巻66 平羣盗

Last-modified: 2024-04-05 (金) 15:35:48

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高宗建炎元年(1127)秋七月、都統制・王淵(おうえん)、劉光世、韓世忠、張浚(ちょうしゅん)に江・(わい)の群盗を討伐させた。

宣和末から群盗が蜂起していた。ここに至り、祝靖(しゅくせい)薛広(せっこう)・党忠・閻僅(えんきん)・王存といった者たちが帰服して行在(あんざい)に赴いた。李綱は言った。
「今日彼らの力を用いれば、銅馬・緑林・黄巾のようにすることができます。しかし、彼らの部下を他へ移さなければ容易に背き、移せば疑いを生じます。方策をもってこれを制し、これを悟らせないようにするのです。」
そして御営司に命じて群盗の部下たちを区分させ、帰営を願う兵士と帰業を願う農民はこれを許可し、帰営・帰業した者は数万に上った。その他の者は新法により組織し、諸将に所属させた。このため背く者はなくなった。

淮寧の杜用(とよう)、山東の李昱(りいく)、河北の丁順は兵数万を擁していた。洪州(1)黎駅(れいえき)(ぜん)(2)の魚台は敗残兵数千を擁して乱を起こした。李綱は彼らを帰服させれば恐れる必要はなく、勢力は平定されるとして、王淵らにこれらを討伐させた。ほどなくして劉光世が部将を派遣して李昱を斬り、王淵は杜用を殺し、丁順は河北招討司に行き帰順した。盗賊はこれよりやや衰えた。

(1)洪州 湖南省南昌市。
(2)単州 山東省単県。

2


八月一日、勝捷(しょうしょう)軍校・陳通が(こう)州で乱を起こし、帥臣・葉夢得を捕らえ、転運判官・呉昉(ごほう)らを殺した。次いで王淵(おうえん)に杭州制置盗賊使を兼任させ、陳通を討伐させた。

3


冬十月三十日、王淵は賊の趙万を誘い出し、これを誅殺した。

4


十一月、軍賊・張遇が池州(1)を落とした。

張遇はもと真定の軍校(補佐の軍官)であり、人々を集めて盗賊とし、淮西(わいせい)より長江を渡り、水陸から進んだ。

ここに至り、池州を侵し、城に入って略奪し、強壮な者に無理()いして軍を増やした。守臣・滕祐(とうゆう)は城を捨てて逃げた。

(1)池州 安徽省池州市。

5


軍賊・丁進が寿春府(1)を囲んだが、守臣・康允之(こういんし)がこれを退けた。

(1)寿春府 安徽省寿県。

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十二月、王淵(おうえん)は杭州の反乱兵・陳通らを討ち、これを誅殺した。

7


十一日、張遇が江州(1)を侵した。

(1)江州 江西省九江市。

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二十六日、丁進が宗沢のもとに行き降伏した。

9


二年(1128)春正月、東平軍校・孔彦舟(こうげんしゅう)は金兵が山東に向かおうとしているのを知り、兵を率いて住民を殺害し、家を焼き、財物を奪った。南に向かって淮河(わいが)を渡り、黄州(1)を侵したが、守臣・趙令𡷫(ちょうれいせい)がこれを退けた。

(1)黄州 湖北省黄岡(こうこう)市。

10


二十二日、流民兵や敗残兵で盗賊となった者は、その罪を許すこととした。

11


二十六日、王淵は張遇を帰服させ、兵万人を韓世忠に所属させた。

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五月二十六日、秀州(1)の兵卒・徐明らが乱を起こし、守臣・朱芾(しゅふつ)を捕らえ、前守・趙叔近を迎えて州事を管理させた。御営中軍・張俊にこれを討たせた。

(1)秀州 浙江省嘉興(かこう)市。

13


六月十日、建州(1)の兵卒・葉濃らが乱を起こし、福州(2)を侵した。

(1)建州 福建省建甌(けんおう)市。
(2)福州 福建省福州市。

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十二日、張俊は秀州に行き趙叔近を殺し、徐明を捕らえ、これを斬った。

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二十一日、葉濃が福州を落とした。

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秋七月二日、葉濃は寧徳県(1)に入り、建州に戻った。張俊に両浙(りょうせつ)提点刑獄・趙哲とともに兵を率いてこれを討伐させた。

(1)寧徳県 福建省寧徳市。

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八月、河北京東捉殺使・李成が背き、宿州(1)を侵した。江淮(こうわい)制置使・劉光世にこれを討伐させた。劉光世は光州(2)に入ると大いに李成の軍を破り、二万余人を帰服させた。李成は逃げた。

