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英宗治平元年(1065)夏四月九日、詔を下して濮王(趙允譲。英宗の父)を尊ぶ儀礼について議論させた。
知諫院・司馬光は、帝がいずれ必ず実父を追尊するであろうことから、次のように上奏した。
「漢の宣帝は孝昭(昭帝)の後を継ぎましたが、衛太子(1)・史皇孫(2)を追尊することはありませんでした。光武帝は元帝の後を継ぎましたが、やはり鉅鹿南頓君(3)を追尊することはありませんでした。これは万世の掟なのです。」
間もなくして韓琦らが言った。
「礼はその根本を疎かにせぬものです。濮安懿王は徳が豊かで位が高かったお方で、敬意を表すべきであり、有司に議論させるようお願いします。王および夫人の王氏・韓氏・仙遊県君任氏に対して儀礼を行い、人情に配慮すべきです。」
帝は大祥(4)の後このことを議論させた。
(1)衛太子 劉拠。前漢の武帝の長男で母は衛皇后。宣帝の祖父。巫蠱(ふこ)の獄に際して反乱の兵を挙げるも敗死した。
(2)史皇孫 劉進。劉拠の子。母は劉拠の側室の史良娣(しりょうてい)。宣帝の父。巫蠱の獄に連座して処刑されたが、子の劉病已(りゅうへいい)は処刑を免れ、後に宣帝となる。
(3)南頓君 劉欽。光武帝の父。南頓は河南省項城県の北。
(4)大祥 父母の死後二周年のときに行う儀礼。
ここに至り、礼官に詔を下して待制以上の者らと論議させた。翰林学士・王珪らが様子を眺め合って先に上奏しようとしないなか、司馬光はひとり直言をもって建議した。そのあらましは以下の通りであった。
「他家を継ぐ者は他家の子なのであり、実父を気にかけてはなりません。慎みと仁愛の心を実父に分け与えれば、その家だけにその心を注ぐことができません。秦・漢以来、帝王に傍系の血筋から帝室に入り帝位を継ぐ者があれば、その者の父母を尊んで皇帝と皇后とすることがありましたが、みなその当時は非難され、後世にあってもそしられました。我々はこれを本朝の掟とすることはできません。まして前代までに帝位を継いだ者は、多く皇帝が薨去した後、その者を帝位に立てる策が母后や臣下から出されたのです。仁宗皇帝のときのように、まだ老いないうちに宗廟の重みに深く思いを致し、宗室の中から選んで皇帝に推し、帝位を授けるというものではありませんでした。
陛下は自ら先帝の子となり、天下と宗廟を継がれ、天下に光明をもたらしました。濮安懿王は天が遣わした陛下の親であり、陛下を育てた恩があるとはいえ、陛下が皇帝の衣服をまとって政治をとり、子孫代々に受け継がれるのは、飽くまでも先帝の徳によるものです。思うに濮王については、先朝が近しい親族・尊属に王位や封土を与えていたことにならい、高官と大国を与えることによって尊ぶこととし、譙国・襄国・仙遊は太夫人に封ずべきです。これを古今の事例に照らし合わせるに、誠に称えるべきであります。」
これを受け、王珪は直ちに司馬光の手稿により議案とするよう官吏に命じた。意見が報告されると、中書が「王珪らの議論は、濮王が誰の親であると称するのか、諡を与えるかどうかをまだ詳しく審議しておりません。」と、上奏した。王珪らは、濮王は仁宗の兄であり、帝は濮王を皇伯と称して諡を与えないよう提案した。欧陽脩は『礼記』「喪服大記」を引用し、次のように述べた。
「『礼記』には、『他家を継ぐ者は、実の父母のための喪を三年から一年に短縮し、父母の名を失うことのないようにする』とあります。従って、喪服の等級を下げたとしてもその名を失ってはなりません。実の親を皇伯と改めるというのは、前代までの歴史に照らし合わせても典拠がありません。大国を進封することについても、礼に基づいて爵位を与えるという方法がありません。尚書に三省・御史台を集めて詳しく議論させるよう願います。」
太后は自筆の詔を下し、宰相を譴責した。帝は「議論がまとまらないようであれば一時これを中止し、有司に広く典故を求めて報告させよ。」と、詔した。
2
