巻9 治河

Last-modified: 2022-09-30 (金) 18:48:27

1 黄河の視察


太祖乾徳二年(964)、使者を遣わして黄河を視察させ、古い堤防を修繕した。しかし、昔から黄河を完全に覆うことはできず、労役の負担も大きいという意見があり、取りやめとなった。民に詔を下して遥隄(ようてい)(1)を造らせ、決壊を防がせた。
 
(1)遥隄 河岸から離れたところに設けた堤防。

2 陽武での決壊


乾徳三年(965)秋、大きな長雨があり、陽武(1)で黄河の堤防が決壊し、梁(2)(せん)(3)(うん)(4)州でも決壊した。州兵に詔を発して堤防を修繕させた。
 
(1)陽武 河南省原陽県。
(2)梁 洛陽の北にある、黄河の中洲(中潬(ちゅうたん))に架かる橋のこと。(『宋史』巻九一、河渠一p.2257)
(3)澶州 河北省大名県。
(4)鄆州 山東省東平。

3 滑州での決壊(1)


乾徳四年(966)、八月、滑州(1)で黄河の堤防が決壊し、霊河県(2)の大堤防を破壊した。殿前都指揮使・韓重贇(かんじゅういん)らに詔を下し、兵士と労役夫数万人を監督して堤防を修繕させた。
 
(1)滑州 河南省滑県。
(2)霊河県 滑州の南西。

4 修繕の定例化


乾徳五年(967)春正月、帝は堤防が度々決壊するのに対し、使者を各地に派遣し、都の労役夫を徴発して修繕させた。この年からそれが通常となり、正月に始め、三月に終えることになった。
 
この月、開封府・大名府・(うん)(せん)・滑・孟・(ぼく)・斉・()(そう)(てい)・浜・徳・博・懐・衛・鄭(いずれも黄河流域の州)などの州の長官に詔を下し、その州の河隄(かてい)使とした。

5 曹翰を労役監督に任命


開宝五年(972)五月、濮陽(ぼくよう)(1)で黄河による大きな決壊が起き、陽武でも決壊した。このため、詔を下して諸州の兵と労役夫五万人を徴発し、(えい)(2)団練使・曹翰(そうかん)を送って労役を監督させることにした。
 
曹翰が宮殿を去るにあたり、太祖は、「長雨がやまず、黄河の堤が決壊したと聞く。私はこの二、三日香を焚いて天に祈り、天災が広がるようであれば、わが身に降りかかろうとも民に及ばぬことを願っている。」と言った。曹翰は額を地につけ、「昔、宋(春秋)の景公は、諸侯に耳打ちされて一たび賞賛の言葉を発したら、災いの星は退いたといいます。いま、陛下は万民のことを憂え、かように真摯にお祈りになっていますので、天の心を感じ、災いが起こることは断じてありますまい。」と言った。
 
(1)濮陽 河南省濮陽市。
(2)潁州 安徽省阜陽市。

6 治水の士を募る


六月、詔を下した。
「最近、(せん)(ぼく)など数州は、長雨が降り続き、黄河が災害を引き起こしている。私は度々堤防が決壊して水があふれ、民をひどく苦しめてきたことに鑑み、常に昔の書物に目を通し、黄河について調べている。夏の記述では、黄河を海に導き、山沿いに川を通したと言うのみで、力で急流を制し、高い堤防を築いたとは聞いたことがない。戦国の時代からは河川の利益をむさぼり、古くからの河道を塞ぎ、小利のために大利を妨げ、私的な利益を掠めて公を害し、九河(1)の制は壊れ、歴代の水害はやむことがなかった。
 
搢紳(しんしん)(2)の百官、もしくは民間の士で、河川の書を学び、河道を通じさせる方策を深く知る者で、その方策が長い時に耐えうるものであれば、重い労働を免ずる。宮城に来て上書、または駅書で上奏することを許す。私は自ら上奏文を読み、その長所を用い、質問をし、顕彰しようと思う。」
 
