巻61 宗沢守汴

Last-modified: 2024-01-01 (月) 07:06:03

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高宗建炎元年(1127)五月二十一日、宗沢を知襄陽(じょうよう)府とした。

宗沢は応天府で帝に謁見して興復の大計について述べた。帝は宗沢を応天府に留めようとしたが、黄潜善らが阻んだため、襄陽に転出した。

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六月二十七日、宗沢を東京(とうけい)留守とした。

宗沢が襄陽にいたとき、黄潜善が再び和議を唱えていると聞き、上奏した。
「金人が再び襲来してから、朝廷はまだ一将を任命することもせず、一師を出すこともせず、奸臣(かんしん)(あした)に一言を進めて和睦を勧め、暮れに一説を入れて盟約を結ぶよう求め、ついに二帝が北へ連れ去られ、国家は恥を(こうむ)りました。陛下は怒りに震え、官を昇進・降格させ、王室を再建されようとしているものと思います。

即位されて四十日、いまだ大号令を聞かず、ただ刑部に対する指示があるのみで、河東の東・西、陝西(せんせい)()(1)・解(2)に赦令を頒布(はんぷ)することもできておりません。これは天下の忠義の気風を損ない、自らその民とのつながりを断つということです。私は愚鈍で惰弱でありながら、自ら矢石を冒し、諸将の先駆けとなり、身を捨てて国恩に報いる所存です。」
帝はこの上奏文を読んで勇壮であると称えた。

(1)蒲 山西省(しつ)県。
(2)解 解池。山西省にある産塩池。

開封(いん)が欠員となると、李綱は言った。
「旧都の回復は宗沢でなくばできません。」
そこで宗沢を東京留守・知開封府とした。

このとき敵の騎兵が黄河のほとりに駐屯し、(かね)の音が日夜こだまし、都城の(やぐら)が取り壊された。兵と民が雑居し、盗賊が横行し、人情は混沌とした。宗沢の権威と人望は強く、開封に到着すると賊数人を逮捕・処刑し、下令した。
「盗賊は盗んだものの軽重を問わず、すべて軍法により罰する。」
これにより盗賊はいなくなった。軍民をいたわり、櫓を建て直し、しばしば出撃して敵をくじき、帝に京師に帰るよう上奏した。にわかに詔が下り、荊湖(けいこ)襄陽(じょうよう)・江南・淮南(わいなん)が巡幸に備えた。宗沢は再び上奏した。
「開封の物価と市場は平時と変わらなくなりつつあり、将兵・農民・商人・士大夫の忠義ある者たちは、みな陛下が速やかに京師に帰り、人心を慰めることを願っております。これに異議を唱える者は、張邦昌(ちょうほうしょう)のような輩が金人を手助けしているに過ぎません。」

しばらくして、金人は使者を遣わし、その者に()の国号を名乗らせて開封に向かわせた。宗沢はこの使者を捕らえ、斬るよう訴えた。詔により使者を別館に留置すると、宗沢は上奏した。
「金人が楚を名乗ってわが方の虚実をうかがおうというなら、これを斬ってその奸計(かんけい)を破るようにしていただきたく思います。しかし陛下が人の言に惑わされ、彼らを厚遇するならば、私めは詔を受け取ることなく、国の弱さを示すことになります。」
帝は直筆の書簡により宗沢を説得し、使者を釈放した。

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真定・懐州(1)・衛州(2)では金兵の勢いが盛んで、武器を整えて攻め入ろうとしていた。宗沢はこれを憂え、黄河を渡り、諸将に対処の仕方をともに話し合い、失地を回復することを約束した。都城の四方に使者を置き、招集した兵を置き、戦車千二百乗を造った。また、形勝の地に拠り、堅壁二十四所を城外に建て、黄河沿いに鱗のように並べて連なった砦とし、河東・河北の山砦(さんさい)水砦(すいさい)の忠義ある民兵を集結した。ここにおいて陝西(せんせい)・京東・京西諸路の人馬は宗沢の指揮に従うことを望むようになった。宗沢はまた五丈河を開いて西北の商人が行き来できるようにした。