三年(1066)春正月、濮王を追尊することの議論に決着がつかず、侍御史・呂誨、范純仁、監察御史・呂大防が経書の文章を引用して強く反対した。彼らは王珪の意見が正しいと考え、これに意見に従うよう求めた。彼らは七度上奏するも帝からの返答は得られなかった。そこで韓琦を専権と迎合の罪で弾劾して言った。
「昭陵(仁宗の陵墓)の土がいまだ乾かないうちに濮王を追尊することにより、陛下の実父の地位を高め、養父の地位を貶め、傍系を崇めて嫡系を絶たんとしている。」
また、皆でこのように弾劾した。
「欧陽脩は不正な議論を最初に提唱し、道理を枉げて君主の道を説き、利を貪り先帝に背き、陛下を誤った行いに誘い込み、韓琦・曽公亮・趙槩は不正な意見に追随しました。みな左遷するようお願いします。」
帝からの返答はなかった。
中書もまた上言した。
「皇伯の名は荒唐無稽であり、決して称すべきではない旨、明確に詔を下されるようお願い致します。今定めようとしているのは濮王の称号のみです。濮王の廟を京師に建てて綱紀を乱すようなことは、朝廷の本意ではありません。」
帝は中書の意見に従わざるを得ないと思ったが、いまだ詔を下さずにいた。やがて皇太后が自筆の詔を中書に下し、濮王を尊んで皇、その夫人を后、皇帝を親と称すべきであるとした。帝は詔を下して謙譲の意を示し尊号を受けなかったが、親と称し、濮王の陵墓に出向いて廟を建て、王子趙宗樸を濮国公とし、祭祀を行った。臣下と民に王の諱を使用させないようにした。みな太后の追尊と帝の謙譲は中書の意図によるものだと考えた。
呂誨らは上奏した意見が採用されなかったことにより、御史に叙任する詔を返納し、自邸で断罪されるのを待った。帝は閣門(1)に命じ、勅命により彼を復職させようとした。呂誨は御史台の職に就くのを強く拒み、宰相の権勢により他の官が存立しづらくなっていると言った。帝は宰相に下問し、韓琦・欧陽脩らは「御史は道理は並立しがたいものと考えているのです。我々に罪があるとすれば、御史を留めおくべきです。」と答えた。帝は長らく躊躇していたが、御史を朝廷から出すよう命じ、呂誨を知蘄州(2)に、范純仁を安州(3)通判に、呂大防を知休寧県(4)に左遷した。このとき、契丹に使者に出向いていた趙鼎・趙瞻・傅尭兪が帰朝した。彼らは以前、濮王の件について呂誨と語り合ったことがあったため、上疏してともに左遷してもらうよう願い出た。これを受け、趙鼎を淄州(5)通判に、趙瞻を汾州(6)通判に左遷した。帝は傅尭兪に気を配り侍御史の職を与えたが、傅尭兪は「呂誨らが朝廷を追われたのです。道理として朝廷に留まるわけにはいきません。」と言った。帝はやむを得ず、彼を知和州(7)とした。知制誥・韓維と司馬光は呂誨らを朝廷に留めおくよう求めたが、帝からの返答はなかった。このため呂誨らと同じく左遷されるよう願い出たが、これも許されなかった。侍読・呂公著は、「陛下は即位以来、諫言を聞き入れる様子がありません。それでいて諫官をなじっております。これでどうやって天下を教化するというのですか?」と言った。帝は聞き入れなかった。呂公著は地方への赴任を願い出て、知蔡州(8)となった。
呂誨らが地方に出されると、濮議も中断された。
(1)閣門 閤門使に同じ。朝会・宴会・行幸を司り、詔勅を受け取る官。
(2)蘄州 湖北省蘄春県。
(3)安州 湖北省安陸県。
(4)休寧県 安徽省休寧県。
(5)淄州 山東省淄博市。
(6)汾州 山西省汾陽県。
(7)和州 安徽省和県。
(8)蔡州 河南省汝南県。
3
程頤は言った。
「諫言の臣たちは親と称することの過ちを理解しておりますが、追尊の礼をわきまえておらず、濮王を帝室の祖先らと同格に考えております。もし濮王を『皇伯父濮国大王』と尊称するならば、濮王に対し尊崇の道を極め、仁宗に対し疑いの心を持つことがなくなるでしょう。」
4
欧陽脩は『為後或問』(後継者についての問い)上篇のなかで、以下のように述べた。
「『他家を継ぐ者が、生みの親との関係を絶たないのは正しいことですか?』
『正しい。古人は関係を絶たずに降服(1)した。』
(1)降服 喪服の等級を下げること。
『どうしてそれがわかるのですか?』
