巻60 李綱輔政

Last-modified: 2023-12-25 (月) 23:14:27

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高宗建炎元年(1127)五月五日、李綱を尚書右僕射(うぼくや)兼中書侍郎とした。

これ以前、李綱は寧江(1)に流されていたが、金兵がやって来ると欽宗(きんそう)は和議の過ちを悟り、李綱を中央に呼んで開封(いん)(開封府長官)とした。李綱は寧江に赴く途中で長沙(ちょうさ)に滞在していたが、ここで開封尹の辞令を受け、湖南の勤王の軍を率いて救援に向かったが、到着しないうちに都城が陥落した。

(1)寧江 夔(き)州。四川省奉節県。

ここに至り、副宰相に任ぜられると、高宗の行在(あんざい)所に赴いた。中丞(ちゅうじょう)・顔岐が上奏した。
張邦昌(ちょうほうしょう)は金人に好まれ、三公郡王に封じられたとはいえ、なおも同平章事を加えて尊重すべきです。李綱は金人に憎まれ、宰相に命じられたとはいえ、いまだ朝廷に来ておらず、これを辞めさせるべきです。」
これは五度上奏されたが、帝は言った。
「朕が即位したのも金人の好むところではあるまい。」
顔岐は言葉に詰まって引き下がった。顔岐はまた人をやってこの上奏文を李綱に見せ、李綱が朝廷に来るのを阻もうとした。

右諫議(うかんぎ)大夫・范宗尹(はんそういん)は、李綱の名声は実態からかけ離れており、君主を脅かすほどの勢いがあると言ったが、帝は聞き入れなかった。

汪伯彦(おうはくげん)・黄潜善は高宗につき従ってきた功績があり、宰相になる資格があると自ら言ったが、李綱が呼び出されると二人は喜ばず、李綱と不仲になった。

李綱が太平(2)に着くと、上奏した。
「乱れた政治を正す君主は、見識に優れていなければ務まりません。見識があれば物事に専心して大事に臨むに足り、小さな過ちで動揺することがありません。見識があれば正しい道理を見極めることができ、君子の任に堪え、小人が離間することもできなくなります。陛下には漢の高祖・光武帝、唐の太宗、わが朝の太祖・太宗を範としていただきたく存じます。」

(2)太平 山西省侯馬市の北。

2


六月一日、李綱は行在(あんざい)に到着して高宗に謁見し、涙を流した。帝もまた感涙した。李綱は上奏した。
「金人の非道なること、専ら詐術により成功を収めていますが、中国はそれを悟らず、その術中に陥っています。天命を頼んでいまだ改めず、陛下は外に軍を統帥して、天下の臣民に推戴(すいたい)されました。内に修養し外に敵を防ぎ、二帝を帰還させて国家を安定させることは、陛下と宰相の責任です。私は資格に欠けており、その負託に応えることができません。私が朝廷に来る途中、顔岐が上奏文を私に見せ、私は金人に嫌われており、宰相にふさわしくないと言いました。」
そして李綱は宰相を固辞した。帝は顔岐に奉祠(ほうし)(1)を命じ、范宗尹(はんそういん)を朝廷から追放した。李綱がなおも固辞すると帝は言った。
「朕はそなたの忠義と智略を知っている。敵国を服従させ、四方を安定させようとすれば、そなたがなくてはならない。辞退いたすな。」
李綱は額を地につけ泣いて謝罪し、言った。
「昔、唐の玄宗が姚崇(ようすう)を宰相にしようとしたとき、姚崇は十事の要説を説き、みな一時の病にかかりました。今、私もまた十事をもって陛下のお耳にお伝えしますので、陛下はこのうち何が実行できるかをお考えになり、これを実行に移されてください。さすれば私は宰相の命をお受けします。」

