巻35 刺義勇

Last-modified: 2022-12-21 (水) 06:59:15

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英宗治平元年(1064)十一月、陝西(せんせい)の民に刺青(いれずみ)を施し、義勇軍とした。

韓琦(かんき)は言った。

「三代・漢・唐以来、兵を徴集して兵としてきました。それゆえ、その数は多くとも食糧の供給が行き届いていなかったのですが、天下を制御し、四方の(えびす)を服せしめる力となっていました。近頃の冗兵の及ぶところではありません。唐代に府兵を置いたのが最も近い例でありますが、天宝(玄宗・742~756)以後に廃止されて復活することがありませんでした。これが五代まで続き、遠征の兵を募ったため、天下を困窮させて兵に補給することができませんでした。

今の義勇軍は河北に十五万ほど、河東に八万ほどあり、勇敢にして誠実、天性の資質があり、物資・資産・父母・妻子があるので、訓練を施せば唐の府兵のようになるでしょう。陝西で西辺の争乱があった当初、丁男三人のうち一人を選んで弓手とし、その後彼らを徴集して保捷(ほしょう)正軍(禁軍の名)としました。しかし、夏国(西夏)が降伏すると朝廷は一部を残して解散させ、今残っている者はほとんどおりません。河東・河北・陝西の三路は西北の敵を防ぐ地であり、一体となって事にあたるべきです。今回陝西諸州から義勇軍を徴集するにあたり、手の甲にだけ刺青することにすれば、みな顔には刺青しないと知り、恐れることがなくなるでしょう。もしくは永興・河中・鳳翔(ほうしょう)の三府に先に刺青させ、これが長らく聞き伝われば、他の諸郡にも実施してゆきます。一時混乱はしますが、結果的には長きにわたる利となるでしょう。」

詔を下し、これに従った。そして徐億らに陝西の主戸(自作農)の三人に一人を徴集させ、刺青を施した。その数十五万六千余人で、一人につき銭二千を与えた。しかし、民情は騒然として紀律が疎かになり、役に立たなかった。

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知諫院・司馬光が上疏した。

「朝廷は陝西提点刑獄・陳安石を本路(陝西)に送り、一戸ごとに三人のうち一人を義勇軍にあてようとしていると聞きます。実情は知りませんが、もしその通りとすれば、たいへんな不利益となります。思うに朝廷は河北・河東には義勇軍があるのに陝西だけはなく、最近は趙諒祚(ちょうりょうそ)(李諒祚。趙は宋が与えた姓)が辺境を侵しているため、広く民兵を募って有事に備え、侵入を防ごうとしているのでしょう。

康定・慶歴のとき、趙元昊(ちょうげんこう)(李元昊)が反乱し、わが朝の軍はたびたび敗北を喫し、死者は万をもって数えましたが、国家の正規軍は少なく、陝西の民を集め、三人のうち一人を選んで郷弓手としました。次いでまた刺青を施して保捷(ほしょう)指揮にあて、辺境の兵士としました。正にこのとき、巷間(こうかん)では混乱や怨嗟(えんさ)の声が渦巻き、その様子は言うに堪えません。農耕の民は戦闘を習わず、官が衣服と食糧を消費すれば民がこれらを支給しなければならず、家族は離散し、田園が荒れ果てました。陝西の民は窮乏し、今に至るまで二十余年、元の生活に戻れた者はおりません。みなこのためです。この政策の誤りは戒めとするに足るものです。

このとき、河北・河東で辺境の争乱がやや落ち着きました。このため朝廷はただ民を集めて義勇軍にあて、刺青をせずに軍としました。陝西の保捷に比べれば害は小さいとはいえ、国家は彼らに夷狄を防がせることで、わずかな利益でも得られるでしょうか?朝廷は陝西だけに義勇軍がないのをおかしいと思うだけで、実は陝西の民の三人のうち一人を保捷にあてているのを知らないのです。西辺の争乱以来、陝西では科調(1)のために困窮し、景祐以前よりも民力が三分の二に減り、加えて近年はたびたび凶作に見舞われ、今年の秋は大きな収穫は見込めず、民は休息を欲しています。また、辺境は争乱の危険があり、民心は動揺しています。そこへもしこの詔が下ったと聞けば、みな大いに混乱し、苦しみ憂え、康定・慶歴のときと同じようになります。これは賊軍が来ないうちに、自分から困窮するというものです。ましてや今日の陝西の正規軍の数はたいへん多く、不足することはないのです。このような有害無益なことをして、同じ轍を踏む必要があるでしょうか?朝廷に利害を精査し、このようなことをやめさせ、一つの大幸を実現するようお願い致します。」

(1)科調 正式な税以外の、臨時の税。

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義勇軍の徴集をやめるよう六度も上奏され、強く勧められたが帝は聞き入れず、中書へ行き韓琦とこれについて弁論した。

韓琦は言った。
「兵は先声を貴ぶ(大きな声で敵を震え上がらせること)という。李諒祚(りりょうそ)は凶暴で屈強であるとはいえ、わが方が二十万の兵を増やしたと聞かされれば、恐れずにいられようか?」
司馬光が答えた。
「兵は先声を貴ぶとは中身のないものだ。一日の間ごまかすだけに過ぎん。わが方の兵を増やしても役には立たず、十日もしないうちにあちらはわが方の詳しい事情を知ることだろう。これ以上何を恐れることがある?」
「あなたは慶歴中、郷兵が刺青をして保捷となったのを思い起こし、今またそうなるのを心配しているだけだ。既に勅書を下して民に対する約束をしているではないか。永久に辺境防衛の軍にはあてないと。」
「朝廷は民に対する信用を失った。朝廷がまだ軍を徴集しようとしていないだけだ(約束など役に立たない)。」
「私がここ(宰相府)に居れば、あなたは心配することはない(義勇軍の徴集はしない)。」
「あなたが長くこの地位に居るのであれば、それでいいだろう。だが他日、誰かが宰相の位に就いたなら、その者が食糧を運んで辺境を守らせるだろう。あっという間のことだ。」

韓琦は司馬光の意見に従わず、陝西の害となった。

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以前、韓琦は言った。

「兵を養うのは古の道に反するものですが、利をもたらすものでもあります。朝廷は漢・唐のように民から兵を募るのが最上だと言うだけで、唐の杜甫の『石壕吏』一篇に目を通しておらず、民から兵を募る弊害はこの通りです。

後世に荒くれ者や無頼漢たちを徴集して兵とするようになると、良民は兵を養う費用を免れることはできずとも、父子・兄弟・夫婦が生き別れ死に別れる苦しみから免れることができるようになりました。養兵の制は誠に万世の仁であります。」

ここに至り、陝西の義勇軍の制度は誠に韓琦に始まった。司馬光が六度にわたりその不利益を直言したが、中止されることはなかった。