『『書経』にそのことが書かれている。』
『降服して関係を絶たずとはどういう意味ですか?』
『降服とは親子の関係を絶たないための措置であり、もし関係を絶てば降服もしないことになる。降服とは関係を絶たないということである。それは『礼記』に、「他家を継ぐ者は、生みの父母に対する喪を三年から一年に降服し、父母の名を改めない」とある通りだ。』
問者は言った。
『今の人はこう言います。他家を継ぐ者は必ず生みの親が自分を生んでいないものと見なし、養父の尊卑と血縁の遠近により、養父を兄とするならば、これを伯父とする。弟とするならば、これを叔父とする、と。だとすればいかがなものでしょうか?』
私は言った。
『それがどんな考えによるものか、私には分からない。その説の通りだとすれば、その父母の名を消し、養父の尊卑と血縁の遠近、つまりは本家の長幼の順序により、血縁の遠近と地位の軽重に従っておのずから喪に服するものである。聖人が必ずしも降服を定める必要はない。だから私は親子の関係を絶てば降服もしないことになると考えるのだ。
これを考えるに聖人はそうではなかった。昔の聖人の礼の定め方というのは、他家を継ぐ者はその父母に対し、養父の尊卑と血縁の遠近によらず別のものとし、直ちに父子の間よりもその喪服の等級を降すのみであった。親に対しては降服してはならない。降服するのはその他の者に対してだけだ。喪服とはこういうものだ。必ず降服するというのは、それにより断絶を示すということだ。長男の家系の重みを受け継ぎ、父祖を尊んでこのために断絶するのみであり、父母との関係を断絶することで養父の地位を高めるのだ。この世に生まれて父母より重いものはない。だというのにその関係を断絶するというのは、嫡子の家系を受け継ぐことにもそれだけ重みがあるということだ。強いて他家の後継者となるのは、これを受け継ぐことの重みを知り、人の任用を専断するのだ。これが道理をもって定めるということだ。
父子の道は天性のものだ。これには大義をもって臨み、他の者に対しては降服すべきである。これを至仁に基づかせ、天性に基づく関係を絶ってはならない。人道を絶って天理を滅するというのは、不仁者でもしないことだ。ゆえに聖人の服喪の定め方とは、三年の喪を降服して一年とし、父母の名を消さないということだ。そして六経に「他家を継ぐ者は実の父母のために報いる。」と明言し、降服してもよいが父母の名を消すべきでないとしたのだ。これは降服して親子の関係を絶たずというものであり、仁があるというものだ。
事があれば両方を得ることはできず、勢いがあれば両方を追いやることはできず、ここに子たればあちらに子たることはできない。これは巷の人がみな知るところである。ゆえに「他家を継ぐ者は他家の子である。」と言われるのだ。これは世間一般の論であり、聖人の言ではない。これは漢代の儒家の説であり、衆人のよく知るところである。『礼記』の内容を質そうとするのは正しくない。子夏の喪服についての伝えは、世間一般の論と同様であれば多言を要せず、ただ一言「他家を継ぐ者は他家の子である。」と述べておけば、その父母が関係を絶つのは自分を生んだことがないかのようにおのずと見なされるのであり、おのずと一律に養父の尊卑と血縁の遠近を基準とするようになるのである。どうして子夏がひとり間違っていようか。
『書経』の伝えには、「他家の親の子は、実の子と見なす。」と、そのことについて詳しく言っている。子と見なすとは、養父の実の子が別居しているものと見なすいうことであり、その親族は一律に養父の尊卑と血縁の遠近によってその位置付けが決まるのだ。それゆえ、「他家の祖父母と妻、妻の父母の兄弟、兄弟の子は実の子と見なす。」と言っているのだ。その子がいまだ家を継ぐに充分な資質を備えていないと疑われる場合、「他家の兄弟の子は実の子と見なす。」と言っている。これについて詳しく言えば、実の父母に対する服喪だけがふさわしくないのであり、別に自ら喪に服して「実の父母のために報いる」と言っている。実の父母があれば、他家の子でありながら実の子と見なすことができない。そのため他家の子が、実の子が別居しているものと考えるようにすれば、生みの親を自分を生んでいないものと見なすことができる。親子の関係を絶つこと甚だしいものがあるではないか。この人情に耐えがたい方法は、聖人も実行することはない。他家の生みの親を兄とし、これを伯父としようとしている。これは他家の実子が別居していると見なすということだ。伯父とすればおのずと喪に服すのだが、斉衰期(2)であってはならず、また「実の父母のために報いる」とは言わない。
