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Last-modified: 2010-05-11 (火) 01:34:22

第六十八景 狒々 ひひ

人肉の味を覚えた大猿を“狒狒”と呼ぶ

 

寛永五年十月 駿河大納言忠長が賊機山にて猿狩りを行った際 発見されたこの大猿は
忠長が興味を覚えたため 大仕掛の罠にて捕獲 駿府城に移送された
大納言愛玩のこの大猿は 世話係の間で“お狒狒さま”と呼ばれ 大名並みの食事が与えられていたが
石牢に幽閉された鬱憤により 飼育不能な猛獣と化した

 

射殺が妥当と思われたが 城主は笑みを浮かべ一騎打ちを命じた
この役を仰せつかったのは 岡倉門下 桃井圭介

 

狒狒のぶ厚い毛皮と強靱な骨格は 装甲に等しい上
一太刀で仕留めねば 二の太刀を次ぐ間は与えられない

 
 

“無明逆流れ”は もはや大地に剣を突き立てずとも可能であった
敏捷にして頑強な猛獣の胴体を 骨格もろとも切断する 強力な斬撃をもたらしめたのは
裂けた右足である

 
 

三枝伊豆守高昌
「清玄 こたびの相手いかがであった」

 

相手の姿が見えぬ盲目の剣士が “狒狒”を何者と認識したのかを愉しまんとする興である

 

笹原修三郎
内藤仁兵衛

 

「あの者は 尋常ならざる殺気を発しておりました」
「そうであろう」

 

野方久左衛門
「あの者はおぬし同様 天下に二名とおらぬ“稀”なる使い手」
「して清玄 あの者を“何流”と見た?」

 

「忍びの者…?」
ハハハ ハハハ
忠長が笑みを浮かべると 側近達も色めき立った
「惜しい! 忍びの者 惜しいぞ」
「どうじゃ清玄 おぬしが掛川で討った虎よりも手強き相手であったろう」
「虎?」

 

「掛川で討ちたるは“虎の中の虎”
 “猿回しの猿”とは比べものになりませぬ」

 

(な…)
(何たることを)
(殿の“お狒狒さま”を…)

 

「よこせ」

 

「抜け」

 

“詰み”である
城内で抜刀すれば死罪 主君の刃を避けても死罪
清玄に一切の打つ手は無い

 

「抜け」
「出来ませぬ
 “御所様”に刃を向けることなど」

 

(“御所様”…!)
忠長の顔色がみるみる青ざめた

 

「将軍は江戸の家光じゃ」
“御所”とは現将軍を指す言葉である

 

「畏れながら
 この盲いた目には見えぬものが見えまする
 瞼の奥に映りしは 姿ではなく御実体

 

 いいえ わたくしばかりではございませぬ
 この駿府に集いし幾千の浪士の目にも…」

 

一介の武芸者が口にして良い領域を はるかに超えていた

 

「この忠長に叛意ありと申すか」
ビュッ

 

謀叛などではない 本来 自分のものであった 将軍職を取り戻すだけ
この数瞬で清玄の黒髪は 灰色に変貌していた

 

「伊良子清玄 腕も立つが弁も立つ どこかの仏頂面とは大した違いにござる」

 
 

笹原邸
修三郎から支給された着物は 袖丈が長かった
壊死した心を包み込もうとするかのように