巻46 紹述

Last-modified: 2023-07-10 (月) 19:33:54

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哲宗元祐八年(1093)冬十月、帝は親政を開始した。

太后(宣仁太后)が崩御すると内外は不安になり、人は事の成り行きを見守り、恐れて発言しようとしなかった。翰林(かんりん)学士・范祖禹(はんそう)は小人が隙に乗じて政事を害するのを心配し、次のように上疏した。

「陛下は政務を統括し、群臣を引見せられておりますが、今日は国家の盛衰の根本、社稷(しゃしょく)の安危の時機、民の安らぎと憂慮の発端、君子と小人の進退と消長がかかっている時、天命と人心の離合がかかっている時であります。恐れずに政務を行うことです。

太后は国家に大功あり、人民に大徳を施し、九年の間ずっと一つにまとまっていました。しかし、少なくない小人どもが恨みを抱き、『太后は先帝の政治を改め、先帝の臣を追放した』と言い、何かにかこつけて離間を謀ろうとしています。このことを察せねばなりません。

太后は天下の人心が変化したことにより法を改めましたが、法を定めた人に罪があり地位を退くべきだという批判が巻き起こると、みなの言に従いその者らを追放しました。

これらはみな上は先帝に背き、下は万民に背き、天下が恨んで追放しようと思った者たちであり、その仲間内では恨まれることがなかったのです。ただ是非を区別し、よこしまな考えを退け、邪悪な言葉で惑わそうとする者があればこれを刑に処し、一人を懲罰して奸人(かんじん)らを戒めれば平穏無事であることでしょう。彼らは先帝を誤らせ、陛下をも誤らせようとしています。天下は小人に再び破壊されることに耐えられるでしょうか?」

蘇軾(そしょく)はちょうど諫言(かんげん)を上疏しようとしていたが、范祖禹の上奏文を見て言った。
「世を治めるための文章だ。」
そして自分の名を書き加えて上奏し、自分の上奏文を破棄した。上奏は受理されたが、返答はなかった。

内侍・劉瑗(りゅうえん)・楽士宣ら十人を復職させるよう命令が下り、范祖禹はまた(いさ)めた。
「陛下は親政を開始されて以来、いまだ一人の賢臣にも(はか)ったことがなく、先に内侍(宦官)を呼び出されています。四海はきっと陛下が寵臣を偏愛していると言うことでしょう。よからぬことです。」
これは聞き入れられなかった。侍講・豊稷(ほうしょく)も諫言したが、知(えい)(1)に出された。范祖禹は再び上奏を願い出て言った。

熙寧(きねい)(神宗・1068~77)の初め、王安石・呂恵卿が新法を制定し、祖先の政治をことごとく改め、多くの小人を引き立てて国を誤らせ、功績ある旧臣を捨てて用いず、忠義の士は相次いで遠ざかってゆきました。また、兵を用いて辺境を強引に開拓し、蛮族から恨みを買い、天下は苦しみ、民は流亡しました。先帝の覚悟を頼みにこの二人を罷免しましたが、引き立てられた小人たちは天下にはびこり取り除くことができませんでした。蔡確は次々に疑獄を起こし、王韶(おうしょう)熙河(きか)(2)を取り、章惇(しょうとん)が五渓を開き、沈起(しんき)が交管を乱し、沈括・徐禧(じょき)兪充(ゆじゅう)种諤(ちゅうがく)は西辺の戦争を起こし、死傷した兵と民は二十万を下りませんでした。先帝は朝廷にあってこれを悼み、朝廷はこの過ちを負わねばならないと言われました。

呉居厚が鉄冶(てつや)の法を京東(山東)で行い、王子京が茶法を福建で行い、蹇周輔(けんしゅうほ)が塩法を江西で行い、李稷(りしょく)陸師閔(りくしびん)が茶法・市易法を西川(四川)で行い、劉定が保甲を河北で教練し、民は苦しんで恨み、反乱を起こそうかと思うほどでした。陛下と皇后は立ち上がってこれを救おうとし、天下の民は困苦を取り除かれるかのようでした。先に朝廷を追放された者たちは状況の変化をうかがい、陛下が法を変えないのが正しいと考え、側近となることができればよこしまな進言をすることでしょう。万一これを許して再び用いるようなことがあれば、国家は乱れて二度と振るわなくなるでしょう。」

(1)潁州 安徽省阜陽市。
(2)熙河 熙州と河州。熙州は甘粛省臨洮(りんとう)県。河州は甘粛省東郷族自治県の西。

また、こうも言った。

「漢は天下を治めること四百年、唐は天下を治めること三百年でしたが、その滅亡はいずれも宦官が元凶となっており、軌を一にしております。乱と事を同じくすれば、滅ばないものはありません。漢は元帝のときから石顕を任用して政事を任せましたが、蕭望之(しょうぼうし)周堪(しゅうたん)を殺し、劉向(りゅうきょう)らを退け、漢の政治は元帝のときをもって乱れました。唐は明皇(玄宗)のときから高力士に報告書を決裁させ、その結果宦官が力をつけ、李林甫・楊国忠は高力士の力で昇進し、唐の滅亡は開元(玄宗・713~741)に始まりました。

熙寧・元豊のとき、李憲・王中正・宋用臣といった輩が政務を執り兵権を握り、権勢は大いに振るいました。王中正は四路を主管し、先帝のお言葉で兵を募り、州郡もこれに(たが)うことはありませんでしたが、軍はいたずらに飢えと凍えに苦しみ、多くの者を死なせました。李憲は再度の出兵を献策し、永楽(さい)(3)の陥落を招きました。宋用臣は土木工事を興して休息の時間を与えず、市井(しせい)の薄利をだまし取り、民の恨みを買いました。この三人は誅殺したとしても民に謝罪するにはなお足りません。李憲はすでに死にましたが、王中正・宋用臣はまだ生きており、今宦官十人を召し出しましたが、李憲・王中正の子がその中に入っております。この二人が宮中に入れば王中正・宋用臣は必ずや再び用いられるでしょう。私が直言するのはこのためであります。」

