- アリュージョニスト以外のネタバレに注意
- サイバーカラテを実践しよう (知ってる作品があったら、説明を追記しよう)
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- 編集カラテ入門
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- 性・性愛・聖婚関連/その他
- 〈悪女〉と〈良女〉の身体表象 編著:笠間千浪
- 〈悪女〉の文化誌 編著:鈴木紀子・林久美子・野村幸一郎
- 悪について誰もが知るべき10の事実 ジュリア・ショウ
- あなたに伝えたいこと 性的虐待・性被害からの回復のために シンシア・L・メイザー K・E・デバイ
- ありすぎる性欲、なさすぎる性欲 ウィリー・パジーニ
- アンティゴネーの主張 問い直される親族関係 ジューディス・バトラー
- いくつもの日本 編:赤坂憲雄 中村生雄 原田信男 三浦佑之
- 井田真木子著作撰集 里山社
- 1冊で知るポルノ デビー・ネイサン
- インドネシアのムスリムファッション なぜイスラームの女性たちのヴェールはカラフルになったのか 野中葉
- 「AVが教科書」のせいで女性は悩んでいる。"エロメン"一徹さんに聞く、男女のセックスがすれ違う理由
- 選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子 河合香織
- 遠隔診断のため息子の裸の写真を送信→変態パパ扱いでGoogleアカBANに
- 応援の人類学 編著:丹羽典生
- 欧州の「同調圧力と性」について日本人は何も知らない 谷本真由美
- お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門 北村紗衣
- オタサーの姫 ジャンヤー宇部 監修:サークルクラッシュ同好会
- 男が見えてくる自分探しの100冊 中村彰 中村正
- 男はなぜ悪女にひかれるのか 悪女学入門 堀江珠喜
- 男の子を性被害から守る本 J.サツーロ+R.ラッセル+P.ブラッドウェイ
- 「男らしさ」の快楽 宮台真司 辻泉 岡井祟之
- 〈男らしさ〉の神話 変貌する「ハードボイルド」 小野俊太郎
- 男らしさの歴史 A・コルバン/J-J・クルティーヌ/G・ヴィガレロ:監修
- 女はポルノを読む 女性の性欲とフェミニズム 守 如子
- 怪異と身体の民俗学 異界から出産と子育てを問い直す 安井眞奈美
- 改正児童ポルノ禁止法を考える 園田寿 曽我部真裕
- カレー沢薫のワクワク人生相談 カレー沢薫
- グローバル・ディスコースと女性の身体 アフリカの女性器切除とローカル社会の多様性 編著:宮脇幸生 戸田真紀子 中村香子 宮地香織
- 源氏物語の教え もし紫式部があなたの家庭教師だったら 大塚ひかり
- 恋をしまくれ 田嶋陽子
- 子どもと性被害 吉田タカコ
- 子どもを犯罪から守る 内野真
- サキュバス オノレ・ド・バルザック
- シェイクスピアの男と女 河合祥一郎
- ジェンダーとセックス 精神療法とカウンセリングの現場から 及川卓
- 自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと 清田隆之
- 下ネタの品格 文春文庫
- 11時間 お腹の赤ちゃんは「人」ではないのですか 江花ゆう子
- 出産の民俗学・文化人類学 安井眞奈美
- 白雪姫(パロディ) きり子
- 少女と魔法 須川亜紀子
- 消滅世界 村田沙耶香
- 女性学/男性学 千田有紀
- ステレオタイプの科学 クロード・スティル
- 性教育、どうして男女はすれ違ってしまうのか。『おうち性教育はじめます』の著者と考える
- 性教育120% 原作田滝ききき 作画:ほとむら
- 性食考 赤坂憲雄
- 性と懲罰の歴史 エリック・バーコウィッツ
- 聖なるズー 濱野ちひろ
- 性という「饗宴」 伏見憲明
- 性暴力 読売新聞大阪本社社会部
- 性問題行動のある知的・発達障害児者の支援ガイド 本多隆司 伊庭千恵
- 性の進化論 クリストファー・ライアン&カシルダ・ジェタ
- セックスワーク・スタディーズ SWASH・編
- その問題、経済学で解決できます。 ウリ・ニーズィー ジョン・A・リスト
- 大ヒット『鬼滅の刃』の隠れた凄まじさ 「男らしさの描き方」の新しさに注目せよ 河野 真太郎
- 誰も教えてくれない大人の性の作法(メソッド) 坂爪真吾 藤見理沙
- 男子のための恋愛検定 伏見憲明
- 男性のジェンダー形成 〈男らしさ〉の揺らぎのなかで 多賀太
- 痴漢外来 原田隆行
- 痴漢とはなにか 牧野雅子
- 毒婦の誕生 悪い女と性欲の由来 朝倉喬司
- なにもかも話してあげる ドロシー・アリスン
- 南極1号伝説 高月靖
- 日本の童貞 渋谷知美
- NTRとエロ漫画に横たわる快楽=「イヤなことやダメなことほどエロい」の倒錯
- 裸はいつから恥ずかしくなったか 中野明
- 光源氏になってはいけない 助川幸逸郎
- 人妻ですが紅茶が飲みたいのでレイプすることにしました
- ヒトはいつ人になるのか 生命倫理から人格へ 村松聡
- 表現規制用語集
- ファンタジーとジェンダー 高橋準
- フランス人の性 なぜ「#ME Too」への反対が起きたのか プラド夏樹
- プリンセスも徴兵されるオランダの「男女平等」にみる、ジェンダー平等と権利と義務
- べてるの家の恋愛大研究 浦河べてるの家
- 僕たちは愛されることを教わってきたはずだったのに ニ村ヒトシ
- ポリアモリー 複数の愛を生きる 深海菊絵
- ポルノグラフィ防衛論 ナディーン・ストロッセン
- 水子供養 商品としての儀式 近代日本のジェンダー/セクシュアリティと宗教 ヘレン・ハーデカー
- 水子 〈中絶〉をめぐる日本文化の底流 ウィリアム・R・ラフルーア
- ミソジニー漫画 つらすぎて転職したけど、イライラはなくならなかった ふゆこ
- 身の下相談にお答えします 上野千鶴子
- メイキング・ラヴ リチャード・ローズ
- モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究 編著:ぼくらの非モテ研究会
- 山姥たちの物語 女性の原型と語りなおし 編:水田宗子 北田幸恵
- 欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差 堀あきこ
- 欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち 香月 真理子
- 「理解のある彼くん」展開が新時代を切り開く韓ドラ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』が名作すぎてヤバい。 倉本圭造
- レイプ/男からの発言 ティモシー・ベイニケ
- ロリコン 日本の少女嗜好者たちとその世界 高月靖
- WORKDESIGN 行動経済学でジェンダー格差を克服する イリス・ボネット
性・性愛・聖婚関連/その他
〈悪女〉と〈良女〉の身体表象 編著:笠間千浪
- 雑誌や芸術が、どのように女性とその身体を描いていたかを分析した研究を集めたもの
- 良・悪という二項対立でしか語られてこなかった女性表現を、さまざまな分野から検証している
- そうした表現の中には、女性自身によって作られたり演じられたものもあり、
- 二項対立の境界を超越した、女性の〈身体〉表現となっていて面白いし美しい
- 戦後米日の街娼への呼称「ベビサン」と「パンパン」
- どちらも男性性の主張や回復のための「巫女=媒体(メディア)」であった
- 米国側の「ベビサン」は、占領期という植民地的状況における「ちゃんぽん関係」を示す具体例だった
- 占領者と現地女性の間の買売春といったきわめて構造的な支配関係は、あたかも「自由恋愛」であるかのように描かれた
- しかしながら、勝者側の男であったとしても、男性性は常に脅かされている
- 支配側の主体性の確立には、基本的に他者(従属側)の承認が必要であるという逆説
- 「使命者あるいは宣教師的立場」も、「原住民側」のへつらいやお世辞によって操作される可能性を常に残している
- 植民地状況における宗主国側の男性性も「原住民の女」の「承認」によって支えられているため、そこには男性性が脆弱なものになりうる契機が常に存在するのである
- 自らの男性性のヘゲモニーを維持するのは容易ではないのだ
- 狼少女の系譜:赤ずきんの身体の両義性
- 父権社会が女性に対して抱く、ニつの矛盾するイメージの反映
- 子どもらしい純真さと、悪に引かれ狼を誘惑する〈堕落した女〉
- さらに、フェミニズムを経て再構築された狼少女のイメージも加わった
- 男性の欲望を映す鏡である〈悪女〉化の否定
- そして、女性が性的欲望を抱くことはすなわち男性化することだ、という論理の否定
- 少女の野獣への変身
- 動物的な(つまり人間がもつ)肉体的欲望に対する嫌悪や恐れを超えて、男性中心社会によって規定された欲望の法則から解き放たれた場で生じうる、
- 内なる他者としての新たなつながり方の可能性
- 環境問題で狼のイメージが好転
- 周縁に追いやられてきた「自然」本来の姿をとどめた存在として、肯定的な意味で女性との親近性が注目されるように
- 芸術家・鴻池朋子の作品
- 少女と狼は互いの存在を消し去ることなく、違いを保ちながらひとつに融合している
- そこには非会社と加害者という構図も、二者択一の結末もない
- 眠れる狼は少女が感じ取る森の体の一部であり、狼と一体化することで、少女もまた自然界が紡ぐ物語の一部となる
- 赤ずきんは、男性のなかの獣性の比喩である狼と共謀することで、父権社会の秩序を成り立たせているさまざまな二項対立の枠組みにその内側から逆襲を仕掛ける
→賢者イヴァ=ダストとエスフェイル(こちらは片方に主導権がある乗っ取りタイプだが)
電子化◯
〈悪女〉の文化誌 編著:鈴木紀子・林久美子・野村幸一郎
- 平安日本から西欧まで、〈悪女〉についての研究をまとめている本
- 比較的読みやすく、女武者やロレンスの書いた「月の女神」としての「魔女」など、歴史や芸術に登場する多様な女性像を楽しめる
- 「悪女とは誰であったか」を問うことは、同時に、その共同体で共有された規範性、〈女らしさ〉という物語とは、どのようなものであったのかと問うことと、ほとんど同じである
- コンセプトの先駆者の本として、田中貴子『〈悪女〉論』、日本における「邪悪な女性像」の研究としては朝倉喬司『毒婦の誕生』がある
電子化×
悪について誰もが知るべき10の事実 ジュリア・ショウ
あなたに伝えたいこと 性的虐待・性被害からの回復のために シンシア・L・メイザー K・E・デバイ
- 性被害に被害者とその周囲の人々が立ち向かうための方法を、丁寧に語っている本
- 少し厚いが、ケースごとに分かりやすく解説しているし、被害者からの応援メッセージも載っている
- セックスの考え方について見直し、「あるべきセックス」について考える章やマスターベーションについて触れている箇所があるのも良い
- 性被害をうけたひとへ言うべきこと ◯「あなたを信じているよ」「あなたのせいじゃないよ」「あなたはひとりじゃないよ」
- ×「信じられない」「もう忘れなよ」「かわいそうに」「あなたの気持ちはわかるよ」「誤解してるんじゃないの」
- 性被害を受けた友だちの話を信じられなかったとしても構わない
- そう思うのも当然
- でも、友だちに「信じられない」とは言わないで
- オープンな気持ちで話を聴き、あなたなりに、できるだけ友だちを支えてあげましょう
電子化×
ありすぎる性欲、なさすぎる性欲 ウィリー・パジーニ
- セックスカウンセラーの著者が、色々な人の性欲や性問題への対処を綴った本
- 色々な性や性欲について、気楽に読むのに向いており、サディズムやマゾヒズムについても記載がある
- 心理学者ダスティ・ミラー:女性は昔から、相手に対して反撃すべきではないとされている
- そのために、心の傷を負った女性たちは、自分自身に対して攻撃的な行為に走ることになる
- ロバート・ストーラーの記事:異常な欲望は、以前に体験した苦しみを乗り越えるために生まれたもの
- サドマゾ愛好者の多くは、幼児期に肉体的にも精神的にも苦しい、ひどい病気に苦しんだ経験をもっています
- そんな耐えがたい状況から逃れるために、苦痛の中に性的な刺激を感じるような極端な能力を身につけたのです
- それで彼らは生きる悦びを感じるのです
→かつてのメートリアン?
アンティゴネーの主張 問い直される親族関係 ジューディス・バトラー
- ソフォクレスの戯曲に登場するアンティゴネーに注目して、既存の家族イメージを不変のものとすることに異議を唱える芸術論
- 精神分析はオイディプスを基準にするが、それがアンティゴネーであったなら、全く違うものになってたのではないだろうか?
- ラカンとヘーゲルのアンティゴネー論への批判、さらには、レヴィ=ストロースでさえ家族システム成立の前提としていたように思われる「近親相姦タブー」の位置づけについての問い直しを行っている
- ただ、既存の家族像に縛られない新しい家族像成立のための条件や、国家に合法化を求めないタイプのフェミニズム像については、今ひとつ確立できていない印象がある
- それでも、これからの多様な家族の在り方を否定しないためには、既存の家族像やその成立条件を問いなおすこの本のような試みは、必要であり不可欠であろう
- 専門用語が出るし一文が長めでわかりにくいため、最低でもラカン心理学の基礎知識ぐらいは、読解に必要だと思う
- 他にも、構造主義・レヴィ・ストロース・ラカンあたりの基本的な知識はあった方がいい
- おまけに、既存のアンティゴネー論を批判しているためにそれらへの言及も多く、ちょっと著者自身の論旨が読み取りにくい
- ただし、著者の主張がまさに「アンティゴネーは、権力者の言葉を流用・簒奪して自身の主張として役立てている」ということなので、この読み取りにくい形式はおそらく意図的なのだろう
→『呪文』 - 前日譚に当たる『コローノスのオイディプス』についても重要な扱いをされているが、別にそうした引用元を読まなくても内容の読解自体は可能である
- なお、著者の『アンティゴネー』解釈は、戯曲発表の順番という基本的な事実認識が定説と異なっており、その箇所は、自説のためにそれらをねじ曲げてしまった「断章取義」となっているおそれがある
→四章・断章編 - アンティゴネーは、父に呪いの言葉をかけられた
- 「お前は死んだ男(=父)以外誰も愛せない」
- だが、彼女はこの呪いに敬意を払うと同時に、それに従ってはいない
- なぜなら彼女は(彼女の長兄でもある)父への愛を他の兄への愛にずらしていったから
- アンティゴネーは母親イオカステー(彼女の祖母でもある)とその息子(父・オイディプス)の近親相姦から生まれたので、彼女にとって父は兄でもある
- 結局のところ彼女にとって、兄と父とはすでに交換可能なものだった
- 彼女の埋葬行為は、この交換可能性をふたたび制定し、さらに念入りに作り上げるものである
→『呪文』、交換可能性 - アンティゴネーは、発話行為が宿命的罪となるようなものとなる
- だがこの宿命は、彼女の生を超え、それ自身の可能性に満ちた宿命としての(その倒錯的で前例のない未来の新しい社会形態としての)理解可能性の言説のなかに入っていくのである
→人間性の拡張を行う『呪文』?
電子化×
いくつもの日本 編:赤坂憲雄 中村生雄 原田信男 三浦佑之
- 『Ⅵ女の領域・男の領域』
その他の項目を参照
井田真木子著作撰集 里山社
- 『プロレス少女伝説』など、対象に真摯に向き合って書かれたノンフィクション集
- ゾーイ・アキラが好きな人などに、オススメ
- 「私は女だし、私の体は、女の体なんだよ。自然な女の体だよ」
- 「いつも、自分の身体も心も、大切にして生きたもん。男に生まれてたらよかったのにってのはよぅ、だから、ゲスな考えってんだ」(神取しのぶ)
1冊で知るポルノ デビー・ネイサン
- 短めで分かりやすいボルノとその批判の歴史、そしてさまざまな面から見たその実態
- 本書の目的は読者に情報を与え、現代のメディアや文化の中で「成人向け娯楽」の世界にどう向き合うかを、読者自身で判断してもらうことにある
- ポルノを利用する人たち、特に、セックスについて急速に知識を吸収している若者には、ポルノは演技であり実生活ではないと理解することが求められている
- けれども事実と虚構を分けて考えられるくらい世の中のことに通じていれば、ポルノは恐ろしくもないし危険でもない
- ポルノが長期的に有害であるという「確証」が研究や調査から得られたこともない
- 疑問がつきまとうためにいつまでもなくならず、発展し続ける、おそらくそれがポルノの本性なのだろう
- テレディルドニクス:遠隔地どうしで擬似セックス出来る機械
- ポルノ研究家のジョセフ・スレイドによれば、ポルノの定義の一部はテクノロジーと身体のコントロールであり、二つはいろいろな意味で分けられない
- ポルノは、イカロスの翼のような魅力的で同時に恐ろしい「快楽のテクノロジー」なのだ
- (ネット含む)テクノロジーの使い方を(利益第一の大企業が決めるのではなく)人々が決める社会を作るために、市民が一役買うよりも刺激的なことがあるだろうか。
→サイバーカラテ? - 女性向けの露骨なセックス描写でも、ロマンスやエロティカと呼ばれる女性向けは規制されていない
- ポルノ制限を廃止したデンマーク、西ドイツ、スウェーデンは、逆に性犯罪が減少した
- 「バトラー判決」をもとにポルノが規制されたカナダでは、ゲイやレズビアン向けのもの、そしてポルノ批判派のアンドレア・ドウォーキンの本まで没収され、後者は現在でも発売禁止である
- ポルノは矛盾だらけだが、女性運動もまた矛盾に満ちている
→【変数レイシズム】? - ポルノのイメージの受けとめ方は、男女とも一人ひとり異なることが明らかになってきた
→『アリス・イン・カレイドスピア』ラストの【邪視】破り? - ポルノは、自分の体やセックスにコンプレックスを持ちながら成長した大人たちにとって、実際に役に立つことがある
- またポルノは、性的興奮を感じてもパートナーがいない人びとに、代わりのものを提供できる
- ポルノはファンタジーであり、実生活とのつながりはほとんどないが、満足やよろこびを得る人もいる
- 男性にとって、女性がモノである以前に、ペニスがモノであり、ポルノはそうした女性とセックスを客観視するという傾向を助長する
- 女性ポルノ映画監督トリスタン・タオルミーノ:ポルノに女性の快楽が欠落していることは不愉快としか言いようがない。
- ポルノを作ることはひとつの政治行動だと思う。
- それは、女性運動のさまざまな活動と同じように正当で価値ある行動だ
- アメリカでは「アマチュア」という、ただ自分の性行為を映像化するのが好きな素人が撮るポルノが、急増している
- ハンガリーなど貧困国では、貧困のためポルノ出演希望者がたくさんおり、貧困ムードもポルノに利用されている
- ポルノには教材としての可能性がある
- ポルノを見たことで、精神が不安定になるという意見も
- セックスは金になると言われているが、実際に売れるのは実はセックスではなく恐怖だ。これを買わなければ美人になれない、美男子になれない、幸せになれないという恐れである
→ミヒトネッセ? - ほんとうに脱ポルノ化を望むのなら、セックスへの興味と性的イメージは人間の条件の一部だということを受け入れ、あるいはいっそ賛美しなければならないだろう
- さらに、民主主義と市民権という魅惑的な概念を受け入れなければならないだろう
- 貧困や抑圧や無知のために誰かほかの人の性的欲望を演じる必要など存在せず、だれもが自分の性的欲望を表現する権利を持つ、そういう世界よりも興奮させるものがこの世にあるだろうか
- 型にはまったパターンに従うのではなく、自分自身を地域社会の一員であり複雑な個人であると理解することで、若者が自分を知る助けになる性教育より刺激的なものがあるだろうか
インドネシアのムスリムファッション なぜイスラームの女性たちのヴェールはカラフルになったのか 野中葉
→推薦図書/その他/書籍類/あ行を参照のこと
「AVが教科書」のせいで女性は悩んでいる。"エロメン"一徹さんに聞く、男女のセックスがすれ違う理由
- 女性が作る女性のためのAVメーカー「シルクラボ」のAV男優へのインタビュー
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選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子 河合香織
- 日本初の「ロングフルライフ訴訟」(=産まれたことによって負った損害の補償を求める裁判)についてのノンフィクション
- 周辺事情も含めて問題を深く掘り下げることによって、出生前診断と障害児中絶についての議論を日の当たる場所に引き出そうとしている
- 妊婦としてそして母親として、最後まで揺れ続ける提訴者の心情が克明に描かれており、
- 一見、不合理で矛盾して見える彼女の気持ちの実態が、良く伝わってくる
- 類例の取材、相手方の弁護士の言葉、そしてダウン症の当事者まで周辺事情をよく取材しているのが素晴らしい
- 丹念な取材が、タテマエとホンネが矛盾する日本の中絶の現実や、当事者にならないと分からない選択の重みを浮き彫りにしている
- ただ、著者が訴訟者と近い経験を持ち彼女に共感できる分、どうしても訴訟の相手方に悪意的な解釈をしてしまいがちなところがあるのが、惜しいところである
- それでも、基本的には対立意見も含め、事件周辺のさまざまな心情を中立的にまとめているのもまた確か
- 子供好きであり、41歳での高齢出産で障害が心配でも、出来るだけ産みたかった提訴者
- タテマエ上は障害児の中絶(堕胎)は犯罪なのに、実際には理由をごまかしてたびたび行われ、実質的に中絶のための検査も行われているという、矛盾した日本の産科の実態
- いくら中絶に反対したくても患者が望めばやらざるを得ず、ときには、障害児が苦しみながら死んでいくところをケアも出来ずに見ているしかない、病院側の苦痛
- 障害児の中絶が、今生きている障害者の生を否定することだ、と感じる障害者たち
- 結果として障害児を産んだけれど決して迷わなかったわけではない母、養子に出されて幸福を得た障害児と彼女を愛する新しい家族たち、優生保護法下で強制的に不妊手術を受けた人々の苦悩…
- すべての心情が、その立場からは当然のものであり、そのすべてが誰もが関係者になり得る可能性を持つ、深い共感が可能な感情なのである…
- 筆者が理解できていない医者にしても、「みんなに愛される立派な医者」という自己イメージを守ろうと狼狽しつつ、自分なりに責任を果たそうと四苦八苦している姿が、取材を通して見えてくる気がする
- それに彼の裏には、障害児中絶公認への道筋を作りたくない医師会の圧力や、夫を切り離してでも問題を解決したい妻などの存在が見え隠れするのだ
- 筆者が理解できていない医者にしても、「みんなに愛される立派な医者」という自己イメージを守ろうと狼狽しつつ、自分なりに責任を果たそうと四苦八苦している姿が、取材を通して見えてくる気がする
- そしてもしかすると、この訴訟は、感情表現が人によって異なることへの無理解を大きな原因としていたのかもしれない
- この訴訟の訴訟者は、子どもが亡くなったときに、医者が「謝ってくれなかったこと」を最大の問題としている
- だが、もしその時、医者が(訴訟者が望むとおりに)子供の死に対しての深い罪悪感を感じていたとしたら?
