巻22 天書封祀

Last-modified: 2022-10-06 (木) 03:53:38

1 寇準、宰相を辞任


真宗景徳三年(1006)二月、寇準が平章事(宰相)を辞め、知(せん)(1)に赴任した。
 
寇準が宰相であったとき、地位にこだわることなく人を任用したため、同僚たちは彼をたいへん嫌った。ある日、官を任命するとき、同僚たちは担当の官吏が規定で定められた名簿を持って推薦しているのを見た。寇準は、「宰相が有能な者を進め、無能な者を退けられるのは、情実によらず慣例に従うからだ。宰相とて慣例どおりに事を処理する一吏の職に過ぎん。」と言った。
 
澶淵(せんえん)から帰ってきたとき、寇準は盟約を結んだ功績を誇り、帝は彼を厚遇した。王欽若はこれを深く(ねた)んだ。ある日の朝会のとき、寇準が先に退出し、帝が目で送った。このとき王欽若が進み出て、
 
「陛下は寇準を敬っておられますが、それは国への功績があるからですか?」と帝に言った。
帝は「そうだ。」と答えた。
「陛下は澶淵の役のことを恥としておりません。なのに寇準に国への功績があるとおっしゃるのはなぜですか?」
帝は驚いた。「なぜそのようなことを言うのだ?」
「城下の盟(2)は、『春秋』はこれを恥とします。澶淵でのことは、大国の誇りがありながら城下の盟を結ぶようなものです。なんと恥ずかしいことでしょう。」
これを聞いて帝は落ち込んだ。王欽若は続けた。
「陛下は賭博をご存知ですか?賭博とは金をすべてつぎ込もうとし、ひいてはあるものすべてを使い果たしてしまうものです。これを孤注といいます。陛下は寇準の孤注なのです。これは危ういことですぞ。」
 
これにより、帝は寇準がだんだんと衰えていることから、ついに宰相を辞めさせて刑部尚書とし、知陝州に赴任させた。
 
(1)河南省三門峡市。
(2)城下の盟 都まで攻め入られたために結ぶ、屈辱的な講和。『春秋左氏伝』桓公十二年より。

2 張詠、寇準に助言す


これ以前、張詠が成都にいるとき、寇準が宰相になったと聞き、「寇公は逸材だが、学識に欠けるのが惜しまれる。」と属官に言った。寇準が知陝州になると決まったとき、ちょうど張詠も成都から都に帰ってきたので、寇準が郊外で彼を出迎えた。そして、「準に何を教えようというのだ?」と聞いた。張詠は何とはなしに、「霍光(かくこう)伝をぜひとも読みなさい。」と答えた。寇準はその意味を測りかねたが、帰ってその伝を手にとって読むと、「不学無術」の文字を見つけた。寇準は笑い、「張公の言いたかったのはこのことか。」と言った。
 
ほどなくして、寇準は知天雄軍に移された。契丹の使者が大名を通りかかったとき、寇準に言った。
 
「相公(宰相の敬称)は声望が高いというのに、なぜ中書におらぬ(宰相にならない)のですか?」
「朝廷を安定させるに、北門の(かんぬき)は私でなくては務まらぬ、と主上はお考えなのだ。」

3 天書の降臨


大中祥符元年(1008)春正月三日、天書(1)を承天門で発見した。これを受けて大赦、改元を行った。
 
帝は自ら王欽若に、澶淵の盟を深く恥じ、怏々(おうおう)として楽しまずにいると言った。王欽若は帝が戦争を避けたがっていると思い、進み出て、
 
「陛下が出兵して幽・(けい)を取れば、この恥を(すす)ぐことができます。」と(そそのか)そうとした。
河朔(かさく)(河北)の民ははじめて戦争を免れることができたのだ。朕がなぜこの状況を甘受していると思っているのだ?事の順序をわきまえよ。」
「封禅(2)の儀式を行いさえすれば、四海を服せしめ、外国に誇示することができます。古より封禅というのは、この世にまたとない天瑞を得られるということです。」そしてまた続けた。
「どうして天瑞が得られるのか?昔、人の力で天瑞を得たことがあったはずですが、それはその当時の君主が天瑞の力を深く信じて崇拝し、天下に示したに過ぎません。これは天瑞となんら変わりません。陛下は『河図(かと)』、『洛書』(3)が本当に存在するとお思いですか?この二書は古代の聖人が神霊を説いて教化しようとしているだけのことです。」
帝はしばらく考え込んで、「王旦は反対しないだろうか?」と言った。
「私が陛下のご意思を伝えれば、きっと反対することはないでしょう。」
 
(1)天書 天神がもたらしたとされる書きつけ。
(2)封禅 皇帝が天地に天下太平を報告し、国家の永続を祈る儀礼。泰山の頂上に壇を設けて天を祀るのを封、そのふもとで土地を平らにならして地を祀るのを禅という。
(3)『河図』、『洛書』 『河図洛書』とも。『河図』は伏犠のとき、黄河から出た龍馬の背に書いてあったという図、『洛書』は禹が洪水を治めたとき、洛水から出た神亀の背にあったという文。易のもととなった。
 
王欽若は暇を見計らって王旦にこのことを伝えた。王旦はこの言に従い、尽力することにした。帝はなおも躊躇していたが、たまたま秘閣(4)に行ったとき、直学士・杜鎬(とこう)に、「古のとき黄河から出た図、洛水から出た書は一体何なのだ?」と問うた。杜鎬は老いぼれた儒者で帝の質問の意味を汲み取ることをせず、ただ漫然とこれに答えた。「それは古代の聖人が神霊を説いて教化しようとしているだけのことです。」
 
帝の意はついに決し、王旦を呼んで飲み、たいへんに喜んだ。帝は王旦に杯酒を与え、「帰って妻子とともに分け合いなさい。」と言った。王旦が帰って封を開けると、美しい真珠が入っていた。王旦は帝の言いたいことを悟り、この芝居に異議を唱えることはなくなった。
 
このときになって、帝は群臣に対して言った。
 
「去年の冬十一月二十七日、夜半になろうとするころ、朕が床に就こうとすると、部屋中が急に光りだし、星の冠と赤い衣を身にまとった神人が現れた。そして朕に、『来月から正殿に黄籙(こうろく)道場を一月の間建てておくがよい。天書『大中祥符』三篇を降すであろう。』と言ったのだ。朕はかしこまって起き上がりその言葉に答えようとしたのだが、すでにその姿はなかった。十二月一日より朝元殿で斎戒し、道場(5)を建てて神の賜り物が降されるのを待った。そしていま、皇城司から黄帛(こうはく)(黄色い絹布)が左承天門の南側の鴟尾(しび)にたなびいているとの報告があった。そこで中使に見に行かせたところ、絹は長さ二丈ばかり、書物のように青い糸を巻いて封がしてあり、その中には文字が書かれているのが見えた。これぞ神人の言った天から降された書であろう。」
 
(4)秘閣 昭文館・史館・集賢院が選んだ書籍および古画・墨跡を収蔵する所。また、名のある儒者を招いて官職を与え、人材を集めておく場所でもある。
(5)道場 経典を唱え礼拝する場所。
 
王旦らはこぞって再拝し、祝辞を述べた。帝は承天門まで歩き、周囲を望み見て再拝し、二人の内侍を屋根に上らせ、黄帛を捧げ持ってから下におろした。王旦が(ひざまづ)きながら進呈し、帝は再拝してこれを受け取った。そしてそれを自ら車の中に置いて道場まで運び、陳尭叟(ちんぎょうそう)に封を開かせた。黄帛には、
 
