巻44 宣仁之誣

Last-modified: 2023-06-11 (日) 06:02:32

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神宗元豊八年(1085)春正月三日、帝は病に倒れた。

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二月二十九日、帝の病状が悪化した。三省・枢密院の長官らが帝に謁見し、皇太子を立て、皇太后高氏(宣仁太后)が一時的に政治を執るよう要請した。帝はこれを許可した。

3


三月一日、延安郡王・趙傭(ちょうよう)を皇太子に立て、名を()とした。

これ以前、岐王・趙顥(ちょうこう) 、嘉王・趙頵(ちょういん)が日々帝の安否を尋ねに来ていたが、高太后が政治を執るようになると、二王に宮殿に入らないよう命じた。また、宦官の梁惟簡(りょういかん)の妻に十歳の子が着るための黄袍(こうほう)(1)を作って持ってこさせた。急な即位のため、慌てて用意させたのであろう。

(1)黄袍 皇帝専用の黄色い上着。

当初、太子がまだ立てられていないとき、職方員外郎(2)邢恕(けいじょ)と蔡確が謀略をめぐらせ、太后の甥である高公絵・高公紀に密かに言った。
「帝の死は避けることができません。延安郡王はまだ幼く、早めに結論を出す必要があります。岐王・嘉王はともに賢人です。」
高公絵は驚いて言った。
「何を言っている。あなたはわが家に災いを及ぼそうというのか!」

邢恕は計画がうまくいかなくなると、太后が岐王を皇太子に立てようとしていると言い出した。そして王珪(おうけい)と謀り、蔡確を使って王珪が帝のもとへ見舞いに行くよう約束させ、岐王を皇太子とするよう王珪に言わせようとした。外では知開封府・蔡京が剣士を潜ませ、王珪が少しでも計画に反することを言えば、これを捕らえて誅殺しようとしていた。王珪が帝のもとへ行くとすぐに「帝には子がある。」と言った。このため延安郡王を立てる方向で議論が定まり、邢恕はなす術がなかった。

太子が立てられると、邢恕はなおも蔡確とともに太子を立てるのに役立ったと言い、朝廷にその話を広めた。

(2)職方員外郎 職方司(州県の廃止と復活、帰順した異民族の居住地の選定を司る官署)に所属する官。正七品。

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七日、皇太后を太皇太后とした。

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二十一日、群臣が太皇太后とともに政治を執るよう帝(哲宗)に要請した。

蔡確は太后に取り入って自分の地位を固めようと考え、太后の叔父、高遵裕が征西の際に法を犯し罪に問われたことから、高遵裕の官職を回復するよう上言した。太后は言った。
「遵裕は霊武の役で多くの苦しみを味わい、先帝は夜中に報告を受けると起き上がり、寝台の周りを一晩中歩き回って寝ることもできなかった。このため遵裕は驚き、罪を犯すようになっていった。原因は遵裕にある。処刑を免れたのは幸いであった。先帝のお体はまだ温かい。どうして私恩を利用して天下の公議に背くことがあろう。」
蔡確は恐れおののいて退いた。

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哲宗元祐元年(1086)春正月二十七日、神宗の原廟(1)を建立した。

(1)原廟 正廟以外に建てた廟。

太皇太后は以下の通り詔を下した。

「原廟の建立は旧来久しく行われてきた。以前神宗皇帝が初めて廟を訪れたとき、寝殿を建てて祖先を敬うこととした。その孝行の姿勢は至高というべきものである。今、神宗は廟に祭られることとなり、故事にならい館御(2)を営んで神霊を奉るべきである。廟の塀の東は人里に密接しており、これ以上増築すれば世を騒がすことになる。群臣の意見を採用し、皇帝と皇后を一つの廟に合わせれば、神宗の祖先崇敬の意に沿わぬこととなる。

治隆殿の後ろには庭園と池があるため、後殿をここに建てようとしていると聞く。これは未亡人(太皇太后)を待つものであるが、この地に神宗の原廟を建てるべきである。私は万年の後、治隆殿で英宗皇帝とともに祭られるべきだ。上は神明を安らがせ、中はわが子の志を形あるものにさせ、下は民の心を安らがせる。よいことではないか。」

