。」
これを受け使者の派遣が行われた。

2


冬十月、童貫は遼の李良嗣(りりょうし)が来朝させ、これを秘書丞(ひしょじょう)(1)とし、姓を趙と賜った。

(えん)(河北省北京市)の人・馬植はもと遼の豪族であり、光禄卿(こうろくけい)まで昇進したが、品行が悪く家族内でもめ事を抱えており、周囲の人となじまなかった。童貫が遼へ使いに行き盧溝(ろこう)を通ったとき、馬植は夜に童貫の従者を見かけて燕を滅ぼす策があると持ちかけ、童貫に会うことができた。童貫は馬植と語り合うと大変素晴らしく思い、ともに馬車に乗って帰り、姓名を李良嗣と変えさせて朝廷に推薦した。

馬植は献策した。
「女真は骨髄に徹するほど遼の人を恨み、天祚帝(てんそてい)は逸楽にふけって道を失っています。本朝が登州(2)(らい)(3)から海を渡り女真と通好し、ともに遼を攻めることを約定するならば、遼を思い通りに御することができます。」
これに反対する者が言った。
「祖先以来、女真に通じる道がありますが、かの地は諸蛮族と接しており、商人や船が通ることができない状態が百年余り続いています。一旦この道が開かれれば、中国の利益に反するのではないかと思われます。」
これは聞き入れなかった。帝が馬植を引見して質問すると、馬植は答えた。
「遼国は必ず滅びます。陛下が民の塗炭の苦しみを思い、中国の以前の領域を取り戻そうとし、天に代わって譴責(けんせき)し、治によって乱を討ち、帝の軍を一たび出撃させれば、壺に入った水が迎えに来る(成果が得られる)ことでしょう。万一女真の思い通りになったとすれば、同じようには行きません。」
帝は褒めてこれを受け入れ、姓を趙氏とし、秘書丞とした。

燕奪還の論議がここから始まった。

(1)秘書丞 秘書省(図書を管理する官署)の属官。従七品。
(2)登州 山東省蓬莱(ほうらい)区。
(3)莱州 山東省莱州市。

3


重和元年(1118)二月(1)、武義大夫(2)・馬政を使者として海を渡らせ金に送り、遼を挟撃することを約定した。

これ以前、建隆(960~962)中、女真は自国の蘇州(3)から海を渡って登州に行き馬を売っていたが、この交易路がまだ残っていた。

ここに至り、漢人の高薬師という者が海を渡ってやって来て、女真が建国してたびたび遼軍を破っていると言った。知登州事・王師中がこれを報告した。蔡京・童貫に議論させ、王師中に人を募り高薬師とともに馬を交易しに女真に行かせたが、到着できず帰ってきた。帝は再び童貫に使者を選ばせ、馬政を高薬師とともに海から金に行かせた。馬政は金の主に言った。
「主上は貴朝が契丹の城五十余りを破ったと聞き、通好してともに契丹を討伐しようと考えています。もしお許しいただけるなら、後ほど使者を送り話し合ってください。」
これより金との通好が始まった。

(1)重和元年二月 重和は十一月から始まるため、正確には政和八年二月。
(2)武義大夫 職務実態を伴わない官名の一。正七品。
(3)蘇州 遼寧省旅大市の北東。

4


宣和元年(1119)春正月、金の主は粘没喝(ネメガ)と話し合い、渤海(ぼっかい)の人・李善慶、女真の散覩(さんと)に国書と北珠(真珠の名品)、砂金を持たせ、馬政とともに朝廷に来て修好した。蔡京らに遼を挟撃する意思を伝えさせた。李善慶らはうなずくのみだった。

十余日後、馬政と趙有開に詔と礼物を持たせ、李善慶らと海を渡らせ返礼の使者とした。登州に着いたところで趙有開が死んだ。このとき間者が、遼はすでに金の主を帝に封じたと伝えた。そのため馬政に金に行かないよう命じ、平海軍校・呼慶を李善慶のもとに送り、金に帰らせるにとどめた。金の主は呼慶を宋に帰らせることにし、言った。
「私は遼のいくつかの路を取った。お前は帰って皇帝に会い、通好したがっているようならすぐに国書を見せろ。詔を用いるようなら決して従うことはできない。」

これ以前、高麗の者が来て医者を求めた。帝は二人の医者を高麗に行かせた。ここに至り、医者が帰り上奏した。
「高麗の客舎の医者は大変勤勉で、日夜彼らを呼んで用兵・布陣・防衛の方法を監督させています。そして、『宋の天子は女真とともに契丹を討とうとしていると聞く。だが、契丹があれば中国が辺境を防ぐのに有利ではないか。女真は虎狼であり交わってはならぬ。早急にこれに備えたほうがよい。』と言っております。」
帝はこれを聞いて苦々しく思った。

5


安尭臣(あんぎょうしん)は上言した。
「陛下は治世の初めに直言を求めました。そのため直言の士が忠義を尽くしましたが、佞人(ねいじん)が陛下の判断を誤らせ、彼らに誣告(ぶこく)の罪を加え、陛下に諫言(かんげん)を拒んだ(そし)りを負わせました。ゆえに近年天下は口をふさぎ、直言を避けるようになりました。最近は宦官が権臣と結託してともに北伐を唱えていますが、宰相以下誰一人陛下のために意見を言う者がおりません。燕・雲(山西省大同市)で戦役が起これば辺境の戦端が開かれ、宦官の権力が強くなれば朝廷の綱紀が緩んでしまいます。

昔、秦の始皇帝が長城を築き、漢の武帝が西域に通じ、隋の煬帝(ようだい)が遼東(高句麗)遠征の軍を興し、唐の玄宗が幽州・(けい)(1)を攻略しましたが、その失敗は周知の通りです。周の宣王が玁狁(けんいん)(少数民族の名)を討ち、漢の文帝が北辺に備え、元帝が賈捐之(かえんし)の建議を受け入れ(2)、光武帝が臧宮(ぞうきゅう)・馬武の(はかりごと)を退けましたが(3)、その成功は周知の通りです。