(1)宿州 安徽省宿州市。
(2)光州 河南省潢川(こうせん)県。

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九月、丁進が背き、淮西を攻めた。

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冬十月、楊進(ようしん)が背き、その軍は数万に上り、(じょ)(1)(らく)(2)の間を略奪した。翟進(てきしん)はこれを憂え、兄の翟興とともにこれを討とうとしたが、いまだ果たせずにいた。楊進は騎兵数百を送って洛水を断ち、翟進の軍営を侵した。翟進は楊進の騎兵が洛水を半分渡ったところを攻撃し、数十里追撃して鳴皐(めいこう)山まで行き、賊の四つの砦を破った。馬が驚いて塹壕(ざんごう)に落ち、賊に殺され、賊は勝ちに乗じて官軍を大いに破った。翟興を京西北路安撫(あんぶ)招討使とした。

劉正彦(りゅうせいげん)は丁進を攻撃し、これを降した。

(1)汝州 河南省臨汝鎮。
(2)洛州 河南省洛陽市。

20


十一月、浜州(1)の賊・蓋進が(てい)(2)を落とし、守臣・姜綱之(きょうこうし)が死んだ。

(1)浜州 山東省恵民県の東。
(2)棣州 山東省恵民県。

21


建州の賊・葉濃が降伏したが、再び変を起こそうと企んだ。張俊がこれを捕らえて斬った。

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呉玠(ごかい)史斌(しひん)を襲撃し、これを斬った。史斌は興元(1)を囲んだがうまくいかず、兵を率いて関中に向かった。義兵統領・張宗は史斌を誘い出して長安に帰り、これを討とうとした。曲端は張宗に怒り、呉玠を送って史斌を斬ろうとしたが、史斌が自ら張宗を襲ったため、これを殺した。

(1)興元 陝西省漢中市。

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三年(1129)春正月二十一日、張用・王善が背き、淮寧(わいねい)を攻めた。張用・王善は京西に留まり、数州に渡り、京西より光・寿州(1)まで千里の地に拠り、兵馬が連綿として断たず、食糧を強奪して至るところにはびこっていた。

(1)寿州 安徽省鳳台(ほうだい)県。

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二月、帝は直筆の詔を取り出し、盗賊をやめさせ民を安んずる要諦(ようてい)について、直学士・胡交修に下問した。胡交修は上奏した。
「昔の人は(こしき)に麦飯があり、(しょう)(寝台)に古い綿があり、張儀・蘇秦が説いても人を盗賊にすることはできないと言いました。ただ飢えと凍えになす術なく、日々死が迫っているときに限り、その身を盗賊に(おとし)めることを忍ぶのです。陛下が寛大な詔を下し、自新の道を開き、過酷な政治を禁じ、衣食の源を豊かにされれば、悔い改めた者はさらに反省の言を述べるようになり、歓呼して帰心することでしょう。悔い改めない者は少なくなってゆき、官吏と兵士に捕らえられて盗賊はなくなってゆきます。盗賊がなくなれば民を安んずることができます。

沃野(よくや)千里、その残りが盗賊のいる土地となっていますが、みなわが稲作の地であります。弓矢を操り、刀剣を帯び、牛を殺して墓を(あば)き、白昼に盗賊となっていますが、みなわが農田の民であります。陛下が安撫(あんぶ)してこれを納め、田地と家を返し、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)することなく、不肖の心を啓発し、適宜農耕させて生業を安定させれば、穀物と織物を用いることなく財が豊かになり、財が豊かであれば国を豊かにすることができます。

最近、翟興(てきこう)が西路の董平(とうへい)とともに南の楚に拠り、その土地の人々を組織して農民や兵とし、数年もせずに穀物が充実し、一方の雄とみなされています。盗賊でさえこのようなことができるのです。ましてや中興二百郡の地、強兵をもって敵の侵入を防ごうと思えば、翟興のような輩の思う通りにさせてはならないのです。」
天下の人々はこれを名言とした。

25


三月、盗賊・邵青(しょうせい)()(1)を略奪した。

邵青はもと五丈河の船頭であったが、やめて盗賊となり、兵を集めて楚(2)・泗州を略奪した。

(1)泗州 江蘇省盱眙(くい)市。
(2)楚州 江蘇省淮安市。

26


夏四月、盗賊・薛慶(せっけい)が高郵(1)に拠り兵数万を集めた。

張浚(ちょうしゅん)はこれがはびこるのを恐れ、帰服させに行くことを要請した。張浚は薛慶の砦に入ると、朝廷の恩を説いた。薛慶は感服して降った。張浚は薛慶の兵を慰撫(いぶ)した。

(1)高郵 江蘇省高郵市。

27


秋七月、山東の盗賊・郭仲威が淮揚(わいよう)軍を略奪した。

郭仲威はもと李成の一派であった。李成が先に()州におり、郭仲威が兵を率いて淮揚を囲み、四か月を経て城が陥落した。郭仲威は城に入ると大いに略奪し、強壮な者を軍に入れた。

28


冬十月、郭仲威が平江(1)の守臣・周望に降った。

李成は淮北を略奪して()州を陥れ、知州・耿堅(こうけん)を殺してその城に拠った。帝は詔を下してこれを諭し、李成に泗州を統治させた。李成はまた(じょ)(2)を陥れ、守臣・向子伋(きょうしきゅう)と属官がみな殺された。

