巻2 収兵権

Last-modified: 2024-05-02 (木) 02:16:30

1 慕容延釗、韓令坤の恭順


太祖建隆二年(961)閏三月、慕容延釗(ぼようえんしょう)を山南東道節度使(1)とした。

これより前、帝が受禅したころ、慕容延釗は大軍を従えて真定(2)にとどまり、韓令坤(かんれいこん)が兵を率いて北辺を動き回っていた。帝は使者を遣わし、自分から従うよう諭し(強制的にではなく自らの判断で帝に従うことを許し)、結局は両人とも帝の命に従った。慕容延釗に殿前都点検(3)を与え、韓令坤にも侍衛指揮使(4)を与えた。こうして、慕容延釗は真定から朝廷に赴き、韓令坤も帝に従って李重進を討って朝廷に帰り、両人とも与えられた職(殿前都点検と侍衛都指揮使)を辞して節度使となった。これ以後、殿前都点検の職は除せられることがなかった。
 
(1)山南東道節度使 襄州(湖北省襄樊(じょうはん)市)一帯を領する節度使。
(2)真定 河北省石家荘市の北。
(3)殿前都点検 殿前司の最高軍職で、殿前司の禁軍を統括する官。
(4)侍衛指揮使 禁軍の三衙のうち、侍衛親軍歩軍・侍衛親軍馬軍を統括する官。

 
2 禁軍の兵権を解く


秋七月、侍衛都指揮使・石守信らに禁軍の兵を司らせるのをやめた。

当初、石守信、王審琦(おうしんき)らはみな帝の古くからの知り合いで、軍功もあったため、禁衛の兵を司っていた。趙普はたびたびこれについて諫言していたが、帝は言った。
「彼らは私に背くことは絶対にない。そなたはどうしてそのように深く憂えるのか?」
「私も彼らが反逆すると考えているのではありません。しかし、よくよくその中の数人の者を見るに、彼らには統御の才がありません。部下を制することができなければ、軍の中に万一災い(=反乱)をなす者がいたら、その上に立つ者は、そのような時局に臨んで自力でこれを正すことができません。」
帝は趙普の諫言(かんげん)がいかに重要かを悟った。

ある日、帝は趙普を呼んでゆったりと天下のことを語り合い、嘆息して言った。
「唐の末より数十年間、八姓と十二の君主が相次いで帝位を僭称(せんしょう)し、戦乱はやまず、民は塗炭の苦しみを味わっている。私は天下の兵を休ませ、長きに渡る太平の計を立てようと思うが、これについてどう思うか?」
「陛下の言は大変立派なもので、天地の神人の祝福のようなものです。節度使・鎮将の権力は非常に強力ですが、少しずつその権力を奪ってしまいさえすれば、天下はおのずから安定してゆくことでしょう。」
「今の言を繰り返してはならぬ。そなたの言いたいことはわかった。」

それからしばらくの後、帝は一晩中石守信らと飲み明かした。酒たけなわのころ、側近を人払いして言った。
「私はそなたたちがいなければここまで来れなかった。しかし、皇帝の務めというのも苦労の多いもので、節度使のように気楽なものではない。私は一日とて安心して眠ることもできぬ。」
石守信らがその訳を問うと、帝は言った。
「それは簡単なことだ。この位に誰もがつきたがるからだ。」
石守信らは床に額をつけて言った。
「陛下はなぜそのようなことを言われるのです。いまはもう天命は定まっており、誰が異心など持つでしょうか。」
「そなたたちはもともとそうであるが、部下が富貴を欲すればどうか。ひとたび黄袍(こうほう)をそなたらの身に着せられたら、皇帝の地位を望んでおらずとも、そういうわけにはいくまい。」
石守信らは泣いて謝った。
「我々は愚かなため、そのようなことは考えもいたしません。陛下は我々を哀れと思うならば、無事に生きていける道をお示しください。」
「人生は白馬が走り去るように速い。人が富貴を好む理由は、ただただ金銭を多く蓄えて自らの生活を楽しみ、子孫に貧乏をさせないと望むからにすぎない。だというのに、そなたたちはどうして禁軍の兵権を返上し、都の外に出て大藩を守り、身分にふさわしい田地・邸宅を買い、子孫のために不動の財を残してやろうとしないのか。歌児・妓女(ぎじょ)をたくさん家に置き、日に夕に酒を飲んで楽しみ、天寿を全うしなさい。私は私とそなたたちとの一族で婚姻を結び、君臣の間に疑いのないようにし、君主も民も安心させようとしている。それが良いではないか。」
石守信らは頭を下げた。
「陛下の我々を思う気持ちがここまでとは、死者を生かし、骨に肉をつける(=大変深い恩情をお示しくださっている)とはこのことです。」