(1)薊州 河北省薊県。
(2)元帝が… 南越の朱厓郡で反乱が頻発しており、軍の派遣が議論されていたが、賈捐之はこれをやめるよう建議した。
(3)光武帝が… 臧宮・馬武は匈奴の討伐を進言したが、光武帝はこれを退けた。

太祖は乱世を平定して悪を正し、自ら鎧を身につけました。当時の将軍と宰相らは、みなともに天下を取った者たちであり、その勇敢さと知力をもってすれば燕を下すことができるでしょう。しかし、わずかな地を契丹と争い、わが民を戦乱に苦しませることに堪えられなかったでしょう。章聖(真宗)の澶淵(せんえん)の役では、契丹と戦って勝ち、講和を許し、国の基礎を固め民を休ませようとしました。

今、童貫が蔡京と結託し、趙良嗣(ちょうりょうし)を謀主とし、燕の平定を建議しています。いつの日か外患にさらされ、辺境に外国が乗ずる隙があり、狼が牙を研いで隙をうかがい、その欲望を遂げるのではないかと恐れています。これこそ私が日夜心配していることであります。

伏して望みまするに、ここは祖先の積み上げた苦労に思いを致し、歴代の君臣の得失に鑑み、辺境の隙を塞ぎ、旧来からの通好を守り、夷狄(いてき)に中国の隙をうかがわせないようにし、上は宗廟を安らがせ、下は民を慰められるようお願いいたします。」

帝はこれに賛同し、言路が久しく塞がれており、賞与を与えてこれを開くべきだと言い、安尭臣を承務郎(3)とした。しかし、後に奸人(かんじん)の謀が通ることになった。

(3)承務郎 職務実態を伴わない官名の一。

6


二年(1120)二月四日、趙良嗣(ちょうりょうし)を金に遣わした。

これ以前、呼慶が金から帰り、金の主の言葉を伝え、国書を携え、別に使者を送り通好するよう要請した。このとき童貫は密かに燕を奪取する命令を受けており、右文殿修撰・趙良嗣を使者に送るよう建議した。そして馬の交易を名目とし、実際には遼を攻めて燕雲の地を取ることを約定した。

7


八月、金人が遼の攻撃と歳幣について話し合いに来て、馬政を返礼の使者とした。

これ以前、趙良嗣(ちょうりょうし)が金の主に言った。
「燕はもと漢の地です。遼を挟撃しようというならば、金が中京(ちゅうけい)大定府(1)を、宋が燕京析津府(せきしんふ)(北京市)を取ることにしたく思います。」
金の主はこれを許し、歳幣について話し合った。

金の主は直筆の書簡を趙良嗣に渡し、金兵が平地松林(2)から古北口(3)に行き、宋兵が白溝から挟撃することとし、そうでなければこの約定には従わないとした。そして勃菫(ぼっきん)(部族長)を趙良嗣とともに送り、この言葉を伝えさせた。

帝は馬政を返礼の使者とし、国書に書いた。
「大宋皇帝が大金皇帝に国書を送る。遠くから書簡を受け取り、特に親書を渡された。契丹を討つことになり、使者を行かせて約定するものであり、すでに童貫に出兵の準備をさせて相応じさせている。両国の兵は一定の程度を越えてはならず、歳幣の数は遼と同じとする。」
そして契丹との講和は許さないと約定した。

(1)中京大定府 遼寧省建平県の西。
(2)平地松林 内蒙古自治区ヘシグテン旗一帯の地域。
(3)古北口 河北省古北口鎮。

8


四年(1122)三月、金の人が来て遼の挟撃を約定した。童貫を河北・河東路宣撫使(せんぶし)とし、辺境に屯田してこれに応じさせた。

これ以前、熙河鈐轄(きかけんかつ)・趙隆がこの作戦はうまくいかないであろうと直言した。童貫は言った。
「君がこの作戦をともにやり遂げれば、格別な待遇を受けられるだろう。」
趙隆は言った。
「私は軍人だ。賞与欲しさに祖先以来二百年の通好を損なうものか!争いの種をまくようなことがあれば、万死をもってしても謝罪するに足りぬ。」
童貫は不愉快になった。鄭居中(ていきょちゅう)もこの作戦をやめるよう力説し、蔡京に言った。
「あなたは大臣として両国の盟約を守ることができず、紛争を起こそうとしている。朝廷の戦略とは言えない。」
「陛下が五十万の歳幣を忌々しく思われているが故だ。」
「あなたは漢が代々夷狄(いてき)と通好したことと用兵の費用について考えようとしないのか?あなたは百万の民に辛酸をなめさせようとしているのだ。」
これより作戦についての議論は中断した。

金がたびたび遼を破ると、童貫は再び出兵を要請した。鄭居中はまた言った。
「相手の不幸を幸いにして動くのではなく、自ら倒れるのを待つのです。」
このとき(ぼく)(1)の乱(方臘(ほうろう)の乱)がようやく平定され、帝もまた平定のために戦ったことを悔いた。王黼(おうほ)はひとり言った。
「中国と遼は兄弟の国とはいえ、百余年間かの国の辺境の開拓はわが方を侮るものでした。弱き者を併合し、愚かな者を攻めるのは戦いの法則です。今燕・雲を取らなければ女真の力が強くなり、中原の故地はわが方に返ってこなくなります。」
帝は意を決して出兵の準備を整えた。

王黼は三省に経撫房(けいぶぼう)を置き、枢密院は関係させないようにした。天下の男子を集めて人数を数え、銭六千二百万(びん)を充当した。王黼は童貫に書信を送った。
「太師が北へ行かれるなら、どうか死力を尽くして欲しい。」

