1 王小波、乱をなす
太宗淳化四年(993)春、蜀の青神(1)の民、王小波が乱を起こした。
後蜀が滅んだとき、府庫の物資は汴京に送られた。後任の者は功名を争い、通常の税のほかに博買務(2)を置き、商人が私的に布と絹を売ることを禁じた。蜀は土地は狭く人が多いため、農業だけでは生活できず、庶民は貧困にあえいだ。大地主は穀物を安く買い、高く売って利益を得た。
この状況を見た王小波は民衆を集めて乱を起こし、「俺は貧富の差がひどいことに腹を立てている。いま、お前たちのためにこれを均しくしよう。」と言った。貧者は争って彼に付き従った。そして青神を攻め、彭山(3)を略奪した。県令(県の長官)・斉元振を殺してその腹をさばき、その中を銭で満たした。彼が日ごろから銭を愛していたためである。賊の一味はこれにより勢い盛んとなり、近傍の村々も呼応した。
(1)青神 四川省青神県。
(2)博買務 民間の物産を独占的に買い占めた機関。
(3)彭山 四川省彭山県。
2 王小波の死、李順起つ
十二月、西川都巡検使・張玘と王小波が江原(1)で戦った。
張玘は王小波を射ったが、彼もまた王小波に殺された。王小波はこの傷により死んだ。賊は王小波の妻の弟、李順を頭とし、州県を略奪して邛州(2)・永康軍(3)を陥れ、その数は数十万に至った。
(1)江原 四川省成都市の西。
(2)邛州 四川省邛崍(きょうらい)県。
(3)永康軍 四川省灌(かん)県。
3 李順、成都を攻める
五年(994)春正月五日、李順は漢州(1)・彭州(2)を攻め落とし、成都(3)を攻めるに至った。転運使・樊知古、知府・郭載と官僚らは梓州(4)に出奔した。李順は城に入るとこれを拠点とし、大蜀王と僭称した。彼の仲間を方々にやって州県を攻め、両川(四川)は大いに動揺した。
帝は大臣を送って李順をなだめようとしたが、趙昌言のみは急ぎ兵をやって討伐し、賊の勢力をはびこるこらせないよう請うた。帝はこれに従い、宦官の王継恩を遣わして両川招安使とし、道を分けて討伐に向かった。雷有終を峡路転運使とした。
(1)漢州 四川省中江県。
(2)彭州 四川省彭県。
(3)成都 四川省成都市。
(4)梓州 四川省三台県。
4 上官正、剣門を守る
二月十三日、李順は楊広の数万の軍を送り、剣門(1)に侵攻した。上官正が剣門都監となったが、麾下に疲弊した兵卒が数百いたので、忠義を説いて激励し、勇気百倍、力戦して守った。このとき、成都監軍・宿翰の兵が到着し、上官正はこれと合流して賊軍を迎え撃ち、斬首し尽くした。残党三百は成都に逃げ帰ったが、李順は怒って彼らを脅し、ことごとく斬り捨てたが、これより士気が沮喪した。
このとき、朝廷は蜀の盗賊の勢いが盛んであると聞き、桟道が賊によって阻まれはしないかと深く憂えた。だが、上官正が孤軍奮闘して賊を破ったため、桟道が塞がれることはなくなり、宋軍は長駆して進むことができた。
(1)剣門 四川省剣閣県の北。
5 李順、梓州を包囲
李順が梓州を包囲した。
知梓州・張雍は王小波が乱を起こしたと聞き、士卒を訓練させ、屈強な者を募り、城を守る準備をした。緜州(1)に金と絹を運んで蔵にしまい、官吏に兵器を造らせ、防御のための道具を備えた。
このときになって、李順は賊軍二十万で梓州を包囲した。城中の兵はわずかに三千、張雍は知力を尽くして防戦すること八十日に及んだ。王継恩は石智顒をやって救援し、賊は潰え去った。
(1)緜州 四川省綿陽市。
6 四川北部を奪還
二月十七日、王継恩の軍が緜州に到着した。賊は潰走し、その軍を追撃して殺し、緜州を奪還した。曹習を遣わして賊を老渓に破り、閬(1)・巴(は)(2)・蓬(3)・剣州(4)などを奪還した。
(1)閬州 四川省閬中県。
(2)巴州 四川省巴中県。
(3)蓬州 四川省儀朧県。
(4)剣州 四川省剣閣県。
7 張余、四川東部を襲撃