翌日、石守信らはみな病と称して禁軍の長官を辞めたいと言い出した。帝はこれを許し、石守信を天平節度使(1)とし、高懐徳を帰徳節度使(2)とし、王審琦を忠正節度使(3)とし、張令鐸(ちょうれいたく)を鎮寧節度使(4)とし、趙彦徽(ちょうげんき)を武信節度使(5)とした。みな禁軍を辞めて地方の軍府に行き、帝は彼らに厚く贈り物をした。石守信のみはもとのまま禁軍の職を兼ねたが、実際の兵権はなかった。

帝は天雄節度使(6)符彦卿(ふげんけい)に禁軍を司らせようとしていたが、趙普は諫めた。
「符彦卿は高い名声と地位があるというのに、わざわざ兵権を預けるべきではありません。」
帝は言った。
「私は符彦卿を厚く待遇している。彼が背くことなどできようか?」
趙普は答えた。
「陛下が後周の世宗に背いたのはなぜですか(大きな兵権を預けられたからです)?」
帝は黙ってしまい、符彦卿の任用は取りやめとなった。
 
(1)天平節度使 (うん)州(山東省東平県)を領する節度使。
(2)帰徳節度使 宋州(河南省商丘市)を領する節度使。もと、趙匡胤がこの職に就いていた。
(3)忠正節度使 寿州(安徽省鳳台県)を領する節度使。
(4)鎮寧節度使 (せん)州(河南省濮陽市付近)を領する節度使。後の澶淵の盟が結ばれたのもこの付近。
(5)武信節度使 遂州(四川省遂寧県)を領する節度使。
(6)天雄節度使 大名府(河北省大名県)を領する節度使。

3 藩鎮の兵権を解く


それからしばらくして、王彦超(おうげんちょう)と藩鎮の将らが入朝し、帝は後宮の庭園で宴を催した。宴もたけなわのころ、帝はゆったりとしながら彼らに言った。
「そなたたちはみな国家の長老であり、藩鎮の任務に長くあたってきてくれ、職務も多忙である。これでは優れた人物を優遇するというわが意思に背くというものだ。」
王彦超は帝の意を察し、前に進んで奏上した。
「私はもとより何らの功績がないというのに、長らく帝の寵愛に甘んじ、すっかり朽ち衰えました。骸骨を乞い(1)、隠居して余生を過ごすのが私の願いです。」
 
だが、帝の意を汲み取れない安遠節度使(2)・武行徳、護国節度使(3)・郭従義、定国節度使(4)・白重賛、保大節度使(5)楊廷璋(ようていしょう)は、競って自分たちの戦いの功績と苦難の経験を話し出して今の地位に留まろうとした。帝は言った。
「それは前代の話ではないか。このようなことは論ずるに足らぬ。」
翌日、みな藩鎮の将を辞め、朝請(6)に叙せられた。
 
<胡一桂(こいっけい)(7)は言う、太祖は、唐末以来より民が苦しんでいるのを深く思い、藩鎮の兵権を取り上げるべき状況であることを知った。くつろいだ酒宴の空気を利用して石守信らの兵権を解き、後宮の宴の場を使って王彦超らに藩鎮の職を辞めさせた。これにより、禁軍と藩鎮という取り除くことのできなかった長年の病が一晩にして解けたのだ。>
 