- 自分が「加害者」だというのに、口だけ謝罪して謝意を示したところで、それは一種の「責任逃れ」に思えたりしないものだろうか?
- また、人間を生かし子どもが産まれることを援助すべき、つまりは障害児中絶を絶対反対するべき立場にある医師が、その場の感情に任せて、その立場に反した発言をしても良いものなのだろうか?
- なにより、感情表現というのは、訴訟者が求めるような「謝罪」ワンパターンだけなのだろうか?
- 悲しいからこそしゃべれない、責任を感じるからこそ無表情になってしまう、そういった人、そういった状況も、少なくはないのではないだろうか?
- あるいは訴訟者にとって「当たり前の感情表現」は、実際にはすれ違うことしか出来ない、自己中心的な要求だったのかもしれない
- 結局、悲劇にあって、自己中心的にならない者なんて、誰もいないのかもしれないけれど…
- その訴訟は、苦しみ続けて亡くなった子どもへの謝罪を求めるためのものであった
- 訴訟の提訴者は、誤診によって、ダウン症の子どもを中絶することが出来なかった
- 産んだあとには愛着も湧いたし、子どもに出会えたこと自体には感謝している
- だが、子どもはダウン症独特の病気(必ずなるとは限らない)で長い間苦しみ、亡くなってしまった…
- 提訴者は苦悩した
- 彼を苦しめたのは、ダウン症に気づけず彼を中絶出来なかった提訴者ではないのか?
- それに、苦痛に満ちた子どもの生を作り出したのは、出生前診断であれほど自信ありげに誤診をした医者のせいではないのか?
- 医者に、子どもに対して謝罪して欲しい、あの苦しみに対して共感し、悲しみを示して欲しい
- ただそれだけの提訴者の思いは、世間に大きな反響を巻き起こしていった…
- ダウン症でありながらも日本で初めて大学を卒業した岩元綾さんは、訴訟について語った
- 「赤ちゃんがかわいそう。そして一番かわいそうなのは、赤ちゃんを亡くしたお母さんです」
- それを聞いた訴訟者は涙をためながら言った「どうして私のことをかわいそうって言ったのでしょう……」
- 国連の女子差別撤廃委員会(CEDAW)は、深刻な胎児の障害を理由とする中絶を合法化するよう勧告を出した
- 障害があっても子どもを産まなければならないことを強制されるのは、女性の自己決定権を阻害するというのだ
- だが、女性の権利運動の成果として中絶が合法化された欧米諸国とは違い、日本では歴史的に中絶と優生が抱き合わせの状態から始まったため、胎児条項を議論するときに優生思想との関係を避けては通れない
- どの程度の病気や障害なら中絶して良いのか、その線引きは国や社会によって異なる
- 現場運用で中絶が決められている日本では、重くない障害に対しても中絶が拡大するリスクがある
- 無力な私には、答えはまだ出せない
- しかし、わかることもある
- 知恵を振り絞って意見を出し合い、どんな意見もタブーにせずに光が当たるところで議論していくことでしか私たちは生き残ることができない
- 文化という知恵、その武器を持ち、対話を積み重ねることが私たちを救うことになるのではないか
- これから我々の社会は、命の選別に直面せざるを得ないことも多いだろう
- 出生前診断や遺伝子検査の技術は、驚くほどのスピードで進んでいる
- しかし、その速さに追いつく議論はなされていない
- 議論すること自体が、障害者差別になるからという人もいよう
- だが、タブーにして包み隠していることもまた、差別になるのではないだろうか
- 暗闇に閉じ込めることなく、光の当たる場所に議論をおいておきたいと思って本書を執筆した
電子化◯
遠隔診断のため息子の裸の写真を送信→変態パパ扱いでGoogleアカBANに
- チャイルドマレスター(小児性犯罪者)を規制するためにシステムが、暴走してしまっているディストピアなネットニュース記事
- 現代の性規制と、企業に情報を管理されている
- クレジットカード会社なども性への過剰な規制を強めつつある昨今では、日本でも対岸の火事とはとても呼べない案件である
- ちなみに、ポルノ検出にはAIが使われている
GIZMODE記事
応援の人類学 編著:丹羽典生
→チアリーダーたちが能動的にジェンダー役割から逸脱したり、それを変化させていった例が紹介されている
リンク
欧州の「同調圧力と性」について日本人は何も知らない 谷本真由美
- リベラルや左派がもてはやす欧州のイメージと現実の落差についての記事
- 表現規制の問題にも関わってきそうな話
- 以前の記事(ジェンダーレス水着に思う:欧州のジェンダーレスを日本人は何も知らない)も必読モノであり、そちらではセクシーさの強調が文化的に良いことであり、
- むしろ義務と化している息苦しい欧州の実情を知ることが出来る
アゴラ記事
- むしろ義務と化している息苦しい欧州の実情を知ることが出来る
お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門 北村紗衣
- フェミニスト批評家によるWEBでの連載をまとめた本
- 題名はマザーグースの一節の改変
- 筆者は「女性は別にナイスなものでは出来ていないし、ナイスになる必要はない」という意図を込めて、題名を名付けたという
- だが、岡本太郎以来、日本で「爆発」にはむしろ良い意味しか無いので、(女子は甘ったるいだけでなく実はもっと素晴らしいのだというように)むしろ、筆者の意図とは真逆の意味になってしまっている
- この本は、様々な映画や文学作品について、フェミニスト、そして腐女子の観点から語っている
- 時事ネタにも触れており、「女だけの街」の章では、文学作品や実在するコミュニティの例を豊富に挙げているし、「ディストピアSF」では、未訳なうえに一度絶版になっている女性作家の作品もの名前も出している
- 文章は読みやすく、気楽に読めるし、多くの作品についての概略を知ることができる
- 舞台の演出をそのまま映画に持ち込んだ、華やかなバズ・ラーマン映画の魅力など、比較的マイナーな作品に触れることができるのも良い
- ただ、その批評はフェミニスト観点を打ち出すために他の視点を切り捨てているところもあり、そこが惜しい
- 例えば筆者が絶賛する映画『ファイト・クラブ』の感動的なラストシーンにしても、実はサブリミナル画像が仕込まれていて、単純なロマンチックエンドにはなっていない
- また、筆者は女性の性欲を肯定し、女は「愛とセックス」で男を必要とすると語っている
- そこまでは良い
- だが、彼女が嫌悪するディストピアSFでの女性嫌悪にしても、それは(苦境時に自分をサポートしてくれるパートナーを求める)男性側の「愛とセックス」への期待の裏返しなのではないだろうか?
- まあ、結局それが押し付けがましいエゴでキモく、女性の性欲を受け入れられないうえに異性を道具化しがちなことまでは、否定できない
- しかし、どうせならそこまで掘り下げてから、男女の共生を考えて欲しかったところはある
- なにより、「キモくて金のないおっさん」は、社会に助けられず生存すら危ういことが問題視されているのに、それに対して悲劇的な結末を迎えるチェーホフなどの古典に学べと諭したところでなんになるのか…
- 総じて、女性側の苦悩や不幸についての説得力がある弁護をしているが、ほとんどそこだけで終わっている感があるのが、ちょっと残念な批評集である
電子化◯
オタサーの姫 ジャンヤー宇部 監修:サークルクラッシュ同好会
- バズワードである「オタサーの姫」その「現象」を研究した本
- 著者の力不足のため内容はほぼエピソード集でしかなく、ネトゲやソシャゲ、ニコ生などを取材できなかったこと、調査機関の大半が「オタサーの姫」という言葉が生まれる前だったなど、不足な点も多い
- しかし「姫」側の理由だけでなく、「姫」を作り出してしまう男性たちの願望や責任までしっかり追求してある良書である
- ハードなセクハラが行われていた例もあり、男性側の責任がはっきり分かる内容だったりもする
- 男性多数の居場所に潜り込んでいく女の子について「オタサーの姫」だとか軽口を叩く方は楽かもしれない
- だが、そのコミュニティが、ただ女性であるというだけで排除されてしまう場所なのだとしたら、それが本当に良いことなのか疑うべき
- 元サークラで、炎上したブロガー鶉(うずら)まどかは、恋のバフェット?
- 投資家ウォーレン・バフェットのように、成功した上で説く「恋愛社会主義」
- 彼女が語っているるのは、みんなで良くしていこう支え合っていこうという、干渉的で、全体の幸福を考える功利主義
- わたしがしてきたことは、そんなにおかしいでしょうか
- だって、好かれたいと思って好かれるように行動するのはアタリマエでしょ
- すすんでモテようともしない男のコたちが、受け身のままで「テンプレな」女の子ばっかりを好きになって、そのことへの反省もなく手のひら返しの女叩きをするのって、すっごく腑に落ちない
- やっぱり、相互理解が出来てないから、恋愛がうまく行かないんだと思うんです
- 両方に敵愾心があって、お互いを同じ人間として対等に見ていない
- 若い男の子は、異性とのコミュニケーションに積極的ではない
- だから、高校生くらいから課外活動などで普段は違うコミュニティの男女が出会う機会を作るべき
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男が見えてくる自分探しの100冊 中村彰 中村正
- 「男」についてのブックガイド
- 97年刊行の古い本だが「男らしさ」の弊害から老年期の性、イクメンの本音や男が受け身のセックスまでカバー範囲は幅広い。
- ハゲ、男にとっての出産、美男のすすめや性的不能者裁判など、レアな題材を扱った本も多い。
- これから男がどう生きていくか考えるには、読んでおいて損はないと思う。
→イアテムやミヒトネッセ、グレンデルヒに勧めたいブックリスト。「男らしさ」から「自分らしさ」へ移るヒント集。
男はなぜ悪女にひかれるのか 悪女学入門 堀江珠喜
- 古今東西の「悪女」についての情報を集め、面白く解説している新書
- 著者自身も「悪女」呼ばわりされたこともあるだけに、その分析は詳しく分かりやすい
- さまざまな悪女たちを称賛したり批評しており、
- 自分たちを免責する男性たちを、批判しているだけでなく、
- 時代とともに、女性にとっても魅力的な存在として解釈されるようになった「悪女」イメージの変遷も追っている
- 「悪女」と一口に言ってもその実態は様々
- 顔はブスでも、教養でモテまくる女優(高級売春婦)のファム・ファタルも多いし、
- 男性たちと同じく野望を追っているだけなのに悪評を立てられていたり、権力闘争で利用された女性たちが、噂話を面白くするために「悪女」のレッテルを貼られているだけのこともある
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男の子を性被害から守る本 J.サツーロ+R.ラッセル+P.ブラッドウェイ
- アメリカのマサチューセッツ州の専門家とかつての加害者たちが、性被害を見過ごされがちな男の子たちのために書いた本
- 性的加害の罪で逮捕された男性たちが、過去を振り返り、己の経験を他者のために用いようとしている
- 文字が多すぎ、子供がひとりで読むには向いていない
- しかし、親のための手引としては、指示が具体的で優れている
- 被害者に対してのフォローや、自衛のための基本的な性知識もしっかり網羅されており、
- プライベートゾーンを触ってきたのが女性や親しい関係の相手だとしても、嫌な感じがするのはおかしいことではないし、
- たとえすぐに「やめて」と言わなくても、触られたときに気持ちよく感じたとしても、あなたがその人のことを好きでも、あなたが悪いわけではない、としっかり書いてあるのが良い
- また、実用的な護身術だけでなく、精神的に心身を守るための知識や心構えが記されており、
- 「性的な虐待を受けると一生傷を負う」「虐待体験を話させると心の傷を悪化させる」といった有害な神話から男の子とその親たちを解放し、他者からの助けを求められるようになることをうながしてもいる
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- 「性的な虐待を受けると一生傷を負う」「虐待体験を話させると心の傷を悪化させる」といった有害な神話から男の子とその親たちを解放し、他者からの助けを求められるようになることをうながしてもいる
「男らしさ」の快楽 宮台真司 辻泉 岡井祟之
- 「男らしさ」の肯定的な側面を見直そう、という危うい挑戦をしている本
- 「男らしさ」を全て捨て脱ぎ捨ててしまうのではなく、むしろ徹底的にそれに内在しながら、よりよいものへと徐々にずらしていくこと、その方が責任ある態度とは言えないだろうか
- それがあくまで「ふるまい」である以上、(「男らしさ」は)「男性」だけが行うべきものではもちろんなく、誰がおこなっても良いものである
- 超越性・ここではないどこかへは、男性と絶対に結びつく志向ではないが、近代では男性と結び付けられてきた
- だが、軍事が敗戦で駄目になり、そうした超越を追求する趣味は、鉄道という形で残るようになった
- 超越性も「ここではないどこか」という未来、外国からの輸入で発展してきた時代には適切な「ふるまい」を仕込む文化であった
- 「自分らしく生きるためにやる」という自己準拠性も、「自分らしさ」とは何かという問いに「自分らしさ」と答えるしか無いトートロジーにハマってしまう
- むしろ「男らしく」+「群れよ」集団関係性を養いつつ、内側からホモソーシャリティを基盤に、内側から「男らしさ」をズラせ
- 「男らしさ」を「男らしく」脱ぎ去るだけでは「再帰性の泥沼」へハマってしまう
- あらゆる空間を「舞台」として客を集め、もてなして繋ぎ止めるホスト
- ホストたちの「男らしさ」は他者志向型であり、相手と場面に合わせて変わる
- いわば、洋服のようにコーディネイトしているといえる
→六王とクレイ?シナモリアキラ?
〈男らしさ〉の神話 変貌する「ハードボイルド」 小野俊太郎
- ハードボイルド探偵小説とスパイ小説の2つのジャンルを通して、「男らしさ」の変化を研究した本
- 様々な「男らしい男」を描いた作品、そしてそれがアンチ・ヒーロー小説やレズビアン探偵小説、敵味方がはっきりした男らしい戦いを喪失した二重スパイものなど様々な作品が分析されている
- 現代ではタバコやアルコール、ギャンブルや銃器といった「男らしい」行為は「男」のものではなくなった
- だが簡単にその効力は消えない
- 「男らしさ」という価値観は、私たちの生活や思考法にぴったりとはりついている
- 別の見方をすると、「男らしさ」という社会的な記号において、さまざまな価値観が争っていて、文脈しだいで姿を色々変えて生き延びてきた
→【呪文】?
- 「男らしさ」は統一基準を持てず、ほころびながらたえず織りなされていくもの
- 今後とも、「男らしさ」は、神話として君臨しながらも、誰にでも引用可能な技術として利用されていくだろう
- 同時にそれに伴う責任も分散するのである
- そして、今までの「男らしさは男のものだ」とする観念そのものは、しだいに退いて行くことになる
- 「男らしさの神話」は、後戻りできないような変化が進んでいる
- その先行きは不明だが、少なくとも私立探偵やスパイを無条件に男らしいと考えるのは不可能となった
- 本名を確定できないハメット『血の収穫』のオプ、母の名しか持たない孤児院出身探偵・アンドリュー・ヴァクスの探偵バーク
- ハードボイルドお決まりの道具立て、涙を隠す雨、過去を忘れるためのアルコールという一種の感情制御
→苦痛に耐える「男らしさ」を演出するジャンル「ハードボイルド小説」の後継にして、その価値を零落させるものとしてのシナモリアキラ(『サイバーカラテ道場』)
男らしさの歴史 A・コルバン/J-J・クルティーヌ/G・ヴィガレロ:監修
- 西欧の歴史文化を中心に、「男らしさ」どう捉えられ、どのように教えられてきたのかを大量にまとめた本
- 全三巻であり、百科事典のように分厚い
- 一冊だけ読むなら『Ⅲ男らしさの危機?』がオススメ
- 男らしさの神話は「全能への欲求」と「男性が知る不能という現実」との解消できない矛盾を、ひたすらに解消しようとするものである
女はポルノを読む 女性の性欲とフェミニズム 守 如子
- ポルノグラフィの具体的な分析を通じて、新たなフェミニズム・ポルノグラフィ論への道を拓いている博士論文、その書籍化
- 「性差別的な性意識を再生産している」というポルノグラフィ批判理論の妥当性を考えるために、ポルノグラフィの現状を明らかにしようとしており、
- 女性向けポルノの成立史から男女のポルノの比較、アンケートを用いた女性ポルノ読者の分析などを行っている
- 漫画雑誌の画像資料など、多くのポルノグラフィを分析したデータがあるのが良い
- 「あくまで実践 獣フェミニスト集団(FROG)」の紹介もあり、ポストカードで、ポルノグラフィによってエロティックなものに美化された女性のマスターベーションの意味を変えようとする試みについて触れられている
- また、その分析は「女性がどのようにポルノを受容しているのか」という点にも及んでいる
- それによれば、恐怖を感じないことが女性読者がポルノを楽しむための必須条件であり、
- その条件を満たすためには、読者や彼女が共感する作中人物が、自らの主体性の維持を認識出来ることが、必要なのだという
- それによれば、恐怖を感じないことが女性読者がポルノを楽しむための必須条件であり、
- 主体性を維持する方法は主に三つ
- ポルノグラフィの制作現場に対する信頼感の醸成によって、表現された性行為が、演技あるいはフィクションであることを保証すること
- (女性を含む)「受け」の内面を語るモノローグや工夫された物語による性行為の暴力性・支配性の緩和
- そして、読者が、物語の全体を把握し作品を批評するポジションに立つことである
- 著者は、ポルノグラフィの読者になることのうちにあるこれらの性的能動性を女性が獲得することは、既存の性の二重基準を揺るがすことではないか、と考察している
→一方的で、加害被害の関係が明確な「まなざし論」に対する異論?
