巻5 平南漢

Last-modified: 2022-09-29 (木) 12:34:04

1 南漢の潭州侵攻


太祖乾徳二年(964)春正月、南漢(1)の軍が潭州(2)を侵したため、防禦使の潘美(はんび)がこれを攻撃して退けた。
 
(1)南漢 劉龑(りゅうげん)が創始した王朝(907~971)。今の広東省と広西省にあたる地域を領し、興王府(広州市)を都とした。
(2)潭州 湖南省長治市。

2 南漢朝廷の堕落腐敗


南漢の主・劉鋹(りゅうちょう)は暗愚で惰弱であったため、政治を宦官の龔澄枢(きょうちょうすう)、及び知恵者の盧瓊仙(ろけいせん)に任せきりにし、自身はといえば、宮中のペルシャの女達と日々戯れていた。宦官は七千余人にものぼり、中には三師(1)・三公(2)となる者さえいた。
 宦官の陳延寿は、「先帝が陛下に帝位をお伝えになったのは、弟たちを皆殺しにしたからです。」と言い、劉鋹に諸王を除いて地位を盤石にすることを勧めた。劉鋹はこれにうなずき、弟の桂王(けいおう)劉璇興(りゅうせんこう)を殺した。これにより君臣がお互いを憎んで綱紀が大きく乱れることになった。
 
(1)三師 太師・太傅(たいふ)・太保。当時にあっては名誉職。
(2)三公 司徒・司馬・司空。同じく名誉職。

3 宦官の跋扈


内侍監(1)許彦真(きょげんしん)は、尚書右丞(2)鍾允章(しょういんしょう)(そし)って殺し、龔澄枢(きょうちょうすう)とともに重職に用いられたが、両者とも権力を争って協力しなかった。このとき、許彦真が先帝の(めかけ)李麗姫(りれいき)と姦通していたことを告げる者がおり、龔澄枢がこれを調べようとしたところ、許彦真はこれを恐れ、息子と謀って龔澄枢を殺そうとした。龔澄枢は使いの者に許彦真が謀反を起こそうとしていると告げさせ、一族もろとも獄に下して皆殺しにした。
 南漢の主、劉鋹は李託を内太師・六軍観軍容使とした。劉鋹は李託の長女を自分の妾として貴妃(3)とし、次女を美人(4)とし、李託が権力を握った。劉鋹は、国政のことはみな李託を通してから行うよう詔を出した。
 
(1)内侍監 宦官の官職。宮廷の雑務、宿直、皇帝の外出時の随伴などを担当する。
(2)尚書右丞 尚書省の官。
(3)貴妃 内命婦(皇帝の妾の称号)のうちの最高位。皇后に次ぐ地位。
(4)美人 内命婦の一。正四品。

4 邵廷琄、宋との通好を建議


乾徳二年九月、潘美(はんび)尹崇珂(いんすうか)は兵を率いて南漢の(ちん)(1)を攻め、勝利した。
 南漢の内常侍(2)邵廷琄(しょうていけん)劉鋹(りゅうちょう)に、「わが漢朝は唐の乱のあとに成立し、この地にあること五十余年、たまたま天下の趨勢に幸いする所が多かった(天下の情勢が南漢に矛先を向けなかった)ため、戦火がわが国に及ぶことはありませんでした。しかし、漢は太平に安住して警戒を欠いています。兵は旗鼓(3)を知らず、君主は存亡の危機というものを知りません。天下の乱れは長きに及びますが、そうであれば必ず収まるときが来ます。今こそ軍備を整えながらも使者を宋に遣わし、宋と親しくしておくことを建議します。(そうして乱の収まるのを待ち、漢の存続を図るのです。)」と言った。
 劉鋹はこの言を聞いても呆然とするばかりで考えをめぐらすことができなかった。こうして初めて恐れを抱くようになり、邵廷琄を招討使に任命して洸口(こうこう)(4)に駐屯させた。
 