五月、宋軍が成都に到着した。賊軍十万を破り、三万級の首を斬った。李順を捕らえ、ついに成都を回復した。李順の仲間の張余が嘉・戎・濾・渝・涪・忠・万・開の八州を攻め、開州(1)監軍・秦伝序が死んだ。
(1)開州 四川省開県。
8 成都府を降格
二十日、成都府を降格させ、益州とした。
9 王継恩を宣政使に
八月十五日、王継恩を宣政使とした。
初め、中書省は王継恩が蜀の賊を討伐した功績により、宣徽使(1)に任命しようとした。しかし帝は言った。「朕は前代の歴史を読み、その教訓として宦官を政治に関与させたくはない。宣徽使にすれば執政の始まりとなる。他の官を授けるように。」宰相は王継恩には大きな功績があり、宣徽使でなくてはこの功績に報いるに不足であるとつとめて説いた。帝は怒り、宰相を厳しく責めた。そして学士・張洎、銭若水に議論させ、別に宣政使の官名を立てて王継恩に授けた。
(1)宣徽使 諸司(諸官庁)、殿前三班(親衛軍)、内侍の官籍・異動・弾劾を管理し、また郊祀・朝会・宴会などを取り扱い、国内外の献上物を検視する官。枢密使に次ぐ地位。
10 張詠の善政
二十二日、張詠に益州(成都)を統治させた。
このとき、王継恩・上官正・宿翰らが兵を従えて賊を討ち、成功を収めつつあった。しかし、そこから軍をとどめて進まず、専ら飲酒と博打に耽り、配下の将兵もほしいままに略奪し、賊の残党の勢力は再び大きくなった。
張詠が到着すると、上官正らに自ら行くよう強く促し、兵が出発するにあたって、「お前たちは国の厚恩を蒙っているのだから、この戦いで賊軍を平定せねばならぬ。もし軍を疲弊させ日を空しく過ごせば、この地はかえってお前たちの死所と化すだろう。」と、軍校に託して言った。上官正はこれにより計略を定めて賊軍の中深くに入り、大勝を収めた。
賊軍の略奪が吹き荒れたとき、民は多く脅しにより従わされていた。張詠は恩徳と信義により民を諭し、郷里に帰らせた。そして、「以前は李順が民を脅して賊としたが、今は私が賊を民に戻し、このようなことは二度とさせない。」と言った。
このとき、巷で白髪の老人が昼下がりに子供を食べてしまうという噂が流れた。衆人は騒然として不安になり、暮れになると道に行く人がなくなった。噂を流した者を捕らえて殺すと、民はようやく落ち着いた。 張詠は言った。「あやかしと流言というのは妖気によって生まれる。あやかしには形があり、流言には声がある。流言を止める術は正しい知識と判断にあり、まじないにあるのではない。」
蜀の士人たちは、学問に励んでも仕官に興味を持とうとしなかった。張詠は地元の人の張及・李畋・張逵の三人が、いずれも学識と品行に優れ郷里で評判であるのを知ると、彼らを激励して科挙を受験させた。これにより蜀の士人たちは仕官に勤め励むようになった。
民に訴える者があれば、張詠は情状と法律の軽重を酌量し、短文により判決してこれを公表し、蜀の人は戒めとして胸に刻んだ。民の風俗はこれにより豊かなものとなった。
これより先、城中に駐屯する兵がなお三万人いたが、半月分の食もなかった。張詠は、民間では以前から塩の価格が高いのに苦しんでいるが、州の蔵には余剰の塩があるのを知った。そこで塩の価格を下げ、民が米を塩と交換するのを許し、月を跨がないうちに米数十万斛(1)を得られた。張詠はこれが二年分の備えに当たるとわかると、陝西の糧道は必要ないのでやめるよう上奏した。帝はこれを聞き、「彼は何事もこなしてしまう。我に憂いなし。」と喜んで言った。
(1)斛 古代には十斗であったが、南宋末に五斗に改められた。
11 趙昌言を川峡都部署に
二十四日、参知政事・趙昌言を川峡都部署とした。