(1)平江 江蘇省蘇州市。
(2)滁州 安徽省滁州市。

29


十一月、(わい)の盗賊・劉忠は初め兵を東京(とうけい)(開封)に集め、()(1)から湖南に入り、(じょ)(2)を落とした。通判・孫知微が死んだ。

(1)蘄州 湖北省蘄春県。
(2)舒州 安徽省潜山市。

30


京西制置使・程千秋が襄陽(じょうよう)(1)を攻め、大盗賊の曹端・桑仲を帰服させた。ほどなくして、桑仲に異心があるのではないかと疑い、曹端に命じてこれを討とうとした。曹端と程千秋の兵は桑仲に敗れ、程千秋は城を捨てて金州(2)から蜀に入り、桑仲は襄陽に拠った。京西は城を並べ、みな桑仲の領有となった。

(1)襄陽 湖北省襄樊(じょうはん)市。
(2)金州 陝西省安康市。

31


十二月、孔彦舟(こうげんしゅう)荊南(けいなん)を侵した。詔を下して降伏を説き、湖北捉殺使とした。

32


四年(1130)二月、金人が(たん)(1)を去ると、群盗が大いに蜂起した。(てい)(2)の人・鍾相(しょうそう)は妖術により人々を惑わし、忠義ある者を結集し、賊を防ぐとの名目で楚王を自称し、天載と改元した。(れい)(3)を攻撃してこれを落とした。

(1)潭州 湖南省長沙市。
(2)鼎州 湖南省常徳市。
(3)澧州 湖南省澧県。

33


李成が(じょ)州に入った。

34


三月、孔彦舟(こうげんしゅう)が盗賊・鍾相(しょうそう)とその子・鍾子昂(しょうしこう)を捕らえ、行在(あんざい)に護送して処刑した。その一派の楊太(ようたい)が龍陽で兵を集めた。

35


二十七日、 盗賊・戚方が広徳軍(1)を落とした。

これ以前、韓世忠が江陰に退くと、敗残兵の戚方らが鎮江(2)に向かい、知府・胡唐老の兵を脅かして進んだ。胡唐老は怒り罵って従わず、殺された。

(1)広徳軍 安徽省広徳市。
(2)鎮江 江蘇省鎮江市。

36


五月、翟興(てきこう)らを京湖・淮南(わいなん)諸路鎮撫(ちんぶ)使とし、分担統治させた。

このとき、京東・西、荊湖(けいこ)南・北、淮南諸路の盗賊が蜂起し、大きなもので数万人が州郡に拠り、朝廷は制することができなかった。范宗尹(はんそういん)は帝に言った。
「群盗はみな烏合の衆であります。急いで鎮圧しようとすれば死力を尽くして官軍を拒むでしょう。ここは土地を分けて統治させるのがよいでしょう。土地が盗賊に帰すれば順々に制することができます。」
帝はこれを褒め、翟興らを鎮撫使とし、土地を分け与えた。

翟興、河南府・孟・(じょ)・唐州。趙立、楚・()州・漣水(れんすい)軍。劉位、(じょ)(ごう)州。趙霖(ちょうりん)、和州・無為軍。李成、(じょ)()州。呉翊(ごよく)、光・黄州。李彦先(りげんせん)、海州・淮陽軍。薛慶(せっけい)、高郵・天長軍。

ほどなくしてまた与えた。陳規、徳安府・復州・漢陽軍。解潜、荊南府・帰・峡州・荊門・公安軍。程昌㝢(ていしょうう)(てい)(れい)州。陳求道、襄陽(じょうよう)府・(とう)・随・(えい)州。范之才(はんしさい)、金・均・房州。馮長寧(ふうちょうねい)、順昌府・蔡州。

軍が興ると便宜に従って処理することを許し、功績を立てさせ、世襲を許した。しかし、李成・薛慶といった輩は群盗から身を起こし、翟興・劉位は土豪であり、李彦先らはみな敗残の将であり、統率が取れておらず、急なことがあっても援軍を送らず、このため諸鎮は自衛することができなかった。ほどなくして陳求道と劉忠が戦い、没落した。また、孔彦舟を辰・(げん)(せい)州、郭仲威を真揚鎮撫使とした。

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六月十四日、岳飛が戚方を広徳で破った。

38


十六日、戚方が張俊に降伏した。

39


秋七月、建州の民・范汝為(はんじょい)が乱を起こした。このとき食糧が欠乏しており、従う民がたいへん多かった。州は兵を送って戦ったが敗れ、賊の勢いはますます盛んになった。統制・李捧(りほう)がこれを捕らえ、軍は大いに破れて逃げた。福建安撫(あんぶ)使・程邁(ていまい)に討伐させることにした。このとき、范汝為は建陽を破っており、神武副軍統制・辛企宗にこれを討伐するよう命じた。

40


冬十月、江東の賊・張琪(ちょうき)が建康府を侵した。(けん)(1)の賊・李敦仁(りとんじん)と弟の李世雄が石城県を破った。鍾相(しょうそう)・王善の余党・楊華(ようか)、祝友が乱を起こした。