(1)奉祠 宮観使など、五品以上の者で引退する者に与える官職。

一、国是について
「中国が夷狄(いてき)を防ぐにあたっては、よく守ってから戦うべきであり、よく戦ってから和すべきですが、靖康の末期はこれらのいずれも実行できませんでした。いま戦おうとしてもできず、和そうとしてもできません。ここは国を自力で治めるのを優先し、専ら守備を国策とするのがよいでしょう。わが国の政治が整い、士気が上がるようになってから大軍を興すことを考えるべきです。」
二、巡幸について
「陛下はみだりに京師に行き、宗廟(そうびょう)に参拝して都の人々の心を慰めようとすべきではありません。いまだ都に住むことができないことを踏まえ、巡幸の計をなすべきです。天下の形勢を見るに、長安に行かれるのが上策であり、襄陽(じょうよう)(2)がこれに次ぎ、建康(3)がこれに次ぎます。いずれも当局に詔を下し、あらかじめこれに備えるべきです。」

(2)襄陽 湖北省襄樊(じょうはん)市。
(3)建康 江蘇省南京市。

三、赦令について
「祖先が即位したとき、赦令には一定の形式がありました。しかし、先日の赦令は張邦昌(ちょうほうしょう)による偽りの赦令を模範としています。もし悪逆な者を赦免すれば、罪に問われた官が復職し、道理が()げられるため行うべきではありません。ことごとく改正すべきです。」
四、僭逆(せんぎゃく)について
「張邦昌は国の大臣として、難に臨み死をもって節操を守ることができず、金人の勢いを頼んで帝室の姓を変え年号を改めようとしました。刑法を正しく行い、万世にわたって戒めるべきです。」
五、偽命について
「国家に大きな変事があり、節操を守る者は少なく、偽官(金の官職)を受け金に膝を屈する者は数え切れませんでした。昔、粛宗が賊を平定したとき、偽命を受けた者は六等に分けて罪に問いました。これにならって士風を奮い立たせるべきです。」
六、戦について
「軍政が久しく廃され、士気が弱まっています。紀律を一新し、信賞必罰を行い、士気を上げるべきです。」
七、守備について
「敵は狡猾(こうかつ)であり、再び襲来するでしょう。河北・河東・江南・淮南(わいなん)に防備を施し、要衝を押さえるべきです。」
八、本政について
「政治が多くの門下の者に操られて綱紀が乱れています。中書省に政治の権限を帰属させ、朝廷がそれを重んじるべきです。」
九、久任について
「靖康のとき、大臣の昇格・降格のしかたが大変速く、功績が無視されてきました。慎重に人物を選んで長く任用し、成功を収めさせるべきです。」
十、修徳について
「陛下は初めて天命を受けました。兄から帝位を継いだことを謙虚に受け止め、四海の嘱望に応え中興すべきです。」

翌日、李綱の提案を朝廷に頒布(はんぷ)した。しかし、僭逆・偽命の二事は宮中に留めて出さなかった。

3


李綱は二事が宮中に留め置かれたことについて、帝に言った。
「かの二事は今日の刑法と政治にとって大きな問題です。張邦昌(ちょうほうしょう)は道君(徽宗(きそう))の時代に政府に十年間おり、淵聖(えんせい)欽宗(きんそう))が即位すると最初に宰相に抜擢されました。国家が危難にあるとき、金人は易姓を企みましたが、張邦昌が死をもって節を守り、天下が宋を戴くことの意義を明らかにし、金人の心を動かすことができれば、金人は自らが加えた災厄を残さず趙氏を存続させたことでしょう。しかし、張邦昌は計画がうまくいくものと考え、公然と帝位につき、宮中に起居し、ほしいままに偽詔を下し、各地の勤王の軍を押しとどめました。天下の理解を得られないのを悟ると、やむを得ず元祐太后に垂簾(すいれん)聴政を求めて君主として迎え入れようとしました。張邦昌の僭越(せんえつ)な行為の顛末(てんまつ)はこのようであり、賛同する者はおりません。私は春秋の法によりこれを断つよう願うものです。

そもそも春秋の法によれば、人臣に将なく、将であれば必ず批判されます。趙盾(ちょうとん)は霊公を殺した賊(趙穿(ちょうせん))を討伐しなかったため、君主を(しい)したと史書に書かれました。今、張邦昌は帝位を僭称し、敵が退いたのに勤王の軍を押しとどめましたが、これは単に将と賊を討伐しなかったことの関係にとどまりません。

