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神宗熙寧七年(1074)十二月、遼の女真;部節度使・烏古迺が死に、子の劾里鉢が跡を継いだ。
これ以前、女真以前は古粛慎氏であった。代々混同江(1)の東に居住し、そこは長白山(2)の鴨緑水(3)の源であった。南は高麗に接し、北は室韋に接し、西は渤海・鉄甸に接し、東は海に面していた。後漢はこれを挹婁といい、北魏は勿吉といい、隋・唐は靺鞨といった。姓は挐、または完顔氏と号し、夷狄のなかで最も微弱な勢力だった。
(1)混同江 黒竜江省ハルビン市付近を流れる川。
(2)長白山 吉林省図們(ともん)市の南西にある山。
(3)鴨緑水 吉林省丹東市から北東に流れる川。
唐の貞観(太宗・627~649)中、靺鞨が来朝し、中国は初めてその名を知った。開元(玄宗・713~741)中、部族長が来朝して勃利州刺史を拝命した。黒水部を置き、部の長を都督とし、朝廷は長史を置いてこれを管理した。五代のとき、女真と称するようになった。その部族は六部に分かれ、そのなかに黒水部があった。その民で南に居住する者は遼に戸籍があり、熟女真といった。北に居住する者は遼に戸籍を置かず、生女真といった。遼主・宗真の諱を避け、女直と改めた。また、黄頭女真というものがあり、人柄は朴直にして精悍、これを回覇といった。東沫江の北、寧江の東の千余里に居住し、豪気な者を部族長とし、契丹の東北の隅に偏在していた。
宋太祖建隆二年(961)、馬を貢納し、三年・四年に再び馬を貢納し、以降途絶えることがなかった。太宗淳化二年(991)、首領の野里雞が上言した。
「契丹はわれわれが中国に朝貢していることに怒り、海岸に三つの砦を置き、各砦に兵三千を置き、朝貢の道を絶とうとしております。出兵して三つの砦をともに平定していただくようお願いいたします。」
太宗は和解を勧告したが出兵はしなかった。真宗大中祥符三年(1010)、契丹が高麗を攻撃したときに女真の地を通ろうとしたが、女真は高麗と兵を合流させてこれを防いだ。天禧三年(1019)、再び使者を遣わした。天聖(1023~31)以後は契丹に帰属せず、入貢もしなくなった。
ウクナイの時代になると諸部を従えるようになった。このとき、遼の五国蒲聶部節度使・抜乙門が遼に反旗を翻した。遼はこれを討伐しようとした。ウクナイは遼の兵が深く入り込んで険要の山川を取られるのではないかと恐れた。そこで抜乙門を計略にかけようと考え、遼に告げた。
「抜乙門は計略にかけることができる。兵を用いれば険要の地に逃げるだろうが、歳月を経ずして平らげることができよう。」
遼はこれに従った。ウクナイは抜乙門を襲撃して捕らえ、遼の主に献上した。遼の主はウクナイを引見し、賞与と官品、生女真部節度使を与えた。属官を持ち、法が定められた。だが、印璽を受け取り遼に戸籍を置くことは受け入れなかった。
部族では鉄を手に入れることができず、隣国には鎧商人がいたが高値で売っていた。鉄が多く得られるようになると、弓矢や武器を作って軍の質が高まり、つき従う者が多くなった。
ここに至り、五国没撚部の謝野勃菫が遼に反旗を翻した。ウクナイがこれを討伐し、謝野は敗走した。ウクナイは遼の辺境の将が謝野を撃退した功績を述べるのを見届けようとしたが、その途上で死んだ。子のヘリンボが跡を継いで節度使となった。
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哲宗元祐七年(1092)夏五月、遼の女真部節度使・劾里鉢が死に、弟の頗剌淑が跡を継いだ。
ヘリンボは十一人の子を産んだ。長子を呉剌東、またの名を烏雅束といい、次を阿骨打・呉乞買・撒也・幹賽・幹者・烏故乃・闍母・査剌・烏特といった。ヘリンボの病は篤く、弟の盈哥を呼んで言った。
「ウヤスは温和だ。契丹にうまく対処しようとするなら、アクダがいいだろう。」
それからほどなくして亡くなった。弟のポラシェが節度使の跡を継いだ。ヘリンボは厳格でありながら智謀に富み、戦のときも鎧を着たことがなかった。節度使を継いだ最初のころは内外で反乱がおこった。ヘリンボは敗北を功績に変え、弱きを強きに変え、桓𧹞・散達・烏春・窩謀罕を破り、国事の範囲が大きくなった。属官を置いて諸部を統一し、属官の長を勃極烈といった。
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紹聖三年(1096)二月、生女真節度使・頗剌淑が死に、弟の盈哥が跡を継いだ。兄劾者の子撒改が宰相となった。
このとき、紇石烈部の阿疎に離反の意志があった。インコが彼を呼び出そうとしたが、阿疎は部族の人毛睹禄とともにインコの兵を阻んで反乱を起こした。インコは自らこれを討伐しに行き、阿疎城(1)に着いた。阿疎は遼に出向いてこのことを訴えた。遼は使者を送ってインコに攻撃しないよう説いた。インコはヘテェを阿疎城の守りに置いて帰還した。
(1)阿疎城 吉林省図們(ともん)市。
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徽宗崇寧元年(1102)冬十月、遼の将蕭海里が遼に謀反を起こし、女真の阿典部に亡命した。そして部族の人斡達剌が生女真に来てともに兵を挙げることを約束させようとしたが、節度使・盈哥がこれを捕らえた。遼の主は蕭海里を討伐するようインコに命じた。インコは兵千余人を募った。兄の子阿骨打は言った。
「これほどの軍勢があれば、できないことなどない。」
そして混同江に駐屯したが、これ以前は女真の兵は千に満たなかったようである。
ここに至り、蕭海里を追う遼の兵は数千人いたが、勝つことができなかった。インコは遼の将に言った。
「そなたの軍を退いてもらいたい。われわれだけで蕭海里を捕らえてみせよう。」
そしてアクダを戦いに合流させ、蕭海里を捕らえて殺し、その一味を破った。蕭海里の首を箱に入れて遼に献上した。遼の主は大いに喜び、褒美と官品を与えた。
インコは遼の兵が御しやすいことを知り、勢力を誇るようになった。
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二年(1103)冬十月、生女真部節度使・盈哥が死に、兄の子烏雅束が跡を継いだ。このとき高麗が女真との通好を再開した。