- もちろん、「問題」を指摘することには重要な意義がある
- フェミニズムのポルノグラフィ批判運動は、ポルノグラフィにいやな感覚をもつ人がいること、性犯罪の問題が見過ごされていることを指摘するという重要な役割を担った
- 問題が放置されてるなら、批判はまずなされるべしだし、表現を作り出しているものはそれに応答する責任はあると思われるからだ
- 対話を経て、よりいい表現が生みされていく必要があると思うからである
- しかし、その一方で、個別の表現を批判するというスタイルの運動には限界がある
- その理由の一つは、表現は多様な読みが可能であるという点である
- 同じ立場に属する人同士であっても、ある人にとって不快感を与える表現が、他の人にとっては問題がないという場合が大いにあり得る
→視座の違い
- 誰が差別を決めるのか
- 批判運動は、それをおこなう当事者を「正しい」存在に祭り上げてしまう効果をもつ
- とりわけ、ポルノグラフィについての議論をするとき、「正しい」立場から意見を述べることには危険が伴うことを忘れてはならない
- 性の二重基準(ダブルスタンダード)
- 「母親運動」(仮):ポルノグラフィを大人男性の悪文化と位置づけ、子どもたちにこのようなものを見せないのが「母親の責任」であるとする
- この背景には、快楽的な性にたいする否定観を読者が、特に女性がもたされてしまう、という構図がある
- 女性たちは、男女の性の二重基準に対応する形で作り出された主婦/娼婦という二分法にさらされている
- 主婦的アイデンティティを維持するために、快楽的な性に対する否定感を表明し続けなければいけない現状こそが、問題にされるべきもうひとつの主題ではないか
- 「母親運動」(仮):ポルノグラフィを大人男性の悪文化と位置づけ、子どもたちにこのようなものを見せないのが「母親の責任」であるとする
- フェミニズムが、女性を単なる無垢な被害者と位置づけてポルノグラフィを批判するならば、それは、女性には性欲がないとする性の二重基準を、自ら再生産することになってしまう
→【レイシズム変数】- セクシュアリティについて議論をするとき、「無垢でもなんでもない私」から出発することの意義を忘れてはならない
- むしろ、いかなるときも、女性は性差別に対して無垢でも何でもないという、その点から議論は始められるべきであることを、何度でも確認しておきたい
- 確かに、抑圧・被害体験を言語化することは、最初の一歩としてとても重要なことではある
- 自分のせいだと思っていた生きにくさが、社会構造の問題だったのだ、とわかることの意義は強調してもしたりない
- しかしそればかりでは、フェミニズムの言説が女性の生きにくさを強調し、受動的な女性像を再生産することにつながってしまう
→「被害者の語り」が「被害者」属性を固定化させてしまうという悪循環 - 私たちは、むしろポルノグラフィの受け手に「女性」がなることへのジェンダーの越境性にこそ、目を向けるべきではないか
- 性差別と切り捨てると、ポルノグラフィがジェンダー秩序を揺るがしている側面を見過ごしてしまう
- 女性向けポルノコミックは、性行為の対等性を示す傾向にある
- それは、二者間の性行為で、受けは自分が感じていることを相手に見せつけることによって、相手をコントロールするという能動性をもつことを描いている
→『邪視』への対抗法?『使い魔』系の技法?
- それは、二者間の性行為で、受けは自分が感じていることを相手に見せつけることによって、相手をコントロールするという能動性をもつことを描いている
- 男性も女性もポルノグラフィを楽しむということを前提にすべき
- 女性の性的欲望が無視されがちな社会で、フェミニズムの議論が、「女性がポルノグラフィを楽しむ」という経験を見過ごすことがあってはならないだろう
- もちろん、女性が自己を性的でないと提示することは、単に否定されるべきことではない
- 過剰に性的なイメージで意味づけられてしまうことを批判することは、主体性の回復として重要なことである
- 過剰に性的に見られることを拒否しながらも、自らの性的欲望の否定に陥らない語りを私たちは模索していく必要があるだろう
→『呪文』による対抗?語り直し?
- どのような事柄にも、ジェンダーを維持する側面と壊乱する側面がある
- 私たちはそのどちらの側面とも緊張関係をもちながら、思考を深めていくしかない
電子化◯
- 私たちはそのどちらの側面とも緊張関係をもちながら、思考を深めていくしかない
怪異と身体の民俗学 異界から出産と子育てを問い直す 安井眞奈美
- いろいろなことを調べた民俗学系論文の寄せ集め
- 胎児分離習俗
- 伝統文化的な法と近代的な法の対立
- 現代の水子供養、胎児を一個の独立した生命として扱い、「この世に生を受けたものを」あの世に送って成仏させるというのは、最近の考え方
- 胎児を分離して埋葬する習俗は、現代へと考え方が移り変わる過渡期だったのではないか?
→扉の向こうのエントラグイシュ、ヴァージル?
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改正児童ポルノ禁止法を考える 園田寿 曽我部真裕
- 2014年に成立した禁止法について、その背景や規制の論理につて多くの人が分析している本
- 専門書寄りで難しいが、じっくり読めば分からなくもない
- スヴェトラーナ・ミンチェバ:性的空想に法的制限を設けるべきか?――アメリカにおける歴史的、法的及び政治的な視点
- 想像の産物のうち、性的状態に置かれた子どもを想像することほど今日のアメリカ文化のなかで「明らかに不快」なものはない
- しかし、なぜこれがパニックを引き起こしているのだろうか(残酷な想像は自由なのに)
- 性的に露骨な想像を不必要に罰することは、アメリカ文化が性と若さに関するその強迫観念に関して感じている罪悪感への、対処法の1つなのだろう
- タブーとされる空想にふける小児性愛者は、若さを性の対象とすると同時にその無垢さに執着する文化の罪悪感を投影するスクリーンとなり、また、その罪悪感から距離を取るためのスクリーンともなっている
- ここでの嫌悪感は、我々自身の下劣な面を悪魔化されたスケープゴートである小児性愛者に投影することで、こうした下劣な面を排除し除去したいという欲望として理解することが出来る
- 彼らを尊重することすらそこまで難しいのはなぜだろうか
- それはおそらく、我々自身の「純潔さ」の観念を維持し、社会的な不安を抑制し、さらには我々の人間性が決してそれほど純粋なものではないことを否定し続ける否定し続けることを可能にするスケープゴートを見出す必要があるからである
- 19世紀末から20世紀初頭の反堕落団体は、都市化や移民がもたらした変化に恐怖を感じ、自らの不安を成長中の大都市で働く若い男性に投影した
- こうした不安はしばしば、これらの若い男性が読む性と犯罪にあふれた通俗小説に対する嫌悪という形をとった
- その後、同性愛者の欲望が嫌悪の対象となり、今日では小児愛者の想像が対象となる
- 嫌悪の情の原因は複雑であり、部分的には自然によるもので、部分的には文化によるものである
- しかし、我々の大多数にとっては常に、嫌悪の対象となっているものを合理的に考えることはほとんど不可能である
- そして、こうした不可能性が、アメリカにおけるわいせつ法の根本的な矛盾の背景をなしている
→異獣?
電子化×
カレー沢薫のワクワク人生相談 カレー沢薫
- 創作作品関連や女性、レズビアンの性欲も扱っている人生相談はいまだ数少ない
推薦図書/その他を参照のこと
グローバル・ディスコースと女性の身体 アフリカの女性器切除とローカル社会の多様性 編著:宮脇幸生 戸田真紀子 中村香子 宮地香織
- 女性の一部、あるいは全部を傷つけたりする風習である「女性器切除」をめぐる問題についての論文集
- 図や表によって実態が分かりやすく説明されているだけでなく、廃絶運動についての批判や、(イソップ寓話の太陽のように)穏健で調和的な戦略の有効性などが語られている
- 女性器切除は、廃絶運動では強い否定の含意をこめて「FGM」と呼ばれ、その呼称は、国連の諸機関などで監修を廃絶するための「道具」として多用される
- だが、それでは施術を受けた当事者をも傷つけてしまうとして、より中立的な「FGC]と呼ぶ人々もいる
- FGMのような運動の言葉には、落とし穴もある
その言葉が大きな政治的うねりとなったときに、言葉に含まれているものの多様な在り方が削ぎ落とされ、
それを生きている人たちの意味に満ちた世界が、言葉の定義の方に押し込められてしまうことがあるのだ
そしてそれを「肯定するか否定するか」という二者択一で、「敵か味方か」が決められてしまう
→『呪文』 - FGM/Cは、ニーダムの定義する「親族」のようなものではないだろうか
- それは、全体として一貫した共通性のない現象に名前をつけて、あたかも独立したカテゴリーのように扱っている錯誤なのでは?
- FGM/Cの実態は、多様である
- あるいは成人の儀式「女子割礼」として、あるいは女性の貞操を守るため、底辺層の若い男性が自分の不満を晴らすため、日本を含む先進国での美容整形の流行として、
- そして、女性たち自身が、自分たちのアイデンティティーと自己決定のために男性に抵抗して行う場合もあるのだ
- 多様な現象を、特定の見方しかできないメガネを通して見てしまうと、それぞれの現象の精密な理解は不可能だし、その地域に生きる女性たちの幸せを向上させることは難しいだろう
- ちなみに、男子の割礼に対する反対運動は、ほぼ存在しないという
- また、この本には女性器切除だけでなく、その周辺文化の記述もある
- 一夫多妻を維持し続ける厳格な家父長制社会の裏側に、女性たちの性的な奔放さを許容する側面があったりする
- 子供が欲しい女性のため、女性たちが集団で歌いながら旅をして、地域の独身男性を集団で「レイプ」する慣習もあるとか
- そして、その文化で「女子割礼」は、「出産可能な身体」を作り出すものとして意義を持ち続けてきたのだ
- 一夫多妻を維持し続ける厳格な家父長制社会の裏側に、女性たちの性的な奔放さを許容する側面があったりする
- また、いまや「反FGM」というキーワードによってもたらされる資金は莫大であり、それは様々な形で人びとに分配されてもいるという
- ポジデビ・アプローチの有用性
- 成功例に注目することが、人々の意識を変えるのに有効
- 上手くいっていることをもっとも予期しないところから探し出し、「内から外へ」とその活動を始め、コミュニティ内で拡充させる
- つまり、女性器切除をしていない人たちを見つけ出し、運動に協力してもらうのだ
- ここで重要なのは、ソーシャル・チェンジを最初からポジデビの目的にしないこと
- FGMに起因する問題を解決する意識が高まれば、社会の変化が生じるかもしれない
- NGOが地域に溶け込み、FGM廃絶運動と共に、地域の開発プロジェクトを行い、人びとが求めるものを供給するようになれば、
- 人びとはFGMの廃絶運動にも耳を貸すという
電子化◯
- 人びとはFGMの廃絶運動にも耳を貸すという
源氏物語の教え もし紫式部があなたの家庭教師だったら 大塚ひかり
- 『源氏物語』を「女子教育の書」として解釈し、女性が生きるための教訓を読み取ろうとしている新書
- 女性が幸福になるには、どう生きれば良いのかという例を作品から拾い出して解説している
- 紹介される女性たちは、みんな魅力的
- しかし、当時の女性が置かれていた状況があまりに過酷かつドロドロしているので、そうしたヒロインの大半が不幸になっていたりもする
- 最後に、誰かの身代わりにされる「ダメ女」から脱出できた浮舟のエピソードで締めているから良いが、わりとハードな内容は人を選ぶかも
- 『源氏物語』最大の教えは、「かけがえのない人なんていない」ということだと私は考えている
- というのも、『源氏物語』のメインの恋愛はすべて「不倫」である
- 紫式部は、「どんな優秀な人であっても、その代わりはいる」「それでも人は生きていく」を書くために、不倫設定を用いたのではないか
- どんなに愛を誓いあった二人でも、いつしか飽きがきて、ほかに心が移る
- 性愛において妻や夫の代わりはいくらでもいることを浮き彫りにしてくれる
- そして『源氏物語』のもうひとつの特徴は、手に入れがたい女の代わりによく似た女を手元においてセックスする「身代わりの女」である
- 女を「手に入らない誰かの身代わり」としてモノ扱いする男に対して、『源氏物語』の女は「ほかの男と寝たり、ほかの男の子供を生む」という逆襲をしている形
- 紫式部のメッセージ「人は変わる」「誰もが代替可能で、かけがえのない人なんていない」という、ぞっとするような真実
- だが、一見ネガティブなその真実はしかし、実は女子のみならず、すべての人を救う教えであろう
- どれほど愛した人との別れでもいつしか悲しみはやわらぎ、どんなに激しく愛し合ってもやがては別の人に思いが移る
- だからこそ、人は生きていける
- 仕事で追い詰められたら、その教えを思い出して、遠慮なく休んでほしい
→オルヴァのシナモリアキラ性?ソルダの前世へのこだわりへの否定?
- 仕事で追い詰められたら、その教えを思い出して、遠慮なく休んでほしい
- 同時に、また思い出してほしい
- 「かけがえがない人なんていない」というのは、あくまで他者の立場に立っての話
- あなたにとってあなたは唯一無二の命であるということを
- たとえ人があなたを人間扱いしなくても、明日に死が迫る身であっっても、あなたはその身を大事にしなくてはいけない
- まず、あなた自身が自分を人間扱いする
- 幸福を感じるカナメはそこに、ある
電子化○
- 幸福を感じるカナメはそこに、ある
恋をしまくれ 田嶋陽子
- フェミニズムの代表的論客による自伝的エッセイ
- 乙女ゲーム並にバラエティ豊かなイケメン(すごく性格が良くて紳士的な男性)たちが登場する恋愛譚は、読む人を選ぶかも
- 父親から愛された実感が無かった著者が、愛と自分の人生を求めた放浪記であり、愛されたい願望を克服するまでの話
- 自分が自分であること、そしてそのための仕事が一番大事であり、それは何物にも代えがたい
→マラード、アレッテ
子どもと性被害 吉田タカコ
- 性被害やそのサバイバーにどう向き合えば良いのか、を説いている新書
- ハードな性被害の事例がいくつも載っているので、注意
- サバイバーが語りたいときには、その話に耳をきちんと傾けることや、人権教育としての性教育をすることの必要性を訴えている
- サバイバーをサポートする人にも、休養と適切な距離が必要であることをしっかり書いてあるのが良い
- 女性への被害だけでなく、母子姦についても、しっかり触れている
- 相談先の電話番号や子ども向けの絵本リストも載っている
- ただ、性被害の偽りの記憶である「過誤記憶症候群」については2~7%はあると書きながらも、実質的にそれを全否定している
- また「タブーだからこそ、かえって欲望が高まる」という児童ポルノや性犯罪の性質についても明記はしているが対策は無いし、自分たちの言動がそれを促進することへの危惧も皆無である
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子どもを犯罪から守る 内野真
- 副題「犯罪被害当事者による、子どもを被害者にも加害者にもさせない方法」
- 具体的で効果が高そうな、犯罪予防や性教育の授業を紹介している本
- 子どもに性知識を与えるだけでなく、自ら考えさせることで防犯意識や自尊心を高めることの重要性を強く訴えている
- また、性的知識の不足から性被害を受け続けた筆者自信の過去も書かれており、
- 自尊心を損傷してしまい、ついには我が子を虐待までしてしまった悲痛なエピソードと
- 長い年月を経て、そこから回復し自分を守ることが出来た再起の話が描かれている
- 加害者化予防策もその経験を元にしており、親がまず自分を癒すことで「負の連鎖」を防ぎ、加えて教育によって男性「ジェンダーからの精神支配」をも防ぐことを提唱している
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サキュバス オノレ・ド・バルザック
シェイクスピアの男と女 河合祥一郎
- シェイクスピア劇の男女像を、その時代の男女観にもとづいて解説している本
- それらにみられる女性差別や男たちの面倒臭さ、そして何より劇の構造や面白さを、時代背景を含めてしっかり説明している演劇批評
- 女性差別的としての悪評も多い『じゃじゃ馬ならし』を中心に、いくつもの劇の男女やその時代背景を語っている
- 特に、シェイクスピア作品中に見られるミソジニー(女性嫌悪)が、ただの「女性嫌い」ではないとする分析は、ジェンダー学的にも興味深い内容となっている
- それは、自分の「男性性」が危うくなったとき、本能的に女性一般を攻撃することで「男性性」を守ろうとする病的な症状であり、
- 娘に怒りをぶつけるリア王など、彼らは、自らの中に「女性性」を受け容れた男性が、自分の中から女性性を排除して自己を鼓舞しようとしているのだという
- そこには、イヴに原罪の責任を負わせるキリスト教解釈の影響もあるとか
→イアテムなどの女性嫌悪の正体?自身の弱さと悪の否定?ミサンドリスト(男性嫌悪者)も、性別逆で陥りがちな心情?
- また、新聞の劇評やシェイクスピア以外の無数の劇を引用しているにも関わらず、かなり読みやすいのも良い
- 加えて、この本では、クレオパトラから男装する女性戦士まで、さまざまな女性像も記述されていて、それもまた面白い
- その文章からは、筆者の恋愛観や「男らしさ」へのこだわりも見え隠れはするが、
- シェウクスピア劇は、「人間は愚かだからこそ面白い」とする作品なのだ、という方向性なので、妙な説得力がある
- なにしろ、シェイクスピアは、恋愛や結婚ですれ違いラブコメから大団円に終わるような喜劇を、たくさん書いた劇作家なのだ
- 現代まで残り続けるような面白い劇の背景として、ジェンダーという「役」や人間自体の面白さを呈示されたのなら、これは納得しないわけにはいかないではないか
- ただ確かに、筆者が肯定する「気は優しくて力持ち」、女性に恭順する騎士道的な「男らしさ」は、時代錯誤ではある
- 著者が、まるで文人の時代を嘆く武人たちのように「男」を演じられない情けない男の増加を批判するのも、シェイクスピアの時代ならまだしも21世紀には似つかわしくない
- 男が男性優位主義を信じると同時に、女も女性優位主義を信じれば良いとしたり、男女が互いにプライドを認め合うからこそ、優雅な宮廷恋愛も生まれたとする主張にしても、
- 男性優位主義がもたらす数々の弊害の前には、説得力はない
- しかし筆者は同時に、 「男らしさ」や「女らしさ」があるからこそ、世の中は面白いのであるが、それは同時に愚かしいものでもあるともしている
- また、男と女は、玉虫色でいかようにも解釈できる矛盾した共同体であり、 概念自体も対立しつつ共存する一方で、個々の男や女もまた玉虫色なのだ、としている
- 人間の魅力や愛らしさは、愚かしさにあるのだ
- 人間的な欠点を愛せなければ、恋もできないし、自分をも愛せなくなるだろう
- 愚かさを愛することで人間としての喜びを味わうことが出来る、と
- そしてまた筆者は、「恋は全て空想の所産」であるともしている
- 幸せなど空想が産み出すものにすぎないけれども、その空想に身を任す決意をしなければ、幸せはつかめない
- それはいわば人生を夢にかけるようなものだ
- そもそも、文化自体、想像力の産物であり、それらも想像力の産物なのだと
→『邪視』?
- 『じゃじゃ馬』ならしは、主役ペトルーキオの愛とキャタリーナの陥っているジレンマを理解してこそ、意義ある劇である
- 当時の社会観念では、女性には結婚する以外に生きる道が存在せず、キャタリーナも当然結婚したがっていた
- キャタリーナは愛を求めていたし、結婚にもなんだかんだで応じている
- ただ、彼女はお嬢様育ちのためにあまりにプライドが高すぎて、相手を受け容れるやり方を知らないのだ
- キャタリーナが攻撃的であるのは、世間の目を気にして中傷から身を守ろうとするプライドゆえであり、あまりにも自尊心が高いために世間を敵に回している
- 彼女は、自分に「じゃじゃ馬」のレッテルを貼った世間に対して激しく反応しすぎて、かえって「じゃじゃ馬」ぶりを発揮してしまうというジレンマに陥っているのだ
- 現代人がキャタリーナ同様に見失っている価値観
- 放縦が自由と履き違えられると、自分の不満を他人にぶつけるキャタリーナが自由な女と間違えられてしまう
- 何でも好き勝手に言う自由を与えられれば、それで愛のある夫婦生活が保証されたことになるのだろうか?