「趙が命を受けて宋を興し、慎みに付す。その器に居して正しきを守れ。世は七百、九九に定む。」
 
とあった。帝は跪いて受け取り、陳尭叟にこれを読ませた。彼によれば、黄色い字が三枚にわたって書かれ、その文言は『洪範』(6)、『道徳経』(7)に見られるもので、一枚目は、帝が父母によく仕え、道義をつくすことにより宋朝が代々受け継がれることを、二枚目は、質素倹約につとめることを、三枚目は、天下の幸福は永久に続くことを述べたものとのことであった。
 
(6)『洪範』 禹が尭舜以来の整理集成した政治道徳の基本法則を述べた書。
(7)『道徳経』 『老子』のこと。
 
読み終わると、帝はまた跪いて捧げ持ち、黄帛に封をし、金の(はこ)にしまった。群臣は崇政殿に入って祝い、帝は宴を賜い、帝と近臣はみな質素な食事をとった。官を遣わして天地・宗廟・社稷(しゃしょく)にこのことを告げた。大赦・改元を行い、群臣に恩典を与え、京師の民を集めて五日間酒盛りした。左承天門を承天祥符に改めた。天書儀衛扶侍使を置き、大きな式典があれば宰相と近臣にこれを兼ねさせた。王欽若の計画が行われると、陳尭叟・陳彭年(ちんぽうねん)丁謂(ていい)杜鎬(とこう)は経書の解釈を理屈づけに使って同調し、天下は争って祥瑞を得たと言い出した。ひとり龍図閣待制・孫奭(そんせき)のみは、「私めが思いまするに、天が何を言うのですか?まして神人の書など本当にあるのですか?」と帝に言った。帝は黙り込んでしまった。

4 封禅の挙行を決定


三月、詔を下して封禅について議論させた。
 
宰相・王旦らは文武百官・諸軍将校・官吏・蛮族・僧侶・道士・長老二万四千三百余人を率いて五度上奏し、帝の封禅を請うた。帝はいまだ意を決せず、丁謂を呼び経費について下問した。丁謂は「財政には余裕があります。」と答えた。このため議論は定まった。翰林(かんりん)学士と太常寺に儀式の次第を詳しく定めさせた。
 
これ以前、西北で戦があったとき、帝は便殿(1)で様々な者に助言を請い、遅くに食事をとることも少なくなかった。しかし王旦は嘆息して、「私は座して太平に身を任せ、悠々として何事もなく過ごしている。」と言った。宰相・李沆(りこう)は言った。「強敵外患は十分警戒すべきだ。いつか四方が安定しても朝廷は無事でいられるはずはない。」王旦はそんなことはないと思った。李沆はまた、四方の水害・旱害(かんがい)や盗賊の被害を取り上げて日々上奏したが、王旦はこれらは些細なことで帝のお耳を煩わすほどのことではないと思った。李沆は言った。
 
「わが君主は年若く、四方の困難を理解させて差し上げるべきだ。そうでなくば、血気盛んな若者のこと、声色犬馬(2)にふけってしまうことだろう。そうなれば土木・戦争・祭祀の事業を興されることだろう。」
 
このときになって、この言が的中した。
 
(1)便殿 休息用の宮殿。
(2)声色犬馬 歌舞音楽、愛玩用の犬、馬を走らす。楽しみに溺れるもととなるもの。

5 封禅の人事体制を整備


大中祥符元年夏四月五日、王欽若を参知政事(副宰相)とした。
 
六日、王旦を封禅大礼使とし、王欽若らを経度制置使とし、馮拯(ふうじょう)・陳尭叟を分掌礼儀使とし、丁謂が財貨を集計した。丁謂は権(1)三司使となっており、『景徳会計録』を著わして帝に献上した。これには儀式の経費が記載され、参考にされた。帝は優詔を下して褒め称えた。
 
(1)権 仮の、臨時の。

6 第二の黄帛を発見


六月六日、王欽若が乾封(1)に到着し、「泰山(2)に甘い泉が湧き出し、錫山(せきさん)(3)に青い龍が現れました。」と上言した。ほどなくして、木工・董祚(とうそ)醴泉亭(れいせんてい)の北に黄帛(こうはく)が木の上にたなびいているのを発見した。字が書いてあるようだがはっきりとは読めず、皇城使・王居正に報告した。王居正はその布に帝の名があるのを認め、急いで王欽若に報告した。王欽若は黄帛を捧げ持って社首(4)まで行き、跪いて中使に授け、急ぎ宮殿に赴かせた。
 
(1)乾封 山東省泰安県の南。
(2)泰山 山東省泰安県の北の山。済南市の南。
(3)錫山 湖南省長沙市にある山。
(4)社首 社首山。山東省泰安県の西の山。
 
帝は崇政殿に行き、急遽群臣を呼び集めて言った。
 
「朕は五月十七日の夜、再び夢の中で神人に対面し、こう言った。『来月上旬、天書を泰山に降すであろう。』と。すぐに王欽若らにこれを伝え、なにか不思議なことがあればただちに報告させるようにした。そしていま先の夢と符合するできごとが起こった。天の恩寵たるもの、その御心にたがうのを恐れるばかりだ。」
 
王旦らは再拝して祝賀し、含芳園の正殿に黄帛を迎えた。帝は斎戒し、法駕(ほうが)(5)を整えて宮殿に行き、拝して黄帛を受け取り、陳尭叟に授けて封を開かせた。そこには次のような文言があった。
 
「なんじは我を尊崇し、民を育て福を広めよ。なんじに吉祥を授ければ、人民はみなそれを知る。この言を守秘し、よくわが意を理解せよ。国の幸福は未来永劫にわたって続くであろう。」
 
(5)法駕 皇帝の車におともする儀仗隊が中規模のもの。
 
読み終わると、黄帛を捧げ持って殿に上った。ここに群臣は上奏し、帝の尊号を崇文広武儀天尊道宝応章感聖明仁孝皇帝とした。
 
ほどなくして、王欽若は霊芝(れいし)(6)八千本を献上し、趙安仁は五色の金玉丹と霊芝八千七百余本を献上し、諸州は霊芝・嘉禾(かか)(7)・瑞木・三脊茅(さんせきぼう)(8)などを献上し、記載しきれないほどだった。
 
九月、有司に死刑の案件を上奏させないようにし、天書について太廟に報告した。
 
(6)霊芝 きのこの一種。瑞祥とされる。
(7)嘉禾 変わった形に成長した稲。吉祥とされる。
(8)三脊茅 長江・淮河の間で産生するかや草の一種。茎に三つの隆起した筋がある。

7 封禅の儀式を演習


二十八日、帝みずから封禅の儀式について、崇徳殿にて演習した。

8 天書を奉納


玉清昭応宮を建て、天書を奉納した。知制誥(ちせいこう)王曽(おうそう)都虞候(とぐこう)張旻(ちょうびん)が上疏して諫めたが、帝は聞き入れなかった。

9 泰山での封禅


冬十月四日、帝は京師を発ち、車に天書を載せて先導し、十七日目に泰山に着いた。王欽若らは霊芝三万八千余本を献上した。三日間斎戒してから山に登った。道が険しいため車を降りて歩き、儀仗の者たちは麓で待機した。
 