このとき、東魯(3)の世捨て人の田告という者が『禹元経』十二篇を編纂した。帝はこれを聞いて、宮廷に呼び寄せ、治水の方法について尋ねた。その言を褒め、官職を授けようとしたが、親が年老いたため、これを固辞して郷里に帰り親を養おうとしたので、これに従った。
 
曹翰が黄河のほとりに着き、自ら工夫を監督し、やがて決壊した所が塞がれた。
 
(1)九河 禹の時代の、黄河の九つの支流。黄河下流の多くの支流の総称と考えられる。
(2)搢紳 紳(宦官や儒者が腰と衿(えり)に巻いた大帯)に笏(しゃく)(大臣が朝見のとき右手に持つ細長い板)を挿すこと。
(3)東魯 今の山東省にあたる地。

7 孟・鄭・澶州で決壊


太宗太平興国二年(977)秋七月、黄河により孟州の温県(1)、鄭州の滎沢(けいたく)(2)、澶州の頓丘(とんきゅう)(3)で堤防が決壊し、黄河沿いの諸州の労役夫を徴発してこれを塞いだ。
 
(1)温県 河南省温県。
(2)滎沢 河南省鄭州市の西。
(3)頓丘 河南省濮陽市の北。

8 堤防の修繕


三年(978)、春正月、使者十七人に命じて黄河の堤防を修繕させ、水害に備えた。

9 分水の上奏


八年(983)五月、黄河により滑州の韓村の堤防が大破し、澶・濮・曹(1)・済(2)の諸州の民田に氾濫し、住人の家を壊した。水は東南に流れ、彭城(ほうじょう)(3)に至り淮河(わいが)に入った。
 
詔を発し、労役夫を徴発して堤防を塞いだが、久しく完成しなかったので、使者に命じて遥堤(ようてい)(あと)を視察させた。使者が上奏した。
「遥堤を修繕するよりも黄河の水勢を分けるべきです。孟州から(うん)州までは堤防だけで事足りますが、滑州と澶州は最も狭く、この二州については分水の制を立てるべきです。南北の河岸にそれぞれ一つの河道を開き、北は王莽河に入って海に通じさせ、南は霊河に入って淮河に通じさせて荒々しい河の水量を減らすのがよく、汴口の方法と同じです。分水した河は、その遠近を測って、距離に応じて水門を造り、随時に開閉し、水量が均斉を保つようにします。舟運を通じさせ、水田を灌漑(かんがい)することもでき、民を富ます基となります。」
帝からの返答はなかった。
 
このとき、長雨が多く、黄河の堤防が長く塞がれなかった。帝はこれを憂え、枢密直学士(4)・張斉賢を遣わし、駅馬に乗って白馬津(5)に行かせ、太牢(6)を供え、璧(7)を添え、祭祀を行わせた。
 
(1)曹州 山東省定陶県の西。
(2)済州 山東省巨野県。
(3)彭城 徐州のこと。
(4)枢密直学士 顧問・応対、朝会での侍立を担当する官。
(5)白馬津 滑州付近の河。
(6)太牢 祭祀に用いる、牛・豚・羊の三つの犠牲。
(7)璧 扁平・円形で中心に穴のある玉器。

10 滑州の堤防が塞がる


十二月、滑州から黄河の堤防の決壊部分が塞がったと報告があり、群臣はこれを喜んだ。

11 滑州での決壊(2)


九年(984)春、滑州は房村で堤防が決壊したと再び報告した。帝は、「最近韓村で決壊があり、民を徴発して堤防を修繕させているが、まだ完成していない。わが民をこれ以上重く苦しめることはない。軍にこれを代わらせるべきだ。」と言った。このため兵卒五万が徴発され、侍衛歩軍指揮使・田重進にその労役を監督させた。

12 澶州での決壊


淳化四年(993)冬十月、澶州で黄河による決壊が起こり、北の城と民家七千余りを壊した。詔を発して兵を徴発し、民の代わりにこれを修繕させた。
 
この年、巡河供奉官(1)梁睿(りょうえい)が上言し、「滑州の土壌は粗く、崖はよく崩れ、毎年黄河の南岸が決壊し、民田を害しています。迎陽(2)で河道を掘って四十里ほど水を引き、黎陽(3)に至って黄河に合流させ、洪水を防ぐよう願います。」と述べた。帝はこれを許した。
 