防備が整うと、宗沢は何度も上奏して帝に都に帰るよう訴えたが、帝は黄潜善の意見を採用し東南に行くことを決め、これに返答しなかった。

(1)懐州 河南省沁陽(しんよう)市。
(2)衛州 河南省衛輝市。

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秉義郎(へいぎろう)・岳飛は法を犯し処刑されようとしていた。宗沢は岳飛の姿を見るや称賛し、
「将の器だ。」
と言った。このとき金人が汜水(しすい)(1)を攻めた。宗沢は岳飛に五百騎を与え、功を立てて罪を償わせることにした。岳飛は大いに金人を破って帰還した。宗沢は岳飛を統制に昇格させ、言った。
「そなたの智勇と才能は(いにしえ)の良将も及ぶものではない。だが、野戦を好むのは万全の計とはいえん。」
そして岳飛に陣形図を渡した。岳飛は言った。
「陣を敷いて戦うのは兵法の常です。運用の妙は一心にあります。」
宗沢はこの言に賛同した。岳飛はこれによりその名を知られるようになった。

(1)汜水 河南省滎陽(けいよう)市。

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秋七月、宗沢は上奏した。
「いま夷狄(いてき)の勢いはなお盛んで、群盗が蜂起しています。最近伝わる驚くべき知らせを聞くに、すでに東南への巡幸が計画されているとのことです。四海の猜疑心を増し、両河を度外に置いて人心の離反を招くことが恐れられますが、いまだ陛下のお考えを翻すよう説得する者がおりません。」
返答はなかった。宗沢は再び上奏した。
「陛下が(べん)にお戻りになられるのは人心の欲するところであり、みだりに巡幸をお考えになるのは人心の憎むところであります。」
やはり返答はなかった。宗沢は直言した。
「陛下は何ゆえ祖先から続く二百年の基業を捨てて夷狄に与えてしまうのですか?いま陛下がお帰りになり、王室が再建されれば、中興の業は成功します。私が軽率であるとお思いなら、側近の将兵に試みにこれを読ませてください。一、二の大臣にとどまらずこのことを(はか)っていただければ天下の幸甚でございます。」

宗沢が上奏するごとに、帝は上奏文を中書省に送った。黄潜善・汪伯彦(おうはくげん)は宗沢は正気ではないと言ったが、張慤(ちょうかく)はひとり言った。
「宗沢のような忠義ある者が数人でも得られれば、天下は安定するだろう。」
二人は言葉に詰まった。

6


冬十月、帝は揚州に向かった。

宗沢は上奏して(いさ)めた。
「京師は天下の中心であり、放棄してはなりません。昔、景徳(真宗・1004~07)のとき、契丹が澶淵(せんえん)(1)に侵入しましたが、王欽若(おうきんじゃく)は江南の人であったため、金陵(2)(みゆき)することを勧めました。陳尭叟(ちんぎょうそう)閬中(ろうちゅう)(3)の人であったため、成都に幸することを勧めました。ただ寇準(こうじゅん)だけは毅然として親征するよう訴え、急遽その策が用いられて功をなしました。」
そして五事を上奏し、黄潜善・汪伯彦(おうはくげん)が南幸を勧めていることの過ちを直言した。

(1)澶淵 河南省濮陽(ぼくよう)市。
(2)金陵 江蘇省南京市。
(3)閬中 四川省閬中市。

このとき両河の多くの地が金に奪われたが、両河の民は朝廷の旧恩を忘れず、各所で紅巾(こうきん)を結成して城や村に攻め入り、建炎の年号を用いた。金人はやや引き下がった。帝の南幸を知っても離散することはなかった。

宗沢は再び上奏した。
閭勍(りょけい)王彦(おうげん)に大軍を率いて城と砦を平定させたいとお思いならば、陛下には速やかに都にお帰りいただきたく、さすれば私のこの考えが万全を期すことができます。奸人(かんじん)の企みにだまされ、都にお帰りにならないならば、陛下は私の言うとおりに計画され、奸臣に邪魔されて国家の大計を誤ることのないようにしてください。軍を並べ出征し、胡地の(ちり)を掃き清め、しかる後に陛下を迎えて都に帰り、奸臣の口を塞いで天下の心をすっきりさせるべきです。」
帝は称賛の詔を下してこれに答えた。

