宋史紀事本末提要

Last-modified: 2023-04-14 (金) 19:03:24

『宋史紀事本末』二十六巻(両淮塩政採進本)

明・陳邦瞻(ちんぽうせん)撰。邦瞻、字は徳遠、高安の人。万暦26年(1598)の進士、官は兵部左侍郎に至る。その経歴は『明史』本伝に記されている。

当初、礼部侍郎臨朐(りんく)馮琦(ふうき)が『通鑑紀事本末』の体裁にならい、宋の事件を配列・分類して袁枢の書の続編としようと試みたが、果たさずして没した。御史南昌の劉曰梧(りゅうえつご)がその遺稿を入手し、陳邦瞻に増訂して編纂を完成するよう託した。

大まかに言って、馮琦に手になるものが十分の三、陳邦瞻の手になるものが十分の七である。「太祖代周」から「文謝之死」まで全109編、一代の興廃治乱の足跡の概略が述べられている。袁枢の記述は該博で、要約と配列の仕方は極めて精密であったが、陳邦瞻はこれを墨守して変えず、編纂の仕方はたいへん理にかなっている。諸史の中で『宋史』は最も蕪雑(ぶざつ)であり、『資治通鑑』の記述に脈絡があって筋書きをたどることができるのとは異なっている。だが、この書の配列と区分は一つ一つが妥当であり、袁枢に次ぐものであるとはいえ、その追求の功績は袁枢に倍するものである。

だが、この書の紀事は遼・金両朝にも触れており、当時は南北に分断されて統一することができなかったのだから、「宋遼金三史紀事」と称すべきである。そのほうが本書の体裁と乖離(かいり)せず、「宋史」の表題を用いるのは偏った見解である。『元史紀事本末』に至っては陳邦瞻が別に書を著しているのであり、このうち「蒙古諸帝之立」・「蒙古立国之制」などの諸篇は、いずれも元初の事実を記している。これらは『元紀』の中に記すべきであり、そうすれば事実の経過がつながったのである。臨安がまだ陥落していないからといって、一概に『宋史紀事本末』の中に配列するには内容が隔絶している。このほか、『宋史』の記述の古さのため、誤りや疎漏が訂正されていないのも事実である。しかし、『宋史』の煩雑な記述のうちにまとまった叙述をしようという道を切り開いた功績があり、『通鑑』を読むのに袁枢の書がなくてはならず、『宋史』を読むのにもこの一編がなくてはならないのである。