(1)虔州 江西省(かん)州市。

41


十一月、王彦(おうげん)を金・均・房州鎮撫使とした。

このとき、各地で盗賊が蜂起し、加えて飢饉(ききん)が起こり、食糧が欠乏していた。蜀だけは豊かであり、盗賊は往々にして狙っていた。桑仲は均・房州を落とすと勢いに乗じて金州の白土関を攻撃し、兵は三十万を号した。桑仲は王彦の元部下であり、書簡により王彦に求めた。
「桑仲はあなたに危害を加えるつもりはありません。道を借りて蜀に入り、食糧にありつきたいだけです。」
王彦は統領・閔立(びんりつ)を先鋒として桑仲を攻めた。賊の勢いは強く、閔立は戦死し、将士は色を失った。ある人がこれを避けるように言うと、王彦は叱った。
「宰相張公はいま関中・陝西(せんせい)で戦っている。もし桑仲が金州を越えて梁州(1)・洋州(2)に入れば腹背に敵を受けることになり、大事が去ってしまう。避けろと言う者は斬る!」
そして兵を率いて長沙平に向かい、川を挟んで山に拠り、伏兵を置いて待ち構えた。桑仲は官軍の数が少ないのを見て蟻が群がるようにして戦った。王彦は旗を手に取り、兵は死闘し、桑仲は敗走した。王彦は兵を休ませてから進撃し、白磧(はくせき)まで追撃し、房州を回復した。

(1)梁州 陝西省漢中市。
(2)洋州 陝西省洋県。

42


紹興元年(1131)春正月、孔彦舟(こうげんしゅう)は武陵(1)に拠り、張用は(じょう)・漢に拠り、李成は江・淮・湖・湘十余郡に拠り、兵を連ねること数万、東南を席巻する意があり、預言書をつくって内外を幻惑し、長らく江州を囲んでいた。朝廷はこれを憂え、張俊を招討使、岳飛を補佐とした。

(1)武陵 湖北省常徳市。

43


李成は江州を落とし、ほどなくして(いん)(1)を落とした。

(1)筠州 江西省高安市。

44


三月、張俊は李成が馬進を率いて筠州にいると聞き、予章(1)が江・筠州の間に介在するため、同地に向かった。城に入ると喜んで言った。
「すでに洪州を得た。賊を破るのは決まったようなものだ。」
馬進が洪州を侵すと西山に営塁を連ね、張俊は存分に兵を集めた。ひと月余り対陣し、馬進は大きな書状に挑戦状を書き、張俊は小さな書状でこれに答え、馬進は張俊に恐れをなした。張俊は賊の備えに隙があるのを知ると、戦いをしかけるよう提案した。岳飛は言った。
「賊は貪欲で後のことを考えていません。騎兵をやって上流から生米渡を断ち、その不意を突けば必ず破ることができるでしょう。」
そして自ら先鋒になることを願い出た。張俊は大いに喜び、楊沂中(ようぎちゅう)に生米渡を断たせた。岳飛は鎧を重ねて馬を躍らせ、密かに賊の右側に出て陣を突き、兵がこれに続いた。馬進は大敗し、筠州に逃げた。岳飛が東城に着くと馬進は城を出て陣を敷いた。岳飛は伏兵を置いて、赤い布を旗とし、「岳」の字を縫いつけ、騎兵二百を選び、旗に従って前進させた。馬進は岳飛の兵の数が少ないのを見て軽視し、これに迫ったが、伏兵が立ち上がると馬進は大いに敗走した。岳飛は人をやって呼びかけた。
「賊に従わないならば留まれ。お前たちを殺すつもりはない。」
留まって降った者は八万人に及んだ。張俊と楊沂中は前後から挟撃し、賊は壊滅し、馬進は残りの兵を引き連れ南康に逃れた。岳飛は夜に兵を率いて朱家山に着き、賊将・趙万を斬った。

李成は馬進が敗れたと聞き、自ら兵十余万を率いて襲来した。岳飛は楼子荘でこれに遭遇したが、大いにこれを破り、追撃して馬進を斬り、筠州を回復した。李成は十万の兵をもって張俊と川を挟んで営塁を築いた。楊沂中は夜に声を立てず川を渡り、張俊とともに挟撃した。李成は大いに敗れ、張俊は勝ちに乗じて江州まで追撃した。李成は進退窮まり、長江を渡って()州へ逃げ、偽斉に降った。

しばらくすると、興国軍(2)などの群盗もみな逃げた。

(1)予章 江西省南昌市。
(2)興国軍 湖北省陽新県。

45


五月、劉光世は都統制・王徳に揚州(1)を襲撃させ、郭仲威を捕らえ、行在(あんざい)に送りこれを斬った。郭仲威が淮南(わいなん)に拠って劉予と通じようとしたためであった。