7


十二月、宗沢は金人が(べん)に侵入しようとしていると知り、劉衍(りゅうえん)を滑州に、劉達を(てい)(1)に向かわせ、勢力を分散させた。諸将に黄河の橋を守り、大軍の集結を待つよう伝えた。兀朮(ウジュ)は汴に向かおうとせず、夜に黄河の橋を破壊して去っていった。

(1)鄭州 河南省鄭州市。

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二年(1128)春正月、ウジュは鄭州から白沙(1)に行き、汴京(べんけい)に迫り、都の人々は震え上がった。属僚がどうすべきか問うと、宗沢は言った。
「何を慌てることがある?劉衍(りゅうえん)らが敵を防ぐだろう。」
そして精鋭数千を選び、敵の背後に回りこんで、その帰路に待ち伏せさせた。金人は劉衍と戦っているところであり、伏兵が襲いかかると前後から挟撃する形になり、金人は敗れた。

粘没喝(ネメガ)西京(せいけい)に拠り、宗沢との持久戦になった。宗沢は部将の閻中立(えんちゅうりつ)郭俊民(かくしゅんみん)・李景良らに兵を率いて鄭州に向かわせた。そして敵に遭遇し、大いに戦ったものの敗北し、閻中立は戦死し、郭俊民は降伏し、李景良は逃亡した。宗沢は李景良を捕らえて斬った。ほどなくして郭俊民と金の将が書状を持って宗沢を金に招こうとしたが、宗沢は彼らを斬った。

劉衍が帰還すると、金人は滑州に攻め入り、宗沢の部将・張撝(ちょうき)が救援に来た。張撝は滑州に到着したが、衆寡敵せず、ある者が逃げるように言うと、張撝は言った。
「逃げておめおめと生き延びるなど、何の面目あって宗公に(まみ)えようか!」
そして力戦して死んだ。宗沢は張撝の急を聞きつけ、王宣を救援に向かわせたが間に合わなかった。だが、金人と大いに戦って破り、敗走させた。宗沢は王宣を知滑州とした。金人はこれ以後東京(とうけい)に侵入することはなかった。

(1)白沙 河南省鄭州市の東。

9


宗沢は金の将でもと遼の臣である王策を黄河のほとりで捕らえた。縄を解いて金人の事情を尋ね、詳しい情報が得られ、大挙の計を決した。宗沢は諸将を呼んで言った。
「お前たちには忠義の心がある。力を合わせて敵を殲滅(せんめつ)し、二帝を帰還させ、大功を立てるのだ!」
言い終わると涙を流し、諸将はみな奮い立った。

宗沢は帝に都に帰るよう上奏した。
「私は陛下のために都城を守り、去年の秋から今春まで、三か月になります。陛下がすぐに帰らなければ、天下の民は誰を戴けばよいのでしょうか?」
帝は返答しなかった。

宗沢の権威は日増しに強まり、敵はその名を聞いて恐れ、中国人に対して言うとき、必ず「宗爺爺(そうやや)」と称した。

10


二月十一日、河北の盗賊・楊進(ようしん)らが宗沢に降伏した。

楊進は三十万人を集め、丁進・王再興・李貴・王大郎らとそれぞれ数万人を擁し、京西・淮南(わいなん)・河南・河北を往来・略奪した。宗沢は人をやって利害を説き、彼らを帰順させた。王善という河東の盗賊の巨魁(きょかい)がおり、七十万人と万乗の車を擁し、都城を拠点にしようとしていた。宗沢は王善の軍営に駆けつけ、泣きながら言った。
「朝廷の危難のとき、そなたのような者が一人、二人いれば、敵の憂いとなろう。今そなたが功を立てるときであり、この機を失してはならん。」
王善は感涙して言った。
「力を尽くしましょう!」
そして鎧を脱いで降った。

