1
高宗建炎三年(1129)六月、金の兀朮は燕・雲・河朔の兵を大挙して南侵するよう訴え、金の主・呉乞買はこれに従った。
この月、磁州(1)を落とした。
(1)磁州 河北省磁県。
2
九月、金人が船大工を組織して海から浙江をうかがおうとしているとの報告がなされた。韓世忠に圌山(1)・福山(2)を守らせた。
(1)圌山 江蘇省丹徒区の北東。
(2)福山 江蘇省常熟市の北。
3
冬十月、金のウジュは兵を分けて南侵し、一つは滁州(1)・和州(2)から江東に、一つは蘄州(3)・黄州(4)から江西に入った。寿春(5)・光州(6)を取った。また、黄州を落とし、知州・趙令𡷫が死んだ。趙令𡷫は燕の懿王の玄孫であった。
(1)滁州 安徽省滁州市。
(2)和州 安徽省和県。
(3)蘄州 湖北省蘄春県付近。
(4)黄州 湖北省黄岡市。
(5)寿春 安徽省寿県。
(6)光州 河南省潢川県。
4
金人は江州(1)を落とした。
このとき劉光世は江州にいたが、日々酒を置いて宴会を開き、金兵が長江を渡って三日経ってもこれを知らずにいた。金兵が城下に迫ると兵を引き揚げて南康(2)に逃げた。知江州・韓梠は城を捨てて逃げた。金人が城に入り殺戮・略奪を始めると、大冶(3)から洪州(4)に逃げた。
(1)江州 江西省九江市。
(2)南康 江西省南康区。
(3)大冶 湖北省大冶市。
(4)洪州 江西省南昌市。
5
十一月一日、金人は廬州(1)を侵し、知州・李会が城を明け渡して降伏した。
(1)廬州 安徽省合肥市。
6
四日、金のウジュは和州を侵し、知州・李儔が城を明け渡して降伏した。
7
五日、ウジュは無為軍(1)を落とし、知軍・李知幾は城を捨てて逃げた。
(1)無為軍 安徽省無為市。
8
十三日、 金人は臨江(1)を侵した。
(1)臨江 江西省樟樹市。
9
十四日、臨江を落とし、撫(1)・袁(2)二州の知州がともに降伏した。
(1)撫州 江西省撫州市。
(2)袁州 江西省宜春市。
10
十六日、金人は真州(1)を落とした。
(1)真州 江蘇省儀徴市。
11
十八日、金人は溧水(1)を落とし、県尉・潘振が死んだ。
(1)溧水 江蘇省溧水区。
12
十九日、金人は太平州(1)を落とした。
(1)太平州 安徽省当塗県。
13
二十日、杜充は統制・陳淬らを送り金人と馬家渡で戦わせたが、王𤫉は先に逃げ、陳淬はひとり戦って死んだ。
14
金兵は廬陵(1)に到着し、太守・楊淵は城を捨てて逃げた。
このとき、胡銓という科挙の受験生が薌城におり、強壮な者たちを組織して家と田を守り、自ら民兵を率い城に入って固守し、この城を守り抜いた。
(1)廬陵 江西省吉安市。
15
二十七日、ウジュは長江を渡り建康に入った。杜充が背き金に降った。
このとき、江南・浙江の情勢は杜充の肩にかかっていたが、杜充は日々政敵の処刑に精を出し、敵を制する方策もなかった。ウジュが李成と兵を合わせて烏江(1)を攻めると、杜充は門を閉じて出ようとしなかった。統制・岳飛は軍を監督するよう泣いて諫めたが、杜充は聞き入れなかった。ウジュは杜充の無防備に乗じて馬家渡から長江を渡り、太平を陥れ、長駆して建康に到着した。杜充は長江を渡って真州に逃げた。
諸将は杜充の厳酷さを恨み、敗北に乗じて殺そうとした。杜充はこれを聞いて軍営に入ろうとせず、長蘆寺にいた。ウジュは人をやって杜充に説いた。
「もし降伏すれば、中原に封じ張邦昌と同じように待遇しよう。」
杜充は建康に帰り、知州・陳邦光、戸部尚書・李梲とともに属官を率いて金軍を迎え、ウジュを馬首に拝した。通判・楊邦乂だけは膝を屈するのをよしとせず、
「趙氏の霊となろうとも、他国の臣とはならない」