(2)館御 館台を設けて神仙を迎えること。

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二年(1087)三月、神宗の祥(一年の喪)が明けると、太皇太后は詔を下した。

祥禫(しょうたん)(一年の喪)が明け、趙煦(ちょうく)を即位させるという冊命(さくめい)が告げられ、当局は章献明粛皇后の故事を遵守し、あらかじめ文徳殿で冊命を受けるべきだと言っている。皇帝は孝行の意を尽くし、祖先を尊崇するよう努めているものの、朝廷には古きものを改め新しきものを取り入れるという慣習があり、おのおの便宜に従っている。そもそも章献明粛皇后は真宗の廟を補佐し、仁宗を助け、その功績の偉大なること、たいへん優れたものというべきである。翻って私は薄い恩恵しか与えず、美名を望むことができようか。旧来の儀礼に照らしてもまことに恥ずべきものだ。以後冊命を受けるのは崇政殿においてのみとする。」

また、宰相らに対して言った。
「母后が朝廷に臨むのは国家にとってよいことではない。文徳殿は天子の正式な政庁であって、女が行くべきところではない。」

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三年(1088)八月、邢恕(けいじょ)は太后の甥の高公絵のために書状を書いて太后に献上し、高氏を尊重させるよう求めた。太后は怒り、邢恕を罷免した。

9


閏十二月十二日、太皇太后は詔を下した。

「余剰の官員は従来からの長い懸案となっている。受け継がれた弊害が今になって現れ、上は長らく職を失った官吏があり、下は害をこうむっても何も言わずにいる民がいる。ゆえに大臣らにその原因を考えるよう命ず。官員の数を減らさなければ安定して官員を採用することなどできない。私は今卑小な身をもって天下を率いているが、最初に政治を執るようになったときのことを考えるに、当局に勅令を下したとき、官員の親族を任用するようにさせ、その数を限ろうとしなかった。このような薄い徳を思い返せば、面前の人にこれを分け与えることができようか。

官職を与えられるという家庭の恩について詔を下した。ただ母后の先例に従え。今は官員の数を減らすべきであり、必ず実行せよ。先帝の付託は深く、天下の期待は重い。国家を利することがあれば、私は自分の身を惜しむことはない。まして官員に採用された恩はたいへん微細なものである。忠義の士は誠の心をわきまえ、おのおの自分の家庭への恩を忘れ、ともに節約についての規則を立てるべきである。今後、皇帝の誕生日、大礼、他の者の誕生日を迎えるたびに親族の恩恵(恩蔭)を得ることができるが、そのうち四人に一人を減ずることとする。皇太后・皇太妃もこれに準ずる。」

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四年(1089)五月、蔡確を新州(1)に安置した。

蔡確は長らく勢力を失って恨みを抱くようになった。安州(2)にいるとき車蓋亭に行き、詩十首を書いた。知漢陽軍(3)・呉処厚は蔡確と仲が悪く、詩の文言を悪く解釈してそしった。また、郝処俊(かくしょしゅん)が上元(唐、高宗・674~675)のときに高宗を諫めて武后に帝位を継がせようとしたという故事を引いて太后を非難していると論じ、中書に意見書を提出した。

(1)新州 広東省新興県。
(2)安州 湖北省安陸市。
(3)漢陽軍 湖北省武漢市付近。

これを受け、御史台と諫官は、蔡確は恨みを抱いて太后を非難しており、その罪を糾すよう求めた。蔡確に事情を説明するよう詔を下した。蔡確は非常に詳しく弁明した。右正言・劉安世らは言った。
「蔡確の罪状は明らかです。弁明など必要ありません。これは宰相が不正にその地位にいるということにすぎません。」
このため、蔡確を光禄卿(4)に左遷し、南京(5)を分担統治させた。