耶律淳(やりつじゅん)の自立が伝わると、童貫に兵十五万を北辺に巡回させて金に呼応し、燕を帰服させようとした。蔡攸(さいゆう)がこれを補佐した。そして三つの策を童貫に授けた。
「燕の人が喜んで同地を献上し、旧領を回復するのは上策、耶律淳が帰服して藩を称するのは次策、燕の人が帰服せず、兵を辺境に巡回させるのは下策である。」

(1)睦州 浙江省建徳市の東。

9


中書舎人・宇文虚中が上奏した。
「私が聞き及ぶに用兵の策とは、先に強弱虚実を調べ、彼を知り己を知って万全を期するものであります。今、資財の多寡を論じ、宣撫司(せんぶし)が蓄えているものを指して資財に余裕があると言っても、辺境の諸郡の庫は空で食糧が続かない状態であり、これを無視して問題にしておりません。士卒の強弱を論じ、宣撫司が駐屯させている兵を指して精鋭であると言っても、辺境の諸郡が兵士を訓練せず、軍備が欠けており、これを無視して話題にしておりません。

そもそも辺境に敵に応じるための備えがなく、軍府に数日分の食糧もなければ、孫子・呉子が蘇ったとしても出撃することができません。これはわが方にいまだ万全の策がないということです。用兵の道とは、攻める者を防ぐのは簡単で、人を攻めるのは難しく、城を守るのは簡単で、城を攻めるのは難しいものです。守る方は内にあり、攻める方は外にあり、内にある方は主となって楽であり、外にある方は客となって苦労します。楽な方は安全であり、苦労する方は危険です。今、宣撫司には約六万の兵がありますが、辺境のそれは数千に過ぎません。

契丹の九大王・耶律淳(やりつじゅん)は知略を備え、兵の人望があり、国主も彼に委任して信じて疑いません。速やかに燕城に兵を進めようとするならば、契丹に西山(1)から少数の兵でわが方の糧道を断たせ、営州(2)・平州(3)から多数の兵でわが方の(とりで)を押さえさせるのです。わが方の糧道が断たれれば、耶律淳はみなを激励して城にこもるでしょう。さすればわが方も危機に瀕します。しかし、これはかの方に必勝の兆しがないということです。わが方に万全の策がなくとも、かの方も勝つことができません。このことは安危存亡に関わることであり、軽視すべきではありません。また、中国と契丹が講和して百年経ちましたが、契丹に貪欲さがあっても関南十県を得ようとしたに過ぎません。傲慢さがあっても中国に対しやや礼節を欠いたに過ぎません。

(1)西山 河北省延慶区の北にある山。
(2)営州 河北省昌黎(しょうれい)県。
(3)平州 河北省盧龍(ろりょう)県。

契丹は女真の侵略があってから本朝を慕い、恭順しております。今、恭順している契丹を捨て置き、手助けしてわが方の藩とせず、遠く海を越えて精悍(せいかん)な女真を引き寄せて隣国にしようとしています。かの国は百勝の勢いに乗じて驕慢(きょうまん)になっており、礼儀で帰服させることはできず、言葉で諭すことはできません。

女真は中国と契丹が兵を率いてやまず、激しく戦って和せず、勝負が決せず、強弱が分かれていない情勢を見て、卞荘(べんそう)の両闘の説(4)を唱え、兵を率いて古北口を越え、凶暴な兵たちが契丹の君臣を捕らえ、北方の砂漠に盤踞(ばんきょ)し、貪欲な心はとどまることなく、辺境を越えて中国を侵そうとしています。

(4)卞荘の両闘の説 卞荘は春秋・魯の大夫。二頭の虎を争わせ、勝ち残った方を殺せば一挙両得になると説いた。

百年怠けていた兵で新鋭の難敵に当たり、謀計もなく安穏と過ごしてきた将で血肉の争いをすれば、(はかりごと)の巧拙に差が出、勢いの勇怯(ゆうきょう)に差が出ることでしょう。中国の辺境は、いまだ安寧のときを迎えておりません。

例えば、とある富豪に万金の財産があり、寒門の士と隣同士であったとします。富豪は寒門の士の住居を併呑しようと、強盗を誘って、『あいつの家はお前が半分住め。あいつの財産はお前がすべて取れ。』と言い、強盗はこれに従ったとします。そして寒門の士がいなくなれば、万金の富があったとしても、日々隣の強盗にうかがわれることになり、夜に枕を高くして眠ることができるでしょうか?これは確かな例えと思われます。

ここはどうか、陛下が祖先の創業の辛苦と隣国との百年の通好に思いを致し、私にこの上奏文を下し、百官に議論させてください。私の言を採用すべきとお思いなら、詔を下して将を罷免して朝廷に帰らせ、辺境での紛争を増やすことなく、中国の衣冠礼儀の風俗により長い太平をもたらしていただくようお願いします。さすれば天下の幸甚であります。」
この上奏文が三省に送られると、王黼(おうほ)はこれを読んで大いに怒り、他事にかこつけて宇文虚中を集英殿修撰とし、戦の準備を急いだ。北辺の事案は収拾がつかなくなった。

10


五月十八日、蔡攸(さいゆう)を河北・河東宣撫(せんぶ)副使とし、童貫とともに出兵の準備をさせた。

蔡攸は愚かで軍事に習熟しておらず、手柄を立てるなどたやすいと言っていた。帝に別れを告げるとき、二人の美しい宮女が帝のそばに居るのを見て、蔡攸は言った。
「成功して帰ってきたら、こちらの宮女を褒美にもらいたく存じます。」
帝は笑って叱ることもなかった。

11


二十三日、童貫は高陽関(1)に到着すると、知雄州(2)和詵(かしん)の策を用い、黄色い立て札と旗を立て、民を弔い罪を討つ意を述べ、こう書いた。
「燕京を献上する豪傑があれば、節度使とする。」
そして都統・种師道(ちゅうしどう)に諸将を率いて兵を進ませた。种師道は(いさ)めた。
「今日の挙兵は盗人が隣家に入るのを止めようとせず、これに乗じてその部屋を分けるようなものであり、道理に反するのではないでしょうか?」
童貫は聞き入れず、兵を二つの道に分け、种師道に東路の兵を統括して白溝に向かわせ、辛興宗に西路の兵を統括して范村(はんそん)に向かわせた。