(1)郴州 湖南省郴(ちん)州市。
(2)内常侍 宦官の官職。実際の職務はない。
(3)旗鼓 戦争に使うはたとつづみ。転じて戦争。
(4)洸口 現広東省英徳市の南。湞(てい)水(現在の北江)と洸水(現在の連江)の分かれ目。

5 南漢の社会状況


王師は(ちん)州で勝利し、南漢の宦官、余延業を捕らえた。帝が南漢の国政の状況を問うと、余延業は、劉鋹は焼・煮・剥(皮剥ぎ)・(てき)(えぐる)・刀山・剣樹の刑を行い、罪人に虎や象と闘わせていると事細かにその様子を述べた。
 また、租税の取り立ても厳しく、村人が城に入るとき、一人につき一銭を納めさせた。(けい)(1)の斗米(2)の税は銭に換算して四~五銭で、媚川都(びせんと)(3)を置いて民に真珠の納入を課し、五百尺もの深さまで海に潜って真珠を採らせ、劉鋹の住む宮殿は真珠と玳瑁(たいまい)(4)で飾らせた。宦官の陳延寿は種々の贅沢を、非難を受けぬよう巧みに行い、日に数万の金銀を費やしていた。高官らは宮城を離れること数十回に及び、十数日から一ヶ月余り外遊したまま帰ってこないのが常であった。豪民を税を負担させる戸とし、宴会の費用を供出させていた。
 帝は南漢朝廷の、あまりにも(ただ)れた(おご)りぶりを聞いて驚愕し、「この地の民を救わねばならない。」と言った。しかし、このときは蜀の平定を計画したばかりで、南漢に攻め入る余裕はなかった。
 
(1)瓊州 琼州とも。海南省海口市。
(2)斗米 納税額を計るますに入った米。
(3)媚川都 海門鎮(広西壮族自治区合浦県)に兵八千人を置き、真珠の採取を行わせ、これを媚川都と号した。
(4)玳瑁 熱帯の海に生息する亀の甲羅。黒くつやがあり、鼈甲(べっこう)と呼ばれる。

6 劉鋹、邵廷琄に死を賜う


乾徳三年(965)六月、南漢の招討使・邵廷琄(しょうていけん)は、洸口(こうこう)に駐屯して王師が来るのを待ち、国に背いて亡命した者たちを集め、彼らを兵士として訓練し、戦の準備を進めた。南漢の民はこの軍がいることでやや落ち着いた。
 しかし、何者かが匿名の手紙を投じ、邵廷琄が訓練している兵士を使って不軌(1)を図っていると(そし)り、劉鋹はこれを信じて使者を遣わし、邵廷琄に死を賜った。兵士らは軍門を押し開け使者に会い、邵廷琄には謀反の考えがないことを訴え、よく調べてもらうよう頼んだが聞き入れられず、邵廷琄は死んだ。兵士らはみなで洸口に邵廷琄の廟を立てて(まつ)った。
 
(1)不軌 謀反。

7 南漢征伐の開始


開宝三年(970)九月、劉鋹(りゅうちょう)は挙兵して道州(1)を攻撃した。刺史・王継勲は、「劉鋹は思うがままに暴虐を尽くし、国境に度々出向いて荒らしまわっております。どうか南方を征伐されることを願います。」と上奏した。
 帝は南唐の主(李煜(りいく))に書状を(したた)めさせ、劉鋹に臣下であると称し、奪い取った湖南の地を宋に返すよう諭すことにした。ところが、劉鋹は南唐の使者を捕らえ、駅書(2)によって南唐の主に返答したが、その言はたいへん不遜なものであった。
 南唐の主がこの返書を献上すると、帝は南漢征討の意を固め、潘美(はんび)(けい)(3)道行営都部署(4)とし、尹崇珂(いんすうか)を副都部署として南漢の征伐に向かわせた。
 南漢に長年いた将たちは、その多くが讒言(ざんげん)(告げ口)により殺され、宗室も権力争いで殺しあってほとんどいなくなり、兵を率いるのは数人の宦官のみであった。南漢の主は、劉晟(りゅうせい)(劉鋹の父)の代から遊興と宴会に入り浸り、城壁の濠は飾り立てられて宮殿の趣味のための池となり、楼艦(5)は壊れ、兵器は使い物にならなくなっていた。宋軍がやってくるのを聞いて、宮廷の内外は恐怖に震え、すぐさま龔澄枢(きょうちょうすう)を賀州(6)に駆けつけさせ、柵を設けて守りを固めた。
 
