Book29:ティリュアンの手記。その地をカリスティアと名付けるに至った、彼の思いと過去について記されている。

Last-modified: 2009-01-12 (月) 22:38:22

かつてわたしは、ひとりのかけがえのない友人を得た。
そのひとのことを、今日まで一日たりとも忘れたことはない。
それは、わたしの今の人生がはじまる以前の話だ。

シルドゥの侵略はいまなお語り継がれているが、それを直接知る者はこの時代にはひとりもいない。
わたしは当時の北方――人々が魔の王国と呼んだ、あの禍の都の中心にいた。
そこで、わたしは彼女と出会った。
彼女はわたしを滅ぼす者として現れたのだが、わたしにはそれでも、救いの天使が降りてきたようにみえたものだ。

当時のわたしには、二つの未来しか用意されていなかった。
魂を殺すか、魂を守るために、永劫の苦痛の檻を選ぶか。
どちらにしても、心躍る未来ではない。
彼女は、もうひとつの未来を用意してくれた。
魂を抱いて死ぬことだ。

わたしの主は、彼女を殺せと命じた。
しかしわたしは、魔の王国にこれほど深くまで入り込んだ者がいることに驚き、興味をもった。
彼女は人ではなかった。
全身からはなたれる聖性の強さに、わたしですら近づくことが困難で、そばにいると身体が痛み吐き気がした。
それでも私は彼女に惹かれ、彼女と言葉を交わした。

何がわたしを彼女に惹きよせたのか、今ならばわかる。
わたしと彼女は、多分、同じものだったのだ。わたしが父の剣であったように、彼女は彼女の王の剣だった。
たがいに、属する世界にあっては何の不自由も不足もなく、他人にとっては恵まれた存在にすら見えたかもしれない。
しかし、わたしたちは自分にとってもっとも神聖なもの――自分の魂の自由を持たなかった。

それがどれほど他人には輝かしく安泰な立場に見えたとしても、誰かに完全に支配されていることが幸せだとはわたしには思えない。
それは自らを放棄することで、その結果手に入るものはすべて、所詮はただの借り物でしかない。
どれほど強大な力を持ち、贅沢な世界に生きていても、所詮は檻のなかの住人でしかないのだ。

わたしはずっと、自分が守りたいと思ったもののためにこの剣を抜きたいと思っていた。
しかし現実は逆で、わたしの剣は、守りたいと願ったものたちを死に追いやるためにふるわれた。
そのようなものとして、わたしは生み出されたのだ。

わたしの主は、わたしが死によって唾棄すべき役目から逃げることも禁じた。
この世界には、神々の恩寵もとどかなかった。
わたしの身体は、わたしの願いとは裏腹に、清浄で神聖な世界からは拒絶されていたからだ。
彼女の存在は、そのような生を終わらせてくれるというだけで、わたしにとって最大の幸福だった。
たとえいまわたしが生きていなかったとしても、彼女はすでにわたしを救ってくれていたのだ。
わたしは、そのことを彼女に伝えられただろうか?

 

彼女は、自分が何を守りたいのかすら知らなかった。
彼女は人々に氷姫とよばれ、その心はここにはなかった。
けれどそれは、心が存在しないということではない。
その心が、彼女の王の手のなかにあった時でさえ、彼女は、なにひとつ望まないわけではなかった。

彼女は、氷姫などではなかった。
燃えるような切望が、彼女のからだを支えていたのをわたしは憶えている。
その望みをかなえてあげられたらと、ずっと思っていた。
彼女がわたしを悪夢から連れ出してくれたように、彼女を王の檻から連れ出し、奪われた内実のかわりに、あたたかなものやさまざまな色のものたちで、その空洞をうめてあげられたら――と。

 

彼女がじぶんの望みを口にしたときの表情ほど、胸を焦がしたものはない。あの表情のためなら、一生分の幸運を使い果たしても構わないと思ったものだ。

 

けれどわたしは彼女を喪い、彼女は命を喪った。
今わたしの命は、かつて守れなかったものを守るためだけに燃やされている。
わたしの命、わたしをかたちづくっているものはすべて、彼女があたえてくれたものだ。
あるはずのなかった未来を、彼女の心がつくった。
だから、彼女が惜しんでくれたわたしの魂を裏切るようなことだけは、何があってもしない。

周辺の国々に見放されたこの山岳地帯にわたしが居を定めようと思ったのは、ここが彼女の故郷に近いためと、ここであればわたしのような素性のわからぬものでも、誰に咎められることもなく暮らすことができるため、という二つの理由からだった。
けれどやがてわたしは、この地に己の王国を求める人々が多くいることに気付いた。
平和で心穏やかな暮らしを望む人々のために、わたしは手をかすことにした。

 

カリス、いまこの地で暮らす人々のよろこびの声は、すべてきみにむけられたものだ。
この王国を作ったのはきみだ。
きみの心はわたしの命をつなぎ、いまこの地であたらしい命をつむぐために瞬いている。
だからわたしは、この地をカリスティアと名付けることにした。
わたしのもっとも大切な友人への、尽きることのない感謝をこめて。

ルネが最後に描いたという絵を、一度でいいから見たかった。
そこにならばきっと、自分がよく知る彼女の高貴な姿が、いまなお変わらぬ輝きをもって存在していただろうから。

 

ティリュアン