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Last-modified: 2009-10-01 (木) 01:24:20

第六十五景 死人 しびと

 

濃尾無双虎眼流の剣圧に泰然と構える月岡雪之介
短慮でもなく温和なこの男が太平の世にあって
刀に血を吸わせた経験は実に五度

 

斬りたくないと心に願いつつも
かかる事態に陥る運命にあり

 

恨みを持つ者から逃れるため国許を離れ
星川生之助と名を変えている

 

手強い…
間に合うか“峰打ち不殺”

 

虎眼流を前にして斬られることより斬ってしまうことを
恐れるのは剣界広しといえど月岡のみであろう

 
 

振り切った“流れ”の握りは二の太刀を生み出せない

 

源之助は大刀を捨て小刀による“茎受け”

 

その小刀を半回転した月岡の剣が搦め取った

 

喉元に押し当てられたのは月岡自身の小刀である

 

「伊良子清玄の手の者か」

 
 

「慮外なことを…」

 

「勝った伊良子さまがあなた様を
 つけ狙う理由がどこにありましょう」

 
 
 

藩庁公認の仇討で決着が付いた以上
さらなる報復は法に触れる行為である

 
 

「伊良子清玄どのにいくどのをお預かりしている拙者が
 今度は家老三枝様より藤木源之助をお預かり申した
 これは御仏が恨みの結ぼれを解きほぐすためになされた縁と
 心得申したが」

 
 

「あの二人…まるで黄泉の国からこの世に戻ってきたかのような…」

 

「駿府城で催される上覧試合の伊良子さまの相手が
 藤木源之助というのは真実にございますか?」

 

「確たることはわかりません ただ あの隻腕の剣士
 武士の魂である刀を使えぬとなればためらいなく投げ打ち
 使えるとみれば対手の刀にさえ手にかける
 それほど大胆な戦法を用いながらも心の揺れは全く感じられない」

 

「正直 怪物です」

 

月岡のいる仏間から台所と六畳の居室をはさんだ
庭に面した客間に乙女と剣士は停泊していた

 

食しているのは家老屋敷から持ち帰った食膳の残り
陰膳は亡き当主 岩本虎眼のもの

 

元三百国の武家の娘と跡目の痛々しいほどつつましい夕げである

 
 
 

「いく…」
銃口は乙女に向けられていた
殺意は三重から発せられていることを見抜いていた

 

抗わんとする虎を乙女はの目が制した

 

「いく おまえは伊良子清玄と密通したのか?」
「根も葉もなきこと」
「まことか」
「誓うて」

 

「わしの目を節穴と申すか」

 

乙女の声ではなかった
藤木源之助の声とも異なる

 

しわがれた地の底より呻くがごとき

 

「伊良子清玄の濡れた眼でどこを覗かれた?」

 

「甘やかな息で何を囁かれた?」

 

「淫獣め やってくれた喃」

 
 

駆けつけた月岡が目にしたものは撃ち抜かれた左袖から
煙を上げる藤木源之助と紅を差す乙女

 
 

同じ頃
駿府城下岡倉木斎邸