(1)供奉官 階級の低い使者。
(2)迎陽 黎陽の東。
(3)黎陽 現河南省浚県。

13 滑州で運河を開削


五年(994)春正月、滑州から新運河が完成したと報告があった。
 
帝は地図を調べ、昭宣使(1)・羅州(2)刺史の杜彦鈞(とげんきん)に命じて兵と労役夫十七万人を見積もらせ、黄河を開削して運河を開き、韓村の堤防から滑州西の鉄犬廟まで、五十里に及んだ。運河は再び黄河に合流し、水勢を分けた。
 
(1)昭宣使 実務内容を伴わない官の一。正六品。
(2)羅州 広東省廉江県の北。

14 李垂の建議


真宗大中祥符五年(1012)、著作佐郎(1)・李垂が『導河形勝書』三篇並びに図を上程した。その大略は、次のようであった。
 
「私は以下のように請います。(きゅう)(2)の東から禹の時代の河道を掘り進め、御河(3)に通じさせ、その川の流れの方向を調べ、大伾(たいひ)・上陽・太行(4)三山の間に出させ、西河の古い河道を再び掘り、北は大名(5)の西、館陶(6)の南に注ぎ、東北は赤河に合流して海に流れさせます。よって、魏県(7)の北に運河を掘り、真北からやや西に掘り進めば、衡漳(こうしょう)の北にたどり着き、(けい)(8)(べい)(9)に出、夏書(10)にいう『洚水(こうすい)を過ぎる』ようになり、やや東に向かい、易水に注ぎ、百済に合流し、朝河に合流して海に流れさせます。
 
大伾山の下で黄河と御河が混ざり合って流れ、山の堤を打ち叩き、その勢いは遠ざけることができません。それならば、この河を高地に流れさせ、北に向かわせれば、民は恩恵を受け、契丹は南侵することができません。禹貢(11)に『碣石(けっせき)(12)の西を通り、海に入る』とあり、孔安国はこれを『黄河が国の中を遡上する』と注釈しています。この流れは大伾山の西八十里、曹公(曹操)が開いた運渠の東五里に始まり、黄河の水を引き、真北からやや東に十里のところで、伯禹古隄(はくうこてい)を破り、牧馬陂(ぼくばは)を経て、禹の古い河道に従わせることとします。
 
(1)著作佐郎 宋初にあっては実務内容を伴わない官職。従六品上。
(2)汲郡 河南省滑県の西。
(3)御河 永済渠とも。現河北省大名県から現河北省南皮県までを流れ、黄河に合流する運河。
(4)太行山 河北省焦作市の北。
(5)大名 河北省大名県。
(6)館陶 河北省館陶県。
(7)魏県 河北省大名県の北西。
(8)邢州 河北省邢台市。
(9)洺州 河北省永年県の東。
(10)夏書 『尚書』の中の一篇。夏后氏の事績を記す。
(11)禹貢 夏書の中の一篇。
(12)碣石 山名。所在には諸説ある。
 
また、東三十里で大伾山の西、通利軍(13)の北に転じさせ、白溝(14)を挟み、西大河に戻り、北は清豊(15)・大名の西を経て、(えん)(16)・魏県の東を流れ、館陶の南に至り、屯氏の故瀆(ことく)(古い河道)に入り、赤河に合流して北に流れ、海に入らせます。大伾山の西から新たに故瀆の西岸を掘り、河道を開き、真北からやや西に五里のところで、広く深く汴河(17)などに流れさせ、御河に合流させます。大伾山の北では、土を固めて河道を掘り、東西二十里のところで、広く深く汴河などに流れさせ、東大河に戻らせます。二つの運河が分流すれば、三、四に分かれた水流が澶淵(18)の古い運河に注ぐのと同じです。おおむね黄河が西大河の故瀆に従い、東北で赤河に合流して海に至ります。その後、魏県の北で御河の西岸を切り開き、運河を開き、真北からやや西に六十里のところで、広く深く御河などに流れさせ、衡漳に合流させます。
 
