巻54 方臘之乱(宋江附)

Last-modified: 2023-09-24 (日) 04:51:04

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徽宗(きそう)宣和二年(1120)冬、(ぼく)(1)清渓の民・方臘(ほうろう)が反乱を起こした。

方臘は代々(あつ)村に住み、妖術によりみなを惑わしていた。これ以前、唐の永徽(650~656)中に睦州の女子・陳碩真(ちんせきしん)が反乱を起こし、文佳皇帝を自称した。このため同地に天子の地相があると伝えられ、方臘はこれに仮託して自らを陳碩真の生まれ変わりであると信じた。

県境の梓桐(しとう)幫源(ほうげん)の諸洞は深山幽谷の険しい土地であったが、物産は豊富で、漆や(こうぞ)といった木材に恵まれ、多くの豪商が行き来していた。方臘も漆の園を所有していたが、造作局がたびたび厳しく税を取り立てた。方臘は恨んでいたが反乱を実行することはなかった。このとき朱勔(しゅべん)による花石綱が行われ、世の人々はこれを恨んでいた。

方臘は民がこれに堪えかねているのを見て、貧困者・失業者を集め、朱勔を誅殺することを名目として乱を起こした。自らを聖公と号し、元号を永楽とし、官吏・将領を置き、頭巾(ずきん)の色で階級を区別し、紅巾を最下として六階級に分かれていた。弓矢・甲冑(かっちゅう)を持たず、専ら鬼神や神秘により人々を惑わしていた。家を焼き、金品や子女を略奪し、良民を脅かして兵にした。みな太平に安んじて戦を知らなかったが、金鼓の音を聞くと拱手(きょうしゅ)して命令を聞いた。十日もしないうちに兵数万が集まった。両浙(りょうせつ)都監・蔡遵、顔坦(がんたん)がこれを攻撃したが、息坑に敗死した。

(1)睦州 浙江省建徳市。

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十二月、方臘(ほうろう)は清渓を攻め落とし、(ぼく)(きゅう)(1)を陥落させ、東南の将・郭師中が戦死した。北進して桐廬(とうろ)・富陽諸県で略奪を行い、(こう)州に迫った。郡守・趙霆(ちょうてい)が城を捨てて逃げ、杭州は陥落した。制置使(2)・陳建、廉訪使・趙約を殺し、火を放つこと六日、死者は数え切れないほどであった。官吏を捕らえれば必ず肢体を切り刻んで肺や腸を引きずり出し、あるいは油で炒め、矢を乱射して酷刑に処すなどして人々の溜飲(りゅういん)を下げた。

警告が京師に届けられたが、このとき兵を集めて北伐(金との遼挟撃作戦)が計画されていたため、王黼(おうほ)はこれを報告しなかった。このため方臘の勢いは増し、つき従う者がますます多くなり、東南は大いに動揺した。淮南(わいなん)発運使(3)陳遘(ちんこう)は上言した。
「方臘の兵は強く、東南の兵は弱いです。京畿(けいき)の兵および(てい)(4)(れい)(5)の兵を急ぎ徴発し、方臘をのさばらせないようお願いします。」
帝はこの上奏文を読んで大変驚いた。

このため北伐の計画を中止し、童貫を江・淮・(けい)(せつ)宣撫使(せんぶし)譚稹(たんしん)を両浙制置使とし、中央軍および秦(陝西(せんせい))・晋(山西)の蛮漢の兵十五万を率いて討伐に向かわせた。

(1)歙州 安徽省歙県。
(2)制置使 一地方の軍の長官。
(3)発運使 物資の輸送を担当する官。
(4)鼎州 湖南省常徳市。
(5)澧州 湖南省澧県。

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三年(1121)春正月、方臘(ほうろう)()(1)を陥れ、また()(2)を陥れた。知衢州事・彭汝方(ほうじょほう)が捕らえられ、賊をののしりながら死んだ。賊は城中で殺戮(さつりく)を行った。