- 夫婦が愛し合うというのは、そうした即物的なレベルから離れたところにあるというのを、ペトルーキオはいわば逆説的なやり方で教えようとしている
- ペトルーキオが説くのは、外見と内実の相違
- 「他人の目や外見を気にせず、自分に素直になること」
- プライドが高すぎれば、愛に身を委ねることは出来ない
- 初期の喜劇でシェイクスピアが提示したのは、結婚によって〈個〉を〈夫婦〉のなかに解消する生き方だった
- シェイクスピアの考える愛とは、自分のすべてを相手のものとするという激しいものであり、そのとき男女は一心同体というダブル・アイデンティティーとして存在する
- シェイクスピアは古い人間であるがゆえに、彼が描く〈夫婦〉は、男性主導の因習的なものになってはいるが、そこに描かれているのは、ひとつの愛のあり方だ
- 権利を主張し合う戦いは、真に愛し合う男女のあいだには成立しない
- キャタリーナの屈辱ばかりに注目する人びとは、シェイクスピア流のどろどろとした(〈個〉が存在しない)夫婦愛のなかに、非シェイクスピア的な個人主義を持ち込もうとしているのである
→トライデント的?
- ただ、筆者も『じゃじゃ馬ならし』が、あまり出来が良くない(=しっかり正しい解釈がされないと成立しない)劇である、という点は暗に認めているところもある
- この劇は、主役の演技が悪意的に見えると崩壊してしまうとされているので、その悪評や「誤解」も、またやむを得ないものではあるのだろう
電子化×
- この劇は、主役の演技が悪意的に見えると崩壊してしまうとされているので、その悪評や「誤解」も、またやむを得ないものではあるのだろう
ジェンダーとセックス 精神療法とカウンセリングの現場から 及川卓
- ジェンダー系の「治療」についての論文をまとめた専門書
- LGBTについての知識が更新された今では、もはや過去のものとなった記録ではあるが、日本の精神医療において、トランスジェンダーがどう扱われていたのかを知るには適している
- 更に、伏見憲明氏やゲイ心理学者との対話まであり、内容も充実している
- 小児性愛者:快感や満足の反面、抑うつ感、空虚感、罪悪感を抱えている症例も多い
- ポルノをレズビアンものやゲイものから、SMまであらゆるものを買いまくる男性患者
- こうしたポルノを借用することによってのみ、欲望を脚色したり、視覚化したり、さらには「上演すること」(act-out:行動化)ができるようにまでなる
- サディズムやマゾヒズム
- それらには、危害をごっこ遊びへと移行させる心理的プロセスがあるのではないか?
- 人生の初期に与えられた、痛ましい危害の影響力を反復する試みには、そういた種類もあるようだ
- 人生で苦痛を受けない人間など、存在しない
- それゆえに、そうした苦痛をどのように乗り越えるかに、人生の意義が関わってくる
- 受苦を歓喜へと変容させる精神的力動は、それが部分的であるにしても、人間存在と創造にとっては不可欠なのだ
電子化×
自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと 清田隆之
- 恋バナ収集ユニット「桃山商事」のメンバーが集めた「一般男性」たちのインタビュー
- (プライバシー保護のために再構成されているとはいえ)さまざまな男性たちの人生を垣間見ることが出来る、それなりに面白い内容になっている
- また、序列や強すぎるプライドなど、男性ジェンダーに関わる話も多い
- 構成は、それぞれのエピソードの後に、著者が、ジェンダー批判も込めたまとめと感想を述べていくスタイルとなっている
- ただ、そのエピソードがあまりに強烈かつ多様で、むしろ逆にジェンダー概念の限界を感じるところがあるので、
- 説教臭さはあまりないかもしれない
- というより、一部のジェンダー批判は、明らかに的外れである
- (もちろん相手方の女性の合意を得ている)SMのどちらも好きだというただの性癖の話が、ミソジニーだと言うのもそうだし、
- 嘘をついてスナックで働いたうえに、実の娘を捨てて愛人のもとに走った妻の一体どこに、女性差別で弁護する余地があるというのだろうか……
- 一流企業勤めで男性特権を得ているとされるその実態が、飲食チェーンの雇われ店長に過ぎなかったり、
- この本で一番ジェンダー学習に熱心なのが、性欲強すぎる不倫おじさんだったりするあたり、
- ジェンダーだけで、物事を分析することの限界しか分からない気さえしてくる
- ただ、そのエピソードがあまりに強烈かつ多様で、むしろ逆にジェンダー概念の限界を感じるところがあるので、
- さらなる欠点として、(社会的地位が高い話者が多いこともあり)表題に反して、自慢に読めるような部分も多い
- とはいえ、「いくらセックスに持ち込めても結婚までいけない」「仕事は順調だが裏面の無能な自分がバレるのが怖い」のように、
- その「自慢」は話者の欠点と不即不離の関係にあるので、これはある程度仕方がないところではある
- またこの本は、性的にややハードな話が多く、男性にとってすら読み勧めるのはわりと厳しいかもしれない
- 出会い系アプリの多用や不倫はまだしも、ストーカーに近い話や「好きな女性にオナニーを見て欲しい」とか言い出すのは……
- この本は、多くの例によって、率直に価値判断をしないで話を聞いてもらって、自分語りをすることの価値を教えてくれる
- だが同時に、そうした率直な話を聞き届ける環境を構築するのが、かなり難しいこともしっかり伝えてくれるのだ
- そして何よりも問題なのが、その散漫な内容である
- これでは、どうやって欠陥のある男性社会を変えていけば良いのか、それが見えてこない
- まず、男性個々人の意志に過剰な責任と期待を負わせすぎだし、
- 「性欲」に限らず欲望自体が「それを抱いている」個人にとっての暴力なのではないか?
- 逆にそうした暴力に支配されてしまわなければ、喜びや幸福を得られないのが、
- 生殖を定められた人間としての宿命なのではないか?
- そういった視点が欠けている
- それに、これだけ生き方のサンプルを並べると、
- 「男性社会」の暴力的で粗雑な人間関係や振る舞い方/ジェンダーの利点が、逆に見えてくるところがある
- それは、ジェンダー差別をしない「政治的に正しい」生き方とは違って比較的楽に身につけやすく、
- そのとおりに振る舞えば、自分の内面に踏み込まれることも自分を出す必要性もない
- 「裸の個人」同士の接触は、深い思索と言語化能力を必要とし、そしてときに異なる相手との深刻な対立を生む
- それなら、少なくとも同性同士では、ジェンダー的な付き合いのほうが、ある意味まだマシなのではないだろうか?
- この本の内容は、そうした深い思索には応えるにはあまりに散漫なエピソードの集まりに過ぎず、また批判や見直しのないテンプレートな倫理に頼りすぎてもいるのである…
- 抜粋・要約など
- 男性の話すエピソードは漠然としている傾向がある
- 具体性やディテールに欠け、そこにある感情や因果関係も見えづらい
- 規範や役割意識の内面化、無自覚な特権=ジェンダー
- 規範や役割意識にとらわれるあまり、そこから外れた自分を想像したり肯定したりすることが難しくなり、
- 自分で自分を生きづらくしてしまっている部分もある
- 相手のことを好きになる努力をすると、相手もこちらを好きになってくれて結果的に仲良くなれたりする
- あえて自分から話しかけにいったり、相手から言われた意見を積極的に取り入れていったり、
- そうすると自己洗脳されるというか徐々に苦手意識が薄れていく
- 基本的には自分が生きやすくなるための術だが「俺はここまでできちゃうぜ」みたいな他の人へのマウンティング的な部分もあるかもしれません
→『使い魔』『呪文』?
電子化◯
- 男性の話すエピソードは漠然としている傾向がある
下ネタの品格 文春文庫
- 作家や文学者、漫画家の男女の下ネタに関する雑談本
- 踏み込みすぎてセクハラになりかかっている部分もあるが、対談相手の女性が受け流しているのでなんとか対話として成立している
- 確かに下ネタの話ではあるが、その実態は性や性欲を、率直かつざっくばらんに語っているだけの大人の雑談であり、
- むしろ、どことなく強要や上品さすら漂ったりもする雰囲気すらあるほどだ
- 女性だけの談話や秋田伝統の性文化の話、互いに相手の作品について語る対談などもある
電子化×
11時間 お腹の赤ちゃんは「人」ではないのですか 江花ゆう子
出産の民俗学・文化人類学 安井眞奈美
- 名付け、儀式からケガレや胞衣を食する習俗まで、出産にまつわるさまざまな概念やその周辺事情をまとめた論考集
- 時代と共に、人々の考え方や感じ方が変わってきたことが良く分かる内容となっている
- 天理大学にて行われたシンポジウムを下敷きにしてはいるが、内容には基本的に特定の宗教への偏りは見られない(「天理教と出産」についての学長挨拶はある)
- 水子供養については、高度成長期時代の流行や世相を受けて発生してきたものだと論じられている
- また、現代の水子供養には、不妊治療や出生前診断などにより命を全うできなかった子どもたちの供養も含まれているという
- 「産育儀礼と性の逆転」
- あまりまとまりはない章だが、「階層社会の秩序と安定の源」「体が丈夫になるという俗信」「対立の解消によって人間を異なる次元の世界認識に導く」「両性の統合によって新たな時空間を創出し、危機的状況を変換し克服する」などの興味深い解釈があって面白い
- 戦前までは、男性のトリアゲジイサンがいたし、間接的に男性が出産に関わる場面なら、かつては比較的多く見られた
- 双子には勝ち負けがあるとされる
- 相孕みの俗信:二人が同時に一緒に何かをする、という禁忌の一例
- 同じ家で同じ年にふたりの余生が同時に妊娠し出産することを忌むもの
- 男女の双子、心中者の生まれ変わりとか兄妹近親姦の結果生まれたとされて、将来夫婦にするなどとも言われている
- 男女の双子は畜生児とされて一般に嫌われる
- 水子供養を韓国に広めることに一役買ってしまった人のコラムもある
- 産屋習俗には、「ケガレ」だけでなく、女性たち同士の「共助」や産婦の「休養」といった側面があり、古くからの習俗を女性たちが活かそうとしてきたのだという
- 産褥精神病は、「あるべき母親像」に当てはまらない母親の説明概念として役立っていた
- 産後うつ病は、母性の輪郭を広げ、柔軟にする役割を負っているようである
- 名字がない時代の庶民にも、通名があり襲名していた
電子化×
白雪姫(パロディ) きり子
少女と魔法 須川亜紀子
- 「ガールヒーローはいかに受容されたのか」とあるように、魔法少女アニメとジェンダー・アイデンティティについて研究した本
- 女の子向けアニメがどんな少女像を描いているかだけでなく、実際に見ていた女性視聴者の受け止め方や理解も、しっかりと分析しているのが特徴
- 日本におけるフェミニズムの流れとともに、魔法少女にまつわるイメージがどう変化していったかを追っている
→コルセスカやトリシューラ、アズーリアなど魔女たち
消滅世界 村田沙耶香
女性学/男性学 千田有紀
- 歴史的に男女の性差がどう扱われてきたのかをはじめ、フェミニズムやウーマンリブの簡単な歴史や概要などを、分かりやすく紹介している本
- 男性学についての記述は少ないが、そのぶん、参考文献リストもついている
- 男女に違いがないという見方から、違いがあるから、女性が「自然」と「文明」のその時悪く捉えられている方に属していると押し付けられるようになっていった
→イアテム、ミヒトネッセ、グレンデルヒ - 近年では、女とはなにか、抑圧者とは誰か自体がゆらいでいるという
- 田中美津の発言など、生産性の論理に反対したゆえに、後世にあまり受け継がれなかったウーマンリブ活動の記述が、パワフルでとても面白い
- 「便所のワタシと汚物のキミよ」
- 被抑圧者の日常とは、抑圧と被抑圧の重層的なかかわりのなかで営まれる
- 「解放」は、最終的に自己解放でなければならない
- 自分の問題が、他のひとの問題とどうつながるかを考え、自分の解放が他のひとの痛みをどう伴うのか、その痛みをともに考えること。
- そしてときには、その痛みをそのまま、誠実に引き受けること
- 親から自立するときのように
- そして「自分の立場からは、あなたの問題はこうみえるのだ」と発言することを忘れない
- 他者性と他者性がぶつかりあえば、共通点と相違点がわかるから、連帯し会えるところは連帯し、差異は差異として尊重すべし
ステレオタイプの科学 クロード・スティル
- 差別的な先入観が与える影響とその対策
こちらを参照のこと
性教育、どうして男女はすれ違ってしまうのか。『おうち性教育はじめます』の著者と考える
- 性教育本の著者とイラストレーターへのインタビュー
HUFFPOST記事へのリンク
性教育120% 原作田滝ききき 作画:ほとむら
性食考 赤坂憲雄
- 性と食とタブーについてのエッセイ
- 深い考察はないが、触れる範囲は広く、ハイヌウェレ神話や生贄、異類婚姻譚についても触れている
- もっといい本が見つかったら、忘れても良い本かもしれない
性と懲罰の歴史 エリック・バーコウィッツ
- 19世紀までの「性犯罪」の歴史をまとめた本
- 西欧だけでなく、オリエントや古代ギリシャの事例もあるのが良い
歴史を通してみれば、「性犯罪」を罰する基準やその背後にある道徳観は様々であることを教えてくれる - ただ、その内容はR18(G)なものばかり
- 女性は不倫を疑われただけで即・死刑、獣姦は動物も一緒に死刑、自白で「真実」が得られるまで繰り返される拷問、そして罰されない男たちの性暴力の数々……
- この本には特にフェミニズム的な主張はないが、それにも関わらず、読んでいると世の中には、性差別にまみれて性暴力を振るいたがる男しかいないように思えてくるほどだ
- それはなにも、当時の法制度だけが特段に邪悪であった、というわけではない
- トラブルが法廷に持ち出されない場合には、問題は、家長や近隣住民によるリンチという形で解決されてしまったからだ
- そして、時代とともにそのような女性の不倫への風当たりは弱まり、男たちの性暴力もきちんと「性犯罪」として裁かれるようになっていくが、同性愛への偏見は現代アメリカにまだ色濃く残っていたりする……
- 古代ユダヤ人は、物理的に劣勢に置かれているという感覚に取り憑かれており、彼らはそれを霊的な言葉で表現しなおした
- たとえば厳しい性的境界線を引くことで、政治的統一体としての国民の数を増やそうとしたのだ
- その点、男同士のセックスはその境界を曖昧にしてしまう
- 男に女の「受け身」的な役割を担わせるし、獣姦同様、この行為からは子供が出来ない
- また、聖書における反同性愛的な法律は、外交政策の道具でもあった
- 神が命じたとおり、非ユダヤ世界の人達が「しているようにはしない」ことがユダヤ人の使命であり、同性間のセックスは「穢らわしい異教徒」の習慣の一つだった
- それゆえに、それを拒否することで、ユダヤ人は自分たちを差別化することが出来た
- 敵が同性愛を許可しているのであれば、ユダヤとしてはそれを禁ずるほかないというわけだ
- しかし、同性愛は常に嫌われ、犯罪と考えられていたわけではない
- 19世紀に入るまでは、異性愛や同性愛を絶対的な指向とする考え方はなかった
- なんと、ざっと13世紀までは、地中海沿岸全域の教会で男同士を結びつける儀式が行われており、聖職者同士の結合の事例もあったほどだ
- また、イングランドと地中海沿岸社会の多くでは、アフェルモ(兄弟の絆)契約という、同性カップルに適用できる制度が存在していた
- アフェルモは、ひとつの所帯で「ひとつのパン、ひとつのワイン、ひとつの財布」=すべての財産を分け合うことを決めたふたりが交わす契約書だった
- そうした契約は、兄弟が共同で農場を相続したり、よそから移住してきた人びとが、疫病で持ち主を失った広大な土地で労働力を集約しようとしたときなどに使われた
- しかし、純粋に功利目的でこの契約を結ぶ人はいなかった
- これは個人として深い関与を求められる契約だったからだ
- アフェルモによって与えられたのは、生殖よりも愛や相互的な関心を重視した家族をつくる機会だった
- また、この本には女神たちの記述もある
- たとえばウェスタの巫女は、世の不幸の責任を問われ生き埋めにされたことも多いが、女神に祈り奇跡(トリック?)によって命を救われた記録もあるのだ
- 中でも傑作なのは、自分にちなんだ教義や祝祭を開く資金にしてほしいと、遺産を残した高級売春婦フローラの話だ
- 娼婦にちなんだまつりに抵抗を感じたローマの元老院は、フローラを花や農産物に結びつく豊穣の女神としてたてまつることで世間体をつくろおうとした
- だが、実際には誰も尊厳など気にしていなかったようだ
- フロラリア祭は、売春婦の見本市となり、競技場で娼婦たちが剣闘士に扮しておどけるわいせつな見世物が演じられていいたという
- 筆者は、男性たちの女性への敵愾心は、月経や妊娠に対する恐怖に由来するものだと解釈している
- 男たちは、不意に現れる月経血を見るたびに、肉体の上では自分たちが勝っているのに、自分たちには新しい命を生み出せないことを思い知らされたのかもしれない
- 男はなぜそうも手つかずの女と結婚することにこだわったのか?