(2)斉衰 喪服の一。麻で作り、裳を縫い合わせたもの。斉衰期(一年)・斉衰五月・斉衰三月の別がある。
およそ『書経』に見られ、子夏が区別しているものをみな採用せず、人情に耐えがたいところを耐えるというのは、一体何を考えているのか分からない。大義というのは、『礼経』を用いず、荒唐無稽な説を用いて実現できるものか?できるものではない。』
問者は言った。
『古の人はみな生みの親との関係を絶つことをしませんでした。だというのに、今の人がどうして間違っているのですか?』
『それはどういうことだ?今の人はみな正しいし、古の考えに新しい考えを付け加えている。今の『開宝礼』と『五服図』は国家の典礼となっている。みな「他家を継ぐ者は、生みの親の斉衰期に服す」と言っている。降服しているとはいえ、必ず正式な喪に服しているのは、父母の道があるということを示すものだ。「養父のために斬衰(3)三年に服す。」とは、重い喪に服するとはいえ、必ず他家の死者の喪に服すのは、礼にかなった制度を示すものだ。律令の文が五服と同じで、みな父母の名を改めず、これを『礼経』に質すに、これと合致して少しも異なることがなく、『五服之図』は三年の心喪(4)を加えている。三年というのは父母の喪である。他家を継ぐためとはいえ、身に降服することによって心に父母の喪を行うかのようにし、生みの親に対する恩を示し、心に親子の関係を絶ってはならない。そうであれば、今の人の行う礼は、古の人のそれに比して新たな考えが加えられているのだ。今の人が間違っているとはどういうことだ。』」
(3)斬衰 喪服の名。五服のうち、最も重い。麻で作り、下辺を断ったまま縁を縫わない喪服。子が父のために、臣が君のために、諸侯が天子のために、妻が夫のために、妾が君のために三年の喪に服するのに用いる。五服には、斬衰(三年)・斉衰(一年)・大功(九月)・小功(五月)・緦麻(しま)(三月)がある。
(4)心喪 喪服によらず、心だけで喪に服すこと。
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下篇で以下のように述べた。
「『子は生みの親との関係を絶ってはなりません。『書経』・『通礼』・『五服之図』・律・令を見るに、そのことが明確に書かれています。この親子の関係を絶ってはならないということについて、どうお考えですか?』
『聖人は人情をもって礼を定めるのだ。』
問者は言った。
『事あれば二つを得ることはできず、勢いあれば二つを追いやることはできない。そして、子のためにこれを行うことができて、あちらを行うことができないというなら、これは人情と呼ぶべきではないのではありませんか?』
『それは衆人の論であり、仁義を知らぬのだ。聖人の人情とは、ひとえに仁義に基づく。ゆえに二つを得て二つを追いやることができる。これが衆人と異なり聖人たる所以であり、聖人が尊く衆人の手本である所以なのだ。父子の道は、正しいことだ。いわゆる天性の極致とは、仁の道である。他家を継ぐということは、仮のものである。仮のものでありながら理にかなっているものは、義の制度である。
生まれたことに対する恩より重いものはなく、養父に対する義より重いものはない。仁と義、この二者は常に相補って、相害することがない。ゆえに親に対する人情より厚いものはない。そもそも他の者を降服するのは、大義に迫られてのことだ。降服しても心の中では親子の関係を絶たないというのは、至仁の行いだ。そもそも降服すれば仁あって義を損なうことなく、降服しても親子の関係を絶たなければ義あって仁を損なうことがない。これは聖人が仁と義を相補わせることができる、ということだ。
