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Last-modified: 2009-05-18 (月) 01:48:24

第十六景 牙

どこの藩史をひもといても
一人や二人の暗君は現れてくるが
領国において絶対主権者である
暴君といえども
天下を律する徳川幕府の目からは
外様の小大名に過ぎない
領国治まらずとして処罰するのは
易々たるものである

 

しかし その暗君が神君徳川家康の血を引く者であった場合
その暴虐を咎めることは可能だろうか

 
 

寛永二年 徳川忠長の領地は
甲斐国に 駿河 遠江を加えられ
その居城は駿府城となる

 
 

寛永五年 駿府城

 

この日 領主忠長の閨房に奉仕することを命じられたのは
下級藩士 津田弥一郎の娘 さと

 

寝所に入る前に武器や手紙を隠し持っていないか
入念に取り調べが行われる

 

「危うきものなし」

 

領主の思召が奥御殿の侍女のみならず
家中の子女にまで及ぶことは珍しいことではない

 

さとにとって徳川家という身分は
あまりにも畏れ多く恐怖ですらある

 

「くれぐれもお殿様に粗相のなきよう」

 

初潮をむかえたばかりの処女である

 

忠長が入室するとさとは頭をこすりつけてふるえた

 

この時 突如 さとの脳裏に今日までの思い出がめくるめいた

 

生命存続の危機に際した時 人間は本能的に
それを回避する方法を記憶の中から探し出そうとする
それが死ぬ間際に見る 記憶の走馬灯の真相である

 

忠長の暴虐を止められる者は この城には一名も存在しない

 

前将軍秀忠の子にして 将軍家光の実弟 徳川忠長
この嬌児に裁断が下されるのは
寛永六年に起きた駿府城内の御前に於ける
ある一戦がきっかけとなる

 
 

同五年 遠州掛川

 
 

忠長が遠州の統治者となると
仕官を求めて多くの牢人者が
掛川宿に集った

 

中でも六月にやって来た八人連れは
人目なくば斬り剥ぎも日常茶飯事という
不逞の輩である

 

「お侍さんがた おまちくださいやし」
「何か用か」
「へえ 勘定の方がまだでございやす」

 

八人連れの無銭飲食を咎めたのは
地元の侠客 黒田主税(ちから)

 

「おお 忘れておった」

 

ゴッ

 

柿右衛門が支払ったのは鉄扇であった

 

やくざ者一人無礼討ちにしたくらいでは役人は動かぬ
そう 自惚れていた

 
 

「駿河大納言様は信長公のような猛々しいご気性であられて
 技量(うで)さえあればわしらみてえな者でも召し抱えてくださるそうな」
「町ん中 牢人者がうようよ あんなにどうやって召し抱える」
「証を立てにゃなるまい」
「わしらの腕はそこいらの牢人者たあ ものが違うって証をな」
「京で吉岡を倒した武蔵みてえにか」
「ウム それが手っ取り早い」
「して獲物は?」
「掛川(このあたり)じゃ 虎眼流てえのが有名らしい」
「どんな田舎剣法よ? こがん流ってのは」
「それがな 当主の岩本虎眼てのは
 娘ともどもいかれちまっているし
 二人の師範のうち 牛股ってのは愚鈍
 藤木ってのは口がきけねえっていうぜ」
「ぷッ」
「田舎剣法ならぬいかれ剣法てか!」

 

「もう一ぺん申してみよ!」

 

前髪もあどけない 虎眼流の麒麟児
近藤涼之介 十五歳である

 

「何だぁ前髪 おぬし虎眼流か 蕾見してみいや」

 

小刀による流れ一閃 年は若くとも虎眼流中目録の腕前である

 

同時に
鎌エ門のへし切長谷部は水月
伝鬼の斬馬刀は首筋に
右近の飛苦内は涼之介の眉間に狙いを定め
左馬之助が取り出したるは分銅鎖

 

そして
神夢想林崎流免許皆伝 丹波蝙也斉の笑み

 
 

伊良子清玄の仕置き追放から三年が経過している

 

「涼…」
「師範 申しわけございません
 涼之介は虎眼流を私闘に用いたのみならず
 果し合いの契りまで…
 相手は無頼の牢人者七名 陣場峠に暮六ツ
 立会人を連れて参れと…」
「涼…」
「なにとぞ お許しを
 命にかえてもわたくしの孤剣にて
 打ち果たしますゆえ!」
「涼!!」

 

でかした!!

 

笑うという行為は本来攻撃的なものであり
獣が牙をむく行為が原点である

 
 

 
 

第十六景 牙 ― 其のニ ―

伝鬼 右顔面陥没による脳挫傷

 

柿右衛門 鼻骨陥没による脳挫傷

 

鎌エ門 肋骨粉砕による肺破裂

 

左馬之助 顎部が咽頭に詰まり 窒息死

 

軍蔵 頚椎骨折

 

右近 顎部破損

 
 

素手で…

 

「野良犬相手に表道具は用いぬ」
「掛川に竜が潜みおるとは…」

 

「できますよ あの男は」

 

藤木源之助の右手が存在しない刀を掴んだ

 

「……っ」
「見ておれ」

 
 

前年 師範牛股により虎眼流印可を授かった
源之助の拳は無刀であろうと凶器そのものである

 

蝙也斉が倒されると
失神した牢人者の頭部に
石が落とされた

 

「一人残せ」

 

この一名は虎眼流の剣名を広めるための生き証人となる

 
 

涙が自然に溢れてきた
自己が学んでいる虎眼流こそが
最強であることを目の当たりにしたから
いつか自分もたどり着きたい
理想の剣士の姿が目の前に輝いているから

 

いつか私も…

 
 
 

翌朝

 

虎眼流で最も早く道場に入るのは源之助であるが
この日は自分以外の者の気配を感じた
源之助は時折その場所にある男の幻影を見ていたが

 

「涼之介!」