昊天(こうてん)上帝(天帝)を圜台(かんだい)(1)に祭り、天書を左に並べ、太祖・太宗に見立てた。群臣に五方帝(2)とその他の神々を麓の封祀壇に祭らせた。帝が福酒(祭祀に用いる酒)を飲んでいたところ、摂(3)中書令・王旦が跪きながら、「天は皇帝太一神符をわれらに与えました。一周してまた始まり、永遠に万民を安らかにすることでしょう。」と称えた。これを三度献納すると、金玉の(はこ)にしまった。王旦はその匱を捧げ持ち、石の匱の中に置いた。摂太尉・馮拯(ふうじょう)が金匱を捧げ持って山を下り、将作監(4)が石の匱に封をした。
 
帝は圜台に登り、一通り見渡すと行宮(あんぐう)に帰った。宰相は属官を率いて祝賀した。翌日の夜明け、社首山で地祇(ちぎ)(地神)を祭り、封祀の儀の通りにした。儀式が終わると寿昌殿に行き、群臣の朝賀を受けた。天下に大赦を行い、文武の官に俸禄を与えた。開封府および今回通過したところの州・軍に挙人(科挙の受験者)を朝廷に送らせた。天下に三日間の酒盛りを賜った。乾封県を奉符県に改めた。穆清(ぼくせい)殿で大宴会を開き、泰山の父老にも行宮の門で宴を催した。
 
(1)圜台 祭祀に用いる円状の壇。
(2)五方帝 東西南北と中央に配される天神。
(3)摂 兼職の意。
(4)将作監 祭祀に関する雑事を担当する官署。

10 孔子廟を参拝


十一月一日、帝は曲阜(きょくふ)(1)県を通りかかったとき、孔子廟を参拝した。酒を供えて再拝し、近臣らが七十二弟子を分祀したあと、孔林(2)に行った。孔子に玄聖文宣王という(おくりな)を与え、太牢(3)を捧げて祭り、県に銭三十万、(はく)(絹)三百匹を下賜した。
 
また、斉の太公望に昭烈武成王、周の文公旦に文憲王の諡を与えた。太公望の廟を青州(4)に建て、周公旦を曲阜に建てた。
 
そしてまた孔子廟にともに祭られている人物たちを追封し、顔回を(えん)国公、閔損(びんそん)・曽参および漢代の儒者たち、左丘明以下を郡公・郡侯・郡伯とした。
 
(1)曲阜 山東省曲阜市。
(2)孔林 孔子とその子孫の墓苑。
(3)太牢 牛・羊・豚の三つの犠牲。
(4)青州 山東省益都県。

11 天書を宮殿に持ち帰る


二十日、帝は泰山から天書を奉って宮殿に帰り、群臣は争うようにその行いを賞賛した。ただ進士・孫籍だけは上奏書を献上し、「封禅は帝王としての偉大な業績であります。陛下にはこの完璧さを保ち続けていただきたく存じます。驕慢(きょうまん)に陥るようなことがあってはなりません。」と言った。知制誥・周起も上言した。「天下の形勢は常に安逸にふけり、油断することを許してはくれません。太平の世が成立したことを天に報告したからといって、それにすがってはなりません。」

12 帝、尊号を受ける


十二月五日、帝は朝元殿に行き、尊号を受けた。宰相・王旦らはおのおの俸禄を進呈された。

13 方士・王中正を厚遇


二年(1009)二月、方士(1)・王中正を左武衛将軍(2)とした。
 
これ以前、(てい)(3)の人、王捷(おうしょう)は言った。「南康(4)で道人(5)に会いました。姓は趙氏であります。丹術と小さな輪のついた神剣を授けてくれました。おそらく司命真君でしょう。これが聖祖であります。」宦官の劉承珪(りゅうしょうけい)がこれを報告し、王捷に中正の名を与え、龍図閣(6)で帝の下問に答えさせた。東封(封禅)の儀を終えると、聖祖を司命天尊とし、王中正に左武衛将軍を授け、たいへんに厚遇した。
 
(1)方士 煉丹により不老長寿がかなうと自称する人。
(2)左武衛将軍 実際の職務をともなわない官名の一。従四品。
(3)汀州 福建省長汀県。
(4)南康 江西省南康県。
(5)道人 煉丹を服用し、仙術を求める人。
(6)龍図閣 閣の一。太宗の書、文集のほか、書籍、書画などを収蔵する。龍図閣学士・直学士・待制などの官が所属する。

14 吉兆報告の風潮とそれへの疑問


十二月二十一日、権三司使・丁謂(ていい)が『封禅祥瑞図』を献上し、朝堂にて百官に見せた。
 
封禅が行われてからというもの、士大夫らは争って吉兆の報告をし、賛・(しょう)(1)を献上した。崔立(さいりつ)のみは、「水害が徐州(2)(えん)(3)に起こり、旱害が長江・淮河(わいが)で続き、無為(4)では大風に、金陵(5)では大火に見舞われています。これらは天が驕慢を戒めているということです。天下に雲霧・草木の瑞兆が多いとのことですが、こんなものがどうして政治の言説といえるのでしょうか?」と言ったが、これは黙殺された。
 
(1)賛・頌 ともに人物をたたえる詩文。
(2)徐州 江蘇省徐州市。
(3)兗州 山東省兗州県。
(4)無為 安徽省無為県。
(5)金陵 江蘇省南京市の南。

15 后土祭祀の請願


三年(1010)六月、河中府(1)の進士・薛南(せつなん)および父老・僧侶・道士千二百人が汾陰(ふんいん)(2)で后土(3)を祭るよう請うた。
 
(1)河中府 陝西省永済市の西。
(2)汾陰 陝西省永済市の北。
(3)后土 地神。

16 汾陰での祭祀を準備


八月一日、「明年春、汾陰にて祭祀を行う。」と詔を発した。
 
二日、知枢密院事・陳尭叟(ちんぎょうそう)を祀汾陰経度制置使とし、王旦を大礼使とし、王欽若を礼儀使とした。

17 丁謂、封禅記を献上


冬十月十五日、丁謂が『大中祥符封禅記』を献上した。

18 黄河の吉兆の報告


十二月、陝州から黄河の水が清いとの報告があった。これを受け、集賢校理(1)晏殊(あんしゅ)が『河清頌』を献上した。帝は『奉天庇民述(ひみんじゅつ)』を著わし、宰相に示した。
 
(1)集賢校理 館職の一。

19 孫奭の上疏1


四年(1011)春正月七日、汾陰での祭祀に先立って、職務を怠る官員は許してはならぬと詔を下した。
 
このとき、大きな旱魃(かんばつ)があり、京師近隣の郡で穀物の価格が跳ね上がった。龍図閣待制・孫奭(そんせき)が上疏した。
 
「古の王は五年間卜征(ぼくせい)(1)を行い、毎年吉兆が重なるようにしました。吉兆が重なれば巡幸に行き、重ならなければさらに徳を修め、改めて占いました。陛下は初めて東方での封禅を終え、さらに西方でも儀式を行うことを考えておられます。しかし、これは古の王が五年間卜征を行って慎重を期したのとは趣を異にしています。これが今回の祭祀をやめるべき理由の第一です。
 
(1)卜征 皇帝が五年に一度、各地の州を巡幸する前に吉凶を占うこと。
 
そもそも汾陰の后土というのは、経典に記述が見当たりません。昔、漢の武帝が封禅を行おうとしました。そのためまず先に中嶽(ちゅうがく)で祭り、汾陰で祭り、それから郡県を巡幸し、ようやく泰山で封禅を行いました。いま陛下はすでに泰山での封禅を終え、さらに汾陰に行かれようとしています。これが今回の祭祀をやめるべき理由の第二です。
 