と、服の裾に血で大書した。ウジュは官職で買収しようとしたが、終始屈することなく大声で罵って死を求めた。このため彼を殺した。このことが朝廷に伝わると、直秘閣を贈り、忠襄と諡した。
(1)烏江 安徽省馬鞍山市の北。
16
二十九日、帝は杜充が敗れたと聞き、呂頤浩に言った。
「事は差し迫っている。どうすればよい?」
呂頤浩は海に出るよう献策して言った。
「敵兵は多いですが、船に乗って我らを襲うことはできません。江南・浙江の地は暑く、敵は久しく留まることはできません。敵が去ってから浙江に帰るのです。彼が出れば我が入り、彼が入れば我が出る。これが兵家の妙というものです。」
帝はこれに賛同し、明州(1)に向かった。
(1)明州 浙江省寧波市。
17
三十日、韓世忠は鎮江(1)から江陰(2)に退却した。
この月、知徐州(3)・趙立は、諸路に対し兵を動員して帝を守るよう詔が下ったと聞き、将兵三万を行在に向かわせた。金人が趙立を淮陰(4)で迎撃しようとすると、趙立の部下は徐州に帰り同地を保つべきだと勧めた。趙立は怒り、歯を食いしばって言った。
「後ろを振り返る者は斬る!」
兵を率いて小道を進むと、金人と遭遇した。転戦すること四十里、楚州(5)にたどり着いた。趙立は矢に当たって両の頬を貫かれてものを言うこともできず、指で諸軍を指揮し、休憩のときにようやく矢を抜いた。燕山の役以来、中国の兵がこれほど激しく戦ったことはなかったと評された。
(1)鎮江 江蘇省鎮江市。
(2)江陰 江蘇省江陰市。
(3)徐州 江蘇省徐州市。
(4)淮陰 江蘇省淮安市。
(5)楚州 江蘇省淮安市。
18
十二月二日、帝は明州に着いた。
19
七日、金人は常州(1)を攻め、知州・周杞は腹心の隊官・劉晏にこれを迎撃させた。岳飛を迎えて宜興(2)に軍営を移した。盗賊の郭吉は岳飛が来ると聞いて湖に逃げた。岳飛は王貴らにこれを追わせて破り、賊徒をことごとく降した。
このとき、ウジュは杭州(3)に向かおうとしており、広徳軍(4)に進攻した。岳飛はこれを聞き、迎撃して広徳にたどり着き、六戦していずれも勝利し、金の将・王権を捕らえた。鐘村に駐留したとき、将士は食糧がなかったが、飢えを忍んで民から略奪することがなかった。
金が兵を送って常州を攻めると、岳飛もこれを追い、四戦していずれも勝利した。このため広徳は孤立無援となり、金人は知軍・張烈を殺した。
(1)常州 江蘇省常州市。
(2)宜興 江蘇省宜興市。
(3)杭州 浙江省杭州市。
(4)広徳軍 安徽省広徳市。
20
十一日、ウジュが広徳から独松関を過ぎたとき、守りの兵がいないのを見て部下に言った。
「南朝が弱兵数百でもここを守っていれば、私はここを通ることはできなかっただろう。」
そして臨安を侵し、守臣・康允之が城を捨てて逃げた。
銭塘県令・朱蹕は弓手と土着の兵を率い、前に進んで防戦した。二本の流れ矢が当たったが、なおも勇み立って進み、力尽きて死んだ。
21
ウジュは帝が明州にいると聞き、阿里蒲盧渾に精鋭を率いて浙江に送り追撃させた。
十一日、帝は楼船に乗って定海県(1)に着き、范宗尹・趙鼎を明州に留め置いて金の使者を待った。帝は張俊に言った。
「敵の成功を防ぐことができれば爵位を与えよう。」
呂頤浩は帝につき従う官僚を便宜に従い去らせるよう上奏した。帝は言った。
「士大夫は義理を知るべきであり、ついて来ないなどということがあり得ようか?そうであるならば、朕の行幸は盗賊と同じことだ。」
このため郎官以下多くの者がつき従った。
(1)定海県 浙江省鎮海区。
22
十九日、帝は船で昌国県(1)に着いた。
(1)昌国県 浙江省定海区。
23
二十四日、金人は越州(1)を侵し、安撫使・李鄴が城を明け渡して降った。金人は琶八にこれを守らせた。