- おそらく、諸女性へのこだわりは、女性を押さえつけて支配するための手段のひとつだったのだろう
- 処女を花嫁に迎えることで男は力を誇示し、結婚前の娘の純潔を守れるかどうかによって、その父親と兄弟たちは管理能力を問われたのだ
- そして、この本には、痛々しい迫害以外の面白いエピソードもいくつかある
- 例えば、異性装やトランスジェンダーらしき人物の記述
- その中には、男装して結婚詐欺どころか結婚や革のペニスでセックスまでした女性や、女装した娼夫までいたという
- 他の項目では、「狼娘(リュキスカ)」と名乗って趣味で娼婦をやったり、宮廷に娼館を建てたというクラウディウス帝の妻メッサリナの話もあるし、秘蔵されていたエロ絵を出版して大目玉を食った業者の話もある
- 「わいせつな出版を禁じる」という概念が成立する前の混乱を知ることが出来るという意味でも、これは貴重な資料と言えるだろう
- 例えば、異性装やトランスジェンダーらしき人物の記述
- レヴィ=ストロースは間違っていた
- 近親相姦も、いつでもどこでも禁忌だったわけではない
- 古代エジプトでは、近親婚は一般的な営みの一部であり、イシス神話の根幹をなす出来事だった
- 王家の娘たちは、父親との結婚しか許されないこともあった
- 近親婚は、財産を囲い込む手段であると同時に、ゾロアスター教を信じていた古代ペルシャでも聖なる文化だったのだ
- 要は、「永久的な」もしくは「生来的な」性に関する法律など事実上、存在しないということだ
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聖なるズー 濱野ちひろ
- 長年性暴力を受け続けた筆者が、性について別の角度から知るために、ズー(動物性愛者)について調べたノンフィクション
- 「開高健ノンフィクション賞」を受賞しており、かなり評判がいい
- 筆者は、DV男につきまとわれ、わざわざ離婚の法制度を使わなければ、その加害から逃れることが出来なかった
- 取材対象には大きく偏りがあり、世界でいまのところただ一つの動物性愛者団体「ゼータ」、そのパッシブパート(同人用語で言う「受け」)がその大半を占める
- とはいえ、同居までして誠実に取材した本であり、その内容はわかりやすいだけでなく様々な意味で面白い
- ちなみにタイトルの「聖なる」は単なる著者の印象であり、ズーに宗教とのポジティブな関係性などはないことに注意
- ズーの間では、対象動物との間に育まれる「パーソナリティ」が重要視される
- それは上手く和訳できない概念であり「関係の中に見いだされる/生まれる人格」とでも言うべきもの
- ズーにとって、性愛は絶対ではない
- 対等性を重視し、性のための訓練などをしないことがモットー
- 彼らは、自分の快楽のために動物を利用したり支配するビースティ(獣姦愛好者)やズー・サディスト(動物への性的虐待者)と自分たちを切り分けている
- ズーが求めているのは、人間の代替としての動物愛ではない
- 裏切りのない愛をくれる相手として、
- ズーがまがりなりにもドイツで政治活動が出来ているのは、ナチスへの反動とも言うべきドイツの反ナチス精神によるものであり、セクシュアリティ差別反対のドイツの伝統があるため
- 性暴力の本質がペニスそのものにあるわけがない
- 短絡的にペニスに暴力性を見出していては、セックスから暴力の可能性を取り去ることは出来ない
- ペニスを悪者に仕立て上げたところで、強者と弱者、加害者タオ被害者のわかりやすい二項対立を生み続けるだけだ
- 暴力には不思議なことに何かを生む力がある
- 筆者にも「自分自身をDVに縛り付けていた」という、自己への暴力性があった
- 憎しみ、怒り離れておきたい感情を暴力は次々に生み出し、ついには暴力被害者の中にも暴力性を芽生えさせる
- 「偏見や好奇の眼差しにさらされることになれるのは強さ」
- 恐怖や悲しみがやってきては去って行くことを予め知っておけば、もうそんなものには振り回されないから
- 最後に筆者は、性暴力について書けるようになったのは、ズーたちから勇気をもらえたから、と語っている
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性という「饗宴」 伏見憲明
- 百科事典並みに分厚いが、ゲイ以外の話題も多く、なかなか意義深い本
- 『プライベート・ゲイライフ』の著者が、さまざまな人とさまざまなテーマを語った対話集
- フィストファックの聖性、ヤリマン身障者芸人の話、竹田青嗣の美醜の話、そして差別の話の話はアに関連あるかも
- 三人による鼎談も多いが、主催の伏見ともうひとりが意気投合して、最後にもう一人を置き去りにすることも多いので、鼎談としては失敗ぎみな場合も多い
- 伏見:(あくまで個人の試みとして)差別された位置・属性から楽しさを汲み出していくことも出来るし、そうしたい
- 吉澤夏子:フェミニズムの困難
- 「性関係がすべて強姦である」という、ドウォーキンの強姦一元論を前提にしてもなお、性関係が性差別という政治性を僅かに逃れて成立しうる
- 〈愛ゆえの性交〉の可能性があるということを言いたかった
- 伏見:運動的な感覚は「漂白する」方向性を持っている
- 松尾スズキ:清廉潔白であらねばならないという一種の強迫観念
- 闇の領域を認めずに、漂白された部分だけを全面に出すのはコレ自体がとてつもない「差別」だという気がする
- 人工的に美化された一面を強調するばかりじゃ、当事者を生きづらくさせるだけじゃないか
- 山田昌宏
- 専業主婦は、近代で試行錯誤されて成立した家族タイプの結果であり、(社会的)上昇だった
- 近代家族の要は、男性の給与が上がり続けることであり、それが専業主婦の楽しみだった
- 「伝説のオカマ」は差別か
- 松沢呉一
- 既存の差別反対運動の中に、当事者が唯一絶対の判定者だっていう考え方が非常に根強くあります
- これは差別された者は間違いをしないっていう前提で成立する話じゃないですか
- この発想は、差別されたと思った人は「被差別者」というグループに属し、彼らが差別した個と見なした人は「差別者」というグループに属し、差別という事象を判定する権限は「被差別者」のグループにしかないということですから、
- 実は差別の構造の逆転なんです
- どのグループに属するかの属性だけで、その発言(の意味)が決定されてしまう
- 明らかに間違っていると思われるような批判や言葉狩りであっても、メディアには判定する権限がないので対抗できない
- それは結局は「マイノリティ怖い」という雰囲気に行き着いて、結局全体が損をしてしまう
- 伏見
- 先に解放運動をやった人たちは前例がないわけだから、少しくらい失敗があってもしようがない
- うまく行かなかったことを解決していくための議論は、後続の解放運動をやる僕らが積極的に担う必要があると思う
- 野口勝三
- 僕の考えでは、差別の問題で最も大切なことは、普通の人間が日常的に持っているモラルの延長線上で、その問題を捉えることができる状態になっていること
- 「差別を受けた人間以外がその痛みを全く想像出来ない」のだとしたら、結局抗議を受けた人は、その問題を自分の問題として考えることができないということになってしまう
- そして相手の言うことを無条件に受け入れないといけないことになる
- 大事なことは「痛み」の絶対的な了解不能性を強調することではなく、相手の立場に立ったとき、自分の問題に惹きつけて考えることが出来るように、問題を提出すること
そこに差別をなくす可能性が拓かれる - そもそも社会とは、自分と異なる利害や感受性を持った人の存在を前提にして存在しています
- そして言論にとって大切なことは、自分には正しいと思えることを感覚の異なる不特定の他者に合理的に納得させる努力をいとわないことなんです
- それを放棄すれば、相手が理解できなくても仕方がないんです
- 「差別を受けた人間でなければその痛みはわからない」という言い方は、そういう痛みが存在しないものとされている社会であったりマジョリティがマイノリティの言うことに全く耳を貸さない状態であるなど、限定された一定の条件のもとでのみ政治的に有効であって、互いに関係を作っていこうという志向性がある場合にはむしろ問題なことが多いんです
- 最も弱い人の立場に立たなければならないことを徹底すると、現実の条件や自己の利害を捨象して、無条件に相手の立場に立つことが要請される
- それは、一般の人は、自分が普通の生活の中で作り上げている「自由」とか「良い」とかいうような価値が抵触されるのを感じるわけです
- 例えば、みんなで議論している時に、ある人が自分の特定の利害に基づいて、自分の意見を全部押し通そうとするのを、人は良いとは思わないわけですね
- そうではなく、お互いの利害というものを越えて、互いに共通了解を作り出そうと努力することを人はいい行為だと思うんです
- つまり、正しいとか良いという行動の根拠というのは、一方的な命令によってではなくて、相互的な自由というものを基礎にしないといけない
→しかし、この理屈は「一方的な被害者」である人々に受け入れられるものなのだろうか?
- 松沢呉一
性暴力 読売新聞大阪本社社会部
- 性暴力の被害者だけでなく、性暴力対策のQ&Aや性犯罪者更生に成功したカナダの取り組み、被害者を支える米国の性暴力対策チームの活動などを幅広く扱っている
- 性暴力の被害者への二次被害を防ぐために、社会全体に性暴力被害の実態を知らしめ、被害者へ適切な配慮ができる社会へ変えていくことが必要である
性問題行動のある知的・発達障害児者の支援ガイド 本多隆司 伊庭千恵
- 副題に「性暴力被害とわたしの被害者を理解するワークブック」とあるように、性暴力を理解しづらい障害者にその痛みを教え、犯罪を繰り返さないための習慣を学ばせるためのテキスト
- 普段の行動の癖、パターンが犯罪と結びつかないように訓練するための本
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性の進化論 クリストファー・ライアン&カシルダ・ジェタ
- 人間の性の進化に対する「通説」(スタンダード・ナラティヴ)を否定し、一夫一婦制や闘争・騙し合いが人類本来の姿ではないと説いている本
- 「通説」では、人間は一夫一妻が基本であり、男女は互いに異なる生殖戦略をもって争い合い騙し合うとされている
- しかし、この本によればそれは農耕以後の新しいふるまいであり、それ以前の人類は一夫一婦制に束縛されない「乱婚」性だったという
- この本の著者たちは、性的な貞操に対する考え方をもう少し柔軟なものにすれば、結婚はもっと安定するし、それによって社会や家族の安定性も増すはずだと主張している
- 彼女たちは、本書によって、人間のセクシャリティに関する議論を促進すること、それによって人間とはいかなるものであるかについて、その現実をもう少し見つめるようなってくれることを望んでいる
- 「フリントストーン化」:人間は、過去を推測する時に現在の道徳を反映させてしまう、現象
- ホッブズもダーウィンも自分の社会を普遍的なものだとして自説を描いてしまった
- この本が定義する「乱婚」(プロミスキュイティ):排他的な独占が無い性関係。一定数の継続中の性的関係を同時に結ぶこと。
- 無差別なパートナー選びや行き当たりばったりの見知らぬ個体のセックスではない
- 狩猟採集社会では、資源も性も全員の共有物であり、おそらくそれが唯一の生きる道だった
- 子どもの父親が分からない状況や複数の「父親」が産まれてくる子供に影響を与えると考えられている社会では、複数の父親の存在が子供をより強力に支えるのである
- 農耕と牧畜の開始が私有財産を作り、父親であることが重要で女性の地位が低下した社会を作った
- モソ族:中国雲南省と四川省の境に近いルグ湖を取り囲む山々のふもとに住む
- ルグ湖を母なる女神、湖を見下ろすガンモ山を愛の女神と敬っている
- モソ族の語彙には、「夫」や「妻」を意味する言葉はなくアズフという「友人」を意味する言葉が代わりに使われる
- 外国人と人妻のセックスが奨励されたりもしているが、それは成人であれば誰でも性的な自律性が厳格に守られているから
- 人類学者に散歩結婚と呼ばれているモソ族の社会制度「セセ」の実態は、結婚などではない
- 「セセ」には、誓いを交わしたり、財産を交換したり、子供の世話や貞節を求めるというようなことは、一切関係ない
- マーガレット・パワー『平等主義ーー人間とチンパンジー』
- チンパンジーは野生状態では平和的だったが、人間が餌付けを始めたために攻撃的になってしまっていたのだ
- それまでチンパンジーは毎日食べ物を求めてジャングルに散らばっており、互いの助け合いが全ての個体の役に立つ環境だった
- しかし、毎日同じ場所で、簡単に手に入る食べ物は限られた量しかないということをひとたび学んでしまうと、チンパンジーはだんだんと攻撃的な群れを作り「戦争」をするようになってしまうのである
- 人間の餌やりがゼロサムの環境を作り出したのだ
- 狩猟採集社会では、争ってまで奪い合うような資源は存在せず、人口の増大は集団を分裂させるが戦争の条件とはならない
- 自由(戦争からの)というのは、失うべきものがなにもないーそして獲得すべきものも何もないーことの、また別の謂である
- 過去の人類の社会行動は化石に残らないが、状況証拠や解剖学的な証拠から推測することは出来る
- リチャード・ドーキンスは確かに「利己的な遺伝子」という概念を生み出したが、同時に、彼は集団の協同性を、個体が目標に向かって前進する(それによって各個体の遺伝子の利益も増大する)一つの手段として見なしていた
- 経済学の中心を構成している「ホモ・エコノミクス」という原理は、一つの幻想・神話でしかない
- 共有地の悲劇も囚人のジレンマも、誰もがお互いの顔を見知っている小規模なコミュニティでは存在しない
- 匿名で運営されるような大規模な社会では共同所有はうまくいかないが、小規模なコミュニティでは現代に至るまで普通に機能してきた
セックスワーク・スタディーズ SWASH・編
- 性産業にたずさわる人々「セックスワーカー」とその運動をまとめるとともに、何よりセックスワーカーの多様性を主張している本
- 「セックスワーク」という言葉が獲得されるまでの経緯や性産業の歴史、そしてセックスワーカーへ支援者や表現者がどう関わっていけばいいのかまでを読みやすくまとめている
- 「被害者」と相手を勝手に名付けて本人の主体性を侵害する行為への批判や、性的合意にまつわる問題についてもしっかり書かれている
- 支援のために、相手や性産業についてよく知り、いつでも当事者たちそれぞれに合った"ストーリー"を「彼ら」と一緒に構築し、必要な選択肢を提示している
- サバイバーが、自分は相手と合意を取ってちゃんと関係性を築くことが出来るのだという想いを見に付けていくためには、サバイバーに対してあなたは尊重されるべき人なんだということ、「合意形成」や「尊重」とは何であるかを浸透させていく必要がある
- 「セックスワークは暴力の装置」という言葉も、性のあり方を一方的に決定している点では同じです
- 私はその「暴力装置」という言い方をする人に言いたい
- あなたがたが暴力をはたらいているんだって
- セックスワーカーの表現は、試行錯誤を重ね、問題と向き合うことが必要
- 性産業の規制は、そこで働くものに対する差別や抑圧・排除にもつながってきた
- IEFC(国際女性の健康連合)性の権利は人権である これが平等と正義の前提である
- 性的「志向」や「嗜好」であってもそれを差別してもならないという意見は強くない
- セックスエリート11か条:次世代を生み育てるのに適していない男女はセックスしてはならないというブラックユーモア
- 性と健康をセットで語ることへの批判
- 非規範的・非同調的なジェンダーやセクシュアリティが病理化され、排除されてきた歴史
- 行動と人格を不用意に結びつける危うさ
- セックスには危険が伴うものだという「不都合な事実」もある
- 性に関する言説は、どうしても個人の感覚を引きずってしまうもの
電子化◯(kindleunlimitedで0円)
その問題、経済学で解決できます。 ウリ・ニーズィー ジョン・A・リスト
- 女性差別問題についての研究もある
→推薦図書/その他/書籍類/あ~さ
大ヒット『鬼滅の刃』の隠れた凄まじさ 「男らしさの描き方」の新しさに注目せよ 河野 真太郎
- 「男らしさ」の描き方に着目した鬼滅分析記事
- 助力者男性という系譜を利用することによる別の新たな「男らしさ」を表現するということが、そこでは行われている
- だがここに、ひとつの問題がある。
- フェミニズムに応答する、いわば意識の高い助力者男性というのは、現実においてはミドルクラス的でリベラルな男性性だということだ。
- いわばそこには「勝ち組男性のフェミニズム」がある
- だがこのことは、当の「勝ち組」にも苦難をもたらすし、「男性性を見つめ直す」ということ全体にも苦難をもたらす。
- というのは、現在男性性をうまく「見つめ直す」ことができるのがリベラルなミドルクラス男性であるとして、彼らは同時に現在の超個人主義的な新自由主義社会の勝ち組なのであり、
- 男性性をうまく見つめ直せることはあくまで個人的で特権的な能力において行われるからだ。
- 男性性を個人で孤独に見つめ直さねばならない、そしてそれができないことは、「負け組」への転落を意味しうるという苦難。
- そこには集団的(社会的)に男性性の問題を解決するという回路は存在しない。
- 最後に示唆したいのは、『鬼滅の刃』が良くも悪くもなんらかの集団性を志向するとして、それはそのような男性性をめぐる個人主義のジレンマを乗り越えるためなのであり、その点でこの作品は「新しい」ということだ。
- 少なくともこの作品の男性性や家父長制に見えるものへの志向は、これだけの複雑な媒介を経て生み出されている。
- 子供たちがこの作品に惹かれる理由にも同等の複雑さがあると考えるべきだろう。
HUFFPOST記事リンク
誰も教えてくれない大人の性の作法(メソッド) 坂爪真吾 藤見理沙
- 現代ではまだ珍しい「パートナーを持たない」「非正規」「未妊」の方へ向けた話もある、大人のための性の本
- 男性側と女性側、それぞれの視点から書かれた章もあり、真摯にリアルな性の問題へ向き合おうとしている
- 制約こそが自由を担保するのであれば、私たちが性的に自由になるためには、性に関する作法(メソッド)を獲得する必要がある
→グレンデルヒ、イアテム、ミヒトネッセ的なヒトやその邪視に負けないために必要な知識
男子のための恋愛検定 伏見憲明
- 恋愛至上主義を否定しながらも、恋愛の価値を認め、すてきな恋愛をするための「恋愛力」や「恋愛資源」を蓄えることを勧める中学生以上向けの恋愛指南書
- 恋愛に夢中になるには、生活に余裕がなければならないので、基本的に近代まで恋愛は上流階級のものだった
- 「恋愛」はつい最近ブームになっただけで、ぼくらはいまその流れに身を置いているに過ぎない
- 近代という時代の前までは、「恋」よりも神様や殿様のほうがみんなの関心の対象だった
- 「恋」を極端に避けるのも、それはそれで問題
- 人間修業の場としての「恋愛」に代わるものはなかなかない
- 「恋愛」でもしないかぎり、自分という枠組みが揺るがされるような心の経験はあまりできないし、自身を外側から眺めざるをえない場面も与えられないだろう
- 「恋愛」によって、人は心のの容量を増やすことが出来るから、無理にする必要はないけど、ひとつやふたつしておいても損はない
- 「恋愛」は面倒な経験であると同時に、原理が単純なゲーム
- ゲームの原理は、たがいの「恋愛資源」をめぐる欲望
- 外見、コミュ力、学歴、お金や地位も「恋愛資源」となる
- どこででも通用する恋愛資源があるわけでもなく、また誰にでも有効な「恋愛資源」があるわけでもない
- 「恋愛」の相手を選ぶ時には、人はさまざまな面を総合して結論づけている
- 「思いの純粋さだけを基準にしているのが正しくて、その他のことを考慮するのが打算だ」と非難するのは、人間というものを単純にとらえすぎているだろう
- そもそも「恋心」自体、さまざまな「資源」によって複合的に作られる「イメージ」への「ときめき」や「好感」なのだから
- 「恋」はしょせん、自分の欲望なのだ
- 「恋」する思いには、そもそも純粋と不純はない
- どの「資源」によって「恋心」が刺激され、思いが膨張していくのかはケースバイケースであり、それらの「資源」の間に優劣をつけるのはナンセンスである
- 「恋愛力」というのがもしあるとしたら、それは「人間力」そのものなのだ
- キミが「恋愛」に強くなろうとするのなら、「恋愛」以外の実力をつけることが早道なのである
男性のジェンダー形成 〈男らしさ〉の揺らぎのなかで 多賀太
- 「ジェンダーの可変性」と「男性のジェンダー形成」に焦点を当てた研究の本
- 専門書なので少し読みづらいが、さまざまなライフコースをたどってきた男性たちへの聞き取りをとおして男性内の多様性や男性の被抑圧性を描いているだけでなく、こうした視座からの研究の限界や既存研究との相補性もしっかりと考察している名著である
- 従来の「性役割の社会科理論」は、ジェンダー秩序を可変的なものとしながらも、社会を不変で静態的なものとみなしやすく、また「生物学的な意味での〈オトコ〉が社会的に規定された〈男性〉となっていく過程」にもほとんど焦点を当てることはなかった
- この本は、その点を補わんとするものである
- 具体的には、性差別主義と反省差別主義が併存しそれらの勢力バランスが変化する「多元的変動社会」におけるジェンダー形成を想定し、ジェンダー形成過程の説明においても、これまで出会ってきた他者によって媒介されてきた規範を個人がいかに解釈してきたのか、によって説明するという、生活史的アプローチを採用している
痴漢外来 原田隆行
- 依存症を専門とする心理学者が、痴漢犯罪者の治療に取り組んできた経験をもとにして書いた新書
- 筆者は、性犯罪への対処には、処罰だけでなく「治療」も必要であり、その二つをセットで行わなければらない、と主張している
- (処罰は処罰として行うべきだが)実効性がある痴漢犯罪対策のためにも、税金浪費の削減のためにも、治療は唯一の選択肢なのだ
- 自ら積極的に治療に臨む性犯罪者たちの回復エピソードだけでなく、実際に、治療が再犯率を大幅に減少させているという先行研究もきちんと紹介されている
- 豊富なデータ支えられた専門書に近い記述に加え、小説のように情感豊かなエピソードや被害者が抵抗できない理由にまで、しっかり触れられている名著である
- 全ての痴漢が依存症だというわけではないが、継続して繰り返されるケースは、ほぼ間違いなく依存症である
- 最初は性的な興味・関心から始められた犯行も、最後にはストレスや孤独の解消や自尊心の回復のための手段となり、最後には自らが苦痛を感じても止めることが出来なくなってしまうこともある
- 依存症は、意志の力だけでは決して解決出来ないのだ
- 治療の基本は、問題行動を防ぐ対処スキル(コーピング)の習得、そして認知行動療法と薬物療法(対症療法)のようだ
- 文通による「弁証法的行動療法」
- われわれは、まず自分の感情を正確に理解していないことが多い
- 自分の怒りを受け止めて、自身を冷静に観察すると、怒り以外に感じている多くのことに気づくことが出来るのだ
- 本書では触れられているだけだが、本人の内側から「変わりたい」というモチベーションを引き出す「動機づけ面接」というものもあるらしい
- また、筆者は、エビデンスを重視した治療の必要性を呼びかけており、科学的に証明できないフロイトの精神分析などを否定してもいる
- 他にも依存症の類例として、ドラッグと結びついてしまったセックスを捨ててパートナーとの暮らしを選んだゲイや、実父からの性暴力被害が原因でセックス依存症となり、今も見失った「愛」を学んでいる女性の例も載せられている
電子化◯
痴漢とはなにか 牧野雅子
- 痴漢についての書籍や雑誌の内容をまとめている本
- 膨大な内容をしっかりまとめているうえに、元警察官である著者の経歴を活かした独自の調査内容も含まれる
- それに加え、巻末には痴漢被害者としての著者の体験談も載せられており、痴漢について考察するには欠かせない内容となっている
- 雑誌内容の時代による変遷の分析、実際に行われている痴漢抑止の取り組み、冤罪の実態
- 更には、男性の痴漢被害者の存在が無視されていることや、実際に冤罪や詐欺もあることにももしっかり触れているのは、実に素晴らしい
- また、痴漢被害者が、なぜスムーズに痴漢を告発できないか、そしてなぜなかなか痴漢加害者が逮捕されないかを、しっかり明記してあるし、
- 警察の非情で不正義なシステム、メディアや男性社会文化の悪意と無責任もしっかり批判している
- 夏になって薄着が増えても、逆に痴漢は減る(学生が電車に乗らなくなるため?)ことや、痴漢で捕まっても無罪になった例が多いことなど、
- 俗説を検証しているのも良い
- ただ、資料としてはともかく、ノンフィクションとしては欠点が目立つのが惜しいところ
- まず、資料の扱いが不十分である
- 大量に引用された男性誌の痴漢肯定記事は、あまりに下品かつ傲慢で、読み進めるのが難しい
- 引用するにしても、ここまで大量に乗せる必然性は本当にあったのだろうか?