古くは円丘と方丘が天地を祭る場所でした。いまでは開封の南郊と北郊がこれにあたります。漢初は秦の制度を受け継ぎ、五畤(ごじ)(2)を建てて天を祭るのみで、后土を祭ることはなかったのです。それゆえ武帝は汾陰に(ほこら)を建てました。しかし、元帝・成帝以来、公卿(こうけい)の議論に従い、汾陰の后土を長安の北郊に移し、後代の王たちは汾陰を祭ることをしなかったのです。いま、陛下はすでに北郊を建てたというのに、これを捨て置いて遠く汾陰を祭ろうとしているのです。これが今回の祭祀をやめるべき理由の第三です。
 
(2)五畤 地名。陝西省鳳翔県の南。
 
西漢は(よう)に都を置き、汾陰近くに位置しました。いま、陛下は幾重にも連なる宮殿の門をくぐり、険阻な地を越え、軽々しく根幹の地としての京師を捨てようとしており、西漢の虚名にあこがれておられるのです。これが今回の祭祀をやめるべき理由の第四です。
 
河東は唐の王業の起源となった地です。唐も雍に都を置いたため、明皇(玄宗)は暇を見て河東に行き、后土を祭りました。聖朝(宋)の興りは唐とは事情が異なります。しかし、陛下はそのようなことを考えずに汾陰を祭ろうとしておられます。これが今回の祭祀をやめるべき理由の第五です。
 
昔、周の宣王は災害に遭ってそれを恐れました。それゆえ詩人はその中興を称え、賢主としました。近年、水害と旱害が相継いでいます。陛下にあらせられては御身を傾けて徳を修め、天の譴責(けんせき)に答えるのがよろしいかと存じます。どうして奸人(かんじん)に従い、遠く民を疲れさせ、遊んでばかりいて、国家の大計を忘れる必要があるのでしょうか?これが今回の祭祀をやめるべき理由の第六です。
 
雷というものは二月を啓蟄(けいちつ)(3)とし、八月を収声(4)とするものです。これが万物を養育するのですが、時期がずれていれば災厄をもたらします。いま、雷が冬に鳴っており、甚だしい災厄をもたらしています。これは天の意が警告を発し、陛下を戒めているのです。しかしながら、陛下はいまだそれを悟らず、天の意を損ないかけております。これが今回の祭祀をやめるべき理由の第七です。
 
(3)啓蟄 二十四節気の一。地中にいた虫がはい出してくる時期。
(4)収声 二十四節気七十二候の一。秋分の初候にあたる。雷が鳴り響かなくなる、の意。
 
民というのは、神の主であります。このため、聖王は先に民の生活を成り立たせ、その後に神のために力を尽くしました。いま、国家の建設事業は連年行われて終わることがなく、水害・旱害が繰り返し起こり、飢饉は多く、民を疲れさせて神に仕えようとしております。このような状況で神を祭るというのですか?これが今回の祭祀をやめるべき理由の第八です。
 
陛下が汾陰の后土を祭ろうとするのは、漢の武帝、唐の玄宗が各所を巡幸し、功績を石に刻んだことにならい、虚名を高めて後世に誇示しようとしているに過ぎません。陛下の天性の資質はたいへん英明なのですから、二帝(太祖・太宗)、三王を慕うべきであり、なぜ漢・唐の虚名を受け継ごうとするのですか?これが今回の祭祀をやめるべき理由の第九です。
 
唐の玄宗は奸人を寵愛し、天下は害悪に苦しみ、自ら流浪の身となって国が危機に陥り、唐と安禄山の兵が宮殿で戦いました。亡国の足跡はこの通りです。太平に慣れ、放縦で道義に反する行いを重ねた結果、国を災厄に陥らせたのです。いま、開元の時代を玄宗の盛大な功績だったと言う者がおりますが、これは陛下を(そそのか)して開元の時代の再来を演出させようとしているのです。私は切に陛下のためを思い、このような考えに反対しているのです。これが今回の祭祀をやめるべき理由の第十です。
 
私の言はまだ言い足りないことがあります。陛下が私の言を受け入れるべきとされるなら、少しくご下問を賜りたいと存じます。これで私の説を終わります。」
 

20 孫奭の上疏2


帝は内侍・皇甫継明(こうほけいめい)孫奭(そんせき)のもとへ遣わし、汾陰(ふんいん)の祭祀について問うた。孫奭は再び上疏した。
 
「陛下は汾陰に行かれようとしていますが、京師の民心は穏やかでなく、長江・淮河の民は物資の徴発に苦しんでいます。道理はこれを落ち着かせ、いたわることにあります。土木事業は終わることがなく、略奪が堂々と行われ、辺境に近いところで外国が軍を訓練しております。使者が行ったとしても、外国の考えをやわらげることができるとでもいうのでしょうか?
 
昔、陳勝が徭役と辺境防備に耐えかねて立ちあがり、黄巣が飢饉の混乱の中から現れ、隋の煬帝が高句麗の遠征に励んだため、唐の高祖が晋陽(太原)で挙兵し、後晋の少主(石重貴)は小人に惑わされ、耶律徳光(1)が中国を駆け巡りました。
 
陛下は奸人の言うがままに動き、遠く京師を捨て、連年の飢饉に苦しむ村を通り、経書にたがう長く廃れた祠を建てようとし、民の疲れを心配せず、辺境の問題を憂えずにいます。これでどうして今日の兵卒に陳勝なく、飢えた民に黄巣なく、英雄が近くに隙をうかがうことなく、外敵が遠くに隙をうかがうことがないなどと言えるでしょうか。
 
先帝がかつて封禅の儀式をとり行おうとしたとき、天の災いを恐れ、詔してとりやめました。いま、奸臣らは陛下が東封(泰山での封禅)に力を尽くされたことを賞賛し、先代の遺志を成し遂げようと考えています。先帝は北に幽州・(さく)(2)を平らげ、西に李継遷を討とうとされましたが、今に至るまで大きな功績はなく、これを陛下に託されました。しかし群臣は一謀でも献じ、一策でも図り、陛下が先帝の志を継ぐのを助けようともせず、かえって辞を低くして歳幣を増やし、契丹に講和を求めました。また、国土を失い爵位を無駄にばらまき、李継遷に対し一時の安息を得るような態度をとりました。君主が恥を忍び臣下が死ぬことを悲しまないのを戒めとし、下をだまし、上をだますのを恥とすべきです。
 
(1)耶律徳光 契丹の第二代皇帝。後晋は契丹の傀儡政権として誕生したが、高祖・石敬瑭(せきけいとう)の死後、馮道、景延広により石重貴が擁立され、景延広が契丹から独立する方針をとると、耶律徳光は後晋に侵攻して滅ぼした。
(2)朔州 山西省朔県。
 
彼らは祥瑞を捏造し、鬼神が現れたと偽り、東封を終えたばかりなのにすぐに西への巡幸を論議し、軽率に陛下の車を働かせ、飢えた民を虐げておきながら陛下が無事に帰還するのを願い、盛大な功績であると言おうとしているのです。これは、陛下が祖先の苦難に満ちた業績を、奸臣どもの僥倖(ぎょうこう)の元手として預けてしまうに等しいもので、私が嘆き悲しむ理由であります。
 
天地の神というものは、聡明にして公正であり、良い行いをすれば多くの幸いを下し、よこしまな行いをすれば多くの災いを下すものです。ひたすら籩豆(へんとう)(3)簠簋(ほき)(4)といった礼器に仕えて吉祥が得られるなど聞いたことがありません。
 
『春秋伝』には、『国が興ろうとするとき、民の要望を聞き、滅ぼうとするとき、神の要望を聞く。』とあります。私めは不必要な議論を重ねることはいたしません。ただ陛下がご英断を下されるのみであります。」
 