衛士・唐琦は袖の中に石を入れて道端に伏せ、琶八が出てくるのを見て石を投げつけたが当たらず、捕らえられた。琶八が問い詰めると、唐琦は言った。
「お前の首を砕こうとすれば俺は死に、趙氏の霊となるのだ!」
琶八は言った。
「人をこのように使うとは、趙氏はここまで落ちぶれたか。」
そして問うた。
「李鄴は統帥として城を明け渡して降った。お前は何者としてこのような挙に及んだのだ?」
唐琦は言った。
「李鄴は臣として不忠だ。恨みはあってもこの手でたたき斬ってやることができない。こいつのことをこれ以上言う必要はない。」
そして李鄴のほうを見て言った。
「俺は毎月朝廷から米を受け取ってきた。それだけでも主に背きたくはない。お前は国の厚恩を受けておきながらこのようなことをした。人間のすることか!」
罵って少しも屈することがなかった。琶八はこれを殺すよう促し、死して口を閉ざすことがなかった。
(1)越州 浙江省紹興市。
24
四年(1130)春正月二日、金人は明州を侵したが、張俊および知州・劉洪道がこれを撃退した。
25
七日、金人は再び明州を侵し、張俊は兵を引き揚げて逃げた。
26
十六日、金人は明州を落とした。
夜、大雨が降り地震・雷があった。金人は勝利の勢いに乗じて定海・昌国を破り、水軍で帝の船を襲おうと三百余里にわたって追いかけたが、結局は追いつけなかった。提領海舟・張公裕が大船を率いてこれを撃退し、金人は引き返した。
十八日、帝は章安(1)を出発した。
二十一日、温州(2)の港に留まった。
(1)章安 浙江省黄岩区の東。
(2)温州 浙江省温州市。
27
二月、金人は江西の諸郡を破ると、兵を率いて湖南を侵し、潭州(1)を落とした。将吏・王暕・劉玠・趙聿之が戦死し、向子諲は兵を率いて門を奪って城を出た。金兵は大いに略奪し、城の住民を殺戮して去っていった。
(1)潭州 湖南省長沙市。
28
三日、ウジュは兵を引き揚げて北に帰り、臨安に着くと火を放って略奪した。輜重が通れなかったので、秀州(1)から北に向かった。
(1)秀州 浙江省嘉興市。
29
十七日、帝は温州に留まった。
このとき、諸将に武功がなく、翰林学士・汪藻が上奏した。
「敵が襲来しても諸将は兵を擁して互いの顔を眺め合い、陛下のために矢面に立つこともできず、ひとり張俊だけが明州を守り、わずかながら抵抗しています。もし数日でも堅守して敵の再来を待ち、機に乗じて極力敵の力を削げば、敵は利を失い、最後まで警戒して再び南進しようとはしないでしょう。どうして敵がまだ数里も進んでいないうちに狼狽して引き下がることがあるでしょうか?このようなことは三尺の子供でも間違っているとわかり、敵が剛腹でその鋭鋒を避けて殺戮を恐れるのであって、ましてや恨んでいながら引き下がることなどありません。攻めの兵を増やさず守りの兵を増やし、空城に軍を呼び戻して敵に挑む。これは前日の小さな勝利であり、大きな災いです。ほどなくして明州が破壊され、民がいなくなりました。これは明州一城の民を殺したのであり、陛下が再び館頭(1)へ行かれるのは張俊がそうさせたのです。私は去年の秋以来このことを切に思い、陛下は国家の大計をなし、敵が迫るのを恐れ、朝早くから夜遅くまで焦慮して片時も休まることがありません。
建康・京口・九江はいずれも要害の地であり、大兵力をおくべきです。このため杜充に建康を、韓世忠に京口を、劉光世に九江を守らせ、王𤫉を杜充に従わせたのですが、これらの措置は善を尽くしたものではありませんでした。敵騎が長江を渡ったとき、杜充・韓世忠・王𤫉が力を合わせてその前を押さえ、劉光世がその後ろを塞げば、敵が北方を動き回る余裕をなくさせることができます。しかし、韓世忠は八、九か月の間に鎮江に貯蔵された物資をはたいて船を装備し、城郭を焼いて逃げ出しました。杜充に危機が迫ると、王𤫉・劉光世も安穏として座視し、一兵も出さず、敗北に至りました。