女真は以前高麗に服属していたが、長らく通好することがなかった。たまたま高麗の医者が女真に来た。帰ると高麗王に言った。
「黒水部にいる女真は強盛を誇り、兵は精悍であります。」
高麗王は女真に使者を遣わした。以後、往来は活発になった。
6
政和二年(1112)遼の主は春州(1)に行き、混同江で魚を釣った。ここから千里内の生女真の部族長たちは、このことにより遼に来朝した。釣った大魚を置いた宴会が行われ、酒も酣のころ、遼の主は部族長たちに順次立ち上がって踊るよう命じた。阿骨打の番になったが、アクダは踊ろうとせず、ただ直立して遼の主を直視するのみだった。遼の主は再三踊るよう促したが、アクダは従わなかった。
翌日、遼の主は北院枢密使・蕭奉先に言った。
「アクダはあのように強情だ。辺境の有事を口実に殺してしまうのがいい。さもなくば後の災いとなろう。」
蕭奉先は言った。
「彼は無骨者で礼儀を知りません。ですが大きな過ちがないのに殺したとあっては、帰服を妨げることになるでしょう。離反の心があったとしても、あのような小国に何ができるしょう。」
遼の主はアクダの殺害を取りやめた。
アクダの弟呉乞買・粘罕・胡舎らは遼の主の狩りに従い、鹿を呼び、虎を殺し、熊を捕らえた。遼の主は喜び、彼らに官爵を与えた。
(1)春州 吉林省白城市の東。
7
阿骨打は女真に帰ると、遼の主が自分に離反の心があることに気づいたと考えた。また、遼の主は酒におぼれて国政を顧みていないことを理由に挙兵し、まず近隣の部族を併合しようとした。女真の趙三・阿鶻産がこれを拒むと、アクダはその家族を捕らえた。二人は逃げて咸州(1)詳穏司(統帥府)に訴え、北枢密院に送られた。蕭奉先は通常の案件としてこれを報告した。遼の主はアクダを咸州に送って問責し、過ちを改めさせようとした。何度もアクダを呼び出したが、アクダは来なかった。
ある日、アクダは五百騎を率いて咸州に突入し、官民は大いに驚いた。その翌日、アクダは詳穏司に赴き、趙三らとともに問責されたが、アクダは屈しなかった。当局に送って罪状を調べさせたが、ある夜に逃げ出した。アクダは人をやって、詳穏司が自分を殺そうとしていると遼の主に訴えた。このためあえて引き止めなかった。以後、呼び出しても来ることはなかった。
(1)咸州 吉林省四平市の南。
8
三年(1113)十二月、生女真節度使・烏雅束が死に、弟の阿骨打が都勃極烈を自称した。
遼は阿息保を遣わして言った。
「なぜ喪を発しないのですか?」
アクダは言った。
「喪を発すれば弔うことができない。これが罪だと思われるか?」
9
四年(1114)冬十月、女真の阿骨打が遼に謀反を起こし、寧江州(1)を奪った。
これ以前、遼の主は狩りと酒におぼれ、政事を顧みず、毎年使者をやって島で名鷹海東青を買っていた。その途上で生女真を通るのだが、使者は貪欲で際限なく物を徴収し、女真はこれを嫌がっていた。阿疎が遼に逃げると烏雅束は身柄を引き渡すよう何度も要請したが、遼の主は阿疎を送らなかった。このため口実を設けて鷹を買い付けに行く使者を拒むようになった。
(1)寧江州 黒竜江省ハルビン市の南西。
アクダが部族長の位を継ぐと、蒲家奴・習古乃らを相次いで派遣し、阿疎の引き渡しを求めたが、遼の主は許可しなかった。習古乃が帰ると遼の主がおごって国が荒廃していると報告した。アクダは官僚らを呼び、要衝に備えをし、砦を建て、武器を整えるよう命じた。遼の主が侍御・阿息保を遣わしてこれを問い詰めると、アクダは言った。
「わが国は小国だが、大国に仕えて礼を忘れない。大国として恩徳を施さず謀反人を逃がしているのは遼の主である。このように小国の世話を十分にしないのであれば、恨まれるのも当然ではないか。阿疎を返せば以前のように朝貢しよう。さもなくば砦の建築をやめることはない。」
阿息保が帰ると、遼の主は渾河北の諸軍を進発させ、東北路統軍司に兵を集めた。アクダはこれを聞き、側近に言った。
「遼の人はこちらが兵を挙げようとしているのを知り、諸路の軍を集めてこちらに備えている。こちらが先に軍を進めて制すれば、人に制せられることはない。」
そして撒改の子粘没喝らと謀議して諸部の兵を集め、銀朮可・婁室・闍母らを将とし、婆盧火に移懶路の迪古乃の兵を集めさせた。
九月、アクダは兵を率いて寥晦城に進み、諸部の兵が来流水に集まり、兵は二千五百人となった。遼の罪を数え上げ、天地に告げて言った。
「代々遼国に仕えて貢納し、烏春・窩謀罕の乱を平定し、蕭海里の軍勢を破り、功績あっても鼻にかけずにいたが、遼国には侮辱を受けた。罪人阿疎の身柄を引き渡すようたびたび求めたが果たされなかった。今まさに遼の罪を問うものである。天地よ、これを助けたまえ。」
そして諸将に杖を持って誓いを立てさせた。
遼との国境に着くと、渤海軍に遭遇した。耶律謝十が落馬すると、アクダがこれを射殺した。アクダの子斡本と数騎が遼に包囲されるとアクダがこれを救い、鎧を脱いで戦った。ある者が近くからアクダに弓を射かけたが、アクダが振り向いてこの者を見ると、一矢にして倒した。そして側近に言った。
「すべて防ぎ止めろ!」
みなこれに従い、勇気百倍になった。遼軍は逃走し、踏み潰される者が十の七、八に及んだ。サガイは別部隊にいたが、これを聞いて粘没喝と谷神を祝いに行かせ、帝を称するよう勧めた。アクダは言った。
「一戦して勝ったくらいでそのような大それた肩書きを称して、浅はかさを示すことがあろうか?」
続いて寧江州に進軍し、塹壕を埋めて城を攻めた。寧江の人は東門から出撃し、アクダがこれを迎え撃ち、ことごとく倒した。
遼の統軍司が報告に行くと、遼の主は慶州(2)で鹿を狩っており意に介せず、ただ海州(3)刺史・高仙寿を応援に行かせただけだった。
十月一日、寧江州が陥落した。遼の防禦使・大薬師奴が捕らえられた。アクダは密かにこれを釈放し、遼の人を自軍に引き入れさせた。そして兵を引き揚げて帰還した。
(2)慶州 内蒙古自治区巴林(バリン)右旗の北。
(3)海州 遼寧省海城市。