劉盆子は漢の宗室であることから赤眉に推戴(すいたい)され、その後十万の兵とともに降伏しましたが、光武帝はこれを殺すことはしませんでした。張邦昌は臣下でありながら君主に取って代わり、罪は劉盆子よりも大きいのです。しかし、やむを得ず自ら帰順し、朝廷がその罪を糾さずにいると、また尊ばれるようになりました。一体どんな道理なのでしょうか?

陛下が国を中興させようとしているのに、僭越の臣を尊んで四方に示しているようであれば、誰がそれを理解してくれるでしょうか?また、偽命の臣僚を一切不問に付せば、どうやって天下の士大夫の節を振るわそうというのでしょうか?」

執政の中でこの意見に賛同しない者がおり、帝は黄潜善を呼んでこのことを話した。黄潜善は張邦昌を強く支持した。帝は呂好問に言った。
「そちは都城が包囲されていたとき、その中におり、事情を知っていよう。これについてどう考える?」
呂好問は黄潜善に追従しており、両方を支持した。

李綱は言った。
「張邦昌の僭越は、朝廷に留め置くべきでなく、路傍の人々に『これも一天子だ』と言わせるべきではありません。」
そして泣いて拝しながら言った。
「私は張邦昌と並んで立つことはできません。(しゃく)で彼を叩くべきです。陛下がどうしても張邦昌を用いようというなら、私を罷免してください。」
帝はいたく感動した。

汪伯彦(おうはくげん)は言った。
「李綱の剛直さはわれわれの及ぶところではありません。」
帝は李綱の上奏を朝廷に出し、張邦昌を昭化軍節度副使・(たん)(1)安置とした。また、王時雍(おうじよう)徐秉哲(じょへいてつ)呉幵(ごけん)莫儔(ばくちゅう)・李擢・孫覿(そんてき)を高(2)・梅(3)・永(4)・全(5)・柳(6)・帰州(7)安置とし、顔博文・王紹以下を各々罪に問うた。張邦昌は潭州に到着後、処刑された。

(1)潭州 湖南省長沙市。
(2)高州 広東省茂名市。
(3)梅州 広東省梅州市。
(4)永州 湖南省零陵区。
(5)全州 広西壮族自治区全州県。
(6)柳州 広西壮族自治区柳州市。
(7)帰州 湖北省秭帰(しき)県。

4


李若水・霍安国(かくあんこく)劉韐(りゅうこう)に官職を贈った。

李綱は言った。
「最近の士大夫は恥を知らず、君臣の義を知りません。靖康の変のとき、死をもって節義を守ったのは、内には李若水、外には霍安国のみであります。彼らに官職を贈られるよう願います。」
帝はこの要請に従い、李若水に観文殿学士を贈り、忠愍(ちゅうびん)(おくりな)した。霍安国に延康殿学士、劉韐に資正殿学士を贈った。
「諸路は死をもって節義を守った者を報告せよ。」
と詔を下した。

5


六月六日、李綱に御営使を兼務させた。

李綱は帝に謁見すると言った。
「今の国勢は靖康の時代に遠く及ばず、なすべきことは、陛下が上に英断され、群臣が下に和睦し、中興を図ることです。しかしながら、計画あって先後緩急の順序を知らなければ、成功はおぼつきません。外に強敵を防ぎ、内に盗賊を除き、軍政を整え、士風を変え、財政を豊かにし、民力を休養させ、弊害ある法を改め、冗官を省き、誠意をもって号令して人心を感動させ、信賞必罰をもって士気を上げ、統帥を選んで地方に任じ、監司・郡守を選んで新政を執り行わせるのです。わが国が自力で政務を行うのを待つのは、政事が整って初めて金人を罪に問い、二帝を迎えることができるからであって、これが計画というものであります。