11


五月、宗沢は群盗を帰順させて城下に集め、兵を募り食糧を蓄え、諸将を呼んで黄河を渡る日を定め、諸将はみな泣きながら命令を聞いた。宗沢はおおむね以下の通り上奏した。
「祖先以来の基業は惜しむべきであります。陛下の父母兄弟が砂漠に連れ去られ、日々救援が望まれます。西京(せいけい)の陵墓は敵に占拠され、今年の寒食節(1)はいまだ祭るための土地がありません。両河・二京・陝右(せんゆう)淮甸(わいでん)では、百万の民が塗炭の苦しみに陥り、湖外に南幸しようとすれば、奸邪(かんじゃ)の臣が一に敵に方便をもたらす計をなし、二に陛下の親族がみな南に置かれる故をなすのです。いま都城は守りを固め、兵器は準備が整い、士気は鋭くなっております。陛下におかれましては万民の敵愾(てきがい)の気を削ぐことなく、東晋の既覆の轍にならうようお願い申し上げます。」
上奏文が届くと帝は詔を下し、日を選んで都に帰ることにしたが、結局は実行されなかった。

(1)寒食節 冬至後百五日に当たる日。この日の前後三日間、火をたくことを禁じ、あらかじめ調えておいた食物を食し、大麦粥を作り、闘鶏などの遊戯を行う。

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宗沢は王彦(おうげん)の兵を呼んで(べん)に帰らせ、滑州に駐屯させた。

これ以前、王彦は岳飛ら十一の将と七千人を率い、黄河を渡り新郷(1)に着いた。金兵の勢いは盛んで、王彦はそれ以上進もうとしなかった。岳飛はひとり兵を率いて激しく戦い、金軍の旗を奪って振った。諸軍は奮い立ち、新郷を奪還した。翌日、侯兆川で戦い、岳飛は身に十余創を負ったが、兵はみな死闘して再び金軍を破った。食糧が尽き、岳飛は王彦の軍営に行き食糧を渡すよう求めたが、王彦は許さなかった。岳飛はさらに北に行き、太行山(2)で金人と戦い、金の将・拓跋耶烏(たくばつやう)を捕らえた。数日駐留していると再び敵と遭遇した。岳飛は単騎で丈八鉄槍(てっそう)を持ち、金の将・黒風大王を刺し殺し、金人は敗走した。岳飛は王彦が自分を嫌っているのを知ると、兵を率いて宗沢のもとに行った。宗沢は岳飛を留守司統制とした。

王彦は戦いに何度も勝っていることから、州郡に檄文(げきぶん)を流した。金人は大軍が来るものと思い、数万騎を率いて王彦の砦に迫り、幾重にも包囲した。王彦は衆寡敵しないため包囲を突破して逃げた。諸将も敗走し、王彦は共城(3)の西の山を保ち、腹心を送って両河の豪傑を集結し、再挙を図った。金人は王彦の窮迫に乗じてその首を懸賞にかけた。王彦は部下が心変わりするのではないかと案じ、夜寝ているときにしばしば居場所を移した。部下たちは王彦の心情を察し、互いの顔に「赤心報国誓殺金賊」の八字を入れ墨し、他意のないことを示した。王彦は感激し、士卒を愛し、甘苦をともにした。

(1)新郷 河南省新郷市。
(2)太行山 河北省と山西省の境目に位置する山脈。
(3)共城 河南省輝県市。

ほどなくして、両河各地が呼応し、忠義の民兵の首領・傅選(ふせん)孟徳(もうとく)劉沢(りゅうたく)・焦文通らが王彦につき従い、十余万人が数百里に渡って並び、王彦の誓いを聞いた。金人はこれを疎ましく思い、首領を呼んで大軍により王彦の砦を破らせようとした。首領は(ひざまず)いて泣きながら言った。
「王都統の砦は鉄石のように堅く、容易には落ちません。」
このため金人は騎兵をやって王彦の糧道を阻もうとした。王彦は兵を並べてこれを待ち構えており、多数を斬首・捕獲した。

ここに至り、宗沢は王彦が孤軍で進むことができないのを恐れ、王彦を呼んで作戦を話し合うことにした。王彦は諸砦(しょさい)の将を呼び、方略を授けて兵が集まるのを待ち、万余人で先発した。金人は大軍でこの後をつけたが、攻撃はしなかった。王彦の軍が汴に到着すると、宗沢は兵を都城近辺に駐屯させて都を守らせた。王彦は滑州の沙店に留まった。