- それに、雑誌は内容だけでなく、それが「どう読まれていたのか」こそが重要なはずである
- それがただの悪質な冗談や覗き見趣味に過ぎなかったのか、それとも真剣に加害の参考書として用いられていたのかは、(難しいにしても)きちんと調査するべきだっただろう
- 次に、タイトルの疑問をきちんと追求していないことにも不満が残る
- この本には、内容に学術的な裏付けがほとんど無く、インタビューや実地調査に至っては皆無である
- 本当に問題を追求したいのなら、加害者への聞き取りは不可欠であろうに、そもそもそれを考えつきもしていなさそうな点は不備として否定しきれない
- (過去の被害経験から)筆者自身がそれを行うことは難しいにしても、専門家に依頼するなど調査する代替手段はいくらでもあったはずだ
- そして最大の問題が、男性社会文化だけに責任を負わせる、著者のジェンダー・イデオロギーに偏った視座である
- 筆者は、「強姦神話」として「痴漢が男性の本能である性欲によって起こり、したがって男性はみな痴漢の動機を有している」という「本能が悪い」説は、誤った認識だと言うが、
- 全ては「男性文化のせい」であるとしたうえで、それが正しいか検証を行わない「文化が全部悪い」説という、筆者自身のスタンスも、実質的にそうした「神話」と大差がないのだ
- それは確かに、男性向け雑誌記事には痴漢を扇動し援助さえするような邪悪な記事も多かったことは、資料からよく分かる
- しかし、それも時代とともに改善され、やがて痴漢冤罪記事に取って代わられているのも、また資料から読み取れる事実なのだ
- 確かに、メディアの責任は否定できないだろう
- けれど、そのメディアでさえ、時代とともにより女性に親和的に変化しているのだ
- 「邪悪な文化」が全ての元凶ならば、この変化は一体どう説明するべきなのだろうか?
- まず、資料の扱いが不十分である
- ただ、そうした筆者の「男女善悪二元論」にも、感情的には弁護の余地はある
- かつて筆者は、たまたま居合わせた上司や親の助力によって、痴漢を捕まえた
- しかし、それは「勇敢で強い(そして恐ろしい)婦警」として周囲から讃えられ、そうとしか観られないような状況を生んでしまった
- 著者は、ただ自分の恐怖や苦しみに共感し、理解してもらいたかっただけだったのに、周囲の願望や世界観はそれを拒絶したのだ
- そんな周囲の反応の中で、最も筆者が恐れたのが周囲の女性の声、男性からの伝聞で知った「筆者が痴漢騒ぎで調子に乗っている」という悪評だった
- そうした穿った見方は、男女に関わらず誰でも持ちうるもの
- だがそれは、痴漢騒ぎで心が弱っていた筆者には、到底受け入れることが出来ないものであった
- 一番共感してくれるはずの女性には、そんなことを絶対に言ってほしくない、言うはずがないに違いない
- 著者は、その悪評が嘘だと決めつけ、「女性は絶対的な味方であり、自分に共感と理解を示してくれる善である」という善悪二元論の世界観に逃げ込むしか無かったのだ
- それがおそらく、筆者の世界観と不十分な調査・考察スタイルの原因なのだろう
- 最後に、この本が社会を改善するためのメッセージに成り得ていないのは、残念なところである
- 著者は、痴漢抑止のための社会変革をしっかりと呼びかけることが出来てはいない
- 警察出身者であり、さらに被害経験を持つ著者であれば、警察、ひいては行政・立法府に対して、本格的な改善を呼びかけられたはずである
- 痴漢抑止のため、具体的にどういった法律や取り組みが必要なのか、どこにどう責任を問い、どう働きかければ社会を変えていけるのか
- 筆者ならば、その明確な筋道を見出すか、あるいはせめてそのヒントだけでも示唆することは可能だったはずだ
- けれど、残念ながらこの本では、そうした試みはあまりみられない
- それはおそらく、上記の通り筆者が「全ては男性社会の邪悪な文化が悪い」と考えていることに起因するのだろう
- 男性社会という、責任者不在の曖昧な存在を犯人にしてしまっては、どんな働きかけも無意味である
- そのため、この本には散発的な批判に終始し、ほとんど井戸端の愚痴やそれこそ雑誌記事のような内容にとどまっている
- 実は筆者はすでにそうした挑戦に挫折してしまった後なのかもしれない
- だが、それでもこうして本を出すなら、ぜひともそうした呼びかけをしてほしかったところである
電子化◯
毒婦の誕生 悪い女と性欲の由来 朝倉喬司
- 明治十年代にノンフィクションの小説などで流行った「毒婦」という概念の話
- ドラマティックな個々のエピソードを詳しく追求している
- 「毒婦」が強い性欲と結び付けられたことは、自意識を確立する過程でネガティブな面を切断処理したがった「日本の思春期」として解釈されている
- 思春期の少年が、己にとって最も身近な家族から「「違和的なるもの」を発見しそれとの葛藤を経て成長するように、日本は「賊」としての「毒婦」を発見したのだ
- 西洋における「邪悪な女性像」を研究している本としては、『〈悪女〉の文化誌』などがある
電子化×
なにもかも話してあげる ドロシー・アリスン
- 原題は「私が確かに知っている、二つか三つのこと」
- アメリカ白人下層階級の出身であるレズビアン作家の自伝
- 空手と長い時間、そして物語の力によって生き抜いた人生が語られている
- 自分と違って美しかった妹との、時を経た和解のエピソードもある
南極1号伝説 高月靖
- ダッチワイフについて、詳しく調べたノンフィクション
- ダッチワイフの歴史だけでなく、メーカー3社や利用者のインタビューや豊富な写真も載っている
- 離婚歴があるユーザーの存在、障害者や高齢者など性的な問題や孤独を抱える人向けの需要があることや、技術的な問題点や製法についても記述されている
日本の童貞 渋谷知美
- 日本における「童貞観」の変遷を辿った本
- 童貞を守り通すことに、価値を認められていた時代もあった。
- 四章で、処女がたびたび話題に出て来たし、ここは一つ、対抗して童貞の価値を検討してみてはどうだろうか?
NTRとエロ漫画に横たわる快楽=「イヤなことやダメなことほどエロい」の倒錯
- はてなブログizumino’s note記事
- エロ漫画批評の同人誌『〈エロマンガの読み方〉がわかる本2 特集:NTR』の解説
- 何か結論を出すことよりも、実際に描かれた作品をどう読み、楽しむか(=「エロ漫画の読み方」)にこそ主眼がある本だが、自分で考えるためのヒントを提供してくれるという
リンク
裸はいつから恥ずかしくなったか 中野明
・日本人の裸への意識の変化を追った本
・日本人にとっての裸は、文明開化の時代までは、顔と同じく恥ずかしがる対象ではなかった
・しかし、外国人の二つの視線=裸のワイセツさを非難するタテマエの「冷たい視線」とスケベなホンネの「熱いまなざし」が日本人の意識を変えてしまったのだ
・隠すことで、裸は西洋と同じワイセツでエロティックな存在になっていった
→【邪視】による文化の浸食。それとリールエルバ
・また、この本には、「日常的に裸で過ごす日本人」と、それを文化の違いだと受け止める「異文化に寛容な外国人」も出てくる
・どちらも、生命力に溢れていて魅力的であり、その部分だけ読んでも楽しめる本である
光源氏になってはいけない 助川幸逸郎
- 『源氏物語』の陰に潜む摂関政治の政治力学
→【使い魔】特にクロウサー一族 - 様々な姫の恋と幸せの話でもある
- 「特別な自分」として大事にされることを求める女性たちと、興味本位や他の男性への対抗意識で付き合ってばかりの男性たち
- だが、どんな生き方も人間的であり、貴賎は無い
人妻ですが紅茶が飲みたいのでレイプすることにしました
- 「性的合意」をとることの面倒さと、それでもそれは必要だろうというブログ記事
- 著者は、性に淡白な夫を持つ自称ビッチな妻であり、その独特な視点とユーモラスな語り口がエピソードを面白いものにしている
はてなブログ>人生万事こじらせるべからず
ヒトはいつ人になるのか 生命倫理から人格へ 村松聡
表現規制用語集
- 表現規制反対派によるネット事典
- かなり偏りはあるが、エロティック・キャピタルの項目など、一理ぐらいはあるかもしれない
リンク
ファンタジーとジェンダー 高橋準
- 「男装の麗人」「家族」という視点から、ファンタジーを分析した本(2004年刊)
- ジェンダー関連のファンタジー作品紹介本に近いが、作者独自の視座による分析もしっかり載せられている
フランス人の性 なぜ「#ME Too」への反対が起きたのか プラド夏樹
- 一人の女性ジャーナリストが見た、フランスの性教育や性文化をまとめた本
- 単なるフランス持ち上げではなく、セクハラや不本意なセックスを訴えにくい、性生活を充実させるべきという強迫観念があるなどフランス文化のデメリットも描かれている
- フランスにおける「性」や恋愛は、歴史的に民衆が勝ち取ってきた「自由」であり重要な「権利」であった。
- 「女性も自分が望むセックスをイメージして、相手にはっきり伝えよう。自分の欲望を表明できるようになれば、ノーもはっきり言えるようになる」
- たしかに自分でなにも語らず無反応のままでいるのに、相手に「支配するな」とだけ言うのはズルい
- 「性」は私たちのもの、その字の由来どおり「生きる心」である
- 最低限の枠組みは理解する必要があるが、それ以上は誰にも指図されたくない。
プリンセスも徴兵されるオランダの「男女平等」にみる、ジェンダー平等と権利と義務
- AMP記事
- オランダで、自分の中にあった小さなジェンダーバイアスに気づく
- 女性であることで勝手にプレッシャーに感じていた不平等から解放され、その裏返しとして今まで他人事のように放ったらかしてあった責任を拾い上げていく過程
- 無意識に逃げて甘えていた
リンク
べてるの家の恋愛大研究 浦河べてるの家
- 精神障害などを抱えた人びとの地域活動拠点「べてるの家」で恋愛研究をしたその現状の成果をまとめた本
- それほど専門的ではない読みやすい本であり、イラストも多く、分かりやすい
- これは、他の施設では不可能とされてきた「精神障害者の恋愛・結婚」が可能となった記録であり、
- なんの計画も成算もなく、恋愛や結婚、さらに出産に飛び込んでいった当事者たちが、
- 周囲の支えによってそれらを維持していった成功の話なのである
- べてるには「当事者研究」という、自分で自分の病気や障害を研究する文化があるので、それが恋愛にも活かされている
- そのため、この本は「当事者研究」の入門にもなっており、むしろ他の専門所より分かりやすいかもしれない
- もちろん、幻聴などの症状や問題行動を「お客さん」と呼んで、その人と問題を切り離す捉え方/視座は、恋愛においても十分に効果を発揮している
- 幻聴を「神様の声」と認識し、それに従って行動していた人などもいるが、それも周囲に迷惑をかけるので手放しているのだ
- もちろん、場所が場所だけに、いわゆる共依存的な恋愛も多い
- だが、それが悪い方向にばかり働くとも限らないようで、
- 一人ではいられない「メンヘラ」系の彼女につきあって、対人恐怖症を治した彼氏なども存在するのだ
- もちろん、その改善にも限界はあり、二人とも疲れきって倒れかけたりもするのだが、
- その時にも、べるくなどの周囲の助けによってちゃんと立ち直れている
- だが、それが悪い方向にばかり働くとも限らないようで、
- そうした周囲の支えについての解説では、最後のあたりに載っている図が圧巻であり、
- 蜘蛛の巣のようにあらゆる組織・共同体・ミーティング(会議)による支えが図で示されている
- あるいは、こうした無謀にも思える挑戦と、周囲による徹底的な支えこそが、
- 日本の少子化問題を解決するカギだったりするのかもしれない
電子化×
- 日本の少子化問題を解決するカギだったりするのかもしれない
僕たちは愛されることを教わってきたはずだったのに ニ村ヒトシ
- AV監督による恋愛系少女漫画の紹介エッセイ
- 『風と木の詩』『日出処の天子』『綿の国星』『少年は荒野を目指す』『ガラスの仮面』などを解説している
- 「教訓」は「依存や支配を否定して生きづらさを無くそう」というわりとありきたりのものではあるが、少女漫画に興味を持つきっかけにはなるかも
- 少女漫画の形式の話
- 適度に(女にとって都合いい感じに)支配的な男が、男らしい男である
- そういう男から愛されることが、女にとっての幸せである
- 女は、男から愛されなければ自分を肯定できない
- かつては「そういう物語」を信じていたほうが、女も男も生きていきやすかった。それが男女の作法だった
- しかし現代では「女の自己肯定感は愛されることでしか/男は正義の戦いに勝つことでしか、もたらされない」と信じているとかえって生きづらくなる。色々と時代が変わったのだ
ポリアモリー 複数の愛を生きる 深海菊絵
- 本気で複数の人を愛するというライフスタイル「ポリアモリー(複数愛)」について紹介している新書
- 筆者のフィールドワークやインタビューに基づいており、概念の歴史や多様な関係性の実情をわかりやすく解説している
- ポリアモリー運動には、ハインラインの『異星の客』や『月は無慈悲な夜の女王』ロバート・リマーの『ハラード実験』などのSF小説の影響もある
- 実践者たちは、ポリアモリーは宗教ではないとしているが、宗教的なタントラ、ヨガ、ベイガンやウィッカンとも関係ある(キリスト教徒のポリアもリストも多いが)
- 日本では、お互い恋人を持つことに関して合意の上で結婚する「オープン・マリッジ」を行った、岡本一平岡本かの子夫妻が有名
- ヴィー:三人からなる性愛スタイル
- 一人の人物に二人のパートナーがいて、その二人に性愛関係がないパターン
- ポリアモリーには、社会規範にとらわれない愛や自らの選択と意志に基づく愛という側面がある
- とはいえポリアモリー実践者は「一対一」の関係を否定することもなければ、「自分たちの愛のかたちが唯一正しい」と主張することもない
- 主従関係が基本のBDSM(ボンデージ・ディシプリン・サディズム・マゾヒズム)とは基本相容れないが兼ねる人も
- また、パートナーと恋愛関係が一致するとは限らない
→アキラくんと相互参照姉妹? - ポリアモリーからみると愛人の存在を結婚相手に隠すことがあるモノガミー(一夫一婦制)の方が不誠実に見えたりもする
- ポリアモリーにとっても責任は大事であり、「責任あるノン・モノガミー」という言葉もあるほど
- 自由な愛のパラドックス:感情を上手くコントロールせよという自らのルールによって自らを拘束してしまう。
- ポリアモリーでも嫉妬や孤独がないわけではない
- パートナーといっしょに嫉妬問題に取り組むのが理想的だが、なかなかそうはいかない
- 盲目な恋:ロマンチック・ラヴは近代になってから作られたもの
- それ以前は、知識やマニュアルを使った計画的な愛が一般的だったし、現代でも実はそうだ
- 多くのポリアモリー実践者は、パートナーになることと所有することは異なると考える
- さらには、パートナーを所有しようとする行為には、互いの成長を邪魔する危険があるという
- 自己への配慮は、自由を実践する条件
- そして自己への配慮は常に他者関係を含んでおり、他者の中で自分が占める位置に完全に剥けられている
- つまり、自己への配慮は他者に気を使うことでもある
- 「コンパージョン(compersion」愛する者が、自分以外のパートナーを愛しているときに感じるハッピーな感情
- 嫉妬の反対とも言われるが、誰もが感じられるものでもなく、自分の意志で起こせるものでもない
電子化○
- 嫉妬の反対とも言われるが、誰もが感じられるものでもなく、自分の意志で起こせるものでもない
ポルノグラフィ防衛論 ナディーン・ストロッセン
- ポルノ規制反対派のフェミニスト女性が書いた本
- 事例や資料はかなり豊富だが、その分分厚いのが欠点
- ポルノ規制派がもたらした検閲の害と、本当に有効な女性差別対策について書かれている
- 言論の自由を失うということは、これまでに苦労して切り開いてきた道を後戻りすることなのである
- ポルノグラフィの検閲を行ったところで、女性蔑視による暴力や差別が減少するわけではない
- 検閲とは、他者が何を読み、考え、どのように行動するかを管理する必要の結果として生まれたものである。
- 文化に支配されているという気持ちが強くなれなばるほど(文化との協調関係が薄れれば薄れるほど)検閲への意欲は高まる
- ポルノグラフィに反対するファミニストたちは、性差別主義と暴力が支配的な文化から、攻撃を受けていると感じている
- 歴史を通じてすべての検閲は、弱者である人びとと現状に闘いを挑もうとする人びとを沈黙させるために偏って用いられてきた
- ポルノ規制やセクハラに過敏な動きは、性教育の阻止や、ゲイ・フェミニスト・レズビアンたちの抑圧に使われている
- 癒やし文化は、自己を尊重し、心理的安堵感や快適さを求める気持ちを高めるが、それは結局、不快で虐待的な表現に対する検閲へと発展するものなのである
- 言い争い、批判的な尋問、騒々しい意見の好感は「不快」だという理由で除外される
- ポルノグラフィも「不快」であるため、発言する権利を追求するよりも、不快でないことを過剰に追求する文化においては、とりわけ攻撃の対象となりやすい
→ヴァージルの【健康】?
- 言論の自由を保障するために、その言論が心地よいこと、社会的に発展性があること、不快でないことなどを証明する必要はない
- 公民権の根底には、言論は本質的に価値を有しているという信念があり、それは発言内容の価値にかかわらず、発言する権利があることを意味している
- 必要なのは、自由を強く求める気持ちだけである
- 女性の扱いに特別な気遣いを要求するということは、女性は小さくか弱い存在で、不快なことを聞くことも耐えることも、男性にとってはごく普通の苦難に対処することもできないと暗に言われている様なものである
- これこそが、女性に対する侮辱だ
- 性差別主義が横行する法曹界に女性が進出していくためには、女性をまったく対等な相手として遇し、平等の利点だけでなく重荷をもひるまず与えることが、最良の方法なのである
- 国家が「女性のため」に介入せずとも、好みのポルノグラフィを読み、鑑賞し、制作することは一人ひとりの女性の権利であり、一人ひとりの責任である
- これが、自由社会においてフェミニストである大きな利点だ
- 女性は、自由か安全か、言論か平等か、尊厳か性か、という二者択一を迫られるべきではない
- 女性は、性的存在であるために、その他のアイデンティティを放棄する必要はないのである
- 私たちには、個人としての安全をあきらめずとも、セックスや性的表現から得られる興奮を享受する権利がある
- 私たちは、他者の権利を抑圧することなく、言論の自由や平等権を行使して、性的表現も含めたあらゆる種類の性差別的表現を糾弾することができるのである
- 私たちが真に必要としてるのは、政府の侵害から私たちの自由や自治を守ることなのである
- 検閲賛成派のフェミニストが、彼らに反対する女性たちを自分の考えを持たない「ヒモ」や「ポルノグラフィ業者」の手先と決めつけている事実は(彼らが非難するポルノグラフィと同じように)彼らも女性を従属的で劣った存在とみなしていることを示している
- 1927年”ホイットニー対カリフォルニア州”裁判のブランダイス裁判官:論じることによって嘘や偽りを暴き、教育を通じて悪を防ぐ時間があれば、沈黙を強いるのではなく、より多くの議論をつくすことが解決策となる
- 社会心理学者の立場からすれば、どのような思考からどのような行動が導き出されるのかを、確定することはできない
- 私たち人間が人間であるゆえんは、考え、学び、解釈し、それをまた再解釈し、様々な角度から文脈を読み取る力だ
→【呪文】
- 私たち人間が人間であるゆえんは、考え、学び、解釈し、それをまた再解釈し、様々な角度から文脈を読み取る力だ
- 文章や映像に接した時に生じる相互作用は、個人によって様々
- 性や性的関係そのものは、本来個人的なものであり、一人ひとりの精神や生活と最も密接に結びついてるものであるため、性的な描写に対する反応や解釈も、非常に主観的で個人的なものになる
- キャロル・カッセル「セックスは、昔から商品だった。貴重な権力の源だ。性を商品にできるのは、女性だけだ」
- ナンシー・フライデー「女性はセックスを出し惜しみすることで力を得てきた」
→【邪視】
- ポルノグラフィの肯定的側面
- 検閲賛成派フェミニスト自らが立証しているように、社会にはびこる女性への差別や暴力へ人びとの関心を向けさせるという重要な役目を果たすのが、ポルノグラフィ
- (アメリカのポルノは基本的に女性主導であり)女性やフェミニストにとって肯定的な映像や概念を表現しているものが多い
- あらゆる種類(外見・人種・年齢の人物が登場する)のポルノがあり、すべての人間に平等。自分たちの欲望や快楽の正当化し、自分の性的な可能性を確認する一助となる
- 一人で性的快楽を得ることによって、性的に自立できる
- ポルノ規制の害と、本当に有効な女性差別への対策
- トーマス・シャイロ1981インディアナ州で強姦殺人:暴力的なポルノの影響による情状酌量を主張した
- ポルノ有害論は、性犯罪者の責任を軽減させてしまう
- 政府は、性暴力や虐待の被害者支援のために資金を提供するのはもちろんのこと、性的暴力の原因究明や予防策へも資金を提供するべきである
- シャーリー・フェルドマン・サマーズ:かなりの割合の性犯罪者が、性的に抑圧的な環境でしつけられ育てられていることを示す根拠もある
- 性犯罪者を公の場であざ笑い、屈辱を与えることによって、恥の概念を呼び起こし、効果をあげることができるのだろうか?