緊急にして優先的に取り組むべきは河北・河東の統治であります。河北・河東は国を守る障壁です。この地を治めることができれば中原が保たれ、東南が安定します。河東で失われたのは、恒・代(1)・太原・沢(2)()(3)(ふん)(4)・晋(5)州であり、他の州はまだ残っています。河北で失われたのは、真定・懐(6)・衛(7)(しゅん)(8)の四州に過ぎず、その他三十余州はいずれも朝廷の統治下にあります。両路の民と将兵が宋の統治を受け入れるのは、その心が固く、みな豪傑を首領に推すからであり、多くは数万、少なくとも万人を下りません。朝廷はこのようなときに官署を置き使者を遣わして彼らを慰撫(いぶ)し、兵を派遣してその危急を助けなければ、糧食が尽き疲れ果てて、金人に迫られたとき、忠義の心があったとしても援軍が来ず、危機が迫っても告げることなく、朝廷に怨みを抱き、金人が彼らを用いて精兵とすることでしょう。

(1)代州 山西省代県。
(2)沢州 山西省晋城市。
(3)潞州 山西省長治市。
(4)汾州 山西省汾陽市。
(5)晋州 山西省臨汾市。
(6)懐州 河南省沁陽(しんよう)市。
(7)衛州 河南省衛輝市。
(8)濬州 河南省浚(しゅん)県。

河北に招撫司、河東に経制司を置き、才知ある者を選んでその長とし、天子の恩徳と敵国に両河を放棄しない意思を宣布させるのが上策です。一州を保ち、一郡を回復することができるのは節度使・防禦使・団練使であり、唐の方鎮の制のように、自分で自分を守らせるのです。敵に従う心を断つのみならず、敵を防ぐ力を支えるべく、朝廷が永久に北顧の憂を抱かないようにさせるのが、今日最優先の務めであります。」
帝はこの意見を褒め、誰を任命すべきかを問うと、李綱は張所・傅亮(ふりょう)を推薦した。

李綱はまた軍法を定め、五人を()とし、伍長は戸籍に同じ組の四人の姓名を記した。二十五人を甲とし、甲正は戸籍に五人の伍長の姓名を記した。百人を隊とし、隊将は戸籍に甲正四人の姓名を記した。五百人を部とし、部将は戸籍に隊将正副十人の姓名を記した。二千五百人を軍とし、統制官は戸籍に部長正副十人の姓名を記した。招置新軍および御営司兵に命じ、この法により兵を組織させた。陝西(せんせい)・山東諸路の統帥に詔を下し、この法により相互に応援し、招集があれば戸籍に基づいて派遣させた。

6


十三日、子の趙旉(ちょうふ)が生まれ、大赦を行った。

李綱は言った。
「陛下が即位されましたが、広大な恩が河北・河東には届かず、勤王の軍が救援に来ませんでした。両河は朝廷が堅守しようにも赦令が及ばず、人はみなこの地を放棄したのだと言っております。どうやって忠臣義士の心を慰労すればよいのでしょうか?勤王の軍が路傍にあること半年、鎧を着て(ほこ)を背負い、霜を冒し、いまだ実戦の役に立たず、疲労し、加えて病にかかり死んでゆくというのに、恩恵が及ばなければ、後に災難があったとき、どうやって人を使役するというのでしょうか?今回の大赦により、広く徳をお示しくださるようお願いいたします。」
帝はこれに従った。このため人々は一致団結し、戦勝の報告がもたらされ、諸郡を包囲していた金人の兵は往々にして引き揚げていった。

7


二十九日、諸路に兵を集めて馬を買い入れさせ、民に資財を出させた。李綱の言を用いたものだった。

李綱は三つの意見を献上した。一、兵を集めること。二、馬を買い入れること。三、民を集め資財を出させて軍費の助けとすること。そして言った。
熙寧(きねい)・元豊の時代、内外の禁軍は五十九万ありました。しかし、今の禁軍は衰えており、どうやって強敵を防ぎ四方を鎮めようというのでしょうか?東南から資財を集め、西北から兵を集め、数十万の兵が得られれば、諸将を統帥として訓練し、短い時間で精兵とするのがよく、これが最優先の急務であります。」
これを受け陝西(せんせい)・河北・京東・西路に兵十万を集めさせ、交代で都を守らせた。河北西路では官民の馬を買いあさり、民に資財を出して国を助けるよう勧めた。李綱はまた言った。
「歩兵は騎兵に勝つことができず、騎兵は戦車に勝つことができません。戦車の制を京東・西路に行い、製造・訓練させてください。」