(1)揚州 江蘇省揚州市。

46


十六日、水軍統制・邵青(しょうせい)が背き、太平州(1)を包囲したが、劉光世が帰服させた。

(1)太平州 安徽省当塗県。

47


張俊は兵を率いて長江を渡り、李成を追撃して()州黄梅県まで行き、これを大いに破り、数万の兵が壊滅した。李成は北へ逃げ、劉予に降った。

48


張用が江西を攻撃した。

岳飛は張用と同じく相州(1)の出身であり、書簡により諭した。
「私はお前と同郷の者だ。戦おうというのなら出てこい。戦わないのならば降れ。」
張用は書簡を受け取ると、兵を率いて降った。江・(わい)はことごとく平定され、張俊は岳飛を功績第一と上奏した。岳飛を右軍都統制に昇進させた。洪州に駐屯し、盗賊を鎮圧した。

(1)相州 河北省安陽市。

49


六月、邵青(しょうせい)が再び背き、江陰の福山を侵した。海州鎮撫使・李彦進(りげんしん)、中軍統制・耿進(こうしん)に水軍を率いさせ、劉光世とともにこれを討伐させた。

50


冬十月、邵青は兵を崇明沙に集め、江陰を侵そうとした。劉光世は王徳にこれを討伐させた。

王徳は旗を取って兵を指揮し、柵を抜いて砦に入り、邵青の軍は壊滅した。翌日、残りの兵が挑発してきた。間者が賊将が火牛を用いようとしていると言うと、王徳は笑った。
「古いやり方だ。一度やれば二度は通じない。」
そして軍を合流させて満を持するよう命じた。互いの陣が交わると、万の矢が一斉に放たれ、牛が反対の方向に走り、賊は皆殺しになった。邵青は自らを縛って命令を待ち、王徳は行在(あんざい)に献上し、残りの兵もすべて平定された。

51


十二月、盗賊・曹成が道州(1)を落とした。

曹成は初め漢陽(2)(がく)(3)を落として(ゆう)県にいたが、湖東安撫・向子諲(しょうしいん)がこれを帰服させ、曹成は命令に従った。向子諲は兵を派遣して衡陽(4)を押さえ、これを取ろうとしたが援軍が来なかった。曹成は向子諲が自分を押さえようとしていることに怒り、兵を擁して南に向かい、官軍はことごとく壊滅した。曹成は大いに略奪し、向子諲を捕らえて去っていった。

(1)道州 湖南省道県。
(2)漢陽 湖北省武漢市付近。
(3)鄂州 湖北省武漢市付近。
(4)衡陽 湖南省衡陽市。

52


二年(1132)春正月九日、韓世忠は范汝為(はんじょい)が建州に入ったと聞き、言った。
「建州は(びん)の山の上流にある。賊が流れに沿って下れば、七郡はみな殺戮(さつりく)にあうだろう。」
そして速やかに歩兵三万を率いて水陸から並進し、鳳凰山に着いた。五日間でこれを破り、范汝為は自焚(じふん)して死に、二人の弟・范岳、范吉を斬って見せしめとし、謀主・謝嚮(しゃきょう)施逵(せき)と副将・陸必強ら五百余人を捕らえた。韓世忠は建州の民をことごとく処刑しようとしたが、李綱が福州から駆けつけて韓世忠に会い、言った。
「建州の民の多くに罪はない。」
韓世忠は兵を城に駐留させ、民がもとの職に戻るのを許し、農民には牛と穀物を与え、商人に対しては徴税を緩め、脅されて従った者は釈放し、自ら賊に従った者のみを処刑した。民は感服して更生し、家に韓世忠の(ほこら)を立てた。

勝報が伝わると帝は言った。
(いにしえ)の名将といえど、どうやってこれに加えるべきであろう。」
韓世忠は江西・湖広の盗賊の討伐に向かった。

53


二月八日、李綱を湖広宣撫使(せんぶし)とし、岳飛らとともに曹成を討伐させた。

54


十五日、降伏した盗賊の崔増(さいぞう)李捧(りほう)邵青(しょうせい)・趙延寿・李振・単徳忠・徐文の兵を七つに分け、「御前忠鋭軍」の名を与え、歩軍司に所属させ、枢密院が帝の命令を受け取ったとき以外派遣を許さないこととした。

55


閏四月、曹成は十余万の兵を擁し、江西から湖・湘を通り、道・賀(1)二州に拠った。

(1)賀州 広西壮族自治区賀州市。

岳飛を権知(たん)州に命じ、権荊湖(けいこ)東路安撫(あんぶ)総管を兼任させ、金字牌・黄旗を与えて曹成を帰順させることにした。曹成は岳飛が来ると聞くと驚き、
「岳家軍が来るぞ!」
と言って逃げた。岳飛は賀州まで追うと力戦して大いに破った。曹成は桂嶺(けいれい)から北蔵嶺まで砦を置いて隘路(あいろ)を押さえ、十余万の兵で蓬頭嶺(ほうとうれい)を守った。

