巻15 交州之変

Last-modified: 2022-10-02 (日) 18:47:08

1 丁璉、宋に入貢


太祖開宝六年(973)五月、交州(1)丁璉(ていれん)が入貢した。
 
後梁末、交州の土豪、曲承美が中国の内乱に乗じ、十二州を占拠した。南漢が将を派遣して曲承美を攻めて捕らえ、交州節度使を置いた。乾徳初め、交州節度使・呉昌文が死に、配下の将・呉処玶(ごしょへい)が地位を争い節度使を継いだ。(かん)州刺史・丁部領が呉処玶らを撃ち破り、自ら交州を領有して統治し、大勝王と号した。子の丁璉が節度使となり、丁部領は彼に王の位を譲った。南漢が滅ぶと、丁璉は宋に入貢し、静海軍節度使を授けられ、交阯(こうし)郡王に封ぜられた。
 
(1)交州 交阯(こうし)とも。現在のベトナム北部・中部にあたる。

2 交州の内乱と討伐軍の派遣


太宗太平興国五年(980)秋七月、交州の丁璉(ていれん)とその父丁部領が相継いで死に、丁璉の弟、丁璿(ていせん)が臨時に軍府を司った。丁璿はまだ幼かったため、大将の黎桓(れいかん)が丁璿を府の別館に幽閉し、代わって民衆を統治した。
 
このとき、知(よう)(1)・侯仁宝という者がおり、趙普の妹の夫であった。盧多遜(ろたそん)は趙普と対立していたため、侯仁宝を邕州に出し、九年間代わることがなかった。侯仁宝はこのまま何もせずに嶺外(2)に死ぬことを恐れ、「交州の乱は、たった一つの軍で抑えることができます。駅伝の馬に乗って宮殿に参じ、その状況をお伝えしたく思います。」と上言した。帝は喜び、駅伝の馬で侯仁宝を呼び出した。
 
盧多遜は急遽上奏した。「交州の内乱は、天がこれを滅ぼそうとしている(とき)なのです。しかし、先に侯仁宝を呼び出しては、交州討伐の計画は必ず漏れ、蛮族はあらかじめ備えをするため、容易に取れなくなります。密かに侯仁宝に計画を準備させ、兵を出して長駆させれば、必ず万全を期すことができましょう。」
 
帝はこれをもっともとし、侯仁宝を交州水陸転運使とし、孫全興・張濬(ちょうしゅん)崔亮(さいりょう)劉澄(りゅうちょう)賈湜(かしょく)王僎(おうせん)は部署とし、兵を率いて討伐に赴かせた。孫全興・張濬・崔亮は邕州から、劉澄・賈湜・王僎は廉州(3)から進んだ。黎桓はこれを聞き、使者を遣わして丁璿のために上表し、交阯郡王の位を継ぐことを求めたが、帝は許さなかった。
 
(1)邕州 広西壮族自治区南寧市。
(2)嶺外 五嶺(大廋(だいそう)嶺・越城嶺・騎田嶺・萌渚嶺・都龐(とほう)嶺。長江と珠江流域の分水嶺。)より南側。
(3)廉州 広西壮族自治区合浦県。

3 交州討伐の失敗


六年(981)三月、交州の駐留軍は賊を白藤江口に破り、戦艦二百隻を鹵獲(ろかく)した。知邕州・侯仁宝は兵を率いて先に進み、孫全興らは花歩に駐屯したまま進もうとしなかった。黎桓は偽って降伏し、侯仁宝をおびき出して殺した。熱病が流行り、兵士が多数死に、転運使・許仲宣がこのことを報告した。詔して軍を帰還させた。劉澄・賈湜を軍中において斬り、孫全興を獄に下し、棄市(死刑)した。