帝は言った。
「今回召し出した宦官を、朕は正式に用いようとは思っていない。ただ官職を与えたいだけだ。」
納得した范祖禹は御前を退いた。

(3)永楽砦 陝西省米脂県の北西。

2


十二月、端明殿侍読学士・蘇軾(そしょく)が地方への赴任を願い出て、知定州(1)に出された。

(1)定州 河北省定州市。

このとき国事が変化の時を迎えており、蘇軾は別れを告げることもできなかった。任地へ旅立つと次のように上奏した。

「天下の治乱は民情が陛下に通じているかにかかっています。よく治まった政治のもとでは、庶民の事情は陛下に通じているものですが、大乱となると近臣といえども陛下に意見が達しないものです。陛下は君臨されて九年になりますが、宰相や台諫(だいかん)以外の群臣とは接しておられません。今は親政の初めであり、民情に通じ、その道をふさがないことを急務とすべきです。

私は日々お側近くに仕えておりましたが、辺境の守りに当たるべく、一目お会いすることもできずに任地へ赴きます。ましてや卑賎な者を退け、陛下と庶民とが通じ合うように求めるなど難しいことです。しかし、私はこれにお答えすることができないことを理由に忠義を尽くさないなどということはありません。

古代の聖人は事をなすにあたり、暗きにあって明るきを見、静にあって動を見、万物の事情をすべて前に並べたのです。陛下の知力は卓越し、お年は若い盛りであります。ここはどうか虚心になって道理に従い、何もせずに諸事の利害と群臣の正邪を見極め、三年を期限としてその実が得られるのを待ち、それから物事に応じて実行されるようお願いいたします。実行された後は天下に限りがなく、陛下もまた悔いがありません。

これによれば、陛下は事をなすにあたり、物事を憂うのがたいへん早く、遅きに失するのを気にかけないであろうということが明らかです。私は急進的で利を好む者が陛下に軽々しく物事を改変するよう勧めるのを恐れているのであり、そのためこのような提言をしているのです。陛下が国家と宗廟の福に留意されるのであれば、天下の幸甚であります。」

3


呂大防が山陵使(1)となって都の門を出たとき、楊畏(ようい)は呂大防に背いて上疏した。
「神宗は法を変え制度を定めて万世に伝えました。是非ともこの道を追求し、受け継いでいただきたく思います。」
帝は楊畏を召し出し、先代の旧臣で誰を用いるべきかを尋ねた。楊畏は章惇(しょうとん)安燾(あんとう)・呂恵卿・鄧潤甫(とうじゅんぽ)・李清臣らが義にかなった行いをしていたとし、それぞれに批評を加えた。そして神宗が定めた法の意義、王安石の学術の美を説き、章惇を宰相とするよう要請した。帝はこれを採用し、章惇を資政殿学士とし、呂恵卿を中大夫(2)とし、王中正に団練使を与えた。給事・呉安詩は章惇の録黄(3)を書こうとせず、中書舎人・姚勔(ようべん)は呂恵卿・王中正の辞令を書こうとしなかったが、帝はこれを許さなかった。劉安世は章惇を用いてはならないと直言したが、知成徳軍(4)に左遷された。

(1)山陵使 葬儀を司る官。
(2)中大夫 職務実態を伴わない官名の一。
(3)録黄 中書省の起草する文書の一。
(4)成徳軍 河北省正定県。

4


紹聖元年(1094)二月丁未(ていび)、李清臣を中書侍郎(副宰相)、鄧潤甫(とうじゅんぽ)を尚書右丞(副宰相)とした。

鄧潤甫は、武王はよく文王の言葉を広め、成王はよく文王・武王の道を受け継ぎ、前人の事績を紹述(受け継ぐ)したと述べ、この命が下った。范純仁(はんじゅんじん)は、任用された大臣がいずれも内々で決められたもので、侍従・台諫(だいかん)も官僚の推薦によらず採用されていることから、帝に言った。
「陛下は親政の初めであり、四方は目をぬぐってこれを見つめており、天下の治乱はここにかかっております。舜は皋陶(こうとう)を、湯王は伊尹(いいん)を用い、不仁な者を遠ざけました。たとえ古人のようにはゆかずとも、天下の人選はよくよく考えるべきであります。」
帝は聞き入れなかった。

5


三月、集英殿にて進士に対し策問を行った。李清臣は以下の通り策問した。

「今また詩賦により士を選抜しようにも、士は努力をしない。常平官を廃止しても農業は振興しない。差役法・募役法を行うべきとする意見が混ざり合って役法に弊害が生じている。東流と北流で意見が異なり黄河の水害はひどくなっている。遠方の地を与えたにもかかわらず、(きょう)の害はやむことがない。利益の取り立てを緩めて民を休息させても、商人は儲からない。よいものであれば受け継ぎ、悪いものであれば改め、ただこれを尊ぶべきである。聖人もまたこのようにするであろう。」

この文の意味は元祐の政治を批判したものである。

蘇轍は次のように諫言した。

「私の見るところ、李清臣の策問は近年の政治を強く非難し、熙寧(きねい)・元豊の政治を復活させたいとの意が込められています。思うに先帝の政治は百世改めるべきではなく、元祐以来上下ともこれを実行し、いまだに失われることがありません。しかし、適切さを欠くことはいつの世にもあることです。父が前に物事をなし、子が後にこれを助け、前後相助け合う。これは聖人の孝であります。