十六日、岳飛ら八千人は桂嶺に登り、曹成を破った。曹成は連州(2)に逃げた。岳飛は部将・張憲、徐慶、王貴に言った。
「曹成の兵は散り散りになった。追ってこれを殺せば脅されて従った者が哀れだ。しかし、これをそのままにすれば再び集まって盗賊となる。今、お前たちに頭目を殺して兵を慰撫することとしよう。みだりに殺さず、保民の仁をもって臨め。」
ここにおいて、張憲は賀・連州、徐慶は(しょう)・道州、王貴は(ちん)・桂州から二万人を帰順させ、連州で岳飛と合流し、兵を進めて曹成を追った。曹成は邵州(3)に逃げた。

(2)連州 広東省連州市。
(3)邵州 湖南省邵陽市。

56


五月、韓世忠は曹成を招き、これを降伏させた。

韓世忠は范汝為(はんじょい)を平定すると、軍を永嘉(1)に戻して休息するかのようであったが、すぐに処(2)・信州(3)から予章に行き、川辺に営塁を数十里にわたって築いた。群盗は韓世忠が来るのを恐れなかったが、大いに驚いた。韓世忠は董旼(とうびん)に曹成を招かせた。曹成は岳飛に追いつかれ、兵とともに降った。戦士八万を得て行在(あんざい)に護送した。

(1)永嘉 浙江省永嘉県。
(2)処州 浙江省麗水市。
(3)信州 江西省上饒(じょうじょう)市。

57


六月、孔彦舟(こうげんしゅう)が背き、劉予に降った。

孔彦舟は横暴を働き、朝廷は兵を送って捕らえようとしたが、兵を率いて背いた。

58
九月、韓世忠は劉忠を蘄陽(きよう)で大いに破った。

韓世忠は軍を予章から長沙に移した。劉忠は兵数万を擁して白面山に拠り、砦が立ち並んでいた。韓世忠が来ると賊と対峙し、碁を打って酒を飲み、微動だにせず、みな今後の予測がつかなかった。

ある夜、蘇格とともに騎兵を連ねて賊の砦に突入した。斥候が問い詰めたが、韓世忠はあらかじめ賊軍の号令を知っており、号令するとみなこれに応じ、一巡して砦を出た。韓世忠は喜んで言った。
「これは天のたまものだ。」
そして夜に精鋭二千を山の下に伏せ、諸将とともに砦を攻撃して進んだ。賊は応戦したが、伏兵が賊の中軍に入り込み、望楼を奪い、旗と傘を立て、雷のように声を張り上げた。賊は振り返り、驚いて壊乱した。韓世忠は将士を率いて挟撃し、大いにこれを破った。劉忠は逃げ、劉予に降った。

59


十一月十七日、李綱・劉洪道・程昌㝢(ていしょうう)・解潜に兵を合流して荊湖(けいこ)の賊を討伐させた。

李綱が(たん)州に着くと、湖南の流民・敗残兵・群衆で盗賊となった者が数万人いた。李綱はことごとくこれを平らげた。

60


王彦(おうげん)は金州を守り、たびたび功績を立てて蜀を守っていた。桑仲が死ぬと、大盗賊の王闢(おうへき)董貴(とうき)祁守忠(きしゅちゅう)らが兵を頼みに蜀をうかがっていた。王彦はこれらを攻撃して平らげた。

61


三年(1133)夏四月、統制・王𤫉(おうしょう)に兵を合わせて楊太(ようたい)を討伐させた。

このとき、楊太の勢いは日々盛んであり、大聖天王と自称した。鍾相(しょうそう)の子・鍾子儀を太子に立て、楊太以下みなこれに仕えた。楊太はまたの名を(よう)といった。楚の人が年少の者を幺と言ったからである。

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六月二十六日、岳飛が(けん)州から凱旋した。

このとき、虔・吉州の盗賊は兵を率いて循・梅・広・恵・英・(しょう)・南雄・南安・建昌・邵武(しょうぶ)(てい)の諸州を略奪しており、帝は岳飛にこれを平定するよう命じた。岳飛が虔州に到着すると、固石洞の賊・彭友(ほうゆう)が兵を率いて雩都(うと)(1)で迎え撃った。馬を躍らせ突撃し、岳飛は兵を指揮して馬上で彭友を捕らえた。残った者たちは固石洞に退いた。洞穴は険しい場所にあって水が巡っており、一つの道からだけ入ることができた。岳飛は山の下に騎兵を並べ、みなに満を持するよう命じた。明け方、決死隊に山を登らせた。賊は算を乱し、山を捨てて下った。騎兵がこれを囲むと賊は叫んで命乞いをした。

(1)雩都 江西省于都県。

これ以前、帝は隆祐太后が動揺しているため、虔州城の賊を皆殺しにするよう、密かに岳飛に命じた。岳飛は頭目を処刑して脅されて従った者たちを許すよう求め、帝はこれを許した。虔州の人はその徳に感じ入り、岳飛の肖像画を描いて(ほこら)を立てた。岳飛が帝に謁見すると、帝は自ら「精忠岳飛」の字を書き、旗を作って与えた。

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冬十月、李成は(じょう)(とう)州を攻撃し、李横は荊南(けいなん)に向かった。李成は京西六郡を落とした。