(1)高陽関 河北省高陽県の東。
(2)雄州 河北省雄県。

二十六日、耶律淳(やりつじゅん)はこれを聞き、耶律大石・蕭幹(しょうかん)をやってこれを防がせた。种師道は白溝に駐屯した。遼の人は騒ぎ立てながら前に進み、种師道の前軍統制・楊可世(ようかせい)蘭溝甸(らんこうでん)で破り、多くの士卒が負傷した。种師道は各人に大きな棍棒(こんぼう)を持って防がせ、幸いにも大敗することはなかった。

三十日、辛興宗も范村で敗北した。

12


六月二日、种師道(ちゅうしどう)は雄州に退却したが、遼の人は城下まで追撃してきた。

帝は敗北の知らせを聞いて恐ろしくなり、軍を呼び戻すことにした。

遼の使者が来て言った。
「女真が本朝に背くのは、南朝(中国)の憎むところでもあります。今、一時の利を求めて百年の(よしみ)を捨て、豺狼(さいろう)の隣人と手を結んで他日の災いのもとをつくり、それを計と言っておりますが、それでよいのでしょうか?隣国を救い、古今の(よしみ)を通ずるべきです。大国だけにそれができるのです。」
童貫は答えることができなかった。

种師道も講和の許可を求めたが、童貫は受け入れず、种師道を利敵行為のかどで弾劾した。王黼(おうほ)は怒り、种師道に右衛将軍(降格の際に与える官職)を与えて引退させた。

13


秋七月、王黼(おうほ)耶律淳(やりつじゅん)が死んだと聞き、童貫・蔡攸(さいゆう)に出兵の準備を命じ、河陽三城節度使・劉延慶を都統制とした。

14


九月二日、朝散郎(1)・宋昭を除名した。

宋昭は直言した。
「遼は攻めるべきではなく、金は隣人とすべきではありません。いつか金は必ず盟約を破り、中国の害となるでしょう。王黼(おうほ)・童貫・趙良嗣(ちょうりょうし)らを処罰してください。」
また、こうも言った。
「両国の誓いを破る者は九族に災いが及びます。陛下は孝をもって天下を治めておられるのに、歴代の皇帝たちの霊を忘れることができるのですか?陛下は仁をもって天下に君臨しておられるのに、河北の民を塗炭の苦しみの中に置き、その肝脳を地に(まみ)れさせることができるのですか?」
王黼は大いにこれを憎み、宋昭を除名し、停職のうえ広南編管とした。

(1)朝散郎 職務実態を伴わない官名の一。

15


三日、金の人は童貫の挙兵を聞き、朝廷が燕を取って歳幣が得られなくなるのを恐れた。そこで徒孤且烏歇(とこしょうけつ)らを送り出兵の期日を話し合わせた。帝は趙良嗣(ちょうりょうし)を返礼の使者とし、初めの約定を破ることはないと言った。

16


二十三日、遼の将・郭薬師が涿(たく)(1)・易(2)二州をもって降伏した。

郭薬師は遼の常勝軍の統帥で涿州を守っていた。蕭后(しょうこう)が立ち、蕭幹が政治を執ったが遼の民は疑念を抱いた。郭薬師は部下に言った。
天祚帝(てんそてい)は国を失い、女が政治に関わるようになって綱紀が乱れている。宋の天子は多数の兵で国境に迫っている。ここは男子が金印を取る(宋に抜擢してもらう)べきときだ。」
そして擁している兵八千人が二州を捧げて降伏した。童貫はこれを受け取り、朝廷に報告した。郭薬師に恩州(3)観察使を与え、兵は劉延慶の隷下に所属させた。

(1)涿州 河北省涿州市。
(2)易州 河北省易県。
(3)恩州 河北省清河県。

17


冬十月、燕京を燕山府と改めた。涿(たく)・易等の八州にも新たな名を与えた。

18


八日、童貫は劉延慶・郭薬師に兵十万を率いて雄州を出撃させ、郭薬師を先導として白溝を渡らせた。

劉延慶の軍には紀律がなく、郭薬師は(いさ)めた。
「今、大軍が駐屯地を離れて備えがない。敵が伏兵を置いて攻撃してきたとき、わが軍の首尾が相応じなければ壊滅するだろう。」
劉延慶は聞き入れなかった。

良郷(1)に着くと、遼の蕭幹(しょうかん)が兵を率いて防ぎ、劉延慶がこれと戦って敗れ、(とりで)に閉じこもった。郭薬師は言った。
「蕭幹の兵は万人を超えることがなく、今全力でわが軍を防いでおり、燕山は空になっている。兵五千を貸してもらえれば、急いでこれを襲い、城を得ることができる。」
そして劉延慶の子劉光世を後続とするよう求めた。劉延慶はこれを許可し、大将・高世宣、楊可世(ようかせい)をやって郭薬師とともに兵六千を率いさせ、夜半に盧溝(ろこう)を渡り、急いで進んだ。

(1)良郷 河北省北京市の南西。

明け方、常勝軍の統帥・甄五臣(しんごしん)が五千騎を率いて迎春門を奪い、郭薬師らがこれに続いて到着し、人をやって蕭后に降伏するよう説いた。后はこれを蕭幹に知らせた。蕭幹は精鋭三千を率いて燕に帰り、市街戦となった。劉光世は約束を破って来ず、郭薬師は援軍が得られずに敗れ、楊可世は馬を捨てて縄を伝って城から脱出し、死傷者が過半に及び、高世宣が死んだ。