4 丁氏の差し出しを迫る


八年(983)春、黎桓(れいかん)は権交州三使留後を自称し、使者を遣わして朝貢し、丁璿の譲位の表を献上した。
 
帝は黎桓に詔して言った。

「朕は丁璿が統帥の位にあり、そちには補佐の任にあってほしいと思う。丁璿に人材として取るところがないというなら、それはまだ幼きがゆえである。しかし、丁氏が代々節度使を世襲し、連綿とした歳月を経ている。それなのに一朝にして節鉞(せつえつ)(1)を捨て去り、軍に与える(節度使の位を奪う)のであれば、それは道理からはずれた行いであり、位を継いでも安定しないであろう。丁璿母子をはじめ丁氏一族をことごとく朝廷に送るように。そうすれば、詔を下してそちに節旄(せつぼう)(2)を授けよう。ここに二つの途がある。そのうち一つをよくよく考えて選ぶように。」
 
黎桓はこの命令を聴かなかった。
 
(1)節鉞 皇帝が将軍に授けて権威を持たせるための証書とまさかり。
(2)節旄 牦牛(やく)の尾で飾った旗。節度使の儀仗。

5 黎桓を節度使に


雍熙(ようき)三年(986)、黎桓を静海軍節度使とした。
 
黎桓は再び表を上し、正式に節度使領を統治することを求めた。朝廷は孫全興の敗戦に(かんが)み、戦をしたがらなかったため、これを許した。丁氏はこれにより滅んだ。
 
四年(987)、再び黎桓を封じて交阯(こうし)郡王とした。

6 黎桓の死、黎龍廷の帰順


真宗景徳三年(1006)五月、交州の黎桓が死に、子の黎龍廷(れいりゅうてい)が兄の黎龍鉞(れいりゅうえつ)を殺して自立した。
 
知広州(1)淩策(りょうさく)らは、「黎桓の諸子が争って立ち、民衆の心は離反しています。本州の兵を発して討伐に向かわせるよう願います。」と言った。帝は黎桓が朝貢していたことから、討伐することを欲せず、縁海安撫使を通して帰順するよう教え諭させた。黎龍廷は貢ぎ物を納め、後に名を至忠と賜った。
 
(1)広州 広東省広州市。

7 李公蘊、交阯郡王に


大中祥符三年(1010)春、交州大校(1)李公蘊(りこううん)が主の黎至忠を(しい)し、自立して留後となり、使者を遣わして朝貢した。
 
帝は、「黎桓は不義により節度使となったが、李公蘊はこれを是として同じことをした。なんとも嫌なものだ。しかし蛮地の風俗、一々責めるに足るものか。」と言った。黎桓の故事にならい、李公蘊を封じて交阯)郡王にした。
 
(1)大校 副将。

8 知桂州・劉彝、交州へ侵攻


交州は李公蘊より後、代々朝貢して絶えることがなかった。だが、たびたび辺境を略奪し、李乾徳の代になって大挙して侵攻するに至った。神宗熙寧(きねい)八年(1075)のことであった。
 
このとき、朝廷は領域の開拓を議論していた。知(けい)(1)沈起(しんき)は渓洞(2)に官を遣わし、土着の民を集めて組にし、融州(3)に城塞を強行して築き、千人余りを死なせた。交州の人々はこのことを訴え出たため、沈起は罷免され、知州・劉彝(りゅうい)をこれに代えた。劉彝が着任すると、広南に駐留している北方の兵を辞めさせ、広南の郷兵(地方軍)を自ら編成させてほしいと上奏した。また、偏校(4)の言を聴き、安南(=交州)を奪取できると考え、戦船を造った。交州の商人が来て貿易しようとしても、ことごとく禁止し、上奏書を書いても届かないようにした。
 
こうして、三つの道から交州へ、一つは広州府から、一つは(きん)(5)から、一つは崑崙(こんろん)関から侵攻した。欽州・廉州を続けて陥落させ、土着の民八千人を殺した。これが報告されると、沈起は降格に処され、(えい)(6)に安置(7)した。劉彝を官籍から除名した。
 