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これ以前、女真部の民には徭役がなく、強壮な者は兵となった。普段は漁労や狩猟をしていたが、有事の際には命令を下して彼らを徴集した。歩兵・騎兵の武器と食糧は自弁であった。部隊長を勃菫といい、戦時には猛安・謀克といった。猛安は千人隊長、謀克は百人隊長であった。兵を挙げて降伏する者には猛安・謀克の称号を与えた。
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十一月、遼の主は寧江州が陥落したと聞き、群臣を呼んで会議を開いた。
漢人の行宮副部署・蕭陶蘇斡は言った。
「女真は小さな部族ですが、勇敢で弓矢が得意です。わが方の兵は久しく訓練しておらず、強敵に会えば不利となりましょう。各部族の心も離れて制御することができません。今は各地の兵を動員して女真を威圧するのが上策かと存じます。」
北院枢密使・蕭得里底は言った。
「陶蘇斡の案に従えば弱みを見せるだけです。滑水より北の兵を動員するだけで防ぐことができます。」
これを受け、司空・蕭嗣先を東北路都統、蕭撻不野を副都統とし、契丹・奚軍(1)三千と中京(2)の親衛軍など七千を進発させ、出河店(3)に駐屯した。
(1)奚軍 奚は少数民族の名。シラムレン川流域に分布し、契丹と同化した。
(2)中京 中京大定府。遼寧省凌源市の北。
(3)出河店 黒竜江省肇源(ちょうげん)県。
阿骨打は兵を率いて防ぎに行ったが、混同江には着かなかった。夜、アクダが眠っていると三人の人影が自分の首を守っている夢を見た。アクダは目覚めて、
「神明が私に警告している。」
と言い、すぐに太鼓を鳴らし狼煙を上げて進軍した。明け方、混同江に着いた。このとき遼の兵が道を上っていたが、アクダは壮士十人を選んでこれを撃退した。兵を率いて引き続き進軍し、川岸に登ると遼の兵に遭遇した。たまたま大風が起こり、埃が天を覆った。アクダは風に乗じて攻撃した。遼の兵は壊乱して将兵多数が死に、逃げおおせた者は十に七人であった。
枢密使・蕭奉先は蕭嗣先の兄であったが、蕭嗣先が敗戦によって罪を得ることを恐れて上奏した。
「東征に向かって壊滅した軍が各所で略奪に走っています。これを許してやらねば集まって害をなすことでしょう。」
遼の主はこれに従い、蕭嗣先は免職されるだけで済んだ。これ以後諸軍の間では、
「戦えば死あって功なく、退けば生あって罪なし。」
と言われるようになり、兵は闘志を失い、敵に会えば壊乱した。
アクダは遼の蕭敵里を斡鄰濼で襲撃し、多くの兵を殺した。遼の人は言った。
「女真の兵が万に満ちればかなわない。」
ここに至り、女真の兵は万を満たすようになった。
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十二月、遼の賓(1)・祥(2)・咸の三州および鉄驪部が女真に降った。鉄驪王の奚の回離保は逃亡しなかった。
(1)賓州 黒竜江省ハルビン市の南西。
(2)祥州 黒竜江省ハルビン市の南西。
13
五年(1115)春正月一日、女真の完顔阿骨打が帝を称し、国号を金とした。
これ以前、アクダはたびたび遼に勝利し、弟の呉乞買が将軍と官僚を率いて帝を称するよう勧めたが、アクダは許さなかった。阿離合懣・蒲家奴・粘罕らも同じことを言った。
ここに至り、アクダは鉄州(1)の降将楊朴の策を用いて皇帝を称し、即位した。そして言った。
「遼は賓鉄(刀剣製造用の鋼)を国号とした。その堅さにあやかったのである。賓鉄は堅いが、結局は色が変じて壊れてしまう。金だけは色が変わらず壊れもしない。金の色は白であり、ワンヤンは白を尊ぶ。ましてわれわれは按出虎水(2)のほとりにいるのだ。」
ここにおいて国号を大金、元号を収国とした。また、漢名を旻とした。始祖・龕福以下を追尊して帝とした。ウキマイを諳班勃極烈、撒改・斜也を国論勃極烈とした。この国の言葉で金を「アルチュフ」、至高を「アンバン」、宰相を「グルン」といった。シエはアクダの弟である。サガイは烏古迺の孫である。粘罕はまたの名を粘没喝といい、この国の言葉を表したものである。
(1)鉄州 遼寧省営口市の東。
(2)按出虎水 黒竜江省ハルビン市の南東を流れる川。
14
遼の主は僧家奴に書状を持って金に赴かせ、講和を持ちかけ、金を属国にしようとした。アクダは賽剌を送り返書を持たせた。
「謀反人阿疎を返し、黄龍府(1)を別の地に移した後に話し合おう。」
金の主は自ら遼の黄龍府を攻めようと益州(2)に迫った。益州の人は黄龍府に逃げ、金は残った人を捕らえて帰っていった。
遼は都統・斡里朶、左副統・蕭乙薛、右副統・耶律張家奴、都監・蕭謝仏留に騎兵二十万、歩兵七万を率いさせ、辺境を守って屯田し、持久戦をしかけた。
金の主はこれを聞き、兵を率いて達魯古城(3)に向かい、高所に登って遼の兵が群がる雲や木のようであるのを望み見て側近に言った。
「遼の兵は心が二つに分かれておびえている。数は多いが恐れるに足りぬ。」
そして丘に登って陣を構えた。謀良虎が右翼を率いて遼の左軍に突撃し、左軍は退いた。婁室・銀朮可が遼の中堅を突き、陣が陥落しても力戦した。粘没喝が中軍を率いてこれを助けると、遼軍は敗れた。金の兵は勢いに乗じて追撃して遼の軍営にたどり着き、日も沈んでいたためこれを包囲した。明け方、遼の兵は包囲を突破して逃げ出し、金人は北の方にこれを追い、阿婁岡に出た。遼の兵はことごとく倒れ、農具数千が金人に奪われた。この戦いでは、遼人は屯田により戦いながら守ろうとしていた。ゆえに農具を奪われたことでどちらもできなくなった。
(1)黄龍府 吉林省長春市の北。
(2)益州 黄龍府の北。
(3)達魯古城 黒竜江省ハルビン市の南西。
15
三月、遼の使者張家奴ら六人が国書を携えて金に来た。国書は阿骨打の名を書かず、降伏するよう勧めていた。金の主は国書の文言が不遜であるとして五人を留め置き、張家奴だけを帰した。返書には遼の主の名を書かず、降伏するよう勧告した。
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六月、遼は再び金に使者を送ったが、金の主は使者蕭辞剌を留め置いた。