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四年(1134)五月一日、岳飛を兼荊南(けいなん)制置使とした。

このとき、楊太(ようたい)が劉予と通じ、川の流れに従って下ろうとしていた。李成が襄陽(じょうよう)に拠ると、江西から浙江(せっこう)に向かい楊太と合流しようとした。帝はこのため岳飛に備えを命じた。朱勝非は言った。
「襄陽は国の上流であり、急いで取らねばなりません。」
岳飛も上奏した。
「襄陽等六郡は中原を回復する根本であり、先に六郡を取って心身の病を取り除くべきです。李成が遠くに逃げれば湖・湘に兵を送り、群盗を根絶やしにするのです。」
帝がこのことを趙鼎(ちょうてい)に話すと、趙鼎は言った。
「上流の利害を制御する上で岳飛の右に出る者はないでしょう。」
このため上記の命令が下った。

岳飛が長江を渡っているとき、川の中ほどで幕僚らに言った。
「飛が賊を捕らえなければ長江を渡ることもできない。」

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秋七月、岳飛が襄陽等六郡を回復した。

これ以前、岳飛が(えい)(1)に着くと、偽斉の将・京超が「万人敵」と号して城を守り、岳飛の軍勢を拒んだ。岳飛が太鼓を叩いて兵を城に登らせると、京超は崖から身を投げて死んだ。岳飛は郢州を回復すると襄陽に向かった。

(1)郢州 湖北省鍾祥(しょうしょう)市。

李成が迎え撃ち、左は襄江に臨んだ。岳飛は笑って言った。
「歩兵は険阻な地形を利とし、騎兵は平坦な地形を利とする。李成は左は川岸に騎兵を並べ、右は平地に歩兵を並べている。十万の衆といえど何ができるか。」
そして鞭を上げ王貴を指して言った。
「お前は長槍を持った歩兵で向こうの騎兵を攻撃しろ。」
牛皐(ぎゅうこう)を指して言った。
「お前は騎兵で向こうの歩兵を攻撃しろ。」
合戦が始まると、馬は槍に突かれて倒れ、後ろにいた騎兵はみな川に入り、歩兵の死者は無数に及んだ。李成は夜に逃げ、岳飛は襄陽を回復した。

偽斉は李成の残党を収容し、兵を増やして新野(2)に駐屯した。岳飛は別将・王万とともに挟撃し、これを大いに破った。また、牛皐に随州を、王貴・張憲に唐・(とう)州と信陽軍を回復させた。襄・漢がことごとく平定されると、岳飛は徳安(3)に移り、軍の威勢は大いに振るった。

(2)新野 河南省新野県。
(3)徳安 江西省徳安県。

勝報が伝わると、帝は喜んで言った。
「朕は岳飛の行軍には紀律があると聞いていたが、かように敵を破るとは思わなかった。」
岳飛は上奏した。
「金兵はただ子女玉帛(ぎょくはく)を愛するのみで、その志は(おご)っています。劉予は帝位を僭称(せんしょう)しましたが、人心は宋を忘れませんでした。精鋭二十万で中原を衝けば容易に以前の領土を回復できるでしょう。襄陽・随・郢はいずれも地力が肥えており、耕作を行えばたいへん厚い利益が得られます。私は食糧が充分確保できるようになったら、長江を渡り北に向かい敵を掃滅しようと思います。」
このとき敵地深くに入る計画が重視され、営田の議が起こった。

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八月、王𤫉(おうしょう)は忠鋭統制・崔増(さいぞう)らに鼎江(ていこう)にいる楊太(ようたい)を討伐させたが、官軍は敗れて壊滅した。

楊太は洪水に乗じて出兵し、鼎州の社木(さい)を破り、守将・許筌(きょせん)が戦没し、官軍の死者は多数に及んだ。ここにおいて岳飛を清遠軍節度使とし、王𤫉に代わって楊太を討伐させた。このとき岳飛は三十二歳で、中興の諸将で岳飛のような年少の者が符節を持つ(節度使に就任したこと)ことはなかった。

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五年(1135)六月、岳飛は洞庭湖で楊太を大いに破った。

これ以前、岳飛は楊太討伐の命を受けたが、兵がみな西北の人であり、水戦に不慣れであった。岳飛は言った。
「戦に常道などあるものか。賊をいかに用いるかだ。」
そして先に使者をやって賊を帰順させることにした。賊党・黄佐は、
「岳節使の号令は山のようで、もしこれと戦えば万に一つも生きる望みはなく、投降した方がよい。節使には誠意があり、必ずやわれわれを優遇してくれるだろう。」
と言って投降した。岳飛は黄佐に武義大夫を与え、単騎で黄佐の兵を見て回り、黄佐の背をなでて言った。
「あなたはものの順序がわかる人だ。功を立てることができるし、爵位を封じられるのも言うまでもない。あなたを湖中に帰し、勝てる者は捕らえ、帰順させることができる者はそれを促してもらいたいと思うが、どうだ?」
黄佐は感激し、死をもって報いることを誓った。