また、()(19)の北の境、深州(20)の西南三十里のところで、衡漳の西岸を掘り、川を区切って水門とし、西北に流れて滹沱河(こだが)(21)に注がせます。大雨が降ればこの水門を塞ぎ、水を東に流して渤海に至らせ、日照りが続けば水門を破って水を西に流し、屯田に水を行き渡らせます。これは中国の辺境を守るに利する策です。
 
かつて漢朝にあっては、治水を説く者はしばしば九河の跡を探求し、これに水を注ごうとしました。いま地誌を調べるに、九河はみな平原(22)の北にあります。黄河が澶州・滑州の堤防を壊しても、それが平原に及ぶことはなく、上流で堤を破っているのですから、九河に水を注ぐことに何の利がありましょうか?
 
(13)通利軍 黎陽のこと。のち、安利軍に改名される。
(14)白溝 開封東南を流れる川。
(15)清豊 河南省清豊県。
(16)洹水 河南省安陽市付近を流れる川。
(17)汴河 黄河から分流し、開封の東西を流れる運河。
(18)澶淵 河南省濮陽市の西。
(19)冀州 河北省冀県。
(20)深州 河北省深県の南。
(21)滹沱河 河北省石家荘市付近を東西に流れる川。
(22)平原 山東省平原県の南。
 
漢の武帝は大伾山の古い河道を捨て置き、頓丘(とんきゅう)の流れの激しいところを開いたため、黄河の水が(えん)(23)と斉州(24)に氾濫し、その流れは中原に災害をもたらし、河朔(かさく)(25)の肥沃な田を千里に渡って呑み込み、侵略、略奪をなすがままにしました。いま、黄河は東の果てまで流れ、燕の地に満ちて北方を水浸しにしています。辺境を守る計は、黄河に勝るものはありません。そうでなくば、趙・魏の百城は、物資に富み人が多く、盗人を誘い外敵を招くものとなっていたでしょう。あるとき、外国がわが方の飢饉を見て、虚に乗じて侵略しようとするとき、謀士はこれを難しいと考え、人が多く財の豊かなときが最もよく、侵略が行いやすいと考えるものです(つまり、外国の侵入がありうる場合は、黄河を決壊させて村々を水浸しにし、敵に略奪の利を与えないようにするのです)。」
 
この建議を受け、枢密直学士・任中正(じんちゅうせい)、龍図閣直学士(26)陳彭年(ちんぽうねん)知制誥(ちせいこう)王曾(おうそう)に詔を下して審議させた。任中正らは上言した。
 
「李垂の述べるところを調べるに、これはたいへん緻密なものです。彼の言うところは、滑台から黄河を掘削して六つの水流に分けるということですが、流れに従って下流に至れば、流れが急で制しがたく、水勢が一つとなり、それぞれの流れを導かせることができません。もし、六つの水流を造れば、六箇所の河口が増え、それにより長く堤防建築に苦しむことになり、滹沱河(こだが)漳河(しょうが)(27)に注がせようとしても、それによりこの二つの川の流れを止めてしまっては、ますます民に害をもたらします。また、堤防を七百里に渡って築くとなれば、労役夫二十一万七千人、工期四十日が必要となり、民田を潰すことになり、非常に多くの費用がかかります。」
 
よって、李垂の建議は実行されなかった。
 
(23)兗州 山東省兗州県。
(24)斉州 山東省済南市。
(25)河朔 黄河以北の地。
(26)龍図閣直学士 閣直学士の一。実際の職務はなく、侍従・顧問を受け持つ。従三品。
(27)漳河 河北省安陽市の北を流れる川。

15 滑州での決壊(3)