衆人はそうではない。彼らは「二つを得ることはできず、仁ならば不義、義ならば不仁だ。」などと言う。仁義とはこういうものではないはずだ。ゆえに、仁義を知らぬのは衆人である、と言うのだ。ああ。
聖人が人情により礼式を定める方法は、天性にかなうやり方に従うのみだ。無理強いはせず、何かを取り除くようなことはしない。天性に逆らってこれを変えようとすれば、うまくいかなくなってしまう。他家を継ぐ者が必ず生みの親との愛情を絶つというのは、ただ絶ちがたいものを無理に絶って欲を取り除こうとしているだけだ。これはただ天性に反して変えようとしているに過ぎず、「汝の親密な者は我がためにこれを絶て。汝の親しいあの者に代え、こちらと親しくするように。」と言っている。どうして無理強いする必要があろうか。
父母というものは天地のようであって、その大恩と至愛にこれ以上のものはなく、自分を生んだのである。仮にも他家の跡取りとなったため、親が自分を生まなかったと見なせば、その関係を絶つことは激しいものがある。親子の関係を本当に絶たせるのか?それは人情に反する。義のために仕方なく関係を絶つのか?それは仁義が人を偽りの行いに導くということだ。これゆえ聖人はこのような方法に一つとして正しいものはないことを理解しており、そして言う。進んで他家の重さを受け継いで仁を損なうことなく、退いてその恩に尽くして義を損なうことがない。また、天性を全うして偽りに陥らせることなく、ただ降服して親子の関係を絶たなければ、一つとして間違ったことはない、と。これこそ仁義を尽くすと言うべきだ。
そもそも仁義とは人情を尽くし、よく人の天性を養い、人事に裨益し、よからぬことがない。ゆえに、義によって他家の後継者となれるのを知っているのに、仁によって親との関係を絶たないことを知らないというのは、衆人の偏った見解なのだ。仁義が相補って人情を尽くすのを知り、よく人の天性を養い、偽りの行いに陥らせないようにし、礼に通暁する者だけが聖人の深い考えを理解できるのだ。』
問者は言った。
『他家を継いで天下に君臨する者が生みの親との関係を絶たないのならば、それは帝室の血統を汚すことになると思われますが、いかがでしょうか?』
『降服すれば汚すことはあり得ない。漢以来、他家を継いで天下に君臨する者は生みの親を尊ぶが、これは余計なことだ。帝室の血統を汚すことなどあっただろうか?漢の宣帝・哀帝は廟を京師に建てて昭穆(1)を乱すようなことはしなかった(2)。ならばなぜ帝室の血統を汚すことになろう。』」
(1)昭穆 宗廟に並べる位牌の序列。始祖を真ん中として、以後は昭(左)・穆(右)の順に並べてゆく。
(2)漢の宣帝・哀帝は… 宣帝は武帝の曾孫、哀帝は元帝の側室の血筋だった。嫡男が帝位を継がなくとも帝室の血統は保たれていたということ。
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曽鞏の『為人後議』(他家を継ぐことについての考察)に、こう述べられている。
「『礼記』は言う、『嫡系に子なくば、親族が庶子を後継者とする。後継者は養父母のために斬衰三年に服し、実の父母に対しては降服して一年の喪に服す。』と。『礼記』がこのように定めているのはなぜか?思うに卑近な答えしか知らない人は、実の父母を親愛することしか知らない。深遠な答えを知る人は、厳父の義があることを知っている。厳父の義を知れば、祖を尊ぶことを知る。祖を尊ぶことを知れば、嫡系の者は上は祖を継ぎ、下は親族を取りまとめ、親族の関係を絶ってはならないことを知る。ゆえに庶子を後継者とするのだ。
後継者は養父母が実の父母より重いことを受け、養父母のために斬衰に服さなければならない。養父母のために斬衰に服しながら、自分の親の喪を降服しないなら、それは恐らく養父母の重さをいまだ理解していないということだ。養父母のために斬衰に服し、自分の親の喪を降服し、そうすることによって養父母の重さを理解し、祖を継ぐことの道が完成したと言える。これが聖人が礼を定めた主旨なのだ。