御史台・諫官はこの処置について議論を続け、諫議大夫・范祖禹(はんそう)も言った。
「蔡確の罪は劣悪で天下の許すところではありません。なおも卿の地位にとどまり都を分担で統治し、衆論に遠慮することがありません。」
宰相らは蔡確を法の規定通りに処置しようとしたが、范純仁・王存はこれに反対して結論が出なかった。文彦博(ぶんげんはく)は蔡確を嶺嶠(れいきょう)(広東・広西)に流そうとした。范純仁はこれを聞いて呂大防に言った。
「あの地は乾興(仁宗・1022)以来七十年近く混乱が続いている。われわれが弁護したとて、免れることはできまい。」
呂大防は何も言わなかった。六日後、蔡確を英州(6)別駕(7)に再度左遷し、新州安置とした。

(4)光禄卿 光禄寺(祭祀や朝会等を司る官署)の長官。従四品。
(5)南京 南京応天府。河南省商丘市。
(6)英州 広東省英徳市。
(7)別駕 通判のこと。

范純仁は太后に言った。
「朝廷は寛大であるべきで、言葉や文字に不透明な部分があるからといって大臣を流罪や刑に処すべきではありません。今の行為は将来の模範とすべきであるのに、このようなことを模範をつくるきっかけとすべきではありません。重い刑により害悪を除くのは劇薬で病を治すようなもので、その過ちは害なくしてあり得ません。」
これは聞き入れられなかった。

中丞・李常、中書舎人・彭汝礪(ほうじょれい)、侍御史・盛陶が言った。
「詩の文言で蔡確を罪に問うのは、風俗を厚くするという趣旨に反する。」
このため李常を知(とう)(8)に左遷する決定が下った。中書舎人・彭汝礪は、
「これは冤罪の始まりだ。」
と言ってこの決定の詔を封還した。彭汝礪は知徐州(9)に左遷された。侍御史・盛陶は言った。
「密告の風潮をはびこらせてはいけない。」
やはりこれも知(じょ)(10)に左遷された。

(8)鄧州 河南省鄧州市。
(9)徐州 江蘇省徐州市。
(10)汝州 河南省臨汝鎮。

これ以前、蔡確の弁明がまだ上奏されていなかったとき、梁燾(りょうとう)()(11)から諫議大夫に任命された。都へ向かうため河陽(12)を通り過ぎたとき、邢恕(けいじょ)は蔡確には皇太子を立てた功績があると強く言った。梁燾が都に着くとこのことを報告した。太后は三省に言った。
「帝は先帝の長子であり、子は父の事業を継ぐものであり、それは当然のことだ。蔡確にどんな功績があるというのか?蔡確が戻ってくれば上下の者をだまし、朝廷に害をなすことだろう。帝は年少のため、そのような事態を制御できまい。それゆえ彼の失敗を理由にこのような処分(新州への安置)を下すのだ。これは国家のためだ。」

(11)潞州 山西省長治市。
(12)河陽 河南省巩(きょう)県。

11


六月五日、范純仁(はんじゅんじん)が辞職した。

呂大防は言った。
「蔡確の派閥が幅を利かせている。どうにかせねばなるまい。」
范純仁は言った。
朋党(ほうとう)は見分けるのが難しい。蔡確派を追及すれば間違って善人にも害が及んでしまうだろう。」
司諫・呉安詩、正言・劉安世は、この言をもとに范純仁が蔡確と徒党を組んでいると言った。范純仁は宰相の辞職を強く願い出て、知潁昌(えいしょう)(1)となった。傅尭兪(ふぎょうゆ)は太后に言った。
「蔡確の派閥については、最もひどい者らは朝廷から追放すべきですが、その他の者はすべてそのままにしておくのがよいでしょう。陛下の徳をもってすれば許せないことなどありません。蔡確の詩の文言は陛下をそしるものですが、どうかここは、これを許して虫けらの過ちのように扱い、逆らう気持ちをわずかでも持たせて大同団結の気を乱すことないようにしていただきたく存じます。このような事態になった以上、無心になってこれに対処すべきです。それが聖人が誠の心を養い永遠の福を迎える所以(ゆえん)なのです。」