このとき、王継恩は蜀にいたが、民衆を手なずけることができなかった。帝は心中戦を厭い、趙昌言を呼んで、「西川(四川)はもともと一つの国であった。太祖がこれを平らげ、三十年になる。(せっかく平定した蜀が賊軍に乱されてはたまらない。早急に鎮圧したい。)」と言った。趙昌言は帝の意図を察知し、前に進み出て攻略の策を示した。帝は喜び、趙昌言に蜀を治めさせ、王継恩以下に節度使を授けた。趙昌言が行くと、ある人が趙昌言に叛意があり、大兵力を握らせるべきでないと進言した。そこで彼を川峡都部署の任から外し、鳳翔府(1)を治めさせた。
(1)鳳翔府 陝西省鳳翔県。
12 雲安軍を回復
上官正が雲安軍(1)を回復した。
これより先、張余の賊軍が夔州(2)を攻めた。白継贇が西津口でこれを大いに破り、斬首二万、舟千余艘を鹵獲した。上官正は賊軍を広安(3)・嘉陵・合州(4)で連破した。賊は陵州(5)に進攻したが、ここでも知州・張旦に敗れた。
こうして、上官正らは張余を雲安軍で大いに破り、その城を奪還した。
(1)雲安軍 四川省雲陽県。
(2)夔州 四川省奉節県。
(3)広安 四川省広安県。
(4)合州 四川省合川県。
(5)陵州 のち、陵井監。四川省仁寿県。
13 張余捕らわる
至道元年(995)二月三十日、四川都監・宿翰が張余を嘉州(1)で捕らえた。
これより先、西川行営・衛紹欽・楊瓊がたびたび賊軍を破り、蜀州(2)・邛州などを奪回した。帝は蜀の盗賊がようやく平らぎつつあるのを見て、詔を下して自分を咎めた。そのあらましは次のようであった。
「朕は国を委任されるにふさわしくなく、道理に照らして賢明ではない。蜀の民と直接に接する官は、仁愛をもって政治を行わず、管榷(3)の吏は、過酷な買い占めによって功名としたため、わが国の民を乱し、反乱をなすに致らしめた。徳の失われたこの状況を考えるに、務めてわが身を責めようと思う。後世にあっては、これを長きにわたり前代の過ちとして鑑みることとし、同じ過ちを繰り返さぬよう願う。」これを聞いた者は感じ入った。
このときになって、張余は眉州(4)を攻め、宿翰がこれを撃ち破った。張余は嘉州に逃げたが、兵に捕らえられた。
(1)嘉州 四川省楽山市。
(2)蜀州 四川省崇慶県。
(3)管榷 塩・酒・鉄の専売。
(4)眉州 四川省眉山県。
14 王小波・李順の乱の平定
この年、王継恩を呼び戻し、上官正、雷有終を四川招安使とした。蜀の乱はすべて平定された。
数年後、王均の変が起こった。
15 王均の乱
真宗咸平三年(1000)春正月十六日、益州(成都)の兵卒が反乱を起こし、王均を首魁に推した。
初め、神衛軍(1)の兵が益州を守り、都虞候・王均、董福が分担してこれを統括していた。董福は兵を御することたいへん厳しく、配下の兵の待遇は豊かだった。王均は飲酒と賭博を好み、軍装はすべて給費でまかなっていた。
このときになって、兵馬鈐轄・符昭寿と知益州・牛冕は、東の郊外に視察に行った。蜀の人々がその姿を見に行くと、二人の軍の衣服はぼろぼろで統一がとれていなかった。王均の軍はこれを知って恥じて怒り、符昭寿も驕って兵士をいじめ、兵士らはこれを怨んでいた。
この月の一日、兵卒の趙延順ら八人が乱を起こし、符昭寿を殺した。益州の官吏は元旦を祝っている最中であり、変を聞いてみな逃げ惑った。知州・牛冕と転運使・張適は城の上から縄を垂らして逃げ去り、都巡検使・劉紹栄のみ刀を交えて格闘したが、衆寡敵せずであった。
反乱した兵士たちはまだ主導者がいなかったので、劉紹栄を推戴しようとしたが、劉紹栄は弓矢をとって罵って言った。「私はもと燕の者だ。夷狄を捨てて朝廷に帰服した。お前たちとともに逆らうことなどできようか。今すぐに殺されれば、私は朝廷に恥を負うことはない。」監軍・王沢は王均を呼んで言った。「お前の部下が乱を起こした。行って落ち着かせろ。」反乱した兵士らは王均を見ると、彼を主導者に押し上げた。