漢の武帝は、外は四方の異民族を治め、内は宮廷を盛り立てたために資金が底を尽きました。そこで塩鉄・酒の専売と均輸法を行ったのですが、民はこれに耐えきれず、危うく反乱を起こすところでした。昭帝は霍光(かくこう)に煩雑で過酷な政治をやめさせ、漢室は安定しました。光武帝・顕宗は明敏に物事を察しましたが、占いで事を決めたため上下ともに恐れをなし、人々は不安を抱きました。章帝はこの失敗を深く反省し、寛大な政治を行い、後世に伝えられました。

本朝の真宗の天書、章献皇后の統治していた時期の大臣の意見書は、これを(ひつぎ)の中にしまいました。仁宗の政治については口を閉ざして言わないようにしております。英宗のときの濮議(ぼくぎ)により朝廷は数年の間騒然としましたが、先帝がこれに決着をつけ、落ち着かせました。これらは漢の昭帝・章帝の賢明さと、わが仁宗・神宗の聡明さによるものです。彼らに対する孝敬を軽んじて、軽々しく物事を変えるべきではありません。

陛下が九年間行われてきたことを軽々しく変え、連年用いられてこなかった者を抜擢し、私怨を抱いて先帝を政治を変えるための口実となさるのであれば、国家の大事は損なわれることでしょう。」

帝は上奏文を読んで激怒した。
「漢の武帝を先帝になぞらえるとは!」
蘇轍は殿を下りて罪を待ったが、誰も弁護する者はなかった。范純仁(はんじゅんじん)従容(しょうよう)として言った。
「武帝の(たぐい)まれな資質と計略の大きさは、史上に批判する言葉がありません。蘇轍が先帝になぞらえたのは非難ではありません。陛下は親政の初めであります。大臣の進退は奴隷を叱りつけるようにすべきではありません。」
右丞・鄧潤甫(とうじゅんぽ)は順序を省略し進み出て言った。
「先帝の法は司馬光・蘇轍がすべて廃止したのです。」
范純仁は言った。
「違います。先帝の法には弊害などありませんでした。弊害があれば改めるべきです。」
帝は言った。
「人は秦皇・漢武と言う。」
范純仁は言った。
「蘇轍が言うのは事と時についてです。人についてではありません。」
帝は怒りが少しく和らいだ。

蘇轍は日ごろ范純仁と多くの点で意見を異にしていたが、このときは感服して言った。
「あなたは仏の境地にいる人だ。」
蘇轍は罷免され、知(じょ)州となった。

進士に策問を行ったとき、試験官は合格者に元祐時代の政策を支持した者を上位に置いた。礼部侍郎・楊畏(ようい)は再試験を行って彼らを下位に置き、熙寧・元豊時代の政策を支持した者を上位に置いた。これより紹述の論が盛んになり、国是が変わった。

6


曽布を翰林(かんりん)学士承旨とした。

これ以前、司馬光は曽布に役法を改めるよう言ったが、曽布はこれを断って言った。
「免役法については、法令の細かいところまですべて自分の手で定めたのです。それを急に自ら変えてしまうのは、道義としてすべきではありません。」
このため曽布は戸部尚書の肩書きを与えて知太原府に出された。

ここに至り、江寧(1)に移され、都を通り過ぎたとき、承旨の職を拝受した。

(1)江寧 江蘇省南京市。

7


夏四月、張商英を右正言とした。

帝が即位したばかりのとき、新法が民にとって不利であるのを改めようとした。張商英はこのとき開封の属官であり、上奏した。
「三年間父の道を改めないのは孝といえます。今、先帝の陵墓の土が乾かないうちに法を変えようというのは孝とはいえません。」
また、たびたび宰相のもとを訪ねて推薦を求め、蘇軾(そしょく)におもねって御史台に入ることを求めた。呂公著はこれを聞いて不愉快になり、張商英を河東提刑に転出させた。ここに至り、召し出されて右正言となった。

張商英は長く地方にいて、元祐時代の大臣らが自分を用いなかったことを恨み、力の限りこれを非難し、以下のように上疏した。

「神宗の盛徳と大業は古今に絶するものですが、司馬光・呂公著・劉摯(りゅうし)・呂大防は同じ党派の仲間を推薦し、違う党派の者を非難しました。詳定局の建言、中書の審議、戸部の処置、諫官(かんかん)の議論、詔を起草する官の書いた命令には、いずれも人を非難し、浅薄にして人を嘲笑しないものはなく、内に陛下を補佐する者たちを排斥し、外に陛下を支える者たちを追放し、天下の勢いは危急に瀕しておりました。今、天は清らかでありますが、賞罰が正しく行われておりません。

どうか宮廷に命を下し、当時の文書を探し出してわれわれに審議させ、付箋を貼ったうえで献上させてください。陛下と大臣がその可否を審議するよう望みます。」

張商英はまた司馬光・文彦博(ぶんげんはく)が国に背き、宣仁太后を呂后・武后に例えた。全台御史・趙挺之(ちょうていし)らは、蘇軾が書いた詔の草稿に「民もまた苦しんでいる」との文言があり、先帝を誹謗(ひぼう)していると弾劾し、蘇軾を知英州(1)に左遷した。

(1)英州 広東省英徳市。

范純仁は諫言した。
「熙寧の法はいずれも呂恵卿が王安石に迎合して建議したもので、先帝の民を愛し整った政治を求める意に沿ってはおりません。垂簾(すいれん)(宣仁太后の政治)のとき、諫官の言を採用して呂恵卿を左遷し、すでに八年になります。諫官の多くは当時の御史でしたが、何ゆえ忠義を果たすことを恐れるのでしょう?今このような上奏をするのは日和見ではないでしょうか?」
帝は聞き入れなかった。

8


十二日、白い虹が太陽を貫いた。曽布が上疏し、先帝の政治を復活させ、改元して天意に従うよう求めた。帝はこれに従い、元祐九年を紹聖(聖意(先帝の意志)を()ぐ)元年とした。これにより天下は帝が何を志しているかを知った。