(1)骸骨を乞う 辞職を願い出る。主君に肉体を捧げてしまったため、骸骨だけでも郷里に持ち帰って葬る意。
(2)安遠節度使 安州(湖北省安陸市)を領する節度使。
(3)護国節度使 河中府(山西省永済市の西)を領する節度使。
(4)定国節度使 揚州・六合(江蘇省六合区)一帯を領する節度使。
(5)保大節度使 ()州(陝西省富県)を領する節度使。
(6)朝請 奉朝請とも。漢代にあっては退職した大臣・将軍などが朝会に参加する官職であったが、のちに閑職と化し、称号を表すのみの官名となった。
(7)胡一桂 元、()婺源(ぶげん)の人。礼部試に応ずるも合格せず、退いて学を講じ、双湖先生と号した。

4 節度使の後任に文官を充てる


乾徳元年(963)春正月、文臣に州を司らせることにした。

五代の諸侯は強盛で、朝廷は制することができず、鎮府を移したり、節度使が代替わりするたびに、側近に命じて皇帝に従うよう伝え、禁軍の兵を送って反乱に備えたが、なお詔を奉じない者がいた。

帝の即位の初めのころ、異姓の王と宰相の印を持つ者は数十人を下らなかった。そのため、趙普の策を用いて少しずつ彼らの権力を削ぎ、あるいは死亡したとき、あるいは転任や辞職したとき、あるいは遠方の地に赴任したとき、いずれも文臣を後任に充てた。

5 通判の設置


夏四月、詔を下して通判(1)を諸州に置き、軍政・民政とも統治し、専達(2)を行わせ、州の長官たちと礼を等しくさせた(州の長官と同じ権限を持たせた。)。大州には通判を二人置くこともあった。また、節度使と鎮将が統治している地方は都の直轄とし、自ら朝廷に政務の報告をさせ、藩鎮には属さないようにさせた。これにより、節度使の権力はようやく縮小されていった。

このとき符彦卿(ふげんけい)は長く大名(3)に鎮府を置き、横暴な統治を行ったため、所属の村々はたいへんに秩序が乱れた。このため、常参官(4)の中から特に屈強な者を選んで符彦卿のもとへ行かせ、朝廷の秩序に従うよう戒め、ようやく命令に従うようになった。
 
(1)通判 州府の長官に次ぐ官。州府の政務と監察の実権を握る。
(2)専達 独断で政事を行い、これを帝に報告する。
(3)大名 現河北省大名県。
(4)常参官 毎朝殿前に来て皇帝にまみえる群臣。

6 税権の回収


乾徳三年(965)三月、諸路(1)に転運使(2)を置いた。

唐の天宝(3)以来、藩鎮が大軍を有し、租税の収入はすべて自らの貯えに充て、それを留使・留州(4)といい、上供(5)する分はたいへん少なかった。五代の藩鎮はそれにも増して強力で、部曲(6)に場務(7)を指揮させ、利益を厳しく取り立てて自分の懐に入れ、その中からわずかばかりを中央に納めた。

帝はその弊害を知っていた。趙普は諸州の度支使(8)に命じて、経費以外の金銭と絹をすべて汴都(べんと)(開封)に送らせ、留州の分に回させないよう帝に乞うた。藩鎮の首領に欠員が出るたびに、文臣を充てて場務を司らせた。路の財は転運使を置いて管理させ、節度・防禦(ぼうぎょ)・団練・観察諸使、および刺史であっても、金銭や穀物に関する文書に署名させず、これにより財と利益はすべて帝の下に帰した。
 
(1)路 宋代の行政区画。いくつかの州を管轄する。
(2)転運使 地方の財政を司る官。
(3)天宝 七四二~七五六年。玄宗の治世。
(4)留使・留州 節度使または州に留め置かれる租税。
(5)上供 中央政府に上納する租税。
(6)部曲 節度使の部下。
(7)場務 官の専売所。塩・鉄・酒等の専売品や商税の徴収、官用品の調達を行う官署。大規模なものを場、小規模なものを務という。
(8)度支使 租税や財政計画を司る官。