劉延慶は盧溝の南に駐屯していたが、蕭幹は兵を分遣して糧道を断ち、食糧を守る将の王淵(おうえん)と漢人兵士二人を捕らえ、目隠しをして営舎の中に置いた。夜半、遼の兵は偽って語り合った。
「わが軍の兵力は漢軍の三倍で、余裕をもって当たることができる。左右の翼に分かれて精鋭を漢軍の中ほどに突撃させ、左右の翼が呼応して火を上げたのを合図に、残らず殲滅(せんめつ)するのだ。」
そして密かに一人を逃がして帰らせた。劉延慶はこれを信じた。

明朝、火が上がったのを見て、劉延慶は敵が来ると思い込み、軍営を捨てて逃げた。踏み潰された士卒の死者は百余里に及び、蕭幹は涿水(たくすい)まで追撃して帰っていった。

熙寧(きねい)・元豊以来蓄えてきた軍備はほとんど尽き、雄州に退却した。燕の人は宋がなす術がなかったのを知ると、賦を作り詩を歌って風刺した。郭薬師が帰還すると、なおも安遠軍(2)承宣使を与えられた。

(2)安遠軍 湖北省安陸市。

19


十一月二十三日、金の人が来朝して燕の地について議論した。

20


十二月三日、趙良嗣(ちょうりょうし)を再び金に遣わした。

これ以前、朝廷が金と約定したとき、朝廷は石晋が契丹に割譲した故地だけを求めた。朝廷は平・営・(らん)(1)の三州は晋が割譲したものではないことを忘れていた。これは劉仁恭が援軍の見返りに契丹に献上したものだった。王黼(おうほ)がこれを悔い、三州も併せて手に入れようとしたが、金の主は納得しなかった。

趙良嗣が金に行くと、金の主は蒲家奴(ほかぬ)に出兵の期日を守らなかったと、趙良嗣を叱責させた。そして言った。
「改めて約定について論ずるまでもない。燕京の(けい)・景(2)(だん)(3)・順(4)涿(たく)・易の六州を与えるのみだ。」
趙良嗣は言った。
「約定には山前・山後十七州とあります。今そのようなことをおっしゃっては、信義はどこにあるのですか?」
何度も抗弁したが、金の人は従わなかった。趙良嗣は金の使者・李靖とともに帰朝したが、結局は山前六州のみの割譲が許された。

帝は再び趙良嗣を遣わし、営・平・灤の三州を求めた。

(1)灤州 河北省灤州市。
(2)景州 河北省遵化市。
(3)檀州 河北省密雲区。
(4)順州 河北省順義区。

21


五日、郭薬師に武泰節度使を与えた。

22


六日、金が遼の燕京を攻略した。

童貫は再度燕京を攻撃したが、攻略に成功しなかった。童貫は処罰されるのを恐れ、密かに王瓌(おうかい)を金に送り、遼を挟撃すること求めた。金の主は三つの道に分けて兵を進め、燕を攻略した。騎兵を送って趙良嗣(ちょうりょうし)を帰還させ、遼の捕虜を送ってきた。

23


五年(1123)春正月四日、金が使者を送り、趙良嗣(ちょうりょうし)は再び金に赴いた。

これ以前、趙良嗣は燕に行き、金の主と燕京・西京(せいけい)の地について話し合った。金の主は言った。
「宋が平・(らん)等の州を欲しいと言うならば、燕京も与えることはない。」
そして先のやり取りでの返書を趙良嗣に見せた。そこには、
「燕京は本朝(金)の兵力を用いて攻め取ったものであり、その租税は本朝に納められる。」
とあった。趙良嗣は言った。
「租税は土地に応じて納められるものです。土地を与えても租税を与えないなどということがあるでしょうか?」
ネメガは言った。
「燕京はわが方が自分の力で得たのだ。だからわが方に帰属する。引き渡さないのならば、涿(たく)州・易州にいる軍を速やかに撤収し、わが方の領域に残さないでもらいたい。」
そして李靖らを趙良嗣とともに来朝させた。

李靖が帝に謁見したとき、王黼(おうほ)と会った。王黼は李靖に言った。
「租税のことは約定に違反しています。しかし陛下は貴国と通好を望んでおり、銀と絹を与えようとしておられる。」
李靖は去年の分の歳幣を求めると、帝は特別にこれを許した。このため趙良嗣に李靖とともに金へ使者に赴くよう命じた。

24


七日、王安中を知燕山府とし、郭薬師を同知府事とした。

朝廷は金の人が燕を返すというので、長官を置いてこれを守ろうと考えた。左丞・王安中が同地に行くことを願い出、王黼(おうほ)が帝に推薦した。そこで王安中に慶遠軍節度使・河北河東燕山府路宣撫使(せんぶし)・知燕山府を授け、郭薬師を検校少保・同知府事とした。

郭薬師を朝廷に招いて厚く礼遇し、屋敷と(めかけ)を与え、水嬉(すいき)(水上での歌舞・雑技)を見せ、高官や大臣らが交互に宴を開いた。また、後苑の延春殿に呼んだ。郭薬師は広場で拝礼し、泣きながら言った。
「私は遼にいたとき、趙皇は天にいるかのように聞いていました。今日龍顔を見ることができるとは思いませんでした。」
帝は深くこれを褒め、燕を守るように言った。郭薬師は答えた。
「死力を尽くしたく存じます。」
また、天祚帝(てんそてい)を捕らえて燕の人の望みを絶つように言うと、郭薬師は血相を変えて言った。
「天祚帝はわが故主であります。国が滅んで逃げだしたので、私は宋に降ったのです。陛下が私を他のことに用いるならば拒みはしません。しかし、故主に背けと仰せであれば、陛下に仕える理由はありません。誰か他の者にお申し付けください。」
そして雨のように涙を流した。帝は忠義ある者と思い、身に着けていた珠袍(しゅほう)(真珠が縫い付けられた黄袍)を脱いで二枚の金盆とともに与えた。郭薬師が退出すると、部下たちに言った。
「これは私の功績ではない。お前たちの力によるものだ。」
そして金盆を切って分け与えた。

