Book38:アエリウスの手記。<光の黒龍>であった父親の回想が綴られている。

Last-modified: 2009-01-03 (土) 22:05:49

父は、誰もが讃える英雄だった。
ユーフラニア一の魔導師で、伝説の<黒龍の剣>をあやつる<光の黒龍>――この<大災厄時代>のさなかにあってさえ、オレニアに光をともす名君。
最強の君主と云われた祖父でさえ、これほどの栄光と名声を手にはしなかった。

けれど、ひとりでいるときの父は、いつもここではないどこかへ想いをめぐらせていた。
その想いに、触れることはできなかった。
母でさえ、できなかったにちがいない。
それほど、父は遠かった。

私はしばしば、手をのばしてもそこにいる父に触れることができないのではないか、というおそれにとらわれた。
呼びかけても、この声が父にはとどかないのではないかと。
実際のところ、父が何者であれ、近づくものの気配に気づかぬなどということはなかったが、それでも私は、こちらをふりむいた父の顔になんどか、驚きとも困惑ともつかぬ表情を見たことがあった。
あたかも、本来は別のところにいるべきはずの自分を、まったく場違いなところに見出してしまったとでもいうかのような――その事実に、耐え難い苦痛と違和を感じているかのような。
そして、おそらくそのとおりだったのだろう。
父はここにいなかった。父は、私たちとはちがうどこか別の世界にいて、そこにはたぶん父以外誰ひとりいなかったのだと思う。

<光の黒龍>とよばれる存在の真の偉大さは、私にはわからない。
ただわかるのは、父は私たちには視ることのできないものを視ていたということだ。
私たちにはわからないことを理解し、私たちには感じとれない何かを感じとっていた。あの高みに立てる人間はオレニアにはいなかった。

それは、どのような気分のするものなのだろう?
しかし、それがどのような気分であれ、父が個人的な感情や感慨を表にだすことはなかった。
父はいつでも優しくおだやかで、落ちついていた。
むしろ、穏やかにすぎると云ってもいいくらいだった。
その穏やかさは、生身の人間にはあまりに不自然だったので。

父の苦悩の表情を見たのは一度だけで、それは第二次対暗黒戦争直後のことだった。父の名声は頂点に達していたが、その夜、私はたまたま泣きじゃくる母と傍らに立つ父の姿を見てしまった。
私は、どうしてよいのかわからなかった。
父と母が別々の世界の人間であったとしても、父は母を大切にしており母は父をとても愛していた。
今まで二人が争ったことはなく、私は両親の仲のよさを疑ったことはなかった。
幸せそうだった母が、あのように取り乱した様子で泣いているのを見たのは初めてで、私はずいぶんとショックをうけた。

けれど、それ以上に怖かったのは父だった。
父は、私を安心させるように「なんでもないのだよ」と、云ってほほえんだ。
あれほど優しい父の声を聞いたことはなかった。あれほど悲痛なまなざしを見たことも。
父の顔はまるで、心臓を抉られながら尚、ほほえみをかえそうとしている人のようだった。

私はぞっとした。
なんでもないわけがなかった。
あれは、死に行く者か、すべてを捨ててしまった者の顔だ。

私は直感的に、父の喪失を確信した。
しかし実のところ、それまで気づいていなかっただけで、私たちはとうの昔に父を喪っていたのだ。
あの時、あれほどの恐怖を感じたのはそのせいだ。
もはや、それはとりかえしのつかないことであり、どうしようもないことだった。

そう、今思えば、私があの時直面したのは、父が決して私たちを愛せないという事実だったのだ。
もちろん、父なりの愛情はあっただろうと思う。
けれどそのような愛情は、父をとらえていたものの前ではあまりに無力だった。
父には、母や私たちやこの国以上に選んでしまったものがあった。もうそれ以外の何も、父の人生を奪うことはできなかった。
父は、すべてをその運命に捧げてしまったのだ。

神聖法廷に召喚された時、父は内心ほっとしていたのではないかと思う。
ユーフラニアを救った英雄として、稀代の名君として、讃えられ崇拝され、また優しい夫として、父親として愛されながら、寧ろそうやって多くの人々から期待と愛情をよせられればよせられるほど、父は自らの魂からひきはなされていくようだった。
父は、祖国と家族への忠誠と義務を忘れることはなかったが、体はこの場所にとどめおくことはできても、魂だけは縛ることができなかったのだろう。その乖離は年とともに広がり、父を引き裂いた。
だからアウロラからの召喚状は父にとって、あらゆる名誉や権利を奪う破滅の宣告ではなく、あらゆる鎖を断ち切ってくれる神の恩寵にみえたのだと、私は思うのだ。

あの告発を肯定する気はさらさら無いが、父にとってあれが何の痛手でもなかったことも確かだ。その程度で傷つくような名誉など、父にはどうでもよいものだったし、告発者たちが自分を政治的にも物理的にも殺せないことを知っていた。
巷では、あの告発が父を貶め死に至らしめたと云われているようだが、それは違う。
私とアルデア候しか知らぬことだが、私たち二人はあのあと、このオレニアで父にあった。
裁判は成立しなかった。父はアウロラで処刑されることなく、なにひとつ失わずに戻ってきたのだ。
そして、再び行ってしまった。行き先はわからなかったが、それはこの世ではないところのようだった。

父は「もう戻れないだろう」と、云っていた。誰にも命じられた結末でもなく、父が一人で決めたことだった。険しい表情なのに、なぜか幸せそうに見えたのを覚えている。あの偉大で遠かった父と同じ人とは思えない、子供のような目だった。
アルデア候は、いつかこうなると分かっていたようだ。
「再び貴方の時がまわりはじめますように」と、彼は最後に云った。
そうして父は、自らの意思ですべてを捨てて去っていったのだ。

父が、いまも生きているのかは判らない。どちらにしてもあの言葉どおり、オレニアに戻ることはもうないのだろう。
たとえ、どこでどのようにその生涯を終えたとしても、私は、父が最期には充足と平安を得られたと信じている。

 

5263年白銀竜の月
アエリウス=メレディウス
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