劉紹栄は自ら首をくくり、王均は不当にも大蜀と称した。化順と改元し、官署を置いて官僚を称し、小校(2)・張鍇を参謀とした。王均は兵を率いて漢州を攻め落とした。続いて緜州にも進攻したが、勝てなかった。剣州に直行したものの、知州・李士衡に敗れ、戻って益州を守った。
帝はこのとき河朔(河北南部)に行幸しており、大名府を発とうとするとき、この変を聞いた。戸部使(3)・雷有終を川峡招安使とし、李恵、石普、李守倫を巡検使とし、歩兵・騎兵八千を与えて討伐に向かわせた。上官正、李継昌らも従軍した。
(1)神衛軍 侍衛歩軍(親衛軍)が改名したもの。
(2)小校 低位の武官。
(3)戸部使 戸部(全国の戸籍、賦税、酒の専売などを司る官署)の長官。
16 楊懐忠による討伐
このとき、知蜀州・楊懐忠が乱を聞き、村の丁男を徴集し、諸州の巡検の兵を集めて討伐に向かった。楊懐忠が益州に入ると、城の北門を焼き、三井橋に行って賊軍と数合戦ったが、楊懐忠のほうが不利であったため退却した。そして嘉州・眉州など七州に檄文を配布して兵を徴集し、再び益州を攻撃して賊軍を破った。勝ちに乗じて賊を追いやり、州の南十五里にいたり、鶏鳴原に砦を築いて宋軍の到着を待った。王均は門を閉じて守りを固めた。
17 雷有終、益州に到着
二月十五日、雷有終らは益州に到着した。
このとき、都巡検・張思鈞は漢州を落としており、進み出て升仙橋に砦を築いた。賊は砦を攻めたが、雷有終がこれを撃退した。
18 王均軍の蛮行
二月十九日、王均は城門を開いて逃げたように見せかけ、雷有終らが兵を率いて城に入った。号令が行き届いてなかったため、官軍は競って略奪に走った。賊は関門を閉じて伏兵を出し、寝台を通路に並べたので、官軍は城を出ることができず、賊に殺戮された。雷有終らは姫垣から飛び降りて逃げることができたが、李恵が死に、官軍は漢州に退いた。
益州城の民はみな四方に逃げ惑い、賊軍はこれを追いかけて殺し、あるいは捕らえ、四肢を切り落としたり一族を皆殺しにするなどして、衆を恐怖に陥れた。また、体力のある兵士や民を脅して賊軍の兵とし、手の甲に刺青をし、髪を剃り落として顔にも黥を施した。そして軍装を支給して城に入らせたが、賊軍とは仲が悪かった。雷有終は立て札に書き記して賊軍に入らされた民を招き、来ればその者が着ている衣服に名を記し、賊軍に入ったことを許した。招きに応じた者は日に数百人に及んだ。
19 益州を奪還
冬十月一日、雷有終が益州を奪還した。
初め、賊は升仙橋から道を分けて王師に襲いかかったが、雷有終は兵を従えて迎え撃ち、これを大いに破った。王均は単騎で城に逃げ帰り、城門の橋を壊して門を塞いだ。雷有終と石普は進み出て城の北に駐屯し、将校を分遣して三方から城を攻めた。賊は城から出て戦ったがたびたび敗れた。
宋軍は城に迫っていたが、雨に遭い、城壁が滑って上れなかった。このため、雷有終は洞屋(1)を造って進み、王均もこれに対し櫓を設けて防ごうとした。雷有終は兵をやってこれを焼き、賊はこのために士気を削がれたが、出城を築いて守りを固めた。
雷有終は兵士らに、毛布をかぶり、燧を持って出城に入らせ、櫓と投石器をことごとく焼いた。先に東・西・南に兵を送って鼓を鳴らして攻撃し、雷有終、石普が洞屋の指揮をとって進み、ついに城に入り、賊軍を大いに破った。王均は夜影に乗じて二万人の仲間と包囲を突破して逃れた。雷有終は伏兵を警戒し、人をやって城中に火を放った。翌日、服に署名された者で、偽って投降した者数百人を焼き殺したが、これは冤罪と噂された。王均は逃走すると、通過した橋を断ち、道を塞ぎ、倉庫を焼いていった。
二十二日、雷有終は楊懐忠を遣わして王均を追わせ、富順(2)で追いつき、賊軍を大敗させ、城に入った。王均は首を吊って死んだ。楊懐忠は王均の首と偽物の礼器を手に取り、賊軍六千人を降伏させた。
詔して雷有終、楊懐忠らに俸禄を与えた。牛冕を儋州(3)に、張適を連州(4)に流した。