7 軍事力の回収と中央軍の強化


八月、諸道の兵を選抜して禁軍に補充した。

これより先に、帝は殿前司・侍衛親軍司の二司に詔して管下の兵を調べ、その中から強く勇敢な者を選んで上軍(1)とした。これに続き、諸州の長官に命じて諸道の兵から強く勇敢な者を選んで都に送らせ、禁軍に生じた欠員を補った。また、特に屈強な兵を選んで模範として諸道に送り、兵を集めて教練させ、精強な兵に育て上げてから宮廷に送った。

また、更戍(こうじゅ)の法を立て、禁軍を辺境の城に分遣して守らせ、道路を往来させて苦労を覚えさせ、禁軍と辺境の軍が苦楽をともにするようにさせた。これにより将は兵を自分の思い通りにすることができなくなり、士卒は(おご)って怠けることもなくなった。これらはいずれも趙普の策である。
 
(1)上軍 古代の軍は中軍・上軍・下軍で編成された。ここでの上軍の位置づけは不詳。

8 殺人犯への死刑執行の指示


帝は宰相と大臣に言った。
「五代のころは諸侯が幅を利かせ、法を犯して人を殺める者がいても、朝廷は放置して罪に問うことがなかった。人命は最も大切なものであるのに、姑息な藩鎮のこのような有様をそのままにしてよいのか。これより諸州に人を殺した者に大辟(たいへき)(死刑)を執行させ、事件を記録して帝に報告し、刑部(1)に記録を送って詳しく審理させよ。」
 
(1)刑部 六部の一。訴訟や刑の執行を担当する官署。

9 文臣の欲深さは武臣の十分の一にも及ばない


帝は趙普に、文臣でありながら武道の覚えのある者はいないかを問い、趙普は左補闕(さほけつ)(1)辛仲甫(しんちゅうほ)を紹介し、帝は彼を四川兵馬都監(2)とした。そして趙普に言った。
「五代の藩鎮は残虐で、民はその害に苦しめられてきた。私は有能な儒臣百余人を用い、大藩を分担して治めさせることにした。彼らがたとえ欲深くてよこしまであろうとも、その汚さは武臣の十の一にも及ばない。」 

<呂中(3)は言う、天下が四分五裂しているのは、藩鎮が土地を勝手に自分のものにするからである。干戈(かんか)(4)を交えて戦が絶えないのは、藩鎮が兵を勝手に動かしているからである。民が税が多く役が重いのに苦しむのは、藩鎮が利を勝手に自分のものにしているからである。民が刑が苛酷で法が厳しいのに苦しむのは、藩鎮が自分の気まぐれで人を殺せるようにしているからである。朝廷の命令が天下に行われないのは、藩鎮が世襲されて命令が通らないからである。
 
太祖と趙普とはこのことを長く考えた末、天下の弊害のもとはここにあると考えるに至った。こうして、文臣に州を治めさせ、朝官に県を治めさせ、京朝官(5)に財政を監督させることにした。また、転運使を置き、通判を置いて節度使の権限を削ぎ、ようやく権力を中央に収めることができた。朝廷は一枚の紙を郡県に下すだけで、身は腕を使うように、腕は指を使うように、支障なく命令が通るようになり、天下の権力の所在と秩序は一つになった。>
 
(1)左補闕 皇帝への諫言を行う官。
(2)兵馬都監 地方の軍事を司る官。
(3)呂中 宋、淳祐年間(1241~52)の進士。
(4)干戈 たてとほこ。転じて武器、戦争。
(5)京朝官 京官と朝官。両者とも中央官僚を指すが、京官は朝会(毎朝、政務の前に群臣が殿前に参じ、皇帝に謁見する集会)への参与を許されないが、朝官は朝会に参与することができる。

10 辺境の防備


帝は藩鎮に対する策を固め、熟練の将らの兵権を帝の下に収め、藩鎮の権力を削いだ。その一方、将らに命じて分担して辺境を守らせることに特に注力し、これには具体的な方法を伴っていた。