(3)籩豆 祭祀に用いる礼器。竹製のものを籩、木製のものを豆という。果物の砂糖漬けを盛る。
(4)簠簋 きび・あわを盛るための方形の礼器。
 
このとき、群臣は争って祥瑞を報告した。孫奭は再び上言した。
 
「まさにいま、野の(わし)、山の鹿について、いずれも吉兆として報告し、秋の旱害、冬の雷があっても、みなこぞってこれを祝っています。しかし誰もがみな、一歩引き下がっては腹のうちで陛下に背き、ひそかに笑っている者ばかりです。上天をだまし、下民をだまし、後世の人々をだますなど誰にできるでしょうか?人々の考えがこの通りならば、損なうものは小さくありません。陛下はいまの状況がいかに荒唐無稽かを深くご明察ください。」
 
帝は孫奭の言が忠心から出たものであることを理解していたが、これに従うことはなかった。

21 帝、京師を出発


四年正月十一日、帝は后土を祭る儀式について演習した。
 
二十二日、詔して天書が再び下った六月六日を天貺節(てんきょうせつ)とした。
 
二十三日、天書を奉って京師を出発した。

22 后土を祭る


二月八日、帝は潼関(どうかん)(1)に到着し、渭河(いが)(2)を渡った。近臣を送り、西嶽(せいがく)(3)を祭らせた。
 
(1)潼関 陝西省潼関県。
(2)渭河 渭水。潼関付近で黄河が北と西に分流する。そのうちの西に流れる川。
(3)西嶽 華山とも。潼関南西にある山。
 
九日、河中府に滞在した。
 
十三日、宝鼎(ほうてい)県に到着した。
 
十七日、后土地祇(ちぎ)を祭った。
 
十八日、大赦を発し、天下に三日間の酒盛りを許した。『汾陰配饗銘(ふんいんはいきょうめい)』・『河瀆(かとく)四海贊』を著わした。

23 在野の士を呼ぶ


在野の士・李瀆(りとく)劉巽(りゅうそん)を呼び寄せた。李瀆は足の病を理由にこれを辞退し、再拝した。使者をやって訪ねると、李瀆は代々儒学、墨家の学を手本とし、ひそかに世俗を避けることを学んだのだと自ら言った。李瀆は酒をたしなみ、人はこれをいいことだと勧めていた。李瀆は「疲れを癒し、病を治すものは、これをおいて他にない。好きなように余生を過ごす、これまた楽しいではないか。」とこれに答えた。
 
劉巽が着くと、大理評事(1)を授けた。
 
(1)大理評事 実際の職務をともなわない官名の一。

24 隠士、道士を呼ぶ


二十五日(1)、華州(2)に滞在した。隠士・鄭隠、李寧を呼び寄せ、茶・果物・(あわ)・絹を与えた。
 
(1)二十五日 原文は「乙巳」と記し、一日にあたる。『長編』は「己巳」と記し、二十五日にあたり、これに従う。
(2)華州 陝西省華県。
 
二十七日、閿郷(ぶんきょう)(3)に滞在した。道士・柴又玄(さいゆうげん)を呼び、無為の要諦(ようてい)について尋ねた。
 
(3)潼関の東。

25 陝州の隠士・魏野


三月一日、陝州に滞在した。陝州長官・王希に、民間の士・魏野を招こうとしたが、病と称して来なかった。上は、「麋鹿(みろく)(1)のように自由に生きる人の性分というのは、縄を抜けて思うがままにするものだ。病というのは間違って聞いたものとし、かたくなに引きこもっているのを許すとしよう。」と言った。
 
詔して州の長官に魏野を常にいたわらせるようにし、画工に彼の居所を描かせ、それを見た。魏野の住まいは陝州東の郊外にあり、草庵を構え、水と竹の景観が優れていた。琴を弾き詩を作るのを好み、清貧をもって聞こえていた。
 
以前、魏野は詩の中で寇準と王旦に辞職を願い出るよう風刺した。その豪胆さを認め、帝は居所から出てくるのを強要しなかった。
 
(1)麋鹿 麋は鹿の一種。

26 西京に滞在


六日、西京(1)に滞在した。
 
(1)西京 河南省洛陽市。
 
二十三日、諸陵に参拝した。

27 都へ帰還


夏四月一日、帝は汾陰(ふんいん)から都へ帰還した。宰相、親王以下の者たちに俸禄を進呈した。

28 五嶽に帝号を加える


九月二十一日、向敏中らを五嶽奉冊使とし、五嶽(1)に帝号を加えた。帝は朝元殿に御し、冊(2)を書いた。
 
(1)五嶽 東嶽の泰山、南嶽の衡山、西嶽の華山、北嶽の恒山、中嶽の崇山。諸説あって一定しない。
(2)冊 天地の神を祭るための文書。

29 会霊観を建てる


五年(1012)八月、会霊観を建て、五嶽を祭らせた。

30 王欽若ら、専横を強める


九月二十三日(1)、王欽若・陳尭叟(ちんぎょうそう)を枢密使とし、丁謂(ていい)を参知政事、馬知節を枢密副使とした。
 
このとき、天下は太平で、王欽若・丁謂は帝に封禅を勧め、彼らへの厚遇は日々増していた。王欽若は自身で道教に深く通暁し、多くの意見を奏上し、丁謂がこれに追従した。陳彭年・劉承珪(りゅうしょうけい)は、とうの昔に滅んだ儀式について、その知識をかき集めて講義し、道教の廟を多数建築した。林特に計算の才能があったため、彼を三司使とし、財貨を管理させた。この五人はつるみ、その行いは神秘とされ、「五鬼」と号した。
 
王旦は帝を諫めようとすれば、自分のしたことが彼らと同じであり、このままにしておけば帝の厚遇が得られる、という状態だった。李沆(りこう)には先見の明があったと今更ながらに思い、「李文靖(李沆の諡)こそ、まことの聖人であった。」と嘆じた。
 
王欽若は小柄で、うなじにいぼがあり、人は彼を「こぶ宰相」とあだ名した。性格は狡猾で、平気で嘘をつき、はかりごとにかけては人にぬきんでていた。朝廷に建設事業があるたびに、己を曲げて人とうまく妥協して事業を進めることができたため、これが帝の意にかなった。
 
馬知節は、みなが競って祥瑞を報告する中、これに賛同せず、常に帝に対し、「天下は安定していますが、戦を忘れ兵を捨てるようなことがあってはなりませんぞ。」と言っていた。
 
(1)原文は「戊子」とのみ記し、八月の日付としては換算できない。『宋史』巻八、真宗大中祥符五年九月の条に、「戊子、王欽若・陳尭叟並為枢密使・同平章事、丁謂為戸部侍郎・参知政事。」とあり、本文の内容と一致する。これに従い九月二十三日とする。

31 聖祖のお告げ


冬十月二十四日、帝は近臣に語った。
 
「夢の中で神人が玉皇(1)の命令を伝え、『以前、汝の祖・趙玄朗をして、汝に天書を授けさせた。いま、再び汝に天書を与えよう。』と言った。その翌日、またも夢の中で神人が聖祖の言葉を伝え、『私は西に座るので、斜めに六つの席を置いて待て。』と言った。この日、すぐに延恩殿に道場を設けた。初更(午後八時ごろ)に不思議な香りがしてきて、しばらくすると黄色い光が殿に満ちて聖祖が現れた。朕は殿下に再拝した。まもなく他の六人も現れ、聖祖に(ゆう)(2)して席に着いた。聖祖は朕に、『私は九人の人皇(3)のうちの一人で、趙氏の始祖である。これが最初の降臨で、再び降臨したときは軒轅(けんえん)黄帝であった。後唐のとき、また降臨して趙氏の一族を司り、いまはそれから百年になる。皇帝はよく民をいたわり、昔の志を忘れてはならぬぞ。』と言った。するとすぐに席を立って雲に乗って去って行った。」
 