(1)潁昌府 河南省許昌市。

12


六年(1091)十一月一日、劉摯(りゅうし)が辞職した。

劉摯は呂大防と同格であり、国家の大事の多くは呂大防が決め、劉摯は士大夫の進退のみに権限を持っていた。その処置の仕方は寛大であり、勇気をもって悪人を退けていた。そのため朋党(ほうとう)讒言(ざんげん)にあい、呂大防と仲が悪くなった。

これ以前、蔡確が左遷されたとき、邢恕(けいじょ)もまた監永州(1)酒税にされたが、このとき手紙を劉摯に届けた。劉摯はもともと邢恕と仲がよく、返書を書いた。そこには、
「永州は景勝の地だ。邸宅を移して休復(復帰)を待つように。」
という文言があった。排岸官・茹東済(じょとうせい)は険悪な性格の者だった。彼は劉摯に求めるものがあったがそれを得ることができず、この手紙を見るとひそかに書き写して中丞・鄭雍(ていよう)、殿中侍御史・楊畏(ようい)に見せた。二人は呂大防に迎合しており、この文言を解釈して上奏した。
「『休復』の語は『周易』に出てきます。『休復を待つ』とは、他日太皇太后が政権を返還するのを待つという意味です。」
また、章惇(しょうとん)の子は劉摯の子と交遊しており、劉摯もまた時折り彼らと接していた。このため鄭雍・楊畏は言った。
「劉摯は章惇に会って親しくなり、章惇を籠絡して利益を得ようと企んでおります。また、王巖叟(おうがんそう)梁燾(りょうとう)・劉安世・朱光庭ら三十人はみな劉摯と非常に親しい関係です。」

(1)永州 湖南省零陵区。

太后は対面で劉摯に言った。
「そなたは悪人と交遊して他日何事かを起こそうとしていると言われている。そなたは一心に王室に仕えるべきだ。章惇は宰相として王室のことを処理しているが、いまだ安心できるものではない。」
劉摯は恐れかしこまって引き下がり、上奏して弁明した。梁燾・王巖叟も上疏して劉摯を弁護した。太后は言った。
垂簾(すいれん)の初め、劉摯は奸人を排斥し、たいへん実直であった。しかしこの二事はなすべきことではない。」
このため、劉摯は宰相を辞職して知(うん)(2)となった。給事中・朱光庭はこれに反駁した。
「劉摯は忠義の心をもって力を尽くしてきた。朝廷は彼を大官に抜擢しておきながら、一旦疑えばすぐに辞めさせてしまった。天下はこの過ちを見ていない。」
みな朱光庭を劉摯の朋党だと言い、彼もまた辞職して知(はく)(3)となった。

(2)鄆州 山東省東平県。
(3)亳州 安徽省亳州市。

13


八年(1093)九月三日、太皇太后・高氏が崩御した。

これ以前、太后は病に倒れ、呂大防・范純仁らが見舞いに来た。太后は言った。
「私は神宗の請託を受け、宰相らとともに宮殿で政治を執ってきた。そなたらは試みに言ってみなさい、『この九年間高氏は恩を施してきただろうか?』と。ただ公正であることに努めてきたが、一男一女が病にかかって死に、会うこともかなわない。」
言い終わると涙を流した。また言った。
「先帝は往時を悔いて涙を流した。宰相らはこのことを深くわきまえなさい。私が死んだ後、多くの者が宰相らを侮辱するであろうが、これを許してはならない。そなたらは早々に地位を退き、宰相らに別の番人を用いるようにさせなさい。」
そして近侍を呼んで社飯(1)を与えて言った。
「明年の社飯のときは、私のことに思いをめぐらせて欲しい。」

太后の聴政は古老と名臣を用い、新法の圧政をやめ、天下に安定をもたらした。遼の主は辺境で事を起こさないよう臣下らを戒めて言った。
「南朝は仁宗の政治を行っている。」
朝廷に臨むこと九年、朝廷は清新な空気に包まれ、中国は安定した。故事を励行し、外戚としての恩恵を絶ち、世の人は女性の尭・舜と見なした。