すなわち、趙賛を延州(1)に駐屯させ、姚内斌(ようないひん)に慶州(2)を守らせ、董遵誨(とうじゅんかい)を環州(3)に駐屯させ、王彦昇に原州(4)を守らせ、馮継業(ふうけいぎょう)に霊武(5)を守らせ、西夏に備えさせた。

李漢超を関南(6)に駐屯させ、馬仁瑀(ばじんう)(えい)(7)を守らせ、韓令坤(かんれいこん)に常山(8)を守らせ、賀惟忠に易州(9)を守らせ、何継筠(かけいいん)(てい)(10)を治めさせ、北の異民族を防がせた。
 
(1)延州 陝西省延安市。
(2)慶州 甘粛省慶陽。
(3)環州 甘粛省環県。
(4)原州 甘粛省鎮原県。
(5)霊武 寧夏回族自治州霊武市。銀川市の南。
(6)関南 河北省高陽県付近。宋の河北東路順安軍の旧名。
(7)瀛州 河北省河間県。河北省北京市の南。
(8)常山 河北省保定市の西。
 
また、郭進に西山(11)を押さえさせ、武守琪に晋州(12)を守らせ、李謙溥に(しっ)(13)を守らせ、李継勲に昭義(14)を守らせ、太原の守りとした。彼らの中で家族が都に住んでいる場合は、これを非常に厚遇した。郡の独占的な利益は、みな郡に帰し、自由に貿易を経営させ、物資が通過する際の徴税を免除した。(15)精強な兵を集めさせて自分の部下とし、およそ軍中のことは自由に行動することを許した。朝廷に来るごとに必ず帝に近況を報告させ、座ることを命じ、飲食を賜い、下賜される品は特別なものであった。

これにより、辺境の臣下は財に富み、死を賭して戦う兵士を養成し、これを間諜とさせ、蛮族の動向を知ることができるようになった。蛮族が侵入するたびに、必ず先にそれを知って備えとし、伏兵を設けて不意打ちし、勝って制することができた。これより長い間西北の憂えがなくなり、東南に力を集中し、荊湖(けいこ)(荊南節度使(16))・後蜀・南漢・呉越・南唐・楚の地を奪うことができた。
 
(9)易州 河北省易県。
(10)棣州 山東省恵民県。
(11)西山 山西省太原市の西。
(12)晋州 山西省臨汾市。太原府の南。
(13)隰州 山西省隰県。太原府の南西。
(14)昭義 山西省長治市付近。
(15)郡中に利益を… 『宋史』巻二八五、賈昌朝(かしょうちょう)伝の上備辺六事に、「筦榷之利,悉輸之軍中,聽其貿易,而免其征稅。」(独占された利益はことごとく軍に納め、自主的な貿易を許し、徴税を免れさせるべきである。)とあり、訳文の通り補う。
(16)荊南節度使 高継沖が荊南節度使として荊湖地方に一定の勢力範囲を領していたが、国号を名乗らなかった。

11 李漢超の横暴を諭す


李漢超が関南にいるとき、李漢超が娘を強引に(めと)って(めかけ)とし、銭を借りて返さないと訴える民がいた。帝は訴えた者を呼んで言った、「お前の娘はどこに嫁ぐべきか?」
その者は「農家しかありません。」と答えた。
「李漢超がまだ関南に赴任する前、契丹の様子はどうであったか?」
「毎年侵略と略奪に苦しんでいました。」
「今もそれが繰り返されているのか?」
「いいえ。」
「李漢超は我が重臣である。お前の娘は彼の妾となったが、そうであればわざわざ農婦となることあろうか。李漢超が関南にいなければ、お前の家は果たして財貨を保つことができたのか?」
帝はその民をこう咎めて追い返し、その一方で密使を遣わして、
「速やかに娘と借りている銭を返しなさい。今回はお前を許すので、また繰り返すことのないように。金が足りないのなら、なぜ私に言わないのだ?」
と諭した。李漢超は感涙し、これよりますます政務に励み、官吏と民から愛された。