8


張所を河北招撫使(しょうぶし)とした。

これ以前、靖康のとき、張所は(ろう)で封をした書状を持って金軍の包囲を突破し、河北の兵士を募った。民は書状を読むと喜んで言った。
「朝廷はわれわれを見捨てたが、張察院を抜擢(ばってき)して用いている。」
募兵に応ずる者は十七万人おり、これより張所の名声は河北を振るわせた。

帝が即位すると、張所に陵墓を調べに行かせた。張所が戻ると上言した。
「河東・河北は天下の根本でありますが、以前誤って奸臣(かんしん)の策を用い、まず三鎮を、次いで両河を割譲しました。民は恨むこと骨髄に入り、今に至るまで守り続けています。彼らを兵として用いるならこの地を守る助けとなります。そうでなくば、両河の兵と民は望みをつなぐことができず、陛下のことを見捨てるでしょう。」
そして帝に速やかに京師に帰るよう求め、その五つの利益について述べた。
宗廟(そうびょう)を奉り、陵墓を保つことが第一。人心を慰安することが第二。四海の望みをつなぐことが第三。河北割譲の疑いを解くことが第四。早くに定まった居所を確保し、防衛に専心することが第五であります。国の安危は兵の強弱と将軍・宰相の賢愚にかかっています。都を移すかどうかではありません。金の兵が弱く将が愚かであれば、黄河を渡り南下したとて自らを守ることができましょうか?」
また、黄潜善はよこしまで新政を害する恐れがあると言った。帝は黄潜善を信任していたので、張所を江州(1)に左遷した。

(1)江州 江西省九江市。

ここに至り、李綱の推薦によって河北招撫使となり、内府(帝室の金庫)銭百万(びん)と空名の辞令千余を与えられ、京西の兵三千で自衛させ、将軍と官吏を自分で任用し、すべて便宜により処理することを許した。張所が謁見すると、箇条書きで利害を述べ、北京(ほっけい)に官署を置き、きっかけをつくって黄河を渡るよう要請した。

9


河北転運副使・張益謙は黄潜善に追従し、招撫司(しょうぶし)の害について述べ、河北に招撫司を置いてから盗賊の勢いが増していると言った。李綱は言った。
「張所はまだ京師に留まっているというのに、張益謙がどうして招撫司の害など知り得ましょう?河北の民は拠りどころがありませんが、集まって盗賊になるなど、それがなぜ招撫司のせいだと言えるのでしょうか?張益謙は道理によらず招撫司の政策を阻もうとしており、背後に彼を操る者がいるはずです。」
帝は張益謙に河北の実情を調べさせることにし、枢密院にその命を下した。