このとき、張浚(ちょうしゅん)は軍事を監督して(たん)州に到着したが、参政・席益は岳飛が戦いに消極的なのではないかと疑い、帝に報告しようとした。張浚は言った。
「岳侯は忠孝の人だ。戦には深い機微があり、容易に言うことはできない。」
席益は恥じて思いとどまった。

黄佐は周倫の砦を襲い、周倫を殺した。岳飛はこの功績を報告し、武功大夫とした。

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統制・任士安は王𤫉(おうしょう)の命令を聞かず、任士安の軍は功績がなかった。岳飛は任士安を鞭で打ち、賊を壊滅させようとして言った。
「三日経っても賊が平定されなければ、お前を斬る!」
任士安は出戦すると宣言した。
「岳太尉の兵は二十万に上るぞ!」
賊は任士安の軍を見ると、力を合わせて攻撃した。岳飛は伏兵を置き、任士安は激しく戦った。伏兵が立ち上がって賊を攻撃すると、賊は逃げた。

このとき朝廷は張浚(ちょうしゅん)を秋の戦に備えて帰還させていた。岳飛は袖から小さな図を張浚に見せ、張俊は来年これについて話し合おうとした。岳飛は言った。
「すでに策があるのです。都督が少し留まることができれば、八日もせずに賊を破ることができます。」
「どうしてそう簡単に言えるのだ?」
「王四廂(ししょう)(王𤫉)が官軍で水賊を攻めても勝利は難しいでしょう。しかし、私が水賊で水賊を攻めればたやすく勝てます。水戦は我が不得意で彼が得意であり、短所で長所に攻めるのであって、勝利は難しいのです。敵将に敵兵を用いさせ、手足の助けを奪い、腹心の信頼を離れさせて孤立させ、官軍がこれに乗ずれば、八日の内に頭目らを捕らえることができるでしょう。」
張浚はこれを許し、岳飛は鼎州に向かった。

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黄佐は楊欽(ようきん)を招いて投降させた。岳飛は喜んで言った。
「楊欽は勇猛だが、投降して賊の腹心がついえた。」
楊欽に武義大夫を与えて厚く礼遇し、再び湖中に帰した。二日後、楊欽は全琮(ぜんそう)劉詵(りゅうしん)を説いて投降させたが、岳飛は楊欽を責め立てて言った。
「賊が全員降ったわけではない。何しに来た!」
そして楊欽を棒で打ち、再び湖に入らせた。

この夜、賊の砦を襲撃し、数万人を降伏させた。楊太は険阻な地を頼みとして屈服せず、舟を湖中に浮かべ、輪で水を叩いて飛ぶように前進し、攻撃用の竿(さお)を置いた。官軍の舟がこれを迎え撃ったが砕かれた。岳飛は君山の木を切って大きな(いかだ)をつくり、港と小川を塞ぎ、腐った木や草を上流に浮かべて下流に流した。水深の浅いところを選び、悪口のうまい者に賊を挑発させ、進みながら罵った。賊が怒って追いかけると、草と木がいっぱいに広がっており、舟の輪が絡まって進めなくなった。岳飛はすぐにこれを攻撃した。賊は港に逃げたが筏に阻まれた。官軍は筏に乗り、牛の革を張って矢石を防ぎ、巨木で賊の舟を突いてことごとく破壊した。楊太は進退窮まって水中に入ったが、牛皐(ぎゅうこう)がこれを捕らえて斬った。

岳飛が賊の砦に入ると、頭目らは驚き、
「何の神だ!」
と言った。そして降伏を願い出、その数は二十余万に及んだ。岳飛は自ら他の砦を回って彼らをねぎらい、老人や弱者はもとの農業に戻し、壮健な者は軍に入れた。八日にして勝報が(たん)州に届けられ、張浚は感嘆して言った。
「岳侯の神算だ。」

黄誠が楊太の首を取り、鍾子儀(しょうしぎ)を連れて張浚のもとに降った。湖・湘は平定された。

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これ以前、楊太は洞庭湖に拠ってその険阻さを頼みとし、陸で耕し水の上で戦い、楼船は十余丈あり、官軍は仰ぎ見て近づくことができなかった。岳飛は大きな船を造ろうと考え、薛弼(せっぴつ)を湖南運判とした。薛弼は岳飛に言った。
「もしそうすれば歳月をかけても勝つことはできません。彼の長所は避けて戦うべきではありません。今は大きな(ひでり)があり、湖の水は洪水となっています。賊が船首を買い入れたなら、これと戦ってはなりません。筏を連ねて水路を断って上流に敷き詰め、彼の長所を摘み取り、精鋭の騎兵で砦を突けばすぐさま破ることができます。」
岳飛は言った。
「よし。」
この策を用い、八日の間に勝利を得た。

これ以前、楊太は陸から攻めるときは湖に入り、川から攻めるときは岸に登り、
「俺を攻めようとする者は、これを除いて飛んでくるだろう。」
と常に言っていた。ここに至り、人々はこの言を迷信だとした。