(1)婺州 浙江省金華市。
(2)衢州 浙江省衢州市。

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二月、方臘(ほうろう)は処州(1)を陥れた。また、将・方七仏に兵六万を率いて秀州(2)を攻撃させた。統軍・王子武がこれを防いだ。朝廷の大軍が到着して賊を合撃し、九千の首を斬った。賊は(こう)州に戻った。

(1)処州 浙江省麗水市。
(2)秀州 浙江省嘉江市。

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夏四月、童貫は方臘(ほうろう)を攻撃してこれを破り、方臘を捕らえて帰った。

童貫・譚稹(たんしん)の先鋒は青河(えん)に到着すると、水陸から並進し、たびたび方臘を撃破した。方臘は官舎・府庫・民家を焼いて夜に逃げ、清渓の幫源洞(ほうげんどう)に戻った。諸将の劉延慶・王禀(おうひん)王渙(おうかん)楊惟忠(よういちゅう)・辛興宗・王淵(おうえん)らが相次いで到着し、陥落した城をすべて回復した。童貫らは兵を合流して幫源洞で方臘を攻撃した。方臘の兵はなお二十万あり、官軍と力の限り戦い、三つの洞穴深くに立てこもり、諸将はどうやって入ればよいかわからなかった。王淵の部将・韓世忠が渓谷に行き、野婦に尋ねて道を知り、身を挺して進んだ。険しい場所を数里渡り、洞穴に突入して数十人を殺し、方臘を捕らえて出てきた。辛興宗は兵を率いて洞穴の入り口を塞ぎ、略奪して自分の功績とし、方臘の妻子と賊の宰相・方肥らを捕らえ、反乱軍はついに壊滅した。

方臘の乱は、六州五十二県を破り、平民二百万を殺害した。さらわれた婦女が賊の洞穴から逃げ出し、林の中で裸のまま首を吊った者が百余里に渡って見られた。

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五月、御史中丞・陳過庭を黄州(1)に安置した。

陳過庭は(ぼく)州の反乱が起ころうとしているとき上言した。
「乱に至らしめた者は蔡京、乱を養った者は王黼(おうほ)であります。二人を流罪にすれば乱はおのずから平定されます。」
また、こうも言った。
朱勔(しゅべん)父子は宦官の小人であり、権臣と結託して名品を奪い取り、罪悪に満ちています。処刑して天下に謝罪すべきです。」
蔡京・王黼・朱勔の三人はこれを聞いて恨み、ゆえに左遷した。

(1)黄州 湖北省黄陂(こうひ)区。

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八月、童貫に太師を与え、楚国公に封じた。方臘を平定した功績を賞したためである。方臘は処刑され、(ぼく)州を厳州に改め、(きゅう)州を()州に改めた。

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宣和三年(1121)二月、淮南(わいなん)の盗賊・宋江が京東の州郡を攻撃し、海州(1)に到達したが、張叔夜がこれを破り、宋江は降伏した。

宋江は盗賊となり、三十六人で河朔(かさく)(黄河以北)を縦横に行き来し、十郡で略奪を働いたが、官軍はこれと戦おうとしなかった。知(はく)(2)侯蒙(こうもう)は上言した。
「宋江の才は人に過ぎるものがあります。これを許し、方臘(ほうろう)を討たせて贖罪(しょくざい)させるのがよろしいでしょう。」
帝は侯蒙を知東平府(3)としたが、任地に赴かないうちに亡くなった。また、張叔夜を知海州とした。

宋江が海州に向かうと、張叔夜は間者に宋江の行く先をうかがわせた。宋江は砂浜に行くと大型の船十余を奪い、鹵獲(ろかく)した物資を載せた。張叔夜は決死の士千人を募り、城の近くに埋伏させ、軽装の兵を海に行かせ、宋江をおびき出して戦った。先に勇猛な兵を海の近くに隠しておき、兵を合流させ、火を放って船を焼いた。賊はこれを聞いて闘志を失った。伏兵がこれに乗じて賊の補佐役たちを捕らえ、宋江は降伏した。

(1)海州 江蘇省連雲港市付近。
(2)亳州 安徽省亳州市。
(3)東平府 山東省東平県。