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八月、遼の主は女真に対し親征を行い、蛮人・漢人の兵十余万を率い、長春路に出た。蕭奉先を御営都統とし、耶律章奴を補佐とし、精鋭二万を先鋒とした。その他は五部隊に分け、北に向かい駱駝口に出て、漢人の歩兵・騎兵三万を別に南に派出して寧江州に出させた。数ヶ月分の食糧を徴発し、女真を必ず滅せんとの気概で臨んだ。
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九月、金の主は遼の黄龍府を攻めるため混同江に進み、舟なしで渡河した。金の主は一人を先導とし、赤と白の毛色が混じった馬に乗って川を渡り、
「わが鞭の指すところを目指して行け。」
と言った。諸軍はこれに従って川を渡り、水が馬の腹まで及んだ。川を渡ると、人をやって渡った場所の深さを測らせたが、深さに限りがなかった。
ここにおいて黄龍府を攻略した。蕭辞剌を遼に帰らせて言い含めた。
「謀反人の阿疎を返還するなら、すぐに軍を引き揚げよう。」
19
遼の軍が混同江を渡ると、副都統・章奴と耶律淳、妃の弟蕭諦里および甥の蕭延留らは、逃げた将兵を集めて耶律淳を帝として擁立しようと考えた。耶律淳は興宗の孫である。
これ以前、昭懐太子が罪を得たため、道宗は耶律淳を太子に立てようと考えたが、群臣が諫めたため取りやめた。遼の主が即位すると、耶律淳は厚く待遇され、父耶律和魯斡を太叔と号し、耶律淳を越王に封じ、東京(1)留守とした。
ここにおいて章奴は蕭諦里をやって擁立の企図を耶律淳に告げた。耶律淳は言った。
「これは小事ではない。主上が諸王を立てようというのに北面・南面の諸大臣が来ず、お前はこのことに言及している。いったいなぜだ?」
側近に命じてこれを捕らえた。しばらくして、遼の主は行宮小底・乙信らに書状を持たせ、章奴の計画を詳しく説明した。耶律淳は直ちに蕭諦里らを斬り、その首を持って単騎広平淀に赴いて罪を待った。遼の主はこれまで通りに耶律淳を待遇した。
章奴は耶律淳が擁立を聞き入れなかったのを知ると、麾下の兵を率いて上京(2)の庫と財物を略奪し、祖州(3)に向かった。一派を率いて太祖廟に告げ、遼の主の罪悪を数え上げ、州県に檄文を配布した。そして渤海の群盗と結び、数万に膨れ上がった。広平に行き行宮を襲撃したが、勝つことができなかった。続いて北の降虜山に向かった。順国女真の阿鶻産が三百騎を率いて一戦してこれに勝ち、貴族二百余人を捕らえ、すべて斬って見せしめとした。逃げおおせた者はみな女真に逃げた。章奴は使者になりすまして女真に逃げようとしたが、見回りの兵に捕らえられて遼の主のもとへ送られ、市中で腰斬の刑に処された。
(1)東京 東京遼陽府。遼寧省遼陽市。
(2)上京 上京臨潢(りんこう)府。内蒙古自治区巴林(バリン)左旗。
(3)祖州 内蒙古自治区巴林左旗の西。
20
十二月、金の主は遼の主の親征を聞いてみなを集め、刀で顔に傷をつけ天を仰ぎ慟哭して言った。
「初めてお前たちと挙兵したとき、契丹の暴虐に苦しみ、自ら建国しようとした。今、天祚帝が自ら攻めに来るが、お前たちはどう思うか?各人が死力を尽くして戦わねば渡り合うことはできまい。わが一族を殺し、お前たちは降伏して災いを福に転じるのが得策だろう。」
諸軍は金の主を囲み、拝礼して言った。
「事ここに至った以上、ただ命に従うのみです。」
金の主は軍を率いて敵を迎え撃った。
遼の主は駝門に向かっており、駙馬・蕭特末らが騎兵五万、歩兵四十万を率いて斡鄰濼に出た。
金の主は爻剌に行き、臣下と謀って言った。
「遼の兵は七十万を号し、その鋭鋒に当たるべきではない。わが軍は遠くから来たため人馬ともに疲れている。ここに駐屯し、塹壕を深く掘り砦を高く築いて待ち構えるのがいいだろう。」
たまたま遼の食糧監督を捕らえたところ、遼の主は章奴が反乱を起こしたため二日前に西に戻ったことを知った。諸将はこの隙をついて攻撃するよう求め、遼の主を追って護歩答岡に着いた。金の主は言った。
「あちらは多く、こちらは少ない。兵力を分散してはならない。見たところ中軍が最も堅く、遼の主はきっとその中にいる。中軍を破れば志を得られよう。」
そして右翼を先に戦わせ、左翼をこれに合流させて攻撃した。遼の軍は壊乱し、百余里に渡ってひしめき合った。馬車・幕・兵器・軍用品のほか、数え切れないほどの宝物と牛馬を鹵獲した。蕭特末は軍営を焼き払って逃げ、金の主も退却した。
21
六年(1116)春正月、遼の東京留守・蕭保先が厳しい政治を行い、渤海がこれに苦しんでいた。
この月の一日、夜半に不良少年十余人が酒に酔って刀をとり、塀を乗り越えて政庁に入り、蕭保先を刺し殺した。戸部使・大公鼎は事件を聞きつけるとすぐに留守を代行し、副留守・高清明とともに奚人・漢人の兵千人を集め、少年らを捕らえて斬り、民を落ち着かせた。
副将の渤海人高永昌は兵三千を擁して八甔口に駐屯し、遼の政治が日々衰え、金の兵が強くなっている情勢を見て、渤海人を誘って兵を集めて遼陽に入り、拠点とした。十日間ほどで各地の者が呼応し、八千人の兵が集まった。帝を僭称し、隆基元年と称した。遼の主は蕭韓家奴・張琳を派遣してこれを討伐した。
22
夏四月、金人は高永昌を攻め殺し、遼の東京の州県を奪取した。
これ以前、高永昌は金に救援を求め、言った。
「力を合わせて遼を取ろう。」
金の主は胡沙補を遣わして高永昌に言った。
「力を合わせて遼を取るのはよい。東京は近隣の地だが、お前がここに拠って帝号を称するならば、これはよくない。帰順するならば爵位を授けよう。」
高永昌は従わなかった。
金の主は斡魯を送って諸軍を率いて高永昌を攻めたが、遼の将張琳らに遭遇し、これと戦って破り、瀋州(1)を奪取した。高永昌は大いに恐れ、兵を率いて金を防ぎ、活水に出た。金軍がこの川を渡ると、高永昌は戦わずして退き、これを北に追って遼陽城下に出た。
翌日、高永昌は兵を率いて金と戦ったが大敗し、五千騎とともに長松へ逃げた。遼陽の人撻不野が高永昌を捕らえて献上した。金の主はこれを殺した。
ここにおいて、遼の東京の州県および熟女真の支配下にある南路はみな金に降った。金の主は斡魯を南路都統、斡論を知東京事とした。
(1)瀋州 遼寧省瀋陽市。
23