(1)道州 湖南省道県。
(2)駅書 駅伝によって届けられる書状。
(3)桂州 広西壮族自治区桂林市。 
(4)行営都部署 征討時に設ける、軍を統帥する官。
(5)楼艦 やぐらを設けた船。
(6)賀州 広西壮族自治区賀州市。
 
 宋軍の先鋒が芳林に着くと、龔澄枢は逃げ帰り、潘美は賀州を包囲した。南漢の大臣らは以前仕えていた将、潘崇徹を起用するよう、口々に願い出たが、劉鋹は聴き入れず、伍彦柔(ごげんじゅう)を送り、兵を率いて賀州を救援させた。
 潘美は伍彦柔が来ると聞き、奇襲の兵を組んで南郷(7)の川岸に潜ませた。伍彦柔はその夜、南郷に泊まり、岸辺に舟を用意していた。明け方、潘美は弾弓(8)を手挟んで岸壁に登り、床机に腰掛けて攻撃を指示すると、伏兵が一斉に立ち上がって伍彦柔の陣に押し寄せた。伍彦柔の軍は壊乱し、死者十に七、八人を出した。伍彦柔を捕らえて斬り、その首をくくりつけて高くさらし、賀州の城中に見えるようにすると、城中の兵は戦意を失い、城はようやく陥落した。
 潘美の指揮する艦船は、川の流れに乗じて広州に向かうと声を張り上げた。これを聞いた南漢主劉鋹は、悩みあぐねるも名案を出すことができず、ここでようやく潘崇徹を都統とし、三万の軍を率いて賀江(9)に駐屯させた。
 潘美はすぐさま昭州(10)に向かったが、潘崇徹は軍を動かさず、じっとしているだけであった。潘美は勝ちに乗じて昭州を攻略し、さらに進み出て桂・連(11)二州を陥落させた。
 劉鋹はこれを聞いて、「昭・桂・連・賀州はもともと湖南に属し、いま宋軍はこれを奪い返して満足したであろう。これ以上南進してくることはあるまい。」と近侍の者に言った。
 
(7)南郷 広西壮族自治区南郷県。
(8)弾弓 はじき弓。石丸を弾き飛ばす弓。
(9)賀江 賀州から東北に流れる川。
(10)昭州 賀州の西。広西壮族自治区平楽県。
(11)連 連州。広東省連県。

8 韶州の陥落


開宝三年十二月、劉鋹は李承渥(りしょうあく)を都統とし、兵十余万を率いて蓮花峰下に陣取らせた。南漢の軍は象を並ばせて陣とし、象ごとに十数人の兵を乗せ、みな武器をとり、戦うときはいつでも陣前に並ばせ、軍の威容をもたせていた。
 潘美が張りの強い(いしゆみ)を集めてこれを射ると、矢の刺さった象は暴れ回って兵を踏みつけ陣を荒らし、上に乗っていた者たちは下に落とされ、李承渥の軍を踏み潰して大敗を喫するに至った。李承渥はようやく身一つで逃げ出した。

潘美は(しょう)(1)に進出してこれを陥落させた。韶州は南漢の北門ともいえる場所である。
 劉鋹は韶州が陥落したと聞き、進退窮まって計を立てる術もなく、ようやく広州の東に壕を掘らせるのみであった。諸将の顔ぶれを見るに、この窮地に用いるべき者はなかったが、宮媼(きゅうおう)(2)梁鸞真(りょうらんしん)が、その養子、郭崇岳を用いるべき将として薦めた。南漢の主は彼を招討使に任じ、大将・植廷暁とともに六万の軍を率いて馬逕(ばけい)に駐屯させ、王師を食い止めようとした。郭崇岳には智略も勇猛さもなく、日々鬼神に祈るのみであった。
 