今日の諸将を見るに、古法に照らして処刑すべきですが、全員を処刑すべきではありません。しかしながら王𤫉は杜充に従っており、杜充が敗れたのにこれを救おうともせず、許すべきではありません。まず王𤫉を斬って天下に号令し、その他の者は事情の重さに従って降格させ、功をもって過ちを償わせ、国威を少しく振るわせ敵が忌むところとなるよう願うものです。」
返答はなかった。
(1)館頭 浙江省温州市付近。
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十八日、金人は秀州を落とした。
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金の遊撃隊が平江(1)に到着し、周望は太湖(2)に逃げ、守臣・湯東野は城を捨てて逃げた。ウジュは城に入ると火を放って略奪し、死者は五十万人に及んだ。
(1)平江 江蘇省蘇州市。
(2)太湖 蘇州市の西にある湖。
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三月十日、金人は常州に入り、守臣・周杞は城を捨てて逃げた。
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十五日、金人は鎮江に到着した。
これ以前、韓世忠は前軍を青龍鎮に、中軍を江湾に、後軍を海口に駐留させ、ウジュの軍に反撃しようとした。ウジュが秀州から平江に向かうと、韓世忠の計画は頓挫し、軍を鎮江に移して待ち構え、先に八千人を焦山寺に駐屯させた。ウジュはこれから長江を渡ろうというとき、使者を遣わして戦いの期日を約した。韓世忠はこれを許し、諸将に言った。
「このあたりの形勢で金山の龍王廟に勝るものはない。敵は必ずこれを登ってわが方の虚実をうかがうだろう。」
そして蘇徳をやって百人を廟中に、もう百人を廟下の長江の岸に埋伏させて言った。
「長江から戦鼓の音が聞こえたら、岸にいる兵が先に入り、廟の兵がこれに続き、金軍を合撃するのだ。」
敵がやって来ると、五騎が廟に向かって走った。廟にいる兵は戦鼓の音よりも先に出て二騎を捕らえた。もう三騎は鞭を振って駆けていた。そのうち一人は紅袍と玉帯を身につけ、落馬すると再び跳び乗って逃げ、捕らえられた者をなじっていたが、それがウジュだった。長江で接戦することおよそ数十合、韓世忠は力戦し、妻の梁氏も自ら戦鼓をとった。敵はついに長江を渡ることができず、多くの者が捕らえられ、ウジュの女婿・龍虎大王を捕らえた。ウジュは恐れ、略奪した物をすべて返すから道を借りたいと願い出たが、韓世忠は許さなかった。名馬を贈るからと再び頼んだが、やはり許さなかった。このため鎮江から流れをさかのぼって西に向かった。ウジュは南岸を、韓世忠は北岸を行き、戦いながら進んだ。韓世忠は艨艟(軍艦)を金軍の前後数里に出し、拍子木を打つ音が朝まで鳴り響いた。黄天蕩に着こうというとき、ウジュは気が塞がっていた。ある者が言った。
「老鸛河の故道は今は塞がっていますが、これを掘り進めてゆけば秦淮(1)に通じることができます。」
ウジュはこれを聞き入れ、一夕にして五十里の水路ができ、建康に向かった。
(1)秦淮 江蘇省南京市を流れる川。