六月、遼は耶律淳を元帥とした。
24
七年(1117)八月八日、遼の主は燕から陰涼河(1)に出向き、遼東の人を募って兵として女真に怨みを報いさせることとし、「怨軍」と号した。八つの営と二万八千余人で構成され、衛州の蒺藜山に駐屯し、渤海鉄州の人郭薬師らを統帥とした。
(1)陰涼河 内蒙古自治区赤峰市の南西を流れる川。
25
十二月、遼の耶律淳が金の咸州都統・斡魯古に書状を送り、和議を持ちかけた。斡魯古はこれを金の主に告げた。金の主はなおも賽剌と阿疎の身柄を返すように言った。
耶律淳の軍が蒺藜山に進むなか、斡魯古と知東京事・斡論らが顕州(1)を攻め、遼の怨軍の統帥・郭薬師を破り、進軍して耶律淳と戦った。耶律淳は敗走し、斡魯古はこれを阿里真陂に追い、顕州を抜いた。
ここにおいて、乾・懿・豪・徽・成・川・恵の七州がみな金に降った。
(1)顕州 遼寧省北鎮市。
26
遼東鉄州の人楊朴は金の主に言った。
「古より英雄が建国するときは、まず大国の封冊(1)を求めるものです。」
金の主はこれに従い、使者を遣わして封冊を遼に求めた。使者が遼に着くと、遼東の諸州では群盗が蜂起して略奪により食を満たしていた。このため枢密使・蕭奉先らは遼の主にこれを許すよう勧めた。
(1)封冊 王に封ずることを記した詔書。
27
重和元年(1118)十二月、遼で大きな飢饉があり、人が相食むありさまであった。
28
宣和元年(1119)三月、遼は使者を遣わして金の阿骨打を東懐国皇帝に冊立したが、アクダは受けなかった。
これ以前、遼は耶律奴哥を金に送って和議を持ちかけた。金の主は返書にこう書いた。
「兄として朕に仕え、毎年貢納品を納め、中京・上京・興中府(1)三路の州県をわが方に帰属させ、親王・公主・駙馬・大臣の子孫を人質とし、使者の身柄と以前与えた符節(2)および宋・西夏・高麗と交わした書状と詔・上奏文・文書をわが方に渡せば応じよう。」
耶律奴哥が再び来ると、金の使者・胡突袞がともに遼に赴き、人質を取ることと上京・興中府所属の州県を帰属させることを免除し、歳幣の数を減らしたうえで言った。
「兄としてわが方に仕え、漢の儀礼に則って冊立すること。そうでなくば、以後使者を送らないこと。」
遼の主はこれに従った。
(1)興中府 遼寧省朝陽市。
(2)符節 文字を書いた札を二つに割ったもの。
七度使者を遣わして冊立の儀礼について議論し、金は使者・烏林答賛謨を遼に送り封冊を受け取った。封冊が金に届けられると、金の主は「兄として仕える」との文言がなく、国号を大金と称しておらず、東懐とは「小国が徳を抱く(従属する)」という意味であるとして、文言に侮蔑の意が込められていると言った。
そして再び賛謨を遼に送り、封冊が礼式に反しており、以前渡した書状の通りにすれば冊立を受け入れると伝えた。
29
八月、金は女真文字を作った。
女真にはもともと文字がなく、契丹人や漢人を捕らえて初めて契丹文字、漢字を知った。金の主は谷神に命じて漢人の楷書や契丹文字を模倣して形を定め、国の言葉に合わせ、女真文字を作って普及させた。後、女真小字を作り、谷神の作ったのは大字であるとした。
30
二年(1120)三月、遼は再び使者を金に遣わして冊立の儀礼について議論しようとしたが、金は許さなかった。
これ以前、遼は蕭習泥烈 に封冊の草稿を持たせて金に行かせた。金は烏林答賛謨に封冊の副本を持たせて遼に行かせ返答した。遼は金が定めた大聖の二字と先代劾里鉢の称号が同じであることから、習泥烈をやって話し合いに行かせた。金の主は怒り、側近に言った。
「遼の人はたびたび敗れて使いをよこして講和を求め、空虚な言葉で飾り立ててわが方の進軍を遅らせようとしている。ここは兵を進ませるべきだろう。」
そして咸州路統軍司に軍と兵器を整えさせ、四月に軍を進発させようとした。斜葛に兵一千を留めて守らせ、闍母にその他の兵を渾河に集結させた。和議の道は絶たれた。
31
五月、金の主は自ら遼の上京の攻撃に向かい、遼の使者・蕭習泥烈、宋の使者・趙良嗣を従わせた。降将・馬乙に詔を持たせて城中に入らせ、速やかに降伏するよう促した。遼の主は胡土白山(1)で狩りをしていたが、金の挙兵を聞き、耶律白斯不らに精鋭三千を選んで増援に行かせた。金の主は進攻して蕭習泥烈・趙良嗣に言った。
「お前たちはわが方の戦いぶりを見て、己が去就を占うがよい。」
そして城に臨み督戦した。諸軍は太鼓を鳴らして進み、明け方から巳の刻(午前九時~午前十一時)まで、闍母らが兵を率いて先に城壁に登り、外城を攻略した。留守・撻不野が城を挙げて降った。趙良嗣らは盃を奉って祝い、みな万歳を唱え、金の主は帰還した。
(1)胡土白山 河北省崇礼区。
32
遼の都統・耶律余覩が遼に背いて金に降った。
これ以前、遼の主には四人の子、すなわち趙王・習泥烈、晋王・敖盧斡、秦王・定、許王・寧がいた。晋王は文妃・蕭氏から生まれ、かねてから人望があった。女真が挙兵すると領内の郡県の半数近くが失われたが、遼の主は狩りにふけって政事を顧みず、忠臣の多くが退けられた。文妃は歌を作って暗に諫めたが、遼の主は不愉快に思った。
枢密使・蕭奉先は元妃の兄であり、秦王・許王の舅であった。遼の人は晋王に帰服しており、蕭奉先は秦王が皇太子に立てられなくなるのを恐れ、一計を案じた。文妃の姉は耶律撻曷里に、妹は耶律余覩に嫁いでいた。
ある日、文妃の姉は妹とともに戦場に赴いた。蕭奉先は文妃と駙馬・蕭昱および余覩・撻曷里らが晋王を立て、遼の主を太上皇とすることを計画していると誣告した。遼の主は蕭昱・撻曷里らを処刑し、文妃に死を賜った。
余覩は陣中でこれを聞いて大いに恐れ、千余騎を率い金に降った。遼の主は蕭遐買らにこれを追わせ、閭山県に出た。蕭遐買らは言った。
「主上は蕭奉先を信頼しているから、蕭奉先はわれわれを見下しているのだ。余覩は宗室のなかでも優れた人物。蕭奉先の下にいることに甘んじはしまい。もしここで余覩を捕らえれば、他日われらもみな余覩と同じとみなされる。このままにしておくのがよかろう。」
帰還した蕭遐買は、
「追いつけませんでした。」
と偽った。
余覩が金に来ると金の主はこれに会い、咸州都統司に詔を下した。
「余覩が来てから遼国の事情をよく調べている。すでに親征を行うことに決した。軍備を整え出征の日を待て。」
