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Last-modified: 2010-05-26 (水) 01:39:06

第七十五景 恋情 れんじょう

藤木どの…

 

「医者も見放していたものを… よくぞ生き返った…
 三途の川は見たか? 牛頭馬頭と会うたか?」
昏睡状態から 十三日ぶりの覚醒である
「まだ五感が戻ってはおりませぬゆえ耳が…」
「左様にござるか! まあ元々口数の少ない御仁ゆえ…」
「清玄の剣 見破り申した」

 

チッ
「お見事」
宙空の蚤を 二本の指が仕留めていた
復活した藤木源之助は 全ての細胞を新たなものに入れ替えたかのように 瑞々しい生命力を放出していた

 
 

四月末日 駿河藩武芸師範 日向半兵衛正久邸
「念のため躰(み)を改めさせて頂く」

 

藤木源之助の背面の隆(おこ)り 腕一本分の働きは充分にするものと覚えたり

 

「相木久蔵にござる」「石村一鉄にござる」「出渕平次郎にござる」
「藤木源之助と申す」
「殿のご鑑賞にふさわしき剣技か否か この場にて改めさせて頂く」
「恐れながら日向さま
 虎眼流は“止め”を用いませぬ ご家中の方々がお怪我をなされては…」
対手(あいて)の三名が顔面を紅潮させた
負傷の心配をすべきは 片腕の剣士の方であろう
「ご案じめされるな この場で用いるは“蟇肌(ひきはだ)”と申す稽古用の竹刀
 存分に当てても大事には至らぬ」
牛皮の内部の竹には割れ目が入れてあり しなることで致死性を奪うこの武具は柳生新陰流の考案であり
赤樫の木剣で叩きあい骨をきしませてきた虎には 玩具の如き手触りである
「クエーッ」
進み出でたるは新陰流 出渕平兵衛の嫡子 平次郎
蟇肌の操作はお手のものである
「一人ずつにござるか?」
キエー

バムッ

柳生高弟の子息の正面は無傷であったが
脱皮する昆虫の如く 背は破れ
ドサァ
残された二名は許しを乞う眼差しを 日向半兵衛に向けるしかなかった

 
 

日向半兵衛は源之助の剣技を“試し”た非礼を詫び 馳走をもてなした
「藤木どの
 摂者は伊良子清玄の技も見たが あれは“妖剣”にござる
 天下の徳川家にふさわしいのはそなたの“正剣”にござる」

 
 

帰路 三重と源之助は桜吹雪に見舞われた
「日向さまに傘をお借りしてくれば良かった」
「三重さま

 私は仇討に敗れ 岩本家の屋敷も虎眼流の剣名もお守りすることができなかった しかし
 三重さまだけは守り申す いかなる嵐にも屈しませぬ」

 

寡黙な源之助が頬を桜色に染めて告げた誓いは 恋情に身を焦がす若者なら誰もが口にする他愛もなき言葉であったが
汚れなき乙女は 一生に一度の聖なる瞬間と心得た
この日 初めて 二人の歩速はゆるやかに符合し
失ったはずの左手が 指に触れるのを感じた乙女は そっと握り返した

 
 

岡倉邸
ピィン
「そうか 虎が復活したか
 それで良いのだ 上覧試合に勝利すれば 駿河五十五万石が召し抱えてくれる
 虎はまたとない“踏み台”よ」

 

足を引いた上に盲いた己(おれ)が… 獰猛な虎に挑む…
どれほど高名な剣豪の逸話も この清玄の武勇に比ぶれば凡庸であろう
くっくっく
「清玄の剣のみが神の域…」
盲目跛足である事を最大限に利用して自己を売り込む そのために天才剣士は
さして引きずらなくとも良い足を 殊更に引きずって歩いてさえいた
しかし
自身の剣技が光を奪われて神の域に達したのなら 左腕を奪われた剣士もまた…

 

清玄はまだ知らぬ 虎がかつての虎ではないことを
炎よりも熱き 恋情の燃える胸の内を