郭薬師に検校少傅(しょうふ)を与え、燕山府路を治めさせた。

25


三月六日、金に使者を派遣した。

これ以前、趙良嗣(ちょうりょうし)が燕に赴き、金の主に言った。
「本朝(宋)は大国(金)に従ってきました。平州・(らん)州の一件について、こちらの要求を受け入れてもらえないのですか?」
金の主は言った。
「平州・灤州は辺境の要地にしたく思っている。そちらに与えることはできない。」
話は租税のことに及んだ。金の主は言った。
「燕の租は六百万あるが、このうち百万だけを徴収しよう。でなくば、涿(たく)州・易州の旧領および常勝軍をわが方に返還し、わが方の兵が辺境の安定にあたることになる。」
趙良嗣は言った。
「本朝は自らの兵で涿州・易州を下したのです。今そのように言われていますが、貴国に善悪の区別はないのですか?」
そして御筆(皇帝の直接の命令)には金が租税十万から二十万を得るのを許すとあり、無断で増額することはできないと伝えた。金の主は趙良嗣を帰らせることとし、言い含めた。
「半月を過ぎても宋に帰らないならば、私が兵を引き連れてやって来るだろう。」
このとき左企弓はいつも金の主に詩を献上して言った。
「君王は燕を捨てることを許してはなりません。一寸の山河は一寸の金であります。」
ゆえに金人は約定に背こうと、自分の要求を通そうとしてやまなかった。

趙良嗣が帰途に就いたとき、金は遼の主が故地を回復しようと試みていることを知った。そこで盧溝(ろこう)の北の橋をすべて破壊し、営舎を焼いてこれを防ごうとした。

趙良嗣が雄州に着くと、金の国書を送って上奏した。その大略はこのようであった。
「貴朝の兵はうまく挟撃することができず、自分の力だけで燕を下した。だから税を取るのだ。今、燕の管内は毎年六百万貫の租があるが、趙良嗣らは御筆が許すのはこのうち二十万で、それ以上取ってはならないと言っている。平・灤等の州に限ることなく、それ以上の土地を求めるならば、信義は尽くしがたい。速やかに国境を越えた兵を戻されよ。」

王黼(おうほ)は功績を作ろうと思い、趙良嗣を雄州から再度使者に遣わし、遼に対する歳幣四十万のほか、毎年燕京の税銭百万(びん)を加え、国境の画定の話し合い、元旦と金の主の誕生日に使者を送って祝うこと、専売所を置いて交易することを許可させた。金の主は大いに喜び、銀朮可(ぎんじゅつか)らに誓書を持って来朝させ、燕京と六州の宋への帰属を許可した。しかし、山後諸州および西北一帯に連なる山川については許可しなかった。帝は意を曲げてこれに従い、盧益(ろえき)・趙良嗣らに誓書を持たせて金に送った。

趙良嗣らが涿州に着くと、金の谷神らが先に誓書を見て、字の形が雑であるから取り替えるように言った。盧益は言った。
「帝の親書は大国への崇敬を表しているのです。」
金の人は聞き入れなかった。このためともに汴京(べんけい)に戻り、何度も誓書を取り替えた。金の人はまた言った。
「近ごろ燕の人・趙温訊(ちょうおんじん)らが南朝に逃げました。これを先に返してから燕の地を引き渡す件について話し合うべきです。」
このため趙良嗣は宣撫司(せんぶし)に趙温訊を金に護送するよう伝えた。趙温訊の身柄が届けられると、ネメガは縄を解いて官に任用した。金人はまた食糧を求め、趙良嗣は二十万石を与えることを許可した。

26


夏四月十日、金人は楊璞(ようはく)を遣わし、誓書を持参し燕京・六州を宋に帰属させた。しかし、平・営・(らん)三州は石晋が契丹に与えたものではないことを理由に返還されなかった。

十七日、童貫・蔡攸(さいゆう)に燕に入り引き渡しの手続きを行わせた。燕の官僚・富裕層・金と絹・女子はみな金人の略奪によりなくなっており、空城があるのみだった。ネメガはなおも涿(たく)州・易州だけを割譲しようとしていた。金の主は言った。
「海上の盟(遼を挟撃する盟約)を忘れてはならない。私が死ねばお前がこれを執り行うのだ。」

二十二日、童貫らは、燕城の老人と子供はわれわれを歓迎し、香を()いて長寿を祝ったと報告した。

二十七日、帝は両河・燕・雲で特赦を行い、即日軍を帰還させた。

27


五月八日、王黼(おうほ)太傅(たいふ)鄭居中(ていきょちゅう)を太保とした。

十一日、童貫を徐予国公に封じ、蔡攸(さいゆう)を少師とした。

王黼は天下の財を傾けてわずかに空城七つを得ただけだったが、ここに至り百官を率いて祝賀した。燕・雲を回復したことにより、宰相らは昇進した。王黼に三省の統括を命じ、玉帯を与えた。趙良嗣を延康殿学士とした。鄭居中は功績がないと自ら言い、官職を受け取らなかった。

28


六月五日、遼の張瑴(ちょうかく)が平州を捧げて降伏した。

これ以前、遼の主は西山へ逃げた。平州の軍は反乱して節度使・蕭諦里(しょうていり)を殺した。張瑴は反乱を鎮静化し、州民は張瑴を領州事に推した。耶律淳(やりつじゅん)が死ぬと、張瑴は遼は必ず滅ぶであろうと思い、壮丁五万人、馬千匹を指揮下に入れて訓練し、備えとした。蕭徳妃は時立愛を送って平州を統治させようとしたが、張瑴は受け入れなかった。金人が燕京に入ると、康公弼(こうこうひつ)に張瑴の様子を尋ねた。康公弼は言った。
「張瑴は愚かで浅はかだ。何ができるというのだ。こちらが何も疑っていないことを示すべきだ。」
金人は張瑴に臨海軍節度を与え、平州を統治させた。