33
十一月、金は遼の中京を侵略した。
これ以前、耶律余覩が金に逃げたとき、粘没喝は金の主に言った。
「遼の主は徳を失い、内外の者の心は離れています。今この隙に乗じて中京を奪取すべきです。天時と人事は失するべきではありません。」
金の主はこれに賛同した。群臣は今は寒季であると言ったが金の主は聞き入れず、ネメガの計を用いることとした。斜也を都統内外諸軍とし、蒲家奴・ネメガ・斡本・斡離不・蒲盧虎らを補佐とし、耶律余覩を先導として遼の中京大定府に向かった。
34
四年(1122)春正月、金は遼の中京を攻略し、沢州(1)に下った。
(1)沢州 河北省平泉市付近。
遼の主は鴛鴦濼で狩りをしていたが、余覩が婁室を先導して近づいてくると、遼の主は大いに不安がった。枢密使・蕭奉先は言った。
「余覩は王子・耶律班の末裔ですが、最近は甥の晋王・敖盧斡を太子に立てようとしていました。国家の計をなすのであれば、子であるからといって躊躇せず、罪を明らかにして処刑するのです。されば戦わずして余覩は自ら退くことでしょう。」
このとき耶律撒八らが敖盧斡を擁立しようとしていたことが発覚し、遼の主は枢密使・蕭得里底らを呼んで言った。
「反逆者はみな敖盧斡を大義名分としている。これを除かなくては安心できん。」
得里底はただうなずくのみだった。遼の主は人をやって敖盧斡を縊り殺そうとした。
ある者が敖盧斡に逃げるよう勧めたが、敖盧斡は言った。
「小さき身となって臣下としての節を失うことに耐えられようか!」
そして自ら死を選んだ。
遼の主が喪服に袖を通して三日、耶律撒八らが処刑された。敖盧斡には人望があり、諸軍はその死を聞いて涙を流さない者はなく、これより人心は離れていった。
余覩が金の兵を先導して遼の主の行宮に迫ると、遼の主は衛士五千余騎を率いて鴛鴦濼から雲中(2)に逃走し、伝国の玉璽を桑乾河に残していった。
(2)雲中 山西省大同市。
35
三月、粘没喝は遼の奚王を北安州(1)で破り、その城を抜いた。
谷神をやって近隣の地を攻略し、遼の護衛・習泥烈を捕らえると、遼の上下の者の心が離れているのを知り、斜也に知らせて言った。
「遼の主は追い詰められている。好機を失すればどのようなことになるかわからない。」
シエは意を決しかねていたが、斡本がこの言に従うよう勧めた。シエは青嶺を出、ネメガは瓢嶺を出、羊城濼で落ち合うことにした。
(1)北安州 河北省承徳市の西。
遼の主は雲中にいたが、金の兵を恐れていた。蕭奉先はなおも言った。
「女真はよく上京を攻めるでしょうが、本拠地から遠く離れることはできません。」
金軍が嶺西を出たと聞くと、遼の主は白水濼に向かった。ネメガは精鋭六千でこれを襲い、行宮に迫ろうとしていた。遼の主はどうすればよいかわからず、軽騎に乗って夾山(2)に入った。遼の主はここで初めて蕭奉先の不忠を悟り、怒った。
「貴様ら父子は私をだましてこのようなことになった。お前を殺して何になる!兵たちの怒りを恐れ、お前たちは敵を避けて一時の安逸をむさぼってきたが、災いは私に降りかかってくる。もうついてくるな。」
蕭奉先は馬を下り、泣きながら拝礼して去っていった。しかし、数里も行かぬうちに側近が蕭奉先父子を捕らえ、縛り上げて金軍のもとに送った。金人は長子蕭昂を斬り、蕭奉先と次子蕭昱を金の主のもとに護送した。その途上で遼軍に遭遇し、身柄を奪って遼の主のもとへ帰されたが、二人とも死を賜った。蕭得里底は許されないであろうことを悟り、絶食して死んだ。
(2)夾山 内蒙古自治区フフホト市の北西にある山。
36
十七日、遼の人は秦晋国王・耶律淳を帝とした。
これ以前、遼の主が雲中に逃げたとき、留南府宰相・張琳、参知政事・李処温と耶律淳が燕京(1)を守っていた。李処温は遼の主が夾山に入ったと聞き、命令のやり取りができなくなった。そこで、族弟の李処能と子の李奭と謀り、外は怨軍を借り、内は都統・蕭幹と結び、耶律淳を帝に擁立することにした。李処温が張琳にこのことを伝えると、張琳は言った。
「摂政ならばよい。だが、正式に即位してはならない。」
李処温は言った。
「今日のことは天意と人事が定まってのことだ。変えてはならん。」
張琳はあえて李処温を捕らえようとせず、諸大臣の耶律大石・左企弓・虞仲文・曹勇義・康公弼とともに、蛮人・漢人の百官、諸軍および長老数万人を集めて耶律淳の政庁に赴き、唐の霊武の故事(2)を引き帝位につくことを勧めた。耶律淳はこれを許さず、政庁を出ようとしたが、李奭が黄袍(3)を着せ、百官に跪拝して舞い、山呼(4)させた。耶律淳は驚いて再三辞退したが、結局はこれに従った。
(1)燕京 河北省北京市。
(2)唐の霊武の故事 安史の乱の際、玄宗が蜀に逃げたとき、粛宗が霊武(寧夏回族自治州霊武市)で即位したことを指す。
(3)黄袍 皇帝専用の黄土色の服。
(4)山呼 額を地につけ万歳を唱えるのを三度繰り返すこと。
群臣は尊号を奉って天錫皇帝とし、元号を天福とし、妻の蕭氏を徳妃とした。妃は耶律普賢の娘である。李処温に太尉、張琳に太師を与え、その他の者、擁立計画に加わった者にはそれぞれ官職が与えられた。怨軍を常勝軍に改め、軍事はすべて大石に預けた。遼の主を湘陰王に降格させた。燕・雲中および上京・遼西の地を本拠とした。遼の主が領有するのは、砂漠以北と西南・西北路の両都招討府(5)の諸蛮族のみとなった。耶律淳は金に使者をよこしてこのことを知らせ、歳幣を免除して通好しようとした。また、使者を遣わして金に上奏し従属することを願い出たが、金の人は返答しなかった。
耶律大石は太祖の八代目の孫であり、遼の文字と漢字に通じており、騎射を得意とし、進士に及第し、翰林学士承旨に抜擢された。遼では翰林を林牙というため、大石林牙と称された。
(5)西南・西北路の両都招討府 西南招討府は内蒙古自治区フフホト市の東。西北招討府はモンゴル・ウランバートルの西。
37
金人が遼の西京大同府(1)を攻撃した。遼の耿守忠が救援に向かった。粘没喝・謀良虎・斡本らが相次いで到着した。ネメガは兵を率いて自ら城中に突撃し、兵に馬を走らせ、近づいて遼軍を射撃した。耿守忠は大敗し、兵は全滅した。西京西路の州県・部族はみな金に降った。
(1)西京大同府 山西省大同市。