9


翰林(かんりん)学士・范祖禹(はんそう)を罷免した。

帝は章惇(しょうとん)を宰相にしようとしていたが、范祖禹は章惇を用いてはならないと強く諫めたため、罷免された。

10


二十一日、章惇(しょうとん)を尚書左僕射兼門下侍郎(宰相)とした。

帝には熙寧(きねい)・元豊時代の政治を受け継ごうとの考えがあり、まず章惇を起用した。このため専ら紹述を国是とし、章惇の朋党(ほうとう)である蔡卞(さいべん)・林希・黄履・来之邵(らいししょう)・張商英・周秩・翟思(てきし)・上官均らを引き立てて要職に就け、重責を担わせ、元祐期の大臣らへの報復を謀った。

章惇が朝廷に呼び出されたとき、通判・陳瓘(ちんかん)が供の者を従えて会いに来た。章惇は陳瓘の名を聞くと、これを迎えてともに舟に乗り、当世の要務について尋ねた。陳瓘は章惇に問うた。
「天子があなたを待って(まつりごと)をしようとしている。まず何をすべきか?」
「司馬光は邪悪な人間だった。まずは彼のしたこと(旧法への回帰)を整理すべきだ。これより優先すべきものはない。」
「そうではない。そのようなことをすれば天下の人望を失うだろう。」
章惇は声を張り上げて言った。
「司馬光は先帝の業績を受け継ごうとせず、法を大きく改めて自らの功績とし、国を誤らせた。これが奸人(かんじん)でなくて何だというのだ!」
「その人の心中を察せずにその業績を疑えば、罪なき行いをすることはできない。司馬光を奸人と非難して再び改革しようというなら、ますます国を誤らせるだろう。今やるべきことは、ただ朋党を取り除いて中道を保つことだけだ。そして朋党の弊害をなくしてもらいたい。」
陳瓘はこうも言った。
「この舟に例えるなら、われわれが左に移れば左に傾き、右に移れば右に傾く。両方ともよくないことだ。熙寧のすべてが正しいわけではなく、元祐のすべてが間違っているわけではない。」
章惇は不満であった。

帝が章惇を宰相にすると、范純仁は朝廷を去ることを強く願い出た。このため観文殿大学士を与えて知潁昌(えいしょう)(1)に転出させた。

(1)潁昌府 河南省許昌市。

11


蔡京を戸部尚書(1)とした。

(1)戸部尚書 戸部の長官。

12


林希を中書舎人とした。

これ以前、章惇(しょうとん)は言った。
「元祐の初め、司馬光が宰相となったとき、蘇軾(そしょく)を用いて詔の起草を担当させ、周囲を動かすことができた。このような者をどこで得られるだろうか?」
ある人が言った。
「林希ならばよろしいでしょう。」

このとき、林希は成都に赴こうとしていた。都を通り過ぎたとき、章惇は林希に詔の起草を司らせて元祐期の諸臣に悪辣な報復をしようと考え、彼に宰相となることを許した。林希は久しくうだつが上がらなかったため、この話に乗った。元祐の名臣を左遷する命令は、みな林希の手によるものであった。元祐期の者たちを極めて強く非難し、「老姦擅国(ろうかんせんこく)」なる語を用いて宣仁太后を排斥するに至った。これを読んで嘆かない者はなかった。

ある日、林希は詔の起草を終えると、筆を地に投げうって言った。
「節操を汚してしまう。」

13


二十六日、章惇(しょうとん)は免役法を復活するよう要請した。

差役・雇役(募役)の両法どちらを施行するかについて、官署を置いて議論したが、久しく決着を見なかった。蔡京は章惇に言った。
熙寧(きねい)に定められた法を施行するだけのことだ。何を議論する必要がある。」
章惇はこれに賛同し、雇役法が定められた。

これ以前、司馬光は熙寧・元豊の政治をことごとく改め、雇役法をやめ差役法を復活させたが、人心がこれについていかなかった。ここに至り、蔡京と章惇が通じ合って論じ合い、免役法が復活した。識者はそのよこしまな姿を見た。

14


二十七日、蔡卞(さいべん)を国史修撰とした。

元祐のとき、史官・范祖禹(はんそう)らが『神宗実録』を編纂し、王安石の過ちを書いて先帝の聡明さを明らかにした。蔡卞は王安石の女婿(じょせい)であった。蔡卞は上疏した。
「先帝の盛徳大業は史上に秀でていますが、『実録』の記載は事実無根なものが多いと思われます。改訂版を出すようお願いします。」
詔を下してこれに従った。

蔡卞は王安石の甥の王防が王安石の著した『日録』によって史書を書くよう求めたのに従い、正史を改めた。

15


閏月(じゅんげつ)二日、陸師閔(りくしびん)らを再び諸路提挙常平官とした。

16


五月、黄履を御史中丞とした。

元豊の末、黄履は中丞となり、蔡確・章惇(しょうとん)邢恕(けいじょ)と交流をもった。章惇と蔡確は嫌いな者がいると邢恕を使って黄履に帝の命令を言わせ、黄履はその者を排撃した。彼らは「四凶」と称され、劉安世に非難されて地方に出された。

ここに至り、章惇は黄履を再び用いて報復させた。元祐期の旧臣は一人として免れる者がなかった。

17


秋七月十八日、司馬光・呂公著らの(おくりな)を剝奪し、呂大防・劉摯(りゅうし)・蘇轍・梁燾(りょうとう)らを降格させ、これを天下に告知した。

台諫(だいかん)の黄履・周秩・張商英・上官均・来之邵(らいししょう)翟思(てきし)劉拯(りゅうじょう)井亮采(せいりょうさい)らは、司馬光らは先朝の法を改め、道理に逆らったと述べた。章惇(しょうとん)蔡卞(さいべん)は司馬光・呂公著の墓を(あば)き、棺を壊して遺体をさらすよう求めた。帝はこれを許将に(はか)った。許将は答えた。
「それは盛徳にふさわしい行いではありません。」
帝はこの措置を取りやめた。そして、司馬光・呂公著の諡を剝奪して石碑を倒し、王巖叟(おうがんそう)に贈った官職を剝奪し、呂大防を秘書監(1)に降格させ、劉摯を光禄卿(2)、蘇轍を少府監(3)とし、南京(なんけい)(4)を分担統治させた。