ネメガが平州を下して張瑴を捕らえようとすると、康公弼は言った。
「攻撃すれば反乱を促すことになります。」
康公弼は自ら張瑴の様子を見に行くことにした。張瑴は言った。
「契丹八路のうち、七路までが降りました。今は平州が存するのみです。背く意志などありましょうか?武装を解かないのは蕭幹を防ぐためです。」
そして康公弼に厚く賄賂を与えて帰した。康公弼が帰るとネメガに言った。
「かの者は憂慮するほどのものではありません。」
平州を南京(なんけい)に昇格させ、張瑴に試中書平章事、判留守事を与えた。

ここに至り、金は遼の宰相・左企弓、虞仲文(ぐちゅうぶん)、曹勇義、康公弼を、燕京の富豪とともに東に移した。燕の民は路傍に離散し、その苦しみに耐えられず、平州を過ぎたとき、城に入って張瑴に言った。
「左企弓は燕を守ることができず、わが民を離散させるに至りました。あなたは今要地にあって強大な兵力を握り、遼に忠義を尽くしてわれわれを郷土に帰らせようとしています。人心もまたあなただけを頼りにしているのです。」
張瑴が諸将を呼び出して話し合うと、みなは言った。
天祚帝(てんそてい)は勢力を盛り返し、砂漠の南方に出没しているとのことです。もしあなたに勤王の意志があり、天祚帝を迎えて遼の復興を図るというならば、まず左企弓らの降伏の罪を責めて処罰し、燕の民を帰してもとの生業に復帰させるのです。そして平州を宋に返せば、宋はこれを受け入れないはずがなく、平州は宋の藩鎮となるでしょう。後日金人は攻撃してくるでしょうが、内に平州の民を用い、外に宋人の助けを借りれば、何を恐れることがありましょう。」
張瑴は翰林(かんりん)学士・李石にも(はか)ったが、やはり賛成した。

張瑴は張謙に五百余騎を率いさせ、平州を守らせた。そして左企弓・虞仲文・曹勇義・康公弼を呼び出して灤河(らんが)西岸に行き、左企弓らの十の罪を数え上げ、全員(くび)り殺した。張瑴は保大三年を称し、天祚帝の肖像画を置いて朝晩これに謁見し、必ずこれに告げたうえで命令を実行し、遼の官名を用いた。立て札を立てて燕の人がもとの生業に帰ることを促し、常勝軍の所有となっていた財産を返還した。燕の民は故郷に帰ると大いに喜んだ。

李石は名を李安弼と改め、故三司使・高党とともに燕京に行き、王安中に言った。
「平州は険要の地であり、張瑴には練兵の才があり、金人を防ぎ、燕を安定させることができます。彼を帰服させれば、西は天祚帝を迎えることなく、北は蕭幹に合流することがありません。」
王安中はこれを受け入れ、李安弼を(べん)に招いてこれを朝廷に伝えさせた。帝は直筆の書信を同知燕山府・詹度(せんど)に渡し、張瑴を懐柔することにした。詹度は張瑴に帰服を促した。張瑴は張鈞(ちょうきん)張敦固(ちょうとんこ)に書状を持って来朝させ、降伏を願い出た。王黼(おうほ)はこれを受け入れるよう帝に勧めたが、趙良嗣(ちょうりょうし)(いさ)めた。
「国家は新たに金と同盟したのです。このようなことをすれば金との友好関係を失うことになり、後悔するでしょう。」
帝は聞き入れなかった。趙良嗣は五段階降格となった。

王安中と詹度に燕を厚く安撫(あんぶ)するよう命じ、三年間の免税措置を取った。張瑴はこれを聞き、自分の計は的を得ていたと言った。

29


秋七月、童貫が引退し、内侍・譚稹(たんしん)を両河燕山路宣撫使(せんぶし)とした。

童貫と蔡攸(さいゆう)が燕から帰ると、帝の彼らへの寵愛は失われていた。王黼(おうほ)梁師成(りょうしせい)は譚稹を童貫に代えて雲中(1)の地へ送るよう勧めた。譚稹は太原に到着すると、(さく)(2)・応(3)(うつ)(4)の諸州の降伏した民を集めて朔寧軍を編成した。

(1)雲中 山西省大同市。
(2)朔州 山西省朔州市。
(3)応州 山西省応県。
(4)蔚州 河北省蔚県。

30


八月、遼の蕭幹(しょうかん)が兵を率いて景・(けい)州を破り、燕を攻撃した。郭薬師がこれと戦って破り、蕭幹は逃げて死んだ。

これ以前、金の人が燕京を陥落させ、蕭幹は奚王府(けいおうふ)で自立して帝となり、国号を大奚とした。奚の人は飢えに苦しみ、蕭幹は盧龍嶺(ろりょうれい)に出て景州を攻め破った。また、常勝軍を石門鎮(1)で破り、薊州を陥落させて燕城を攻撃した。その鋭鋒は激しく、黄河を渡り京師を侵そうとする意図があった。人心は動揺し、燕を放棄しようとの意見が出た。

郭薬師がこの軍を大いに破ると、勝ちに乗じて追撃し、盧龍を過ぎたところでその大半を殺傷した。蕭幹は逃げたが部下に殺され、首が京師に送られた。郭薬師に太尉を与えた。

(1)石門鎮 薊州の東。

31


冬十月、平州を太寧軍とし、張瑴(ちょうかく)を節度使とした。

金人は張瑴が背いたことを知り、闍母(シェム)に三千騎で張瑴を攻撃させた。張瑴は営州でこれを防いだ。シェムは兵が少ないため矛を交わすことなく退いた。張瑴は大勝を喧伝(けんでん)した。朝廷は張瑴に節度使を与え、銀・絹数万を贈った。