38
夏四月、金は遼の東勝州(1)を奪取し、阿疎を捕らえて金に護送した。金の主は杖刑に処したうえで釈放した。
(1)東勝州 内蒙古自治区トクト県。
39
六月、遼の耶律淳が病に倒れた。遼の主が檄文を天徳・雲内・朔・武・応・蔚等の州に配り、蛮族の騎兵五万を集結して八月に燕に入ることを約し、人をやって耶律淳を見舞おうと衣服や茶・薬を探し求めていると聞き、耶律淳は大変に驚き、北面・南面の大臣に議論させた。
李処温・蕭幹らには秦王・耶律定を迎えて湘陰王(天祚帝)を退けようとの考えがあった。ここで南面行営都部署・耶律寧が言った。
「天祚帝はよく兵を集め大挙して燕を奪うでしょう。つまり天祚帝の命運はまだ尽きておらず、退けることができるでしょうか?そうでなくとも秦王と湘陰王とは父子の間柄なのです。子を迎えておきながら父を退ける者がどこにいるのでしょうか?」
李処温らは耶律寧が士気を乱しているとして、これを殺そうとした。耶律淳は言った。
「彼は忠臣だ。殺してはならぬ。天祚帝が来れば私には死あるのみ。何の面目あって相まみえようか。」
40
耶律淳は病に倒れると、もはや立ち上がれないことを悟り、密かに李処温に蛮・漢馬歩軍都元帥の座を与え、後事を託した。蕭幹らが宰相らを呼んで話し合おうとしたが、李処温は病と称して出席しなかった。そして勇士を集めて謀略の準備をし、
「密命に従い変を防ぐのだ。」
と偽った。
耶律淳が死ぬと、蕭幹らは耶律淳の妻を皇太后に立てて軍事と国政を司らせ、遺命に従い秦王・耶律定を帝に立てた。蕭后が摂政となり、徳興と改元し、耶律淳に孝章皇帝と諡し、廟号を宣宗とし、燕の西の香山に葬った。蕭后が摂政となると、蕭幹は后の命により李処温を呼び出した。多難のときであったため処罰はしなかったが、元帥の辞令は破棄させた。
李処温父子は今後の災厄を恐れ、南は童貫と通じて蕭后を宋に帰服させるよう企み、北は金と通じて内応しようとした。事が発覚すると、后は李処温を捕らえて問い詰めたが、李処温は天子を立てた功があると言った。后は言った。
「秦晋国王(耶律淳)を誤らせたのはそなたら父子だ。何の功があるというのだ!」
そして過去の罪悪数十を数え上げると、李処温は何も答えなかった。死を賜り、子の李奭は切り刻まれたうえ磔に処された。
家を没収すると銭七万緡が得られ、金玉や宝物に相当した。すべて宰相らによって数ヶ月にわたり費やされた。
41
夏の主は李良輔に兵三万を率いて遼の救援に向かわせたが、金の将斡魯・婁室が宜水でこれを破った。野谷まで追撃したところ鉄砲水に遭い、夏の人は水没する人が数え切れないほどだった。
42
八月、金の阿骨打は石輦駅で遼の耶律延禧(天祚帝)を襲撃した。延禧は敗走した。
遼の主は西京と砂漠以南を失うと訛莎烈に逃げた。金の斜也と斡離不は金の主に言った。
「今雲中が新たに平定されましたが、諸路の遼兵はなお数万おり、新たに降った民もその心はまだ帰服の方向には固まらず、諸将は軍功を立てて昇進したいと思っています。」
金の主はこれに従った。
遼の主が大漁濼にいると聞くと、自ら精鋭万人を率いてこれを襲った。蒲家奴・オリブが兵四千を率いて先鋒となり、昼夜兼行して遼の主を石輦駅まで追った。追いついた兵はわずか千人に過ぎず、遼の兵は二万五千であり、砦を築いていた。蒲家奴は諸将と軍議を開いた。耶律余覩は言った。
「わが軍はまだ集結しておらず、人馬ともに疲れが激しく、戦える状態にはない。」
オリブは言った。
「今遼の主を追い詰めておきながら、すぐに戦わず日が経てば逃げてしまい、追いつけなくなる。」
これを受け戦うことに決した。
武器がぶつかり合い、遼の兵が何重にも包囲し、副統軍・蕭特烈が君臣の義を軍中に説き、兵は決死の覚悟で戦った。遼の主はオリブの兵は少なく、必ず負けると言い、妃嬪を連れて丘に登り観戦した。余覩は遼の主の傘を諸将に指し示し、オリブらは騎兵を率いてこれに駆け寄った。遼の主はこれを望み見て大いに驚き、すぐに逃げたため遼の兵は壊乱した。オリブらが帰還すると金の主は言った。
「遼の主はまだ遠くへは行っていないはず。直ちにこれを追え!」
オリブが烏里質駅まで追撃すると、遼の主は輜重を捨てて逃げ、蕭特烈が捕らえられた。
43
十二月、金は遼の燕京を攻略した。
金の主は三つの道に分けて兵を進め燕を攻めた。遼の蕭后は金に五回上奏して秦王・耶律定を立てることを求めたが、金の主は許さなかった。遼の人は精鋭をもって居庸関(1)を守った。
金の兵が居庸関に着くと、崖の上の石が崩れて遼の兵の多くが圧死し、遼の人は戦わずして壊滅した。金の兵は居庸関を通って南に向かい、遼の統軍都監・高六らが金に帰順した。金の主が燕京に到着すると南門から攻め入り、銀朮可・婁室が城に並んだ。金の主は城の南に臨み、遼の宰相・左企弓、参政・虞仲文、康公弼、枢密使・曹勇義、張彦忠、劉彦宗らが降伏文書を携え金の軍営に来て罪を請うた。金の主は彼らを許してもとの職を続けるよう命じ、左企弓らを燕京の州県の鎮静に向かわせた。蕭徳妃と蕭幹は古北口(2)から天徳(3)へ逃げた。
ここにおいて遼の五京はすべて金の領有となった。
(1)居庸関 河北省昌平区の北西。
(2)古北口 河北省古北口鎮。
(3)天徳 内蒙古自治区包頭市の西。
44
五年(1123)春正月、遼の知北院枢密事・奚の回離保が箭笴山で自立して奚国皇帝となり、天復と改元した。奚・漢・渤海の三枢密院を置き、東・西節度使を二王に改め分担統治した。遼の主は都統・耶律馬哥にこれを討伐させた。
45
二月、遼の主は四部族のもとへ逃げた。蕭徳妃が謁見に来ると、遼の主は怒ってこれを殺し、耶律淳を追降して庶民としたが、その一派は許した。蕭幹は奚に逃げた。
46
夏四月、金は斡魯を都統とし、斡離不を補佐とし、陰山(1)で遼の主を襲撃した。
居庸関で耶律大石を捕らえた。斡魯はオリブ・銀朮可・婁室らに兵三千を率いて道を分けて遼の主を襲撃させたが、青冢(2)付近で泥濘により進むことができなくなった。オリブは大石を縄でつないで先導役とし、遼の軍営に直行し、斡魯らの大軍が相次いで到着した。
このとき遼の主は応州(3)にいた。子の秦王・耶律定、許王・耶律寧および宮女や官僚はみな捕らえられ、万余両の輜重を失った。太保・特母哥が遼の主の次子梁王・雅里と長女特里を混乱に乗じて連れ出し、遼の主の軍のもとに逃げることができた。