岳飛は牛頭山に伏兵を置いてこれを待ち構え、夜に百人に黒い服を着せて金の軍営に混じって騒ぎを起こさせた。金兵は驚き、同士討ちを始めた。ウジュは龍湾にいたが、岳飛は騎兵三百・歩兵三百で新城で迎え撃ち、大いに破った。ウジュは逃げた。たまたま撻懶が濰州(2)から勃菫・太一を救援によこした。ウジュはこのため引き返し、北へ渡ろうとした。韓世忠は黄天蕩でウジュと対峙し、太一の軍は江北、ウジュの軍は江南にいた。韓世忠は軍艦を金山の下に進め、あらかじめ鎖を大きな鉤につなぎ、壮健な者に与えた。翌朝、敵の船が騒ぎ立てながら進んできた。韓世忠は船を二つの道に分け、その背後に出て鎖を垂らし、敵の船を曳いて沈めた。ウジュは進退窮まって相談を求め、祈った。韓世忠は言った。
「二帝を取り戻し、国土を取り戻すことができれば完璧だ。」
数日後、ウジュは再会を求め韓世忠が不遜であると言った。韓世忠が弓を引いて射ようとすると、ウジュは素早く走り去った。
(2)濰州 山東省濰坊市。
ウジュは宋軍の船が風に乗って帆を使い、飛ぶように行き来するのを見て、部下に言った。
「南軍は船を馬のように使っているが、どうやっているのだ?」
そこで人を募って船を破壊する策を献上させることにした。ここにおいて閩の人で姓を王という者が、
「宋の船の中には土が載せられ、板でこれを覆っている。船体に穴をあけて櫂で漕ぎ、風を待って出発する。船は風がなければ動くことができず、火矢で帆を射れば攻めずとも自壊する。」
と教えた。ウジュはこれにうなずき、白馬を殺して天を祭った。晴れて風がやむと、ウジュは小船で長江に出て、韓世忠は流れを断って迎え撃った。船は風がないため動くことができず、ウジュは弓の得意な者を軽い船に乗せ、火矢で宋軍の船を射させた。煙が天を覆い、宋軍は大いに壊乱し、焼け死ぬ者、溺れ死ぬ者は数え切れず、韓世忠は身一つで免れ、鎮江に逃げ帰った。ウジュはついに長江を渡り、六合県(3)に駐屯した。
この戦役では、韓世忠は八千人でウジュの十万の軍に抵抗したが、四十八日にして敗れた。しかし、金人はこれ以後再び長江を渡ることはなかった。
(3)六合県 江蘇省六合区。
34
夏四月、江西を侵した金人は、ウジュが北へ帰ったと聞き、荊門(1)から引き返した。統制・牛皐はこれを奇襲し、宝豊の宋村(2)で破った。
(1)荊門 湖北省荊門市。
(2)宋村 河南省平頂山市の西。
35
ダランは楚州を急いで包囲した。趙立は廃屋を取り壊すよう命じた。城下は火鉢のようになっており、兵は長い矛をもって待ち構え、金人が城を登ると鉤でからめ取って火中に投げつけた。金人は決死隊を選んで突入させたがこれも殺され、やや引き下がった。
ここに至り、ウジュが北に帰ろうというとき、使者を遣わして輜重を通すための道を楚に借りたいと申し出た。趙立はこの使者を斬った。ウジュは怒り、南北二つの軍営を置いて楚の糧道を断った。
36
九月、金人は楚州を攻め、趙立は人をやって急を告げた。朝廷は張俊に救援に行かせようとしたが、張俊は辞退して行こうとしなかった。そこで劉光世に淮南諸鎮を監督させ、楚を救援することとした。
海州(1)の李彦先は最初に淮河に到着したが、金人に押さえられて進むことができず、劉光世の諸将・王徳、酈瓊も命令を実行せず、岳飛だけが救援に行くことができたが、多勢に無勢であった。帝は趙立の上奏文を読むと、書状で劉光世に進軍を促すこと五回に上ったが、劉光世はついに進軍しなかった。
金人は援軍が絶たれたと知り、東城に進攻した。趙立が山道を登って様子を見ていたところ、投石器から放たれた石が首に当たった。側近たちが駆けつけると趙立は言った。
「私は国のために賊を滅ぼすことができなかった。」
言い終わると絶命した。金人は趙立が死を偽っているのではないかと思い、動こうとせず、十日余りの後に城はようやく陥落した。岳飛も泰州(2)から引き返した。
(1)海州 江蘇省連雲港市。
(2)泰州 江蘇省泰州市。