(1)秘書監 図書・史書を司る官。正四品。
(2)光禄卿 光禄寺(祭祀・酒宴を司る官署)の長官。従四品。
(3)少府監 少府監(朝廷で用いる器物を製造する職人に対する命令、車・服を司る官署)の長官。
(4)南京 南京応天府。河南省商丘市。

これ以前、李清臣は宰相になりたいと思い、紹述を主唱し、謀計により蘇轍・范純仁(はんじゅんじん)を退け、速やかに青苗法・免役法を復活させようとした。章惇が宰相に召されて朝廷に来るとこれを喜ばず、意見を異にした。

章惇が司馬光らを追貶(ついへん)すると、文彦博(ぶんげんはく)以下三十人を嶺表(広東・広西)に流そうとした。李清臣は進み出て言った。
「先帝の法を変えたのは過ちといわねばなりません。しかし、章惇が流罪にしようとしているのはいずれも累代の元老であります。章惇の言う通りにすれば必ずや衆論を騒がすことになるでしょう。」
これを受け、帝は詔を下した。
「大臣の朋党(ほうとう)、司馬光以下はおのおの軽重に応じて処罰し、天下に布告する。」

朋党の議論が起こったとき、帝は言った。
「梁燾はいつも不偏不党の論を説き、その論述や批判も衆論に基づいていた。朕はすべて覚えている。」
また、こうも言った。
蘇頌(そしょう)は君臣の義をわきまえ、軽率な議論をしない。」
このため蘇頌は災難を免れ、梁燾は提挙(じょ)州霊仙観に左遷されるにとどまった。劉摯は子らに言った。
「帝は章惇を用いれば、私は罪を得よう。章惇が国事を顧みて民に怒りを向けず、ただわが仲間を処罰するだけならば、死して恨むところはない。章惇の意が報復にあることが心配だ。天下を如何(いかん)せん。」

18


八月、広恵倉(1)を廃止し、免行銭(2)を復活させた。

(1)広恵倉 災害対策用の予備倉。
(2)免行銭 都市の商人と行商人から徴収した銭。

19


冬十月、呂恵卿を知大名府(1)とした。

監察御史・常安民は言った。
「北都(大名府)は重鎮であるのに呂恵卿が任用されました。呂恵卿の性格は険悪であり、王安石に背きました。そのことは陛下もご存知でしょう。前の任地から宮殿に立ち寄ったとき、必ずや先帝のことを言って泣き出し、陛下を感動させ、都に留まることを望むでしょう。」
帝はこれを受け入れた。

呂恵卿が都に着くと、帝に謁見するよう求めた。帝にまみえると、案の定先帝のことを言って泣き出した。帝は色を正して答えず、呂恵卿の考えはうまくいかずに御前を去った。時論はこれを快く思った。

(1)大名府 河北省大名県。

20


十一月十四日、蔡確に対し、特別に観文殿大学士を追贈した。

21


十二月、蔡卞(さいべん)が改訂版の『神宗実録』を進呈した。范祖禹(はんそう)趙彦若(ちょうげんじゃく)・黄庭堅らが讒言(ざんげん)により降格され、永州(1)(れい)(2)(けん)(3)に安置される一方、蔡卞を翰林(かんりん)学士とした。

(1)永州 湖南省零陵区。
(2)澧州 湖北省澧県。
(3)黔州 四川省黔江区。

これ以前、礼部侍郎・陸佃(りくでん)が『実録』を編纂しており、范祖禹とたびたび口論になった。陸佃は王安石に多くの正しい点があったと言った。黄庭堅は言った。
「あなたの言う通りなら、この書は佞人(ねいじん)の歴史となろう。」
陸佃は言った。
「あなたの意見を用いるなら、それは誹謗(ひぼう)の書ではないか?」
ここに至り陸佃もまた左遷された。

呂大防が『神宗実録』を監修していたという批判があったため、呂大防は安州(4)居住(5)に移された。

(4)安州 湖北省安陸市。
(5)居住 降格の上遠方に流すこと。

22


二年(1095)冬十月、監察御史・常安民を左遷した。

蔡京は宦官の裴彦臣(はいげんしん)と結託しており、常安民はこのことについて述べた。
「蔡京はみなを惑わすほどずる賢く、過ちを飾り立てるほど弁舌に長じ、君主の判断を狂わせるほど言葉巧みであり、天下の是非をひっくり返すほどの力があり、内は宦官と結び、外は官僚とつながり、少しでも自分に従わない者があれば、元祐期の者たちにくみして先帝の法を非難していると讒言(ざんげん)して排斥します。

今の朝廷の臣は蔡京派が過半を占めています。陛下は早々に覚悟を決めてこれを追い出さねばなりません。他日蔡京の補佐が成り立てば、後悔しても及びません。」
このとき蔡京のずる賢さはまだ表に出ておらず、多くの人がこれを予測できていなかったが、常安民が初めて告発した。常安民はこうも言った。
「今、大臣は紹述を唱え、これに名を借りて報復しようとしています。朋党(ほうとう)はこれにつき従っています。張商英は元祐のとき、呂公著に詩を献上して栄達を求め、こびへつらって恥じることなく、最近では司馬光・呂公著の神道碑(1)を壊すよう求めました。周秩は博士となり、みずから司馬光の(おくりな)を文正としたのですが、最近では棺を壊して遺体をさらすよう求めました。陛下はこのような輩の言が公論から出たものか見定めてください。」
上奏は前後数十百回に至り、帝の考えを変えることはできなかった。常安民は地方への赴任を願い出たが、帝は慰留した。