(1)玉皇 道教でいう天帝。
(2)揖 片方の手の甲にもう片方の掌をのせる礼。
(3)人皇 古代の伝説上の王族。他に天皇・地皇がある。
 
王旦らはみな再拝して祝賀した。天下に詔して聖祖の(いみな)を避けるようにさせ、玄は元とし、朗は明とした。書籍の中の諱に触れる字は、その点画を抜くようにした。そして玄と元の音が似ているため、玄を真に改め、たとえば玄武は真武となった。
 
二十五日、大赦を行った。

32 聖祖の尊号を定める


閏十月五日、聖祖に尊号を加え、聖祖上霊高道九天司命保生天尊大帝とし、聖母に尊号を加え、元天大聖后とし、太廟の六室(1)に尊号を加えた。
 
(1)僖祖(きそ)・趙朓(ちょうちょう)、順祖・趙珽(ちょうてい)、翼祖・趙敬、宣祖・趙弘殷、太祖・趙匡胤、太宗・趙光義の廟室。
 
群臣は帝の尊号を加え、崇文広武感天尊道応真佑徳上聖欽明仁孝皇帝とした。
 
十四日、景霊宮、太極観を寿丘(2)に建て、聖祖、聖母を奉った。天下の天慶観に詔を下し、聖祖殿を増築させた。
 
(2)寿丘 山東省曲阜県の東北。
 
十七日、建康軍(南京市)に詔して玉皇、聖祖、太祖、太宗の尊像を鋳造させた。そして丁謂を奉迎使とし、玉清昭応宮にこれらの像を安置した。帝は百官を率いて郊外でこれらの像に拝謁した。また、詔を発して玉清昭応宮に天書を刻んだ。王旦を刻玉使とし、王欽若と丁謂がこれを補佐した。
 
二十四日、帝みずから祭祀の楽曲と二舞の名を考案し、文舞を「発祥流慶」、武舞を「隆真観徳」とした。

33 玉皇を祭る


十一月三日、帝はみずから玉皇を朝元殿に祭った。
 
十一日、王旦に門下侍郎(1)を、向敏中に中書侍郎(2)を与えた。内外の官も恩典を与えられた。玉清昭応宮使を置き、王旦がこれに就いた。
 
(1)門下侍郎 宋初にあっては実際の職務をともなわない官名の一。宰相に与えられる称号。正三品。
(2)中書侍郎 同上。
 
十四日、「汴水(べんすい)発願文」を著わした。

34 景霊宮を建てる


十二月五日、景霊宮を京師に建て、聖祖を祭った。

35 司天監の言


六年(1013)、春正月一日、司天監が、五星(1)が同じ色に輝いていると言った。
 
(1)五星 東の歳星(木星)、南の熒惑(けいわく)(火星)、中央の鎮星(土星)、西の太白(金星)、北の辰星(水星)。

36 亳州の官吏・父老、拝謁を願う


六月、(はく)州の官吏・父老三千三百人が宮殿に来て、太清宮で老子に拝謁するよう請うた。

37 孫奭の上疏3


八月一日、来春に帝みずから太清宮で老子に拝謁する旨、詔した。
 
十一日、太上老君に混元上徳皇帝の称号を加えた。
 
孫奭(そんせき)が上疏した。
 
「陛下は泰山で封禅を行い、汾陰(ふんいん)で祭祀を行い、太祖らの陵墓に参拝し、いままた太清宮を祭ろうとしておられます。みな、陛下はことごとく唐の玄宗の真似をしているのだと言い立てています。玄宗を美徳の君主と考えておられるのですか?それは違います。玄宗の亡国への足跡は深く戒めるに足るもので、私だけがそう考えているわけではなく、みなわかっていることです。近臣でこのことを言わないのであれば、よこしまな考えを抱いて陛下に仕えているということです。
 
玄宗の正道を外れた行いについて、異論を差し挟む者がおりませんでした。しかし、馬嵬(ばかい)(1)へ逃げこみ、兵士らが楊国忠を殺し、詔を偽った罪を請うと、ようやく自分に見識がなく、宰相の職務を任せる者を誤ったと悟ったのです。そのとき玄宗は自分を処罰すると言いましたが、その覚悟は遅きに失するものでした。
 
陛下におかれましては、早くに覚悟を決め、虚飾を抑え、よこしまな人間を退け、土木事業をやめ、亡国への足跡を踏むようなことはせず、玄宗のように後悔することのないよう願います。これが天下の幸福であり、国家の幸福であります。」
 
これに対し、帝はこう考えた。
 
「泰山を封じ、汾陰を祭り、陵墓を奉り、老子を祭るのは、玄宗に始まったのではない。『開元礼』(2)はいまの世にも用いられている。天宝の乱(安史の乱)があったからといって玄宗の治世が間違いであるとするのはおかしい。秦もひどい政治を行っていた。いまの官名・詔令・郡県は秦の旧制を踏襲している。他人に異論を差し挟まれたからといって祭祀をやめることはない。」
 
(1)馬嵬 陝西省興平県の西。安禄山軍の襲撃から逃れた玄宗一行はここへ逃げ込んだ。しかし、兵士らの要求により楊国忠、楊貴妃が殺害された。
(2)『開元礼』 158巻。唐、蕭枢(しょうすう)ら奉勅撰。玄宗の開元のときの礼制を記す。
 
そして『解疑論』を著して群臣に見せた。帝は孫奭が忠実であることを知っていたため、その言が率直に批判するものであっても、これを容認して退けなかった。

38 老子祭祀を準備


七年(1014)春正月、帝は(はく)州に行って老子に拝謁する準備をした。王旦に大礼使を兼ねさせ、丁謂に奉祀経度制置使を兼ねさせ、陳彭年が補佐した。

39 老子を祭る


十五日、天書を捧げ持って京師を発った。
 
十九日、奉元宮に滞在した。判亳州・丁謂が白鹿一頭、霊芝(れいし)九万五千本を献上した。
 
二十一日、王旦が混元上徳皇帝に詔書と印璽を献上した。
 
二十二日、老子に太清宮で拝謁した。亳州を集慶軍節度に昇格させ、毎年の税を十分の三免除した。太史(1)が含誉星が見えると言った。
 
二十三日、天下に三日の酒盛りを与えた。
 
(1)太史 太史局。天文の観測や暦の算定を行う官署。

40 京師に帰還


二月五日、帝が亳州から京師に帰還した。
 
十六日、天地を祭り、大赦を行った。

41 玉清昭応宮の竣工


十一月三日、玉清昭応宮が竣工した。
 
宮の造営を議論したとき、建設に十五年要すると見積もられたが、修宮使・丁謂が夜を徹して工事を行わせ、常に一枚の壁に絵を描かせて二本の蠟燭を支給し、七年で完成した。二千六百十の柱が用いられ、壮麗であった。部屋が少しでも計画と違っていれば、すでに金と宝石がちりばめられていても、劉承珪(りゅうしょうけい)が壊して作り直させた。このため、有司はその費用を一々計算しなかった。