(1)韶州 広東省韶関市。
(2)宮媼 宮廷に仕える老女。

9 南漢の降伏


開宝四年(971)二月、潘美は南漢の英(1)・雄(2)二州で勝利し、潘崇徹は麾下(きか)の軍を挙げて降伏した。
 潘美が瀧頭(ろうとう)に進み出て駐屯すると、南漢の主は使者を遣わして和睦を請い、攻撃を遅らせるよう求めた。潘美はそれを許さず、兵を馬逕(ばけい)に進め、広州城から十里の双女山下に砦を構えた。
 南漢の主はこれを聞き、船を十余隻呼び寄せ、金銀財宝と愛妾(あいしょう)らを乗せて海に出て逃れようとした。だが、船がまだ出発しないうちに、宦官の楽範が衛兵千余人とともに船を盗んで逃げ出してしまった。
 南漢の主は逃げ道を失って怖くなり、左僕射(さぼくや)(3)蕭漼(しょうさい)を遣わして降伏の上奏文を捧げ持って潘美の軍門に行き、降伏を願い出た。潘美は蕭漼を汴に送らせた。南漢の主はまた、弟の劉保興を送り、百官を引き連れて潘美を迎えようとしたが、郭崇岳がこれをおしとどめた。郭崇岳は防備を固め、劉保興を馬逕に送り、国内の兵を率いて潘美の軍を防がせた。植廷暁は郭崇岳に、「北軍は席捲(4)の勢いに乗じ、矛を交えることはできぬ。わが軍の兵は多いとはいえ、みな傷や疲れが癒えていない。それでもいま鞭を打って前に進まなければ、何もせずに倒れることになるだろう。」と言った。
 植廷暁は前軍を率いて川辺に陣を敷き、郭崇岳に後詰を任せた。宋軍は川を渡って攻めかかり、植廷暁は力の限り戦ったが勝てず、陣没した。郭崇岳は陣中の柵の中に逃げ帰った。
 潘美は諸将に、「相手は竹木を編んで柵を組んでいる。篝火(かがりび)でこれを焼けば敵軍は必ずや乱れ、その上で挟み撃ちにすれば、万全の策となろう。」と言い、人足を多数送って一人ひとりに二本の(たいまつ)を持たせ、わき道に柵をつくらせて攻撃の準備をさせた。夜になって万の炬が一斉に進み出て郭崇岳の陣に押し寄せた。このときちょうど大風が吹いて煙と(ほこり)濛々(もうもう)と巻き起こり、南漢の軍は大敗し、郭崇岳も両軍の兵が乱れ争う中で死んだ。
 龔澄枢(きょうちょうすう)と李託はともに、「北軍が来れば、わが国の宝物を持って行かせて得をさせるだけである。これらをことごとく焼いてしまい、敵軍に空城を与えて長く留まることができないようにしよう。」と話し合い、火を放って宝物庫と宮殿を焼き、一夜にして燃え尽きた。
 翌日、劉鋹が潘美のもとに出てきて降伏した。潘美は城に入ると、南漢の宗室・官属を捕らえ、汴に送った。このとき、宦官百余人がきらびやかな服装で帝に会いたいと求めてきた。潘美は、「宦官のなんと多いことよ。私は詔を奉って罪を討ちに来たのだ。その罪とはまさしくこの者たちのことだ。」と言い、この者たちをすべて斬り殺した。
 この勝利により、州六十、県二百四十を得た。潘美に山南東道節度使の称号を与えた。
 
(1)英 英州。広東省英徳県。
(2)雄 雄州。広東省南雄県の西南。
(3)左僕射 この当時にあっては地位を表すのみで実職のない官名。
(4)席捲 席(むしろ)を巻くように容易に収め取ること。

10 南漢の奴婢の解放


開宝四年三月一日、「広南において他人の男女を買って奴婢とし、使役して利益を得ることがあれば、すべて放免せよ。南漢の政治で民に害をなすものは、すべて朝廷に報告し、これをやめさせよ。」との(みことのり)が下された。