(1)神道碑 墓道の前に立てた、生前の事績を記した石碑。

ここに至り、常安民は、章惇(しょうとん)が国政を専断して党派を結んでおり、帝にその権力を抑え欲しいと繰り返し詳しく述べ、言いやむことがなかった。章惇は腹心の者を送って言った。
「君は文学をもって聞こえているというのに、なぜその才を自任して人の恨みを買うようなことをするのだ?少し落ち着いて、周りの者と仲良くしなさい。」
常安民は色を正し、この者を退けて言った。
「貴様は時の宰相のために遊説しているのか!」
章惇はますます怒った。

常安民はまた曽布のずる賢さを説いた。このため章惇・曽布はともに常安民を排撃し、常安民が呂公著に送った手紙を帝に献上した。その手紙では帝を漢の霊帝になぞらえていた。帝は怒ったが、常安民は弁明することなく、安燾(あんとう)に救いを求め、罪を免れた。

ここに至り、御史・董敦逸(とうとんいつ)は、常安民は蘇軾(そしょく)兄弟と朋党を組んでいるとし、常安民は(じょ)(2)監酒税に出された。

(2)滁州 安徽省滁州市。

23


十一月、安燾(あんとう)が辞職した。

章惇(しょうとん)白帖(はくちょう)を使って元祐期の官僚たちを左遷していた。安燾はこのことを帝に告げたが、帝は疑った。鄭雍(ていよう)は章惇に言った。
「王安石が宰相だったとき、白帖を用いて政務を行っていた。」
章惇は大いに喜び、当時の文書を手に入れて帝に上奏したが、安燾は実行しなかった。章惇は安燾を恨み、安燾は常安民と結託していると言い、知(てい)(1)に出された。

(1)鄭州 河南省鄭州市。

24


呂大防らが遠方に流されていたとき、明堂(1)で大赦が行われようとしていたが、章惇(しょうとん)はこの数十人は終身ほかへ移してはならないと、前もって言った。范純仁(はんじゅんじん)はこれを聞いて憤り、斎戒した上で上疏し、呂大防らの冤罪を晴らそうとした。親しい人は帝の怒りに触れるべきではなく、万一遠方へ流されれば、高齢のためよくないだろうと言った。范純仁は言った。
「このような事態になっても誰一人として直言する者がいない。帝のお考えが変われば、その影響は大きい。もしそうでなければ、死して恨むことなどない!」
そして上言した。

「呂大防らの犯した罪は、心を持ちながら許すことをせず、悪を好み情に任せ、老子の好還(2)の戒めに(たが)い、孟子の反爾(はんじ)(3)の言をおろそかにしたことによります。牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)・李徳裕の党争は数十年に及び、政治が破綻してもそのわだかまりは解けることがありませんでした。なぜこれと同じ轍を踏む必要がありましょう?

呂大防らは年老いて病を抱えており、風土に慣れず、荒れ果てて長く住むような土地ではなく、不測の事態も憂慮され、どうやって自存しろというのでしょうか? 私はかつて呂大防らと政務を執りましたが、その多くが排斥されました。それは陛下が自ら見るところであります。私が激しく訴えるのは、ただご聖徳に報いんがためであります。以前、章惇・呂恵卿は左遷されたことがあるとはいえ、郷里から出ることはありませんでした。趙彦若(ちょうげんじゃく)は左遷先で死にました。どうか陛下が自らの胸中からご決断し、呂大防らをお許しくださるようお願い申し上げます。」

これが上奏されると章惇は激怒し、范純仁は観文殿大学士を剝奪され、知随州(4)に移された。

(1)明堂 廟内の、上帝や祖先を祭る堂。
(2)好還 悪い報いが返ってくること。
(3)反爾 自分でやった行為が自分に返ってくること。
(4)随州 湖北省随州市。

25


四年(1097)春正月、李清臣が辞職し、知河南府(1)となった。

(1)河南府 河南省洛陽市。

<史臣は言う、哲宗の親政の初めはまだ政見が定まっていなかったが、范純仁(はんじゅんじん)・呂大防といった諸賢が朝廷にあり、左右にあって国計を補佐し、日々忠節を果たし、奸人(かんじん)を退け、志向を正し、元祐の治業は彼らに守られていた。だが、李清臣が才を恃んでにわかに栄達して要職を望み、紹述を唱え、国是を乱した。奸臣らがこれを受け継ぎ、政治が乱れ、朝廷の災いとなった。>

26


二月四日、司馬光・呂公著らの官職を追貶(ついへん)した。

三省は言った。
「司馬光らはよこしまな陰謀を主導し、先帝をそしって法を変えました。その罪悪はたいへん深いです。当時の一味は死んだり老いたりしたとはいえ、少しく懲罰をお示しすべきです。」
これを受け、司馬光を清遠軍(1)節度副使に、呂公著を建武軍(2)節度副使に、王巖叟(おうがんそう)を雷州(3)別駕(べつが)に追貶した。趙瞻(ちょうせん)傅尭兪(ふぎょうゆ)(おくりな)を剝奪し、韓維に官職を追贈し、孫固・范百禄(はんひゃくろく)胡宗愈(こそうゆ)らに恩賞を追贈した。

ほどなくして、司馬光を朱崖(しゅがい)(4)司戸(5)、呂公著を昌化(しょうか)(6)司戸に追貶した。

(1)清遠軍 広西壮族自治区融水苗族自治県。
(2)建武軍 広西壮族自治区南寧市。
(3)雷州 広東省海康県。
(4)朱崖軍 海南省崖州区。
(5)司戸 司戸参軍。戸籍・税を扱う地方の属官。
(6)昌化軍 海南省儋州(たんしゅう)市の北西。

