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Last-modified: 2008-08-24 (日) 11:18:04

第五十四景 上意

 
 

「殿…」

 

忠長が脇差に手をかけたところで 附家老鳥居土佐守が制した
当道者には神君家康によって治外法権的な自治が認められており
忠長といえども おいそれと無礼討ちにする事は出来ないのだ

 

駿河大納言秘記によれば
賎機検校が突如 この君主に蹴り上げられたのは
掛川領に於ける仇討試合の顛末を
述懐している最中であったという

 
 

掛川領

 

この日 孕石邸では
一族の男どもが 先祖伝来の甲冑を
前に端座していた

 

雪千代の介錯は 首の皮一枚を残す
見事な業前であった

 
 
此度 不慮の座に居合せ候者の
後れは何と言謂仕るべきや
仇討の決着を見誤り
御家の対面を汚せし事
ひとえに
拙者一名の不調法なれば
伏して
お詫び申し上げ候ゆえ
生害に極まりし(切腹を申し付けられた)
兵法吟味改役 笹原内蔵助
検屍役 諸岡伝左衛門ら
家中の者へのお咎め
これ無い様 願い奉り候
  孕石備前守
 
 

藩主 朝倉宣正にあてた嘆願書には
仇討における不始末の責任を
一身に負う旨が記されていた

 

下級武士の仇討試合によって
家老が自刃するのは
前代未聞の事件であろう

 
 

元 三百石武芸師範役岩本家の禄高は
家屋敷没収の上 三十俵二人扶持に降格
これは男女二人がどうにか食べていける禄であり
"捨て扶持"と称されるものであった

 

「長年の奉公 御苦労さまでした
 いく久しくすこやかに過ごされませ」

 

残っていた奉公人への退職金は法外なものであった
"さね"などは 涙を浮かべてこれを固辞したが
平身低頭して 礼を述べるばかりである

 
 

最後の夜

 

源之助と三重は 寝所を共にしたが
指が触れ合うことさえなかった

 

縫い止められた傷口だけが 熱く疼いた

 
 
 

運命の日が訪れた

 

寛永五年 十一月三日 早朝

 

「駿河藩密用方 馬淵刑部介である」

 

駿河藩は掛川藩の主家筋にあたる

 

「ご用のおもむきは」
「伊良子清玄との決着をつけていただく
 討人仇人 共に生き残る仇討など前例なし
 これでは双方に遺恨が残ろう」
「決着に 不服はありませぬ」
「濃尾無双虎眼流 臆したと申すか」
「彼奴は天稟の才 私は敵わぬ」

 

決着はついていた

 

「岩本家 両名の者に申し渡す
 伊良子清玄との再戦の儀
 上意である」

 

上意とは 主君の命令であり
これに背くことは 武士である以上
許されない

 

岩本家の主君は 掛川藩主 朝倉宣正であるが
この上意は しかし 武家社会の頂点に君臨する
徳川家の…

 
 

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