42 玉清昭応宮を訪問


八年(1015)春正月一日、帝が玉清昭応宮に姿を見せた。宝石をちりばめた天書を宝符閣に安置し、帝の肖像画をその(かたわ)らに立てた。
 
宮殿に戻り、崇徳殿に御して祝賀を受けた。天下に大赦を行い、十悪(1)・法の歪曲・賄賂の罪以外はすべて許した。
 
帝は誓文を作って石に刻み、宝符閣の傍らに置いた。また、『欽承宝訓述』を作り、みなに示した。
 
(1)十悪 ①謀反(ぼうはん)…皇帝への危害。②謀大逆…皇帝の権威を象徴する営造物の損壊。③謀叛(ぼうはん)…偽政権に荷担する行為。④悪逆…直系尊属の殴打、夫の殺害など、儒教倫理に反する行為。⑤不道…四肢を解体する殺害など、人道に反する残虐な行為。⑥大不敬…皇帝の御物の盗み、皇帝の印章の偽造など。⑦不孝…直系尊属の犯罪の通報、直系尊属の死の詐称など、子孫として犯してはならない行為。⑧不睦…いとこの殺害の計画、夫の殴打など、一定範囲の親族に対して犯してはならない行為。⑨不義…地方長官の殺害、夫のための服喪の期間内の再婚など。⑩内乱…またいとこなど、一定範囲の親族との姦淫。

43 張詠の死去


九月、知陳州(1)・張詠が亡くなった。遺言の上奏書には、「宮・観を造営して天下の財を使い果たし、民を傷つけてはなりません。これは賊臣の丁謂が陛下をたぶらかしているのです。丁謂の首を斬って都の城門に置き、天下に詫びるのです。そして詠の首を斬って丁氏の家の門に置き、丁謂に詫びるのです。」と書かれていた。帝はその忠義に嘆息した。
 
(1)陳州 河南省淮陽県。

44 会霊観使を置く


九年(1016)春正月十一日、会霊観使を置き、丁謂をこれに任じた。

45 玉清昭応宮に参拝


天禧(てんき)元年(1017)春正月一日、改元を行った。玉清昭応宮に参拝し、捧げものを献上した。玉皇大天帝に詔書と印璽・袞服(こんふく)(1)を献上した。
 
二日、聖祖に詔書と印璽を献上した。
 
九日、太廟に諡冊(しさつ)(2)を献上した。
 
十一日、都の南郊にて、天地に謝礼し、大赦を行った。天安殿に御し、冊号を受けた。
 
十五日、『欽承宝訓述』を著し、群臣に示した。
 
(1)袞服 龍の絵柄が入った、皇帝の礼服。
(2)諡冊 諡を記した詔書。

46 王曽、会霊観使を辞退


三月、王曽に会霊観使を兼任させようとしたが、王曽は辞退した。
 
王欽若は天書や瑞祥を背景に権勢家としての地位を固め、その裏では自分と意を異にする者を排除していった。このとき、詔して王曽を会霊観使にしようとしたが、王曽は王欽若を推薦した。帝はこれに不満であった。帝は王曽に、「大臣とは国事に従うものだ。なぜこれに背くのだ?」と言った。王曽は額を地につけて言った。「君主が諫言に従うのを明と言い、臣下が忠義を尽くすのを義と言います。陛下は私が愚か者であるのをご存知でなく、宰相の任に()えないのに用いておられるのです。私は義を知るのみで、国事に背くことを知りません。」

47 王曽、参知政事を辞任


九月八日、王曽が参知政事を辞任した。
 
王曽が会霊観使を辞退すると、上はこれを不満に思い、王欽若もたびたびこれを(そし)った。王曽が賀皇后(1)家の旧邸を購入したとき、賀氏の家族がまだ残っているのに土を担がせてその門に置いたため、賀氏が朝廷に訴えた。このため王曽は参知政事を辞めた。
 
(1)賀皇后 929~958。太祖の最初の妻。兄が賀懐浦、兄の子が賀令図。
 
王旦は療養中にあってこれを聞き、「王どのは廉直であり、これまでの人望と功績は非常に優れていた。過去を振り返ってもこのような人物は見たことがない。」と言った。また、辞職したわけを問い、こう言った。
 
「王どのが会霊観使を人に譲ったのは上意に反するものでした。しかし、その言葉は率直でありながら気性は穏やかで、聡明で物怖じすることがありません。官に用いられると、その有能さは周知の通りです。私など政府に二十年おりますが、陛下のご下問にお答えするとき、ご意思に少しでも逆らうところがあれば尻込みして落ち着かないのです。これを見ても彼の偉大さが分かろうというものです。」

48 王旦の死


十四日、王旦が亡くなった。
 
王旦は大中祥符のときから、大きな式典があるたびに天書を捧げ持ち、式を執り行っていたが、いつも怏々(おうおう)として楽しまなかった。臨終にあたり、自分の子らに、「私はこれといって過ちを犯したことはないが、ただ天書の一件だけはわが過ちにして償うことができない。私が死んだら、髪を剃って黒の僧衣を着せ、棺桶に入れるように。」と言った。王旦の諸子は遺言の通りにしようとしたが、楊億がこれを禁じたため、とりやめとなった。
 
王旦は真宗から非常な信任を得ていたものの、真宗に正論を言って最後まで自らの志を通すことができず、あるいは馮道になぞらえられると人は言った。

49 祥源観を建てる


二年(1018)夏、皇城司(1)が、「保聖営の西南で、兵卒が亀と蛇を見ました。そこで真武祠(しんぶし)を建てました。泉が祠のそばに湧き出て、疫病にかかった者がこれを飲むと、たいへんな効き目があるのです。」と言った。そこで詔して、その地に祥源観を建てた。
 
任布(じんぷ)が、「奇怪な話で世間を惑わすべきではありません。」と上疏したが、帝は取り合わなかった。
 
(1)皇城司 宮殿の門の開閉を司る官署。

50 孫奭の上疏4


三年(1019)六月九日、王欽若が同平章事を辞めて判杭州(1)となった。寇準を同平章事とし、丁謂を参知政事とした。
 
これ以前、巡検・朱能が、内侍都知・周懐政の権勢を背景に、天書が乾祐山に降ったと偽った。このとき寇準は判永興軍で、娘婿の王曙(おうしょ)が朝廷におり、周懐政と仲がよく、寇準に朱能と親しむよう勧め、帝に天書が降ったと報告した。帝は詔して天書を禁中に迎え入れた。みなこれが偽りであると知っていたが、帝はひとりこれを信じた。諭徳(2)・魯宗道は、「奸臣がでたらめを言って帝のお耳を惑わしているのです。」と言った。
 
(1)杭州 江蘇省杭州市。
(2)諭徳 皇帝に侍従し、教諭する官。正四品下。
 
知河陽(3)孫奭(そんせき)が上疏した。
 
「朱能はこすずるい小人で、でたらめに祥瑞が現れたと言い、陛下はこれを信じ、尊貴な地位を曲げてこれを信奉し、殿中深くに入れて安置されました。上は朝廷から下は巷間(こうかん)まで、みなが心を痛め、または心の中で笑っておりますのに、あえてこれを言う者がおりませぬ。
 
昔、漢の文成将軍(4)は、帛書(はくしょ)(絹の書付け)を牛に食わせ、牛の腹の中に奇書があると言うと、武帝はそれを殺して書を見つけ、その筆跡が文成将軍のものであると悟りました。また、五利将軍(5)がでたらめに方術を説きましたが効き目がなく、二人とも誅されました。先帝のとき、侯莫陳利用なる者がおり、方術によって先帝から非常な寵愛を受けましたが、一たびそれが偽りであることが発覚すると、鄭州(6)に誅されました。漢の武帝は偉大な人物というべきであり、先帝は英断を下されたというべきであります。
 