12 董遵誨の過ちを諭す


董遵誨(とうじゅんかい)の父、董宗本は後漢(こうかん)に仕えて随州(1)刺史となっていた。帝がまだ頭角を現す前、各地を旅して随州を訪れ、董宗本のもとに宿泊したことがあった。董遵誨はこのとき、父の権勢を笠に着て帝を侮った。ある日、帝に対して、
「州城の上を見るといつも紫雲が立ち込めていて天を覆うようだ。それに私は以前、高台に登ると長さ百尺余り(約30m)の黒い蛇に遭い、たちまち龍に化けて東北のほうに飛んでゆき、稲妻が龍の後についていくという夢を見た。これは何の吉祥であろうな(私こそいずれ皇帝となるのだ)?」
と言った。帝はまったく言い返さずに押し黙っていた。

他日、董遵誨と戦いについて論じたが、董遵誨は屁理屈を押し付け、裾を払って席を立ってしまったので、帝もこれを機に董宗本のもとを去った。このときから紫雲はだんだんと散っていった(天命が董遵誨のもとを去った)。

帝が即位すると董遵誨を呼び、諭すように言った。
「そなたはまだ以前話した紫雲と黒龍のことを覚えているか?」
董遵誨は恐れおののいて二度帝を拝した。そのとき突然側近の兵が、彼の犯した十余りの過ちを訴え出し、董遵誨は罪の追及を待って死を請うた。帝は、
(ちん)は彼の過ちを許してその功績を称えようと思う。昔の悪事を根に持つつもりはない。」
と言った。

董遵誨の母は幽州(北京市)におり、患うところがあって董遵誨のもとを離れていた。そこで帝は幽州のような辺境の民に厚く贈り物をして賄賂とし、金銭を出して母親を買って董遵誨のもとに送り、更に多くの贈り物を与えた。

こうして、環州(2)、夏州(3)の防備のため、董遵誨は通遠軍(4)使の職を授かった。董遵誨が州府に到着すると、この辺りの諸民族の酋長(しゅうちょう)らを呼び集め、朝廷の権威と徳を説いて恭順を促した。酋長らは感じ入り喜んだ。数月の後、蛮族が再び襲来して辺境を乱したとき、董遵誨は兵を率いて蛮族の地深くに入り込み、捕虜にした者、斬り殺した者は数多く、羊、馬数万頭を奪い、蛮族の集落は平定された。 
 
(1)随州 湖北省随州市。
(2)環 環州。甘粛省環県。
(3)夏州 陝西省靖辺県の北。
(4)通遠軍 環州の旧名。
 
<わたくし陳邦瞻(ちんぽうせん)(5)は思う。宋の創業の君臣は、五代の節度使が跋扈した弊害を除くため、節度使の兵権を朝廷に集め、その上で天子自らが征伐を行った。節度使が専権をふるう時勢をわきまえ、よく決断してその権力を抑え、秀でた君主の壮大な計略と言うべきである。しかしそれとは逆に、将を任ずるときは右の董遵誨の例に見るように思い切って兵権を与え、勢力を得るのを嫌って人に兵権を預けないなどということはなかったではないか。後世の朝廷の子孫らはこの意味(必要なときには思い切って兵権を授けるということ)を深く考えず、ただ杯と酒を用いて兵権を解いたということだけを見て美談とした。
 
南渡の後、奸臣(秦檜(しんかい))はこの話にかこつけて、岳飛ら三大将軍(6)を罷免し、敵(金)と講和したが、だからといって太祖・趙普の計略がこのような過ちをもたらしたとは言えまい。
 
当時は君主の権力を強めることに力が注がれ、過ちを正す気運が過剰なほどで、兵と資材がみな都に集まり、地方の領土が日々奪われていた。それゆえ、宋の成立から滅亡までを通じ、君主の権力は強いが国全体としての力が弱かったのは、このとき後世に残された罪悪であるというべきである。>
 
(5)陳邦瞻 本書『宋史紀事本末』の撰者。
(6)三大将軍 韓世忠・張浚(ちょうしゅん)・岳飛のこと。