汪伯彦(おうはくげん)は張益謙の上奏文を用いてなおも招撫司のことを(そし)った。李綱と汪伯彦は言い争ったが、汪伯彦は言葉に詰まった。

10


張所は豪傑を招き、王彦(おうげん)を都統制に抜擢(ばってき)した。

このとき岳飛が上奏した。
「陛下は帝位につかれ、国家に主あり、敵を討つ(はかりごと)があり、勤王の軍が日々集まっています。かの国はわが国は弱く、その怠慢に乗じて討つべきであると言っています。黄潜善・汪伯彦(おうはくげん)は陛下のお考えを受けて失地を回復することができず、陛下を南幸させることを考えており、中原回復の望みをつなぐに足りません。陛下は敵の拠点がまだ固まらないうちに自ら六軍を率いて北へ渡ってください。さすれば将兵は士気が奮い、中原を回復できるでしょう。」
岳飛は越権行為に問われ、官職を剝奪された。岳飛は河北に帰り、張所のもとを訪ねた。張所は岳飛を中軍統領とし、尋ねた。
「お前はどのように敵に対峙(たいじ)する?」
「勇気は頼むに足りません。用兵の要はまず謀を定めることにあります。欒枝(らんし)は車で柴を()いて逃げたように見せかけて楚を破り、莫敖(ばくごう)は柴を刈って絞をおびき寄せました。いずれも謀が定まっていたのです。」
張所は驚いた。
「君は兵卒に収まるような人物ではないな。」
岳飛は張所に説いた。
「国家の都は(べん)(開封)であり、河北を険要の地としています。もし要衝に拠り、主な拠点を並べ立て、一つの城が包囲を受けるようにすれば、他の諸城は降伏するものがあれば救出されるものもあり、金人は黄河の南を狙うことができず、根本の地としての京師は揺るぎません。招撫(張所)が兵を率いて国境に迫るのであれば、私はただ命に従うのみです。」
張所は大いに喜び、岳飛を武経郎とした。

11


秋七月一日、王𤫉(おうしょう)を河東経制司とし、傅亮(ふりょう)が補佐した。また、銭蓋を陝西(せんせい)経制使とした。

12


十六日、右諫議(うかんぎ)大夫・宋斉愈(そうせいゆ)を処刑した。

これ以前、宋斉愈は李綱の募兵・買馬・括財(資財の徴収)の三事の過ちを主張したが、返答がなかった。このとき張邦昌(ちょうほうしょう)僭逆(せんぎゃく)・偽命の罪が論じられており、宋斉愈は張邦昌の姓名を書いてみなに見せた。このため宋斉愈は獄に下された。宋斉愈は罪に服し、都の東側で処刑された。

13


このとき帝は直筆の詔を発し、日を選んで東南に巡幸(臨安に遷都)することとした。李綱は言った。
「陛下の巡幸する場所は、関中が最上であり、襄陽(じょうよう)がこれに次ぎ、建康が下であります。陛下が上策を行わないのであれば、襄陽・(とう)(1)に行き故都を忘れていないことを示され、天下の心をつなぐべきです。そうでなくば、中原をわが方に奪還することができず、陛下がいつお帰りになるかわかりません。」
帝は二つの都に帰還の意を示した。これを読んだ者は感涙した。

(1)鄧州 河南省鄧州市。

ほどなくして帝が巡幸の意を翻そうとすると、李綱は東南巡幸への反対を直言した。
「古来中興の主というのは、西北に起てば中原に拠って東南を確保することができますが、東南に起てば中原を回復して西北を確保することができませんでした。天下の精兵健馬はみな西北にあります。もし中原を放棄すれば、金人はこれに乗じて内地を侵し、盗賊も蜂起して各地に跋扈(ばっこ)し、陛下が宮殿にお帰りになることもできません。ましてや兵を整え敵に勝ち、二帝を帰還させるなどもってのほかであります。

南陽、すなわち光武帝の起ったところは、峻険(しゅんけん)な高山があって敵を押さえることができ、広い城と平野があって兵を駐屯させることができ、西は関中・陝西(せんせい)に隣接して将兵を呼び寄せることができ、東は江南・淮南(わいなん)に達して穀物を輸送することができ、南は荊湖(けいこ)巴蜀(はしょく)に通じて財貨を徴収することができ、北は三都に至り救援することができました。

遷都をここで中断し、汴都(べんと)に帰っても良策が出ることはありません。いま舟に乗り流れに従って東南に行けば安泰でしょう。しかし、一たび中原を失えば東南も無事では済まず、一隅に退くこともできません。まして前に詔を下して民が中原に留まることを許し、人心を喜ばせたのです。なぜ詔の墨が乾かぬうちに翻意して信用を失うことがありましょうか?」
帝はこれに賛同した。

