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Last-modified: 2011-02-23 (水) 02:09:02

第八十景 竜門 りゅうもん

九月二十四日

 

三百石の生家に比ぶれば 物置にも満たぬ笹原邸の庵であったが
どんなに身分の高い人間にも買うことのできない “尊いもの”に満たされていると 乙女は感じていた

 

「岡倉門下の者が 伊良子清玄は人ならぬ魔の者で その剣は恐るべき妖術…と

 藤木先生は 怖くはないのですか」
「斬りたいから斬りにいく それだけだ」

 

「藤木源之助どの お迎えに上がり申した」
「ご足労 まことに痛み入り申す」
藩士が駕籠をすすめると 源之助は丁重にこれを辞退した
「城までは自分の足で 風や木のにおいを感じながら歩みたいのでござる」
乙女が胸の中で思ったことを ほぼそのまま源之助が口にした
「承知いたした」
向かう先は真剣試合 帰り道はないかも知れぬ
迎えの者らは離れて追従した

 

“何と美しき男女であろう”
藩士 手島新兵衛は嘆息をもらした
生きることを決意した者の美しさは ただ生きる者たちを圧倒する

 
 

昨晩のことである
「連いて参れ」
笹原修三郎
乙女と剣士は 邸内の“とある一室”に案内された

 

いかなる塗料を用いたものであろうか “光る鯉”の掛け軸であった
「この真鯉と緋鯉は夫婦で はるか黄河の“竜門”と呼ばれる急流を遡っているところ
 骨をも軋ませるうねりの中を 夫婦鯉は心をひとつにして泳いでいく
 竜門を乗り越えた時 二匹の鯉は 一頭の竜に姿を変え 天空に昇ってゆくのだ
 まるで おぬしたちのようだな」
乙女と剣士は頬を紅潮させた
若い二人は 真剣試合に勝利したその夜“重なり合う”という 神聖な約束を交わしているのだ

 
 

出場剣士 十一組二十二名
旗指物の立ち並ぶ出場剣士控えの庭は 合戦の場さながら
白木綿に囲まれた剣士個別の仕切りは 切腹場と見紛うばかりの仕様
剣士たちは西方東方に選別され 東西の庭に分離
対戦者同士が対面することの無いよう配慮されている
午前の部 第一試合の開始は 巳の刻

 

真悟は“着替え”の支度を持ち
笹原邸の用人が水桶を持参した 敵方が異物を混入させることを防ぐためである
若き男女 竜門に挑む鯉の如く

 

駿府城 東御門

 

戦うために生まれたのではない
戦って結ばれるために生まれたのだ