天禧(てんき)三年(1019)六月、滑州で、州城の西北の天台山(1)の近くまで黄河が氾濫し、城の西南でも決壊した。河岸は七百歩に及んで崩れ、州城に水があふれた。水は澶・濮・曹・鄆州に及び、梁山泊(2)に注ぎ、一方では清水(3)古汴渠(こべんきょ)(4)に合流し、東は淮河に入った。州の村で災害に遭ったものは三十二に及んだ。このため、使者を諸州に遣わし、柴と石材、杭、綱にするための竹、千六百万を村々に課し、兵、人夫九万人を徴発して堤防を修繕した。
 
(1)天台山 滑州付近にある山。
(2)梁山泊 現山東省梁山県付近にある湖。
(3)清水 梁山泊から山東を東北に流れる川。
(4)古汴渠 開封から山東へ東南に流れる川。 

16 李垂、再度治水を建議す


天禧四年(1020)二月、黄河が塞がった。群臣がこれを祝い、帝は自ら文を(したた)め、これを石に刻んでこの功績を記した。
 
この年、()(1)員外郎(2)・李垂が、黄河の治水についての利害を再び論じたため、彼に命じて大名府・滑・衛(3)・徳(4)(ばい)(5)・通利軍に行かせ、それらの長官と方策を話し合わせた。
 
李垂は次のように上言した。
「私が訪れた州は、みな黄河が王莽河・沙河(6)・西河の跡に入り、金河・赤河に注ぐと言い、水勢が強く、民田を水浸しにし、堤防の建築に苦しむと憂慮しています。私はまた黄河の通るところ、害をなさぬこと無きものと考えます。いま、黄河が決壊して南に流れ、多くの害をなし、陽武(そう)(7)の東、石堰(せきえん)(8)の西では、地形により下のほうを汚し、東河の水があふれて苦しめています。
 
ある者は『決壊した運河の底の穴は深く、古い運河が逆流し、もしこれを塞げば、この付近は再び決壊する。』と言っております。この通りであれば、黄河を塞ごうとするのは大変に難しいことです。黄河が決壊して北に流れれば、害は少なくとも、一旦黄河が御河に注ぎ、易水になだれ込み、乾寧軍(9)を経て、独流口に入り、契丹の領域にまで及びます。ある者は『これにより辺境を動揺させよう。』と言っております。この通りであれば、黄河を疎通させようとするのはますます困難です。
 
私はこの二つの困難の間にあって、一計を案じました。すなわち、黄河の上流より水を北に引き、この水を高地に導き、東は大伾(たいひ)山に至らせ、澶淵(10)の旧道に流れさせ、南は滑州に至らせず、北は通利軍の境から出させないようにするよう請います。
 
(1)祠部 宋初にあっては祭祀の時期、僧侶・道士の名簿などを扱う官署。
(2)員外郎 職務内容を伴わない官名。従六品上。
(3)衛 衛州。河南省汲県。
(4)徳 徳州。山東省陵県。
(5)貝州 河北省清河県の西。
(6)沙河 山東省恵民県の北を流れる川。 
(7)埽 堤防。
(8)石堰埽 滑州にある堤防。(『宋史』巻九一、河渠一、黄河上 p.2255)
(9)乾寧軍 河北省青県。
(10)澶淵 河南省濮陽市の北。
 
どうやってこれを行うのか。私は次のように請います。衛州の東から、曹公の開いた運河の東五里の、黄河の北岸の突出した所で、河岸を土で塞ぎ固めて水を引き、真北からやや東に十三里の所で、伯禹古隄(はくうこてい)を破り、裴家潭(はいかたん)に注ぎ、牧馬陂(ぼくばは)を経るようにします。
 
また、衛州の真東からやや北に四十里の所で、大伾山の西の山を掘り、これに水を流して二つの運河とします。この一つは大伾山の南麓に近づき、古い堤を破り、真東に八里の所で、澶淵の旧道に流れるようにします。もう一つは通利軍の城の北にある曲河口に近づき、禹の導いた西河の跡に至らせ、真北からやや東に五里の所で、南北に渡る大堤を建設します。
 