27


二十八日、呂大防・劉摯(りゅうし)・蘇轍・梁燾(りょうとう)范純仁(はんじゅんじん)を嶺南に流し、韓維ら三十人の官職を降格させた。

呂大防が安州に移されると、その兄呂大忠が涇原(けいげん)(1)から朝廷に来た。帝は呂大防の安否を尋ねて言った。
「執政らは呂大防を嶺南に行かせようとしたが、朕が安陸(安州)に行かせるよう命じた。そちは朕のために人づてにこのことを問うてきた。呂大防は朴直で人に売られることになった。二、三年もすればまた会うこともできよう。」
呂大忠はこのことを章惇に語った。章惇はますます激しく弾圧するようになった。

(1)涇原 涇州と原州。涇州は甘粛省涇川県。原州は甘粛省鎮原県。

侍御史・来之邵(らいししょう)が言った。
「司馬光は道理にもとり、法が正しく行われておりませんでしたが、鬼籍に入ったことで処刑されたといえます。劉摯(りゅうし)だけがまだ生きています。まさに天が陛下に残したのです。」
三省が言った。
「呂大防らは臣として不忠であり、罪は司馬光らと同等です。最近朝廷は懲罰と過失の均衡がとれていません。生と死では罪が異なるのであって、これを万世に示すことがあってはなりません。」
これを受け、呂大防は(じょ)(2)、劉摯は(てい)(3)団練副使、蘇轍は化州(4)、梁燾は雷州別駕(べつが)范純仁(はんじゅんじん)は武安軍(5)節度副使に左遷され、循(6)・新(7)・雷・化・永の五州に安置された。劉奉世は光禄少卿に左遷の上、(ちん)(8)居住、次いで柳州(9)安置となった。韓維は降格の上引退し、均州(10)安置となった。王覿(おうてき)・韓川・孫升・呂陶・范純礼・趙君錫(ちょうくんしゃく)・馬黙・顧臨・范純粋・孔武仲(こうぶちゅう)・王欽臣・呂希哲・呂希純・呂希績・姚勔(ようべん)・呉安詩・秦観の十七人は、通・随・峡・衡・蔡・(はく)・単・(じょう)・均・池・信・和・金・()・連・横等の諸州居住となった。王攽(おうはん)は降格の上引退となった。孔平仲は降格して知衡州(11)となった。張耒(ちょうらい)晁補之(ちょうほし)賈易(かえき)は監当官(12)となった。朱光庭・孫覚・趙卨(ちょうせつ)・李之純・杜純(とじゅん)・李周は官職を追奪された。また、孔文仲・李周を追貶(ついへん)して別駕とした。中書舎人・葉濤(ようとう)が命令書を起草した。その文章は罵倒(ばとう)の言葉が散りばめられ、これを聞いた者は切歯扼腕(やくわん)した。

(2)舒州 安徽省潜山市。
(3)鼎州 湖北省常徳市。
(4)化州 広東省化州市。
(5)武安軍 湖南省長沙市。
(6)循州 広東省竜川県の西。
(7)新州 広東省新興県。
(8)郴州 湖南省郴州市。
(9)柳州 広西壮族自治区柳州市。
(10)均州 湖北省十堰(じゅうえん)市。
(11)衡州 湖南省衡陽市。
(12)監当官 租税・倉庫・工作・専売の事務官。

これ以前、左司諫(さしかん)・張商英が上言した。
「陛下には元祐のときのことを、章惇には(じょ)(13)のときのことを、安燾(あんとう)には許昌のときのことを、李清臣・曽布には河陽のときのことを忘れないでもらいたいものです。」
この言は彼らを激怒させた。

これより諸賢は罪を免れることがなくなった。

(13)汝州 河南省臨汝県。

28


范純仁(はんじゅんじん)はこのとき失明していたが、永州配流(はいる)の命を聞き喜んで出発した。ある人が范純仁は名誉を求めていると言うと、范純仁は言った。
「年七十にして両眼を失った。万里の行程を誰が行きたがるだろう?だが、真摯に政務に取り組まれている親愛なる陛下を私は愛惜してやまない。功名を好むとの疑いを避けようとすれば、善行の道がない。」

韓維の均州への配流が決まったとき、その子は韓維が執政の地位にあった当時、司馬光と意見が合わなかったことを理由に、均州への配流を取り消してもらうよう訴えた。范純仁の子は、范純仁と司馬光が役法を議論しても、ともに実行を求めることはなかったため、永州への配流を取り消してもらうよう求めた。范純仁は言った。
「私は君実(司馬光の字)の推薦により宰相となるに至った。昔、彼と議論して意見が合わなかったが、そのことはよい。だが、お前たちの今日の言はよろしくない。恥じて生きるより、恥ずことなく死ぬほうがましだ。」
子らは配流取り消しの要求を思いとどまった。

范純仁は子弟に不平を抱いてはならぬと常に言い聞かせ、子らが章惇(しょうとん)を恨んでいると聞くと怒って思いとどまらせた。永州への道すがら、舟が長江で転覆して范純仁の服がびしょ濡れになった。范純仁は子らを見て言った。
「これも章惇の仕業だというのか?」

29


二十九日、太師致仕・文彦博(ぶんげんはく)を太子少保に降格させた。

これ以前、左司諫(さしかん)・張商英は、文彦博は国家と恩義に背き司馬光におもねったと言った。そのため降格させたのである。

30


閏月(じゅんげつ)十九日、蘇軾(そしょく)(けい)(1)別駕(べつが)に左遷し、昌化(しょうか)軍安置に移した。范祖禹(はんそう)を賓州(2)安置に移した。劉安世を高州(3)安置に移した。