(1)社飯 社日(土地神の祭日)に振る舞われる食事。

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十二月二日、范純仁(はんじゅんじん)が宰相の辞職を願い出たが、許可しなかった。

これ以前、太皇太后が病に倒れたとき、范純仁を呼び出して言った。
「そなたの父、范仲淹(はんちゅうえん)は忠臣であった。明粛皇后の垂簾(すいれん)のとき、皇后に母の道を尽くすよう勧めていた。皇后が崩御されると仁宗に子の道を尽くすよう勧めていた。そなたもこれにならえ。」
范純仁は泣いて言った。
「あえて忠義を尽くそうとは思いません。」

帝が親政を開始すると、范純仁は宰相の位に就きたがらなかった。帝は呂大防に言った。
「范純仁には声望がある。朝廷を去ることなく朕のために留まるべきだ。」
このため范純仁は帝に謁見した。帝は問うた。
「先代の朝廷が行った青苗法についてどう思う?」
「先帝の民を愛する心はまことに深いものでした。しかし、王安石は過分に法を定め、賞罰を行ったため、官吏は切迫して民を害するようになりました。」
范純仁は退くと意見の大要を上疏し、青苗法は行うべきではなく、行えば混乱を免れないと述べた。

たまたま太后の政治を悪く言う者たちがあり、范純仁は上奏した。
「太后は陛下をお助けになり、その功績は大きく誠の心を持たれ、有形無形の(かがみ)であります。国是を顧みない者たちの何と軽薄なことでしょうか。」
そして明粛皇后の垂簾政治の批判を禁じた仁宗の詔書を献上して言った。
「陛下にはこれらを実践し、軽薄な風潮を戒めていただきたく思います。」
韓忠彦(かんちゅうげん)も帝に言った。
「昔、仁宗が政治を始めたとき、群臣の多くが章献皇后は間違っていたと言いました。仁宗はその軽薄さを嫌い、詔を下して戒めました。陛下は仁宗にならえばよいのです。」
給事中・呂陶が進み出て言った。
「太后は九年間陛下をお助けしてきました。陛下はこれを尊崇して報いようとし、それができないのを恐れておられます。万一奸悪な者がいて、ある者(新法派)を再び用いるように、またはある事(新法)を再び行うようにと言うことがあれば、それは治乱安危の分かれ目であります。このことを察せねばなりません。」

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哲宗紹聖元年(1094)三月乙亥(いつがい)、呂大防が辞職した。

呂大防は宣仁太后の時代に宰相の位を退くことを丁重に願い出た。皇后は言った。
「帝は若く、そなたはまだ去るべきではない。しばらく年月が経てば私も太后となろう。」
太后が崩御すると、呂大防は山陵使(1)となった。殿中侍御史・来之邵(らいししょう)は前もって詔書の内容を調べて呂大防を弾劾した。呂大防もまた自ら辞職を願い出たため、帝はこれに従った。

(1)山陵使 皇族の葬礼を主宰する官。

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十一月十四日、蔡確に特別に観文殿大学士を贈り、名誉を回復した。

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四年(1097)冬十月、邢恕(けいじょ)を御史中丞とし、王珪(おうけい)を万安軍(1)司戸参軍(2)追貶(ついへん)(死後に左遷すること)した。

(1)万安軍 海南省万寧市。
(2)司戸参軍 戸籍や税を扱う地方官。

これ以前、邢恕は長らく朝廷から退けられて恨みを抱いていた。河陽の間道を通って(とう)州で蔡確に会い、太后と王珪の廃立を成し遂げ、蔡確と自分に皇太子を立てた功績があることを示そうと謀った。謀略が立てられたが証拠がなかった。このとき、司馬光の子、司馬康が宮殿に赴くため河陽を通りかかった。邢恕は司馬康をだまして蔡確に立太子の功があると書かせた。梁燾(りょうとう)が諫議大夫に召されて河陽を通りかかったとき、邢恕はまたも梁燾に対し蔡確の功を称え、司馬康の書を出して証拠とした。