そもそも親族を取りまとめるとは、『礼記』によれば、親族とともに合祀され、昭穆により位牌の序列を定め、礼と義の類を別にするということだ。これは特に諸侯の庶子の根源であり、尊重することこの通りだ。まして『礼記』が言うところの天子とその始祖の出自は、天子の嫡系の血筋である。これは天地・宗廟・諸々の神の祭祀の主であり、親族が万世にわたり依拠するものであり、その至尊至重なることを理解しなければならない。ゆえに昔の君主が庶子を後継者に立てて、その者の実の親を尊崇し、称号を与え、廟を建てて祭るという過ちは、古今の歴史を通じて見られる。これは誠に卑近なことしか知らないため、私的な愛情を捨てることができず、礼によってこれを節制しているのだ。それゆえ正統を受け継ぎ二君に仕えずの心を尊ばなくなるのだ。
もし、養父母のために斬衰に服し、自分の親の喪を降服し、自分の親の称号が非礼な方法で与えられたのではなく、廟の祭祀が非礼な方法で行われたのでなければ、それは至恩と大義のため、もとから備わっていたのだ。
あるいはまた、父母の名を変え、養父母に従う者を親族と同じ扱いにしようとするのは、『礼記』をよく調べていないのだ。『礼記』に、『他家を継ぐ者は、養父母の祖父母・父母、妻の父母・兄弟、兄弟の子は実の子と見なす』とあるのは、喪に服するのは養父母のためであり、自分のためではないということだ。『実の父母のために期(一年)、兄弟のために大功(九ヶ月)、姉妹のうちで他家に嫁いだ者のために小功(五ヶ月)、みな本来の喪服より一等を降す』とあるのは、喪に服するのは自分のためであり、養父母のためではないということだ。
実の父母のために喪に服させれば、実際は自分のためであるのに名目は養父母のためとなる。これは名と実が相違し、服喪と恩が相反していることになる。聖人の定めた礼はこのように道理に背くものではない。また、古より他家を継ぐ者は、必ずしも親の兄弟の子であるということはなく、同姓の親族の者なら誰でもなることができる。それならば、大功・小功にあたる兄弟の子であれば他家の後継者になれる。
養父母に従う者を親族とし、また服喪させるならば、実の父母に対して大功・小功・緦麻・袒免(1)・無服(2)を行う。しかしながら聖人の礼式というのは、実の父母のために一年の喪に服させることにより、養父母の地位の重さを知らしめるのみであって、実の親を変えるべきだと言っているのではない。親を変えないならば名はもとより変えてはならない。
(1)袒免 袒は左肩を脱ぐこと、免は冠を脱いで髪をくくること。五服以外の親、高祖を同じくする従兄弟の死には喪服の規定がなく、袒免によって哀悼の意を表す。
(2)無服 形式として喪に服すことはないが、心で悼み悲しむこと。心喪。
戴徳・王粛の『喪記』には、『他家を継ぐ者は、実の父母のための喪服を一等降し、斉衰一年の喪に服し、服喪の時期、倚廬(3)に住むこと、話の仕方、飲食は、父の生前と母のためにするのと同じようにし、そうでなければ祥(4)・禫(5)を行わない。喪が明けても心喪三年に服す。』とある。ゆえに今に至るまで喪服の規定が定められており、改められていないのだ。喪服の規定がこのように重いというのに、親の名を絶やしてよいものか。
(3)倚廬 喪中に仮住まいする粗末な小屋。
(4)祥 一年あるいは二年の喪を満たしたときに行う祭祀。
(5)禫 喪が明けたときに行う祭祀。
また、崔凱 の『喪服駮』(喪服について質す)には、『実の父母には自然の恩がある。このため喪服を一等降せば養父母の地位の重さを示すことができる。実の父母との関係がないならこれを絶つ。』とある。そもそも実の親との関係を絶つべきであるとは言わず、名を絶つべきであると言っているのは疑問である。また、庶子に嫡系を継がせる由来は、厳父を尊ぶ心により祖を尊ぶためである。祖を尊ぶ由来を考慮しながら、実の父を父としない。これがなぜ、その恩が自分を生んだことに由来し、先王が天下を教導する心に基づくものといえるのか?