32


十一月、金の斡離不(オリブ)が平州を攻撃し、包囲した。

金人はシェムが功なくして帰ると、オリブにシェムを監督させて再び平州を攻めた。このとき張瑴(ちょうかく)は朝廷の者が褒賞を持って平州に来ると聞き、喜んで遠くまで迎えに出た。オリブは張瑴が武装していないのに乗じて襲撃し、張瑴と平州城の東で戦った。張瑴は敗れ、夜に燕山に逃げ、王安中がこれを匿った。

平州都統・張忠嗣(ちょうちゅうし)張敦固(ちょうとんこ)が金に降伏した。金は使者を送り張敦固とともに城に入り、城中の民に帰服を説こうとしたが、城中の民は使者を殺し、張敦固を都統に立て、門を閉ざして固守した。

33


詔を下して張瑴(ちょうかく)を殺し、首を箱に入れて金に送った。

金の人は叛将(はんしょう)を受け入れたことに抗議して張瑴の首を求めた。朝廷は首を送りたがらなかったが、金の人はますます強く催促してきた。そこで王安中は張瑴に似ている者の首を斬って金に送った。金は首が張瑴ではないとわかると、兵を出して燕を攻撃しようとした。王安中は言った。
「どうしても張瑴の首を送らないのならば、戦争になります。」
朝廷はやむを得ず、王安中に張瑴を(くび)り殺させ、首を箱に入れ、張瑴の二子とともに金に送った。燕の降将と常勝軍の兵士はみな泣き崩れた。郭薬師は言った。
「金人が張瑴の首が欲しいと言えばそれを与えた。私の首を求められれば、やはりそうするのか!」
王安中は恐れおののき、知燕山府事の辞職を強く願い出た。このため蔡靖(さいせい)を知燕山府事とした。

これより降将らの人心は離散し、金がこれを機に戦端を開いた。

34


金人が武州(1)(さく)州を割譲した。

(1)武州 山西省神池県。

朝廷は山後諸州の割譲を金に求めていた。金の主・呉乞買(ウキマイ)が新たに立ち、これを許可しようとした。ネメガが雲中から来て金の主に言った。
「先帝は初め宋と協力して遼を攻めようとしました。だから燕の割譲を許したのです。宋人は盟約を結んだ後、歳幣を増額することを条件に山西諸鎮を求めました。先帝は歳幣を辞退し、宋と再び盟約し、『逃げた者を匿わず、辺境の民を苦しめないこと。』と取り決めました。しかし今、宋の数路は背いた者を招じ入れており、わが方がたびたびその者の姓名を知らせて身柄を求めていますが、童貫は送ろうとしません。盟約して一年も経たないのにこの有様です。万世の盟約など望むべくもありません。

また、西辺はいまだ安定せず、山西の諸郡を割譲すれば諸軍は根拠地を失い、戦を起こしても長続きしなくなります。割譲してはなりません。」
金の主は使者を遣わし、武・朔二州を割譲するにとどめた。

35


六年(1124)三月、金人は宣撫司(せんぶし)に使者を送り、趙良嗣(ちょうりょうし)が許可した食糧二十万石を求めた。譚稹(たんしん)は言った。
「二十万石など易々と与えられるものか!趙良嗣が口約束で許すと言っても、証拠とするわけにはいかぬ。」
食糧は供与されなかった。金人はこのため大いに怒った。

36


六月、金人は平州を攻略し、張敦固(ちょうとんこ)を捕らえて殺した。

37


燕・雲を回復して以来、京師・両河の民が租税に苦しんでいることにより、京西・淮南(わいなん)両浙(りょうせつ)・江南・荊湖(けいこ)・四川・閩広(びんこう)で免夫銭(1)を納めさせた。夫ごとに三十貫を課し、漕運(そううん)担当の者に監督させ、違反者は軍法に従い処罰した。また、宗室、帝の親族、宰相らの家および道観、寺院からも一律に免夫銭を徴収した。これにより天下からくまなく免夫銭を徴収したが、わずか二千万(びん)が得られたのみで、四海から恨みを買うことになった。

(1)免夫銭 黄河の護岸工事に必要な徭役夫の労働を金銭で代納したもの。

38


八月、譚稹(たんしん)が辞職し、再び童貫を領枢密院事(1)・両河燕山路宣撫使(せんぶし)とした。

これ以前、金人は拓跋(たくばつ)氏の故地雲中二千里を夏に与え、武・(さく)二州のみを宋に割譲した。

ここに至り、夏人は挙兵して武州・朔州を侵した。譚稹(たんしん)は兵を送ってこれを防ぎ、たびたび戦ったが、夏軍は容易に退かなかった。また、金人は朝廷が張瑴(ちょうかく)を受け入れたことから食糧を送らず、応州・(うつ)州を攻め、長官を追い出した。朝廷は譚稹の取った措置が法に反していたとして引退させ、童貫をこれに代えた。

このとき遼の主・耶律延禧(やりつえんき)夾山(きょうざん)(2)にいた。帝はこれを誘致しようと、ラマ僧を送って絹に書いた御筆を届けた。延禧が帰服を承諾すると、書状を詔に取り替え、皇帝の弟として礼遇し、燕・越二王の上に位を置き、千間の屋敷を建て、女の楽師三百人を与えることを許した。延禧は大いに喜んだ。

童貫のこの行いは、表面上は譚稹に代わり山後の土地を割譲したものだが、実際には延禧が降伏をすでに約束していたのであり、自らこれを迎えに行ったのであった。しかし、延禧は中国頼むに足らずとして、来ることはなかった。

(1)領枢密院事 徽宗朝における臨時の官職。知枢密院事に同じ。
(2)夾山 内蒙古自治区フフホト市の北西にある山。

39


この月、燕・雲を回復したことにより、天下に大赦を施した。

40


七年(1125)六月、童貫を広陽郡王に封じた。

神宗の遺訓に、
「燕全土を回復した者には、土地と王位を与える。」
とあることにより、帝は童貫を王に封じた。