邢恕が中山府(3)を治めるようになると、高遵裕の子、高士京を酒に誘って言った。
「そちは元祐のとき、ひとり帝の恩典にあずかれなかったのを知っておるか?」
「知りません。」
「兄弟はいるか?」
「兄の士充がおりましたが、すでに死んでいます。」
「彼は王珪の話を広めたのだ。当時王珪は宰相で、岐王を立てようとしており、高士充をやってこの話を禁中に広めた。そちは知っておるか?」
「知りません。」
邢恕は官職をちらつかせて言った。
「知らぬなどとは言わさん。これはそちのためにやっているのだ。人に言ってはならんぞ。」
高士京は暗愚なため、これに従った。

(3)中山府 定州。河北省定州市。

ここに至り、章惇(しょうとん)蔡卞(さいべん)は元祐期に勢力のあった者たちに迎合し、邢恕を引き入れようとした。邢恕は朝廷に呼び戻され、三度昇進して御史中丞となった。邢恕は北斉の(ろう)太后の宮殿を宣訓宮といい、かつて廃された高演を太子に立てたことを、司馬光が言っていたとした。范祖禹(はんそう)は言った。
「今、君主が若く国の安定が疑われています。宣訓宮の件は最も憂慮すべきです。」
また、王棫(おうよく)を使って高士京のために上奏文を書かせ、次のように述べた。
「父高遵裕が臨終に際し、側近を退け高士京に、『神宗の病が長引いていたとき、王珪が高士充をやって、『皇太后が誰を立てたがっているか知らないか?』と尋ねてきた。私は高士充を𠮟りつけて退()がらせ、事なきに至った。』と言いました。」
給事中・葉祖洽(ようそこう)も王珪が皇太子冊立のときに異論を述べていたと言った。このため詔を下して王珪を追貶し、高遵裕に奉国軍節度使を贈った。

18


元符元年(1098)三月、文及甫(ぶんきゅうほ)を同文館の獄に下した。

文及甫は文彦博(ぶんげんはく)の子である。

これ以前、劉摯(りゅうし)は文及甫を弾劾したことがあった。また、その父文彦博を三省の長官とすべきでないと言ったため、文彦博は平章事となるにとどまった。文彦博が引退すると、文及甫は権侍郎から修撰の職を与えられて地方に赴任した。父母の喪が明けようとしていたが、劉摯と呂大防がまだ国政を執っており、文及甫は中央の官になれないのではないかと思い、邢恕に手紙を書いた。
「月が変われば喪が明けますが、朝廷に入れるとは限りません。宰相らは私を深く疑い、その仲間はたいへん多いのです。司馬昭の心は路傍を行く人も知っています。計画を通すために粉昆(1)や仲間を乱立させ、自分の思い通りにしようとしています。恐るべきことです。」
ここで言う司馬昭とは、呂大防がひとり国政を執って久しいことを指していた。粉昆とは、駙馬(ふば)都尉を粉侯にするということであり、韓嘉彦(かんかげん)(2)が公主をめとり、その兄韓忠彦が粉昆であった。邢恕はこの手紙を蔡確の弟蔡碩(さいせき)に見せた。

(1)粉昆 駙馬都尉を粉侯にすること。転じてその兄弟をいう。駙馬都尉は君主の女婿に与えられた官職。粉侯は三国、魏の何晏が顔におしろいを塗って公主をめとって列侯に封ぜられたことに始まり、駙馬都尉を粉侯と言うようになった。
(2)韓嘉彦 韓琦の子。韓侂冑の祖父。