また、『礼記』にある『嫡子は他家の後継者となることができない』というのは、重いものを伝えるということだ。『庶子は他家の後継者となることができる』というのは、重くないものを伝えるということだ。重いものを伝えるのは自分の血筋を継がせるということであり、重くないものを伝えるのは他家の血筋を継がせるということだ。その意図は人心にのっとり、この二つの義をともに安定させることにある。今もし他家を継ぐ者に、実の父母に対する喪を一等降し、その名を改め、父母とさせないのならば、二つの義が安定することはなく、人心にのっとらないこと、これより大きいものはない。
人の道にとって嫡系というのは、至尊至重にして絶ってはならず、尊尊たるものだ。子にとって父母というのは、至尊至重にして絶ってはならず、親親たるものだ。尊尊・親親、その義は一つであり、その一つでも欠かすべきではない。ゆえに他家を継ぐ者は、実の父母のために降服するのであって、『礼記』にはそのことが書かれている。このために実の父母の名を消すというのは、『礼記』には書かれていない。
あるいは、実の父母の名を消そうとするのは、実の父母と養父母への二つの服喪を嫌がり、養父母一つだけにしようとしているのであり、他家を継ぐ者の道を尽くさせる所以である。その実を継ぐというのは、養父母があり、実の父母がある。その喪服の定めには、自分のためであって養父母のためではないものと、養父母のためであって自分のためではないものとがある。その二つを行うのを嫌がって無理に一つにしてはならないことはみなが知っている。名に至るのは、実に生まれるからであり、二つを行うのを嫌がって無理に一つにしてはならないのを知らないのであり、これもまた誤りである。
もし実の父母の名によって無理に一つにすべきであるとすれば、その実を継ぐことに過ちが一つ、その喪服の定めに過ちが一つあり、ついには変えることができない。これは実の父母の名を消そうとすることに原因がある。ゆえに、古の聖人は実の父母と養父母の両方に対する喪を嫌がり、これを無理に一つにはしないことをわきまえており、疎遠な親族を相ともに重んじさせ、親密な親族を相ともに軽んじさせることができた。これはひとえに礼と義によっているのだ。
それはどういうことか?他家を継ぐ者に、養父母に対し、自分の親ではないのに斬衰三年の喪に服し、その祭主にさせるということ。これは義によって引き寄せるということだ。生みの親に対し、本物の自分の親でありながら斉衰一年に降服し、ともに祭祀を行ってはならない。これは礼により遠ざけるということだ。義によって引き寄せれば、疎遠な親族が相ともに重んずるようになり、礼によって遠ざければ、親密な親族が相ともに軽んずるようになり、他家を継ぐ者の道が尽くされるのだ。そうであれば、他家を継ぐ者の道を尽くそうとする者は、礼と義によってその内を明らかにし、実の父母と養父母の二つに服喪することを拒み、無理にその名を外に変えないことだ。
それゆえ、『礼記』「喪服」の「斉衰不杖期章」に、『他家を継ぐ者は実の父母のために報いる』と書かれているのだ。これは、他家を継ぐ者が実の親を父母と称することを経典に書いた明文である。漢の祭義は、宣帝に自らに悼と諡するように言い、魏相は尊号を皇考として廟を建てるように言った。後世の者は皇と称し廟を建てるのを誤りとするが、親と称し、考(亡父)と称するのを誤りとしたことがない。
後、魏の明帝は他家を継ぐ者が実の親と親しくするのを最も嫌った。ゆえに、漢の宣帝が自身に悼の諡を加えて皇帝の称号としたのを非難し、諸侯から正統を継ぐ者は、亡父を皇とし、亡母を后としてはならないと考えた。これは、みだりに正しくない称号を加えるのを禁じるのみであって、考と妣(亡母)の称号を廃するものではないと思われる。これは、昔の議論の、他家を継ぐ者は実の父母に対して考妣と称するという明文に見られる。
また、晋の王坦之は『喪服議』において、『この重みを最大にまで高めないのは、教えの定めるところではない。昔日の名は、一朝にして消してはならない。これは他家を継ぐ者が実の親の喪に服する所以である。』と、また、『情は奪ってはならず、名は消してはならず、親を崇敬するのは恩を述べるためであり、降服するのはこのためである。』と述べている。これは、他家を継ぐ者に実の父母の名を消した者はなく、古人の理であることを知っていたのだ。ゆえに王坦之はこれを引用して服喪の制度を定める証としたのだ。これもまた、昔の議論にある、他家を継ぐ者は実の父母を父母と称するという明文に見られる。
これは、他家を継ぐ者の親は、経典や昔の議論に見え、これを父母と言い、考妣と言っており、大義がこのようであり、明文がこのようであるということだ。他書や史官の記録を見るに、やはりこれを父母と言い、考妣と言い、私考妣と言い、実の親と言っている。親と言っているのは少数にとどまらず、伯父・叔父としているのは『礼記』にも見られず、書籍にはもともとこのようなことが書かれていない。
今、養父母に従う者を自分の親族とし、その者の父母の名を変えようとするのは、不適切で義に背くものだ。経文に従わないのは、数千年来の議論に対して不適切で義に背くものであり、根拠もなくそのような説を支持するなど、どうやって天下に示そうというのか?中国が尊いのは父子の道があるからであり、六経と数千年来の議論によりこれを治めるがゆえである。今、立ちどころにこれを棄てて、根拠のない説を支持するなど、誤りでないといえようか?