また、衛州の東七里の所で、澶淵の旧道に入らせ、南に流れて滑州には至らせず、南渠と合流させます。
 
このようにすれば、北の水を載せた高地と、大伾山とその西の山の間は、分かれてその勢いを汲み取り、二つの運河に流れ込み、再び一つに集まって東北に注ぎ、三十里に達しない所で澶淵の旧道に合流しますが、滑州で水が涸れるのは直せません。
 
兵と人夫二万をもって、来年二月より作業を始め、三伏(11)の時期は半分の労働としますが、十月には完成します。全体を厚くし、薄い姫垣を設けるとすれば、次の年を待てばできます。」
 
李垂はこのように進言したが、朝廷はその内容が煩雑であることから、採用しなかった。
 
(11)三伏 初伏・中伏・末伏。陰暦の夏至の後、第三の庚(かのえ)の日を初伏、第四の庚の日を中伏、立秋の後、最初の庚の日を末伏という。穀物が最も熟す時期。

17 滑州での決壊(4)


滑州の天台の堤防の決壊した部分から、水が遠くまで及んだため、これを修復した。西南の堤防が完成すると、天台口の近くに半月型の堤防を築いた。
 
天禧四年六月十五日、黄河が再び天台で決壊し、水が衛州の南に(ほとばし)り、徐州、済州を水浸しにし、三年に及ぶほどの災害をもたらし、被害は甚大であった。帝はこれらの地域に通年どおりの賦税をかけることにより、民を苦しめることになるのを憚り、詔を京東西路(1)・河北路(2)の水害に遭った州軍に下し、丁夫(労役負担者)に労役を割り当てないようにした。堤防を守護する兵役については、州の長官に命じ、負担を緩和して交代で休ませるようにした。
 
(1)京東西路 山東省西部にあたる地域。路は府・州・軍の上の行政区画。長官は置かれない。
(2)河北路 河北省一帯の地域。

18 陳尭佐の治水対策


天禧五年(1021)春正月、知滑州・陳尭佐は、西北で洪水により城が壊されたため、城外の防衛をやめ、大型の堤防を築いた。また、城の北に堤防を何重にも築き、州の住民を守った。このほか、横木に穴を開け、数本の木を下に垂らし、黄河の近くに置いて岸を守った。これを木龍といい、すぐに役に立った。黄河の流れが変わる以前の河道の跡に支流を開き、水勢を分かれさせた。このため、詔が下って褒賞された。

19 黄河の水勢と時節


ある者が黄河の水位が年中上下することから、時節を挙げて水勢の名とすることを説いた。
 
立春の後、東風により雪が解け、黄河の縁辺の人は水が増えるのを待つようになり、一寸増えれば、夏と秋には一尺増えることがわかり、水が増える証拠となる。それゆえこれを「信水」という。二月、三月は桃の花が開き、氷が溶け、川の流れが集まり、波が高くなる。これを「桃華水」という。春の末、蕪菁(かぶ)の花が開く。これを「菜華水」という。四月末、田の(あぜ)に生えた麦が実を結び、その穂先を引き抜き、色が変わる。これを「麦黄水」という。五月、瓜の実が(つる)をのばす。これを「瓜蔓(かまん)水」という。北の荒地や深い山、谷では寒さが染み渡るほどで、氷が堅く張っていたが、この時季にようやく溶け出し、盛夏に至ってすべて溶かしつくされ、山石を洗い流し、水は明礬(みょうばん)を帯びて生臭く、水流が合わさって黄河に流れる。これゆえ六月中旬の後、これを「礬山水」という。七月、豆が実を結ぶ。これを「豆華水」という。八月、荻の花が開く。これを「荻苗(てきびょう)水」という。九月、重陽(九月九日)をもって時節を記す。これを「登高水」という。十月、黄河の水位が下がり静かに流れ、以前の河道に戻る。これを「復槽水」という。十一月、十二月、割れた氷が混ざって流れ、寒さにより氷結する。これを「蹙凌(しゅくりょう)水」という。
 