ここに至り、邢恕は蔡確の子、蔡渭(さいい)に上奏させ、劉摯らがその父を陥れて謀反を企み、国家を危機にさらそうとしていると訴え、文及甫の手紙をその証拠とした。このため章惇(しょうとん)蔡卞(さいべん)は、劉摯および梁燾(りょうとう)王巖叟(おうがんそう)らを殺そうと思い、劉摯らに哲宗廃立の意があると述べた。そして同文館に牢獄を置き、蔡京・安惇に管理させ、文及甫を捕らえて問い詰めた。文及甫は弁解した。
「父文彦博は劉摯のことを司馬昭になぞらえ、粉とは王巖叟の顔が白いということで、昆とは梁燾の字の況之(きょうし)の況が兄の字に近いということです。」
蔡京・章惇はあらゆる方法を用いて諸人を族罪(3)に陥れようとした。また、劉摯らは大逆不道で死してなお余りあり、この罪を糾さずに天下に示すことはできないと上奏した。
帝は言った。
「元祐の者たちというのはこのようなものか?」
蔡京・章惇は答えた。
「このような心があるのは本当です。反逆の心がまだ目に見える形になっていないだけのことです。」
劉摯・梁燾はすでに左遷先で死んでいたので、蔡京らは上奏し、審理することもなく詔を下し、劉摯・梁燾の子孫を嶺南(れいなん)(広東・広西)に謹慎させ、王巖叟・朱光庭の子らを停職とした。蔡京は宰相の職を望み、元祐の賢人らに無実の罪を着せることに意を尽くした。

蔡京の思い通りに事が運ぶと、曽布は蔡京を嫌うようになり、密かに帝に言った。
「蔡卞と私が宰相となっております。蔡京を昇進させてはなりません。」
このため蔡京は翰林(かんりん)学士承旨(4)に昇進するにとどまった。蔡京・曽布はこれより仲が悪くなった。

(3)族罪 父・母・妻に罪を及ぼすこと。
(4)翰林学士承旨 皇帝の顧問を務め、詔書を扱う官。正三品。

19


章惇(しょうとん)蔡卞(さいべん)は元祐の諸臣が一挙に復帰するのを恐れ、日夜邢恕(けいじょ)らと謀り、内侍・郝随(かくずい)と手を組み、宣仁太后が帝を陥れようとしていたと捏造(ねつぞう)した。王珪(おうけい)が左遷されると同文館の獄を置き、司馬光・劉摯(りゅうし)梁燾(りょうとう)・呂大防らが宣仁太后の内侍・陳衍(ちんえん)と帝の廃立を謀っていたと誣告(ぶこく)した。このとき陳衍は罪に問われて朱崖(しゅがい)(1)に流されていた。また、内侍・張士良が陳衍と同じく宣仁太后の内閣に属していたことから(ちん)(2)より呼び戻された。章惇らは蔡京・安惇に張士良の処遇を任せ、捏造した言説を補強させようとした。蔡京らは(かなえ)(かく)(3)・刀・(のこぎり)を並べ、張士良に言った。
「言うことがあるだろう。さすればもとの職に戻してやる。なければ処刑する。」
張士良は天を仰ぎ泣き叫んだ。
「太皇太后に無実の罪を着せることはできません!天地の神を欺くことはできません!刑に処してください!」
蔡京らは張士良に罪を着せることができなかったため、このように上奏した。
「陳衍は皇太子と宣仁太后の仲を引き裂き、随龍内侍・劉瑗(りゅうえん)らを朝廷から退け、君主の腹心を除いて大逆不道の行いをしました。死に処すべきです。」
帝はたいへん判断に迷った。

(1)朱崖 海南省海口市。
(2)郴州 湖南省郴州市。
(3)鑊 足のない鼎。

ここに至り、章惇・蔡卞は自ら詔書を作り、宣仁太后を廃位して庶人とするよう求めた。皇太后(朱氏)はこのとき寝ていたが、これを聞いて飛び起き、帝に言った。
「私は日々崇慶殿に(はべ)り、帝は日々朝廷にいるというのに、このような命令がどこから出てきたのでしょう?帝はこのようにこの命令と何のかかわりもないというのに、まして私にどうかかわりがあるというのでしょう?」
帝は事態を悟り、章惇・蔡卞の上奏文を手に取り、灯し火にかざして燃やした。

郝随はこれを(のぞ)き見ており、章惇・蔡卞に告げた。翌日、章惇・蔡卞は再度上奏し、この件を実行するよう強く求めた。帝は怒り、
「そのほうらは朕を英宗の廟に入れたくないと申すか!」
と言って上奏文を地に叩きつけた。このことは取りやめとなった。