(1)瓊州 海南省海口市。
(2)賓州 広西壮族自治区賓陽県。
(3)高州 広東省高州市。

31


三月、章惇(しょうとん)は呂恵卿・董必(とうひつ)を嶺南に送り、流罪にあった者たちを殺そうとした。

帝は言った。
「朕は祖先の命に従い、大臣を殺したことがない。許してやりなさい。」
章惇は不愉快になった。
中書舎人・蹇序辰(けんじょしん)は上疏した。
「朝廷は以前、司馬光らの奸悪を正し、その罪と罰を明らかにし、内外に告げました。刑法を乱し、法を改廃し、宗廟をそしり、陛下と皇后を睥睨(へいげい)し、物事の成り行きを見て言葉を考えていましたが、ここに実情が露見しました。その上奏文や文書は各当局に散在しています。これらを収集・保存しなければ、長い年月のうちに破棄されてしまうでしょう。ここはかつての奸臣らの言動を調べ、官を選んで編集させ、各人一(ちつ)の言行録を作り、これを二府(中書省と枢密院)に置き、天下後世の大戒を示されるようお願い致します。」
章惇・蔡卞(さいべん)は、蹇序辰と直学士院・徐鐸(じょたく)に直ちに編集に取りかからせるよう求めた。およそ司馬光らの手になる文書を残さず収集し、百四十三帙にまとめてこれを献上した。このため官僚たちは災いを逃れることができなくなった。

鄒浩(すうこう)は言った。
「初めのご命令では先帝への言及と言葉の間違いの二つに分けよとのことでした。今行っているものは混然として区別できません。似通っていて区別できないのに軽重の法が行われています。これは陛下の権力が近臣に移っているということです。どうかご省察を加え、将来への教訓としていただきたく存じます。」

蔡卞派の薛昂(せっこう)・林自は司馬光『資治通鑑』の版木を壊すよう求めた。太学博士・陳瓘(ちんかん)は、策問の受験者が神宗の書いた序文を引用していることからこれに疑問を呈した。薛昂・林自の意見は阻まれた。

32


四月十六日、呂大防は(じょ)州に向かおうとしたが、(けん)(1)の信豊(2)で死去した。

呂大防は宰相となると、人を用いてその能力を尽くさせ、辺境で事を構えず、天下を富ませるに至ったが、左遷されて死去することとなり、天下はこれを惜しんだ。帝はこれを聞いて言った。
「呂大防はなぜ虔州に行ったのだ?」
故郷に帰して葬るよう求められると、これを許可した。みな元祐の者たちを左遷したのは上意ではないと言って痛惜した。

(1)虔州 江西省贛州(かんしゅう)市。
(2)信豊 贛州市の南。

33


十一月二十三日、劉奉世を柳州(1)安置、程頤(ていい)(ふう)(2)編管(3)とした。

程頤が故郷に帰っていた。帝はある日側近と元祐期の政治について語り、言った。
「程頤は尊大で経筵(けいえん)の席で不遜な態度をとった。」
このため程頤は司馬光と悪事をしていたとの非難が起こり、免職して涪州に流された。

程頤は涪州で門人たちと学問に励んだ。『周易伝』も涪州で著したものである。

(1)柳州 広西壮族自治区柳州市。
(2)涪州 四川省涪陵市。
(3)編管 官吏を遠方の地へ流すときの、最も重い処置。当該地の戸籍に編入し、地方官から監視・拘束される。

34


市易務を再度設置した。

35


元符元年(1098)六月一日、改元を行った。

十七日、蔡京らが常平法・免役法の施行を建議した。

36


秋七月、范祖禹(はんそう)を再度化州に流し、劉安世を梅州(1)に安置した。

(1)梅州 広東省梅州市。

これ以前、章惇(しょうとん)は范祖禹・劉安世を最も深く恨んでおり、必ず死地に送ってやろうと思っていた。ここに至り、蔡京が婉曲(えんきょく)な方法で二人を罪に陥れた。劉安世が左遷先に到着すると、章惇は陳衍(ちんえん)を殺した使者に梅州を通り、劉安世に自殺を迫らせようとした。だが、使者は忍びなくなってやめた。章惇はまた、土豪を抜擢して転運判官とし、劉安世を殺させようとした。判官は章惇の意を受けて梅州に急ぎ、劉安世の家族は号泣して食事ものどを通らなかったが、劉安世はいつも通り飲食起居していた。夜半に至り、その者はたちまち血を吐いて死に、劉安世は難を免れた。

范祖禹が亡くなった。范祖禹は経筵(けいえん)で講義・諫言(かんげん)すること数十万言に及び、治道を述べ道理を解釈し、その論旨は平易明白、物事の奥底を見通しており、賈誼(かぎ)陸贄(りくし)もこれには及ばなかった。

37


二年(1099)八月三日、章惇(しょうとん)らが『新修勅令式』を進呈した。

章惇はこれを帝の御前で読み上げた。その中には元豊のときにはなく、元祐の勅令を用いて制定したものがあった。帝は言った。
「元祐にも取るべきものがあるか?」
章惇は答えた。
「良いものを採用しております。」

38


九月四日、御史に三省・枢密院に不正がないか調査させた。元豊の旧制に(のっと)って行われた。

39


閏月(じゅんげつ)、看詳訴理局を置いた。

安惇(あんとん)は言った。
「陛下がまだ親政を行っておられないとき、奸臣が訴理所を置きました。熙寧(きねい)・元豊に罪を得た者(旧法党)は、みな汚名を(すす)がんがため、怨みを先朝に帰し、恩を自分の家に収めていました。当時の事案に関する文書を取り寄せて、旧法党に罪を加える当初のお考えに従い処断されるようお願いします。」
蔡卞(さいべん)章惇(しょうとん)に訴理局を置くよう勧め、中書舎人・蹇序辰(けんじょしん)と安惇に審理させた。

これより重罪に処せられた者は八百三十家に上り、士大夫は千里に及ぶまで捕らえられた。天下はこれを恨み、「二蔡・二惇」の(うた)が作られた。