- 強姦被害者のほとんどは男性であり、さらに被害者のうちのかなりの数の男性が、今度は女性を襲う
- エドワード・ドナーシュタインの実験:暴力的なポルノで否定的な見方が強まった男性も、追加情報で影響を打ち消し、それ以上の効果を得ることができた
- 真実が彼らに考えを植えつけ直したのだ
- さらに、女性嫌悪的な内容とフェミニスト的内容の両方に同時に接した場合は、後者だけよりはるかに否定的な態度が減った
- 情報を制限するのではなく、教育、情報、批判的な鑑賞力の育成などを通じて、性に関する情報を強化することこそが解決策
水子供養 商品としての儀式 近代日本のジェンダー/セクシュアリティと宗教 ヘレン・ハーデカー
- 水子供養を通して、日本人の宗教生活を探ろうとしている本
- 研究書ではあるが、新聞の人生相談や中絶経験者の手記なども載せられていて分かりやすい
- 載せられているエピソードは、中絶経験者全体を代表できない限定的なサンプルではあるが、さまざまな考え方や生き方をしている人々がいることが伝わってくる
- 研究の先駆者であるラフルーアの『水子』とは、水子供養が、仏教や日本の伝統とほぼ無関係であることを強調している点やジェンダー視点からの批判的な分析をしている点で異なっている
- ただ、本文に中絶で無責任な態度を取りがちな男性への敵意や悪意的な解釈こそあるものの、研究自体は、資料や取材中心の中立的なものである
- 胎児中心主義レトリックへの批判も明記されているが、同時に、供養の起源を無視して自分の精神的健康のために、水子供養を利用する女性たちの姿もしっかりと描いていたりもするのだ
- また、この本では、避妊や中絶とは、男女の間の性的な駆け引きとエロティックな交渉のなかから立ち上がる「性的な」習俗であると見なしており
- そういった面からの研究という意味でも貴重かつ重要な資料であると思われる
- 胎児中心主義的レトリック:反中絶主義者が用いる。胎児と女性を対立させ、被害者と加害者であるかのように描き出す言説
- 胎児を物神(フェティッシュ)と見なすことで、人々の感情を掻き立てる
- そうした言説では、胎児に人格があると見なし、胎児はすでに産まれた人間と同じ道徳的価値を有すると主張される
- その上、胎児の「権利」と母親の権利は切り離され、母親と胎児は対立する者同士として位置づけられる
- あたかも胎児が女性の体外に実在しているかのように見せかける様々な成長段階の胎児の写真は、それを見る者に胎児が人間であることを確信させる
- 胎児の画像を見せながら「赤ちゃん」「お腹の中の子」などと呼ぶことで、
- 胎児は、受胎の瞬間から完全に人間であるのだから妊娠を終わらせることはいかなる場合も殺人行為であり、そんなことをする母親は非難されるべきだといった信念が支持されるようになる
- このレトリックの解釈を受け入れると、かつて一般的だった見方とはまるで違う中絶観に至ることになる
- 明らかに、胎児中心主義は胎児写真、エコーといった医療技術に大いに依存している
- だが、医療技術が提供する胎児像を文化に照らして解釈することと、胎児を物神化することは、別々の現象である
- 水子供養では、胎児中心主義的レトリックが選択的に当てはめられる
- 通常、若い女性たちに母性イデオロギーを振りかざし、彼女たちの生殖を目的としない性生活をスティグマ化する
- その一方で、相手の男性は非難せず、既婚女性より独身女性の不道徳性を強く非難する
- そうすることで、若い独身女性たちに怒れる胎児の供養に金をつぎ込むよう仕向けているのである
- だが、水子供養の依頼者は決して若い女性だけではないし、必ずしも祟りを恐れているわけでもない
- むしろ、何十年も前の中絶のために供養を行おうとする女性たちは、多くの場合、他に選択肢がない状況のなかで自分が責任を果たしたことの証を求めているのである
- 宗教側がこうした供養を「宣伝」したり勧めたりしていなくても、年配の女性信者は、常々頼みにしている宗教が水子供養をしてくれるのが当たり前だと考える
- 福島県いわき市遠野町のケース
- 地元の石材店と区長の脅迫的な寄付の要請によって、水子供養の霊場が作られた
- しかし、地域の人が誰もお参りしないどころか、霊場を作るために壊された古い洞窟の霊に祟られるかもと恐れられていた
- この霊場がどうにか続いているのは、バス会社によって何処からか運び込まれてくる感傷的な中年の主婦たちが関心を寄せているためである
- この場所がでっち上げられたものだという男性の話に対して、その女性の一人が口を出した
- 「歴史は作るもんだから」
- たとえこの場所が人為的なものだとしても、自分の信心の妨げには全くならないということである
- 言い換えれば、彼女は水子に対する自分の新人に由来する自分の信心に由来する感情や行動それ自体を高く評価しており、この場所ができたいきさつによってその価値が損なわれるとは思ってないのである
- 「冷たい男と馬鹿な女」:中絶をめぐる日本の言説がこれに回収されると著者が主張するステレオタイプ
- 男性の責任を無視し、中絶は未婚の男女間に起きることだとするものだという
- 多くの人々が、こうしたイメージを否定したいがために水子供養を利用しているのである
- 人々は、過去の中絶について、自分たちが無情でも冷酷でもなかったことを証明したいという欲望に駆られている
- 水子という言葉は、どんな宗教の経典にも出てこないし、前近代の日本では限られた意味しかもっていなかった
- 実質的に、水子という言葉が意味するものの中には、中絶や流産や死産に関わった胎児の霊魂が含まれるばかりか、産まれたばかりの赤ん坊や乳幼児の魂までも含まれることがある
- 「水子が祟る」という観念は、1970年代まではほとんど見られない
- 日本の歴史において長い間中絶された胎児は、すぐに転生するものとされていた
- 現代日本の水子供養の状況から示唆されるのは、胎児中心主義的レトリックは大多数の人びとに拒絶されており、それは宗教界でも同様だということ
- 同時に、水子供養が依存している運命論や女性差別、脅しのために使われる胎児の呪術的イメージも嫌悪されており、スティグマを与えたり非難したりするために宗教を利用するのも否定されていることである
- この結論からさらに示唆されるのは、日本の宗教界における悲観主義や宿命論が、より発展的で楽観的な見方に置き換わる日が来る可能性もあるということである
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水子 〈中絶〉をめぐる日本文化の底流 ウィリアム・R・ラフルーア
- 日本の中絶にまつわる文化と思想を、アメリカ人が研究し故郷に紹介している本(解説から読むのがオススメ)
- 著者は、水子供養や中絶に対して同情的
- 特に、幕府や日本政府が、自分たちが税金を得るために(食糧事情を無視して)中絶を禁止し多産を強いてきたことを批判するなど、その視点は女性たちや庶民にかなり同情的である
- 彼は、日本仏教のあいまいで矛盾して見える対応の中に、『道徳的ブリコラージュ』=アメリカから失われた、思想対立より社会的紐帯を重視するプラグマティズムがあると解釈し、そこに希望を見出している
- また、中絶非難への反論もしており
- 西欧では捨て子が多く行われていたし、神義論の面を持つマルサス人口論では、災厄を神による人口調整だとして歓迎していた、とその選民主義を皮肉りながら対比している
→扉の向こうのエントラグイシュ、闇に葬られたマラードの子、廃棄実験体だったマラード、虐待児童であり血族の庇護を受けられなかった/一種の見捨てられた子であったアレッテ?
- 西欧では捨て子が多く行われていたし、神義論の面を持つマルサス人口論では、災厄を神による人口調整だとして歓迎していた、とその選民主義を皮肉りながら対比している
- 「間引き」の類比概念が日本に独自であることや、逆にアメリカでは「魂がいつ胎児に宿るか」が中絶で問題になるなど、指摘されている文化の違いも興味深い
- 筆者の視点は、皮肉っぽくもあるがそれなりに中立的であり、日本全体の思想の多様性や、中絶をしなければならなかった親たちの事情にも配慮している
- 西洋では、中絶をめぐって社会が二分されるのに、なぜ日本ではそうした意見の対立が起こらないのか?
- なぜ、地蔵菩薩(子どもの代替の役目も果たす)の傍らには風車が立てられるのか、去る者は「日々に疎し」ではないと、祈祷者は詠唱するのか
- 胎児の「この世」の兄弟姉妹たちを霊園に連れて行って紹介するのはなぜか、映画「E.T.」を一緒に見に行こうとお墓に向かって話しかけさえするのは、なぜか?
- 水子供養は、親が中絶をすることと、人間的で思いやりのある存在だという自画像を保つことと、その両方を可能にしてくれるのだ
- この供養によって、日本人は中絶を無条件に禁じるか、それとも単に不活性な物質として胎児を処理するか、の二択に縛られなくてすむのである
→扉の向こうのエントラグイシュ
- この供養によって、日本人は中絶を無条件に禁じるか、それとも単に不活性な物質として胎児を処理するか、の二択に縛られなくてすむのである
- 儀式のなかでも特に罪と謝罪の儀式とは、何が起ころうとも、人が「そうありたいと願う人物像がいまだ無傷のまま残っている」という感覚を確証してくれる形式なのだ
- いうならば、儀式は人々に能動的な反応を引き起こし、人々を「演じる」のだ
→四章「断章編」
- いうならば、儀式は人々に能動的な反応を引き起こし、人々を「演じる」のだ
- 実のところ儀式は自己反省的なものであり、儀式のなかにいることは、すでに仁のうちにいることを意味している
→再帰的? - 私たちが倫理的思考と呼ぶものは、たいてい「使えるかぎりのがらくたを寄せ集めて」作られた道徳的ブリコラージュである
→サイバーカラテ? - 人口過剰の危機が迫りつつある今、日本の水子供養に西洋社会は学ばなければならないだろう
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ミソジニー漫画 つらすぎて転職したけど、イライラはなくならなかった ふゆこ
身の下相談にお答えします 上野千鶴子
- フェミニスト社会学者が新聞で連載していた人生相談の本
- 過程や恋愛の問題だけでなく、男女両性の性欲が強すぎる悩みにまで答えている
- (青年は、熟女に土下座して筆おろししてもらいなさい、という解答はちょっとあれだけど)
- どんな問題でもはっきりさっぱりと回答し、相談者のエゴをさらりといなすその明快な語り口が魅力的
- 「母が嫌いです」「自殺は本当にいけないですか」
- 「自分は母親のコピーロボットのようだ」また逆に「有能で美しい母と体を交換したい」といったヘビーな悩みにも、しっかりと答えを返している
- 続編も出ている
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メイキング・ラヴ リチャード・ローズ
- 一人の作家が、自らの性的遍歴を赤裸々に書いた本
- こういった本は意外と無いらしい
- 筆者は、この本を通じて、セックスの素晴らしさや真の価値を明らかにしつつ、人々が生き延びていく助けともなるその技巧をみんなで分かち合おうとしている
- オナニー賛美や男性のオーガズム、少年期の同性同士の刺激しあいなどが書かれていることもあり、貴重な文献
- 継母による仕打ちからオーガズムにこだわるようになり、オーガズムを引き伸ばすハウツー本の出版までした筆者が、やがてそのこだわりを捨てるまでの成長記でもある
- 『ブリタニカ百科事典』の古典彫刻や『ナショナル・ジオグラフィック』の土着民女性の絵などでオナニーした経験
- 検閲は、これまでも功を奏したことがなかったし、これからも決してそうなることはない
- ポルノグラフィは女性たちを冒涜したりはしていないし、強姦を促したりもしていない
- 非情で悪徳にまみれた私たちの社会にモラルをもたらすべく手渡されたものを打ちのめしてしまうかもしれないとしても
- (ポルノグラフィは)ふつうの男たちと女たちが、世界中いたるところで、一緒に何をしているかを明らかにしているだけだ
- オーガズムに達している女性は私のマイクロドットであり、オーガズムによる開放に取り憑かれているわたしの妄念の中心そのものだからだ
- 誰かといっしょにであろうと、たったひとりであろうと、セックスはわたしたちを自分たち自身の体の中へと回帰させてくれる
モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究 編著:ぼくらの非モテ研究会
- 「非モテ」に悩むヒトたちの語りあいグループ(主に男性だが、毎回メンバーは募集されて変わる)の実態と、そこで発見された数々の研究成果をまとめている本
- セブルス・スネイプにからめた不器用さの研究や自己破滅願望、モテで人生のあらゆる問題を解決しようと過大な期待をかける「一発逆転」
など、多くの真剣な研究が楽しく繰り広げられている - 非モテ研には、三つの要素があり、その前提として「語りを聞き届けられる」という場の性質がある
- 三つの要素=メンバーの「同質性」、特定のゴールを設定しないことから生じている既存の意味に対する「相対化」、被害経験の競い合いなどを防ぐ研究者としての「共同性」
- 明確な方向性を持たず、要領を得ない「うねうね語り」
- それがほかのメンバーの記憶を刺激して新しい語りを呼び覚まし、ときに親からの抑圧やいじめなど(それまで隠されていた)新しい話題へとつながっていく
- ストーキングや頑張って人をバカにしてしまうなどの加害性の問題や、集団内部におけるトラブルの振り返りなども行われているのが、特に素晴らしい
- 「意味の拘束」:意味へのこだわりや「何か」を得なければと言う強迫観念で苦しんでしまう
- もしも男性たちが、自身を完全にコントロールしなければならないという強迫観念に駆られ、効率的なレポートトークに染まってしまえば、感情の揺れや悩み、迷いといった不安定な内面性は封じ込められることになる
- 自分の感情も含めて体験を言葉にすることで自己理解を深めたり、誰かと深い関わりを築いたりすることからも結果的に遠のいてしまう
- 男性は自らの痛みや不安、困難を語らない/語れないという指摘
- 教育の影響、弱さを見せ「男らしくない」と見なされたら、集団のなかで周辺に追いやられてしまう
- 実は非モテ男性は、自分の劣等感を埋めるために相手を利用し、傷つけるほど執着することにためらいや罪悪感を感じている
- しかし自己のなかで強固に構築されたパターンは、本人さえもコントロールできなくなってしまう
- 「非モテ」とは、疎外感や被害体験から始まり、それを補うように女性に執着し、
- その行為の罪悪感と拒否された挫折からさらなる自己否定を深めていくという、様々な出来事と感情が折り重なった現象
- 決して「モテない」という一要因から起こっているわけではない
- 男性は痛みや不安を語りにくい
- 倫理的に逸脱した行為をとった者を徹底的に叩く近年の風潮が、さらに語りにくくしている
- 同じ方向を向きながら共有体験を重ねる仲間関係によって、「非モテ」男性の苦しみは和らぎ、新たな対人関係のあり方が開かれる
- ただ表面的な正義を押し付けて反省と自己否定をうながしても加害はなくならない
- 重要なのは、自分で自身の経験をひもときながら、なぜ加害行為をしたのかその要因を探ることと、
- 加害につながりうる欲望をどのように非暴力的な方向に表出させるかと考えることだろう
- 男性たちには、ダークサイドに向き合うための余地が必要なのだ
- こうした問題意識から、非モテ研は自分たちが「少し怪しい」集団であることを意識しながら活動している
- まじめで清潔ではない空間だからこそ、参加者は安心して自身のダークサイドを語り、行動を見直すことができる
- よく笑いが起きるが真剣な場だから可能な「失敗の再解釈
- ネガティブに考えていたものが、「非モテ用語辞典」のように概念を作ることで、新しい価値というか面白いものに変わっていく
- 「新たに発見する」それが非モテ研の楽しさ
- 妄想というシミュレーションシステムは、本人の意志とは無関係に始まってしまう
- 妄想は妄想として語られることを求めている
- あるいは、妄想として笑われることを
- 笑ってもらえることで自己肥大化せず、面白さという価値として昇華される
- 笑いという許しが必要なのだ
- 非モテ研の本質は、悩みに向き合うことと、男性として生きる経験を言葉にしていくこと
- 具体的なエピソード、男性の個別的な経験を伴わないような、抽象的な問題提起ではダメ
- 「男は」「男だって」から語りだすと、自分の苦痛や不安の原因を見失ってしまう恐れがある
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- 「男は」「男だって」から語りだすと、自分の苦痛や不安の原因を見失ってしまう恐れがある
山姥たちの物語 女性の原型と語りなおし 編:水田宗子 北田幸恵
- 零落した女神とも言われる女妖怪、山姥についての論考や研究を集めた本
- 日本各地に伝承が残る山姥にふさわしく、語られる対象は、アイヌやノロ・ユタから中国の神話、果ては能楽にマクベスや与謝野晶子などの作家論まで実にさまざま
- その山姥解釈はフェミニズムの影響が大きく、
- 山姥とは、家父長制社会における「他者」として排除された女性性、および隠され押し殺された女性の要素であるという悲劇的な語りが基本である
- その山姥解釈はフェミニズムの影響が大きく、
- その代わり、神話や伝承の研究の方は、短いながらも多くの事柄に触れていて面白い
- ダヌ女神、中国における海の守護女神である媽祖(マソ)の生前の逸話、西インド諸島のタイノー族に伝わる鬼女「ラ・ヴァギナ・デンタータ」、金太郎の母としての山姥、さらには小野小町伝説と、
- 山姥に関連していると思われる多くのイメージが紹介されている
→ミヒトネッセなど魔女たち - まあ、中には、男性クリエイター作品の目の付け所を取り上げつつも、それは結局は男性の邪悪な視線にすぎないとして、クリエイター自体は否定するいいとこ取りな論考もあったりはするが
- 名前だけ触れられている純狐や『白蛇伝』も含め、日本のエンタメと人ならざる女性のイメージは切っても切れない関係にあるのかもしれない
- 山姥に関連していると思われる多くのイメージが紹介されている
- ダヌ女神、中国における海の守護女神である媽祖(マソ)の生前の逸話、西インド諸島のタイノー族に伝わる鬼女「ラ・ヴァギナ・デンタータ」、金太郎の母としての山姥、さらには小野小町伝説と、
- 山姥には、害だけでなく富や助けをもたらすような多面性がある
- 現代女性作家による語り直しを通じて、 山姥は多義的な女の性と生を生きる、自由な女の原型として表象されてくる
- 何者かであろうとする自己同一性の追求や、超越や救済の探究とは、そもそも男性的な思考ではないのか
- 老いた山姥は、存在の意味や罪、救済の探究とは無縁なところにたどり着いているのである
→魔女の立ち位置?クレナリーザ(仮)が語る沼の思考?