(1)洞屋 攻城兵器の一。四輪の車に屋根を取り付けて矢を防ぎ、中の兵士が城壁の下を通るための穴を安全に掘れるようにしたもの。
(2)富順 四川省富順県。
(3)儋州 海南省儋県の北西。
(4)連州 広東省連県。
20 平定にあたっての詔
四年(1001)十二月十日、以下のように詔した。「蜀の賊は平定された。逃亡した残党は追捕するが、賊に欺かれていた民については、これを許して不問に付す。流言によって衆を扇動した者は、有司が斬刑に処して報告せよ。」
21 王禹偁、地方の警備強化を進言
六年(1003)冬十月、再び張詠に益州を治めさせた。
民は張詠が再び来ると聞くと、みな鼓舞して喜んだ。転運使・黄観がその政治の状況を報告すると、詔が下って褒賞された。謝濤を遣わして蜀を巡察させたとき、帝は彼を通じて張詠に言った。「そなたを蜀におらせれば、朕は西顧の憂いがない。」
このとき、内地も盗賊がはびこっていた。濮州(1)の賊は夜に城に入り、知州・王守信、監軍・王昭度の家を荒らした。このとき、王禹偁は黄州(2)を治めており、次のように上疏した。
「国を治め、民を治めるのは、王者が国を保つ方法です。『易経』にも、『王公は険を設け、もってその国を守る』と言います。五代より中国は大いに乱れ、それぞれが城塁に拠って立ち、豆や瓜が割れるように分裂すること、七十余年に及びました。太祖、太宗は国主を偽称する者たちの国々を平定・併呑し、天下は一家にまとまりました。また、長江・淮河流域の城と堀をとり壊させ、武器と鎧をしまわせ、軍備をとり払わせること二十余年に及びました。
こうして文人が州を預かるようになり、大郡には二十人を送り、小郡は五人を減らし、随員を従え長吏と号しておりますが、その実各地を渡り歩く旅人と同じなのです。名は郡城といっても、平地のように平らかです。京師を尊んで郡県を抑えつけ、強幹弱枝(3)の術をなしていますが、その中道を行うことはできません。私は近頃滁州(4)におり、兵を動かし、兵糧を輸送し準備すべきところを、砦には守る人もおらず、ただ小役人を主の代わりとして門の開閉をさせるのみです。城壁と堀は崩れ、武器と鎧は調っておりません。維揚(現南京市)に移ると、重鎮の都市と称しておきながら、内実は滁州と変わりはありません。鎧三十副を巡回警備の者に与え、弓弩を引き絞ったことがありましたが、十のうち四五が壊れました。あえて勝手に修理はせず、上の者も下の者もそのままにしておき、今に至ります。黄州の城壁、堀、兵器は滁州、維揚に及びません。万一水害や旱害があれば、盗賊が盗みを働きます。それを防ごうと思ってもどうやるのでしょう。
太祖は諸侯の跋扈する勢いを抑え、太宗は諸国の僭主らのたくらみを阻止しました。そうせざるを得なかったのです。こうして安定した世を、法を設けて代々伝えたとしても、長い月日が経つと綻びが生ずるものです。綻びを正す道は、道理に従うことにあります。疾は丸いものを転がすように容易に治るのであって、膠の柱や鼓瑟のように硬直して治らぬものではありません。いま、長江、淮河周辺の諸州には大きな患いが三つあります。城壁と堀が崩れていること、これが一つ。武器が備わっていないこと、これが二つ。軍が訓練を怠っていること、これが三つです。濮州の賊が興ったのは、これを防ぐのを怠ったからです。
陛下にあられては、特に御聖断を下し、諸郡の民の多少、城壁と城の大小を斟酌した上で、多くとも五百人を超えない程度の兵を置き、弓と剣の訓練を施し、城壁を修繕し、鎧を作らせるよう望みます。さすれば州県に守りの備えができ、長吏は略奪の心配がなくなります。」(原注:王禹偁の疏を吟味するに、これは時弊を痛切に指摘したものである。それゆえここに附した。)
(1)濮州 山東省鄄城(けんじょう)県。
(2)黄州 湖北省黄陂(こうは)県。
(3)強幹弱枝 中央を強めて地方を弱める。
(4)滁州 安徽省滁(じょ)州市。