十八日、南陽への巡幸を決定した。范致虚(はんちきょ)を知鄧州とし、城壁と(ほり)、宮殿を修築し、金銭と穀物を運び込んだ。汪伯彦(おうはくげん)・黄潜善は密かに揚州への遷都を支持しており、ある人が李綱に言った。
「議論は紛糾しており、みな東幸はすでに決したと言っている。」
李綱は言った。
「国の存亡はここに分かれている。私は去就をかけてこれに反対せねばならん。」

14


八月五日、李綱・黄潜善を尚書左・右僕射(うぼくや)兼門下・中書侍郎とした。

李綱は常に帝のそばに仕え、靖康のときのことに話が及ぶと帝は言った。
淵聖(えんせい)欽宗(きんそう))は政事にいそしみ、上奏文に目を通して終夜眠ることもなかった。しかし今、急に都を移すのはどうだろうか?」
李綱は答えた。
「君主の職務は人を知ることにあります。君子を用い、小人を退ければ大功をなすでしょう。そうでなければ、いかに文書の裁決が多くとも無意味です。」
そして寛大さをもって人の言をよく聞き、倹約して国の費用を賄い、英知をもって大事を果断するよう忠告した。帝は称賛してこれを聞き入れた。

李綱の諫言(かんげん)のしかたは切なるものがあり、帝は初めすべて聞き入れていた。だがここに至り、黄潜善・汪伯彦(おうはくげん)の言に惑わされ、李綱の諫言の文書を宮中に留めて返答しなくなった。

<呂中は言う、李綱が宰相となってから、英邁(えいまい)さと完全な徳を備えるよう君主に勧め、政治を整え夷狄(いてき)を討つことを己が務めとし、忠義からたびたび上奏し、時事の要点を正した。和議が決して国是が明らかとなり、僭逆(せんぎゃく)の罪が正されて士気が振るい、遷都の計画が定まって人心が安定した。その他は軍政を整え、士風を変え、制度を定め、弊害ある法を改め、兵を集め馬を買い、要害を分置し、張所に河北を帰属させ、王𤫉(おうしょう)に河東を治めさせ、宗沢に都城を守らせ、西は関中・陝西(せんせい)を監視し、南は襄陽(じょうよう)(とう)州を治め、有利な地形に拠って中原を守る計とした。

朱子が「李綱が来て、初めて朝廷が実態をなす」と言ったのは、まさにこのためであった。>

15


十八日、河東経制副使・傅亮(ふりょう)行在(あんざい)に帰らせ、李綱が辞職した。

このとき傅亮は十余日の間行軍していたが、黄潜善らは前進していないものと考え、東京(とうけい)留守に傅亮の軍を指揮させ、即日黄河を渡らせた。傅亮は言った。
「行軍がうまくいっていないうちに黄河を渡らせれば、国事を誤るでしょう。」
李綱は傅亮の指揮に任せるよう求めたが、黄潜善らが賛成しなかった。李綱は言った。
招撫(しょうぶ)・経制の二司は私の意見によって置いたものであり、張所・傅亮も私の推薦により用いたものです。今、黄潜善・汪伯彦(おうはくげん)が張所・傅亮の邪魔をしており、私の邪魔をしております。私は常に靖康の大臣らの不和が招いた失敗に(かんが)み、黄潜善・汪伯彦の意見に賛同して実行するようにしていますが、二人の意図はこの通りであります。陛下には虚心になってこのことを考慮していただきたく思います。」

それからほどなくして、傅亮が行在に呼び戻されると、李綱は言った。
「陛下がどうしても傅亮を罷免しようとされるなら、黄潜善もともに罷免してください。されば私は職を辞して郷里に帰ることができます。」
李綱が退()がると傅亮が辞職した。李綱が再度上奏して辞職を願い出ると、帝は言った。
「そなたはどうしてかように些事(さじ)に口をはさむのだ?」
李綱は言った。
「当今の人材は、将帥に急ぎ人を用いるべきであり、小事ではありません。私は先に遷都について議論しましたが、黄潜善・汪伯彦と意見が異なり、憎まれることでしょう。しかしながら私は東南の出身です。陛下が東幸して安息されることを願わずにいられるでしょうか?一たび中原を去れば、後の害があること言い尽くせないほどであります。陛下にあっては国家を心とし、民を意とし、二帝がいまだ帰還していないのを念とし、私が去ったことにより東幸のお考えを改めることのないようお願い致します。私は陛下のおそばを離れますが、一日たりとて陛下のことを忘れることはありません。」
そして泣きながら辞去した。