あるいは、他家を継ぐ者が実の親を父母と称せば、二つの血筋に二つの父がいるということになる。そんなことが許されてよいものか?二つの血筋の二つの父とは、考を与えるのに皇の称号を用い、廟を建てて祭祀を行うということである。これは正統を一つにせず、養父母に二つの血筋を残すということであり、その過ちを明らかにする所以であり、実の父母の名を変えないということにはならない。だとすれば、考を与えるのに皇の称号を用いるのは、『礼記』および廟を建てて皇考と称するのと何が違うのか?
皇考は一つの名であって三つの説がある。『礼記』に、考廟・王考廟・皇考廟・顕考廟・祖考廟とある。これは皇考の称号を曾祖の廟号とするものである。魏相は漢の宣帝の父に、尊号を皇考とすべきであると進言し、『礼記』の曾祖の称を誤りであるとして、尊号の文を書いた。ゆえに魏の明帝は、悼の諡を与えて考に皇の称号を用いるのを誤りであるとした。光武帝のときも南頓君のために皇考廟と称し、義をこれに体現した。これは皇の称号を与えることにより、亡父に仕えることを尊称として表したのだ。
屈原は『朕の皇考は伯庸という』と言った。また、晋の司馬機は燕王となり、廟に祭告する文に、『皇考清恵亭侯に明らかに告ぐ』と書いた。これはまた皇考の称号を用いることにより、父が亡くなったことを通称として表し、群臣に浸透させたものだ。思うに、曾祖の廟号は古人が用い、亡父に仕えることの尊称としては漢が用い、父が亡くなったことの通称としては、今に至るまで用いられている。であれば、これを称することにも適切なものと不適切なものがあるのではないか?
皇の称号を与えて亡父に仕えることの尊称とするのは、他家を継ぐことの義に添えるものだ。これは正統を汚すものであり、『礼記』に照らして不適切である。皇考の称号を用いることにより、父が亡くなったことを通称として表し、群臣に浸透させるのは、他家を継ぐことの義に添えるもので、正統を汚すことなく、『礼記』に照らして適切である。ならば父が亡くなったことの通称とするのは間違っているのか?もし、漢の哀帝の親の尊号が恭皇であり、安帝の親の尊号が孝徳皇であったなら、これはまた『礼記』に照らして不適切である。
また、『礼記』によれば、父が士であり、子が天子であれば、天子が祭祀を行い、父の遺体に着せる服には士の服を用いる。子には父に爵位を追贈する義務はなく、父母を尊ぶ。昔の礼を失した君主は、実の親に称号を与えることによって崇めた。これはただ他家を継いで正統を祀り、二君に仕えざる心を尊ぶという姿勢を失うのみならず、子が父に爵位を追贈し、地位の低い者が高い者に命令するということであり、実の親を尊ぶ理由にならない。昔の正しくない称号を与えて虚飾する者は、その過ちは上記の通りである。そして後世の、期親(一年の喪の範囲の親族)の故事にならって、官位を上げて所領を広くすべきだと言う者は、やはり『礼記』の主旨に反すると言うべきであろう。
そもそも考とは、父が亡くなったことを示す言葉である。だからこれを礼に添えるのは、朝廷の制度を記した典籍にそれを行う主旨の文があるとき、宗廟の祭祀の文があるときのみである。称号を与えないならば、典籍の文がないのだ。廟を建てて祀らないならば、祭祀の文がないのだ。それならば親の名を正すとはいえ、親を尊ぶことにこのようなことを付け加える必要があろうか?上述したことから言うに、これに従わなくてはならない。これが昔から疑われたことがないのは、『礼記』によって明白である。
今の世の人々の議論が乱れ、日を経て時を重ねても決着しないのは、『礼記』をよく調べずに私見を述べているからであろう。ゆえに経文を引用し、その主旨を書き並べ討論するよう望むものである。」