11 劉鋹の恩赦


劉鋹(りゅうちょう)が汴に到着すると、帝は呂余慶を遣わして劉鋹の反抗と宝物庫を焼いた罪を糾した。劉鋹は罪を龔澄枢(きょうちょうすう)と李託によるものだとした。翌日、担当の官署は劉鋹と官僚らを絹で縛ってつなぎ、廟(1)と社(2)に捧げ物として献上した。帝は明徳門に赴き、刑部尚書(3)盧多遜(ろたそん)を遣わし、詔を読み上げ劉鋹の罪を責めた。劉鋹は、「私は十六歳で南漢の主の位を不当にも継ぎましたが、龔澄枢らは先代から長く仕える家臣たちで実権を握っているため、思い通りになることなどありませんでした。祖国にいたとき、私は臣下であり、龔澄枢は国主といえる立場でした。」と言い、地に伏せて罪の言い渡されるのを待った。帝は大理卿(4)・高継申に命じて龔澄枢と李託を連れ出し、千秋門外にて斬刑に処した。また、劉鋹の罪を許し、襲衣(5)・冠帯(6)・器幣(7)鞍馬(あんば)(8)を与え、検校太保(9)・右千牛衛大将軍の称号を授け、恩赦侯に封じた。
 
(1)廟 皇帝の祖先をまつる所。
(2)社 土地を神としてまつる所。 
(3)刑部尚書 刑部の長官。
(4)大理卿 大理寺(犯罪の審問、刑の処断を担当する官署)に属する官。
(5)襲衣 かさねて着る衣服。
(6)冠帯 冠と官印を帯びるための帯。
(7)器幣 礼器と玉帛(たまときぬ)。
(8)鞍馬 くらをつけた馬。
(9)検校太保 北宋前期に行われた検校官十九階の第四階。実職を伴わない。

12 劉鋹のその後


劉鋹はふくよかで大きな体つきでありながら、眉目は筋張って険しく、弁舌巧みで、非常に器用であった。あるとき、劉鋹は真珠で鞍と(くつわ)を結び、それはさながら戯れる龍のようであり、その出来映えはたいへん絶妙なもので、これを帝に献上したことがあった。帝は近侍の者に、「劉鋹は工芸を好み、これに習熟して器用な性格になった。この性格で政治を執っていれば、滅亡に至ることはなかったであろう。」と言った。
 劉鋹が南漢の主であったとき、臣下の酒の中に酖毒(ちんどく)(1)を入れることが幾度もあった。ある日、帝の講武池への外遊にお供する際、近侍の官らがまだ集まっていないうちに、劉鋹が一番に駆けつけ、帝から杯酒を賜った。劉鋹は酒の中に毒が入っていると疑い、「私は祖父の築いた国の事業を受け継ぎ、朝廷に逆らい、王師が討伐に来るのを憂え、その罪は死に値します。陛下はそんな私を殺さずにおいてくださりました。どうか私を大梁(開封・汴)の庶民に落とし、太平の世の盛んな有様を見届けたいと思いますので、この酒を飲まずにいさせて下さい。」と、泣きながら言った。
 「朕は真心を相手の腹中に伝えているのだ。どうして毒を飲ますようなことがあろうか。」と言い、そばの者に劉鋹の酒を取らせて自ら飲み、別にもう一杯酌んで劉鋹に与えた。劉鋹は大いに恥じて先の言を詫びた。

劉鋹は後に太宗治世の太平興国五年(980)に亡くなった。

帝が北漢を征伐するにあたり、近臣を禁中に集めて宴会を催した。そのとき劉鋹が、「朝廷の威光ははるか遠くにまで及び、国主を僭称していた周囲の君主たちは、今ではみなこの席の中にあります。わが朝廷はやがて太原をも滅ぼし、劉継元(北漢の主)はわが朝廷のもとに降伏してやって来るでしょう。私は率先して来朝しましたため、杖をとって降伏した諸王の長となりたく存じます。」と進言した。帝は大いに笑った。
 
(1)酖毒 鴆という鳥の毒。その羽を酒にひたして飲めば死ぬという。