ある人が言った。
「あなたは進退を決し義を通すことができた。しかし、讒言(ざんげん)する者をどうするのか?」
李綱は言った。
「私は君主に尽くす道を知っている。それができなければ進退の節を全うするのみであって、小人の害など心配するに及ばない。」

侍御史・張浚(ちょうしゅん)が恣意的に宋斉愈(そうせいゆ)を殺したと李綱を弾劾し、同時に軍を集め馬を買ったことの罪を論じた。黄潜善・汪伯彦らも李綱を排斥し、朝廷から追放するよう帝に求めた。このため李綱を罷免して観文殿大学士とした。張浚は李綱への非難をやめず、李綱は提挙洞霄(どうしょう)宮に左遷された。

李綱が宰相の位にあること七十七日であった。李綱が辞職すると招撫司・経制司が廃止され、帝は東幸し、両河の郡県は相次いで陥落した。李綱が計画した軍民の政はすべて中断された。金兵は勢いづき、関中・畿内が破壊され、中原の盗賊が蜂起した。

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二十五日、太学生の陳東、庶民の欧陽澈(おうようてつ)を殺した。

陳東は丹陽(1)から呼び出され、まだ帝に対面していなかったが、李綱が辞職すると上奏し、李綱を留任して黄潜善・汪伯彦(おうはくげん)を罷免するよう訴えたが、帝は返答しなかった。再び上奏し、帝が親征して二帝を連れ戻し、諸将の兵を進めない罪を糾して士気を上げさせ、帝は京師に帰り金陵(2)に巡幸すべきではないと訴えたが、やはり返答しなかった。

(1)丹陽 江蘇省丹陽市。
(2)金陵 江蘇省南京市。

()(3)の庶民・欧陽澈が徒歩で行在(あんざい)に行き、帝に直接上奏して大臣らを非難した。黄潜善は帝の怒りをかき立てるようにして言った。
「速やかに処刑せねば、民衆を煽動(せんどう)して再び訴えにきますぞ。」
欧陽澈の上奏文は黄潜善に渡されることになった。

(3)江西省撫州市。

開封府(いん)孟庾(もうゆ)は陳東を会議に呼び出した。陳東は食事をしてから行くと言い、家のことの処理を紙に書いた。字は普段通りの形だった。書き終わると、これを従者に渡して言った。
「私は死ぬ。お前は帰ったらこれを私の親に渡すのだ。」
食事を終えると(かわや)に行った。迎えの官吏が難色を示すと陳東は笑って言った。
「私は陳東だ。死を恐れてものを言わないのであれば、死から逃れようとしているのを認めているようなものではないか。」
官吏は言った。
「私もあなたのことを知っている。無理に連れ出すことなどしない。」
しばらくして、陳東は冠と帯を身につけて出てきた。そして屋敷を後にし、欧陽澈とともに市中で斬られた。四明(4)李猷(りゆう)が遺体を買い取って埋葬した。

陳東は初め李綱のことを知らず、ただ国家の大事のために死んだ。陳東を知る者も知らない者も、みな涙を流した。

(4)四明 山名。浙江省寧波市の南西。

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二十八日、許翰(きょかん)が辞職した。

許翰は言った。
「李綱の忠義と才知を捨てれば中興をお助けすることができません。いま李綱を罷免すれば、私が留まっても無益です。」
そして辞職を強く願い出たが、帝は許さなかった。陳東が殺されると許翰は言った。
「私と陳東は李綱の器に及びません。陳東が市中に処刑され、私が朝廷にいるなど、それでよいのでしょうか?」
許翰は八度上奏して辞職を願い出、資正殿大学士・提挙洞霄(どうしょう)宮となった。