斡魯の兵が埽里門まで来ると、書状を認めて遼の主を呼び寄せようとした。遼の主は金城(応州)から向かったが、秦王らが金の人に捕らえられたのを聞いて東に向かった。このため金軍は兵五千余を率いて白水濼で迎え撃った。オリブは兵千余でこれを破り、遼の主は逃走した。金人は遼の主の長子趙王・蕭習泥烈を捕らえ、二十里追走して馬を捕らえ、これとは別に遼の戦馬一万四千匹、車八千両を鹵獲した。
遼の主は紐をほどいた金印を使者に持たせて金へ偽って投降し、西の雲内(4)へと逃げた。オリブはまたも書状により遼の主を呼び出そうとし、石晋の北遷を例えに出した。遼の主は弟として子のように扱い、土地を賜るよう返書に書いた。オリブは許可しなかった。
(1)陰山 内蒙古自治区フフホト市の北にある山。
(2)青冢 内蒙古自治区フフホト市の南。
(3)応州 山西省応県。
(4)雲内 内蒙古自治区フフホト市の南西。
47
五月、夏の主・李乾順が使いをよこして遼の主に夏まで来るよう求めた。遼の主はこれに従った。中軍都統・蕭特烈らは強く諫めたが遼の主は聞き入れず、黄河を渡って金粛軍(1)の北まで行った。人々は恐れてなす術がなかった。蕭特烈は耶律元直に言った。
「情勢がこのようなことになり、民の心は離れた。まさにわれらが忠義を尽くすときだ。早急に計をなさねば国家はどうなるのか。」
そしてともに遼の主の第二子・耶律雅里を脅して西北部に逃げ、三日後、帝に擁立した。神歴と改元し、蕭特烈を枢密使とし、特母哥がこれを補佐した。
(1)金粛軍 内蒙古自治区ジュンガル旗の北。
48
奚の回離保が臣下に殺された。
49
金が使者を夏に遣わした。
このとき斡離不は天徳に赴いており、夏が遼の主を迎えて庇護しようとしており、遼の主が黄河を渡ったと知った。そこで夏に書状を送り、遼の主を捕らえて金に送るよう求め、土地の割譲を許した。
50
八月、金の主・阿骨打は燕京に赴いたが、このとき病にかかった。粘没喝を都統とし、蒲家奴・斡魯がこれを補佐し、雲中に兵を置いて辺境の備えとしたうえで帰還したが、部堵濼に着いたところで死んだ。国論勃極烈・斜也らはアクダの弟の暗班勃極烈・呉乞買に即位するよう要請し、名を晟と改め、天会と改元した。アクダに諡して大聖武元皇帝とし、廟号を太祖とした。シエをアンバンボギレ、斡本をグルンボギレとし、政事を補佐させた。オベンはアクダの長子であった。
51
冬十月、遼の耶律雅里が死に、蕭特烈らは耶律朮烈を帝に擁立した。朮烈は興宗の孫である。
52
十一月、遼の耶律朮烈と蕭特烈が乱戦の中で殺された。
53
六年(1124)春正月、夏は把里公亮を送り、遼が礼をもって仕え、金に対し藩を称するため、土地を与えるよう要請した。粘没喝はこれを受け下寨以北、陰山以南、乙室邪剌部の吐禄濼の西の地を与えた。これより両国の使者の往来が絶えなくなった。
54
秋七月、遼の主・耶律延禧は再び黄河を渡り、突呂不部に居を定めた。耶律大石が金から帰還すると、遼の主はこれを責めて言った。
「私がいるというのに、お前はなぜ淳を帝に立てたのだ!」
「陛下は全国に渡る権力があるというのに一度も敵を防ぐことができず、国を捨てて遠くへ逃げ、民を塗炭の苦しみに陥れました。十度淳様を擁立したとて、みな太祖の子孫なのです。他の者に命を乞うよりよくはありませんか?」
遼の主は何も答えず、酒食を与えて許した。
55
金は遼の軍営を襲い、遼の主は北へ逃げた。謨葛失という者があり、遼の主を自分の部族に迎え入れ、謹厳に仕えた。遼の主は烏敵烈部に入ることができた。遼の主は耶律大石と謨葛失の兵を得、天の助けだと言い、出兵して燕雲を奪回しようと考えた。大石は諫めた。
「先に全軍をもって戦ったときは戦備を整えず、全国が金の領有に帰しました。国勢がこのような状況になったというのに戦いを求めるのは上策ではありません。兵を養い時を待ってから動くべきです。軽挙はなりません。」
遼の主は聞き入れず金人と戦ったが、山陰に敗走した。
56
七年(1125)春正月、遼の主・耶律延禧が夏に逃亡しようとしたとき、党項の小斛禄が遼の主に自分の国へ来るよう勧めた。遼の主は天徳に向かった。砂漠を過ぎたとき金の兵が突如現れ、遼の主は徒歩で逃げだし、従者の馬に乗って逃げおおせた。途中で食糧が尽き、従者は氷雪をかじって飢えをしのいだ。天徳を過ぎて夜になり、民家に泊まろうとしたとき、「偵察隊だ。」と偽った。家の者は遼の主であることを知ると額を地につけ、跪いて慟哭した。この家に泊まってからタングートへ向かった。小斛禄を西南面招討使とし、軍事を統括させた。
57
二月、遼の主は応州の新城の東六十里の所に行き、金の将・婁室に捕らえられ、金に送られた。
58
八月、耶律延禧を廃立して海浜王とした。遼は滅亡した。
59
遼の耶律大石が起児漫(1)で帝を称した。
これ以前、大石は遼の主が諫言を聞き入れなかったことにより、北院枢密・蕭乙薛を殺し、自立して王となり、みなを率いて西へ向かった。可敦城(2)に着いたとき、北庭都護府に駐屯し、西辺の七州十八部を接収して遼の復興を説いた。そして精鋭万余を得、官吏を置き、排甲(民の基層組織)を立て、兵器を整えた。
また、回鶻王・畢勒哥に書状を送り、領内の道を通る許可を取った。畢勒哥は書状を受け取ると自邸に大石らを迎え入れ、子孫を人質として預けるよう求め、領外まで送った。
途中敵対する者があればこれを倒し、降伏する者があればこれを安撫し、兵は万里を行き、数ヵ国が帰服し、数え切れないほどの牛・羊・駱駝・馬を手に入れた。
尋思干(3)まで来ると、西域諸国が兵十万をもって挙兵して忽児珊と号し、戦いを挑んできた。大石は軍を三つに分けて進撃し、大いにこれを破り、死体が数十里に渡って続いた。尋思干に駐屯すること九十日、回回王が来降し、貢納品を献上した。さらに西に行き、起児漫に着いた。群臣は大石を帝に冊立し、延慶と改元した。天祐皇帝と号し、妻の蕭氏を昭徳皇后とした。これが西遼である。
(1)起児漫 ウズベキスタン・ブハラの東。
(2)可敦城 モンゴル・ウランバートルの西。
(3)尋思干 ウズベキスタン・サマルカンド。