宗沢は上奏した。
「私はこの暑月(六月前後)に乗じ、王彦らに滑州から黄河を渡り、懐・衛・(しゅん)(4)・相(5)などの州を取らせようとし、王再興らに(てい)州からまっすぐ西京(せいけい)の陵墓を守りに向かわせようとし、馬拡らに大名から(べい)(6)・趙州(7)・真定を取らせようとし、楊進(ようしん)・王善・丁進らに兵を率いて並進させようとしました。黄河を渡ろうとすれば、これに応じる山砦の忠義の民は百万にとどまりません。陛下は速やかに京師にお帰りになってください。私は自ら矢石を冒して諸将の先駆けとなりましょう。さすれば中興の業は必ず成功します。」
上奏文は受理されたが、黄潜善らが宗沢の成功を忌み嫌い、宮中から帝に渡るのを阻んだ。

(4)濬州 河南省(しゅん)県。
(5)相州 河南省安陽市。
(6)洺州 河北省邯鄲(かんたん)市の北東。
(7)趙州 河北省趙県。

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秋七月、宗沢が死去した。

宗沢は群盗を招集し、兵を集め食糧を蓄え、中路の義兵や燕・趙の豪傑を集結し、黄河を渡れば復興の日は近いと言った。帝に都に帰るよう前後二十回余り上奏したが、いずれも黄潜善・汪伯彦(おうはくげん)により阻まれた。黄潜善・汪伯彦は宗沢が謀反を起こすのではないかと疑い、郭仲荀(かくちゅうじゅん)を副留守にして監視した。宗沢は憂いと憤りのため病にかかり、背に(はれもの)ができた。諸将が見舞いに来ると、宗沢は驚いて言った。
「二帝が連れ去られから、私は憤激してここに至った。お前たちが敵を倒すことができれば、私は死んでも恨みはない。」
みな涙を流して言った。
「力を尽くします!」
諸将が退出すると、宗沢は嘆じて言った。
「出陣するもいまだ勝利せず、この身は先んじて死することもなく、長らく英雄が涙で(えり)を満たすことになった。」
一語として家のことには触れず、ただ「黄河を渡れ」と三たび連呼して死去した。享年七十。

都の人々は慟哭(どうこく)した。訃報が伝わると観文殿学士を贈られ、忠簡と(おくりな)された。宗沢の子・宗穎(そうえい)は軍府にいて士心があり、都の人々は宗穎に父の職務を継がせるよう求めた。しかし、すでに杜充(とじゅう)を宗沢に代えるよう命が下っており、これは許されなかった。杜充は冷酷かつ無謀であり、汴に到着すると宗沢の方針をことごとく変えてしまった。このため豪傑たちの心は離れ、城下に集まった盗賊たちも再び略奪を繰り返すようになった。

<史臣は言う、二帝が北へ連れ去られ、国家は主を失ったが、宗沢が一呼すれば河北の義軍数十万がこれにこだまするかのように応じた。宗沢の忠義には広く人を動かすものがあった。当時の政治家たちがこれを妨げなければ、二帝が帰還し、旧都を復するのに時間を要しなかっただろう。黄潜善・汪伯彦は有能な者を憎み、その者が功績を上げるのを忌み、高宗は奸人(かんじん)の口に惑わされ、言いなりになって宗沢をうまく用いることができなかった。宗沢は河北奪還の志を信じることができず、発憤して死んだ。悲しいことだ。>

14


宗沢の死後、王彦(おうげん)は指揮下の兵馬を東京(とうけい)留守司に与え、側近の兵を率いて行在(あんざい)に行き、黄潜善・汪伯彦(おうはくげん)に会った。そして両河の忠義ある民は首を長くして帝の軍の到来を待ち望んでいると力説し、人心の支持のもと大挙して北伐に向かうよう訴え、その言葉は憤激に満ちていた。二人は大いに怒り、帝の命令を下して王彦を罷免し、御営平寇(へいこう)統領にするよう求めた。王彦は病と称して引退した。