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Last-modified: 2009-05-05 (火) 02:22:56

六十景 男女 つがい

「藤木源之助が農家の納屋で暮らしているとか」
「はい」

 

「“伊達にして帰すべし”とはよく言ったものよ
 彼奴の生き恥が我が剣名を高めてくれる」
「お見事にございます」
「彼奴とはもう二度と会うことはあるまい」

 

伊良子清玄は徳川忠長の客人として厚遇を授かり
武士として洋々たる将来が約束されていた
後方に控える二名の剣士は
駿河藩より遣わされた清玄のための護衛である

 

「それにしても不運は三重どのよ
 いくさえいなければ己を婿に迎え入れ
 三百石を手離すこともなかったろう」

 
 

水を張った桶に右腕を映せば水面では左腕となる
これは幻肢痛を癒す方法の一つである

 

「藤木さま 明日はいよいよ駿府での調印の日
 ととのえる物がありますゆえ 三重は買い物に行ってきます」
「私が行って参ります」
「なりませぬ 出陣前の武士が買い物など」

 

乙女が買い物に出ると半日戻らぬことが常であり
日増しに帰りは遅くなる一方であった

 
 

威嚇ではない
左腕の損失した新たな重心を肉体に覚えさせているのだ

 
 

乙女の帰宅が遅れるのには理由がある
落ちぶれた虎の娘に村の者は一切口をきかなかったし
素性を知る市中の物売りは法外な品代を要求した

 
 

やむなく乙女は粟本村から三里も歩き
掛川宿の旅人にまぎれて買い物をするのだ

 

「打鮑を」
「七十文になります」
「七文と値札に…」
「虎眼流のだんな方には ずいぶんと世話になりましたからねぇ」

 
 
 

源之助は何度も“かゆ”を温め直し乙女の帰りを待った

 

「遅うござりまする 夜道は物騒ゆえ」
「町に出るのが楽しくて つい」
籠の中は空である

 
 

調印のため駿府へ発つ日
乙女は四方膳を用意した
打鮑はない

 

虎は復活しつつあった

 
 
 

駿府 岡倉木斎邸

 

人の身の“盛衰”と“善悪”とは必ずしも一致しない筈であるが
世間は衰えし者を“悪”と貶み 盛えし者を“善”と崇める