水は水位が常に変わらないことに信があり、常日頃のこととなっているのに、不意にあふれ出すことがある。これを「客水」という。大きな鉄砲水があふれ、岸が壊れるようになるのを「箚岸(さつがん)」という。水があふれ出して堤防を越えるのを「抹岸」という。堤防の岸が古くなり、底流が岸の下のほうを侵食しているのを「塌岸(とうがん)」という。波の勢いが渦巻いて激しく、岸壁の土が崩れ落ちるのを「淪捲(りんけん)」という。水が岸を侵し、逆流してあふれるのを「上展」といい、流れに従って水があふれるのを「下展」という。あるいは水位が突然下がり、まっすぐ流れているのに、たちまち流れが屈曲して横に激しく流れるのを「径䆗(けいきょう)」という。水の勢いが激しく、にわかに水かさが増え、水の色が澄んで明白になりそうであるのを「拽白(えいはく)」といい、また「明灘(めいたん)」ともいう。急流の怒りがほぼおさまっていたが、水流が急に起こり、行き交う船がこれに遇って多く沈むのを「薦浪水」という。
 
黄河の水は堆積した土砂を退け、夏は土を固めて肥沃にする。初秋には黄滅土となって粗い土となる。深秋には白滅土となり、霜の降った後はみな砂となる。

20 堤防建設の方法


旧制では毎年黄河の決壊を恐れ、官署は孟秋(陰暦七月)に水を塞ぎとめる物――(さん)(しょう)、柴、杭、(まぐさ)の綱、竹の綱、これら千余万を徴発していた。これを「春料」という。黄河に沿う諸州の、これらを産する地域に詔を下し、使者を送って河渠を担当する官吏と会わせ、農閑期に丁夫・水工を率い、堤防に使う道具を収めた。(あし)(おぎ)を刈り取ったものを「芟」といい、山木・(にれ)・柳の枝と葉を刈り取ったものを「梢」という。竹と芟を編んで綱とし、さらに竹を使って大きな綱とし、長さ十尺から百尺まで、数等ある。まず広く平らな所を選び、堤防建設の場所とした。
 
堤防建設の決まり。芟の綱と梢を密に敷き、梢と芟を重ねあい、土でこれを押さえつけ、砕いた石を混ぜ、大きな竹の綱をその中に通す。これを「心索」という。これを巻いて束ね、おおきな芟の綱をその両端につなげ、別に竹の綱を内側からともに外に出す。その高さは数丈に及び、長さはこの倍とする。労役夫数百、あるいは数千人を用い、一斉に声を出してこの塊を引き、低くやせた土地に積み置く。これを「埽岸(そうがん)」という。下の部分は杭で塞ぎ、長い木でこれを貫き、大きな木を岸に埋めて竹の綱でこれをつなぎ通す。黄河の水があふれて決壊すれば、これを増築して欠けた部分を補う。堤防は幾重にも重ねないと急流を塞ぎとめることはできない。また、「馬頭」・「鋸牙(きょが)」・「木岸」があり、これらは水流の近くで堤防を守るものであった。

21 諸州の堤防


黄河沿いの諸州、孟州には河南・河北の二(そう)があった。開封府には陽武埽があった。滑州には韓・房二村、憑管(ひょうかん)石堰(せきえん)州・西魚池・迎陽の七埽があった(以前は七里曲埽があったが、のち廃された)。通利軍には斉賈(せいこ)・蘇村の二埽があった。澶州には濮陽・大韓・大呉・商胡・王楚・横朧(おうろう)・曹村・依仁・大北・岡孫・陳固・明公・王八の十三埽があった。大名府には孫杜(そんと)・侯村の二埽があった。(ぼく)州には任村・東・西・北の四埽があった。(うん)州には博陵・張秋・関山・子路・王陵・竹口の六埽があった。斉州には采金山・史家渦の二埽があった。浜州(1)には平河・安定の二埽があった。(てい)(2)には聶家(じょうか)梭隄(さてい)鋸牙(きょが)・陽成の四埽があった。費用は有司が毎年見積もって不足することがなかった。
 
(一)浜州 山東省浜州市。
(二)棣州 山東省恵民県。