(1)桂州 広西壮族自治区桂林市。
(2)渓洞 苗(ミャオ)族・侗(トン)族・壮(チュアン)族の居住地域。
(3)融州 広西壮族自治区融水苗族自治県。
(4)偏校 低位の武官。
(5)欽州 広西壮族自治区霊山県。
(6)郢州 湖北省鐘祥(しょうしょう)県。
(7)安置 官吏を遠隔の地に流すときの、中程度の処置。軽度のものを送某州居住、中程度を安置、さらに重いものを編管といった。 

9 交州の軍、邕州を包囲


神宗熙寧九年(1076)春正月、交州の人は邕州を包囲した。
 
知州・蘇緘(そかん)は力の限り守ったが、外から援軍が来ず、城は陥落した。蘇緘は賊の手によって死ぬのを良しとせず、親族三十六人に先に死ぬよう命じ、屍を(あな)に隠し、火を放って自焚した。城中の人は 蘇緘の道義にかなった行いに感服し、一人として賊に従う者はなかった。交州軍は邕州の民をことごとく屠り、その数は五万八千余りに上った。このことが報告されると、詔して蘇緘に奉国節度使を贈り、忠勇と(おくりな)した。

10 交州討伐へ


二月、郭逵(かくき)を安南招討使とした。
 
このとき、交州軍の檄文(げきぶん)を入手し、「中国は青苗(1)、助役(2)の法を作り、民を苦しめている。いま、兵を出して助け合おう。」と書かれていた。時の宰相は怒り、天章閣待制(3)趙禼(ちょうせつ)を招討使とし、兵を率いて討伐に向かわせた。趙禼は、郭逵が辺境に精通しているため、自身が招討使となって彼を補佐することを願い出た。それゆえこの命があったのである。
 
(1)青苗法 春季の端境期に金銭と穀物を貸与し、秋の収穫期に利息をつけて返却させる法。
(2)助役法 職役の負担を金銭により代替する法。
(3)天章閣待制 実際の職務を伴わない官名の一。三司の副使、知制誥(ちせいこう)の任を満了した者が叙せられる。従四品。

11 郭逵、富良江で勝利


冬十二月、郭逵が交阯の兵を富良江(1)に破った。
 
初め、郭逵は長沙(2)に駐屯し、先に将を送って邕州、廉州を奪還させた。そして自ら兵を率いて西進し、富良江に着いた。蛮族は精兵を船に乗せて迎え撃ったので、官軍は川を渡ることができなかった。趙禼は将軍と官吏を派遣し、木を切って兵器を造らせた。機石(3)を降らすこと雨のごとく、蛮族の船はみな壊れた。続いて伏兵を配して敗走する兵を撃ち、数千の首を斬り、太子の李洪真を殺した。李乾徳は恐れ、使いをやって表を奉じ、軍門まで来て帰順した。
 
このとき、朝廷の兵八万人は、猛暑を冒し多湿の地を渡り、死者は過半に及んだ。富良江は交州から遠くないが、郭逵はあえて渡らず、広源州(4)・門州(5)・思浪州・蘇茂州(6)桄榔(こうろう)県を奪って帰還し、群臣はこれを祝った。詔して広源を順州とし、李乾徳の罪を許した。また、沈起(しんき)劉彝(りゅうい)の独断で戦端を開いた罪を罰し、随州(7)・秀州(8)に安置した。
  
(1)富良江 昇龍(交州の首都。現在のハノイ。)付近を流れる川。現在のホン川。
(2)長沙 湖南省長沙市。
(3)機石 投石器で投げた石。
(4)広源州 広西壮族自治区靖西県の南。
(5)門州 広西壮族自治区凭祥(ひょうしょう)市。
(6)蘇茂州 広西壮族自治区上思県の南。
(7)随州 湖北省随州市。
(8)秀州 浙江省嘉興市。