- 山姥は、 「里」と「山」の境界を彷徨し、「里」の誘惑に関心をそそられる存在
- 能楽『百萬山姥』
- 山めぐりという彷徨を、六道を輪廻する姿と仏教的解釈
- 山姥は、「善悪不二、邪正一如」と、一切の真理は、万象を目前に見る人の心の中にあるという禅的な心境を謡う
→『邪視』? - どこから来たのかもどこへ行くのかも分からない、〈起源〉と〈終着〉の喪失があってこそ、
- 彼女は、善と悪、真と偽、そして存在と不在といった二項対立を、絶対的に却下できる
→『車輪の女王』ヘリステラ?ブレイスヴァ?ループ世界らしきゼオーティア?
- 彼女は、善と悪、真と偽、そして存在と不在といった二項対立を、絶対的に却下できる
- 出てくる曲舞は、白拍子に由来し、そのルーツは漂白の芸能民・傀儡子(くぐつ)に遡ることができる
- その古典曲「足柄」には、宮木とか宮姫とか呼ばれた傀儡子が、足柄明神から授けられた歌だという伝承がある
- 沖縄の儀式
- 久米島の最高神女・君南風(きみはえ)
- 1500年、琉球王朝は「アカハチ・ホンガワラの乱」鎮圧において、君南風を先頭に立てて呪術合戦に勝利した
- 勝利を収めるた君南風を称える穏やかな歌は、美しい言葉で闘争心を鎮める言霊だったのではないか?
→『呪文』
- 川村邦光の考察
- 女を社会的・文化的に男の制度的な秩序のなかに囲い込み、その「女の力」をあたかも普遍性をもつものとして神聖化し、結晶させたのが「女神」
- 女神の系譜は、生と死をめぐり、善/悪、美/醜によって「姫神」と「姥神」に差別化されている
- 奪衣婆と山姥は、生死をめぐって対立するが、どちらも「姥神」という下位の神として分類される
→ラプンシエルの同類?
- 一葉と小町伝説
- 「最後は乞食、そして犬の餌になろう」
- 一葉が小町なるものを自己の根底に据えたのは、「語られてきた女性」を「語る女性」として取り戻し、父権の外に想像力を解き放ち、自身の尽きぬ創作源とするものであった
→『呪文』の語り直しによる反逆
- 円地文子『花喰い姥』
- 死んで手紙の束となって戻ってきた男性を、未だ生き続けている作者としての円地が、一旦自分のものとして呑み込んでから、それを作中蘇らせてみせたのでは?
→『呪文』ルウテトによる六王の再演?
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- 死んで手紙の束となって戻ってきた男性を、未だ生き続けている作者としての円地が、一旦自分のものとして呑み込んでから、それを作中蘇らせてみせたのでは?
欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差 堀あきこ
- 女性に「性への自由」を与えるという側面から、ポルノの価値を訴えている本
- ポルノ論、マンガ論・メディア論の先行研究を、段階を踏んで、しっかりと分析している
- ポルノの定義は論者の数だけあって、定義難しい
- 誰がどのように読むかという文脈によってもポルノの定義は変わる。例:子供が写った写真
- グロリア・スタイネムの「エロチカ」概念(性平等)「女性が楽しむポルノ」も、境界判定が難しい
- ポルノ表現に因習的性規範や国家権力が介入にすることによって、性的弱者(女性、同性愛者)がさらに「性」に関する情報や快楽から締め出される可能性
- (赤川学と同じく)この本では「ポルノとは通常の〈現実(reality)〉とは異なる別種の現実」なのだとしている
- ポルノが直接的な「害」であるかどうかという問題ではなく、ポルノに現れている特定の構造が保つ意味を読み解くこと、そして「現実と関係を持つ別種のリアリティ」が現実とどのように関係しているのか、ということを考察すべきと考える
- 「反ポルノ」への批判的論点:「〈性的表現を含む女性向けコミック〉」の看過について
- 「女性の商品化」を論じることも重要だが、女性を商品化されるものとして「のみ」見ることは、女性が「性の商品化」を楽しんでいる現実を黙過するだけでなく、女性を性的に無垢なものとする視線と重なり、女性を「性への自由」から疎外してしまう恐れがある
- また、「反ポルノ」という理念にそぐわないものを抑圧することは、女性にとって新たな抑圧を生み出すことにほかならない
- 「女性にとって不快でない」もの以外を否定するエロチカ概念にしても、それを楽しむ女性を否定し、あるべき女性のセクシュアリティを特定のものに画定し、それをすべての女性に押し付ける側面がある
- メディアと現実の関係を「単純化された反映理論」として論じないためには「それがどのようにして反映されるのか、いかにしてその関係が成り立ちうるのか」を吟味する必要がある
- 石田佐恵子『メディア・スタディーズ』:「単純な反映理論からは、メディアが映し出す不均衡は・・・社会的現実との関係において揺るがし難く捉えられ、文化分析から導かれる結果が分析の主体や読み手に対抗的な力を与えること無く、優先的な読みが再構築されてしまう」
- そうした危険に陥らないためには「言説がそれ自体として備える自立性」やそのメディアがどのような場であるのか、何が描かれ、何が独自の特徴といえるのか、という点を詳細に検討する必要があると考えられる
- 物語そのものが女性を束縛する側面もあるだろう。
- だが、〈物語性〉を高め他者との親密な〈関係性〉を描くこと、ヤオイの「類型」に見たように「権力構造」を〈ズラし〉固定的なものにしないことなど、男性向けポルノにはない価値観が女性向け「ポルノ」=〈性的表現を含む女性向けコミック〉にはある
- こうしたコミックは「女性の性的快楽」を追求する「性への自由」という側面と、男性中心的価値構造から離れたところで〈関係性〉を追求する「性への自由」という多様性を持っていると言えるのだ
- そしてその多様性は、性表現に伴いがちな女性差別的な要素を様々な〈仕組み〉によって〈ズラし〉男性中心的価値構造そのものをも「ズラそう」とする多層的なものだと言えるのである、
- パトリック(パット)・カリフィア:検閲が、女性にとって有益に働かない側面を訴えた
- ジュディス・マトラー:ポルノとは、誰もそこにつくことが出来ない不可能な位置を表現した、代償的幻想である
欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち 香月 真理子
- 幼少期に性犯罪の被害を受けた著者が、さまざまな児童性愛者にインタビューして、その謎を探るノンフィクション
- 2009年の本なので法律関係の記述は古くなってしまっているが、インタビューの質は高いため、現在でも十分に通用するだろう
- 取材の結果、見えてきたのは、彼ら一人ひとりに生き様があり、物語があるということ
- 彼らを孤独に追い込まないことこそが、子どもに対する性犯罪の抑止にもつながるものと信じている
- 性犯罪の被害は、一度忘れても不幸な事件をきっかけに思い出し、全てを性犯罪のせいにしたくなることがある
- 「美しく繊細な少女ほど、不幸な事件に遭うことが多い。私たち大人は可能な限り、子どもたちを守っていかなければならない。美しく大切なものを守らないで、いったい何を守るというのでしょうか」
- 「異性愛を法律で規制しても誰もが同性愛者になれないように、いくら規制をしても小児性愛はなくせない。最後の砦である児童ポルノ(幼女アンドロイドソープ、リアルCG漫画などで良い)を無思慮に規制したら、今度は現実の女児に向かいかねない」
- 「分からなくて怖いものを排除しようとする規制推進派からは『被害者も加害者も生み出さず、子どもや小児性愛者を含むすべての人がしあわせに暮らせる方法を確立しよう』との観点が、抜け落ちている」
- すべての人が幸せになるために必要なのは、違いを見つけて対立を深めることではなく、共通する部分に目を向けて対話を重ねていくことだ
- 性犯罪被害者が、加害者に転じることも。「自分が身体の”境界線”を踏みにじられたことにも気づけない人間は、他人の”境界線”に侵入してしまっても気づけない」
→セージ? - 「その失敗の教訓を活かすため、性加害者を防犯の専門家として雇うべき」
- 「僕にとって性暴力は”言葉にならない言葉”でした。だから、僕たちは何よりもまず、自分の気持を伝える性暴力以外の表現方法を手に入れないといけない」
- ジュニアアイドルの母「子どもを性的な目で観る人は、小学生にしては胸が大きいだけでもそういう目で見る。表に出て何かをすれば必ず、そういう人は出てくる。水着以前の問題の気がする」
- 矯正教育も「自分はどうなりたいか」「頑張れば、これだけのことを達成できる」という希望に焦点を当てながら、自分も満足でき、かつ被害者を出さない生き方を考えたほうが、スムーズにいくという
- 「漫画も、性刺激を過剰に取り入れることによって、頭がセックスでいっぱいな状態を助長するものであることには変わりない」
- 「成人の場合は、誰しもが何らかの性的ファンタジーをもっていることも事実。セックスをすべて目の敵にして、何にでも検閲をかけていたら息苦しい世の中になってしまう。バランスが難しい」
「理解のある彼くん」展開が新時代を切り開く韓ドラ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』が名作すぎてヤバい。 倉本圭造
- 最近の韓国ドラマと「女性の方が稼いでいるカップル」を称揚する必要性と、善悪二元論を乗り越える「敬意を失わないユーモア」の話
- 極端な悪役を演じる「もうひとりの男」を殺さなくても済む話でもある
→ダエモデク?
note記事リンク
レイプ/男からの発言 ティモシー・ベイニケ
- 男性のレイプ観の背景に潜む先入観を研究した本
- 集められている男性たちの発言は、統計学的に偏りがあるものではあるが、バラエティ豊かで示唆に富む
- 酔った女性から誘われたけど相手のことを思って断って感謝された男性や、虐待のせいで女性を恨んでいたが友情から人間への信頼を取り戻した元レイプ犯、レイプを裁く法曹関係者まで取材対象は、幅広い
- 付録の対談:強姦は女性の存在そのものに対する殺人行為
- 「強姦ができることが男らしさの証明」だという社会の鋳型、男性性の神話のなかで、男性もどれほど苦しんでいるかというところの証明がなされている
- 性行為のバリエーションであるという解釈があるために、強姦の犯罪性が立証できにくい
- またそれを助長するようなサブカルチャーがあるので、男には強姦願望があり、女には被強姦願望があるという神話と幻想が再生産されやすい
- レイプとは言えないまでも、準レイプ状況はほとんどの人が体験しているのではないか?
- レイプというのは、階級制のもとにおける強者の、弱者に対する支配と暴力の形態
- レイプは、実際には日常的なものなのに、自分とは無縁なものと思い込みがち
- 何かを変えていく時に、マイノリティの声は声高にならざるを得ない
- 対等な関係性、どちらにとってもいい関係性を築きたいから、語りかけている
- 怒りと結びついたアンガーレイプ、自分の社会的に去勢された部分を回復したいというパワーレイプ
- レイピストを弁護するわけではないが、男性の抑圧を見なければ、レイプの発生原因から目をそらすことになる
- 短絡的に可愛そうな人だから許すというのも、レイプの犯罪性をクリアにしないと違う
- レイプは加害者に罪を償わせて終わりではなく、なぜなのかという問いかけを一番多く必要とする犯罪
- 男らしさ、積極的アプローチやお金を男に要求する女性向け作品も
- 女性を受動的にするファンタジー:それによって自分の生き方に責任をもっていく生き方というのを避ける
- 女性の方でも、ひとりの人間として生きていく生き方というのを、どこまで自分のものにできるのかという問題
- レイプの被害を隠さなきゃいけない社会とは?
- 性暴行というのは、個人とその個人をとりまくあらゆる人間関係も破壊してしまうほどの、恐ろしい犯罪
- じらしているのではなく臆病なだけだったり、男性からは合意に見えても同情でセックスしたり根負けして後で強制されたと語られることもある
- 男性はたえず女性の外見から行動を仕掛けられているように感じている
- 男も女も、自分のほうが行動を仕掛けられている、自分は受動的だ、と感じているのかもしれない
- 女性の外見は武器であるという考え方は、性的快感は人を無力にするという考え方と、切っても切れない関係にある
- 女性の外見は武器であるというテーマは、レイプを正当化し、レイプされた女性に対する冷たい態度を正当化するのに用いられる
- 多くの男はこんなふうに考える――――俺に対して力をおよぼし、その力を濫用するような人間たちには同情できない
- ジョージ・ラーコフによると、女性の外見は武器であるという考え方は、もっと一般的な、すべて知覚は受動的であるという見方の一部である
- 知覚は、感覚器官に働きかける外部からの刺激によって説明される
- すなわち、何か私の身に起き、私には選択の余地がないとされるが、これは嘘である
- 人間は自分の知覚するものに対して、意識的であれ無意識的であれ、能動的に知覚し、選択している
- 男たちはしばしば、女性の身体をこそこそ盗むようにして知覚することを選択する
- これが、女性を欲望の対象としてポルノグラフィー化する、あるいは「物」として観る人間性を無視した「まなざし」であり、レイプを女性の責任にする思考の原因である
- 女性の身体部位のみに性的な興奮を感じることは、その女性を物におとしめ、ポルノグラフィーとして盗んでいるのと同じこと
→『邪視』、ミヒトネッセの呪術、イアテム
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- 女性の身体部位のみに性的な興奮を感じることは、その女性を物におとしめ、ポルノグラフィーとして盗んでいるのと同じこと
ロリコン 日本の少女嗜好者たちとその世界 高月靖
- 日本のロリコン・少女嗜好関係の歴史や文化をまとめている本であり、ノンフィクションというよりエッセイに近いかも(2009年刊行)
- いきなり18禁マンガのストーリーや画像が引用されるので人を選ぶが、引用されている情報が多いため資料としてはそれなりに役立つ
- 「ロリコン」を弁護する内容や多様な角度から切り取った分析もあるが、性犯罪被害の情報のほうが多く強烈な印象を与えるため、それほど中立的とは言えないかも
- 少女愛好の究極は、一体化願望・変身願望?
- 「エッチも芸術だ!」と、この際はっきり言わなくてはいけないかもしれません
- 性は、とても奥が深くて、客観的に見ても面白いテーマだと思う
- 二次元の誇張・脚色された性表現は、読者のみなさんはもちろん、嘘だと分かった上で娯楽として受け入れていると思います
- ロリコンの大多数は犯罪なんてしない
- 僕ら全員が異常者だったら、世の中はとっくに大変なことになっている
- ロリコンが気持ち悪いのは「男性は女性より強くて賢い」というジェンダー像から逸脱しているから?
- 年齢の倒錯を連想させるから?
- 少年が手っ取り早くセックスにありつくには、集団のコンセンサスに適った自己アピールや「場の空気」を読むリテラシーが欠かせない
- 彼らがこれらを学ぶ主な場所は学校だが、クラス内のスクールカーストで下位に置かれる層=異性に人気がない層は、その学習に参加できない
- 代わりに与えられるのが、恋愛は「真心」が大切だというアドバイスだ
- だが、「真心」くらいは大抵誰でも持ちうるので、もともと異性に人気がない下位層にとてこれは役に立たない
- こうして「真心」は、逆に下位層を恋愛市場の外に縛り付けておく足かせとなる
- 少女の期間は短く、少女は短命と言える。「時間が止まったとき、少女たちは『少女』であることを全うする」(本田和子『オフィーリアの系譜』)
- 生きた人間の時間は、死によって止まる
- つまりそれが「少女が美しくあるために『夭折』は不可避の運命」ということだ
- 我々は基本的にいつも、死と生殖をめぐる自己保存の衝動から逃れられない
- だが性的なカタルシスはしばしば、そうした支配から一瞬だけ解放してくれる
- 最大限に達した自己保存の充足感が死の恐怖と釣り合い、その瞬間だけ自由になれるわけだ
- 死と結びついた少女の偶像は、ロリコンにとってそうした解放への媒介であり、そこへ彼らの根源的な無意識の衝動が殺到する
- 死の偶像にカタルシスを求める彼らの行為は、どこか宗教と似ているかもしれない
- 一部のロリコンが、身もふたもないポルノ描写よりも聖なる少女の神秘性といったイメージを重視するのもそのせいだろうか
- 子供の死因は交通事故などの不慮の事故が一番多いが、ドライバー死亡事故のリスクに無関心な者も多い
- 性に関する話題は、わかりやすく、我々にとって優先度が高い関心事
- 成人相手のレイプ犯もみな異性あるいは同性に対する性的関心の持ち主だが、逆の証明が成り立つとは誰も考えない
- 性犯罪者の条件は、少女嗜好というより、衝動の抑制力が低く、他人の気持ちを感挙げる想像力や良心が欠けているから
- 実行に移せない対象に性的関心を持つのは、アイドルや芸能人・二次元と同じ
- ロリコン文化とは無関係に、性犯罪は減っている
- 昔のほうがロリヌードなどはあけっぴろげに出回っていた
- たいていの人が何らかの心理的な問題を抱えながら暮らしてる
- 性や精神をめぐる多くのことが病理化されているいま、無条件に自分が健康だと確信できてしまう人のほうが病的に見えかねない
- 社会には、少女に対する性的関心を見えなくしておきたいというバイアスが強く働いている
- ロリコンに限らず、性をめぐる色んなことが、社会によって拘束具をハメられている
- それは文化であり、何もかもタガを外せばいいわけではない
- ただ、そうした拘束具を必要とする理由について知ろうとすることは、意味があることのように思える
WORKDESIGN 行動経済学でジェンダー格差を克服する イリス・ボネット
- デザインの力でジェンダー格差を解消するための、理論と実践を示した本
- あらゆる面からの、無意識バイアスへの対策を記載している
- 公共政策大学院で教えている筆者の本であるだけに、企業実務や政策にすぐ役立つように書かれているという
- さらに、ダイバーシティ研修や汎用型のリーダーシップ研修など、むしろ逆効果がある対策の取りやめを呼びかけたりもしているのが特徴
- 好ましいデザインは、人々の背中を軽く押すことにより、好ましい結果を生み出せる
- 具体的には、好ましくない行動を生んでいる根本原因をあぶり出し、それを改めるのに適したデザインを考えればいい
- ただし、人は誰もがバイアスと無縁ではないという、やっかいな現実を認めねばならない
- 「世界がどうなっているか」というステレオタイプは、しばしば「世界がどうあるべきか」という話にすり替わってしまう
- 平等は、ビジネスと経済にもプラスになる
- ただし、ジェンダーの平等がビジネスに好ましい影響を及ぼすと言っても、平等を確保すれば必ず経済面の効果が生まれるわけではない
- したがって、ジェンダーの平等を訴える最大の根拠は、道徳的な理由に求めるべきである
- 平等を実現するのは道徳的に正しいことだ
- この点は議論の余地がない
- 能力と好感度のトレードオフ
- 名前を男性名に変えるだけで、履歴書が大好評に
- 男性なら立派な起業家精神として評価される要素も、女性の場合は、高慢で出しゃばりとみなされる
- これは、女性にとって袋小路の状況だ
- この状況が起きてしまうのは、ステレオタイプ(女性に期待される性別役割)と、典型的な「男の仕事」で成功するために必要と思われている資質が衝突するからだ
- 逆に「女性は他人の世話をするもの」というステレオタイプに従って行動すれば、好感をもってはもらえるが、敬意は抱かれない場合が多い
- (ただし、人種のステレオタイプも加わると、また状況は変わったりもする)
- ジェンダー平等のためのデザインーー人事上の決定にデータを用いる
- 人事のあり方を根本から変えられる手法「ピープル・アナリティクス」
- データを大量に収集し、高度なプログラムを使ってパターンやトレンドを見出すなどのデータ分析
- アルゴリズムの活用を促すために、人間がアルゴリズムの判断を修正する余地をつくる
→創アにおける、自己判断を加え、AI判断を軌道修正するアキラくんのサイバーカラテ?
- 私が企業に勧めているのは、能力構築に研修の重点を置き、「解凍→変容→再凍結」の枠組みを採用することだ
- マックス・ベイザーマンとドン・ムーア『行動決定論』から
- 需要なのは、意識を高めようとするだけでなく、好ましい意思決定を助ける手立ても与えること
- そして、研修で学んだ新しい考え方や行動を定着させる(再凍結する)ための方法を考えること
→『氷結呪』?
- 「規範起業家」になる
- ランキングをうまく活用して、人や組織が互いに競い合いながら、ジェンダーの平等を高めるように促すという手法もある
→『地上』の序列と競争主義の良い側面?
- ランキングをうまく活用して、人や組織が互いに競い合いながら、ジェンダーの平等を高めるように促すという手法もある
- ただし、あらゆる局面で通用する「魔法の杖」は存在しない
電子化◯