(3)河陽 河南省孟県の南。
(4)文成将軍 漢代の方士・少翁のこと。武帝が文成将軍の称号を与えた。
(5)五利将軍 方士・欒大(らんだい)のこと。
(6)鄭州 河南省鄭州市。
 
唐の玄宗は「霊宝符」、「上清護国経」「宝券」などを入手しましたが、これらは王鉷(おうこう)・田同秀らの作ったものでした。しかし玄宗は彼らを処刑することができず、邪悪な説に誘惑され、徳は天を動かし、神は自分に福を授けるであろうと自ら言いました。太上老君は聖人であります。もし本当に言葉を降されたのなら、混乱は起こらなかったはずです。しかし、唐は安史の乱以来、天子が朝廷を逃げ出し、長安・洛陽両都が壊滅し、四海が動乱に陥り、天下太平とはほど遠かったのです。玄宗がどうにか宮殿に帰った後も、李輔国に脅かされて居所を移され、失意のうちに亡くなりました。皇帝の寿命に限りがなく、永遠に生きるなどあり得ません。
 
玄宗に聡明さが備わっているのに災いがかつてないほどに大きくなったのは、長らく帝位にあって驕慢(きょうまん)な性格となったことによります。人の許しなど構うことなくふるまい、諫言に聞く耳を持たず、心は平時の静けさに安居し、耳はおもねりの言葉に慣れきり、内は寵臣に惑わされ、外は奸人に政治を任せ、鬼神を祭り、(あや)かしを崇拝しました。今日楼閣に太上老君を見たと言い、翌日山中に太上老君を見たと言い、大臣は無駄に禄を食んで職務を果たさず取り入ろうとするばかりで、正直な者は恐れをなして黙りこくってしまいました。異端な方術に惑わされ政治の常道を乱し、民心は離れ急激な変化が起こりました。まさにこのとき、太上老君がどうして戦争をよしとするのでしょう。宝符などにどうして災いを除くことができましょう。朱能のしていることは、これに類するものです。
 
陛下はどうか漢の武帝の偉大さを思い起こし、先帝の英断にのっとり、玄宗が災いを招いたことを省察し、災いや混乱を生まないようにしていただきたく存じます。」
 
帝はこれを聞き入れなかった。寇準は朱能の言により用いられることとなった。
 
このとき、王欽若は帝からの厚遇が薄れていた。このとき商州(7)で道士・譙文易(しょうぶんえき)が捕らえられ、禁書を多く隠し持っており、方術によって六丁六甲神(8)を使役することができると言っていた。王欽若はこの者とともに自邸に出入りし(9)、これが原因となって(10)辞職し、寇準を宰相に代えた。
 
寇準が召し出されたとき、彼の門人で、「河陽に着いたら病と称して外任(地方赴任)を申し出るのが上策です。帝にお会いするのであれば、乾祐山の天書が偽りであると伝えるのが次策です。最も良くないのは再び宰相となって、平素からの心がけを通せなくなることです。」と勧める者がいた。寇準は機嫌を損ねた。
 
(7)商州 陝西省商県。
(8)六丁六甲神 道教の武神。六丁は女神で、丁卯(ていぼう)、丁巳(ていび)、丁未(ていび)、丁酉(ていゆう)、丁亥(ていがい)、丁丑(ていちゅう)。六甲は男神で、甲子、甲戌(こうじゅつ)、甲申、甲午、甲辰、甲寅(こういん)。
(9)自邸に出入りし 『宋史』巻283、王欽若伝に、「又明年、商州捕得道士譙文易、畜禁書、能以術使六丁六甲神。自言嘗出入欽若家、得欽若所遺詩。」(また明年、商州で道士・譙文易が捕らえられ、禁書を多く隠し持っており、方術によって六丁六甲神を使役することができると言っていた。また、王欽若の家に出入りし、詩を贈られたことがあると言った。)とある。よって、訳文の通り改める。
(10)これが原因となって 前注の引用文の続きに、「帝以問欽若、謝不省。遂以太子太保出判杭州。」(帝は王欽若を問い詰めたが、謝罪はしたものの悔い改めなかった。そのため太子太保の称号を与えて判杭州に出した。)とある。よって、訳文の通り補う。

51 真宗崩御


乾興元年(1022)二月十九日、帝が崩御した。

52 真宗を葬る


冬十月、永定陵に真宗を葬り、天書を陪葬した。
 
<史臣は言う、真宗は英邁(えいまい)な君主であった。即位した当初、宰相の李沆(りこう)はその聡明さを良い方向に導こうと尽力し、たびたび災害について報告することで(おご)った心が芽生えないようにした。これは見解のある行動であった。
 
澶淵(せんえん)の盟が結ばれると、封禅の儀式をとり行い、祥瑞がしきりに報告され、天書がたびたび降り、これを宮中に入れて安置した。一国の君臣が病のように狂った。なんとおかしなことではないか。後に『遼史』が編纂され、契丹の習俗について読んだとき、『宋史』の精妙な言を求めるようになった。
 
宋は太宗の代の幽州での敗北以来、戦を避けるようになった。契丹の主は天と称し、后は地と称し、毎年天を祭ったが、それの意味を知らなかった。狩をして自分で飛んでいる(かり)に触れておきながら、雁が自ら地に落ちたのだと言い、これを天の賜りものだと称え、祭祀のときにこれを天に告げて誇示した。
 
おそらくは、宋の諸臣が契丹のこの風習を知ったことにより、また、君主に厭戦(えんせん)の考えがあるのを見て、神の教えの言葉を進めたのだ。これにかこつけて敵の耳目を惑わせようとし、中国を狙う企図をかき消すに十分だったのではないか。しかし、本来の政策に立ち返って敵を防ごうとは考えず、誤ったやり方に陥り、その計略も祭祀に頼るという枝葉のものであった。
 
仁宗は天書を真宗の陵墓に陪葬した。なんと賢明なることか。>

53 玉清昭応宮の焼失


仁宗天聖七年(1029)六月、大雨が降り、地震が起こり、雷が鳴り、玉清昭応宮が燃えた。詔して守衛の者を御史獄(牢獄)に捕らえた。太后は泣きながら大臣に言った。
 
「先帝は天を尊び道を尊崇し、力を尽くしてこの宮を完成させたのです。いま一夜にして燃え尽きてしまい、ただ長生、崇寿の二つの小殿があるのみです。これでどうして先帝の遺志を継いでいると言えるでしょう。」
 
范雍(はんよう)はこれに抗して言った。「玉清昭応宮はすべて焼失してしまえばよいのです。先代はあの宮の建設に天下の財力を使い果たしました。急遽灰燼に帰したのは、人の意思によるものではありません。もし残存している部分から宮を修復しようとすれば、民は命に堪えきれません。天の戒めよるものではないからです。」
 
王曽・呂夷簡もこの言に賛同した。御史中丞・王曙(おうしょ)もまた言った。
 
「玉清昭応宮の建設は経書の文章にはないもので、天の変異が警告をもたらしているのです。あの宮を更地(さらち)にし、一切の祭祀をやめ、天の変異に答えるべきです。」
 
右司諫・范諷(はんぷう)は、「これは天の変異であります。守衛を獄に入れておくべきではありません。」といった。太后と帝は彼らの言うとおりにすべきと悟った。守衛の罪を減じ、詔を下して修復は行わないこととし、先の二殿を万寿観とし、諸宮観使を廃止した。