Book34:ある男の日記。エルカレアの歌い手について、現地での報告と考察が綴られている。

Last-modified: 2009-01-03 (土) 18:18:02

碧人魚の月6日

 

ここエルカレアでの、例の歌い手の評判は想像以上である。
ユーフラニアの王侯貴族も、数多おしよせている。
これほどの影響力をもつ者がただの人間であるとは思えぬ。魔導師か、あるいは異界の魔物か。

この地の空気の清浄さを思えば、悪しき存在とは考えにくいが、奇妙である。光の塔の報告も、いまひとつ要領を得ない。
不気味に思う。



碧人魚の月10日

 

歌い手の公演は、連日満員である。折よく先月から滞在していると云う、メルバ伯のボックス席に招待して頂いた。
これでようやく、噂の人物をおがめるというわけだ。
それにしても、個人的な面会は一切しないというのも奇妙な話である。王族からの招待さえ断っていると聞く。
エルカレアには、血筋や家柄という意味での身分差はないと云う。売れっ子になった芸人が、王侯貴族並みの気位の高さを発揮しているということだろうか。だが、この歌い手についてはそれ以上に、周囲に人をよせつけようとせぬ風がある。
何か秘密があるのかもしれぬ。

秘密――と書くと、私はいまだに聖公爵のことを思い出す。
あのひとはその死にすら、深い秘密を隠していた。あのひとに関わることすべてを知りたいと思うのは、やはり未練か。
私はやはり、あのひとを愛していたのだろうか。私の親友を殺し、私の命をも奪おうとした、あの恐ろしい死の天使を。
その正体を知ってもなお、私のあのひとへの想いは消えていないのか。

陛下はいまだに、彼女を想っておいでだ。聖龍王であれば、あのひとの死の翼など怖れるものではないのか。それとも、本当に何も御存知ないのだろうか。
そして彼は――あの幼馴染は、聖公爵の死をどう受け止めたのだろう。彼にはもう十年以上会っていない。夫婦仲はむつまじいとの評判だが、私にはもうひとつの噂のことが気にかかる。

おかしなものだ。アウロラより遠くはなれた異国の地にくると、このように感傷的になるものか。



碧人魚の月12日

 

今日のことを、どう書きはじめてよいのかわからない。
私はいまだ、これが現かと疑っている。
感動と驚愕、歓喜と混乱とが私の全身をふるわせている。あのひとだった。
あのすばらしい歌声の主、天上の旋律をかなでる歌い手――それが、あのひとだったのだ。

たしかに外観は異なる。今は黒髪の青年の姿で、あの女神のごとき光あふれる姿ではないが、しかし間違いはない。あの外観のなかにひそむ魂のかたちが、私にははっきりと見えた。
あの歌い手は、わが麗しの聖公爵閣下――あのひとだった。
ほかに誰がいよう?あれほどの光輝、あれほどの神々しさ、見る者の魂を奪う圧倒的な存在の強さは、まさしくあのひとのものだ。
あれほどまでに清らかで強い力をもつ歌声が、人間のものであるはずがないのだ。

なんということか。 聖公爵はやはり死んではいなかった。
しかし、他の者達は気づいていないのか? 光の塔の連中は、なぜ何も云わぬのか。
そもそもあの歌い手自身は、己が何者かを自覚しているのだろうか?



碧人魚の月20日

 

今日は驚いた。
あの歌い手の舞台を観た時には、これ以上驚くことはないかと思っていたのだが、なかなかに事態は複雑である。

まず、シルフェラの巫女姫があの歌い手の傍らにいたことに驚かされた。
しかし、そのことで私の確信はさらに深まった。
巫女姫もまた、彼があのひとであると気づいてたのだ。
さすがと云うべきだろうか。
彼女は私のことも覚えており、ルナイア――それが歌い手の名前である――についても知るところを話してくれた。
その話が、私をさらに驚かせた。

ルナイアは、巫女姫にひそかに己の正体を告げた。
自分は、亡き聖公爵と現オレニア大公の子である、と。
つまり、私が感じたのは聖公爵の魂ではなく、その息子のものだと云うことか?
しかし、あの二人がかつて真実契りを交わしていたとは――彼が、オレニア大公と聖公爵の息子として名乗りでるつもりはあるのかと訊いてみると、巫女姫は首をふって答えた。
「名乗りでるどころか、オレニア大公には決して会いたくないと。ルナイアは、オレニア大公をひどく憎み怖れています。何者が告げたのか、彼のなかではオレニア大公は父親である以前に、聖公爵様を陵辱し、その聖なる力を奪い、死に至らしめた張本人――つまり、母親の憎むべき仇にほかならないのです。わたくしがどのように話しても、彼はそう信じて疑いません」

何がどうなっているのか。
いったい何者が、そのような話をルナイアの記憶に刷り込んだのか?
ありえない。
あの二人を知る者として私は断言できるが、そのようなことだけは決してありえない。
そもそも聖公爵は、落雷の直撃によって死んだのではなかったか?
何かがおかしい。この歪みは、どこに行き着こうとしているのか。
ここまでの経緯を、陛下には何と報告したものか悩む。



碧人魚の月23日

 

先日は、あまりの話にただ驚くことしかできなかった。
このたびのルナイアの話を、あらためて考えてみる。

彼は本当に、聖公爵とオレニア大公の息子なのか?
亡くなる直前まで、あのひとには懐妊の兆しなどなかった。陛下の婚約者として当たり前のことではあるが、当時の経緯を思い返すと子をなすような機会があったとは考えられぬ。
もっとも、これはルシーヌのこと、われわれと同じに考えることはできぬ。

さらに、あのひとは本当に亡くなったのだろうか。
当時の記録には、聖公爵の乗った馬車が落雷を受けて炎上、馬車も聖公爵の躯もことごとく焼け、骨も見分けがつかぬほどであったとある。
目撃者は大勢あったが、寧ろその衝撃的な光景は、見た者に死を印象づけたかっただけではないかとの疑念を、私の胸によびおこしたものだ。
実際に聖公爵は消え、ユン・スーオンや最高司祭も聖公爵の魂は地上にはない、と結論したのだが。

それにしても、何故聖龍王との婚儀を控えたあのひとが、突如この世から消えねばならなかったのか。
そしてアウロラから離れたこの新興国家で、聖公爵の子と名乗る者が現れたのは、どのような理由によるものか。彼はいつ生まれ、今までどこで何をしていたのか?
彼は何故、聖公爵があれほど愛した男を憎むのか?

これらすべては、妖精王の仕組んだことなのか?おそらくルシーヌを凌駕し支配しうるのは、妖精王だけであろう。
そうであるなら、妖精王の意図はどこにあるのか。
我々のような一介の人間には知りえぬ、深遠な理由か。
しかし、陛下とて、それは御存知あるまい。
すべては、この大災厄時代と関わりあることなのだろうか。



碧人魚の月25日

 

妖精王につながる者を考えていて、ガブリエルのことを思い出した。
彼女は聖公爵の死後、聖域へと戻った。
彼女なら、すくなくともあの歌い手が本当に聖公爵の子であるかについては、知っていると思われる。
なんとか、彼女に連絡をとりたい。

巫女姫の話では、聖龍王の使者ということであれば、ルナイアは私に会うかもしれぬとのこと。
彼に会って、ぜひとも、その信じるところを直接本人の口から聞きたいものである。
しかし、それで私に何ができるのか?
巫女姫でさえ、彼の正体も真意も知ることはできずにいる。
陛下であれば、あの歌い手から何がなしの真実をひきだせるのか?
あるいは、あの幼馴染――ルナイアが憎む「父親」なら?